大阪第一教会連合会 特別講演会
『人類共栄の道』

 10.06.14

2010年6月14日、三宅光雄教会長は、大阪第一教会連合会の『特別講演会』の講師として、大阪教会「やひろホール」にて、『人類共栄の道』という題で記念講演を行った。

皆さんこんにちは。只今紹介いただきました泉尾教会の三宅でございます。先ず最初に「大阪第一教会連合会」の信徒会の皆さん方に、この様な御用をしなさいということを頂きまして、勿体なくも大阪教会様の「やひろホール」で、お話をさせていただけるおかげを頂きました。先ずそのことに、連合会の役員の皆さんに、また大阪教会の先生に、そして本日の御用の皆さんに、お礼を申し上げたいと、こう思わせていただきます。有難うございます。

私は最初にお詫びすることがございまして、30年ほど前に膝を痛めまして、「30分程のお話でしたら立ってさせていただくのですが、それ以上の時間でしたら座らせてもらわないと」と、こう申したのです。「それでは座ってお話しください」…。そういう訳で、本当はご無礼なことなのですが、今から座らせてもらってお話をさせていただきます。失礼を先ずお詫びさせていただきます。

昨日、ご本部に『教団独立記念祭』のご参拝をさせていただきました。私にとりましては本当に有り難い、勿体ないお祭でした。というのも私の叔父、三宅歳雄の三男にあたります叔父が、教師40年の褒賞を頂きました。と同時に、私の長女が教師の補命を頂きまして、これから一生御用に使っていただくお誓いを、神様と金光様の前でさせていただきました。昨日は40年の褒賞も、新任教師のおかげも、頂かせてもらって、私にとりましても本当に勿体なく有り難いお祭を頂かせてもらいまして、帰り際に会堂で「大阪第一教会連合会」会長の杉村先生にお会いし、「先生、明日は宜しくお願いします」と言われまして、「はい、不十分ですけれども使っていただきます」と、こう申し上げ、今からおかげを頂かせていただくのですね。私に頂いている時間が約1時間ですね。そして少し休憩があった後に質疑応答ということでお話をしてくださいということでしたね。

3月19日でしたか、このお話を頂いた後、連合会の役員の方が泉尾教会にわざわざ来られまして、今日の打ち合せをしたのです。「打ち合せはしなくても大丈夫ですよ」と申したのですが、「行かせていただきます」ということでした。「どのような話をすればよいですか」とお聞きしますと、最終的には「泉尾教会が宗教協力による国際活動をされる、その最初のきっかけ。そしてどのような活動をされてきたのか。そして今何をされていて、これからどうされていかれるのか。『過去、現在、未来』についてお話をくだされば一番有り難いです」とのことでしたので、私もその線に沿ってお話をさせていただこうと思いますが、なにぶん1時間という短い時間ですから、中途半端な話になるとは思いますが、最後まで聞いていただければ有り難いと思わせていただきます。

私の祖父・三宅歳雄は、14歳の時に、玉水教会初代大先生のお供をさせていただき、和歌山から大阪に出て参りました。玉水教会初代大先生と私の祖父とは「伯父=甥」の仲でございまして、和歌山での宅祭に、初代大先生が来られた時に、その後に付いて「お供をさせてください」と言って、大阪に上がったのです。そして10年間、玉水親教会でご修行をさせていただきました。それは厳しく、それは優しく、大きなお心で育ててくださった。

祖父は晩年の晩年の晩年まで、自身の口から出る言葉は、「玉水初代大先生への御恩」ということでありました。私は勿論、玉水教会初代大先生は昭和十九年にご帰幽されたのですから、そして私は昭和三十一年生まれですから、存じあげないのですが、祖父の信心を通して、ご信心の中身。どれだけの厳しさと優しさ。その2つが、大きな愛が三宅歳雄という人間を創ったのだということですね。先ず最初にそのことにお礼申し上げなくてはいけない。

「世界平和」ということに取り組ませていただいた三宅歳雄ですが、一言で言いますと、「目の前に困っている人が居れば助けずにはおれん」という、そこからのスタートです。よく聞かれるのです。「何故今の泉尾教会が、こんなに多くの世界の宗教者のリーダー達とご縁があるのですか」と…。「どうやってそのご縁ができたのですか」と…。こう聞かれるのですが、何か創ろうと思ってしたのではないのです。「目の前に困っている人が居れば、とにかくその人を助ける」。困っている人が居れば助けるということから拡がって行った。私はそれが三宅歳雄の世界助け。世界平和への貢献であると思う…。

その一番最初は何かと、私自身で考えてみたのですね。それは玉水教会修業時代に、大正十二年。ずいぶんと古い話ですが9月1日。皆さんはご存知ですね。大正十二年9月1日、『関東大震災』がありました。三宅歳雄は銀座の先生ご夫妻のお供をして、修行生として3人で東京に行っていたのですね。お2人のお供をして東京の銀座で御用をさせてもらっていた時に『関東大震災』が起こるのですね。私はその時の衝撃と言うのか、それが後々の人助けから世界助けへと…。あの『関東大震災』に、もし銀座のお教会にお供をしていなければ、大阪に居たのであれば、もしかしたら違う道を歩んでおられたのではないのかなと思うのですね。これはあくまで私の考えですよ。

その後も、考えてみますと昭和十三年には『神戸の山津波』と言いまして、六甲山で山崩れがあった時に、泉尾教会から500人の奉仕隊を出すのですね。そして人命救助や復旧作業の御用をしている。また、今から51年前ですか、『伊勢湾台風』の時。これは「立教百年」の時ですね。『立教百年大祭』がご本部で何度か仕えられたのですが、その中の一度を、泉尾教会は三度ご本部へ団体参拝を予定していますが、その内の一度を、大阪から言いますと西へ向かわずに東へ、名古屋へ向かったのですね。団体参拝を急遽切り替えて、500人体制で名古屋へ…。トラック十数台と支援物資を持って…。
『伊勢湾台風』で苦しんで居られる方の救援に向かった。これも泉尾教会のある大正区という場所がゼロメートル地帯で、昔はよく水に浸かったのですね。だから水に浸かった人の苦しさというのは一番よく分かっていた。私の子供の頃もまだ浸かったのですね。それを『立教百年大祭』の…。勿論ご本部へのご参拝は大切ですし、二度団体参拝したのですが、現に苦しんでいる人がそこに居られたら、その人々を助けることが神様の御用だと…。

私がそのことを直に感じたのが、この前の『阪神淡路大震災』の時でした。泉尾教会は約1ヶ月間、殆ど毎日と言ってよいほど救援の御用に行っていたのですね。そして実は大正区も被災地なのですよ。教会から1キロ程離れたところで、液状化現象で家が沢山倒れていました。その中でおっしゃったことは、「教会のことは今はするな…」。するなと言われても、土管とか電線が地中に埋まっているものが切断されている。これは直ぐに直さないと危ない。それ以外のものは一切するなと…。被害を受けられたご信者の方々が最低プレハブ生活が終わるまでは…。

泉尾教会は神戸や淡路のご信者が多いのですね。最終的に全て直させていただいたのは数年前ですね。ということは約10年間、触らなかった箇所が沢山あるのです。「先ず他人様(ひと)のためにさせてもらってからしか、自分のことはしてはいけない」…。このことを徹底的に教えこまれたのは玉水初代大先生だと私は思うのです。勿論直接にはおっしゃらなかったでしょう。しかし信心の基にそれがあったのだと、私は思うのです。聞いた訳でもないのですよ。勿論今も言った様にお会いしたのでもない。けれどもきっとそういうことだったのだと思う。

そして特に戦争中ですね。今日は時間がないのでどんどんとお話ししていきますが、戦争中に特にキリスト教の先生方と。特に同志社大学の先生方と大変なご縁を頂かれたのですね。そしてそのご縁から色んな輪が拡がって行ったのだと私は思うのです。世界中の国へと…。1つの例を取ってみますと、バーン神父という方がおられる。

このバーン神父という方は、戦前には京都の司教様でありましたが、戦争が始まると、バチカンから米国に戻るようにという指示があられたそうなのです。しかし困っている人がいれば、それは敵国も味方も関係ないと、米国人でありながら一神父となられて京都で布教をされたのですね。その方と直接ご縁を頂くのですね。

そのような理由で布教活動をされたのですが、その活動が、スパイ活動に思われたのですね。それはそうですよね、顔は米国人ですからね。しかも日本語を少し話されるでしょう。何か調べているのではないのかと…。それで官憲に捕まったのです。当時は軍の力が大きくて警察もその指揮下にありましたからね。それを同志社総長・牧野虎次先生という方が、その前から真渓涙骨先生を通してご縁ができていましたから、頼まれたのですね。「三宅さん、私たちはキリスト教徒だから、いくら言っても警察は聞いてくれない。貴方は、金光教ということは神道でしょう。一寸こちらまで来て、理由を説明してくれませんか。この人は決して悪い人ではないと…」。そういうことで京都まで行かれるのですね。そこからさらにご縁が強まり…。何と三宅歳雄も留置場に1泊入れられるのです。「お前も怪しい」と言って捕まるのですね。その中で同じ留置場で一晩話す機会を頂く。これも神様のお働きでしょうね。話をさせていただいている内にさらにご縁ができまして…。

バーン神父は勿論疑いが晴れて、後に釈放されるのです。ところがこれも後の話ですが、何とこの方は戦争が終わった時に。実は皆さんにも今日、『平和を生きる』(講談社)という本のある頁をコピーしてお配りしましたが、その中にもご自身の回想として書いておられますが。「一寸した手助けをしたために色んなご縁を頂いた」と、こう書いてあります。その一寸した手助けというのが、今私の話したことでありますね。

何とこの方がGHQのマッカーサー将軍と学校が一緒だった、同級生だったのですね。後で分かったことで、この方が大きな力を持っておられて、さらに昭和二十二年にはこの方が、何とバチカンの「特命全権大使」になられるのです。それこそ特命全権大使というのは、その人を以ってローマ法王様と同じということなのです。だからマッカーサー将軍と同級生だった上に、バチカンの、今度はローマ法王様のお代理で日本へ来ている大使に変わっちゃったのですね。まあそういう所からご縁がどんどんと拡がって行くのですね。その方を、実は名もない時に三宅歳雄は助けている。一緒に留置所に入った。こんな縁があった。

もう一人。お配りしたコピーに「シーベリーさん」というところも付けてあるのですが。そのシーベリー女史という方とのご縁も、やはり同じく同志社大学の、これは次の総長になられました湯浅先生、湯浅八郎先生。ですから一番最初はキリスト教との関係から世界へと拡がって行ったみたいですね。

このシーベリーさんという方はアメリカのキリスト教の伝道布教の責任者の1人でありまして、そして戦後直ぐに同志社大学で少し教えておられた。そして大学を終えられてアメリカに戻られる時に、湯浅先生の紹介で泉尾教会に来られるのです。それは何かと言いますと、伝道布教ということで、特にその当時の担当はボストンであられたのですが、ボストンの教会の改修工事。それに寄附をして欲しいということでありました。実は湯浅先生と一緒に来られたのですが、湯浅先生は直ぐに帰ってしまわれて、それからそのお話はこのシーベリーさんと三宅歳雄が話をするのですが、その時にそういうことを頼まれるのです。「ハイ分かりました」。と親先生は言われ、幾ばくかの寄附をさせてもらうのですね。それはもう喜ばれまして、そしてアメリカへ帰られて、そのお金でボストンのお教会の改修工事が終わったのですね。

泉尾教会は今年が60年という、人間で言えば還暦を迎えている。それは何かと言いますと、元々の泉尾教会と今の泉尾教会は150メートル程違う所にあったのです。そして今の泉尾教会に移らせてもらったのが、60年前の12月23日であります。「聖地泉光園」のお土地のおかげを昭和二十四年に頂かせていただく。そして二十五年の12月23日に遷座をされるのです。そのご遷座から今年が60年という年です。

ということは、今からお話しする話は昭和二十四年から二十六年ぐらいの話ですね。その時代にシーベリーさんという方が泉尾教会に来られる。勿論私は生まれていませんよ。その時にこのシーベリーさんが「寄附をしてください」と頼まれた。「ハイ」…。そしてアメリカへ帰られて、ボストンの教会の修復が終わったので、同志社大学総長の湯浅先生にお礼の手紙を出されたのですね。湯浅先生という方はICUと言って、「国際基督教大学」の創設者です。何と私の父の仲人(なこうど)でもありまして、私は湯浅先生との出会いが三宅歳雄の「世界助け」という働きにとって、本当に大きい影響を与えたと思うのですね。そしてさらにその前から言いますと、涙骨先生、真渓涙骨先生との出会いが、そして牧野虎次先生。このように多くの先生方と出会いを頂くのです。やはり人は出会いですね。出会った人を本当に自分の師匠と頂く。全ての人から教わる。そのご縁を大切にされた。

その時に、戦後直ぐに「これからは一教会とか一教団ではなくて、教派・宗派を超えて、全ての信仰者、宗教者が世界人類のために働かせてもらおう」とおっしゃいました。「その先駆けに貴方はならないといけない」と、ほぼ同時期に、その3人の先生方から言われるのですね…。今日の講題に「人類共栄の道」とありますね。それは、その時から始まっている。ですから『人類共栄会』とは、その祈り、願いを以って、昭和二十七年1月に発足したのですね。

先ほどもご紹介いただきましたように、私は現在『人類共栄会』の会長のおかげを頂いておりますが、これは、泉尾教会の平和活動部門です。

その五年前には『国際宗教同志会』が創設されていました。真渓涙骨先生、牧野虎次先生、それから大本の出口伊佐男先生、さらに一燈園の西田天香先生、この5人の方で最初はスタートしたのですね。そして泉尾教会がお世話役をして、会場とすることを決めたのですね。だから最初から事務局が泉尾教会にあります。会合は泉尾教会で開くということを決めたのですね。それが昭和二十二年2月。二十二年と言っても終戦より1年半も経っていないのですよ。            

ですから、戦時・戦後と多くの方々と出会われました。その中でも今も話をしました湯浅先生がシーベリーさんを紹介くださり、その方にお金を融通させてもらって、その方がアメリカに帰られて、「おかげさまを以って」というお礼の手紙を湯浅先生に出されたのですね。しかし湯浅先生は、その時までそんな多額のお金を三宅が渡したとはご存知なかったのですね。ご自身は早退して帰ってしまわれていますからね。アメリカからの手紙で、その手紙にそういうことが書いてあったのですね。そしてお返事を出された。その返事の手紙には、「実は三宅先生の教会は今、新しい教会を建設されて、これから遷座をされます。そのお金はきっとそのためのお金でしょう…」。

今の泉尾教会の会堂(広前)は、皆さん方もご存知かも分かりませんが、あの会堂は45年前に建ったのですね。今も遷座して60年と申しましたが、45年前には今の宮のことを新宮と申していました。それで、元々の宮のことを旧宮と申していました。ですから旧宮と呼ばれていた宮は15年間なのですね。

今の宮のお広前は260畳ですが、旧宮のお広前は400畳あったのですね。勿論今の宮は、障子を開きますと560畳になるのですが、そしてさらに回廊まで開きますと700畳。掛出しをすると900畳になり、1階が400畳で合わせて1,300畳になるのですが、そのような祭典は、余程のことがないと拡げませんね。しかし旧宮には通常400畳のお広前があった。その会堂の工事のために、一般的な言い方で言いますと借金をしていたのですね。お金を銀行から借りていた。その借りたお金を、そのままシーベリーさんに渡してしまわれたのですね。だから写真集にも残っていますが、屋根に半分、瓦のない状態が続いたのですよ。2ヶ月間、半分瓦無しの教会。建築のためのお金が途中で止まってしまった。それで瓦は前方だけ。後ろはなし。旧宮は少しの間そういう教会だったのですね。

第1回のご外遊。生涯三宅歳雄は102回の「御神願外遊」という外遊をしています。その第1回のご外遊。「第1回御神願外遊」というご外遊が昭和二十八年です。その時に、私もこの前の外遊でも同じ事を感じましたが、祖父・三宅歳雄がアメリカに行ったのは、昭和二十八年で、第1回のご外遊は世界一周でした。56日間掛けて世界一周をされました。ヨーロッパからアメリカへ。コペンハーゲンの会議に出られてからアメリカへ入られたのです。アメリカへ入ると今でもそうですが、最初に入った都市で入国管理というのがあるのです。私もこの前やられました。飛行機が何機も同時間に着いて、入国審査場で長時間並んでいるんですよ。私が長時間並んでいても、後の飛行機が着くでしょう。そしてその飛行機に米国籍の人が居たら、大半の審査官は米国人専用になる。そうでない皆さんは止まってください…。それで米国籍の人が終わったら、そちらも使ってまた動き出す。やっとのことでもう20人くらいのところまで来たと思ったら、また次の飛行機の米国籍の人が…。また待ってください。米国籍の人が優先です。そんなにアメリカ人が偉いのかなと思いたくなるぐらいですね。しかし本当は10人居る審査官の内、5人が米国籍の人専用で、外国人用は5人はいるのですが、入国ビザの必要な国の人たちにはさらに時間がかかるのですね…。だからこちらの列は止まったように感じるのです。少しは動いているのですが…。しかし並んでる方から見たら、折角並んでいたのに、一寸ここでストップと言われるのですから。それと同じ様なことを三宅歳雄は、経験したのですね。今であれば、申し訳ないけれども止まってください、という感じでこっちは聞きます。しかし当時は、「ヘイ、ジャップ」と言われるのですね。ジャップという言葉はあまり良くない言葉。「日本人野郎」みたいな感じですよね。「一寸待て、お前は、負けた国の人間だからもう一度後ろへ並びなおせ…」。待てではなくて、もう一度並び直せと言うのですから…。そしてまた前まで行ったらもう一度並び直せ…。次の飛行機に乗り換えるために、乗り換え時間は数時間あったそうですが、その数時間が全部アウトになったそうですよ。

そして、国内線に乗り換えられて、ニューヨークからボストンに行かれた。昭和二十八年ですよ。二十八年にボストンに行った時の三宅は、勿論エコノミークラスです。飛行機にはファーストクラス。次がエグゼクティブクラス。そしてエコノミークラスと3つのクラスがあるのですね。エコノミーでも日本人だから、きっと一番後ろですよ。そのエコノミークラスに乗っておられた…。当たり前のことですね。お金がないのですから…。

私が初めて外遊に行かせてもらった時も、今から35年前に行かせてもらった時には、まだ1ドルが360円でしたよ。さらに昭和二十八年当時は、ヤミドルというのを買って行かれたそうです。1ドルが500円以上したそうです。1回の外遊で持てるお金が決まっていて、今みたいにクレジットカードなんかないのですからね。トラベラーズチェックもないのですから。現金しかない。だからヤミドルまで買って行くのですね。それどころか、スーツにも三宅と名前など書いていません。洋服も信者さんのスーツを借りて行かれたそうですね。第1回のご外遊の時ですよ。勿論エコノミークラスですね。

一番後ろの席に居られたらアナウンスがあるのですね。「ジャパニーズのミスター三宅。前まで出てください」。その時親先生は何かあったのかなと思いながら出て行かれたそうですよ。そしたら「貴方を一番最初に降ろすからここに居ってください…」。

私の子供のころ親先生が、三宅歳雄が外遊から帰って来られましたら、伊丹の空港に迎えに行けば、飛行機からタラップで降りてこられ、私たちも、その近くまで行けましたよ。当時でもそんな時代だった。アメリカでも勿論そうだったでしょう。

パーッと飛行機の扉が開きますと、そのタラップの周りには、何百人という人が居られたそうです。沢山の人が居られて「えーっ」と思われたそうです。そうしたら、その人々が手に手に「日の丸の旗」を持っておられた。きっと手作りなんでしょうね。日の丸の旗を作るのは簡単ですものね。白い布か紙に、赤色で丸を描けば、外国人からすれば「日の丸」に見えますよね。それを振ってくれていた。

何故かと言いますと、それがその「自分の教会の建物を建てるために、借金をしていたお金を、そのままボストンの教会のために回してくださった」と、毎週の日曜ミサで神父さんが話されていたのですね。「素晴らしいことだ」と言われて話されていたのですね。「そのおかげで私たちの教会が建った」と…。その町の信者さんたちが三宅がボストンに来ると聞いて、大勢で空港まで迎えに来てくれていたのですよね。感激した。「真で向かったら何事も…」。その直前までは、アメリカ人は並んでいても後ろへ行けと言うような人たちばかりなのかなと…。

何と神様のお働きというものは、そういうお働きなのです。本当に大歓迎をされて、そしてボストンで記念講演をされるのです。その後にワシントンに行かれるのです。ワシントンに行かれて、その時もまた一騒動あるのですね。

何があったのかと言いますと、三宅歳雄が日本大使館に参りまして「ダレス国務長官にお会いしたいので国務省にそのように伝えてください」と頼んだのですね。すると、「あなたは気はたしかですか」と言われたそうです。当時の日本大使館の方がですよ。その方はこうおっしゃったそうですね。「天皇陛下よりも偉いマッカーサー将軍。そのマッカーサーのボスであるダレス国務長官。その国務長官に何故あなたのような一日本人が会えるのだ。馬鹿なことを言うな」と言われて断ったらしいですね。

「いや、この名刺だけでも見せてください。私はワシントンのホテルに泊まっているので、もし名刺だけ見せてくださって、ダレスさんが会えないと言われたらしょうがないですが、とにかく名刺だけは見せてください」と…。そりゃまあ、きっとおかしな人だと大使館の方は思ったのでしょうが、大使館ですから日本国民が言っているのですから、一応申請しようと、その名刺を持って国務省へ行かれたそうです。すると直ぐに「何処に泊まっていますか。直ぐに会いたい」ということになったそうです。

というのもその2年前に、やはり湯浅八郎先生のご紹介で、このシーベリーさんもそうですが、ダレスさんもアメリカのキリスト教伝道布教の、まあ言えば信徒集団の責任者だったのですね。敬虔なカトリックの、キリスト教の信者さんだったのです。このダレス国務長官が…。それで、『サンフランシスコ講和条約』終結のために、何度も国務省顧問として来日されており、長官になられる前に、日本で親先生と会っておられたのですね。

それでその時に、「もし貴方がアメリカに来られることがあれば私を訪ねて来なさい。国務省に居るから」と言われた。だから会いに行かれたのです。そして名刺を渡したのですね。「ぜひ会いたい」と、ダレス国務長官がそうおっしゃた。今日は本当に部数が有れば皆さん方全員にお渡ししたいのですが、部数がないので各お教会に2冊ずつお渡ししました。写真集「信ひとすじ」の中に、そのダレス長官と一緒にお会いになっている写真があります。たった1枚ですが写真が残っています。このようにダレスさんとのご縁も頂いている。そして最後にハワイで全米に向けてラジオ放送をされるのですね。そして56日間の「第1回御神願外遊」を終えられて帰国される。昭和二十八年ですね。そうして第2回、第3回と…。

第2回はスリランカ。昔はセイロンと言いました。そして第3回はバチカン。ですから今でもバチカンとはそれ以来強いパイプが繋がっていますね。バチカンはカトリックの本山でありますが、同時に独立国なのです。「バチカン市国」と言って1つの国なのです。そして私は今年の1月にも、さらにその前も、日本のカトリックの枢機卿様のお葬式に参拝しました。いまだに日本中の宗教者の中では、泉尾教会はその序列がトップクラスで、前の席に座らせてもらえるのです。他にどんな教主様が来ておられてもそうなのです。この1月もそうでした。他に何人も教主クラスの先生方がおられるのですよ。それなのに私が第1列。それは何故かと言いますと、バチカンは国ですから、きっと元々のそういう関係のが残っているのですね。日本人として戦後最初に、他宗教の人間としては正式にローマ法王・ピオ12世猊下と単独謁見をしたのが三宅歳雄だと言うのですね。もう20年も前でしたでしょうか。尻枝さんという日本人の神父様に、そのように聞きましたね。他宗教の宗教指導者が正式にバチカンの中でローマ法王様に単独謁見という、お2人だけでお話をされるのですね。だからその記録が残っていますから、きっといつも泉尾教会を前に入れてくださるのですね。勿体なく、申し訳ないことだと思っています。

1月の白柳枢機卿様のお葬儀でも、立正佼成会の庭野会長先生が私の横に座られて、「ご弔辞」を読まれました。どう考えても何倍も他の先生方の方が私より偉いに決まっている。どう考えても私なんて未熟者ですから。しかし私の席は一番前ですからね…。係の方がその席へ案内されるのですから。しかし私も、私ではなくて祖父の代わりだと、いつも思っているのですよ。

今日もこういう席に上がらせてもらっていますが、三宅光雄とは書いていますが、本当は三宅だけが偉いのです。光雄は全然偉くないのです。それは、三宅ということは「親のお徳」ということです。ということは最初に申しました、玉水大先生のお徳なのです。もっと言いますと大阪教会白神先生の。さらには教祖金光様のお徳を以ってして、私がこのような席に座らせてもらっている。これを間違うと大変なことになるのですよ。本当にいつも思っているのですね。

私は出していただいた物は基本的にすべて頂く。しかし今はダイエットをしていまして、少ししか頂きませんが、それまでは出していただいた物は全部頂くのです。しかし若い頃は分かりませんから、何でも「とっても美味しいです」と言って、全部食べてしまうのです。本当に美味しいのですよ。するとご信者さんは有り難いですよ。その時はたまたま手元にあって、お茶菓子として出してくださっているのですよ。でも次に行くと、その時には手元に無いのに、わざわざ買いに行かれるのです。だからもう絶対に、「美味しいです」くらいにしか言ってはいけないのですね。「とっても美味しいです。大好きです」と言うとダメなのですね。

そういうことが、これがきっかけと言うのか、最初のことをどう説明したら良いのか分かりませんが、「困っている人が居れば助けずにはおれない」という、そこからがスタートなのです。そしてその輪がもう加速度的に大きくなっていったのです。1が2、2が3ではなくて、1が10、10が100、1,000、10,000と大きくなっていった。そして大きな転機は、1968年。70年には大阪万博がありましたね。あの2年前です。

『第2バチカン公会議』という会議が開かれたのです。キリスト教は千数百年の間、カトリックこそが真の指導者であるとして、他宗とは一線を引いておられたのですね。ところが『第2バチカン公会議』で、約1ヶ月半ほど続いたのですが、その会議で「これからは世界の宗教と一緒になって…」ということを決められた。それが1968年です。そして泉尾教会は、たまたまその直前に今の会堂のおかげを頂いたのですね。そしてさあいよいよと世界平和へ貢献するために外へ打って出ましょうと…。世界平和のために使っていただきましょうと思われ出られた時に…。

それがもし2年ずれていれば1年ずれていれば。いやいやキリスト教は他とは別に一緒にやらなくて良いとなっていたかも分からない。しかしそのタイミングを頂いて、逆に「バチカン」から「ギリシャ正教」へ行きなさい。「英国国教会」へも行きなさいと、「カトリック」の方から紹介してくださったのですね。カトリックの紹介だから、ローマ法王庁の紹介だから、初めからギリシャ正教の総司教様とか、トップクラスの立場の先生がお会いくださったのですね。そしてできたのが『WCRP世界宗教者平和会議』。WCRPというものが1970年にできた。

その前の年。69年に『IARF国際自由宗教連盟』に泉尾教会は正式加盟をさせてもらった。これは19世紀からある世界で最も古い、最も権威のある宗教の相互理解による協力組織なのですね。そしてその翌年70年にWCRPを発足したのです。最初のメンバーは、米国のグリーリー博士、ホーマー・ジャック博士、インドのフェルナンデス大司教と日本の庭野先生に三宅歳雄の5名。そしてそれが何と今年で40周年。

皆さんは国連をご存じと思います。国連の中にある1つの働きに、『社会経済理事会』があるのですね。その中にNGOが500程あるのですが、その中で特にトップクラス「カテゴリーI」というグループになって、今ではそれを「国際諮問資格」と言っていますね。一国と同じ発言ができるのです。WCRPもそのメンバーですし、IARFもそのメンバーです。しかもそのIARFの国際事務局が、何と4年間だけですが、今現在は泉尾教会の中にあるのです。今、泉尾教会が国際事務局をお預かりしているのですね。毎晩ドイツ語が聞こえてきたり、フランス語が聞こえてきたり、勿論英語も聞こえてきますね。何人かのスタッフが居られる。泉尾教会の中にですよ。その人たちが時差のためなのでしょうか、夜になると活発に動き出されるのですね。しかも夜になると若い人ですから大きな音楽を聴きながら仕事をしたりするのですね。もう少し静かに聴いてくれたら良いのになと思うのですが…。私が朝起こしてもらう4時になりますと、その音も消えていますね。ですから泉尾教会の中に時差があるのですね。本当に勿体ないことですね。今もなお、その輪がドンドンどんどん拡がって行っている。そして泉尾教会は、私は、その御用にお使いいただいている。ですから、どんなことでもお使いいただく。

私がこうしてこのようなお話をしておりますが、実は私も、今から25年くらい前まではどちらかと言いますと、「甘ちゃん」でしてね、親先生が平和活動されておられる。そういうことは子供の時から知っていました。勿論私が生まれる前から始まっていたのですが…。1970年の大阪万博と言えば中学2年生でしたね。ですから今の話は小学校6年生から中学校1年生ぐらいの話ですから、知っていましたが、「ここまでしなくて良いじゃないか」と思っていましたね。

もし親先生のお供で私が海外へ行けるなら、できればインドやバングラデシュへは行きたくないな。できればフランスとかイギリスとかアメリカであれば、喜んでお供したいなと思っていたのですね。事実その頃のインドと言えば、インドに行くためには何本も予防注射を打って行かないと駄目だったのですね。伝染病ですよ。最終的には狂犬病まで打ちました。行きたくないなと思っていながらでも、親先生が「光雄」と指名されますと、親先生は私からすれば生神様ですからね。右と言われれば右、左と言われれば左なのです。そのお言葉に従うのが私なのです。親先生が右と言われたのに左に行けば、それがもし、それが上手くいっても、それは正しくはないのです。ですから行けと言われれば行く、止めろと言われれば止めるのです。

31歳の時。だから23年前ですね。バングラデシュのダッカへ。泉尾教会には4カ所の「ミヤケホーム」がありましたが、今はもう1つも「ミヤケホーム」という名前でのホームはありません。全部名前を変えました。ところが最初は「ミヤケホーム」という名前でスタートしている。最初にホームの施設を造り、先生を雇うなど、いろいろとさせていただく、そのための支援金も送る。しかしそれで軌道に乗れば、乗った時点で現地の人々にお任せする。軌道に乗せるまでは責任を持ってさせていただくのですね。その中で最初にできて一番最後までお世話をしたのがインドの「ミヤケホーム」でした。インドは昭和五十八年に。そのまた2年後にネパール。そのまた2年後にバングラデシュと。2年、2年、2年で。その2年後にさらにスリランカと。4カ所の「ミヤケホーム」を建てたのですが、その4つとも、それぞれに意味が違う。その中の3つ目のバングラデシュ。バングラデシュに今から23年前に行かせてもらった。親先生が私にお供をしろということですね。

その時は9月でしてね、まあそれこそ巨大な台風がバングラデシュを襲ったのですね。バングラデシュという国は皆さんもご存知の様に、大阪も淀川のデルタですが、バングラデシュはヒマラヤからのデルタなのですね。国の平均的な高度が10メートルくらいですから、一度水に浸かりますと長期間浸かっている。その時は2ヶ月近く浸かって…。そしてその時には、泉尾教会から1万6,000人分の薬と、勿論義捐金と、それから色んなものを持って行かせてもらったのですね。そしてその前の年に「ミヤケホーム」がダッカにできましたので、その翌年だったということで、あらためて開所式をしてくださった。その時の親先生のスピーチ。

皆さんもあるでしょう、人生の分岐点。ターニングポイントですね。あの時に、右に曲がったか左に曲がったかでまったく変わったということがあるでしょう。それまでは私はヨーロッパへ行きたいな。パリやロンドンが良いな。できたらそっちの御用に指名してくださらないかな。できればインドは嫌だな、バングラデシュは避けたいなと思っていたのですが、バングラデシュに行かせてもらった。その時に1,200人の「ミヤケホーム」の子供たちを前にして。その子供たちの前での親先生のスピーチ。

当時私は何をしていたかと言いますと、私は英語が話せませんので、荷物の管理と写真係でした。写真を一手に引き受けていました。カメラ2台を首からぶら下げて。1台で撮ってもう1台は予備。今みたいにデジタルカメラではないですよね。フイルムでしょう。フイルムもカバンに一杯入れて。かと言っても無駄に撮れません。後で消す訳にはいかないのです。しかし撮れたかどうかも確認できませんね。今のデジタルカメラのようにその場で確認のしようがないですね。撮れてると信じていますが、やはり2台持たないと危ない。それで2台持って行ったのですね。いや、さらに小さなカメラも予備で…。その時のスピーチ。これが私のターニングポイント。
                         
「孤児院」という言葉は、私の年代の者にとりましては、例えば同じ歳の杉村先生もそうでしょうしね。テレビで「タイガーマスク」というアニメがあって、「孤児院」に寄附をした…。というように、あのアニメを見ておられたと思う。ですから「孤児院」って余り良いイメージがないのですね。ところが実際に行ってみますと「孤児院」は天国なのですよ。これは市が決めますけれども、孤児院のベッドの数だけしか子供を収容できない。ですから行ってみますと3段のベッドがぎっしりですよ。教室も全部。それも手作りで、形だけのベッドです。でも実際にはそのベッドで寝れませんから小さい上に、一番上は寝れませんから。でもベッドの数が1,200人分しか作れないから、1,200人しか収容ができないのですよ。ところがこの孤児院は塀で囲まれています。私たちのホテルも塀で囲まれていました。それを軍隊が守っています。こんな時でも外貨を稼ぐために外国人はウェルカムなのですが、その上、治安等も悪いため、国民はホテルには入れない。そして支払いは米ドルです。外貨稼ぎですね。

ホテルより車で25分。「ミヤケホーム」まで行く間に、何十体という遺体を見ました。道ばたに放ってあるのですよ。赤痢・コレラが流行しだしたのですね。道路沿いに朝になると出している。そして市の衛生車が回って来て、トラックへ積んでそれを…。だから個人では火葬できないのですよ。ともかく危ないから、今の宮崎県で口蹄疫(こうていえき)ってやっているでしょう。あれを人間にやっているのですよ。もう初めは見ておれなかったです。初め何かなと思って、じっと見ますと…。31歳の私です。さすがにカメラを向ける気にはなりませんでした。だから孤児院に入れてもらえれば生きていけるのですよ。その孤児院の子供たちに親先生が言われたことは。開所式の行事が色々とあって、最後に親先生がスピーチされたのです。

バングラデシュという国は、「バングラ語を話す人たち」という意味の。だから言葉が国の名前になった国なのです。元々は東パキスタンと言った。東と西パキスタンとがあって、西パキスタンがパキスタンになって、東パキスタンがバングラデシュになった。バングラ語を話す人たちの国、それがバングラデシュ。だから話されたお言葉が一度英語に通訳されて、英語がバングラ語に通訳され、二重通訳ですね。

「こんにちは」から始まり二重通訳で十数分話されたのですね。ところが話の途中から、親先生が話されるお言葉に、子供たちが直接反応するようになったのですね。子供から拍手になって返ってくるのですよ。私はあの時に「祈りは言葉の壁を越えれる」なと思ったのですよ。その最後に言われたお言葉が、私はいまだに忘れられません。それはこう言われた。「あなた方はこのお礼をしなければならない。このミヤケホームに入ったお礼を。それは勿論私にするのではない。あなた方はこのお礼をあなた方の神様、そしてそれを現すのは…」ここからが大事、「あなた方の後に続く子供たちのためになる人間になれ」と…。びっくりしました。小学生に言っておられるのですよ。それを皆さんみたいな方々に話すなら分かりますよ。しかし小学生に、「未来の子供たちのためになるあなた方になってくれ」って…。これが私の頼みだと言われて頼まれたのです。もうその瞬間、私は涙が止まらなかった。人間の中にどれだけ涙があるか。もし量ったら小さなバケツで一杯にはなったでしょう。私がウォンウォン泣くのですよ。何故か。それは、そのお言葉は私に向かって言われたお言葉と思ったからですよ。

私のために神様が親先生が、この場を仕組んでくださった。だから「バングラデシュに行け」と言われた。私にかけられている大きな神様の、そして親先生の愛。そしてこの愛が、人を、世界を救うのです。技術だとか力だとかそんなんじゃないのだ。これが私のターニングポイントです。帰国後私は手を挙げました。「アジアの担当にさせてください」…。それからの私はパスポートも何冊も変えている。今でもそうですけれどもね、南アジアはほとんど入国ビザが要るのです。ビザはパスポートの一頁を使うのですよ。たとえばアメリカとかであれば判子をポンと押すだけでしょう。十回行っても一頁。私は「アジアの担当にならせてください」…。

大変嬉しいことがありました。それから何年か経って。大恩師親先生が亡くなる数年前でした。大恩師親先生とは三宅歳雄のことです。もうお1人では外へは出てこられなかった。たまたまですよ。泉尾教会の会堂の前に池があります。私が夕方そこを通りかかったのですね。すると外国人でアジア人だなと思う人がボーっと立っている。「何か御用ですか」と声を掛けますと。すると流暢な日本語で、「ここは金光教泉尾教会ですか」と聞くのです。「はい、そうですよ」…。

何とその人はその時のスピーチを聞いたバングラデシュの「ミヤケホーム」の子供の1人でした。その1,200人の中で成績がトップクラスでしょうね。国費留学ということで東京大学へ入学して、東京大学での勉学を終えて、関空からバングラデシュへ戻る前に、関空は大阪でしょう。だから自分の知っているのは「大阪」の「金光教」の「三宅親先生」という言葉しか知らない。これだけ覚えているのですよ。

「三宅親先生」「金光教」「大阪」。大阪に来て、どこかの教会にきっと行ったと思うのです。親先生を訪ねて。その前に交番かどこかで「金光教の教会」って聞いたのでしょうね。「三宅親先生の教会はどこですか」と聞いたと思うのです。それで泉尾教会を紹介されている。多分大阪駅辺の教会だと思うのですよ。大体大阪駅から来ますからね。新大阪駅辺かもわかりませんね。

泉尾教会まで来て、会えないからもう帰ろうと思った時に、私とばったり会った。直ぐに二代親先生に、父に話をして一緒に話を聞いたのですが、何とあの時の言葉は私も感動した。けれどもその子も感動したと言うのです。私と同じことを言うのですよ。その青年が…。だから教育者になるというのです。それで今からバングラデシュに帰るのだと…。けれども帰る時に一言お礼が言いたかったから来たのだと…。

もうね、感激しました。私はその時、実は折れそうになった気持ちもどこかにあったのです。人生には色んなことがありますからね…。けれども神様のお働きというものは私の考えているような、こんなものとは違うのですよ。勿論見えているものは本当に一部だけなのですね。ここから見えているって、こんなもんでしょう。けれども神様はバーッと見ておられる。大変なお働きの場に私をお使いくださっていると思ってね。嬉しくて嬉しくて。これが今、私がこういう御用をさせてもらおうと思った1つの理由ですね。
時間があと3分で1時間になってしまうのですが、少し延長させてください。

「AYCアジア青年センター」。世界連邦アジア青年センターのことです。私が今、会長をしています。昭和五十九年に発会を開いた。この第1回の会議にも私は行ったのです。この時はマドラスと言いまして、今はチェンナイという名前に変わりましたインド東部の大都市で発足して、今は去年で会員数が2万人程。会員になるのは1人が1年で5ドル払うのです。11カ国にメンバーシップがありまして、5ドル、今は500円ほどですが、5ドル払うと会員になれる。1年間の会費がですよ。何をする団体かと言いますと「社会奉仕」をする。ソーシャルサービス。社会奉仕をする団体がありまして、大多数がインドにあるのです。そのメンバーが一時期は5万人を超す時があった。

それはなぜかと言いますと、平成十六年。今から6年前ですか。12月26日、皆さんそれを聞いても分からないでしょうが、『ツナミ』と言った瞬間に分かるでしょう。『インドネシア・スマトラ沖大津波』で約30万人の方が亡くなった。1つの戦争があったくらいの人が実際に亡くなっている。あの津波でです。あの時に活躍したのがAYCです。約30年前にできた組織でしょう。丁度活発に動いていた。その上私はその前に、『阪神淡路大震災』を経験していますからね。このような時は何が必要かということが分かっているのですよ。それは水なのです。水が一番必要なのです。それで、その『阪神淡路大震災』を経験した私は、その翌日、27日にAYCの各支部に対してお金を送ったのです。今外国にでも銀行振みができまして、そのお金を27日中に現地で出してもらう。28日からは街角で、日本でも皆さん街でティッシュペーパーを配っているでしょう。あれと同じような感じで水を配ったのです。ペットボトルのような。日本ではペットボトルですが。向こうはペットボトルを使うほどお金がないので、ビニールの袋に蒸留水を入れてね、ゴムで捲いてね、これが一番安い。これが1ドル出すと当時で30個ほど買えたのです。だから1つ3セントくらいかな。

「人類共栄会」から送ったお金は、公の発表は百二十何万円だったですかね。しかし実際には泉尾教会は、色んなルートから500万くらい送っているのです。ともかく水を買えと…。そして通りかかった人に、だれそれ関係なしに10個でも20個でも良いから渡しなさいと。持たせなさいと。人間は水が無ければ生きれないと行動したのが、もう28日には水を配っているのですよ。それで感動した人たちが翌年に自分たちもそういう奉仕活動をしたいということで、約半年間程津波の後片付けの奉仕を一人5ドル出してしてくれた人が、メンバーシップが5万人まで増えているのですよ。今は2万人で、元に戻っていますけれどもね…。

何故直ぐに活動になったかと言いますと、丁度欧米では、こういう活動をしている団体は欧米が多いのですが、欧米って分かりますよね。欧米というのはヨーロッパとかアメリカとか、そういう意味です。その欧米のNGOのほとんどが休みだった。丁度クリスマス休暇に入っていたのですね。12月26日でしょう。24日から1月1日まで全部止まるのです。それで一番最初にAYCが動いたのです。たまたまですけれども、あのベンガル湾の辺にはAYCの支部が何カ所もあるのです。小さな組織メンバーまで入れたら100くらいあるのですよ。それがみな一斉にやり出した。私は思った。この時のために昭和五十九年に、親先生はAYCを創られた。そうでしょう。そのおかげで、何百人、何千人の人の生命が助かっているのですよ。私はその半年後にインドに行きました。そしてその村々に行った時、その支部の人たちがね、説明しているのですよ。

それは凄いですよ、200メートルくらい何もないのですからね…。柱と、便所の穴と、井戸だけで、あとは何も残っていない。壁が所々残っている。全部津波が海の中に引っ張っていったそうですね。おし寄せる時に壊して、そのあと引く時に全部持っていかれるそうですよ。200メートルくらいの幅で何時間車で走っても何もないのですよ。

元々そこにあったという漁村から内陸に300メートルほど入ったところに、日本で言うところのバラックの家々が州政府が仮の家として建てているのですね。翌年の6月にはそこへ行って実際の支援をしている網とかを渡したのですね。漁師さんたちですからね。その時に村民の方々が集まってきて、「誰ですか」と聞いたのでしょうね。支部の人が「私たちの支部のもう1つ上の組織の会長です」と答えたら、それは凄かったですよ。皆さんから握手を求められて…。

「あの時の水」が、と言っておられました。通訳さんが感激されましてね。泣いているのですよ。通訳さんがですよ。「私はこんな通訳をしたことがない」と…。インドの方ですよ。インド人の通訳さんが感激して泣いて。それまで三宅さんと言っていた通訳さんが三宅先生、先生と言うのですね。そのくらい感激したのでしょうね。

もうすでに時間になりましたね。この後ち質疑応答もありますが、最後にもう1つだけ。将来ということを話しておりませんからね。今までは現状だけをお話ししただけで、お約束は将来の展望もということでありましたので…。もう一寸だけ良いでしょうか。
それでは近々のことをお話しします。最初にお話ししましたが、『国際宗教同志会』という超宗派の組織があります。昭和二十二年1月に発会した組織で、今私が理事長をさせていただいています。これは例えば大阪で言うと神社であれば住吉さんとか今宮戎さんとかね、お寺で言うと四天王寺さんとかで、新宗教の方とか、色んな教団や組織が宗派を超えて56団体の方々が加わっておられる。

実は、私が最も尊敬している宗教家のお1人がダライ・ラマ法王猊下。ダライ・ラマ法王って皆さんご存知ですか。チベットですね。こちらとのご縁が、この『国際宗教同志会』というものを通じてあるのですが。『国際宗教同志会』のメンバーで、常任理事をお願いしています辯天宗の大森先生。辯天宗管長ですね。皆さん辯天宗と言っても分からないでしょうが、金光教も高校野球が強いですが、辯天宗は「智辯学園」ですね。それから平岡先生は「清風学園」。体操の池谷選手とか卒業しているでしょう。あの「清風学園」。このお2人の先生は常任理事でしてね。他にもおられますが、このお2人は仏教者でしょう。ダライ・ラマ法王猊下のインドの亡命政府の、上の寺院と下の寺院を過去にお供えされたことがある。寺院ってお寺ですけれども、実際お寺と言うのか、昔の日本のお寺ですよ。奈良時代とかのね。学問所でもあり、生活する場所でもあり、拝む場所でもある。約500人ずつのお坊さんがそこのお寺に住んで、勉強をしているのですよ。それを寄贈された。だから『国際宗教同志会』とダライ・ラマ法王猊下とは非常にコネクションが強いのですよ。それでインドのでダライ・ラマ法王猊下のところに、たしか3年前でしたか、『国際宗教同志会』から私の代理で私の弟が団長で、10教団ほどの先生方が、インドのダラムサラに行かせてもらった。その時の縁もあるのでしょうね。

今、ダライ・ラマ法王猊下が日本に来られています。そして法王猊下のご実弟様も。これは皆さん方にお誘いする訳にはいかないのですが、正確に申しますと「誰しも決して忘れない旅がある」という講題で、ガリー・リンポチェ師というダライ・ラマ法王猊下のご実弟様が…。その弟様は51年前に中国がチベットに攻め込んだ時に、ダライ・ラマ法王様のお兄さんと兄弟3人でヒマラヤを超えてインドへ逃げられた。お兄さんは亡くなりましたね。けれどもその弟様が7月1日に泉尾教会に来られる。さらにここから向こうは話して良いのかどうか分かりませんが、来年。来年とだけ言いますが、来年、ダライ・ラマ法王さまが大阪に来られる。その下準備に泉尾教会に来られる。

これは私は、未来に向けてと言っていますが、法王様は私の最も尊敬する宗教者のお1人です。それはね皆さん、これだけ聞かれたら「えー」っと思われて、あまり良い思いを持たれないかもわかりませんが、ダライ・ラマ法王猊下が1回講演をされたら、1回の講演のお礼が、変な話ですが6,000万円から1億円くらいです。しかし私はまだ安いと思う。それは何故か。ダラムサラには常に5万人の難民が居るのです。インドの亡命政府にですよ。その人たちには何の財もないのです。法王様は、ゲスな言い方をすれば、5万人を食べさせないといけないのです。そしてそのお金は法王様が世界を講演して回られるお金。ですから法王様はそのお金を一銭も頂いておられないのですよ。全く右から左に。法王様へのお礼と言っていますけれどもね…。

この前、私の弟がたまたま国際線の飛行機で、外国での飛行機で法王様と同じ飛行機でした。弟のことは法王様はご存知ですから、「おー三宅くん。」髭面なので髭をまれて、「おー三宅くん」と、法王様に言われたのです。こう髭が生えているのですね、私の弟は。法王様が何とエコノミークラスに座っておられるのです。世間では一寸偉くなればビジネスクラスだとかに座って…。会社での出張はしょうがないとしても、個人旅行でも、若い人でもいますね…。しかし法王様ですからね、国を代表している方なのだから飛行機1台くらいチャーターしてもって思うでしょう。日本では総理大臣とか、ともかく皆早く飛行機に乗りたい。日本国と書いた飛行機に、北海道から飛んで来いと言うて、東京からどこかへ外遊をするのですよ。法王様は一度お話をされたらそのお礼が6,000万円。年間10回されるとして数億円の。しかし数億円と言っても5万人で分けてみてください。1人1年で1万円程。それしか収入源がないのですよ。その人たちには、他に一切ないのですよ。
そして法王様もその人たちと同じ食事を頂かれるのですよ。法王様がです。飛行機はエコノミークラスに座っておられるのですよ。ホテルはさすがにセキュリティーのために安全なファイブスターのホテルを取られますが、セキュリティーのために泊まっておられるだけであって、法王様は別にどことはおっしゃらない。これが本当の宗教者ですよ。本当にそう思うと、私はどうなのかな。恵まれたことにお礼を申していると言っても、甘えてばかりいますね…。

いくら時間が延びても良いと言ってもらっても、そういう訳にはいけませんが、後はご都合を頂くという形で一旦休憩だそうですから、とりあえず一旦終わらせていただきます。有難うございました。

(連載終わり 文責編集部)

 


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