前川朋久先生
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2月23日、男子壮年信徒大会が開催され、『私の歩んできた道』の講題で、大阪府労働者福祉協議会会長の前川朋久氏が記念講演を行った。前川氏は、長年、松下電器産業労働組合の委員長を務められ、その後も、連合大阪会長から国際労働問題研究所理事長などを歴任された労働・雇用問題の専門家であると同時に、「社会貢献する労働組合」を標榜して、日本の労働運動を質的に転換させてきた人物でもある。前川氏は、このたびの男子壮年信徒大会において、出口の見えないデフレ不況下、新しい労働者のあり方を説かれた。本サイトでは、数回に分けて、前川朋久氏の記念講演を紹介する。
◆浪花節には滅法弱い
皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました前川でございます。本日は、伝統と意義のある泉尾教会の壮年信徒大会に、私のような者を呼んでいただきまして、大変感激をしておりますし、名誉に思っています。
三宅善信先生とは、ひょんなことからというか、国際ボランティアを通じて知り合いになりまして。その後もずっとお付き合いをさしていただいております。先般、その善信先生から「泉尾教会へ来てちょっと喋(しゃべ)れ」ということを言われました。これまで、このお教会で講演された講師のお歴々の名簿を見せていただきまして、びびって、「ちょっと私は堪忍してほしい」と言ったんですが、「たって(の願い)」ということでしたので、おくめもなくやってまいりました。
私自身は熊本県荒尾市の出身でございまして、本日、泉尾教会へ来させていただく直前も、「関西荒尾会」という荒尾から出てきた人たちの集まりに参加してきました。そこでビールをちょっとだけ頂いてきたんですが……(会場笑い)。
私は、18歳で高校を卒業して大阪に出てきて、そのまま松下電器に入りまして、25歳から58歳の直前まで、労働組合の専従をずっとやってまいりました。特に、最後の14年間は、松下電器産業労働組合の中央執行委員長をやらせていただき、その最後の4年間は、連合大阪の会長をしてまいりました。現在は、ご紹介いただきました大阪府労働者福祉協議会の会長をしております。
そういうような意味で、ある意味「組合馬鹿」とは言いませんが、労働組合のことしか知らない人間でございます。皆さん方のためにどういう話ができるか分かりませんが、一応、私なりに、この50年近くの組合人生で感じましたことをいくつかお話し申し上げたいと存じます。
最初に、私が労働組合の専従役員――会社の仕事を休んで組合の仕事に専念する人のことを専従役員と言うんですが――になったきっかけは、ある先輩の一言でございました。実は、私の親父は――年輩の方はご存知だと思いますが――日本の労使関係を変えた、日本のエネルギー政策を変えたと言われる昭和35年の、あの三池大闘争の直前に三井三池炭坑の労働組合の専従役員をしてまして、夜は遅いし、休みはないし、家に金は入れないはという生活が続き、お袋の苦労も大変でございました。ですから、正直言って、子供の頃、家庭団欒(だんらん)、親子団欒ていうのは、ほとんど経験したことがなかったものですから、労働組合そのものには一種の親近感を持っておりましたけれども、「専従役員だけは絶対ならない」と思っておったんです。
前川朋久氏を講師に招いて開催された
金光教泉尾教会の男子壮年信徒大会
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ところが、昭和39年の夏に、私の先代の委員長である高畑敬一さん――これはご存知の方もおられると思いますが、今はNALC(日本アクティブクラブ)という、自分のボランティア活動を預託して、その預託した時間分だけ自分がボランティアを受ける場合に返ってくるという団体の会長をしておりまして、全国に81支部15,000人くらいの会員を持っているんです――が、「前川、電機労連本部に来い」と口説きに来ました。私は先程、申し上げましたように、専従は嫌(きら)いですから「嫌(いや)です」と言ったんですが、彼は私に「お前、最近結婚したらしいけど、やがて子供が産まれる。その子供が大きくなった時に、『お父さんは若い時に、これだけ皆のためになる仕事をしてきたんだ!』そういう話ができるということは、男として、親として幸せと違うか?」と、こう言ったんです。私は滅法、浪花節に弱いんです。忠臣蔵を毎年何回見ても、同じ場面で涙が出るくらい浪花節に弱いんで、思わずその一言で「はい。やります!」と言ってしまったんです(会場笑い)。
後で聞きますと、「俺(先代の高畑委員長は18年間委員長をやっていた)が口説いた中で、お前が一番『ハイ』と言うのが早かった」と言われました(会場笑い)。ともかく、その一言で私は労働組合の専従役員になってしまいました。そして、それを定年間際までやるということになるんですが……。今、仮にそういう言葉を私が今の若い者に言っても、どれだけ通用するのかな? ということは正直に思います。しかし、このことは大事なことだと思います。やっぱり、子供に自分の生きざまを胸を張って言える――それを子供が誇りに思ってくれれば一番いいんですが――そういう目で親を見るということはとても大事なことだということは、今でも、そう思ってます。そんなことで、今まで組合の役員をずっとやってきました。
◆労使の関係はお互いを映す鏡
松下電器というのは、ご承知のように松下幸之助さんが創業した会社です。あの方とも、正直申しまして何度か、かなり激論を交わしたことがありました。非常に頑固な方でしたけれども、変な言い方ですが、あの方は、問題をぶつけますと、決してこっちの思った通りになってはいないんですけれども、なんとなくスカッとして収まるという不思議な方でした。
この松下の労使関係――本日ご参会の方には、管理職や経営者の方も沢山おられると聞いてますが――俗に言う労使関係とは、「労働組合と会社の関係」という意味で使われることが多いのですが、一番の労使関係の基本は、「管理職と従業員の関係」だと私は思っております。要は、その会社において、経営者・管理職からちゃんとした情報が従業員に流され、従業員も経営に関心を持って経営に対する意見をいろいろ言う。お互いに課題や問題点や目標を共有化しているかどうか? そのことが、労使関係が良いか悪いかの「物差し」だと、私はこのように思ってました。
労使関係を「車の両輪」に譬(たと)える人がありますが、私はもっと進んで、労使関係は「お互いを映す鏡」だと思っております。「けしからん経営者だな」と思っている労働者は、自分たちが悪い。経営者から見れば「けしからん従業員や」思っているのは、自分の悪さが映っている。「お互いの悪さ加減が映っているんだ」と、こう見るべきだと私はずっと確信をしてまいりました。
松下の労使関係の基本というのは二つありまして、ひとつは「対立と調和」これは松下幸之助の言葉として非常に有名でございますが、要するに、正しいことは、心を込めて誠意を込めて訴えれば、必ずそこには理解が生まれる。しかし、労働組合と経営という立場が違っても、正しいことは、絶対必要なことは、誠意をもって伝えれば必ず理解が生まれ、そこに調和が生まれる。それがまた調和しているうちに、また新しい対立が起こる。対立だけでは物事は解決しないし、調和だけでも発展しない。対立と調和を繰り返しながら、お互いが発展していくんだ。あるいは成長していくんだという、彼の信念でございます。
実は、松下の労働組合は、昭和21年1月30日に、大阪の中之島の中央公会堂で結成大会を開きました。昭和20年8月15日の終戦から、約半年後のことでございますが、当時は、戦時中の弾圧の蓋(ふた)が取れて、労働組合があちこちにできていったんですが、世の経営者の方々は、当時の文章を読みますと、労働組合の誕生を「蛇蠍(だかつ)のごとく」恐れ嫌ったという一文があるように、経営者は皆、労働組合を嫌がってたんですね。ところが、松下幸之助は、1月30日に中央公会堂に乗り込んできました。「(労働組合の結成大会を)やります」という知らせは行ってましたけど、招待状は出していませんでした。けれども、彼は役員を引き連れて、中央公会堂にやって来て、大会を傍聴してまして、途中で演壇に上がって「挨拶をさせろ」と言いました。そして、「皆さん方の正しい労働組合と、私の考える新しい経営、民主的な経営は必ず一致する。労使で力を合わせて、新日本建設に邁進(まいしん)しよう!」という挨拶を堂々とされて満場の拍手を浴びました。
◆松下幸之助を公職追放から救ったのは労働組合
その年の秋に、ご承知のように日本を占領していたアメリカ軍GHQ(連合国総司令部)が、いわゆる『公職追放令』というのを出しました。「戦時中に、軍に協力した学者や企業の経営者たちを公職から追放する」というその名簿に、松下幸之助さんも載りました。残念ながら(戦時中は国家総動員体制でしたので結果的に)終戦間際に、軍部の要請で、船を造ったり、飛行機造ったりしてました関係上、追放者の名簿に載りました。
しかし、松下電器は、松下幸之助の手腕で、そこそこ大きくなってきた会社で、やっと「これから戦後の立て直しをしよう」とする時ですから、ここで松下幸之助が(追放で)いなくなってしまえば、松下電器はガタガタになって崩壊する。ということは、とりもなおさず、「従業員が路頭に迷う」ということでありますから、当時、私たちの大先輩の組合幹部たちは、『社主追放免除嘆願運動』を起こそうということで、組合員の93パーセントの署名を集めて、あの交通事情の悪い中、何回も上京してGHQや政府の要人に、「松下幸之助はこういう人だ! 松下電器はこういう会社だ! 是非(公職追放リストから)除外してほしい」という運動を起こしました。
その結果、無条件追放となる「A項指定」という一番重いところにいったんランクされた幸之助さんが、資格審査後追放になる「B項指定」と格下げになり、遂には、それも外れました。当時は、唯一だったと言われています。まあ、その後の松下電器の発展は、「経営の神様」と言われた松下幸之助のお陰と言われている訳ですから、間接的には労働組合が幸之助を救い、松下電器を救ったと言える訳です。
当時、日本のほとんどの労働組合は、「追放推進」、「追放賛成」でした。例えば、A社では「なんで社長だけやねん! 副社長も専務も追放してほしい」ということを、GHQや日本政府へ嘆願運動をしてた訳ですね。このような中から、労働組合と経営との間に、もうひとつの理念「信頼と対等」すなわち、お互いの信頼関係をもとに、上下関係でもない「対等な関係なんだ」という考え方が生まれた。
◆時代によって変わらなければいけないもの
この二つの出来事に共通することは、「時流におもねない。時流に流されない。今、何が最も大事なのか?」ということを信念として持って行動したということであります。この「対立と調和」とか「信頼と対等」という理念そのものは、もちろんどんな時代になっても大事だと思いますが、その基本にある「時流におもねない。時流に流されない」という、何が今、自分たちにとって、組合員にとって、会社にとって、あるいは社会にとって、大事なのか? ということをきっちり捉えて、行動に起こす。そのことが非常に重要ではないのか。このことを、私は松下電器に入り、労働組合の役員をしながら学んだものでございます。
その当時は、ご承知のように、たくさん日本の経営・労働運動に誇れる多くの成果を、先輩たちの努力あるいは労使の協力で生み出してまいりました。けれども、どんなに良い制度でも、どんなに優れたものでも、時代が変わり、社会情勢が変われば、変わらざるを得ない。変えざるを得ない。このことが今の日本の労働運動の一番のポイントでございます。しかし、なかなか変えるべきことを変えられない。このことが一番大事であります。
例えば、私共は昭和四十年代の半ばに、今話題になっていますパート労働者の問題に取り組みました。当時は、パート労働者が未組織でしたので、不安定で低い労働条件で働いている人たちを「なんとかせなあかん!」労働組合もそれを労働組合へ入れようと取り組みましたし、政府のほうでも、いわゆる均等待遇ということをなんとかしようとしました。私たちは、もう昭和40年代半ばに、パート労働者を組合員にし、正社員と同じ賃金を支払う仕組みにしました。当時は、素晴らしいことだったんです。
ところが、こんな時代になりますと、その事業部から(何々だけに従事する)パート(として雇用したの)だから、簡単に今、必要な部署に配置転換できない(註=雇用のミスマッチ)。あるいは仮に、経営がしんどい。人が余ってても、俗に言う解雇できない。非常にこれが経営にとっては手枷足枷(てかせあしかせ)になっている。もちろん、「雇用を守る」ということは、非常に大事なことでございますが、そういう問題だってある。
あるいは、この前、新聞を大変賑わしましたが、「福祉年金」という退職金を預けて、わりといい高利で回して(高配当で)年金でもらえることになっていた福祉年金の制度も、結果的にはもうもたない。一部反対もありましたけれども、回す利率を下げられない。というように、変えなきゃならないものは思いきって変える。このことが非常に大事であります。
俗に「チャイナエッグ」という言葉があります。これは、文字どおり、チャイナと言うのは陶器のことでありますから、「焼きものの卵」すなわち、なんぼ温めても、孵(ふ)化しません。雛にかえりません。ですから、現行のシステムがチャイナエッグであるのかそうでないのかを、きっちり見極めなければなりません。今、労働組合の中では、それが見極めきれずに、昔のまんまやってる組合がいっぱいあります。俗に、日本の古いものの代表――泉尾教会には、今、お相撲さんが来ていて申し訳ないですが――「歌舞伎と大相撲と労働組合」とが、日本の古い(体質を残した)ものの代表三つだ」と言う、口の悪い人もおりますが、そういうこともあって、やはり、変えるべきことは変えなきゃいけないということだと思います。
●社会貢献する労働組合
その中で、唯一誇れるということをあえて言えば、私は、ユニオンシチズンシップという考え方と言葉を創りました。ユニオンシチズンシップ……。一般に、コーポレイトシチズンシップ(企業市民)という言葉がございます。その意味は、「企業も社会の中の一員で、社会の中でお世話になっているんですから、社会に貢献しなければいけない」という、企業の社会貢献運動をコーポレイトシチズンシップという言い方でされていますが、私は、労働組合を企業以上に社会にお世話になっている社会の一員だとするならば、「自分たちの労働条件や、自分たちの雇用をもちろん守らなければいけませんが、それ以上に、社会全体に役に立つ活動をしなければいけない」という考え方をユニオンシチズンシップということで掲げました。そして、実際に内外の社会貢献活動をずっとやってきました。
10年ほど前に、こちらの教会の青年大会で、私共、松下労組の国際部長でありました古賀賢治をお呼びいただきまして、松下労組の社会貢献活動についてお話しさせていただきました。例えば、セネガルという西アフリカの砂漠の国で植林をお手伝いしたり、あるいは、そういう国だからこそ、あの1990年の花博に出展していただいて、「砂漠化」の問題と緑化の大切さを訴えたかった訳ですが、「金が無いからできない」というのを、松下労組から資金援助させてもらって、出展してもらう等々、ずっとやってまいりました。
そして、連合大阪の会長になってから、私は――先ほど労働組合の体質の古さ加減を指摘しましたが、労働組合の活動と言いますと、なかなか結論とか成果が見えにくいんですよ。だから――なんとか目に見える、あるいは数字に現れる制度を挙げたいなという思いがありまして、「大阪を障害者雇用の一番進んでいる府県にしたい」ということを会長就任の時に打ち上げまして、おかげさまで、すぐそれに呼応してくれた大阪市の職業リハビリテーションセンターの関さん(関宏之所長)たちが立ち上がって、ネットワークを組んで、インターンシップを含めまして、かなり、日本の中では障害者雇用の進んだ地域になってまいりました。
ご承知のように、やっと障害者雇用率が上がってきたのに、この不況で、また障害者の雇用が大変困っていますけれども……。これからの時代、組合自身も自らの会社が危ない。ですから、日本の組合員の明日の生活に不安ありますが、それ以上に、恵まれない方々、あるいはしんどい方々がおられる訳ですから、このことはやっぱり疎かにしてはならない、という具合に思っておる次第でございます。
●まず信頼される人になることが大切
その中で、私自身が組合活動を通じて学んだことは、私自身は労働組合員で一生を終わることを決して悔いておりません。たくさんのことを学びました。まずひとつ目は、「自分以外は全て先生だ」ということです。正直言って私、若い頃は、ちょっと文章はうまいな。ちょっとはしゃべれるな。アイデアは多少ひらめくな――天狗になっていたとまでは言いませんですけれども――多少自分では、まあ俗に言う「できるほうやな」と、思っていた時代もなきにしもあらずでした。
しかし、私は労働組合を通じて、組合関係者だけでなく、実に多くの経営者、学者、あるいは弁護士、芸術家、文化人――これらは日本国内だけでなく外国の方も含めてです――たくさんの人々とお会いしました。そのどの方々も、すばらしい方ばかりでした。「自分のほうが優れてる」と思ったことは一回も無い。会う人会う人から学ぶことがたくさんありました。これは、松下幸之助氏も同じことをおっしゃっていますが、やっぱりそのことを「すべての人が先生だ」とおっしゃっていました。「ああこの部分は私に無いとこだ」ということで、受け入れて学ぶ。常に謙虚である。このことが非常に大事だということを、身にしみて感じました。
二つ目は、そのことを含めて、「すべてのことは人間関係だ」ということを教えられました。とりわけ「信頼関係だ」ということです。ご承知のように、労働組合というのは、金も無いし権力も無いんですよ。さらに言えば、人事すら自由にならない。すべてが選挙で決まりますからね。そうすると、やっぱり、お互い信頼される――まあ尊敬されるのが一番いいのですが、その前段の信頼される――ということが、絶対に不可欠なんです。「あの前川が言うてることやから聞いたろか」というのは、そこから生まれる訳ですから、やっぱり「信頼される人になる」このことが非常に大事だなと。こういうことを感じました。
それから、そのことと相関連するのですが、やっぱり「世のため人のために骨惜しみをしない」ということが大切です。人から感謝される喜びというのは――まあ、正直言って労働組合と言うのはあんまり褒めてもらえませんし、あんまり拍手を貰ったこともありませんが――それでもやっぱり、「人のお役に立ったな」ということはあります。ですから、そのために「骨惜しみをしない」ということが、非常に大事だろうと思います。
そのためには、もうひとつ、俗にいう「他責」。すなわち、人の責任、他の責任にしない。まず、自分の責任、自分の行為。足りてたのか、足りてなかったのか。正しかったのか、正しくなかったのか。自分でまず受け止めてからスタートしないと、「誰それがサボったから」とか、「誰それが変わったから」とかいう他責からのスタートは絶対にいけない。こんなことを学んできた訳なんです。
私自身は若い頃、座右の銘として、「人生、意気に感ず」というのが一番好きな言葉でありました。それで、晩年委員長になってからは、これも中国に似たような言葉があるのを、勝手に私が造ったのですが、「有志無私」、すなわち「志はあれども私心はない」、このことをしっかり肝に銘じて仕事をしてきたつもりでございます。したがって、人間として、人生を送る上で、役に立つことをたくさん組合活動から学びましたし、そして、たくさんの信頼すべき多くの知人友人ができました。
●わが人生において反省すべき点
そういう意味で、先ほど「悔いはない」と言っていたんですが、ただ、率直に言って、反省しなければいけない点も、自分なりに2、3あるんです。ひとつはやっぱり、なんと言ったって、家庭家族を蔑(ないがし)ろにしてきたことです。これは非常に申し訳なく、女房に感謝するのみでございます。放ったらかしてた息子娘も、曲がりなりにもグレずに成長してくれましたから、まあ良かったものの……。それでもやっぱり、正直に申しますと、子供たちが小さい時に、例えば、キャンプに行って一緒に薪を拾う。一緒に火を起こして飯盒(はんごう)でご飯を炊く。あるいは、一緒に魚釣に行き、一緒に仕掛けを作り、餌を捜してくる。こういう共通体験、体の触れ合いというのがあまりありませんでした。
したがって、子供たちと私の間に、なんとなく薄皮一枚あるような感じが――これは私のひがみかもしれませんけれども――あってしょうがないのであります。また、かみさんからは、「本気で離婚を考えたことは2回や3回ではなかった」と言われてますが、このことは、反省の第一ですね。今、世の中の価値観が少し変わって、昔は「家庭と仕事とどっちが大事か?」と言うと、「仕事が大事だ」と言うほうが多数派でしたが、今の若い奴はそうじゃないんです。齢(とし)いくにしたがって仕事のほうが大事だと……。
それから、「プライベートな楽しみが大事だ」という人の比率も、若いほど高くって、齢いくと低くなってゆき、その割合を表したグラフは、だいたい中年くらいの所で交差するんですが、これは昔のことです。今は、これがそうじゃなくって、「両方とも大事だ」という人が圧倒的に増えてます。これを、私が理事長をしている国際経済労働研究所の調査によりますと、「ONION」と名前が付けられます。ON、OFFのONとONの真ん中にI(私)を付けて「ONION」という名前を付けているんですが、いわゆる「両方ともONなんだ」と……。年齢層に拘わらず「仕事も家庭も大事なんだ」と……。ですから、現在では、だいたいこんなこと(註=グラフが中年で交差する)にならず、こうなってきていることは、良いことだと思います。
それから、反省点のふたつ目には、やっぱり、人に誇れる趣味が持てなかった。「趣味は何ですか?」と聞かれると、一番無難な答えは「読書です」と言っておけばよいのですが、申し訳ないんですが、私は賭け事がわりと好きなんですが、まさか「パチンコです」とか「競馬です」とは言いにくいんですよ(会場笑い)。誇れる趣味というのは、人に語れる、あるいは、人に教えられるという意味では、これは持てなかった。一番やりたかったなあと思うのは、やっぱり英会話。あるいは社交ダンス。あるいは囲碁。これらは全く上品で良いんですけれども、これが持てなかったと……。まあ今からでもいいから、やろうと思っていますが……。
3つ目は、健康の問題です。私は小さい頃、体が弱かったですけれども、中学2年から始めたバスケットでむちゃくちゃ鍛えられまして、それから、自分で過信するほど体が強くなりました。少々の徹夜徹夜も平気なほどスタミナが付きました。だから、無茶してきました。体に良いことは何もせずに、体に悪いことを選(よ)ってやるような生活をしてきましたから、ここへ来て、これまた、かみさんに言わせると、「病気のデパート」と言われるほど、体のあちこちが痛んできました。今日は、ご年配の方がかなりおられますが、1993年に「不整脈だ」と言われまして、それからずっと2カ月に1回、心電図を撮って、血を採って、薬を飲んでいるんですが、これはもう持病ですね。
これが出ると、今はやりの例の「入院保険」というんですか、「入院後を保障してくれる」という保険。あれ実際には、なかなか入れてくれないんです。で、ここに保険関係者がおられたら大変失礼ですが、「誰でも入れます」という宣伝をテレビでしていますが、あれも、確かに、入れるには入れるんですが、「既に持っている病気から起こった事故は保障しない」という一項目が確かありましたし。「持病が原因で起こった時には、何年以内は保障しない」とか、かなり条件に制限があります。だから、組織にいる間は、組織の健康保険やら何やらが守ってくれますが、組織から離れた時にどうなのか、ということを、若い頃からきっちり人生設計を立てなきゃならない。こんなように思っておる次第でございます。
●21世紀型の産業をどれだけ育てられるか
そういう中で、私は、1998年に松下電器を定年となり、それから、先ほど言いました連合会長を99年に退職して、今は、大阪府労働者福祉協議会という、労働金庫とか全労災とか住宅生協といった労働者の福祉団体をまとめながら、府民に対する福祉をどう提供するかという仕事をしてるんですが、最近、非常に強く感じている問題点が2つ3つありますので、そのことを最後に申し上げたいと思います。
ひとつ目は、大きく言えば日本の将来、もう少し卑近な言い方をすれば、ずばり「雇用」状況です。まったく不充分です。日本は「治安の良い国」と外国の方からよく言われますが、最近は治安がかなり悪くなってます。そんな中で、「よく暴動が起きないな?」と思うぐらい、雇用は大変な事態に陥っていると思います。
雇用をきちっと確保するには、労働者の仕事をする場を生み出す努力が欠けていると思います。今月(2月)の上旬に、第41回目の関西財界セミナーが国立京都国際会館であり、私も10年間ずっと参加しておりますが、そこで、私は『関西の魅力とは?』という分科会に入っておったのですが、皆さん声をそろえて、「大阪名物」のひったくりや路上駐車や青テント(ホームレス)まで言い出して、「(見苦しいものは)断固として排除せなあかん!」と、こう言う訳ですね。そして、観光でもっと人を呼ばないといけないから、「大阪城の城壁と隣の難波宮蹟をユネスコの『世界遺産』に登録」して、それからカジノまで作ってと……。某会社の某社長などは、「カジノ以外に絶対、大阪を救う道はない!」と、こんな言い方をされるんです。
私は「ちょっと待って」と思いました。2つ引っ掛かるんです。ひとつは青テント……。確かに大阪であろうがどこかであろうが、ホームレスはいないほうが良いに決まってるのです。私も「なくなればいい」と思います。しかし、ホームレスを(犯罪である)ひったくりや路上駐車と同じように扱って、「ホームレスを断固排除!」という発想はちょっとやめてくれよと……。「もう少し、行政や労使が力を合わせて、違うアプローチで無くす努力をせんとあかんのとちがうか?」という意見を言いました。
もうひとつは、確かに大阪城が世界遺産になれば結構なことです。カジノも来れば結構ですが、それ以前にもっとやるべきことがある。21世紀型の産業を、大阪で、あるいは、日本全体でたくさん生み出して、育てるという努力が、経営者にも欠けているし、政府にも欠けている。ロボットあり、バイオあり、環境ビジネスあり、教育介護ビジネスあり、いっぱいあるんです。したがって、これらの育成については、徹底的に無利子の資金を銀行に投入する。あるいは、税金をまける。そういうふうにして、重厚長大の20世紀型産業から、新しい21世紀型産業を大阪をはじめとする関西各地に生み出す。この努力が決定的に欠けてるというふうに思います。これが、まず第一です。
●本当のワークシェアリング
2番目には、働く側にも多少問題があります。これは、意識の問題です。「俺は課長やから、課長相当の仕事しかせえへん(しない)ねん」という意識がある。今、俗に「3つのミスマッチ(不適合)」があると言われています。能力のミスマッチ、賃金のミスマッチ、最後に年齢のミスマッチです。その中でも、年齢のミスマッチについては、全面的に経営者側が悪い。私は、大阪の職安に対して、特別にその年齢しかできないという職種が稀にあることはありますけれども、一般的には「年齢制限を付けてきているような求人は受け付けるな」と言ってきたくらいで、もっと求人年齢を引き上げてもらわないと、「40代過ぎると働けない」という状況です。
したがって、年齢のミスマッチは、完全に経営者側が悪い訳ですけれども、前の2つ(能力と賃金)は、従業員側、求職者側も意識を改めて、資格を得られるように、なんにでも挑戦する。多少の賃金ダウンは当面我慢する。というようなことを、やっぱりしなきゃならない。その上で、日本の職業訓練の仕組みをもっと変えなきゃならない。何かというと、1人ひとりのオーダーメイド型訓練を作っていく。レディーメイドで「このコースに入りなさい」ではなくて、例えば、私はほとんどパソコンが駄目に近い。それでも、ワープロは打てますし、Eメールくらいは、こちらの教会の善信先生とも交わしているくらいなので、一応、打てます。でも、表計算ができない。そこで、「あんたは表計算だけを勉強しなさい」というような、その1人ひとりの、今必要な、その人がやりたい仕事用に、最も必要なところだけを充実して勉強できるオーダーメイド型の訓練を、そこら中でできるようにしなければならない。こんなように思ってるところでございます。
そして、今、問題になっている長時間労働やサービス残業を止めて、いわゆる「ワークシェアリング」をもっと広めてゆかねばなりません。今、行われているワークシェアリングは、ほとんど緊急避難型のワークシェアリングです。「社員を2割クビにせなあかんから、それらの人を残すためには、全員の賃金を2割下げてくれ」と……。こんなことをしていたのではもたんのですよ。なぜなら、次なるコスト削減要求が来たら、「また2割下げる」というのでは、合計4割減になるのですよ。食っていけません。ですから、本来は、緊急避難型ワークシェアリングではなくって、多様収容型と言われるさまざまな形での雇用や働き方を認め合うことが必要です。
ですから、日本では「家計」という言葉があるでしょ。家計簿の家計です。あれを止めて、「個計」に替える。たとえば、おやっさんが会社で残業して120とか140の給料稼いでくる。それに対して。奥さんは40、50までいかない。パートその他の収入を足して夫婦で150、160で食ってる。これを2人とも80ずつにすれば、先ほども申し上げたように、パートも正社員同様均等待遇を含めて上げる。旦那も残業やめてちょっと下げる。で、2人で働くようにして160で働く。これからは個人ごとの個計に替える。そんなことを視座に入れた本来のワークシェアリングが必要だと思っております。
●中国の労働市場形成努力に学ぶべき
今、ご承知のように、日本の経済不況、特に、製造業の衰退の多くの原因が、中国経済の台頭に求められています。私は、中国に毎年勉強に行っておりますが、凄まじい剥き出しの能力主義です。とにかく、経営者も、管理職も有能であり、現場もそうです。工場の入口に「今週の優秀社員ベスト五」の顔写真が貼ってあります。ところが、「ワースト社員」の顔写真まで貼られています。日本だったら、人権問題になりかねないようなことも平気で行われています。そして、『定期定量陶汰』といって、一定期間成績が悪かったら自動的にクビになる。ほとんど契約社員です。
ですから、中国は、単に「賃金が安い」だけじゃなくって、今、凄まじく経営者が徹底的なマーケティングをやって、市場のニーズをガバッと掴んで、そこにヒト・モノ・カネを集中させる。迅速な意思決定をして、市場ニーズに打って出る。一方、従業人は、目一杯自分の能力を発揮して働く。これらが相俟(あいま)って、中国の強さになっているのです。確かに中国の人件費が安いのは、安いんですが、中国の強さの原因はそれだけではない。日本の経営者は、人件費の安さにしか目を向けてない。そんなもの20分の1だからどうにもならない。20分の1に人間を減らしてやれるはずがない。
そういう状況下で、中国には「工会」という労働組合的組織があるんです。ただし、これは、中国共産党の指導下にありますから、共産党中央の方針には絶対逆らえないんですが……。中国の国営企業は――皆さんも新聞でご承知のように――この数年間で、体質強化するためのリストラをもう何千万人とし、日本にはない言葉なのですが下岳(シャーラン)といって「一時帰休」と日本では訳されていますが、実際には二度と帰って来れないのです。その3年間の間に、国と企業から前の給料の6割くらいをもらって徹底的に職業訓練を受ける。そして、転職をしていく。
今、日本の私が中国の工会のシステムを尊敬するのは、その職業訓練と転職に非常に力を入れていることです。実は雇用問題については、日本の労働組合は、政府や経営者に「雇用を作れ」とか、企業では「雇用を守れ」とかいったように、入口と出口しか言ってない。真ん中の労働市場の形成にもっと労働組合が関わるということが必要であり、中国に学ぶべきではないかなと思います。
●生きることの意味
最後に、私は今、64歳になりますけれど、最近、「生きることの意味」というのを私なりに考え始めました。きっかけは、去年の秋に『阿弥陀堂だより』という映画を観たことからです。寺尾聰さん演じる主人公の売れない小説家孝夫さんの中学時代の恩師(演:田村高廣)が「末期の癌」を宣告されながら、死の直前まで端然と自分で書に挑みながら、最期に亡くなるときは、付き添っていた妻(演:香川京子)が、「自分で息を止めたようだ」と言われるくらいの凄まじい生き方をしている人々を取り上げた映画ですけれど、たいへん感動いたしました。
それから、皆様方と宗教が全然違うんで申し訳ないんですけれど、これまたテレビで視た瀬戸内寂聴さんの法話で、「人間には定命(じょうみょう)というものがあって、それが来るまでは死にたくても死ねないし、来れば死にたくなくても死ぬんだ。だから人間というのは、要するに『今を一生懸命生きよ』と、それが死に向かって歩く、人間の覚悟だ」という言葉を聞きまして、たいへん胸を打たれました。
また、つい最近のことですから、ご覧になった人も多いと思いますが、末期癌を宣告されて、死の直前まで毎日の体、心を綴られ毎日新聞に連載された佐藤健記者の手記で『生きる者の記録』にも、たいへん心を打たれました。ひとつは「自分が生きている意味は何なのか? 死ぬ時にはどうあるべきなのか?」ということを私なりに最近考えるようになりました。結論的には、これらを見る限り、人間には意識があり、「体が動く限り、自分を磨き、世のため人のために尽くせ」ということだろう。自分なりにそう思っているのですが、はたして、自分の今の生きかたというのはそれに合ってるかというと、いささか自堕落ではないのか、ということを今、強く反省をしているところでございます。
正直申し上げますと、先ほど申し上げたように、自分では、今までの生涯を、俗にいう「世のため人のためにやってきた」つもりでありますが、振り返れば、その大半は肩書きでやってきた部分が圧倒的に多いんですね。松下電器産業労組の委員長という立場でセネガルを支援する。あるいは、阪神淡路大震災の被災地に支援部隊を派遣する。したがって、前川朋久個人として、これまでいったい何がやれてきたのか? ということについては、忸怩(じくじ)たるものがありまして、これからの人生は、裸の、肩書きのない「人間前川朋久」として、狭い意味ではボランティア、広く言えば、社会貢献・国際貢献に何をするのか、何ができるのか? ということを真剣に考えて、即、行動に移さなければならないと強く思っています。
いずれにせよ、非常に厳しい世の中でございますけれど、とにもかくにも、現状から目を背けない。現状から逃げない。できることを精一杯やる。このことしかないのではないか。と、こういう具合に思います。正直言って、先ほども、親先生と控え室でお話しさせていただいたんですが、例えば、現在イラクの問題が緊迫している。世界中であれだけの反戦のデモが起こってる。しかし、日本では、ごく一部の思想的に裏づけされた方々だけが反戦デモを行っているようですけれども、幅広い善意の国民はいったい何を考えてるのだろうかと……。労働者は怒りを忘れたのだろうか? やっぱり「あかん(ダメな)ものはあかん。あく(良い)ものはあく」と、思ったことを口にする。良いことは行動する。そういうことが今こそ求められている感じがいたします。
最後に、自分の宣伝で恐縮ですが、このたび、先ほど申しました労使関係のことを中心に本を出すことになりました。4月1日に『「時代」から「次代」へ』という「松下労使列伝」というサブタイトルが付いている本が、大阪日経PR社から刊行されることになりました。関西の主要な書店には並ぶと思いますが、先ほど言いましたような考え方も述べているところでございます。
以上、たいへんざっぱくな話で恐縮ではございますが、与えられた時間がまいりました。皆様方のご健勝と金光教泉尾教会のますますのご発展を祈って、私のお話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
(連載終わり 文責編集部)