◆日本は最後の土壇場に来ている
私ごとき者が早々とご指名をいただきまして、恐縮の限りでございます。本日は八十周年、まことにおめでとうございます。先ほども私は感激いたしました。当たり前といえば当たり前なんですが、三宅光雄先生はお母様にもキチッとした気をお遣いになるところを目の前で見させていただきました。あらためて、金光教泉尾教会の会長として、弟の善信先生と力を合わせて、本当に素晴らしい布教活動を世界的に展開しておられます。日頃から、心から、尊敬申し上げております。
私にとってお2人は、本当に仲の良いご兄弟・・・・・・。兄弟愛を示しながら、人に愛を説いておられることと思います。先ほど私、善信先生とお話ししたのですが、善信先生は「あまり抹香臭くない」と言うと怒られるかもしれませんが、宗教家らしくない形で、友達のようにいろんな方と気さくに接して、それでいて自然と相手を教導されている・・・・・・。私は素晴らしい布教活動をされていると思います。是非、今後とも頑張ってください。
こういうおめでたい席で申し上げるのはどうかと思いますが、ひとこと言わせていただきたい。これは政治家の責任ですが、いくら「イザナギ景気を超えた」と申しましても、それは一部の金持ちがうんと金持ちになっていくだけの話であって、一般庶民の生活は、年寄りを含めて不安の坩堝(るつぼ)の中に投げ込まれている・・・・・・。そのような状態が続いている中で、羅城門の鬼(註:外資のハゲタカファンド等)が夜な夜な京の街を徘徊して人さらい(註:会社の乗っ取り等)をしても、もう誰も止めない。「力の強い者が何をやったっていいんだ」というような行為を、「改革」の名の下で、許すどころか礼賛している日本の社会になってしまったと私は思います。今日は宗教界の素晴らしい指導者のお歴々がお出ででございます。是非、政治家も頑張らなければなりませんが、宗教界の皆様が今一番「心の救済」という大事なことに全力を挙げていただきたいと心からお願いいたします。
そういう宗教界の皆様方に、今ひとつ、私は問題を提起したいと思います。それは現在の「政治と宗教」との関係でありますが、この間の臨時国会で、まざまざとその姿が現れた訳であります。『教育基本法』という子どもを育てていく上で欠くことのできない理念を提示するべき基本法について、各宗教団体から「こうしたほうが良い。ああしたほうが良い」と多くのご意見が出されましたが、創価学会という一教団の意のままに教育基本法の中身が決められてしまう・・・・・・。しかも、それが強行採決という形の中で成立したことは、皆様方どなたでもご承知のことだと思います。自民党と公明党が過半数を持っているということだけで、宗教者の皆様の意見が見過ごされてよいのか? という問題があります。
私は、宗教団体が政府あるいは政党に対して、それぞれの立場からいろいろと政策意見を提言されるのは当たり前だと思っております。もちろん、創価学会が公明党に対して、政府に対して提言するのもまた当たり前であろうと思います。問題は、それを受けた政府が、それらを取捨選択して、また、心の問題については、広く宗教界の意見等をきっちりと聞いていった上で、結論を出さなければならないことだと思います。
私もかつて、自公連立時代に(自民党の)政調会長をやっておりましたけれど、私は一宗教団体のそういった恣意的な要求を呑むというようなことは一切いたしませんでした。しかし、今は残念ながら、選挙で「創価学会におんぶに抱っこ」でないと、自民党の候補者が当選できないという時代になってしまったんです。そういう状況の中で、自公が政権を担い続けていくということについて、宗教界としてどうお考えになっておられるのか・・・・・・? 私はこの際、深刻にお考えいただく時に来ているのではないだろうかと思う次第であります。
国民新党は小さな党でありますが、今、民主党あるいは社民党とも力を合わせれば、十分、参議院で過半数を取ることができる訳であります。できないことを言っても仕様がありません。今夏の参議院選挙を頑張れば、(自公を過半数割れに持ち込むことが)確実にできる訳ですから、その上で、この日本をきっちりとし、変えていく作業をやっていきたいと思っております。
残念ながら、社会の仕組みや在り方は、政治が全て決めてしまいます。そして、その政治が決めたことを、宗教界あるいは社会団体、個々の人間がひっくり返すということは、なかなか「言うは易く、行うは難し」で容易なことではありません。そういう意味で、やはり政治は極めて大事だと思います。
おめでたい席で堅いお話をして申し訳ないと思うのですが、もう日本は、最後の土壇場の時に来ていると思いますので、この席で申し上げさせていただいた次第です。金光教泉尾教会におかれましては、今後とも幅広い活動で、魂の救済、日本を救うために頑張っていただきたいと思います。本日は、おめでとうございました。
◆人助けのメッセージをさらに広げてゆくこと
ご指名に与(あずか)りました明石でございます。本日は、金光教泉尾教会布教八十周年という、おめでたい行事にお招きいただいて心から嬉しく思っております。
三宅歳雄先生とは、1960年代のはじめから70年にかけて、国連でウ・タントというビルマ――現在のミャンマーですが――出身の人が事務総長をしておりました頃に、日本の宗教指導者の方々が国連に来られた際に、お会いしたのが初めてだったと記憶しております。三宅歳雄先生や庭野日敬先生は、「声が大きいこと」、「性格が明るいこと」、「包容力があること」そして「日本人外国人の見境なく友だちを作ること」。そういう点で大変共通していたと思います。三宅先生は、体は大きくありませんが、その声は何キロも先まで届きそうな、そういう人でした。
また私は、泉尾教会で、三宅歳雄先生が教会のご信者の方々に語りかける姿を拝見したことがあるのですが、それは本当に「父親が子どもを諭(さと)すような」非常に親しみを込めた慈父のような語りかけだったのを、大変印象深く拝見いたしました。今、三宅光雄先生をはじめご兄弟がこの教会の指導的な立場で支えておられる訳ですが、やはり三代目も、きちんと三宅歳雄先生のDNAを継いでおられる・・・・・・。必ずや、この教会はいきいきとした教会として、将来まで末々発展し続けるであろうと・・・・・・。また、国際的な視野も持って活躍するであろうということを、期待を込めて見つめております。
この金光教をはじめ、いろんな宗教界の指導者の方々がここに参列しておられますけれども、このうちの何人かの方々が、昨年8月に京都で開かれたWCRPの世界大会に言及されました。私もそこに参加させていただいた1人でありますが、「こういった宗教者による平和運動は、国境を越えてますます大事になってきている」という思いを深くしております。
特に、6年前にアメリカで「9・11」(同時多発テロ)という惨事があってから、テロリズムの脅威というものが世界中の人々に認識されましたが、あの直後にも、WCRPの人たちが集まって「イスラム教を敵とするのではなく、偉大な宗教は、どの宗教であっても、本当に人類愛の立場から行動するのだから、こういうグローバルなテロリズムの時代こそ宗教者が責務を認識して協働しよう」ということを誓った訳であります。そして昨年の8月、京都においても再び大々的な形でこのような宣言が行われ、その中で日本の宗教者が中心的な役割を果たしたことが、私には大変誇らしく嬉しく感じました。
ウ・タント国連事務総長は、ビルマ出身の仏教徒であります。実は、私は今、スリランカにおける和平の問題で、日本政府の代表として行動しております。スリランカにおいては、南部のシンハラ人が多数派ですが、ほぼ皆さん仏教徒です。北部にはタミール系の人たちがおりますけれども、彼らはヒンズー教徒です。他にもクリスチャンやムスリム(イスラム教徒)もおります。スリランカは、戦後にできた新しい国ですが、なかなか民族の間の平和を築くというのは容易ではありません。
(世界平和を揺るがす要因として)「イスラムの原理主義者が悪い」という人がいますけれども、実は、原理主義者というのは、どの宗教にもいます。原理主義それ自体が悪いとは、私は思いません。生活がグローバル化すればするほど、自分の文化や伝統、歴史を顧みようという気持ちの人が増えてくるのは当然のことです。そういう意味で、そういう人たちが「自分たちの拠って立つ原理原則を振り返ってみよう」ということで、原理主義者になることがあるんです。
悪いのは、原理主義というよりも、「非常に心の狭い『自分だけが正しくて、他の人たちが間違っている』という偏狭な人たちが世界にいる」ということが問題なのです。私は日本の宗教者が持っておられる温かい気持ち、寛容な精神というようなものを持ち続けて、将来共に宗教間の協力。また、それを通じて「国際平和の建設」という難しい仕事に、是非とも引き続き協力してほしいと考えております。
このようなおめでたい、またくつろいだ席で、亀井先生のみならず私もちょっと七面倒くさい話をしてしまって申し訳ないのですが、本当に三宅歳雄先生の大きなお気持ち、地球的な平和と愛の気持ちを、三宅光雄先生のみならず、ここにご列席の皆様が受け継いで、80年続いた人助けのメッセージを、さらに広げてゆくことが国際平和に繋がります。
現在、世界における日本の役割はちょっと希薄になってきていますが、私はこの現状を大変心配しています。ですので、この席にお招きいただいた者の1人として「是非とも、日本らしい、日本人らしい平和への貢献を続けてほしい」という思いを切に抱いております。
当初は「3分間で話をしろ」ということでしたが、6分間ぐらいになってしまい申し訳ないと思っております。しかし、国連で長い間働いた人間が3分間の話をするというのは大変残酷な話でありまして(会場笑い)、国連の人間というのはいったん口を開きますとなかなか口が塞(ふさ)がらない悪い傾向がありますが、私がその典型的な例であります。申し訳ありませんでした。ありがとうございます。
◆自分の信念を曲げない強さ
安田でございます。私は現在、WCRPの常務理事というお役を拝命しておりますので、本日は特別にご祝辞を述べさせていただけることになったと思っております。本日は、金光教泉尾教会様の布教八十周年、誠におめでとうございます。
私の寺(薬師寺)は、歴史においては1,330年の歴史があり、古さにおいては大変なものでございます。そのこと自身も極めて尊いことでありますが、私はいつも新しい宗教団体の方々の会に接するたびに思うことが「宗教が生きている」ということでございます。とかく伝統仏教は、形は為しておりますけれども、中の僧侶自身の活力、あるいは、その教団に所属する信者様の方々の一致団結の力は、やや欠けておるのではないのかなという気がいたします。そういう点では、金光教様、あるいは、本日、数々の新宗教のトップの方々もいらっしゃいますが、ここにおられます新宗教の先生方には、学ぶところが多々あり、いつも頭の下がるような思いがいたします。
私は不幸にして、歳雄先生がお元気で活躍されていた頃に接することはできませんでしたけれども、二代教会長であられた龍雄先生には、いつもお目にかかっておりました。三代教会長である光雄先生や善信先生は、WCRPなどの会議にご出席いただきますと、いつも必ず力強い発言をされます。そういった機会には「いつも何かしら参考になる意見をおっしゃる方々だな」と思いますし、また「非常に意志の強いお方」あるいは「自分の信念を曲げない強さを持っている方」だと感じます。
おそらく歳雄先生も、このお二方を掛けて二乗か三乗したぐらいの方だったのではないかなと思います。あの泉尾教会の大会堂を見ますと、だいたいお力が判ります。あれだけの素晴らしい建物を建てるには、それだけの人を引っ張っていく、救っていく力があったからこそできたんだろうと思います。私はそういった意味におきまして、新宗教の方々から学ぶことをいつも心がけながら、切磋させていただいております。
泉尾教会様のますますのご発展・・・・・・。先ほど三宅光雄先生もご挨拶の中で、これから「布教百年」に向けてのさらなる決意をご披瀝(ひれき)されましたが、一致団結された皆様方の、力強い世界平和へ向けての協力を、今後も私も一緒にさせていただきたいと思います。今日は誠におめでとうございました。
◆百周年をこの目で見たい
伊勢にございます――昔は神宮皇學館、今は皇學館大学と申しております――伊勢神宮の神道の学問所が、その後、神道の大学となった訳でございますが、私はそこの理事長をいたしております上杉と申します。
実は、私が泉尾教会と関わるようになりましたのは、WCRPの会合で三宅光雄先生としょっちゅうお目にかかるようになってからです。光雄先生と私は、同じ開発・環境委員ですが、今、薬師寺の管長様のお話にもありましたように、光雄先生は、とにかく一度発言したら絶対に引かない。そんな「正しいと信ずれば一歩も譲らない」という光雄先生のことは、WCRPではつとに有名でございます(会場笑い)。
この光雄先生は、実は3人兄弟なんですが、それがすごく仲が良い・・・・・・。私はこれからの泉尾教会が楽しみです。なんとしても、「百周年をこの目で見たい」と思っているんですが、高齢の私には、ちょっとこれは無理かもしれません。しかし、皆さんは見ていてください。百周年のときは、この日本どころか世界を揺るがすような、そんな記念式典が行われる様を、私はあの世から見ております。
WCRP開発・環境委員会で、私や光雄先生は、地球の環境についていろいろ議論をし、「環境悪化の歯止めに対する足がかりを何か見つけ出そう」ということで、いろんな話をしているんですが、その時に、今ここにおられます一燈園の西田先生から、「よくテレビのコマーシャルで『地球に優しい洗剤』などといって売っているけれども、あれをいったいどう思いますか?」と尋ねられました。私は「地球に優しい洗剤とは、人間が地球に優しくするということです。それは、あくまでも人間主体の考え方であって、『地球は人間の従属物である』という思い上がった前提に成り立っている考え方ではないでしょうか」とお答えしました。そういう視点から、人類は地球をどんどん汚染してしまって、今の地球温暖化の問題に至っているんじゃないかと私も思います。
そこで、これからのWCRPの運動方針のひとつとして、われわれは「地球に感謝する運動」を起こそうじゃありませんか。われわれが地球に感謝する。われわれは「地球のおかげで生かさせていただいているんだ」ということを打ち出しました。これを基本にした環境運動を行わず、地球を人間の従属物として「俺たちが地球に優しくしてあげるんだ」という奢(おご)った気持ちのままでいては、この問題は、決して解決しない・・・・・・。そういうことで、今、宗教界を挙げてこの問題に取り組み、署名運動を始め、国会にも陳情しようと活動しております。
そして、「地球感謝の日を制定し、皆で環境問題について関心を持っていこう」ということを話し合いしております。どうか、皆様もわれわれの環境問題に対する活動にご協力をお願いし、一緒に手を組んで進んでゆくことをお願い申し上げまして、お祝いの言葉に代えさせていただきたいと思います。おめでとうございます。
◆大恩師親先生にお育ていただいて
ただ今ご紹介にあずかりました真如苑教務長の長塚と申します。「親先生・・・・・・」私には大変親しみの深い呼び名でございます。大恩師親先生が布教を始められて八十年という、それだけの歳月を経たということですが、80年前の1月24日と申しますと、大正から昭和になってまもなく(註:昭和元年は7日間のみ)の頃でございます。この
当時は、戦争をいよいよ目前にいたしまして物情騒然とした時代でございました。
こうした時代におきまして、「人よ幸いであれ」との金光大神の思し召しを現実にするために、布教・・・・・・。そしてまた、人と世のために祈り、世界平和のために、人類の四苦のために、活動してこられた親先生でいらっしゃいます。このことはどなたもがよくご承知のことだと思いますけれども、そのご遺志が次代の龍雄先生、そして三代目の光雄先生へと確かに受け継がれていることに、私は尊く素晴らしい、力強いものを感じる訳でございます。
何のご縁でございましょうか。今から10年前のことですが、比叡山宗教サミット十周年の折に三宅善信先生と名刺交換をいたしました。その時を縁としまして、泉尾教会様との知己を再び得た訳ですが、「これは神様の深い思し召しではないかな」ということを強く感じさせていただきました。
と申しますのは、私は今、東京の西、立川にございます真如苑という教団の職員でございますけれども、私の信心を育んでくださった、涵養(かんよう)してくださったのは、他ならぬ大恩師親先生でございます。私が高校から大学までの時代は、東京から大阪まで当時十時間かかりましたが、その道程を何回となく泉尾教会まで足を運んで、そして親先生にお取次を頂きました。
その頃のことは今でも懐かしく思い出しますが、特に高校3年生の時でございました。当時、私は精神的に大変荒れておりました。お結界の前に拝跪(はいき)し、親先生に自分の胸の内を吐露しました時に、親先生からお書き下げを頂戴しました。その認(したた)められた文面を、私は今もってしっかりと心に刻ませていただいております。「岩々の 割れ目割れ目の 山つつじ 努力努力 そこに道あり」というお書き下げでございました。そのお書き下げは、正に当時の私の心を、いみじくも文字の中に、文字の行間に刻んでいるという印象を強くいたしました。そして何回も何回も読ませていただくうちに、心和ませていただきました。先ほど、泉尾教会のご霊前におきまして大恩師親先生のお写真を拝させていただきました時に、心からの感謝と懐かしさを思い出しました。
先ほどからの先生方のお話にもありますように、宗教は、たとえ宗派が違いましても、目的とするところ、それはひとつだと私も思います。今の世の中を見ておりますと、昭和2年当時の物情騒然とした時代に比べ、今はそれ以上にグローバルな時代だけに、さらに多角的な問題を孕(はら)んでいると思います。こうした中、真如苑におきましても、伊藤真聰苑主指南の下に、時には一体となり、社会活動や大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)を所依としたところの教理に基づきまして、祈りを続けておりますけれども、今後も目的とするところはひとつでございます。宗派を超え共に手を携えて、こうした難局を乗り越えていかなければなりません。
その「使命」というものを「宗教者一人ひとりが頂いているのかな」ということを強く感じさせていただきました。私自身も、かつて大恩師親先生から頂きましたあの教え、そして信心というものを、これからもしっかりと基盤に据え、宗教者の一人として力強く活動を推進してゆこうと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
最後になりましたが、そのような訳で、私は人一倍、泉尾教会の発展を今の信仰におきまして、今後も念じて参りたいと思っております。共々にご縁を深くいたしまして、また、ご指導ご鞭撻のほどをお願いいたしまして、簡単ではございますが挨拶とさせていただきます。本日は本当に有り難うございました。
◆宗教者として手本とすべきところ
本日、ここに「金光教泉尾教会御布教八十年記念大祭」をお迎えになられ、心よりお慶び申し上げます。また、本日の慶事にあたり、この様なお席にお招き頂き有り難うございます。
初代教会長様は、昭和2年から布教を始められ、ご信徒の皆様方へのご熱心な教化活動と共に、宗教団体、宗教者がひとつになり、世界平和を素早く実現させようと世界宗教者平和会議をはじめ、世界的規模で寄与貢献されたと聞いております。二代教会長様、そして現三代教会長様も、初代教会長様のご遺教を遵守され、WCRPやIARF、また世界連邦運動などさらに活動の輪を広げ、ご活躍しておられることは、世界平和を先頭に立って願う宗教者として手本とすべきところでございます。
私ども念法眞教も、同じ大阪市内に本山を置く教団として、泉尾教会の皆様のご活躍は大変心強く思う次第でございます。また、私方の教団も、いろいろ皆様方にご指導賜りながら、微力ではございますが、この世が、争いのない、悩み苦しむ人々のない世界となり、希望と愛に満ちた世界となるよう、さらなる努力を重ねているところでございます。
本日の吉祥にさらなる泉尾教会様のご発展とますますのご活躍を心より祈念し、簡単措辞ではございますが、お祝いの詞とさせていただきます。本日はまことにおめでとうございました。
◆ご兄弟お三方が力を合わせて
良い気分でお酒を頂いておりましたので、何を申しますか判りませんが、まず三宅先生、本日はおめでとうございます。私の隣の席の方がたまたま天王寺中学の卒業生なんですが、三宅先生も含めて実は皆同窓、天下の天中出身でございます。
私は天王寺区にあります赤穂藩縁(ゆか)りの「義士の寺」(吉祥寺)という討ち入りの寺から、豊中のどうしようもなく剥ぎ取られ(註:当時、無住で荒れ果てていた)た「萩の寺」(東光院)へ入りまして、頑張ってまいりました。実は、三宅歳雄先生のお話は仏教界でも有名で、私の祖父の頃から「ものすごく偉い人や」と聞いておりました。ですので、10年ほど前にご縁を頂きまして、金光教泉尾教会に初めて行かせていただいた時、非常に有り難く感じました。
三宅龍雄先生は、非常に親孝行な後進を持たれまして・・・・・・。先ほどもご母堂様に鏡割りのお役を替わっておられましたね。実は、私は先代の三宅龍雄先生が大好きでした。あの方は、人に会われる時はまるで「春」のような暖かい心。何かされる時は「夏」のように情熱的に一所懸命される方でした。「秋」は――皆さん、それこそ草冠を付ければ「萩の寺」ですが――龍雄先生は秋のように澄んだ心で見てくださいましたが、その一方で、私は非常に可愛がっていただいたと思います。「冬」は厳しさですから、おそらくご長男であられたご当主の光雄先生は――私も長男なので、よう解りますが――非常に重荷を感じて育ってこられたと思います。けれども、本日の素晴らしいご兄弟お三方が力を合わせてされたご法要を拝見させていただきますと、私どももそうありたいと思います。
宗務所長の立場は、ある意味、南御堂の輪番さん(註:真宗大谷派の難波別院。大阪における本山的役割を持った大寺院。輪番はその代表者)と同じような地位にありますので、いろいろな所へ行きましても、慶弔会では(曹洞宗を代表して)挨拶の真似事をせななりません。しかしよく考えたら、私のお祖父さんや親父も皆、全部やってきたことなんです。やはり、ご先祖様といいますか、私どもの先輩たちに「恥をかかしちゃいかん。草葉の陰で泣かしてはいかん」と思っております。
今日はせっかくですから、エリック・ホッファーという人の詩を少しご紹介いたします。この方は7歳の時に失明したんですが、15歳の時に奇跡的に視力が回復するんですよ。こういう方もいるんですね。1902年生まれの、いわゆるアメリカの社会哲学者ですが、「蜂は蜂である。蟻は蟻である。人間は人間ではない。未完である」つまり、「蟻は蟻であるだけで蟻である。飛んでいる蜂はそれだけで蜂である。しかし、人間は放っておいたら人間ではない。最後まで完成に向かって努力しなければならない」と・・・・・・。
亀井静香先生には、昔うちの檀家の1人である大倉建設の社長さんのところでお会いしたことがあるんですが、非常に情熱的な方だという印象を受けました。ただ今も、非常に素晴らしい力いっぱいのお話をいただいたので、私も「宗教家としてちょっと頑張らんとあかんな・・・・・・」と思っております。
「人間は完成に向かって努力しなければいけない」と申しましたが、けれども、考えなければいけないのは、完成を目指す過程で、われわれ人間は焦りや失敗を繰り返すということです。そのひとつが、先ほど皇學館大学の上杉先生が指摘された自然破壊や環境破壊です。その点において、泉尾教会様をひとつ持ち上げるならば、「泉尾教会は『大阪みどりの百選』に選ばれた施設である」ということです。「緑を大切にする」ということは、実に大変なことですし、特に大正区のような場所(埋め立て地の工業地帯)でそれを維持してゆくのは大変でございます。そんないろんな意味におきまして、ホッファーさんの詩を一文だけ読んでみます。
「自然は完全なものだが、人間は決して完全ではない。
人間は未完の動物であるのみならず、未完の人間でもある。
他の生き物と人間を分かつもの、それは、この救いがたい不完全さに他ならない。
永遠に未完の存在として学び続け、成長していってほしい」
こういうことでございます。本日はどうも有り難うございました。
◆気概を持った青年たちを糾合して
三宅歳雄先生の布教八十年記念大祭に参加できることができ、大変光栄かつ喜ばしく存じます。私は、AYC(アジア青年センター)という団体の事務局長を務めておりますので、それらの各国支部の皆さんを代表して、泉尾教会の教勢の発展やその平和活動の進展に対して、祝辞を述べるものです。
アジア青年センターは、三宅歳雄先生ご指導のもと、1984年にインドのマドラス(現チェンナイ)で発足して以来、今日まで23年間、11カ国へと支部を拡大して、平和と社会正義の実現のために活動を行ってきました。そして、昨年はついにカナダにまでその運動が広がりました。1984年に創設くださった三宅歳雄先生亡き後は、ただ今のリーダーシップを取ってくださっている三宅光雄先生のご指導のもと、AYCは活動を行っております。
AYCの最も重要な活動は、平和と社会開発に貢献しようと言う気概を持った青年たちを糾合してゆくことであります。三宅光雄先生ご指導の下、AYCが今後ますます発展し、できることなら2008年か09年には、創設二十五周年記念大会が盛大に開催されることを願っております。
この度、こうして大阪に来て、この祝典に参列する機会を頂けたことを、関係者の皆様一同に感謝申し上げます。有り難うございました。
(日本語訳 編集部)