青年会創立78周年大会 記念講演
墨まみれ! 放浪画家見習い話
青年水墨画家
井上 北斗

井上北斗先生

6月19日、創立78周年青年大会が開催され、青年水墨画家の井上北斗氏が『墨まみれ!放浪画家見習い話』という講題で記念講演を行った。井上氏は、水墨画家である父憙齎氏の下に入門し、親子関係から師弟関係へと環境が変わる中で、独自の表現領域を開拓してゆきつつある道程を開陳された。本紙では、本講演の内容を二回に分けて紹介する。

▼井上憙齎(きさい)という師

本日は、このようなご神前の高いところからお話をさせていただく機会を賜り、本当にありがたく、嬉しく思っております。私は話が下手なので、話の内容が前後することもあるかと思いますが、何とぞ、同じ世代のよしみとしてご容赦ください。

今日の講演会におきまして、私は「青年水墨画家」と、なんとも格好の良い肩書きを頂いておりますが、常々、自分では「青年異色水墨画家」と名乗っております。と申しますのも、私は少々風変わりな絵を描いておりまして、絵描きの序列においては「日本画の中の異色作家」として名を連ねております。

先日も5月3日から8日までの6日間、愛知万博の会場で、IARF/WCRP共同出展プログラムの一環として、「樹齢千五百年になる岐阜県根尾の薄墨桜を、3m×5mの巨大絵馬に描いて世界の諸神仏に奉納する」ということをやってまいりました。ちょうど同時期に、台湾の山岳地帯に住む先住民族の方々が舞踏や歌謡を披露されるプログラムが並行して行われていましたが、その横で私は赤褌(あかふん)一丁の姿になって、「こんな格好では、どちらが先住民族か判らないな」と観客の方からからかわれつつ、楽しく描かせていただきました。果たして良い作品ができたかどうか、われながら気になりますが、純粋な気持ちで描いた絵馬を奉納できたことには満足しております。

私自身の体験談をする前に、私がどのような経緯を経て水墨画を描くようになったかをお話ししようかと思います。まず、一番最初に影響を受けたのは、私の父(註:水墨画家の井上憙齎(きさい)氏。二科展などで入賞したほか、国内や欧州、中国を放浪し、各地で水墨画を描く。母は書家の北野美智子氏)からです。父井上憙齎は「放浪画家」として皆さんに知られているかもしれませんが、父は、初めは商業デザイナーとして生計を立てており、二科展など様々なところでも活動し、「特選」を頂いたりしていましたが、交通事故に遭ったことが原因で、その仕事を辞めざるを得なくなりました。結局、それが水墨画家に転向するきっかけになったようです。

また、何故、表現手段として水墨画を選んだか? と申しますと、父の尊敬する友人である愛知県瀬戸市在住の陶芸作家、加藤唐九郎師(註:桃山陶の伝統を受け継ぎながら独自の作風を作り上げ、現代陶芸史に大きな足跡を記した日本を代表する陶芸家)の奨めが背景にあるようです。朝五時半から、唐九郎師が粘土を練る傍(かたわ)ら、絵を描いている父に向かって「井上君、水墨というのは素晴らしい発明で、永遠性(=褪色しない)がある。千年前に描かれた作品ですら、まるで昨日描かれたかのようないきいきとした色を留めることができる。「わしがピカソに陶芸を教えにフランスに行った時の話だが、絵画の巨匠であるピカソやマチスでさえも、非常に興味を持ち、何百点という作品を手がけている。しかし、西洋の気候風土は水墨画に適さない。『この“墨”の可能性を東洋の若き芸術家に託す』と。ピカソからのメッセージなんじゃ。水墨画とは、そのような素晴らしい素材だから、是非やりなさい」と、その優位性を説き、奨めたそうです。この「交通事故という転機」と、「尊友加藤唐九郎師の熱心な奨め」が、父が水墨画家としての道を歩むきっかけを作ったようです。


井上北斗先生の講演に耳を傾ける青年会員たち

しかし、いきなり絵描きとして食べていくことなど叶いませんから、父は母に「修行してくる」と言い残して、全国を放浪し出しました。父がそういう道を選びましたから、経済的には厳しいものがあっただろうと思いますし、私も母子家庭で育ったような感覚が残っています。しかし、嬉々として各地で絵を描き、食べれるぐらいの稼ぎを得ながら方々を転々とする父の後ろ姿を見ておりますと、私は「この世の中で、好きなことだけをやって生きていけることも可能なんだな」と、幼心に憧れを覚えるようになりました。

現在、父は吉野で桜を描いていますが、もともとは、記紀(古事記と日本書紀)に始まり、万葉集、古今集そして新古今集といった和歌の世界への傾倒がきっかけで、とりわけ西行法師という桜を愛でた歌人の和歌や生き様に大変共鳴したことが始まりのようです。西行法師という人は、もともと北面武士という御所をお護りする侍だったのですが、友人の死をきっかけに世を儚(はかな)んで出家して、その後、歌を詠みながら全国各地を放浪したそうですが、彼はその歌の中で、桜を愛(め)でる心を「花に寄せる恋」と表現しています。私も桜を見るたびに、ますますときめきを感じますが、そんな私の気持ちを表すには、この「恋」という言葉がぴったりかもしれません……。父は、もうかれこれ三十数年にわたって、桜というテーマに取り組み、「墨を用いて、如何に桜を表現するか?」ということに日夜腐心していますが、いずれ、日本の美術史上に画期的な作品を残すのではないかと思います。


▼パリ修行時代

そんな父の影響を受け、私は高校進学時に美術科を選び、学びましたが、水墨画を教えておられる大学は当時ございませんので、私は卒業と同時に父の下に弟子入りするため、奈良県の吉野山に赴きました。それから十四、五年の月日が流れ、現在に至ります。ではその間、ずっと吉野で修行の日々を送っていたのか? というと、実は十数年前に父が病気に罹ったことを契機に、海外で修行させていただいたことがあります。当時、父は「もう先が長くないのではないか?」と思い、私に「パリへ絵の修行に行ってみないか?」と奨めてくれたのです。一回毎の期間は短いですが、延べ一年間の滞在になりました。

このパリでの修行は、ただ「現地の美術学校に通う」というものではなく、日々街並みをスケッチしてその絵を持ち帰って日本で展覧会をすることを最終的な目的にしておりましたが、本当にさまざまな体験をさせていただきました。水墨画はパリ市民には大変珍しかったらしく、私が街角でスケッチしていますと、あちこちで声を掛けられ、交流のきっかけになりました。

その中の1人に、著名なヴァイオリニストであるイヴリー・ギトリス先生との出会いもありました。彼のお宅にお招きを受けたことがあるのですが、最初はただ「ヴァイオリンを弾かれる方だ」ぐらいの認識でした。しかし、彼が実際にヴァイオリンを持ってきて、調弦する音を聴いた時――ちょうどその時、外は小雨が降っていたのですが――その空間がまるで歪むかのような強烈な印象を放つ音色に驚きました。これは、私にとって貴重な体験の記憶となって残っています。このイヴリー・ギトリス先生から頂いたいろいろなメッセージは、私にとって、大学で学ぶ経験以上の立派な勲章をもらったような気がしました。

街角でスケッチをする他に、公園に出向いて遊ぶ子供たちを描くことがしばしばありました。子供たちを描いていると、「自分たちが描かれている」ということに興味を持ち、どんどん集まってきて次々にポーズを取ってくれます。私は子供たちに導かれるようにして、1日中絵を描きました。彼らにしてみれば、少し風変わりなプリクラのようなものなのか、みるみるうちに絵ができ上がっていく様が面白かったようです。

彼らに絵を差し上げることはできなかったのですが、それが縁となって、子供の親御さんの中には、毎週自宅に食事に誘ってくださる方もおられました。私はそういった経験を通して、「パリの人たちは、大変絵が好きで、芸術に対する理解が深い。ここでなら絵を描くことで食べていくことも可能だろうな」と、芸術の力とでもいうべきものを肌で感じました。


▼「日本」再発見

賑やかな表通りから外れた、うら寂しい裏通りに足を踏み入れた時に、非常に心惹かれる建物の壁の染みに出会ったこともあります。その染みは、まるでひとつひとつに20世紀初頭の市民の生活や苦しさや華やぎが滲み出ているようでした。「何故、この壁面の染みに惹かれるのか?」その答えを探すように、私は10日間の日時を費やして、そこへ通い作品を仕上げました。帰国後、この作品群を発表したのですが、「一見、ちょっと薄気味悪いような壁なのに、見ているとまるで聳(そび)え立つ富士山のように感じられる」といった具合に好評を頂くことができました。これも、パリで過ごした日々の収穫でしょうね。

私が滞在した1年間は、このようにただひたすら絵を描く毎日でしたが、ある時、「何故、私はパリの風景を描いているのだろうか?」という思いにぶちあたりました。「どれだけパリの街を描いたら、私はフランス文化に溶け込めるのだろうか?」と……。そこで、雨が降ると、世界各国の美術関係の書籍が集まっている図書館に足を向けるようになるのですが、そこで「結局、最後に行き着くのは、俵屋宗達(註:江戸時代前期に活躍した京都の絵師。その生涯はほとんど未詳。特異な構図と技法により近世装飾画の新様式を確立し、尾形光琳の先駆となった)や、尾形光琳(註:江戸時代中期の絵師・工芸家で元禄文化を代表する芸術家の1人)のような日本美術ではないだろうか」と思い、やはり、自分は日本人であり、日本のセンスを世界にアピールしなくてはいけないのだとの思いを新たにしました。それ以降、私は日本の山や桜を描き始めたのです。

展覧会をする度に、大筆で大きな絵を会場で描かせていただいているのですが、それを面白がってくださる方がだんだんと増えてまいりました。ある時、「建築資材置き場の壁に、何か描いてもらえないか?」という依頼を受けたのですが、「描くものはお任せする」とのことでしたので、何を描こうかと思案しましたが、その依頼された方が島根県出身で、大変神話が好きだと伺ったところからヒントを得まして、「よし、神話を描こう」と思い立ちました。

出雲の神話には、大国主命(オオクニヌシノミコト)や素戔嗚尊(スサノヲノミコト)などの神々が登場しますが、「この神々を3メートル×60メートルの巨大な壁に描く」ということは、まだ駆け出しの私にとっては大きなプレッシャーでした。そのプレッシャーに負けぬよう、褌(ふんどし)一張になり、大変な気合いを込め、神様に対峙する、もしくは喧嘩腰とでもいうぐらいの気持ちで、カーッと燃えて10日間ほどで一気に描かせてもらいましたが、難しい題材ながらも、その荒ぶる神である素戔嗚尊の力強さを、いくばくかは表現できたのではないかと思います。

父も若い時分、神話を好んで題材にしておりましたが、『記紀女人伝』と題したシリーズでは、神話の中でも女性が出てくる場面を、エロティックに、そして女性の性をおおらかに描いています。例えば、「天鈿女命(アメノウヅメノミコト)が磐座(いわくら)において、踊っている最中に胸がはだけてしまったところ」や、「伊弉冉尊(イザナミノミコト)が、火の神である息子の火乃加具土神(ホノカグツチノカミ)を産んだ時、あまりの熱さにホト(女陰)を火傷してしまい苦しんでいる」といった場面ですね。私は、そのような異色作家の元で育ち、また、幼い頃からそういった世界に興味を惹かれていましたので、私も表現方法が少しひねくれているかもしれません。


▼ライフワークとしての桜

それから、またいろいろな方々から注文を頂きまして、今度は桜を神社の大絵馬に描くことになりました。そうやって、だんだん場数を踏むうちに、今回の万博のIARF/WCRP共同出展の催しの一環という、大きな舞台での絵馬の制作に取り組むことになりました。(聴衆に写真を見せながら)ここに褌で絵を描いている私が写っていますが、万博会場では3メートル×5メートルの巨大絵馬を描かせていただきました。「何故、いつも褌で絵を描くのだろう?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。これは、力士がまわしをつけるように、禊ぎの精神でもってお祭りをするように、神に対して純粋で在りたいという思いも込めています。

先ほど、西行法師が出家するに至った動機は「友人の死に遭ったことにより、世の中の無情を感じた」と格好良い理由を申しましたが、実は、自分の荘園と隣家の荘園の領地争いが起きた時、佐藤家の頭領としての任を果たせなかったことが原因だとも言われています。隣の荘園は天皇の所有地だったのですが、佐藤義清(さとうのりきよ)(=後の西行法師)は北面武士であるにもかかわらず、折衝能力がなかったことを一族から責められ、かつ爪弾きにされ、ドロップアウトしたことが原因となって出奔に至ったのではないかという説もあるようです。

父は、「世の中から弾かれるような辛い経験をして、初めて放浪と呼べるのだろう」と言っていました。今回頂いたお題は『放浪画家見習い話』ですが、私もそんな放浪生活に対する憧れはあります。未だ「自分の身に降りかかる大きな転機」というものに出遭っておりません。しかし、実は万博での制作2日目を終えて帰る途中、父、母、兄の乗ったタクシーが追突され、父は入院。万博で完成させ、9月末まで会場に飾られることになっていた絵も未完成のまま。仕上げた後には作品として引き取り手もあったのですが、父の手が入らないで、万博会場に飾られなかった絵には付加価値がないとキャンセルも受け、現在でも、私以外の家族全員、むち打ち症の後遺症で苦しみ、物心共に一家の大ピンチを迎えています。

タクシー会社も「自社に責任はない」といって逃げるばかりで、事故処理に翻弄され、無傷だった私ですら、ストレスから精神科のお世話になる始末です。休業保障もなく、一般社会の芸術文化に対する理解の無さに憤りを覚えています。このような不条理さに対して、芸術家として立ち向かっていかなければならないと強く感じています。父も絵馬を完成させようと、毎日リハビリセンターに通いながら、治療を受けています。リハビリに励む父を見て、励まされています。私自身も一大転機を迎えているのかもしれません。

現在、私は、吉野の父のもとで徒弟生活を送っておりますが、常日頃からこういった丁稚(でっち)のような格好をしています。これは、「いつでも師である父のお役に立てる態勢を取っています」ということの現れであり、また、「なんでもやらせてもらいます」という気概の現れでもあるんです。

もし、桜の季節に吉野山に足を運ばれたことがあったら、蔵王堂(金峯山寺)という大きなお寺に立ち寄られた方もいるのではないでしょうか。私はそこから150メートルぐらい登ったところにアトリエを構え、春と秋にはそこで展覧会も催しております。水墨による似顔絵など、ユニークなプログラムもありますので、興味のある方は、是非一度お立ち寄り下さい。今後も良い作品を創れるよう精進してまいりますので、皆様もどうか見守っていて下さい。少し早いですが、これでお話を終わらせていただきます。本日は、ご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)

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