7月15日、泉尾婦人会創立七十周年記念婦人大会が2,000名の参拝者を集めて開催され、「生かされて生きる」の講題で、近畿宗教婦人連盟総裁の木邊美子真宗木邊派錦織寺前裏方が記念講演を行った。木邊美子氏は、浄土真宗の一宗派の門主夫人としてだけでなく、女性初の滋賀県公安委員会委員長やガールスカウトの役員として、広く社会活動を行われている。
*因縁生起と自然創造
只今、ご紹介いただきました木邊でございます。この教会にお参りをさせていただきましたのは、今日で三度目でございます。
1回目は、ちょうど7年前でございましょうか、こちらで近畿宗教婦人連盟の大阪大会がございました時に、まだ当時、私は委員長ではございませんで、親先生の奥様でいらっしゃる恒子先生が委員長様でいらっしゃいまして、その時に寄せていただきました。6月の確か4日じゃなかったかと記憶いたしております。その足で、私、九州の方に参りました。その次は、悲しいことに恒子様のご葬儀に参列をさせていただきました。そんなに早く、こういうご縁で私が二度目を伺うことになろうとは、思いもよらなかったことでございますが、本当にあれは昨日のことのように思い出しております。昨年は、こちら様(泉尾教会)の布教七十周年記念大会祭でございましたが、私自身は所用でお昼の式典には参れませんでした。ただ、お祝いのパーティーだけに参りまして、そういうことで、今日がちょうど三度目でございます。
本当に今日は、泉尾教会婦人会の創立七十周年の記念のご縁をいただきまして、有り難うございます。こうして、皆様とご一緒にこういう日をお迎えできますことを大変嬉しく存じます。これは、今、私がお役を頂いております近畿宗教婦人連盟の総裁という立場から、親先生や副教会長様のそして教会の方々の思し召しに寄るものだと思いまして、本当に嬉しく存じます。これも一重に、親先生の奥様でいらっしゃいました恒子先生とご一緒に活動させていただいたおかげだと本当に感謝いたしております。本当にいいご縁を頂戴いたしまして有り難うございます。この婦人会の七十周年の歴史は、とりも直さず、恒子様の泉尾教会でのご教化の歴史とでも申し上げていいんじゃないかと、そういう気がいたします。
さて、今日のお題の「生かされて生きる」ということでございますが、非常に安易な感じもいたしますし、本当に昨日まで、私は「何という題を申し上げてしまったんだろう。優しそうで、これほど難しいお題はなかった」と思って、悩みに悩み、もう本当に今朝まで悩み通してまいりまして、「今、だんだんプレッシャーがかかって来てるんですわ」と先ほど、副教会長先生に申し上げますと、「自分もそういう経験があります」ということをお話を頂いたんですが、けれどもまた、ある反面、「なぜプレッシャーがかかるんだろうか?」と思いますと、皆様の前で、私はいい顔をして、いいお話を申し上げてと、そういう高慢の心が行ったり来たりするからなんです。ですから、その「いい話をしなけりゃならない」と思うからプレッシャーがかかるんであって、私は私の持っているだけのことをここで広げてお見せするだけで、後は皆様方が上手にお聴きいただく、それだけでいいんじゃないかと、ほんの今さっき、そんな心待ちになった訳でございます。全てお任せをして頂ければ、何とか道は開けて行くという。そういう、まぁいわば何というんでしょうか。一見、傍若無人な言い方ですが、本当にお
任せしきったら、何とかこの道を歩ませていただけるんじゃないか。そういう気がいたしまして、ここへまかり出ました。
この「生かされて」ということは、皆さんもよく口になさるんじゃないかと思いますが、私ども仏教徒から申しますと、仏教の縁起思想というものから来ております。この縁起と申しますのは、「因縁生起」−因は原因の因ですね。縁はご縁の縁。生起は、生まれる起こる−の略語と考えられて、他との関係が縁となって生起すること。ですから、皆さん方と私だけでこのご縁は頂けなかった。いろんな方とのご縁、宗教婦人連盟の皆さんとのご縁、恒子先生とのご縁、そういう他のご縁の中から生起して来た全て……。私の生活、私の生きざまは、この因縁生起によってもたらされる。こういうことではないか、そういう考えの中で、生起することと捉えております。
しかし、この考え方が、実はヨーロッパの思想にはございません。ヨーロッパ(註:古代ギリシャローマ)の考え方といいますのは「自然創造説」と申します。皆さんよくご存知だと思います。龍雄先生からもいつもお聞かせいただいておられると思うんで、私がここで言うまでもないんですが、自然創造説を採っております。つまりカオスといいましてね。混乱とか混沌としたものからコスモスへ……。コスモスというのは、秩序だとか、それ自身が秩序と調和の持つ世界になって行くこと。または宇宙という意味ですから、混沌とした何とも知れないボャーとしたごちゃごちゃとしたものが、だんだんだんだんと秩序を保ちながらこの宇宙として出来上がって行くと言われております。これがヨーロッパの基本の姿勢ですね。そして、これが中国式の考え方になってまいりますと、最初の混沌(太極)の中から、自然に軽いものが天に昇り、重いものが地になる。そして、その間に人間が出来てきた。それぞれに人が出て来たという考え方なんですね。
*個人の尊重はどこから来るのか
いわゆる、今、盛んに言われている「個人尊重」ということで、「個」が大事です。まぁ皆さん方はおっしゃらないと思いますね。親先生もいらっしゃるし、親様からずっと流れて来るこの私、非常に「そういう私は尊いものだ」と、捉えていらっしゃると思いますが、個とは「私は私よ」という個人のことです。これが日本にまいりますと、個人主義、利己主義ということになって来るんですが、そういう個が出来てきた−生まれたんではなく、出来て来た−といういうことは、一人ひとりが、出てきた人間が、これは個の尊重、即ち、個々人が横に並んでいく。縦でなくて横に並んでいく。これがヨーロッパ思想であり、中国の考え方なんですね。
そこに、今度はキリスト教が入ってまいりますと、この個−個人の個−は、神様が−こちら(金光教)の神様ではないですよ。キリスト教の神様=ゴッドですけれども−「神が造った」と言われております。神によって個が出来たということで、キリスト教では、神意創造説ということになります。ヨーロッパは自然創造説ですね。今度は神の意志によって造られる「神意創造説」になってまいります。その神によって造られた考え方が、もともとのヨーロッパの思想(自然創造説)とキリスト教思想と結びついて、今日まで連綿と続いております。ですから、アメリカヨーロッパのキリスト教の方とよく似た考え方なんですが、根本で違ってまいりますね。この個人尊重の考え方は、中国でもヨーロッパでも一緒なんですが、これを倫理生活−人間の一番尊い、その最高の理念というか、最高の考え方−で言いますと、「他人の邪魔をせん」ということになるんです。人の邪魔をしない。そのことは、人を尊ぶから、他人を尊重するから、相手を尊ぶから、人のために喜ぶことをしなさいということにもつながって行く。
こちら様(泉尾教会)でも、ボーイスカウトガールスカウトをなさってるそうですが、そのボーイスカウトの方がよくおっしゃる言葉に、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするようように」また、こちら様でも「人のお役に立つように」と、しょっちゅうお教え頂いておられると思いますが、そういう言葉を、私はたびたび聞きます。ボーイスカウトガールスカウトはヨーロッパから出てきておりますので、そういう考え方は当然なんですが、そういうものがモロに出て来ている。だから、個人の人権を尊重する。一人ひとりの人権を尊重するということになるわけです。
だから、アメリカの空港に行きますと、待合いロビーにはテレビがないそうです。日本では、空港のあちらこちらでテレビがガンガン言ってますね。そして、ちっとも聞こえません。場内アナウンスはあるわ、テレビは鳴っているわ、離発着の飛行機の爆音は聞こえるわで、何言っているのか判らないで一所懸命視ているんですが、アメリカなら、もしテレビがあったとしても、みんなイヤホンを付けているはずです。ということは、「見たくないもの、聞きたくないものは、公の場でしなさんな。かけなさんな」ということになるんですね。その人の一人ひとりの人権を尊重するということで、「他人の邪魔をしない」ということになって行く訳です。
今日、よくいわれている「女性尊重精神」……。この頃、皆さんお強いんじゃないでしょうか? 若い方いかがでしょうか? さっきね、副教会長様の次男さんとお話をいたしておりましたら、公明党の方の選挙運動のすさまじさ、熱心さをおっしゃっていました。創価学会の幹部の方と学術関係の会合で一緒になることがあるけれど、その何とか部長さんが夜遅くお家に帰られると、小学校1年のお子様が「お父ちゃんおなか空いた。お母ちゃんがいないんでまだご飯食べてへん」(幹部の夫人まで勧誘活動に奔走している)ということで、「生卵一つ割って、おかずにして食べました」という話をなさったそうですが、事の善し悪しは別にして、女性も一所懸命頑張っている訳です。この頑張りがね、ともすれば、後で申しますけれども、日本ではどうかすると、天狗にはなってはないでしょうか? そういうこともありがちなんです。
*誰のおかげで
こういう話があるんですよ。私の方(滋賀県)のガールスカウト連盟の事務局におります方が、20年近くいる人ですけれども、もうずいぶん前のことですが、私が支部長の頃に、お正月過ぎてから初出勤の時にね、「ちょっと支部長聞いてください。私、お正月早々、主人と喧嘩したんです」と言うんですよ。「えーなんで?」て聞きましたらね、初めてお給料貰って−ガールスカウトの支部から出るお給料は雀の涙ほどでお重箱を買う金額じゃないんです−それをご主人のボーナスかなんかとつぎ足してお重箱買って、「主人に喜んでもらおう」とそう思って、おせちをいっぱい盛って、鼻高々と出したというんです。「これ、どうした?」と言われる前に、「お父さんこれちょっと見て。これ私が買ったのよ」って言ったというんですね。そしたら、ご主人が「おまえが買ったんじゃないんだろ。偉そうに言うな」と一方的におっしゃったというんです。「だって、私が働いて買ったのよ。私が働いて、お給料を貰って買ったのよ」って言いましたら、「どうして?
誰のために? 何のために働いて買うんや?」と……。もう20年近く前のことですから、まだ女性の社会進出もめざましくない頃です。「 誰が許したから働きに出られたんや?」とか「(ガールスカウト)事務局に行けるんや?」と言われたというんですね。
彼女は「嬉しくて嬉しくて、だって私が初めて給料を貰って買ったのに、そんなケチつけやんでいいやんか」と言って大喧嘩をしたというんですね。「どう思いますか支部長?
うちの主人ってこうなんですよ。喧嘩になるのも当然でしょう」って言うから、私はニヤニヤ笑いながら聞いていて、「私ならもうちょっと上手に言うな」というたんです。私やったらね、「お父さんのお陰でガールスカウトの事務局に行かせてもろうて、少ないお給料やけど、精一杯これで買わせてもろうた。本当にお父さんのお陰やわ。と言うえ」と言ったんです。そしたら「私はようそんなこと言いませんわ」というんです。私が現実に儲もうけたんやから、稼いだんだから……。これはもちろん事実なんですね。私が稼いだということは。
でも、そこにはね、出してくれた−自分がいない間、不自由をしてくれる−夫のそういう恩がどっかへ飛んで行ってるんですね。「私が」ということで……。それは、個人主義じゃないと思うんですね。女性尊重じゃないと思うんです。それは利己主義なんです。「あんたももうちょっと上手になり。そうせんとなかなか勤められへんよ」と言いましたらね、「研究するわ」でね……。もうそれが何かになると、「あの時、トレーナー(私のこと)から言われたわな」って、いうんですよ。で、今はご主人も黙って事務局に出して下さって、私たち大助かりしているんですが、そういうことを女性尊重だと思って下さると大変なんですね。そして、この個人尊重、女性尊重というのは、やっばりアメリカヨーロッパから出て来ている考え方なんです。
でも、これはね、女性を大事に大事にまつり上げてる思想じゃないんです。個人だから、神様が造った個々の人間だから大切にする。しかも、女性は弱い立場−力の弱いね。女性は弱いもの−であるということが男性に頭にある。だから保護をしなければいけない。いかがでございますか? そういう意味でね。車に乗る時も「お先にどうぞ」歩く時も車道側に歩かせませんね。男性はスマートですね。アメリカ、ヨーロッパの男性が、日本の女性にそうすると、「私は大切にされている。私は好かれている」と思って、ファーとなる日本人女性もたくさんいる訳なんですよ。でも、そうじゃないんですよ。保護しなければいけないからやっているだけでね、そういう意味での女性尊重、個人尊重なんですね。
*エクスキューズミー
以上が、アメリカヨーロッパの基本の思想なんです。ですから、そこには「生かされて生きる」なんていう考え方は絶対ないわけです。「お互いに生きている。お互いに一人ひとりが生きている。だから、お互いを大切にしましょう」そして、力になり合う。それは邪魔をしないということ。力になり合うと同時に邪魔をしない。私なんかもアメリカヨーロッパに行く時に一番に覚えましたのは、「サンキュー(ありがとう)」と「エクスキューズミー(ごめんなさい)」ですね。「アイムソーリー(ごめんなさい)」と言うのと、「エクスキューズミー」の違いが私よく判かりませんが、ちょっとぶつかって「エクスキューズミー」それをいかに上手に、自然に言えるかを特訓されて出かけました。
エクスキューズミーがうまく言えないと、ぶつかっても、黙っていったら、また袖が触れて、知らん顔をしておったら、「なんと失礼なやつ」ということになる訳なのです。ところが、場合によっては「エクスキューズミー」を言ってはいけないことがあるそうです。大変な問題になるということもあるのです。私たちは、ちょっとぶつかって、「あら、ごめんなさい」と言ってそれで済むということがあるのです。ところが、手にしたグラスを落としてしまってこれを割りましたら、普通は「ごめんなさい」と言います。ところがもし、それが何千万円もするものだったらどうしましょう。これがアメリカヨーロッパでなくて、イスラム圏の国でありますと大変なことになります。レストランに行ってお皿が落ちて割れた。「あら、ごめんなさい」と言うと、「あなたは(自分の)罪を認めましたね。すぐに弁償して下さい」と言われるそうです。私は実際、それをやっていませんが……。だから向こう(イスラム圏)では、「落ちるべくして落ちた」(会場笑い)と言わんといかんそうです。「地球の引力で落ちたんだ。私のせいで落ちたのではない。と言わないと、いかほど、ふっかけられるか判からんで
」と言われたことがあります。だからあちらでは、うかつに「ごめんなさい」と言えない。そんな殺生な話がありますか? 寂しいじゃないですか。そういう小さなことでも、文化が違えば、そういうことだそうです。
ところが、日本でもちょっとそれに似た話がありますね。例えば、車同士がぶつかった時に、今日、車で来られた方、おられますか? 今日はバスですか? 車ぶつけられたことありますか? 接触事故を起こしたことがありますか? 接触事故を起こした時に、「あら、ごめんなさい」と言ったらいかんそうです。自分のせいにされちゃいます。「あぁ、ぶつかっちゃた」と言って、後は保険屋さんに頼んで、双方の保険屋さんの話し合いで、両方の弁護士さんがついて、それぞれの損害賠償問題を話し合うそうです。私自身じゃないんですが、うちで失敗したことがあります。
うちのドラ息子がおりまして、(自分の運転している前を)フェラーリがトロトロと走ってたんだそうですよ。外国製のスマートなスポーツ車だから、ビューと走るのが当たり前だと、こちらは思っているのです。一緒に乗ってた友達が「あんなもの追い越せ。追い越せ」と言ったそうです。それで、息子が追い越そうとすると、幅寄せ(進路妨害)してくる。それが癪(しゃく)に障ったんですね、若いですから。それでスーッと離れた時にビューと追い越したら、またスッと寄って来た。そこでスッと(相手のボディを)擦ってしまってしまたんですね。息子は、母親が常々「何か事故を起こしたら、絶対に逃げるな。その場ですぐ止まりなさい」と言っているのを思い出した。だけど、接触した相手はフェラーリですからね。「もしかしたらヤーさんでも乗っているのか」と思ったら怖くなったんです。そして、どんどん走って行ったら、ちょうど信号があったので、そこで「ちょうど、いいや」と思って止まった。そしたら、フェラーリの中から出て来たのは普通のおじさんだった。けれども、何かにつけて「人にぶつかったら、ごめんなさいと言うのよ」と躾けられて大きくなったんで、皆様、子供が柱
にぶつかった時に、「あぁ僕、痛かったね。けど、ぶつかった柱さんも痛かったよ。柱さんにもごめんね、ごめんね」という場合があるでしょう。私はそういうふうに育てたつもりだったんですね。ですから、息子は「あぁ、これは『ごめんなさい』と言わんならん」と思って、降りたんだそうです。そしたら、おっちゃんが出て来はって、息子は「ごめんなさい」と言ったんだそうです。「そこで示談が始まった」と向こうは言うんです。後から「実は、事故を起こしまして」と息子から電話がありまして、保険屋さんにすぐ連絡したんですが、保険屋さんが飛んで来て、「坊っちゃん(息子)が降りて来て『ごめん』と言ったから、あの時点で示談が始まって、何ぼでもふっかけられますよ」しかも「(私は)錦織寺(息子)だ」と言っちゃったんですね。「これはお寺が潰れるかも知れない」と思う程、いろいろ心配しました。
専門家が査定しましたら、幸い何十万で済んだんですね。そのスッーと擦っただけで……。でも当然、相手の人は「このフェラーリは買ったばかりだから、買い換えんならん」とおっしゃるんですよ。もう「どうしようか?」と思いましたね。結局、上手に話し合いが済んだんですが、当然、保険で車の修理代を出しました。それ以外に示談金で、私、全部貯金をはたきまして100万円払ったんですよ。息子が「ごめんなさい」と言ったばっかりに……。そういうことがある訳なんです。ですから、車をお持ちの方は絶対にね、とにかく「ごめんなさい」と言ったらあかんのだそうですよ。保険屋さんは「絶対に謝らんといて下さい。私たちが話をつけます」と言われました。「そういうことはアラブ式やなぁ」といつも思って聞いております。うちのドラ息子は、しょっちゅうそういうことをやっている訳なんですよ。お恥ずかしい話ですけれど、可愛くて、可愛くてしょうがないですよね。実の子供のことになると、母親は「甘ちゃん」ですから……。
こういうことですから、たとえ、失敗があっても「いいよ。いいよ」と言って、許していく……。しかし、昨日の新聞では、橋本首相が「辞任する」と言いましたね。退陣をしますね。そしたら、自民党はなんと言うたか。「もう首相が(責任を取って)辞めるんだから、禊(みそぎ)は済んだ。だからいいじゃないか!」これを政治に持ち込まれると困りますよ。「いいよ。いいよ」と言うことは、田中角栄さんみたいに「よっしゃ。よっしゃ」でねえ、何でもかんでもやってくれはったら、こういう不況を招いてしまうわね。政治とかそういうものに、あんまり甘えを持って来られたら困ります。
けれども、さっき私が申しましたように、自分の息子は可愛い。100万円でも200万円でも、すべて果(は)たいてでも、本当に出しちゃうんですね。ブツブツ言いながら……。それ程やっぱり甘い。子供も甘い、「甘えの構造」がずらーと成り立っている。だけど、政治で「禊は済んだから、自民党が今後どう政治を進めようと構わない」というらしいですけれども、それは困ります。これは「国民の審判を待たなければ」としか、私には言いようがございません。
これも家庭環境の現れのひとつではないでしょうか。そういう考え方はやはり、母から生まれてきたという甘さっていうか、母系社会の甘さ……。これは悪い甘えではないと思いますね。甘えというものがあって、ひっくり返せば母性中心の社会が構築されているんです。この日本という国は、だから優しい。この母性が日本人の感性を育てていく訳なんです。ですから、ヨーロッパの個人主義がストレートに入ってきてもらうと困る。噛み砕いて、日本には、日本に合うような個人尊重主義ということで持って行ってもらわなければ成り立って行かないんじゃないか。そういう考えがあります。
*天才バカボンとは?
私は仏教徒でございますから、少し、仏教の話に触れますが。仏教は宇宙大の人格を完成させ、今、生きている私が「幸せ」と感じなければならない。「お釈迦様」のことを「世尊(せそん)」と申します。これを昔のインドの言葉で「バカバーン」。聞いたことある言葉じゃないですか? 「バカバーン」。テレビの漫画でありましたね。『天才バカボン』ってありますね。思い出された方がおありでしょ。アニメーションのね。本当は「バカバーン」っていうのです。あれは「幸せ者」ということなんですよ。「バカボンパパ」というのは、「幸せなパパ」ということなんです。これは、人から「あなた幸せですね」と言われて、「本当に幸せです」と言える人格。これだけでも、私、悲しいとか、愚痴りたいとか、誰かの悪口をね、「幸せよ」と言いながら、「あの人ね」とかみんなに言いたいですよね。
また、ここにはおられないと思いますが、人の悪口言っている時ほどおもしろいものはないですね。女同士でね、あの人がどうしたのこうしたのってね。何でもないことなんですが、根も葉もないことを言って、幸せそうにしている。でも、これは幸せではないんです。「本当に幸せか?」と言われても、「本当に幸せですよ」と言える人格を備えなければならない。そういう人格を備えた方が「世尊バカバーン」と言われます。ですから、仏教の教えは、自己の完成であり、自己の拡大であり、宇宙大の人格を完成することです。
たとえば、私たちの言葉に「布施」という言葉があります。これは「菩薩道」を歩む人が、修行に「布施」の行をします。「布施」ということは、私の執着を取り払うためにやることなんです。自己の完成のためにやるのであって、決して人のためにやるものではない。「布施」というものは、決して「あの人を助けてあげよう」というのではないですから、皆様がこちらで、人助けに励みますとおっしゃるのは、「させていただきます。そういう私にさせていただきます」というのが、後に付くのでしょ。ただ「助けてあげよう」と、そんな大それた方はいらっしゃらないと思います。助けさせていただく人間にさせていただきます。執着心を捨てます。そういうことだと、私はずっと、今日の婦人大会のパンフレットを最初に見せてもらって、ここかと思って感じましたが、これは、あくまでも「布施の行」なんです。
さて、さらに話が変わりますが、今の日本の教育を考えてみましょう。「布施の行」も全部こっちに置いといて、古くは小学校の先生を「訓導(くんどう)」と言いました。知らない人がほとんどでしょう。それからこれは「訓(さと)し導く」と言うことです。小さい子供、それから中学高校では「教え諭さとす」の「教諭」と言います。大学では「教授」。大学だけでは残っていますよね。これは「教え授ける」ということです。ところが小学校では、教え導く、諭し導く。「こうしたらあかんよ。これはこういうふうにするのよ」と訓し自ら導いて行かなければならない。ところが、今は全部、幼稚園から幼稚園教諭、幼稚園の先生がいらっしゃると思いますが、「幼稚園教諭」といいますね。終戦後からそういうふうになってしまいました。導くことがなくなった。諭さとして導く教え、導くことから諭し、導くことがなくなった。そこに感性が育たなくなったね。
柱にぶつかったって、物体にぶつかったんですから、柱はどうもないと思いますよ。ただ生きている。うちに猫が20匹ばかりいます。これはね、古木に登って、こうやる(註:ひっかく動作をして)んです。もしも人間の子供がやっているんだったら、「木だって、痛い痛いと言っているで。あなただってこうやられたらかなん(嫌だ)やろ」と言います。ところが、猫はどんなに言ったって解りません。いい爪磨きで、だんだん木がやせ細って行きますけれども、一生懸命、身をならしてくれるんです。愛しくてかなわないのですけれどもね、猫も生きていますから、追い出す訳にもいかんというような調子で、生きものだったら大切にします。けれども、こうして柱になっちゃったものは、「柱だからいいんじゃない」と普通思いますが、「そこにぶつかったら僕が痛いように、柱さんも痛い痛いと言っているよ」というところで、これは物理的には何でもないように思いますが、そこに「諭し」ということがあるんじゃないかな。そういう感じがいたします。そこに感性、感受性が育つ。知性教育だけでは、この感性が生まれ育たない。人間の豊かな物の見方とか、考え方が欠落していくのです。
*感性を育てるのは母性
「生かされて」という言葉の中には、「私が生きているのだ」というのではなくて、あらゆるものに生かされているという「与力不障」という言葉がありますが「与力不障の縁」ということを言います。「与力」とは与えたもう力。生きて行く為に力を与えてくれるもののことで、たとえば、衣食住空気水血太陽熱。あらゆるもの、精神的に支えになってくれる宗教。全部私たちは与えられている。これから全てに私たちは生かされているということです。「不障の縁」と言うのは、生きることを妨げない、邪魔をしないということなんですね。自分の生きる原因をそこに見る訳です。そのために私どもは、自分の生きる力となってくださる動物植物、あらゆるものの生命を尊ぶことの大切さを教えて行かなければならない。感性を磨かなければならない。モノのいのちを奪わない。そして私のいのちを生かす最低限のモノのいのちのおかげで、私たちはここにこうしていさせていただく。いのちを得ることが出来ることを忘れないで欲しい。
そして、更に申し上げたいのは、この尊いいのちを生み育んでくれるものこそ、これを育んでいくもの、育てていくものこそ、私たち、女性しか持ち得ない母性である、ということを明記したいと思います。母性の感性こそ、本当の人間の感性であります。男性を育てるのも女性。どんな男性に育つかは女性の育て方ひとつ、ということが言えますわね。脈々と生み育てていく母性を感じることは「縦」の社会にしかないことです。「横」の社会にはあり得ません。そこに真の幸福感を味わうことが出来ます。
この幸福感というのは決して知性だけでは生まれてきませんね。頭がいいだけでは生まれてこないんですよ。1足す1は2、4割る2は2というふうにきちんと割切れるものではなくても、「まぁいいじゃないの。ああ痛かったね。可哀想だったね」とか……。たとえば、「あら素敵な方ね」と言われる方が嬉しいですか? それとも「真珠のネックレスよくお似合いですよ。色合いといい、口紅の色とお洋服の色とよく合ってよくお似合いだわ、とても素敵ですよ」と申し上げた方がいいでしょうか? 「あなたって素敵な方ですね」というよりも、ひとつずつ誉められた方が嬉しいですね。「あなたの笑顔って明るくて素敵だわ」と、私がもしも申しあげたら、やっぱり嬉しく感じられると思います。
そのように一人ひとりの良さを見ていくのも感性。「あの人の洋服の色いいわね」それだけでは、やっぱり洋服の方が良くて、私の中身がダメなのかと、言いたくなりますわね。私なんかひねくれていますから、「あなたの洋服素敵ね」と言われたら、「洋服だけが素敵なんでしょ」と、ツンツンとするんですよ。「それに似合う私がいるからよ」と言いたいのですが、それは言えませんわね。そういうところのものの見方はね、相手を見る目とか、それは感性といいます。
その感性を育てるのは、母性しかない。それが私たち仏教徒でいう「縁起=生かされてしか生きて生きようのない私」ということを自覚するということです。「生かされて生きる」ということを自覚することが、最大の課題ではないかと存じます。
今回、金光様の婦人大会で、七十周年という目のくらむような遠い、その頃からの婦人会が脈々と受け継がれていった。女性の力で受け継がれていった。そこには親先生始め皆様のお力添え。なんといっても神様のお力添え。それがあってはじめてこうして受け継がれいくということを感謝しながら、皆さん、これから先のお恵みに感謝しながら、婦人会活動を続けていっていただきたいと思います。これがこの泉尾教会の婦人会の会員さんとして、一番美しい生き方と思います。お洋服であろうが、ネックレスであろうが、そんなものは問題ではないんです。中身から出てくる喜び、恵みに感謝する心。これが一番その人を美しくしていく。それはやっぱり母性がふつふつと沸き上がってきて初めて、「してあげているんだよ」ではいかんのです。
泉尾教会の皆様方が、震災があった時には率先して一番に救援活動に行かれたことを、私、この前の震災の時もお聞きしました。大変だったんですね。随分遠いところまで行っていただいて、私たちではとても出来る技ではございませんでした。それは、ひとえに神様のお導きとお恵みのおかげだと思います。どうぞ、親先生始め副教会長様、そして皆さんの教会の方々を助けられて、この教会がますます発展いたしますように、婦人会がますます発展いたしまして、次の10年、20年の後に、私もおばあさんになっていると思いますが、もしもお目にかかれたなら嬉しく存じます。これで私の喜びの言葉とさせていただきます。お粗末でございました。有り難うございました。(おわり)