「愛・地球博」の『こころの再生・いのり』館
シンポ『水・森・いのち』パネリスト発題@
05年05月23日
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名古屋工業大学 情報工学研究科 助教授
カレン・ブライアン |
カレン・ブライアン 先生
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みなさん、こんにちは。アイルランド出身のカレン・ブライアンです。1991年に、最初は1年間の滞在のつもりで日本へやってきましたが、1年が2年となり、3年となり……。そんなこんなで日本に来てもう14年が経ちました。月日が経つのは本当に早いです。
本日、私も発題者のひとりに加えていただきましたが、私の解釈が他の先生方と違うようでしたら、お許し下さい。本日のシンポジウムのテーマは『水・森・いのち』ですが、私の祖国アイルランドも本当に美しい国です。私が生まれ育った町は、当時で人口が3,000人。今はその3倍程度になっていますが、だいたい日本の中規模の町に相当します。町そのものは小さいんですが、600人は収容できるカトリックの大きな教会がありました。私は毎日曜日、その教会に足を運びましたが、いつも満席でした。
さきほど田中利典先生がおっしゃったように、キリスト教においては「神は上(天上)」にいますね。教会堂に入った真正面には、十字架にかけられた大きなキリストの像がありましたが、幼な心にそれがとても怖かったのを覚えています。そのオドロオドロしい印象が、「悪いことをしてはいけない」という気持ちを私に与えていたように思います。
この像の左右には、2つのボックス(小部屋)が備え付けられているのですが、小さい時、私はそれをエレベータだと思っていました。そして、「人間は、死んだらこのエレベータに乗り、善い行いをした人は天国に行き、逆に、悪い行いをした人は地獄に行くのだ」と思っていました。12歳ぐらいになってからやっと、それが人々が神父さんに対して自分の犯した罪を告白する「コンフェッション・ボックス(懺悔(ざんげ)室)」だと判りました(会場笑い)。
幼い頃の思い出で、こんな記憶も残っています。私のアイルランドの実家の隣は女子修道院で、毎週火曜日は、そこの尼さん(シスター)にピアノを教えてもらうために通っていたのですが、実はここも「怖い場所」のひとつでした。何しろ、薄暗くて静寂で、あまりに怖かったので、ピアノが大嫌い(註:ブライアン博士はミュージシャンでもある)になったほどです(会場笑い)。
けれども、私にとって、毎週教会に行くのはごく自然な行為だったと言えます。むしろ、教会に行かない人のほうがあまりいなかったように思います。教会に通う人皆全てが真面目な信仰者とは限りませんが、何しろ狭いコミュニティーですから、お互いをよく知っている反面、教会に行かない人を訝(いぶか)しげな目で見るところがありましたね。当時は、まだまだ教会の勢力が強い時でもありました。今はそういう訳にはいかないようですが……。
というのも、去年、私は久しぶりにアイルランドに帰国したんですが、その時、日曜礼拝に足を運んだところ、会衆は100人程度しか来ておらず、「私が子供だった頃から比べると、参拝者数がずいぶん減ったな」という印象を受けました。もちろん、それは教会だけの責任ではなく、社会全体の変化も反映していると思います。
私が子供の頃のアイルランドの教会はとても厳しく、当時はまだ「(カトリック教会が禁じる)離婚」は、国家の法においても禁じられていました。これは、1995年に法的に解禁されましたが……。妊娠中絶にしても長年禁じられてきましたが、1996年に合法化されました。海外に行っての中絶手術すら最近まで禁止されていました。もちろん、避妊具や避妊薬も駄目でしたが、これも近年解禁になったようです。こういった社会変化は、人々に多くの自由な選択権を与えましたが、反して、教会の力が弱まった事実は否めません。
私は日本に来てすぐの頃、堺にある教会が主催している日本語センターに通ったのですが、一緒に学んでいる人はフィリピン人が多かったですね。神父さんはオーストリア人の方でしたが、とても気さくで冗談好きな、感じの良い方でした。
私は音楽もやるのですが、そこへ行って本当に驚いたことがあります。と申しますのは、この教会の音楽はそのフィリピン人の方たちがやっていまして、神父さんが説教をする時など、話が興味深い時は皆真剣に聴くのですが、そうでない時は聞く態度もそれなり……。皆、着席して、神父の説教を唯々諾々と聴いている訳ではないんです。そして、ミサの終了後は必ず毎週日曜日、信者の誰かの誕生日や何かの記念日を祝うといった調子で、何かしら企画をしてパーティを開いていました。そんな活気のあるコミュニティーに、私は教会本来の役割を垣間見たような気がしました。宗教は、人々の人生やいのちを豊かにするためにあるのだと思えば、私が子供の頃に体験した「怖い教会」よりも、私はこういったコミュニティーを支える「温かい教会」に惹(ひ)かれます。
去年の夏にアイルランドを訪れた時、教会が率先して無農薬栽培の農業に取り組んでおられました。社会の構造の急激な変化によって、教会にはかつてのような「権威」はなくなり、人々から単純には尊敬されないようになりましたが、その一方で、このような活動を積極的に推進することによって、現在はアイルランドの環境保護運動をリードするといった面目を施していますね。今後、キリスト教会はさらにその方向に力を注いでゆくことが大切なのではないでしょうか。私の発表はこれで以上です。ご清聴有り難うございました。