三宅龍雄大人を偲ぶ会での来賓諸師のご挨拶と献杯の辞

(敬称略)

三宅龍雄大人を偲ぶ会
ご挨拶

高野山真言宗 前管長
松長 有慶

高野山真言宗前管長 松長有慶猊下
高野山真言宗前管長
松長有慶猊下

失礼いたします。僭越ではございますが、こうしてお歴々の中で最初にご挨拶をさせていただく栄誉を得ましたことに厚く御礼申し上げます。私がここに立たせていただくのは、私が龍雄先生と歳が近いので―年齢は龍雄先生がひとつ上、学年でいえば2つ上です―、それほど年寄りだということで上げていただいたのだろうと思いますので、ご了承いただければと思います。

司会の方のご紹介にございましたように、三宅龍雄先生には、「現代における宗教の役割研究会(略称=コルモス)」でいろいろとご指導を賜りました。当時、コルモスには歳雄先生もお出でいただいてましたが、龍雄先生にはコルモスの中心的な役割を担っていただきました。思い返せば、もう30年以上も前の話です。

本日も、このコルモスの事務局を長年お世話いただいている浄土真宗本願寺派の佐々木正典先生がお見えですが、私にとってコルモスとは、目から鱗が落ちるような非常に画期的な意図を持った会でございます。仏教各派、神道、キリスト教といったそれぞれの宗派の垣根を全部取り払って、裸になって宗教というものを考えようじゃないかという場ですが、毎年年末に京都で1泊2日で開催されています。

既に鬼籍に入られた先生方が多数居られますけれども、いつも龍雄先生から適切なご助言や温かいご指導を、あるいはいろいろな形で叱咤激励していただきました。その意味で、龍雄先生はコルモスの育ての親のお1人といっても過言でない方だと思います。それ以後、光雄先生、そして善信先生が、コルモスの場で積極的に世界的視野でもって発言をされる…。やはり、「宗教者はこうあらねば…」という感を強くした次第です。

今日も龍雄先生のお写真を目の前にしながら、龍雄先生が紡がれたご縁が、コルモスという場においていろんな形で芽を吹く端緒となったことを思い返しております。今日、偲ぶ会にお集まりになられた皆様方と共に、金光教泉尾教会のさらなるご発展を祈念したいと思います。本日は有り難うございました。



ご挨拶

日本WHO協会 理事長
元大阪市長
關 淳一

元大阪市長 關淳一先生
元大阪市長
關淳一先生

皆様、こんばんは。大変場違いな場に出てまいりましたが、今日は宗教界をはじめとするさまざまな分野の方々のお集まりの場で「私にスピーチをせよ」と、つい2、3日前にご下命がございましたので、今日は大変緊張してやってまいりました。

ただ今ご紹介にありましたように、三宅龍雄先生とは、確か昭和46年に初めてお会いしたと思います。当時私は、大阪市立大学の第2内科で糖尿病の専門家である和田正久教授の下で臨床医として仕事をしていたのですが、その私どもの第2内科へ三宅龍雄先生が来られました。他の医療機関で糖尿病あるいはその疑いとの診断を得たため、その医療機関からの紹介で、専門のドクターにキッチリと診断と診療をしてほしいということでした。

当時のことを若干ご説明しますと、和田教授は昭和39年に大阪大学から大阪市立大学に来られた方でしたが、非常に変わった方で「天才となんとやらは紙一重」と申しますが、彼はどちらかというと後者に近い方でした(会場笑い)。ただ私にとっては終生の恩師として、その下で二十数年学ばせていただきました。そういうところへ龍雄先生が来られた訳です。

「医者は病気を診るのではない。人を診るのだ」というのが、和田教授のひとつの理念でした。体の状態を診るのはもちろんですが、それに加えて精神的にはどうか、社会的にはどうか、経済的にはどういう状況の方か、家庭内の位置は大事にされている方なのか、それとも邪魔者扱いされている方なのか、友人関係はどうか、そして、時にはその人の人生観や価値観といったものを理解せずに、診断、特に診療はできないと強く言っておられました。和田先生は、就任するなりすぐに「僕に教授室は要らない」と言って、教授室の扉に板を打ち付けて蓋をしてしまいました。そして、外来の診療室に据えた本箱にすべての蔵書と文献を置き、日々患者を診ながら「これはどうか?」と思うことがあると直ぐに本を出して読み、書いてあることとちょっと違うと思うと、われわれを呼び「君だったらどう思うか?」と訊(き)くような、非常に特有な方でした。

和田教授は、特に外来主治医制を厳密にされました。入院患者の主治医制はどこの病院でもありましたが、外来主治医制は当時はまだありませんでした。ずっとその患者さんの責任を持つ立場で、きちっとやるようにということでした。ですので、外来の患者さんの主治医になりますと、その人の話を聞いてずっと相談に乗るということをやっていました。そのような環境に龍雄先生が来られたので、それ以来、帰幽される平成18年までの三十数年間の長いお付き合いになりました。ただ、私は平成4年から予想外の行政の道に入ってしまったため、龍雄先生の晩年は直接の主治医ではなかったのですが、私のグループの後輩にあたる非常に信頼できるドクターが主治医でしたから、常々、状況の報告は受けておりました。

私は今でも龍雄先生とお知り合いになって良かったと思っています。その理由のひとつに、龍雄先生が非常に勉強家であられたことがあります。外来に来られる時は常に本を携えて来られ、ちょっとした待ち時間でも、熱心に本を読んでおられました。ある時、和田教授が私の所へ「三宅龍雄さん、凄いよ。アラビア語―あるいはギリシャ語かヘブライ語だったかもしれません―の本を読んでおられたよ」とわざわざ言いに来られたこともありました。奥様にお聞きしましても、どんなに忙しくても勉強の時間をきっちり確保することを終生続けておられたということでしたが、私も龍雄先生の学問に対する姿勢に大いに学ばせていただきました。

また、龍雄先生は非常に家族思いの方でした。奥様も非常によくできた方で、診療の際は必ず一緒に来ておられましたが、いつもいろんなことを尋ねておられました。ご主人だけでなく、3人の子供さんたちが困っていないか、健康状態はどうかと常に気に掛けておられました。同時に非常におおらかで聡明な方で、お話をしていても何かを感じる方でした。

そういうご縁を頂き、私も非常に長い間、龍雄先生のご一家の近くに居させていただき、本当に感謝しております。今は、教会長さんをはじめとする3人のご子息の方々のチームワークで教会を運営されていますが、これからも泉尾教会が社会の方々のために役に立つ活動をされますことを心から祈念いたしまして、私の偲ぶ言葉にさせていただきたいと思います。駄弁を弄しましたが、ご清聴有り難うございました。



献杯のご挨拶

金光教玉水教会 教会長
湯川 正夫

金光教玉水教会長 湯川正夫先生
金光教玉水教会長
湯川正夫先生

献杯の準備の間、一言ご挨拶させていただきます。本日の泉尾教会での祭典で龍雄先生のご遺影、そしてこの偲ぶ会の正面のお写真を拝見し、16年前に私が玉水教会の後を継ぎ教会長にならせていただいた時のことを思い出しておりました。その年に、新任の教会長の研修会が金光教の本部でございまして、その時に龍雄先生がやはり新任の教会長として来られました。参加者はだいたい四十前後の方がほとんどで、私自身も37歳でしたが、その中に龍雄先生が72歳で入って来られて、ひときわ長老のような感じでした。けれども、龍雄先生は偉そうにするでもなく、自分より二回りも若年の先生方と気さくに話をされておられました。

また、泉尾教会の大祭の日に、祭が終わりましたら、いつも玉水教会にお礼参拝に来られました。だいたい夕食時に来られるのですが、当時教会長だった父の代わりに母が会いに行かれるのですが、10分経ち、20分経っても母は戻ってきません。ついに30分ぐらい経つと、父に「お前が行って呼んで来い!」と言われ、様子を見に行くと、母と非常に楽しそうに話をしておられました。私が行ってからもさらに10分ぐらい話をなさっておられましたが、とにかく話が好きな先生だったと思います。

龍雄先生は、教会長としては結局、6年半しか御用をなさらなかった訳ですけれども、歳雄先生という非常に厳しい先生の下に生まれ育ち、教師となられてからは「一乃弟子」として40年近く御用をなさった。教会長としては6年半でありますけれど、その6年半は何十年間に匹敵する御用だったのではないかと思います。今日の祭でご祭主がご霊殿の前で祭詞を上げられるを聴かせていただていると、ふと「今日の十年祭は、龍雄先生の生前の功績を称えて、神様ご自身がお仕えしてくださっているのではないか…」と思わせていただいた次第です。

今日のお天気にしましても、やはり神様がお繰り合わせくださったように思います。龍雄先生がお隠れになって10年経ちましたが、生前中のお働き、そして亡くなってからの10年のお働き…。そういう中で、今の教会長先生が、変わらずに泉尾教会で御用できているのではないかと思います。それでは、龍雄先生の生前のお働き、霊としてのお働きにあらためてお礼を申し、献杯を上げさせていただきたいと思います。先生、有り難うございます。献杯!



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