二代教会長夫人 故三宅壽賀子姫 葬儀特集

  1. 悲しみに溢れる聖地
  2. 故三宅壽賀子姫 略歴
  3. 各界から寄せられた弔電
  4. 主な会葬者氏名
  5. 喪主 ご挨拶
  6. 信徒代表 弔辞
  7. 葬儀後の祭事日程

悲しみに溢れる聖地故三宅壽賀子姫の教会葬 行われる

平成28年11月6日午前4時58分、先代教会長夫人、故三宅壽賀子姫が83年間にわたるご生涯を閉じられました。

故三宅壽賀子姫は、昭和29年、21歳という若さで教会後継者であった三宅龍雄師の元へ金光教の信心とは全く縁の無かった家から嫁し、神様一筋の厳しい大恩師親先生の下、身体の弱かった夫を懸命に支え、3人の息子様方を立派に育てあげられました。

当時は、日本の社会も泉尾教会も大いに発展拡大した時代でしたが、その過程における様々な困難もあったと思われます。その苦労を通じて、金光教の信心の要諦を体得していかれたことかと存じます。また、「世界に開かれた泉尾教会」の裏方を支える教会婦人として、内外の賓客を持てなしたり、時には遠く海外にまで足を延ばして、その重責を果たしただけでなく、地元大阪にあっても、大阪府宗教婦人連盟の第四代理事長を務めるなど、宗派教団の壁を超えて活躍し、83年間の生涯を全うされました。

本サイトでは、大奥様のお人柄とご功績を偲び、ご帰幽時から葬祭・告別式の様子、さらには五十日合祀祭に至る出来事を特集で紹介します。

二代教会長夫人ご帰幽

二代教会長夫人は、ここ数年来、現教会長夫人をはじめ、家族の手厚い看護の下、神徳館の教職舎内で安らかな日々を送っておられましたが、去る10月19日、いわゆる「危篤」の状態となられ、以来、19日間の長きにわたって一滴の水分も摂られないにもかかわらず、驚異的な最期の生命力を発揮され、三宅光雄教会長・三宅善信総長・三宅修神戸灘教会長ら、家族に見守られて、11月六日午前4時58分、満83歳と10カ月を玉の緒のいのちの限りと、帰幽(逝去)なさいました。ご容態が急変されて以来、ご帰幽なされるまで、泉尾教会広前および全国各地の出社広前では、信者による「切れず」の特別ご祈念が上げられました。また、この19日の間に、予めスケジュールが決まっていた10月25日の秋の大祭も、11月3日の神戸灘教会開教二十年記念大祭も、無事、仕えることがきました。

故三宅壽賀子姫葬儀告別式の様子

厳粛に営まれた終祭(遷霊式)

11月8日午後6時半、在りし日の優しいご遺影と、神前に供えられた2本の大きな胡蝶蘭による柱で荘厳された二代教会長夫人のご遺体が安置された会堂広前の神前で、終祭(遷霊式)が始まりました。諡号(おくりな)は「故三宅壽賀子姫(もとのみやけすがこひめ)」。遺族親族をはじめ、生前故人と親しかった各界からの特別参列者も席に着きました。和宗総本山四天王寺の森田俊朗管長、本門法華宗の松下日肆管長、神習教の芳村正徳教主、孝道教団の岡野正純統理といった宗教界の先生方以外にも、関西国連協会の吉村精仁本部長や大阪ユネスコ協会の中馬弘毅会長、また、二代教会長夫人が長年重責を担われた近畿宗教婦人連盟の大谷綾乃元総裁ら、故人とご縁のあった大勢の人々が駆けつけました。

終祭で玉串を奉奠する喪主三宅光雄教会長

神事は粛々と進められ、柩前では、祭主の玉串奉奠、遷霊詞奏上、喪主(三宅光雄教会長)の玉串奉奠の後、消灯された広前で、祭主湯川正夫師による遷霊行事が行われ、新霊舎へ転座した後、祭主の玉串奉奠、鎮霊詞奏上、喪主・遺族親族の玉串奉奠、教内と各宗派からの特別参拝者や一般参列者の玉串奉奠で終了した後、三宅善信総長が喪主に代わって会葬者へのお礼の挨拶を行った。終祭(遷霊式)終了後の広前には、「大奥様のご遺体とこの世での最期の晩を共に過ごしたい」という熱心な方々が、夜を徹して祈りを捧げている姿が印象的でありました。終祭の参拝者が家路に辿り着くのを待っていたかのように、この夜は、激しい雨風でした。

終祭で遷霊詞を奏上される祭主湯川正夫玉水教会長

各宗派の参列者が集い 盛大な葬儀

11月9日、昨夜来の風雨ですっかり清められた「聖地泉光園」は、沈痛な朝を迎えました。二代教会長夫人の教会葬は、午前11時半開式ですが、既に9時半頃には、各界からの参列者を乗せた車が次々と到着しました。先代教会長夫人の葬儀としては異例の、神道扶桑教の宍野史生管長、元全日本仏教尼僧法団総裁の六條祥瑞門跡らをはじめ、故人の遺徳を偲んで多くの人々が列席されました。

葬儀告別式で玉串を奉奠する喪主三宅光雄教会長

葬儀の祭事は、前晩と同じく湯川正夫師祭主の下、8名の祭員によって仕えられ、二代教会長夫人の大きな遺影が祭壇正面に掲げられた広前での祭儀は荘厳な雰囲気で進行し、祭主による誄詞(るいし)奏上は故人の広範囲にわたる業績を称えて二十数分間にも及びました。喪主三宅光雄師の玉串奉奠に続いて、信徒を代表して、廣瀬多美子前婦人会長が弔辞を述べ、参会者の涙を誘いました。

永久のお別れ

参拝者全員による玉串奉奠の後、葬祭が終了して、いよいよ永久の別れの告別式となりました。故三宅壽賀子姫のご遺体が安置された御柩には、遺族親族等によって白い胡蝶蘭が詰められ、次男の善信総長とその2人の令息、三男の神戸灘教会長とその令息、甥の三宅道人常盤台教会長らの遺族によって担がれた御柩は、喪主の三宅光雄師がご遺影を奉じて先導し、葬儀の行われたお広前から会堂正面大階段、参道へと大勢の信者が見送る中を進み、信者からは自然と「一心御神願一心…」の連唱が湧き起こりました。

会堂正面階段から火葬場へと出立される故三宅壽賀子姫

正門で待ち受けた霊柩車に到着した御柩に、三宅光雄教会長の先唱で最後のお礼のご祈念を上げた後、「大奥様ありがとうございます」と口々に叫ぶ信者たちを後に、霊柩車は聖地泉光園を後にし、火葬場のある小林斎場へと車輪を進めました。

旬日祭と合祀祭

葬後霊祭の後も、11月15日には、梅谷吉次郎芦原教会長先生のご祭主の下に十日祭が、24日には、大野信治白川橋教会長先生ご祭主の下に二十日祭が、12月4日には、渡辺順一羽曳野教会長先生ご祭主の下に三十日祭が、15日は、故三宅壽賀子姫の初孫である三宅恵先生ご祭主の下、それぞれに旬日祭が広前右側の新霊床でしめやかに仕えられました。17日には、玉水教会長先生ご祭主の下に、五十日祭ならびに合祀祭が仕えられ、翌、18日には、和歌山市堀止の三宅家奥城で納骨祭が仕えられました。

故三宅壽賀子姫五十日祭・合祀祭の様子

二代教会長夫人 故三宅壽賀子姫 略歴

昭和8年(1933)

1月17日

滋賀県高島郡高島町(現、高島市)生まれ。
父、興亜繊維株式会社社長 北村伊平治、母、ふじの三女。

「壽賀子」という名前は、母方の遠戚で朝香宮鳩彦王殿下のご生母角田須賀子

昭和25年 (1950)

3月

滋賀県立高島高校卒業。

昭和27年 (1952)

7月

ミス琵琶湖に選出。

昭和29年 (1954)

12月

金光教泉尾教会長三宅歳雄師の長男、三宅龍雄師と結婚。

昭和31年 (1956)

3月

長男光雄(現、泉尾教会長)誕生。

昭和33年 (1958)

7月

次男善信(現、春日丘教会長)誕生。

昭和35年 (1960)

5月

三男修(現、神戸灘教会長)誕生。

昭和45年 (1970)

10月

ザフルーラ・カーン国際司法裁判所長官を修学院離宮に案内。

平成2年 (1990)

7月

ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世と謁見。

平成3年 (1991)

4月

ジミー・カーター元米国大統領夫人を海遊館に案内。

平成4年 (1992)

10月

コスタリカの国連平和大学ミヤケホール起工式にロドリゴ・カラゾ前大統領と共に出席。

平成6年 (1994)

9月

金光教泉尾教会婦人会連合会長(第2代)に就任。

平成13年 (2001)

3月

大阪府宗教婦人連盟理事長(第4代)に就任。

平成16年 (2004)

12月

金婚式を祝う。

平成17年 (2002)

5月

カンボジア王国チヴァン・モニラック殿下をお招きして晩餐会。

平成17年 (2005)

5月

大阪府宗教婦人連盟理事長として、第50回近畿宗教婦人連盟大阪大会を開催。

平成18年 (2006)

3月

夫、三宅龍雄師(泉尾教会長)帰幽。

平成22年 (2010)

1月

喜寿を祝う。

平成28年 (2016)

11月6日

帰幽。享年83。

各界から寄せられた弔電

(順不同・敬称略)

宗教界

和宗総本山四天王寺 管長
森田俊朗

ご母堂様のご帰幽の報に接し、衷心より哀悼の意を表するとともに、御霊の安らかに鎮まり給うことをお祈り申しあげます。

本門法華宗 管長
松下日肆

ご母堂様のご逝去の報に接し、お悔やみ申しあげます。ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、母上様のご生前のお姿を偲び、謹んで哀悼の意を表します。皆様、お疲れの出らませんよう、くれぐれもご自愛くださいませ。

辯天宗 管長
大森慈祥

ご母堂様のご逝去に接し、お悲しみをお察し申し上げますとともに、衷心より哀悼の意を表します。安らかにご永眠されますよう、お祈りいたします。

WCRP日本委員会 会長
立正佼成会 会長
庭野日鑛

金光教泉尾教会先代教会長・三宅龍雄先生に寄り添い、多大なご聖業を陰に陽にお支えになられました三宅壽賀子様のご逝去の報に接し、光雄先生はじめ、ご親族、ご信者の皆様のお悲しみは如何ばかりかと拝察し、心よりお悔やみ申し上げます。

ご生前に賜りましたご厚誼に感謝の誠を捧げると共に、ご高徳を讃歎し、謹んでご冥福をお祈りいたします。

世界連邦日本宗教委員会 会長
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

ご母堂様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげます。安らかにご永眠されますようお祈りいたします。

大本 教主
出口 紅

御母堂様のご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます。ご生前に賜りました数々のご厚誼ご厚情に深く感謝を申し上げますとともに、心より天界での「み幸い」をお祈り申し上げます。

神習教 教主
芳村正徳

御母堂様のご逝去の報に接し、謹んでお悔みを申しあげます。ご遺族の皆様のお悲しみをお察し申しあげますとともに、安らかなるご冥福を心からお祈りいたします。

円応教 教主
深田充啓

ご母堂様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げます。ご生前中には先代教会長龍雄先生を陰より支え、献身的にお働きになっておられたお姿が思い出されます。ご夫婦共々に、世界恒久平和に向けての活動をされていた先生のご功績をお偲び申し上げ、心からご冥福をお祈り申し上げます。

松緑神道大和山 教主
田澤清喜

御母堂様の突然の悲報に接し、心から哀悼の誠を捧げます。二代親先生のご令室として重責を担われたご生涯と共に、ご信者の皆さまの母として、常にすてきな微笑みをもって、温かくお導きくださったご生涯と拝察いたし、皆さまの悲しみも深いことと存じます。

尊いご生涯とご功績に心から敬意を表し、謹んで亡き御霊のご平安をお祈り申し上げます。

妙智會教団 法嗣
宮本惠司

ご母堂様のご逝去の報に接し、愁傷の思い深く心より哀悼の意をささげます。ご生前大恩師親先生、二代親先生そして三宅光雄教会長先生と三代にわたり、御心を捧げられ、国内外諸宗教者間の対話と平和活動に多大な御支えをなされました。

さらに永年にわたりWCRP婦人部会をはじめ、宗教協力活動を通じ、世界の宗教をもつ婦人の使命の向上に貢献なされましたご尽力に敬意を表しますと共に、賜りましたご芳情に感謝申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

崇教真光 教え主
岡田光央

ご生前のご厚情に深く感謝申しあげますとともに、ご功績を偲び謹んで哀悼の意を表します。

大和教団 教主
保積秀胤

ご母堂様のご訃報に接し、心からの哀悼の意を表します。在りし日の姿を偲び御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。

念法眞教 燈主
稲山霊芳

ご母堂様のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

日本ムスリム協会 会長
徳増公明

ご母堂様のご逝去に際し、心より哀悼の意を申しあげます。ご母堂様が神仏のご加護で、天国に迎えられますよう、衷心よりお祈り申しあげます。

近畿宗教連盟 理事長
荒木元悦

ご母堂様のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

近畿宗教婦人連盟 総裁
伏見誓寛

ご母堂様のご逝去の報に接し、ご家族皆様方のお悲しみ、ご落胆はいかばかりかとお察しいたします。謹んでお悔やみを申し上げますとともに、安らかにご永眠されますよう、心からご冥福をお祈りいたします。

大阪府宗教連盟 理事長
寺田裕司

ご母堂様のご訃報に接し、心より哀悼の意を表します。ご家族皆様方のお悲しみをお察し申し上げますとともに、謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

京都仏教会 理事長
有馬頼底

ご母堂様のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみを申しあげます。ご遺族の皆様のお悲しみをお察し申しあげますとともに、安らかなるご冥福をお祈りいたします。

大阪府佛教会 会長
井桁雄弘

三宅壽賀子様のご訃報に接し、お悲しみをお察し申しあげますとともに、衷心より哀悼の意を表します。


以下、同趣旨につき、ご尊名のみ掲載いたします。

主な会葬者氏名

(順不同・敬称略)

宗教界

諸団体

喪主 ご挨拶

喪主 三宅光雄

昨夜は終祭遷霊式、只今は葬儀告別式を、金光教玉水教会長先生ご祭主のもとお仕えいただき、有難うございます。

母は昭和8年1月17日、滋賀県で、北村伊平治、ふじの三女として生まれ、21歳で泉尾教会長の後継者である私の父の元に嫁いで参り、今日まで62年であります。

その間、泉尾教会長でありました私の祖父であります三宅歳雄、そして祖母のツ子に仕え、先代教会長である父・三宅龍雄を頂き、私を始め3人の子を育て、更にはそれぞれに嫁を迎え、孫が8人であります。その8人のうち、私の娘3人が教師のおかげを頂き御用に使っております。さらには、1人が学院生、あとの孫は大学院生と大学生と、それぞれにおかげを頂かせていただいておりますのも、全て母の大きな祈願、慈愛の賜物だと感謝いたしております。

母は3年前、1,000日ほど前から寝たきりになりました。母は10年前に父を送らせていただいた時に、「もし許してもらえるならば、私は最後は教会の奥の間で…」と申しておりましたので、そのようにさせていただき、よほどのことがない限り病院のお世話にならないようにさせていただいておりましたが、先月19日の夕方6時過ぎに私の部屋に電話がありまして、その日は泉尾教会の一番古い出社であります奈良県にあります南田原教会85年の記念大祭でありました。私はちょうど教会へ戻って来たばかりでありました。家内が「直ぐに奥に来てください…」。

10月19日にご危篤になられてから18日間。その前から点滴等のものを受けつけないようになっておりました。ただ口からは少しだけでしたが頂けていたのですが、その口からも、勿論水までも受けつけなくなったまま、18日間おかげを頂いておりました。そしてその間に、泉尾教会の秋の大祭を始め、何ヶ所かの出社教会で記念大祭のおかげを頂きました。

私は最初、一所懸命に母を祈らせてもらっておりましたが、3日程しますと、母が病床から私共のことを祈ってくださっているのだと、そのように気付かせていただきました。本当に最後の最後までご苦労をかけてと、そのように思わせていただきました。
今思いますと、本当に多くのことを母に教わり、お育ていただきましたが、その中でも一番の母の願いは何だったのかと思いますと、泉尾教会の後継ぎとして、本当に不十分な私ですから、その嫁であります家内・孝子を、自分の子のように、そして教会の台人(だいびと)としての御用ができるようにと、只々それを、それが自分の御用だとしてくださっていたことを、今気付き、感謝いたしております。

そして母は、今からは私共の中に生き続けるのだと、このように思わせていただいております。

その母の願いを受けて私は、「しっかりとさせていただきます」とお誓いをいたしまして、お別れの言葉にさせていただきたいと思います。

ご縁を賜りました多くのご教団の先生方を始め、教内の先生方、更にはご信者の皆様方には、本日はお忙しい中、ご参拝を賜りまして、心より感謝いたします。有難うございました。

信徒代表 弔辞

弔辞

金光教泉尾教会 信徒代表
廣瀬多美子

大奥様……。今ここに大奥様にお別れの言葉を申し上げなければならないことは、誠に悲しく、寂しい心で一杯でございます。

大奥様には、永年の間、信徒の私共をお祈りくださり、特に婦人会におきましては、前婦人会連合会長として、私共をご指導くださいました。本当に有り難うございました。

大奥様は、金光教の信心とは全く縁のなかったご家庭から、二代先生のもとにご縁を頂かれました。ご結婚当初より神様一筋の大恩師親先生の下で、厳しいお仕込みを頂かれつつ、幾多の困難もあったことと思わせていただきますが、大変な辛抱と努力でそれを見事に乗り越えられました。裏方として二代先生を支えながら、3人の御子息様を立派な先生として育て上げられました。そのご苦労の程は如何ばかりであったかと思いますと、まさに台人としての信心の見本として頭の下がる思いでございます。

また、お教会の外におかれましても、大阪府宗教婦人連盟において、役員として永年重責を担われ、平成13年には、第4代理事長に就任なされ、ご活躍されました。私共は、その大奥様のご活躍のご様子を拝ませていただき、これまでのご苦労が大きく実を結び、鮮やかに花開いていることを嬉しく拝ませていただき、立派なお美しい大奥様を誇りに思わせていただいておりました。

大奥様との思い出が、今、私の胸裡に数知れず駆け巡っておりますが、言葉に言い表しようもありません。唯々、「有り難うございました」の言葉のみでございます。

しかし、晩年には、ご体調が優れず、ご自宅でご養生されているとお聞きしていましたが、お目にかかる機会も少なくなったまま、ご家族の皆様の手厚いご看護をお受けになりつつ、ご自身は最期の最期まで、ご家族をはじめ、信徒の皆の信心と幸せを祈り通されて、83歳の有り難いご生涯を全うなされました。私共は、心からの寂しさ、悲しみをおさえることができません。

ここに、大奥様の尊いご生涯をお偲び申し上げますと共に、大奥様が御一生の身を以て示されました、婦人としての台人の道を決して忘れることなく、見習わせていただき、来年1月22日の「御布教九十年記念大祭」に向かって信心精進させていただきますことを誓わせていたきまして、これを以って信徒を代表いたしましてのお別れの言葉とさせていただきます。有り難うございました。

平成二十八年十一月九日

葬儀後の祭事日程

十日祭
11月15日(火) 13:00より
二十日祭
11月24日(木) 13:00より
三十日祭
12月 4日(日) 14:00より
四十日祭
12月15日(木) 13:00より
五十日祭・合祀祭
12月17日(土) 11:00より
納骨祭(三宅家奥城) 
12月18日(日) 14:00より
百日祭
2月4日(土) 14:00より

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