なんでもの願い 序文

「信仰は幸福の母」





第253世 天台座主 山田恵諦

私が始めて泉尾の教会を訪れたのは多分教会開数50周年の記念式典のときであったと思う儀式が荘重であったこと教会長としての三宅先生のお祈りの言葉が神も信者も建物もすべてが一つに融けこんで別世界に変化した環境の中で朗々と響きわたった印象が今もはっきりと脳裏に残っている旧来の神社形式と異り普通の寺院と同じように神殿と祭式場と信者参拝場が一堂の内に縦列して数千の信徒が参拝して仰ぎ見る中で行われたのでその厳粛さがより一層に採く感じたからであるかも知れないが日本の宗教という尊い気分を味うことが出釆たことはありがたいことであった。

三宅先生に交りを得たのは昭和51年の秋にシンガポールで開かれた第1回アジア宗教者平和会議の時であったかと思う。その後泉尾の教会にお伺いしてお話を承ることもあれば宗教者の会合でお目にかかる機会を持つことも多くなったがいつお目にかかっても信仰一途で謹厳実直その上寡言のお方という印象をうけているので今回刊行せられる『なんでもの願い』を読ませて頂いたとき神人一如の教説が綴られていると受取らせて頂いた言々句々すべてが信仰の結晶であり神の声である始めて泉尾教会の生立ちを承ったとき幸運がお手伝いをしていると思うたがこの本によって幸運ではない神が授けられたのだ神が造られたのだと知った信仰ほど強いものはない信仰心がそのまま神に通したとき神のみ力が即坐に現実に響く土地を得られた経緯建築士が拝める宮の一言に感じて設計せられたことなど私にはそのすべてが神の思召しであリ神の恵みであリ神のおはからいであることが判る仏教に説く感応道交である信仰に曇りがあってはこれを得ることは出来ない一に三宅先生の曇りなき信仰が神に教会を建てて頂かれたのである。

救われるありがたさを知る人には必ず神の恵みがある。よき因縁を得ること。これが第一の条件てご先禎の徳父母の徳前世の宿業が縁を結よよすがになるがこれらの徳を自分の行いだけでなく神や仏を通じて項くと神や仏はそのお徳を添えて投けて下さるからより一層に良縁が得られるこれが信仰の力である信仰する人には迷いがないから常に心を清く保つことが出来る清い心は必ず真実に結びつき真実は徳を生み徳はすべてを成功させるこれを妨げようとする力を神や仏が除いて下さるからよき因縁が結ばれ書き結果が生れるのである三宅先生が信仰は実行であるといっておられるのはこのことである先生が泉尾教会の経営や信者さんへのお取次ぎに合せて海外にまで導きを弘められたそれらが時期を同じうしていることが信仰が善緑を生み善縁が神のお恵みを弘げる結果となっている三宅先生の生涯は信仰によって実行を生み実行によって信仰を深め深められた信仰の力が神の恵みとなって数千数万の信者がお陰をうけているこのあかしがこの『なんでもの願い』で始めてこの本を読む人をも知らぬ間に信仰の道に入らさせている力を持っている従ってこの本は単に60年の記録でなくそのままが導きの教説 である信徒の方だけでな(広く一般の人殊に青少年に読んで貰いたい本である。

信仰は道の元であるり、徳行の母である従って信仰は忍耐力が必要である忍耐は一人ではくずれ易いこの故に昔から仲間を組みお互に励まし合いながら忍耐をつづけるこのことも『なんでもの願い』は教えられている三宅先生がご両親を徳としておられる点夫人や家族を大切にしていられる点がここにある一家中全員が揃うて同じ信仰の道を歩み信仰の生活を営むことが出来れば此の世に於ける最上の幸福である三宅先生のお手元で育てられた人は随分と多いその多くの人が家庭を持ってから生涯の親さまとして盆正月の挨拶はもとよりのこと平常何があっても家族ぐるみでお手伝いに来られると聞いている。信仰一途に60年を過されたお徳であリ神徳を承けておられる証拠であるいつまでもご健康で長く長く導きを施して下さることを祈念して序文とする。

 六十年のお導きを永遠の導きに替えたご本それがこの『なんでもの願い』である  昭和六十一年十一月


金光教泉尾教会

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