三宅歳雄師を偲んで(各界から寄せられたメッセージ)  
(順不同・敬称略)


■三宅歳雄先生の想い出

一燈園当番
西田多戈止

三宅歳雄先生と私の祖父西田天香の記録に残されている初めての出会いは、昭和22年2月、国際宗教同志会の発足の頃と推察します。同志社総長牧野虎次先生、八坂神社高原美忠先生、大本出口伊佐男先生、金光教三宅歳雄先生、そして一燈園西田天香等が中心となって結成されました。その中でも三宅歳雄先生が一番若い先生でした。私も昭和30年頃から祖父の供をして宗教同志会に何回か出席したので、随分早くから三宅先生にお会いした記憶があります。先生は祖父より三十歳ほど若いのですが、祖父は三宅先生を評して、「高橋正雄先生を彷彿(ほうふつ)させる」と申していました。

大正10年年発刊の著書『懺悔(ざんげ)の生活』の中で、祖父は高橋正雄先生と十字街頭(註:「一燈園の施設は園生活の門にすぎない。路頭から路頭への托鉢生活こそ常住場である」という一燈園の理念を表した言葉)の安居(あんご)(註:本来は仏教用語で、それまで個々に活動していた僧侶たちが一定期間、一箇所に集まって集団で修行することの意)場所である金光町の「山の家」に訪ね、「夜の更けるまで楽しく語り合い、四、五人が数枚の毛布を引っ張り合うようにして寝た」と想い出を書いています。「翌朝目が覚めると、高橋さんは何もない床の間に向かいひたすら祈っておられる。その祈りの姿は極度に謙遜な態度であって、静寂な一夜であった」とも書いています。

昭和35年12月、米国アイオワ州立大学の比較宗教学を専門とするマーカス・バッハ博士が日米親善日本宗教視察団を組織して来日され、国際宗教同志会の参加教団を視察して回られました。もちろん、金光教泉尾教会も一燈園も視察されましたが、敗戦後の日本の宗教人たちが極めて霊的(スピリチュアル)であり、またアメリカの宗教界と違って、他教団と仲良く協調している姿勢に驚かれたとのことです。

また日本側も、バッハ博士の敬虔で、それぞれの宗教の真髄を拝み学ぼうとされる姿に感動したと伝えられています。バッハ博士は日本の宗教者をアメリカに招き、日本の宗教者を自国の宗教界に紹介すると共に、日本の宗教界の相互理解、協調の姿も見せて、今後日米の宗教者が協力して、戦後の復興と世界平和に貢献する道を拓きたいと願っておられたようでした(註:当時は1ドル360円の上、外貨の持ち出し制限が厳しく、民間人の外遊はままならなかった)

米国宗教視察日本宗教界代表団は、三宅歳雄先生が団長を務められ、大村仁道先生(全日仏)、高辻恵雄先生(浄土真宗本願寺派)、岡田実先生(鶴ヶ岡八幡宮)、篠田康雄先生(熱田神宮)、桜井重雄先生(大本)、鴨宮成介先生(立正佼成会)、楠正俊先生(新宗連)、丹羽孝三先生(成蹊学園理事・カトリック)と私(一燈園)で、通訳は一燈園の黒川直也氏の11名、昭和36年10月27日から11月23日までの28日間に、ロサンゼルス→デンバー→アイオワ→シカゴ→カンザスシティ→ダラス→フォートスミス→リトルロック→デトロイト→ミネアポリス→ニューヨーク→ワシントンの約9,000マイル(1万4千キロ)を廻り、大学での講演会12回、宗教界との懇談会20回、一般市民との会合16回というハードなスケジュールでしたが、三宅先生はエネルギッシュに見事に大役を果たされました。

28日間の長旅、緊張の毎日。その上、宿舎は信者さんの家に分宿や宗教施設が多くて、ゆっくり休養できるホテルが少なかったことから、宗教者と雖(いえど)も不満がくすぶることが再々でした。団長の三宅先生は他の人よりもっと疲れているはずであるのに、辞を低くして自重を求められる姿は、印象的でした。三宅先生はその時58歳と推察されますが、ひとえに神様に祈り、神様に仕える姿勢で、団長としての務めを果たされたと感じています。

カンザスシティから120マイル(200キロ)程のコロンビアという町にあるステファンカレッジ(上流家庭の子女を対象にした全寮制の女子短期大学)に招かれた時のことです。私たちは4つに分けられ、芝生の上で学生たちと歓談したのですが、私は三宅先生と同じグループでした。学生たちは三宅先生には金光教の神と救いについての質問…。その後、私が一燈園(生活)を説明することになりました。

私が「一燈園は宗教としては特定の神仏を持っているのではない。宗教的共同体の姿になっている。創始者の西田天香は32歳の時、平和な争いの種を持たない生活を実証しようとして、それ以前の、お金が欲しくて、争いの種をまきながら蓄えた家財から無一文で飛び出し、『奉仕したら生かされてゆく』ことを信じて新生涯に入った」と説明を始めると、早速質問が飛んできました。

それは「家財をどのように処分したのか?」という質問です。私にとっては、路頭に発つ、そこから救われてゆく過程が大切なのですが、学生たちは「どこに寄附したか?」と財の行方にこだわっていたのです。私が日本を出発する直前に商社の幹部のある方から、日本では「犬は4本の足がある」と言い、欧米では「犬は4本の足を持つ」という。この違い…。と書いたハガキを頂戴したが、多分このくい違いでしょう。三宅先生はさすがに経験豊富で学生たちを納得させてくださいました。

昭和45年10月、京都で初の世界宗教者平和会議(WCRP)が開催されましたが、その3カ月前に三宅歳雄先生(以降、親先生)が一燈園にお越しになり、「秋に世界から大勢の宗教人が京都に集まり、平和の創造について祈り語り合う。天香さんに出席してもらいたかったが(2年前に96歳で帰光=逝去している)、代わりにあなたが是非出席するように」と勧めてくださいました。私は「一燈園は宗教法人としてのお付き合いはしていませんが…」と辞退させていただきましたが、親先生は「だからこそ天香さんはどの宗教人からも尊敬されているのです」とおっしゃって、WCRPに参加の道を作ってくださり、また常に私を指導し、また格別に可愛がってくださいました。

その私が宮崎県の日南海岸で、大自然や地球に感謝する思いを人々に伝える21世紀型の公園を創ることになり、公園の名前から太陽の心を感じいただくということから「サンメッセ日南」としました。施設の中心には『地球感謝の鐘』を造る。それも日本の仏教・神道・キリスト教も加わった宗教協力で創ることを発願しました。そしてこの思いを一番最初に親先生に聞いて欲しいと思いました。しかし、平成6、7年頃、親先生は既にご高齢で、WCRPの役職は龍雄先生が引き継いでおられました。龍雄先生は快く私が親先生にお願いする場を作ってくださいました。

その日、泉光園の応接室で久し振りに親先生にお会いしました。親先生は想像していたよりもずっとお元気でした。龍雄先生も光雄先生も聞いてくださっている中で、私が地球感謝の鐘にかける夢を話していますと、親先生はふと立ち上がって応接室を出て行ってしまわれ、ご機嫌を損じたのではないかと、心配する私に龍雄先生は、「あとでちゃんと意を伝えますから、安心していてください」と慰めてくださっている時、親先生は再び応接室に姿を現し、「これでよいのかな」とおっしゃった。手には100万円の札束を持っておられたのです。私は、私が一番先に賛成してほしかった方が、快く直ぐに応じてくださったことに勇気と自信を頂くことができました。

  人々の平和を祈る鐘は世界に数々あります。しかし地球の平和を祈る鐘は世界で初めてです。また宗教協力で作る鐘も世界でオンリーワンのものになると思います。そして、神道・仏教・キリスト教の17の教団の協力を得て地球感謝の鐘は完成し、平成8年4月11日、龍雄先生はじめ各教団の代表の方々のご臨席をいただき、光雄先生の司会で『地球感謝の鐘』の撞(つ)き初(ぞ)め式と、サンメッセ日南の開園式を挙げることができました。親先生から『地球感謝の鐘』のためにいただいた地球へのメッセージは「天地に生かされ、天地に生きる」であります。ありがとうございました。


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