まず、現在の救急医療というものがどういうものかということを、先に皆さんにご理解いただきたいと思います。救急医療というのは、そうですね……。いわゆる病院の診療科目で言いますと、私はもともと外科医でございます。今でもまだ手術をしております。ですから、皆さんの感覚で見られたら、私は外科医に見えるでしょうけれども、私はいろんなところで「あなたの専門は何ですか?」と聞かれたら、「私は救急医だ」というふうに答えています。外科医と救急医との違いはどうでしょう? 皆さん、お判りでしょうか? 救急医というのは外科医とどう違うのだろう? 何かイメージをお持ちでしょうか? 救急医とはこんな人だ。外科医とはこんな人だ。内科医とはこんな人だ……。いかがでしょうか?
▼最初から救急医がしたかった
私は、1975(昭和50)年に神戸大学(医学部)を卒業しました。そして、卒業と同時に、すぐに現在の兵庫医科大学に移りました。移りましたというか、職を兵庫医科大学に求めました。まあ本来でしたら、神戸大学を卒業した訳ですから、外科を志望するならば神戸大学の外科に残る。内科を志望するならば内科に残る。そこでトレーニングを受けて、医師として伸びていくのが多分普通のコースだと思うのです。
でも、私は全く(神戸)大学に残るつもりはありませんでした。卒業と同時に「すぐに兵庫医科大学に移ろう」と考えておりました。それは何故かと言うと、当時、救急センターというのが神戸大学にはなかったのですね。まあ、当時は兵庫医科大学も整備はされていなかったのですが、近い将来、救急部門ができると聞いておりました。そして、母校であります神戸大学には、救急医療のできる部門は当分できないということも判っておりました。私は、学生時代から「救急医療を自分の仕事にしたい」と考えるようになっておりました。通常、卒業と同時に、自分の専門科……、つまり、内科に行く、外科に行く、耳鼻科に行く、眼科に行くなどと、自分で決めるのですが、私の場合は、卒業の前から「やるとしたら救急医療がしたい」と考えておりました。
▼臓器縦割り医療の弊害
なぜかと申しますと、われわれが大学で学んだ従来の医学教育というものがあまりにも学問化しすぎて、「本当にこれが臨床で役に立つのだろうか?」それから、「今の大学の中のいろんな科目が余りにも細分化されて、これで本当に患者さん全体が診られるのだろうか?」という疑問を当時の私は抱いてました。皆さん、今でも大学病院なんかへ行かれますと、いろんな診療科目に分かれています。外科だけでも、脳外科・心臓外科・消化器外科・整形外科……。それから眼科・耳鼻科……。いろんな科がありますね。これってよく見たら、全部臓器によって分けてあるんですね。脳神経の臓器、循環器系の臓器、消化器系の臓器……。今の大学の科の分け方というのは、「臓器縦割り」と私ども称しておりますけども、臓器によって分けておるのでございます。もちろん、それはそれなりに非常に意味があることで、高度な医療、特に専門性の高い医療をする時は、これはぜひ必要になります。
でも、患者さん個人の立場から考えたら、本当はそれでは都合の悪いはずなんですね。大学病院に入院するとしましても、ひとつの病気で入院するとは限らないですね。たくさんの病気を持っている場合があります。今回はとりあえず消化器で入院したけれど、心臓も悪いという患者さんもおられるでしょう。脳卒中で入院したけれど、消化器も悪いという人もおられるでしょう。ですから、医者は決してひとつの病気だけを診てれば良いというわけではないのですね。患者さんを診る時には、その全体を診なければならないのです。
ところが、私たちが勉強した1970年代の医学というのは、あまりにも臓器別に細分化されて、それぞれの専門領域を診ている人はそれぞれ素晴らしい能力を持っているんだけど、専門外のことになると「お手上げ」だというような時代でした。それが、当時の私の一番の反発でした。「こんな状況でいいのか」と思っていたのです。ところが、臓器別というのを縦割りとしますと、救急医療というのはむしろ横割りと考えたらいいのですね。ある人が何か急に具合が悪くなったという時に、ひとつの病気だけが原因で悪くなるならば簡単なんですが、実際はそう単純ではありません。
▼優先順位を決めるためには
もっと解りやすい例を言えば、大きな怪我(けが)をした場合ですね。例えば、交通事故に遭った時に、あっちやこっちを打った。頭を打った人もあるでしょ、お腹を打った人もあるでしょ、骨が折れている人もあるでしょ。で、それが1科目だけで(全部治療が)できるということはまずないのです。たくさんのところを打って運ばれてくるのです。そうすると、頭の怪我も診なければならない、胸の怪我も診なくてはならない、骨折も診なくてはならない。そういう医者でないと、とりあえず患者さんの来た時の状況というのは見えないのですね。解らないのです。
「今すぐ手術が必要だ。頭も手術しなければならない。肝臓もやられているからお腹も手術しましょう。骨も折れているから骨も手術しましょう」ということになると、今度は、どの手術を一番にするかという判断が必要になる。同時にできれば良いのですが、なかなか難しい。そうすると、一番優先順位の高いものから順番にやっていかなくてはならない。担ぎ込まれた患者さんにとって、どの怪我が一番致命傷なのかを瞬時に決めなければならない。それが決められるということは、すべての部分がきちんと診られる人でなければダメですね。いくら、脳外科専門で、専門領域では優秀な先生であっても、「お腹のことは解らないよ」という人では、決められないのです。消化器外科の専門で、「肝臓は自分に任しておけ」という人でも、「頭の中のことはよく解りません」という人では、この順番は決められないのです。そういうことをきちんと決められるのが救急医だと考えてください。
私はもう20年ほど、救急救命センターで仕事をしていますから、まあ、こう言ったらなんですけど、救急センターで仕事をしている中では、国内でもかなりレベルの高いほうに属すると自負しております。そういう中で、私自身はもともと腹部外科の出身ですから、私が頭の手術までする訳ではないのですが、少なくとも、最初に「お腹の手術が先か、頭の手術が先か? あるいは、出血を止めるのが先か?」という判断は、確実にできると思うのですね。それが、救急医というものです。ですから、従来の臓器縦割り医療の中ではカバーできなかった部分を「患者さん全体を診てカバーしよう」というのが、救急医の救急医らしさと考えていただいたら良いと思います。
▼アメリカの一極支配は確立されたか
さて、本論に入りたいと思います。本日は、「イスラムの問題」ということを皆さまに少しお話して、普段あまり接触のないお話かと思いますが、極めて大事な問題でございますので、皆さまのご理解をお助けできれば幸いかと存じます。
先ほど地図の話をしましたが、国際システムというものが――もう12年前になりますが――米ソ両超大国の二極構造=冷戦構造というものが終わりまして、いわゆる「ポスト冷戦(冷戦後)の世界」になりましたが、その二極構造から、「世界はいったいどういうふうになってゆくのだろうか?」ということで試行錯誤しながら10年ちょっと過ぎたわけです。現時点では、アメリカの一極支配――表面的にはアメリカだけがいわゆる超大国として残っている――という感じがいたしますが、一概にこういう結論を出すのはまだまだ早い、というのが私ども(外務省)の見方でございます。
世界は、まだ、どのようなシステム、どのような構造になるのか非常に混沌としているというのが現時点でして、一種の移行期と言いますか、端境期にあるという気がします。一見、アメリカへの一極集中が目立ちますが、アメリカだけが世界の権威ではないと……。他方、国連とかそのような世界政府とか世界的な権威というものも、まだ、できてない訳です。したがって、今は、世界自身が暗中模索といいますか、どういう方向に行こうとしているのか、そういう中途半端な状況にあると言って差し支えないと思います。
ただ、中途半端と言うだけでは、お話になりませんので、それをさらに分析してみますと、今の世界は、いわゆるグローバリゼーションと言われている動き、すなわち、世界中の国境が低く(註=ヒト・モノ・カネの自由な移動のこと)なって、ひとつの世界になるという方向に進んでゆくこと。これを私は「求心力が働いている世界」といっております。もうひとつは、それとはまったく逆に、世界がバラバラになっている。ひとつの方向にまとまるんじゃなくて、むしろ分権化している。そういう動きを私は「遠心力」と呼んでいるんですが、そういう遠心力が働いている世界と、こういう二つの力学がせめぎ合っているのが、今の世界の状況ではないかという感じがいたします。
最初の求心力の世界というのは、グローバリゼーションやボーダレス化とも言われておりますけども、例えば、民主主義とか人権とか女性の地位とか、誰もチャレンジ(異義申し立て)できない、こういう(普遍的な)価値観というものが世界中に広まって、「中国ですら」と言えば、中国に失礼ですが、民主主義というのは――彼ら流の民主主義ですけども――否定できないものになっています。
経済に至っては、マーケット・エコノミー(市場経済)が世界中で普遍化してしまいました。社会主義のはずの中国やベトナムまでもが、市場経済を標榜し、もちろんロシアも完全にそのようになりました。今では、世界中に行き渡っていると言えます。
それから、情報革命、IT化、さらには地域統合……。ヨーロッパはご承知の通り、通貨が「ユーロ」で統一されましたね。私もこの間、10ユーロ紙幣を人に貰いましたが――「貰う」と賄賂になるんで、ちゃんと交換しましたけども(会場笑い)――ずいぶんきれいなお札ですね。ピカピカ光って、偽札が造れないように工作してあって……。新通貨ユーロが1月にEUに導入されて、もうフランス人でもドイツ人でも、スーパーでも本当にあっという間に流通しているそうですね。最初は皆、マルクとかフランとかに郷愁があるんじゃないかと思ったんですが、結構、人間というのは早く慣れるものだと……。そういう地域統合というのが、ヨーロッパだけでなくて、アジアでも南米でも北米でも起きている。したがって、これらみんな、地球が一個になると、そういう動きなんです。
他方、そればかりではないのが、これまた悩ましいところです。世界中が分権化する。つまり民族対立、宗教上の対立、それから、過激なナリョナリズム。そういったものが、まだまだありまして……。
非常に面白いことを言う学者がいるんですが、このまま世界がバラバラになる分解的な動きを放っておきますと、世界の独立国の数は、あと10年くらいで600くらいになっちゃうと言うんです。今、国連に加盟している国は188カ国ですか……。小さな民族集団で「独立したい。独立したい」というのを放っておきますと、600くらいになってしまうそうです。というほど、世界中がそのように分権的、多極的な動きも、一方で存在しているんです。これを忘れてはいけないんだと……。
したがって、本日のテーマになります「宗教的な問題」というのも、今申し上げた両方の動きに関わっていると思うんです。それぞれの宗教は、本来、世界の平和と、人類の平安を念じておりますから、それは、冒頭に申し上げた求心的な力を応援しているのだと思います。他方、宗教戦争とまでいかなくても、宗教上の対立というものが、まだまだあちらこちらありますので、それがまさに、世界の遠心力を助けているというか、遠心力を加速しているというふうにも、両用に働いているということが言えるんではないかと思います。
▼テロリストが生まれる背景
今まで一般論を申し上げましたので、ここで具体的にひとつ、この間のテロ事件との関係で説明したいと思います。9月11日のテロ事件は、今、私が話した枠組の中で考えますと、「文明の対立」ということになるかならないかの瀬戸際ではないかと思います。というのは、その容疑者であるアルカイダとかウサマ・ビンラディンたちは、これを文明の対立、宗教の対立、人種の対立に持ち込もうとしています。そこに「その手に乗るな」というのが、アメリカや日本や欧州のその他の国だと……。そういう図式ではないかと思います。
つまり、そのテロリストを煽動した人たちは、まさにウサマ・ビンラディン自身が9月の事件の後に語ったようにですね、これは「イスラム教徒対ヨーロッパ・アメリカとの闘争である。戦争である」と……。そういうことなんです。「イスラムに対する欧米からの攻撃を防御し、さらに未然に防ぐ、そういう争いだ」と……。まあそういうふうに定義しているんです。もちろん、これは、彼らの一方的な定義だと思いますが、まさに世界がバラバラになる方向を助長する恐れがあると……。そういうことが言えると思います。
それでは、なぜ、このようなテロ事件が起きたのかと言いますと、これは、新聞・テレビでも、最近は少し静かになりましたけれども、既に報道されております。実は、このアメリカで起こった9月11日のテロ事件というのは、たしかに、非常にセンセーショナルで、大規模なものでしたけれども、今に始まったことではなくて、この十数年、世界的な問題として取り上げられていた頭痛の種のひとつが、この国際テロという問題でした。今度だけではなくて、以前からあちらこちらで、いろんなテロ事件が起こっていたのです。
皆さん思い出していただければ判ると思うんですけども、ケニアだとかタンザニアだとか、あちらこちらで、似たようなテロがありました。ニューヨークでも、実は同じ(世界貿易センター)ビルの地下の駐車場で爆弾テロがありましたですね。その最後の非常に大規模で深刻なものが、9月11日のテロだったと思うのです。
それでは、そのような事件が、ここ十数年、なぜ次から次へと起きてきたのかと分析してみますと、その実行犯が、ほとんどがイスラム教徒であり、さらにアラブの人が多かったということが言えます。今度のニューヨークの場合も、実行犯はほとんどサウジアラビアやエジプトの人で、かつそれを匿(かく)まったのは――まあ、アラブ人ではないんですが――タリバンというアフガン人でした。そういう地域の人たちが、なぜテロに走るのか? ということで、私はこれを彼らのテロリストを生んだ理由、背景として全部で5つ挙げております。
まず、第1は、伝統的なイスラムの世界と西欧キリスト教世界との、この千年以上に及ぶ確執が背景にあります。これは、その昔(中世)、イスラムが世界の文化をリードしていたという時期がありましたけども、近代になって、それが逆転して、その上、ヨーロッパの植民地にまでなってしまったということが、まず挙げられます。そこに、イスラム――特にアラブの人たち――は非常に高い誇りを持っている人たちなんですが、「やられた!」という非常に根深い、反西洋、反ヨーロッパ、さらには反アメリカのそういう深層心理があるということは確かです。これは非常に長い――イスラム教が成立したのは7世紀ですから――1500年からの戦いの結末から出ている「反欧米」という気持ちです。これが、他のアジアの国々にもあります。反米、反ヨーロッパ……。われわれ日本人も、アメリカが勝手なことをすると、「けしからん!」と、私自身も時々思いますけども、それよりももっと根深い、アメリカやヨーロッパに対する非常に複雑な気持ちが彼らにある。これが第1です。
第2は、これがもっと最近の事件になって、歴史上の話だけでなくて、今、現実にイスラム系の人たちが、ヨーロッパ各国や、特にアメリカに苛(いじ)められている、各地でイスラム教徒が「アメリカに攻撃されている」ということが、またひとつイスラム教徒の反発を呼んでいるんです。その例としては、当然イスラエルとパレスチナの問題。それから、バルカン半島(旧ユーゴ)のコソボとかボスニアとかでの民族紛争がありましたね、今、ちょっと静かになりましたが……。それから、ロシアの南にあるチェチェンの問題とか、イラクの国民が経済制裁にあって非常に苦しんでるとか、カシミール(印パの国境紛争)のイスラム教徒の話とか、数え挙げればキリがないくらい、苛められるのはいつも世界中に散らばっているイスラム教徒が、ある意味で、ヨーロッパやアメリカの被害者だという意識が非常にあるんですね。
しかも、10年前の湾岸戦争の後、アメリカはイギリスと共に軍隊をアラビアにいまだに駐留させていると……。イスラム教徒にとっては、この上なく聖なる土地であるサウジアラビアに、異教徒のアメリカが軍隊を置いているということは、非常にイスラム教徒の疳(かん)に触るところでして、それがまた、ウサマ・ビンラディンが犯行声明で言っているところでございます。
それから、最近のアメリカの「一国主義」といいますか、ソ連が崩壊した後、アメリカの力が相対的に強くなり、やや勝手な振る舞いをするように見えると……。独善主義というところがけしからんと……。それに対する反発もあります。そこら辺が、今度の9月11日の攻撃がアメリカに向かった理由なんですね。つまり、憎しみの対象が、ひとつは経済の一番象徴的なニューヨークの世界貿易センタービルというものに向いたという。それから、もうひとつは、アメリカの力を象徴する軍事、それが、ワシントンの国防総省ペンタゴンのビルに向かったという。テロリストの側からすると、「訴える(メッセージ性のある象徴)」というものだったと思います。
▼脳死の場合が問題
そういう意味で、この救急医療の抱えている問題のひとつを、ぜひ皆さんの問題として考えていただきたい。それが、今日の話の第一点です。
それからもう一点。われわれ救急医療の現場では、いろんな方を見ている訳ですけども、救急医療センターでは、担ぎ込まれた方のだいたい2割から3割の方が亡くなります。これはむちゃくちゃ高い数字ですね。亡くなる方のパターンというのは、だいたい大きく3つに分かれます。ひとつは、先ほど言いましたCPA(心肺停止)というケースで、ほとんど短時間のうちに亡くなってしまう訳です。それからもうひとつは、非常に重篤な状態になって、ICU(集中治療室)で懸命な治療をしたけれど、最終的にいろんな臓器がやられてしまった。いわゆる「多臓器不全」といわれるような状態で亡くなる方。これは、本当にもう、状態がとことん悪くなってしまって亡くなるケースですね。それからもうひとつが、脳死という状態になって亡くなるケース。多分、こういう3つのパターンに分かれると思うんですね。
最初の突然亡くなるCPAの方っていうのは、これは、ほとんど早い時間にもう決着がついてしまいます。それから、多臓器不全で亡くなる方も、もちろん、われわれはいろいろ考えられ得る治療を行う訳ですけれど、「結局、それでもダメであった」ということになる訳ですね。これは非常に早い場合は、1日2日という流れで、という場合もあるのですが、通常は1週間から2週間という経過がありますから、その間、家族の皆さんも、傍らで見ておられて、「ああ、だんだん悪くなっていくな」と、おそらくお解りになると思います。その時には、本当に残念ながら、諦めていただかないといけない訳です。
私たち医者がどうしたら良いのか一番困るのが、脳死という状態になった患者さんなんですね。おそらく皆さん、「脳死」という言葉はご存知だと思います。ただ、厳密にどういう状態のことを指しているのかとなると、どうでしょう? 皆さんは「脳死」ということの意味をよく解っていると言えるでしょうか? まず、脳死状態と植物人間状態との違い、これは皆さんきちんと区別してお解りでしょうか? 脳死と植物状態というのは、一見、よく似ているようですが、医学的にはまったく別ものであり、後の経過もまったく違います。植物状態というのは、きちんとしたケアをすれば、長い場合は、数年あるいは十数年もそのままの状態で生きます。でも、脳死状態というのは、どんなに頑張っても数週間程度で必ず亡くなります。ただ、確実に亡くなるんですけども、外から見てると「本当にこの人は亡くなるだろうか?」と思ってしまうように見えるのですよね。そのために、家族の方々になかなか状況が理解していただけない。「本当にもう悪い不可逆(回復不可能)な状態なんだよ」ということが、なかなか解っていただけないというのが、私ども医者の大きな悩みのひとつです。
▼インターネットを通じたご縁で
今日、この会に私をお招き下さったのは、三宅善信様ですけども、三宅様と知り合いになりましたのは、たぶん3年くらい前になるかと思います。三宅善信様が『レルネット』という組織を運営しておられます。この組織は、すばらしいホームページを持っておりまして、いろんな情報発信をしています。実は、当時私は、仏教関係の方と『脳死・臓器移植』という問題について、いろいろ論議をしておりました。その中で、いろんな情報を探している時に、この『レルネット』というホームページに行き当たりまして、見ると、非常に質の高い情報をたくさん流しておられまして、私、非常に感心しました。それから、三宅様とメールを通じてお付き合いするようになった訳です。おそらくそれで、今日も(「泉尾教会の壮年信徒大会で話をするように」と)私に声をかけてくださったんだと思うんですけども……。
当時、私が仏教者と話をしてたのは、「日本人の脳死ということに対しての理解の仕方は何故、欧米人のそれと違うのだろう? その違いは何なんだろう?」と、その模索の中で、原因のひとつは宗教かなと考えました。で、「日本で一番多い宗教は仏教だ」と、まあ単純にそう考えまして、仏教関係の方々と会っていろいろ論議しました。その結果は、現在ホームページ(註=『脳死・臓器移植と日本文化』)になって出ておりますので、もし興味のある方がおられたら、見ていただきたいんですけども。ただ、私自身は、仏教関係の方と話をしてみても、結局、私が抱えた疑問は、残念ながら未だに何も解けておりません。どのようにして皆さんに解っていただいたらいいんだろうかという答えが、未だに判ってない。そういうところが私自身の問題でございます。
脳死という状態は、簡単に言えば、もう「脳が完全に破壊されてしまって、元に戻らない状態」だと考えていただいたらいいと思いますね。脳というのは、人間の意識を司るところと考えられていますね。もちろん、これにも異論のある方もいるんですけども、われわれ医学関係者は「意識の元は脳にある」と考えております。皆さん今、ご自分の意識はあると考えられておりますね。当然ですね。でも、この意識という問題も、実は難しい問題でしてね。「意識って何ですか?」と聞かれた時に、皆さん瞬時に意識についてパッと答えられますか? 非常に難しいですね。意識について、ある人がこんな定義を書いてました。「意識というのは、平生はいつでも誰でも判っているけども、定義をしようとすると突然に判らなくなるなるもの……。それが意識である」と、非常にとぼけたことを書いてあるんです。これ、ある偉い人の非常にまじめな話です。それほど「意識というのは、何ですか?」と聞かれると、定義するのは難しいです。
でも、たぶん皆さんはおぼろ気ながら判っていると思うんですね。これはそれでいいと思うんですけど……。厳密に言うと、その意識というものが、今ちゃんとあるとすると、この「意識がある」ということを維持する機能(大脳)がきちんと働いているということなんですけども、その大脳を動かすための中枢がもうひとつあるんです。「意識の元は脳にある」と言いながら、大脳が自分で勝手に動いているんではないんです。実は、その大脳に指令を送っているところがあるんです。それはちょうど、小脳の近くで延髄のすぐ上の部分(延髄も含めて)にある「脳幹」と呼ばれるところで、ここに、さらに意識を保つための中枢があります。ですから「脳幹」というのは、「脳の中のさらに脳である」と考えてもいい大切なところなのです。
植物状態というのは、大脳がやられてしまって意識がないけれども、実は、この脳幹の機能はまだ残っている(生きてゆける状態)んです。脳死というのは、この脳幹が完全にやられてしまっている。しかもそれが元のように戻らないという状態になってます。そうすると、少なくとも意識に関しては、今の医学では、そういった状態になった方の意識が戻るということは、100パーセント期待できません。
ただ、意識が戻らないという点では、植物状態と同じなんですけども、脳幹には、血圧を維持する中枢もあります。呼吸を維持する中枢もあります。つまり、生命の機能を維持をするための中枢も全部ここに集まってるんですね。だから、ここがやられると、血圧も維持できなくなる。呼吸はとっくに止まっています。ですから、必ずある一定の時間を経ると心臓が止まる。つまり、われわれが通常「死」と呼んでる状態になってゆきます。
▼脳死の際の意思表示を予めしておいてほしい
問題は、その脳死という状態……。これを「人の死」と捉えるのかどうか。これについての個人の考えは非常に違います。われわれ救急の専門医の間で、統計を取りますと、だいたい80パーセントの方が「脳死は人の死である」と答えます。これが、一般の臨床医でアンケートを取ると、半分くらいの方が「脳死は人の死である」と答え、残りの半分の方は、「いや違う(脳死は人の死ではない)」と答えます。皆さんの統計を取った場合、どうかわかりませんけど、恐らくそれよりは少ないかと思います。それでもやはり、「脳死を人の死」と考える方と「いや違う」と考える方とに意見が分かれると思うんですね。
でも、これは今のところ、それ以上の決め手が何もあるわけではないので、別にそれを死と捉えるか捉えないかは、全く個人の問題です。ただ、医学的に言えることは、(脳死の状態になりますと)必ず近い将来亡くなります。亡くなるというのは、心臓が止まるという意味です。ですから、それはもう覚悟しないといけないんですね。そうすると、そこにある一定の時間の余裕といいますか、その方の最期に何かしてあげられることを考える時間が生じてくる訳です。ですから、もし不幸にしてそういう状態に遭遇したときには、少なくともその方に「どうしてあげたら一番いいんだろう?」ということは、ぜひ考えてあげていただきたい。
その(脳死状態の)時に「どうしてあげるのがいいのか?」というのが、これもまた非常に難しい問題で、例えば今、人工呼吸器が付いてます。点滴もしてます。薬もたくさん使ってます。そういう状態でもいいから「これでもまだ頑張ってくれ」と、この状態をどんどん続けていって、薬ももっと使って「1分でも長く生かして欲しい」という方もおられます。逆に、もうそんな状態になったんだったら、管を抜いて「早く楽にして欲しい」という方もおられます。これはもう、いろんな考えがある訳で、私共は別に、どの考えが正しいとか間違ってるとか言うつもりは全くございません。
それは、それぞれの方の考え方次第です。ただ、家族の方がきちんと意思表示をしてくださらないと、私たち医師が困る訳ですね。どうしたらいいんだろうと、いつも悩んでしまいます。ですから、万が一、そういう事態になった時のための意思表示を予めきちんとしてほしい訳です。「自分だったらどうして欲しい」あるいは、「家族の方だったらどうしてあげたい」ということを、ぜひ考えておいていただきたいんです。
死というのは、われわれが絶対に避けては通れない問題なんですね。ですから、どんな偉い人でも絶対に避けては通れないこの問題は、必ず皆さんにも考えておいていただきたい。救急で突然、搬(かつ)ぎこまれて、非常に状況がバタバタしている時に、「その中で考えなさい」って言ってもなかなか難しいですね。そういう意味ではむしろ、本当に気持ちに余裕のある時に、「自分はこうなりたい。あるいは家族はこうしたい」ということを考えていただくほうが、きっと良いと思うんです。皆さん方はこれまで、そういう論議をされたことがあるかも知れませんけども、ぜひ一度考えてみて下さい。
救急医の立場から申しますと、脳死という状態になれば――医学的にはもう、近い将来必ず亡くなるというのは、明らかなことですから――当然、私たちは、できるだけいろんな選択肢を皆さんにお示しします。「人工呼吸器を早く止めて(これ以上延命措置をしないで)ほしい」というのも、ひとつの選択肢です。あるいは、「人工呼吸をずっとそのまま続けてほしい」というのも、ひとつの選択肢であります。あるいは、もう(不可逆な)脳死の状態になっているのですから、「他の人に臓器が役に立つのであったら、臓器提供してぜひ役に立ててあげたい」。それもひとつの選択肢です。逆に、「臓器提供なんか絶対しないよ」というのもひとつの選択肢です。どれを取るかは皆さんのお考えですけども、それを残された家族の方に決めてもらうよりは、元気なうちから、ご自分で決めておいたほうが、残された家族の方もきっと安心すると思いますね。ですから、ぜひそういう問題は、皆さん平生からお考えになってはいかがでしょうか?
救急医療というのは、いろんな所で、非常に苦しい選択をしないといけない場面がたくさんございます。最初に申しましたように、皆さん突然に病院に搬ぎこまれる訳ですから、その突然に変化した状況の中で「決めなさい」と言われたって、なかなか決められない。それもその通りだと思います。ですから、平生から何か考えておけば、たぶん、そういうことを決める時の、ひとつの助けになるかなという気はします。
★臓器移植について
脳死という診断、これは全く純粋に医学的なものです。別に脳死ということを(人の死であると)「認める」とか「認めない」とかということではなく、脳死という状態は、これは医学的に判断できることです。心電図を撮ったら心筋梗塞だと診断しました。レントゲンを撮って肺癌だと診断しました。血液を採って肝臓が悪いと診断しました。それと全く同じで、脳死というのは、医学的にはきちんと診断できます。ですから、脳死を人の死と認める認めないは別として、私たち医者は、診断はきちんと行います。そして、その結果はきちんと皆さんにお伝えします。その診断結果を皆さんが聞かれた時に、「後はどうされますか?」という質問になる訳ですね。その段階で私共は、「臓器提供の意思があるかないか?」ということも伺います。
「意思表示カード(ドナーカード)」というのが、世間にたくさんあるのをご存知ですか? 私自身も一応、持っておりますけれども。こういうカードを皆さん見られたことないですか? 結構、今いろんな所に置いてあるので、ご存知の方もおられるかと思います。これは、厚生省あるいは「日本臓器移植ネットワーク」という所が発行しているカードで、この裏に、自分はどうしたいということが、選択して書けるようになっております。
その選択肢は3つあって、最初は、「私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します」。2番は、「私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します」。3番、「私は、臓器を提供しません」という3つの選択肢が書いてあります。どの選択肢にするかは、もちろん皆さんのご自由なんですけれども、ただ、例えばこういう物を参考にして、自分はどうしたいのかということを考えておかれると、不幸にして脳死や心停止という状態になってしまった時にも、多分、残された家族の方は、その方のことを考える時に、ひとつの参考になろうかというふうに思っています。
現実に脳死という状態になった場合、私たち医者は、必ず家族全員の方に、「こういうカードを持っていませんか?」ということを確認します。こういうカードを持っているということは、何らかの意思があるわけですから、そうであれば、その方の意思をできるだけ生かしてあげるように努力します。「提供したくない」という方は、もちろん「したくない」で良い訳ですし、「したい」という方があれば、できるだけ、提供できるように私たちは動きます。
救急医療の現場の医師というのは、別に臓器移植がしたい訳ではありません。臓器移植に賛成でもなければ、反対でもありません。患者さんが一番望むことをしてあげたい。それがわれわれ救急医の立場です。ですからその中で、もし意思がはっきりしてれば、できるだけ私たちもその意思に沿いたいと思っております。そういう意味で、平生からこういうことはぜひ考えていただきたいと……。まあ本当は、救急救命センターに来ないのが一番良い訳ですけども(会場笑い)。中にはやはり、不幸にして来られる方がおられる訳ですから、決して避けては通れない道なんですね。
★医療の質を維持するということ
今、医療というのは大きく変わってきております。先ほどから、「経済の状況が非常に悪くなっている」という求道会員の皆さんの感話を聞かせていただきましたが、医療の世界も全く同じです。これは、経済的な問題であります。それから、医療の質というものもどんどん変わってきております。その医療の質をどのように維持していくかということが、私たち医者にとっては大きな問題です。もちろん、経済的な背景も必要なんですけれども、それ以上に、現場での医療の質の維持ということが、今私たちの大きなテーマになっております。現場での医療の質を維持するために必要なことは、皆さんがきちんと自分の意思を表示できるということです。これは、脳死といったような究極の問題だけではなくて、日常の医療、診断治療においても、ということです。
皆さんに、医者に対して、「どうしたいんだ」とか、「どうしてほしいんだ」ということがきちんと言えるようになっていただく……。それが医療の質を維持するということなんですね。今までは皆さん、病院に行って、医者から「じゃあこうです」と言われたら、「先生のご判断にお任せします」というような返事が結構あったんじゃないかと思うんですね。「お任せします」というのは、われわれ医者にとっては、ある意味、都合の良い答えではあるんですけれども、たぶんそれでは、医療の質は維持できないんです。本当に医療の質を維持するためには、皆さんがきちんとその中身を知って、「いやそれは違うんじゃないか? それはおかしいんじゃないか?」と、どんどん疑問を持って、医者にぶつけて、その結果きちんとした選択をする。それが、医療の質を維持するひとつの条件です。
「インフォームド・コンセント」という言葉を皆さん聞いたことないですか? インフォームド・コンセントというのは、最近われわれの世界では、非常に重要な言葉になっています。インフォームというのは、「情報を与える」ということ。それから、コンセントというのは、「同意する」ということです。つまり、(医者が患者に)十分に情報を与えた上での同意。日本語では「説明と同意」というふうに訳しておりますけれども。十分に説明を受けて、それで納得して、最終的に「自分はこうだ」ということを決める。それが、インフォームド・コンセントということです。
このインフォームド・コンセントということを、今まで医療側もきちんとやってこなかった。これはもう、本当に医療側の大いに反省すべき点ですけども、皆さんもたぶんそういうことにあまり興味がなかったということがあると思うんですね。でもこれは、お互いに間違いです。われわれも、きちんと情報を提供できないのは、これは間違いですし、それをきちんと聞かないのは、やはり皆さん方の間違いだと私は思います。ご自分自身のことですから。絶対に他人(医者)に任してはいけないですね。どんどん医者に聞いて下さい。もし、臨床の場で、説明を求めても、説明をしない、うまく説明できない、十分に説明してくれない医者がいたら、それは悪い医者だと思ってかまいません。もうそれは、初めから悪い医者だと思って下さい。私はそんな医者は全く信用する必要がないと思います。皆さんが解らないことはどんどん聞いていただいて良いと思います。そして、十分に納得して、決めていただければ良いですね。それが今、医療の質を維持するためのひとつの条件になります。
ですから、今の医療というのは、病院に任しておくというのではなくて、皆さんが積極的に参加しないと、維持できない状況になっているんだということです。今日は、まず最初に、応急処置の話をしましたけれども、これは、いわば救急医療の入口と考えていただいたらいいと思うんですね。それから、最後に脳死という問題を挙げましたけども、これは、救命医療の不幸なる出口と、考えていただいたら良いと思うんですけれども、この入口と出口の部分に関しては、今お話したように、皆さんがきちんと行動し、きちんと考えておかないと解決しない問題です。
ですから、この救急医療の入口と出口を良くするも悪くするも、その鍵は皆さんの手の中にあるといっても良いと思うんですね。今の救急医療が、決してわれわれ医者だけでやっているんではないと、皆さんも参加すべき医療だということをご理解いただけたらよいと思っております。そして、これは医療全体でも言えることですけれども、そのように医療に皆さんが取り組んでくだされば、われわれも非常に有難いと思います。まあそういうことで、少なくとも「救急医療の入口と出口の鍵は、自分たちが握っているんだ」というご理解をいただければ幸いでございます。これで私のお話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。
(おわり)