5月28日、「愛・地球博」長久手会場の「地球市民村」において、諸宗教間の対話による平和活動の歴史を知悉(ちしつ)しているジョン・テイラー博士に、『宗教は文明の衝突を回避できるか?』という講題で基調講演をしていただき、アメリカ人のオリビア・ホームズ師(UUA国際局長)、イスラエル人のシュロモ・アロン師(IEA議長)、パレスチナ人のアイマン・ジェバラ氏(中学校校長)、安田英胤師(薬師寺管主)をパネリストに迎え、三宅善信師(金光教春日丘教会教会長)がモデレーターとなってシンポジウムが開催された。本サイトでは、その内容を順次掲載する。
オリビア・ホームズ 先生 |
ユニテリアン・ユニバーサリスト協会
国際局長
オリビア・ホームズ
本日はこのような機会を頂き、皆様の前でお話ができることを大変嬉しく思います。このような暑い中、この場に参加して下さった皆様に心から感謝したいと思います。それから、同時通訳の方々にも感謝したいと思います。と申しますのも、これから非常に面倒な通訳をお願いすることになると思いますので……。というのは、この発表に際し、予め発題原稿を用意して、お渡ししていたのですが、急遽予定を変更し、原稿と違うことについてお話ししようと思うからです。
さて、先ほど三宅善信先生がおっしゃったように、日本では公の場に於いては、皆さんあまり自発的に発言しないそうですが、それが本当なのかを確かめるためにテストをしてみようと思います(会場笑い)。また、先ほど三宅先生よりご紹介に与りましたが、その中で、私のことを「決して典型的なアメリカ国民としてこの場に来ている訳ではない」と言っていただき、有り難く思います。
では、ここで皆さんに質問してみたいと思います。それに手を挙げて答えていただきたいと思います。皆さんの中で、「ブッシュ大統領を再選させたアメリカ人は賢かった」と思われる方は手を挙げてみて下さい……。(会場を見回して)今、1人の手も挙がらなかったことは、記録として残しましょう。これは文化的な問題でしょうか? 「違う」という方もおられますね。おそらく、ブッシュ大統領が再選した背景には、明らかな理由2つあると思われます。私はそのような事態が起こらないように、一生懸命行動したのですが、まずそのことについてお話ししたいと思います。
ひとつめは、私が所属しているのはユニテリアン・ユニバーサリスト協会(UUA)と言いますが、アメリカで最もリベラルな教会(教団)と言えます。例えば、「結婚」を例に取り上げてみますと、われわれは「法の下でのあらゆる平等」を目指してきました。これはかなり成功してきたと思います。私の信仰を持っている教会の会長が、初めて公式にゲイやレズビアンの方々同士の結婚式を、教団本部のあるマサチューセッツ州で執り行いました。その結果、マサチューセッツ州では、「同性同士の結婚」が合法化されました。これは私たちの活動の大きな成果だと思います。そして、「すべての人々が皆、法の下で平等に扱われるように」と訴えたのです。
しかし、結局そのことが、ジョージ・W・ブッシュ大統領の再選されるきっかけになりました。つまり、私たちの考えに反対するアメリカ人がいて、その人数のほうが多かったということです。その人たちは「ゲイは、合法的な結婚を平等な権利として持つべきではない」という考えを持ち、ブッシュ氏に投票した訳です。
2番目の理由としては、大統領選挙時、アメリカが戦時下だったということが挙げられると思います。おそらく皆さんもご存じだと思いますが、このイラク戦争は、本当に誤った考え方の下に始まったのです。歴史の中でも最悪のアドバイスによって始まりました。私のように、アメリカが戦争に突入することに徹底的に反対した活動家でさえも、戦争中に現職の大統領に投票しないことは難しかった訳です。
もちろん、私自身はケリー候補に投票したのですが、実際、私はこのことについて非常に長い間考えました。それは、戦時下にありながら、合衆国軍の最高司令官である現職の大統領を支持しないということが国民として許されるだろうか?という点です。そんな非常時に、私はアメリカ国民に対して悪いことをしているのではないか? 戦争のために、日々いのちを失っている若い米国兵に対して、私は忠誠を尽くしていると言えるだろうか? そういったような判断が働いた結果、ブッシュ候補へ投票した人が大勢いたと思います。
先ほど三輪隆裕先生からも、「米軍が今、中東にいる」という事実の重要性を指摘されましたが、私からもこの話を付け加えたいと思います。これは、実際に私が合衆国政府の高官から聞いた話です。ある時、ブッシュ大統領が現国務長官であるコンドリーザ・ライス長官(当時は国家安全保障担当補佐官)との会話の中で質問したそうです。その質問に対しライス長官は、「中東問題は非常に複雑です」と返答したのですが、それを聞いたブッシュ大統領は、即座に「そういうことを言うな! いいか、私の質問に答える時に『問題は複雑だ』などと言ってはならない(会場笑い)。そんな言葉は聞きたくない。私が君に質問した時は、ワン・センテンスで答えたまえ」と言ったそうです(会場笑い)。さあ、ここで皆さんに質問します。「あなたは、国際問題をたった一文で答えられると思いますか?」思う人は手を挙げて下さい……。
いいですか? 現在、世界最強の軍隊を率いているのは、その鈍感な指導者です。本当に傲慢で、無知で、自分の神に対して何ら信仰心も深くない……。そのような人が、戦争中に軍隊を率いるのは非常に危険なことです。そのような人がいるから、(イラク戦争の捕虜を虐待したイラクの)アブグレイブ刑務所や、(アフガニスタン戦争の捕虜を裁判も受けさせずに長期収容しているキューバの)グアンタナモ刑務所で、あのような「法の支配が何ら効いていない」としかいいようのない人権蹂躙事件が起きたのです。それでも「自分たちのやっていることは、(神に代わって悪を懲らしめるという)法律以上に尊いことなのだから、国民や国際社会に説明する必要はない」と考えているのです。国際問題を解決するためには、われわれ宗教者は活動家にならなければならないんです。
さて、私が今回日本に来ることができたのは、大変な恩恵だと思っています。何故かと言いますと、このように「(歴史的宗教的文化背景の異なる)私たちが、話し合うのは、いかに容易か?」ということを皆さんに見ていただけるからです。日米2つの文化は異文化ですから、ぶつかり合っています。例えば、私(アメリカ人)は挨拶をする時握手をしますが、皆さん(日本人)はお辞儀をしますよね? これも2つの違う文化がぶつかっているんです。私は自分の国で「礼儀正しい」と思う態度で皆さんに接しますが、本当のところ、私が皆さんのことを心底理解するまでは、「ただ衝突が起きている」だけなのかもしれません。
エキサイティングな議論に会場は
大いに盛り上がった |
また、皆さんの中には、「アメリカ人は傲慢(ごうまん)だ」と思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。確かにアメリカ人にはそういう面もあると思います……。もうひとつのエピソードを紹介したいと思います。私たちのユニテリアン・ユニバーサリスト協会の会長は、実はアフリカ系の黒人の方なんです。UUAは、白人の多い宗教団体の中で、黒人の代表者を選んだ最初の宗教団体なんです。私たちUUAは1年に1回、年次全国総会を開くのですが、これには各教会の指導者(牧師)のみならず、多くの信徒代表が参加します。そして、牧師や信徒が区別なしに、「今後1年間どういうことをするのが一番大切か」を話し合います。
去年の活動課題は「スーダンのダルフールにおける少数派の殺戮(さつりく)に反対する」という活動でした。ご存じのように、ダルフールでは、無実の人々が大勢殺されました。ダルフールの人々は、アメリカ人でもなく、私たちとは直接繋がりのない人たちを知っている訳ではありません。けれども、彼らは私たちと同じように「血の通った人間」でありながら、スーダン政府に支援された民兵(ジャンジャウィード)たちによって、無惨に殺され、住む家を焼かれ、血を流したのです。
「われわれは、そのような苦しみを止めさせなければならない」と、総会で話し合われました。いろいろな方法で話し合われましたが、まず、ひとつの方法は、私たちの教会の会長であるシンクフォード会長が活動の先端に立ち、首都ワシントンDCにあるスーダン大使館の前でデモ行進を行った結果、大使館を警備しているアメリカの警官に逮捕されました。「逮捕される」ということ自体は、皆さんから見たら、一見すると善からぬ行為に見えるかもしれませんが、その結果、この問題が全米の注目を集めたのです。それこそまさにわれわれが望むところだったのです。マスコミや選挙で選ばれた議員の注目を集めることによって、スーダンのダルフールで行われた殺戮を広く世間に知らしめ、衆目の注視を集めることができたのです。私たちの教会でも礼拝が行われました。そして、ダルフールの犠牲者の冥福を祈り、それぞれの信徒は、議員に対して自筆で手紙を書き、「ブッシュ大統領に対し、ダルフールの殺戮を止めさせるようにもっと説得してくれ」と訴えました。また、「国連の安全保障理事会で影響力を行使して、働きかけてくれるよう」頼んだのです。
ですから、世界を変えてゆくのは決して指導者だけではないのです。むしろ、私たちのような一般の人間一人ひとりが関わっていかなければならないのです。会ったこともない、知らない人と出会って、一緒に世界をより良くする仕事をしなければならないと思います。私はアメリカ人として、アメリカ人でない皆さんに訴えたい。私は皆さんと一緒に働きたいんです。三輪先生や猪熊氏、テーラー博士、そしてここに居合わせる皆さん全員と一緒にやるということが大切です。まず、挨拶を交わし、次に活動を共にしてゆけば良いのです。大切なのは、共に活動することであって、途中で解らないことがあれば「解らない」と言えば良いのです。その活動の先に、私たちは問題を創り出すのではなく、問題を解決できるのだと私は信じています。私の話は以上です。ご清聴有り難うございました。
シュロモ・アロン 先生
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IEA議長
シュロモ・アロン
皆様こんにちは。私は日本を訪れるのは生まれて初めてなのですが、日本を訪れることは長年の夢でもありました。本日は、皆様の前で、宗教者の役割が紛争解決にどのようなものを担っているのか? また、「文明間の衝突」に対し、どのように役立つことができるのか? ということについてお話ししてゆきたいと思います。私はイスラエルに生まれました。母国語はヘブライ語で、第一外国語がアラビア語。英語は第二外国語になりますので、私の英語の表現に間違いがあったとしても、どうかご容赦下さい。
最初に申し上げたいのは、イスラエルにおける宗教間の協力であります。これはどういう意味かと申しますと、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒その他のグループが、イスラエルという国家領土内もしくはパレスチナの領土で、あるいは中東地域のどこかで、継続的に会っているということです。1950年代に、マルティン・ブーバー教授(註:20世紀を代表する哲学者のひとり。代表作『我と汝』はユダヤ教・キリスト教神学界に大きな影響を与え、イスラエル建国思想「シオニズム」の柱となった)をはじめとする方々が集まって、非常に小さなグループから将来を見通していくためにイスラエルにおける宗教間対話の運動が始まりました。
しかし、何十年間にもわたって、優れた宗教間の協力活動を続けたにも関わらず、今日においても、未だその参加者数は限られたものです。本当の意味での対話を進めてゆこうという人は少ないですね。私は、緊急の課題である「宗教間対話」をさらに進めて、より多くの人々に関わって行くことが、今後われわれの地域で必要だと思います。それを機会に互いが巡り会い、邂逅(かいこう)してゆくことによって相互モデルを創り出し、ひいては参加する人々の態度や外見も変えてゆくことに繋がっていくと思います。全世界が中近東をどう見ているかと言いますと、「対立・衝突の世界」と見ています。しかし、日常生活レベルで見るならば、皆様が思っておられる以上に、はるかにバラエティに富んだ世界なのです。これが、今日、私が取り上げる話のテーマでもあります。
先ほど私が申し上げたように、(イスラエルには)長年、宗教対話に関心を持った活動家たちによって構成されるひとつのグループが存在しました。私はもともとこのグループに所属していたのですが、新しい世紀を迎えた2001年、イスラエルで新たな宗教間対話団体のIEA(Interface
Encounter Association)が発足しました。第2、第3回の会合は私のオフィスで開催されましたが、ちょうどその頃、娘が「テレビを点けてみて。今、何か不思議なことがニューヨークで起こっているよ!」と私に伝えてきたのですが、それがまさに、今では「9・11(米国中枢同時多発テロ)」と呼ばれている惨事の瞬間でした。私はひとしきりテレビ画面を視た後、自分の仕事(IEAの会議)に戻りました。われわれにとっては、今ニューヨークで起きている悲劇よりも、自分たちの仕事を続けるほうが大切だろうと判断したのです。
IEAが発足した時、8つの原則を作りました。(1)「すべての宗教――イスラエルには主に4つの宗教がありますが――は平等に代表される」(2)「男女両性の平等」(3)「すべての宗教、すべての職業、すべての年齢層、すべての社会レベルに属する人々に手を差し伸べていくこと」つまり、われわれは排他的な組織ではないということを表します。また、(4)「個人に対しても、相手が宗教を信じようと信じまいと、また、その信条に関わらず、われわれは手を差し伸べていく」ですから、われわれは宗教組織ではないんですね。宗教とはひとつの意味を持ちますけれども、それがすべてをカバーする訳ではありません。次に、(5)「本当に人々にコミットして活動する方の中からメンバーを選んでいく」特に、これからを担う若い世代の方々も大切にしています。その次には、(6)「お互いに交流するプログラムを増やしていくことによって互いの態度の変化に結び付けていこうという主旨に基づき、セミナーやワークショップを開催することによってスタディーグループを継続して行っていく」今年は12週間にわたるセミナーを開催しています。パレスチナ・イスラエルでは、ユダヤ人も様々な所から参加しています。これは、一般に良く知られた活動のひとつです。その次は、(7)「継続的に新しいモデル開発をする」つまり、「効率よいEncounter(出会い)を続けてゆく」ということです。開発していくためには常に新しいモデルが必要になりますから。最後の原則は、(8)「継続的な評価を戦略とプログラムに関して行っていく」というものです。場合によっては、われわれにとって効果を見込まれる新しい戦略に変えていかねばならないからであります。
それでは、われわれの使命は何でしょうか? われわれは使命を達成するために組織を結成しているのですから……。とりわけ、このIEAという組織がどういった目的を定めているかを議長として説明しますと、「真の共存、真の人間の平和をこの聖なる地と宗教において打ち立てていく」そして、それらの目的を「異文化交流や宗教間の対話によって達成していく」ということです。そして、宗教は問題の原因となるよりは、問題解決の基盤となり得るし、またならねばなりません。その意識が「紛争の背後には宗教がある」という問題に対するわれわれの課題になる訳です。
4つの宗教的伝統をごちゃまぜにして、かつての原型が判らなくなるようにするのではなく、すべての宗教に属する人たちが、安心して安全に参加することができる集まりにしていくことが大切です。そしてお互いに「あなたの宗教を改宗せよ」などと強制するのではなく、互いの宗教に対して敬意を払い、共生していくことが大事です。現在、5000人ぐらいの会員がおりますが、あらゆる宗教や職業の方がおられます。このイスラエルの政財界の中心にあたる方々もいれば、パレスチナ人もいます。現在、IEAは、パレスチナ全土にまたがる6つのパレスチナ組織と連携を取っています。また、われわれIEAは、中近東において主要な役割を果たしている『アブラハムのフォーラム』(註:預言者アブラハムを共通の始祖と仰ぐ宗教。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)というものを作っておりますが、このフォーラムはエジプト・パレスチナ・ヨルダン・キプロスにまたがっています。
丁々発止の議論を展開する
パネリストの面々 |
次に「対話」と言うキーワードについて少し述べさせていただきます。「対話」とは、いったい何でしょうか? それは、今まで間違って定義されてきたと思います。例えば、これまでは、異なった宗教に属している者同士、あるいは、宗教上異なった考えを持っている者同士が話をすると「対話をする」と単純に捉えられてきましたが、実際のところこれは対話ではないと思います。中途半端な話し合いによって、あらゆることが上手く進んでいるかのように錯覚してはいけないと思います。基本的な対話のフレームワークを作っていくことはできるかもしれませんが、ただ会って言葉を交わしただけでは対話とは言えません。
では、「真の対話」とは何でしょう? それにはまず、相手に対する敬意を忘れることなく、常に宗教的な意識を持って互いに接することです。これはまず個人レベルから始まる話だとは思いますが、徐々に拡張していくことによって、グループ間や地域社会間にも広めてゆくことができると思います。しかし、これはあくまでも常に個人がスタート地点であって、地域社会がスタート地点ではありません。時として、われわれは知らない者に対する疑いの念を発端とし、相手を蔑視したり痛めつけるような態度を示すことがあります。これは間違いなのですが、どうしても同じ地域に異なった宗教の人が住めば緊張の可能性は自ずと高まります。しかし、本当の正義を実践していくことができるのであれば、共存が緊張緩和と共に達成される可能性はあると思います。
文化の違いは、畏怖するものではなく、尊重すべきものだと思います。われわれの人生を、生活を豊かに、より高いレベルに持って行くことができる。また、違いはあってもそれだけを注視するのではく、むしろ違いは尊重し、一方で共通する部分にも目を向けてゆくことが大切です。われわれは共通の目的やビジョンを持つことができますし、それは個人レベルでも地域社会のレベルでも可能です。そういった活動を通して、われわれは共通の絆を世界に広めていくことができるのではないでしょうか?
もし、われわれが人間性のもとに手を携えて共に歩んで行くことができるならば、今後より高い文化レベル――霊的かつ道徳的な意味において――に移行していくことができます。私たちはまず「人間」として運命を共有しているのですから、宗教指導者は、その共通性を分かち合っているという意味において対話が重要になってくると思います。
最後に、私個人の話をさせていただこうと思います。私は隣人であるイスラム教徒やドゥルーズ派(註:10世紀に成立したイスラム教の少数派。開祖のハーキムを神格化し、イスラム教の聖典コーランを用いず、輪廻転生を信じ、メッカ巡礼を行わないため、一般のイスラム教徒はドゥルーズ派をイスラムとみなさないことが多い。キリスト教マロン派と激しく対立し、レバノン内戦では大きな役割を果たした)の言葉であるアラブ言語をイスラエルに住む若者たちに教えていこうとしている一教師であり、かつ、学生であります。
言語は文化であり、歴史であり、宗教でもあります。私たちは祈り、そして癒しを求めていますが、子供たち、あるいは地域社会において、われわれが敬虔な態度で言語を学び、異文化を学んでいくことができるとすれば、憎しみや暴力の文化を捨てて、平和の賜を授かることができると思いますし、同時に世界に向けて平和のメッセージを伝えていくことができるでしょう。本日、ここに集まった聴衆の皆様に、心からお礼を申し上げると同時に、このシンポジウムの成功をお祈りいたします。以上で、私の発表を終わらせていただきます。
アイマン・ジェバラ 先生
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中学校 校長
アイマン・ジェバラ
ご来場の皆様、こんにちは。当初は、2番目に発表の予定になっていたのですが、本日は直前にプログラムの変更があったため、3番目の発表となりましたが、オリビアさんの直後じゃなくて、ホッとしています(会場笑い)。まずスピーチに先立ちまして、ご来場いただいた皆様に感謝の意を表したいと思います。この度は日本にお招きいただき、本当に有り難うございます。
実は、私は初めて日本を訪れたのですが、招待を受けた時はとても驚きました。何しろ、中東に住む者にとって「日本を訪れる」ということは夢のような話でしたから……。ですから、今回のシンポジウムの主催者の方々にご尽力いただいたことにも、まず感謝したいと思います。この世界をより良いものにし、共生と調和と平和を生み出すために努力を重ねておられる諸先生方の姿には頭が下がる思いです。
現在、私の子供たちは学校に行っておりますが、そこではイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も机を並べて一緒に勉強しています。その一方で、「政治家は対話を好まない」というのも確かな話です。シュロモ・アロン先生が先に述べたような(多民族・多宗教の)共学プロジェクトを止めさせようとしています。その根拠として財政的な理由を挙げていますが、結局、政治家は教育に介入することにより、まだ対話を始めたばかりの子供たちの交流を止めさせようとしている訳で、これは非常に残念なことです。何故なら、私たちが住んでいる中東の世界は、憎しみや災い、戦争そして対立で満ち溢れているのですから。日本の皆様は、戦争がどれだけ自分たちの国を破壊??市民生活は焼き払われ、現代社会は崩壊させられてしまう??してしまうかをよくご存じでしょう。
私はイスラム教という一神教を信じております。イスラム教では、「預言者モハメッドは、すべての人類のためにこの世に遣わされた」と考えられています。神にはたくさん名前(呼び方)がありますが、その内のひとつが「アル・サラーム」という名で呼ばれています。日常の挨拶(「こんにちは」という意味)にもなっているこの名前の文字どおりの意味は、「神は平和なり」ということですが、これは、すなわち「平和という神を信じるのがイスラム教である」とも言えるのです。そして、神はわれわれイスラム教徒に「平和を生み出せ」「平和に参加せよ」という命令を下しているのです。これは、歴史的には同じ根を持つユダヤ教徒にしても、キリスト教徒にしても、「平和を生み出せ」という神から命令される点においては同じなのです。
また、イスラム教において、「人を殺すこと」や「人のものを盗むこと」、そして「人に不正な行為を行う」ということは禁止されています。そして、イスラム教はグローバルな世界宗教でもあります。ですから、イスラム教の目的は、「すべての人類に遍(あまね)く平和を生み出す」ということになります。また、イスラム教徒が信じているもののひとつに「すべての人類の自由」があります。人々が自由に生きることができるように、また、「宗教的な活動や儀式は、何の制限も設けずに自由にできるように」と謳っています。戦時下、兵士たちは時として女子供であろうとも人を殺しますが、それは決して本来のイスラム教徒の姿ではないのです。イスラム教は本来「木を切ってはいけない」とか、「動物を殺してはいけない」と教えていますし、それが本当のイスラム教の信仰だと言えます。
結局、神は地上に住む人間に何を与えたのか? というと、人間が必要とするものすべてを与えたもうた訳です。それには「人が人を尊敬し、一人ひとりが人間としての尊厳を持つ」ということも含まれます。確かに、今の世の中には血で血を洗うような戦いもありますし、中東はそのようなやり方で汚されていますが、そのような状況下においても、私たちが常に求めているのは、子供たちに「正しい生き方をするように」そして、「ユダヤ教など他の宗教の価値観も尊敬するように」といった教育の場です。
私たちは公式・非公式の場に関わらず、常にイスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒の間における集会を求めています。また、時には学校の正規の授業として取り上げられたり、課外授業になったりもします。私たちは架け橋になろうとしている訳です。子供たちには自信を持ってもらいたい。三者間の架け橋になってほしい。彼らにはガイドが必要です。「年長者を敬え」とか「互いを尊敬し合う」などです。例えば、イスラム教もユダヤ教と同じで、父母に対しては敬意を持って言葉を使います。祖先を敬うことは、神に対する尊敬の念と敬愛の念に繋がっていきます。
ですから、特に大人たちは、すべての人に対して、誠意や尊敬の念を示すことが大切です。と申しますのも、子供たちにとって大人は「灯火」のようなものだからです。つまり、大人の振る舞いを子供は手本にして育つ訳です。両親が同じものを信じていることが解ってこそ、子供もそのことを信じて育つのです。本当に大切なことは、次世代の平和を実現させるということです。口で言うだけでは駄目です。大人が具体的に実践しないといけません。ただ「平和は大事だ」「平和を求める」「対話をしなければ」と口で言い続けることは誰にでもできます。けれども、言うばかりで何の活動もしないようでは、やはり駄目だと思います。
ひとつ、例を挙げてみましょう。ほとんどの人は、ユダヤ人であろうとアラブ人で あろうと、結局、同じ国の同じ地域に住んでいます。ところが、中東では互いに口を利きませんから、これほど近くに住んでいながら、お互いのことが解らないんです。相手がどんな習慣を持っていて、どんな食べ物を食べているのか知らないんですね。一緒に食卓を囲んだりすれば、また違うと思うのですが、話をすることさえほとんどありません。つまり、平和な状況ではない訳です。
しかし、本当に大切なのは、「人々が直接会って、一緒に話す」ということなんです。そして、両者の間にある憎しみの壁を壊すことだと思います。互いが相手の価値観について無知だからこそ、憎しみが引き起こされてしまうのです。しかし、互いに会っていれば、その壁は壊され、代わりに愛と尊敬の念が生まれてくると思います。ですから、私は宗教指導者の方々が、確固とした姿勢で以て、お互いに話し合うことは素晴らしいことだと思います。そういった方々は、同時に、自らの宗派の信徒の人たちに対する責任感に目覚めている方々だとも言えるでしょう。そのような指導者が、他の宗派の指導者の方々と話して、同胞愛や他者と協力する姿勢を拡げていくことが、何より大切だと思います。この役目は、まさに宗教的指導者によって果たされるものだと思います。
何故なら、ある意味、宗教家は政治家よりも非常に影響力があると思うからです。イスラム教の場合は、特にそうだと言えます。おそらく、ユダヤ人の方々にも同じことが言えるのではないでしょうか? そういった意味においても、このように宗教指導者同士が会い、語り合うということは大切だと思います。また、ごく一般の信徒にしてみれば、自分が属する宗派の指導者が他の宗派の指導者と話す光景を目の当たりにすることによって、良いお手本を得ることにもなります。
それによって、愛と平和に満ち溢れた世界に向かって、一歩を踏み出すことができると思うんです。「違い」は依然としてありますし、紛争や対立もあります。けれども、互いの宗教に共通すること??神が何を教えてきたのか? また、何を戒めてきたのか? ということ??を話し合うことは可能だと思います。そして、偏見を捨て、憎しみを捨て、むしろ「われわれは共通の神を信じているのだ」と思うことによって、地上に神の国を回復するのです。そして、われわれは世界を崩壊させることを考えるのではなく、構築してゆくことを考えていくべきだと思います。
ある時、バチカンに各宗派の指導者が集ったことがあります。例えば、イスラエルの大統領がイランのハタミ大統領、あるいはシリアのアサド大統領の横に座っていることがありました。その光景は、実際戦っている国民からすると、非常に奇妙に映るかもしれませんが、実際に彼らは共に腰掛け、互いの顔を見ているんですね。それぞれの国で起こっていることは悲しいことですが、それでもそういった状況下にいる宗教指導者は集まることができるのです。ほんの少し、挨拶を交わすことができるのです。
私は、この地上に平和が満ち溢れるように、神に対して祈っています。そして、そのために「私たちは明るい未来に向かって、手に手を取り合って進んでいくことができますように。未来が、愛と平和と希望に満ちた世界になりますように」これが私の祈りです。
最後になりましたが、もう一度今回のシンポジウム開催のために尽力された主催者の方々をはじめとするすべての方々にお礼を申し上げたいと思います。皆様のお力添えがなければ、このような会議は実現しなかったと思います。けれども、このような集まりは第一歩に過ぎません。これをバネにして、将来さらなる会合の場が持たれることを望んでいます。宗教指導者の方々には、これを新たな出発点として、様々な考えや文化に関する情報交換を行い、各宗派の関係強化に努めていただくことによって、活動を成功裏に結びつけることができればと願っています。
それから、わが友人であり恩師であるシュロモ・アロン師にお礼を申し上げたいと思います。15年も前のことですが、私はアロン先生から多くのことを学びました。と申しますのは、ユダヤ人であるアロン先生は、アラブ人の学校でアラビア語を教えておられたんです。これはユダヤ人にとって、非常に不思議な仕事だと思います。まるで私が日本に来て、日本人に向かって日本語を教えているようなものです。しかし、先生は実際そのような仕事をされていました。今でこそ、アロン先生は友人になりましたが、当時、私は彼に教えを請うた学生の一人であり、今でも心の恩師であることに違いはありません。ですから、日本に来て、このようなシンポジウムで先生と同席するチャンスを頂いたことに対して、心から感謝しております。あらためて、皆様にもう一度お礼を申し上げたいと思います。神の祝福が皆様にありますように。そして、皆様が平和と調和の素晴らしい手本を示されていることに、心から感謝いたします。有り難うございました。
安田暎胤 先生
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法相宗管長・薬師寺管主
安田暎胤
サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』という書物が出版されて久しくなります。私はその書物を読んではいませんが、この度の『宗教は文明の衝突を回避できるか?』というテーマが出されるということは、宗教が文明の融合の妨げになるのではないかと思っておられる方があるからだと思います。今日の中近東の戦乱をはじめ、歴史的に見ても「戦争の原因は、宗教が背後にあるからだ」と多くの日本人は見ています。
しかし、現在世界中に広まっている宗教は万人共通の真理が説かれています。その中身は、永続性があり普遍的な教えだと思います。すなわち、時の古今を問わず、洋の東西を論ぜず、人種の如何を選ばず、何時でも何処でも誰でも納得できるものだからこそ、世界に広まり、長い歴史があるのだと思います。
それらの中では、どの宗教も「人を殺せ」とは教えず、「人を救え」と教えています。あるいは「他人の財産を奪わず、貧しい人には分かち与えよ」と説いています。また、「嘘を付かず、真実を語れ」と教えています。「夫婦は仲睦まじく、不倫を犯すな」と説いています。「自分にされて嫌なことは、人にするな」と教えています。どれも人に苦痛を与える悪行をせず、人が幸せになる善行を実践することを勧めています。
したがって、宗教から戦争が生まれてくる理由は、信仰を持つ者は団結力が強く政治に利用されやすいからだと思います。争いの主な原因は、領土や資源の奪い合い、貧困の苦しみからの脱却、人種差別の抵抗、不当な弾圧の排除、そういうものが引き金になっていると思います。
文明にはその国の人々が育んできた長い歴史があり、その地に染みついたようなものです。気候風土や衣食住、伝統習慣はそれぞれ違います。そこへ急に異質の文明を投入し、これらを切り替えようとすれば、摩擦が生じるのは当然です。同じ国においても、時代によって変化してきましたが、それはその国の人が選んだ道です。
日本の国は、およそ3000年も前から、八百万(やおよろず)の神々を信ずる神道の国でした。祖先崇拝もしていました。そこへ、約1450年前に仏教が渡来してきました。当初は「仏教を導入するかしないか」で論争や闘争が起きましたが、導入しようという勢力が勝ちました。しかし、だからといって、旧来の神道が排除されたわけではなく、仏様を神様のひとつとして受け入れたのです。それ以来、日本人は神様・仏様・ご先祖様を抵抗なく崇拝してきました。
150年ほど前に、長く続いた封建社会が崩壊し、明治維新が起きました。鎖国から目を覚まし、西洋文明を導入する勢力が台頭し、内乱がありました。結果は開国をする勢力が勝ち、積極的に西洋文明を導入しました。衣食住が大きく変わりました。しかし、和魂洋才といって、日本人の魂を忘れずにいようとしました。
60年前には、戦争に敗れたため、戦後は日本人の積極的な意志ではなく、強制的にアメリカ文明が導入されました。しかし、日本人は巧みに変身しました。極端なまでの天皇崇拝をあっさり止めました。「軍備も放棄し、二度と戦争をしない」と平和憲法を制定しました。今もその精神は継承されています。私は、「平和構築のためには武力を行使しない」というような憲法は、世界のどの国よりも素晴らしい憲法だと思っています。この結果、日本は経済に勢力を注ぎ、大きく成長しました。
これらは小さな島国である日本人の智慧ではないかと思います。他国から大量の資源を輸入して、それらを上手に加工するように、一時的に衝突があっても、日本人は他国の素晴らしい文化や文明を巧みに導入し、日本製品として生産させてしまうのです。これは、日本人独特の文明であって、必ずしも他国に通用するとは思いません。近年になって強制的に導入された教育制度や憲法の見直しをしようとする空気が芽生えてきました。しかし、平和憲法の精神だけは誰も変えようとはしていません。
やはり、どの国も、時代に合った自分の国にふさわしい国づくりをしたいのです。強制的に異質の文明を急いで導入させてはならないと思います。今日は、インターネットですぐに世界の動きが判る時代になりました。政治的な権力だけで強制することも難しく、多くの国民の声を聴かなければ成り立たない時代になったと思います。
そこで、宗教者の果たす役割ですが、前述のようにどんな宗教も美しい人間像を目指したものだと思うのです。人間には人間共通の喜怒哀楽や感動の心があります。美しい花や絵画や芸術を見れば、誰しも心の安らぎを得たり、感動したりするのです。また、音楽を聴くことにより、心が和らいだり、励まされたりするのです。最愛の人と別れることは、みな辛く悲しいのです。何が善いことで、何が悪いこと。何が嬉しいことで、何が悲しいことかなどは、みな共通していると思います。
そうした人間にとって、宗教は辛く悲しく苦しい時でも、それを耐え抜く免疫力の働きをするものだと思うのです。空中や食物の中にいろいろな病原菌がありますが、そのために病気になる人とならない人があります。病気にならない人は、体に免疫力があり、抵抗力があるからです。同様に、宗教は心の免疫性を養うものだと思います。不調和な状態を調和ある形にすることも、誤った路線を修正することも、戦争状態を平和な世界に導く力になることもできるものだと思います。もし、宗教の名において戦争をしている人がいるとすれば、それは正しい宗教を実践していない人だと思います。寛容と慈悲を説く宗教者が各々の宗教に忠実に生きた時、文明の衝突を回避する力になり得ると思います。しかし、それには時間がかかります。けれども、2000年の歴史を持つ宗教ならば、それくらい未来を眺めて努力すればよいと思います。
(文責編集部)