求道会創立62周年記念 男子壮年信徒大会 記念講演

『1945年の敗戦から今日までの何が問題か
〜〜皆さまに是非聞いていただきたい〜』



元大阪府警察 本部長
活齦x士債権回収 会長

四方 修

2月17日、求道会創立六十二周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『1945年の敗戦から今日までの何が問題か〜皆様に是非聞いていただきたい〜』の講題で、一富士債権回収会長の四方修(しかたおさむ)氏が記念講演を行った。『グリコ・森永事件』の捜査を指揮した大阪府警の本部長として有名な四方氏は、退官後、大手スーパー「マイカル」の再建に辣腕を揮い、その後、一富士債権回収を立ち上げた。本紙では、数回に分けて、四方氏の記念講演を紹介してゆく。  

▼軍国主義少年から革新運動へ


四方 修 氏

ただ今、ご紹介いただきました、四方(しかた)と申します。『グリコ事件』の時には、犯人からの手紙で「しかたありまへんな」(会場笑い)と書かれて全国的に知られるようになりました。本日は少し風邪気味ですので、平素より良い声になっていると思いますが、よろしくご了解をいただきたいと思います。時間の関係もございますので、早速お配りしたレジュメに書かれているように、皆様に是非、聞いていただきたい話がございます。

こちらへ参ります前に、朝10時からの田原総一朗さんの番組(註:テレビ朝日系列で日曜の朝に放映されている『サンデープロジェクト』)で、「地方分権」の話が取り上げられていたんですが、政府の地方分権の推進会議の議長をやっておられます伊藤忠の丹羽(宇一郎会長)さんや、作家であり、現在は東京都の副知事をやっておられる猪瀬(直樹)さんや、総務大臣(註:前岩手県知事の増田寛也氏)なども出席して地方分権の話をされていました。大阪の橋下(徹)知事も加わっていました。私自身、現在日本が抱えている問題について、微力ながらずっと関わってきたんですけれども、何かひとつふたつやり残しているものがある。仕事をやりながら、毎日そういうものを聞くたび毎に、あるいは見るたび毎にイライラしてきた訳であります。

(レジュメに)「私の人生の特異性とそこから得たもの」などと、ちょっと生意気なことを書いておりますけれども、一般的にみますと、あまり普通の人々が経験されないような経験を積んできております。それは、決して人前で自慢して言えるようなものではありません。また、「とても貧乏で餓えに苦しんだ」といったような、涙の出るような話でもありませんけれども…。

私は昭和五年の生まれですが、(旧制)中学3年生の時に日本は戦争に負けました。当時は皆そうでしたが、昭和20年の8月15日までは、私も軍国主義の少年でございまして、「一日も早く特攻隊員となって、お国のために死にたい」と思っておりました。2年生の時から京都市内の中学校の「軍人組」(註:旧制中学は5年生まであるが、軍務を希望する者は、特別に4年生で卒業できた)というのに入りました。中学2年生といいますと、満で数えれば13歳から14歳。そんな年齢の僕たちが、全部ではありませんけれども、「一日も早く特攻隊で死にたい」という気持ちになっていた訳です。非常に恐ろしいことです。

今年は平成二十年ですが、昭和二十年に日本は戦争に負けました。昭和元年から二十年の間に、戦争へと突き進んで僅か20年であそこまで行ってしまった。では、この平成になってからの20年はどうであっただろうかと振り返りますと、大げさに言いますと、私自身を支えてきたのは国を憂(うれ)う―「憂国」と書きますが―気持ちが常に私の基盤にあると思っております。そういうことを皆様に知っていただくためにこれから申し上げていきたいと思います。

レジュメに「(1)軍国少年から革新運動へ、そこで得たもの」とありますが、当時、革新運動は、一括して「平和運動」と呼ばれておりました。私は兄が3人おりますが、すぐ上の兄貴(註:国文学者の竹岡正夫香川大学名誉教授)は、海軍兵学校という昔の海軍のエリート学校に在籍しておりましたが、そこを卒業する直前に敗戦になりました。私は「国のために死のうと思っていたのに、その国が無くなってしまった。これからどうしたら良いのか?」と兄貴と泣きながら抱き合ったことを覚えております。

その時に「この戦争は何だったんだろうか? と思い悩みました。「大東亜共栄圏」という名目で、アジアの解放のために戦ったはずだったけれども、どうもそうでもなかったらしい…。それまでは、社会や学校や家庭は、明治天皇が発布された『教育勅語』を金科玉条のように戴き、従っておりました。しかし、これも「全部間違いであった」ということになりました。1945年(昭和20年)8月15日に戦争に負けた翌日から、私たちは、学校で教科書に墨を塗って「過去は全部間違いだった」と教えられました。これには、当時、思春期だった僕たちが、どれほど迷い悩んだかは、ご想像いただけると思います。子どもの頃から、親の代から、あるいはもっと昔から習ってきたことすべてが間違いであったと…。「戦争に負けて、これからは全く違う国になる」そこからスタートした訳です。


▼明治国家が目指したもの

今日は時間の関係で触れませんが、日本と共に枢軸国として連合国と戦ったのは、ドイツとイタリアです。この三国が同盟を結んで、アメリカやイギリスをはじめとする全世界と戦った訳ですが、日本の場合だけ「誰に戦争責任はあるか?」ということがはっきりしておりません。ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニに、明確な戦争責任があるといいます。しかし、いろんな本を読みましても「日本の戦争責任は結局、誰にあったのか?」ということが明確になっていない。

非常に畏れ多い話でございますが、戦前の日本の憲法である『大日本帝国憲法』を読まれたらすぐに判りますけれども、当時、すべての権限は天皇陛下に握られておりました。ですので、軍国少年であった私たちは正直に申しますと、実は「天皇陛下が武士道精神に則(のっと)って、腹を切って敗戦の責任を取られるだろうな」と思っておりました。それが正しいかどうかは判りません。けれども、口に出すか出されないかは別として、多くの国民の皆さんは当時そう思っておられたと思います。

皆様のご家族やご兄弟、ご親戚、あるいは先祖の方々の中に、戦争で亡くなられた方はたくさん居られると思います。私の母の姉である伯母の家には三人従兄弟(いとこ)の男の子がいましたが、皆、立派な青年に成長し、伯母たちも非常に喜んでおりました。しかし、その3人とも中国での戦争で亡くなりました。その悲しみを目の前で見て「戦争とは悲惨なものだ」と思っておりましたが、その戦争責任が、日本の場合は結局はっきりしません。いまだに「A級戦犯だ、どうだ云々」と議論になるのは、そこにもひとつ原因があるからであります。

この点は、今日の本題ではございませんので触れません。ただ、教育や社会風潮の恐ろしさは、今お聞きいただいたように、あっという間の短い間にあれだけの戦争をやるまでになってしまうのです。要約して言いますと、日本はご覧のとおり、明治維新までは丁髷(ちょんまげ)を付けた極めて封建的な国でした。外国人から「何だか変わった靴(下駄)を履いて、畳の上で生活している」といわれていた日本が、明治維新によって、主としてヨーロッパの制度を取り入れ、新しい日本としてスタートした訳でございます。

われわれの先祖の偉大さを考える時、明治に変わり新しい国づくりがはじまってから、たった20年あまりの間に、まずアジアの大国中国(当時は大清帝国)を日清戦争で倒したことが挙げられます。もっと凄いのは、明治三十七、八年戦役(日露戦争)で、日本が欧米列強の一角であるロシアを負かしたことです。この事実は、「アジアの東端の新興国である小さな日本が、あの大ロシア帝国を負かした」と世界的にも大変注目されました。例えば、トルコにおいて、現在でも親日感情が強いのは、「トルコがずっと長い間虐(いじ)められてきたロシアを、同じアジアの小さな日本が倒した」という歴史的事実があるからであります。ですから、いまだにトルコへ行きますと、その話が出てくるぐらいであります。

そして、明治の終わり頃には「日本はロシアに勝った大国だ」という意識が、政治家や国民の間にも広まってまいります。「日本は世界の大国と見なされる振るまいをしなければならない」と…。アメリカもヨーロッパも、大国になりますと、全部の国が侵略戦争をやっております。昔、スペインが中南米に押し入った時―おそらく世界史において、これが最も残虐な侵略であったと思います―、新大陸には、われわれと同系のモンゴロイドのアメリカインディアンや南米の原住民(インディオ)など、たくさんの原住民がいましたが、その大半の何百万人という人間が殺され、または欧州から持ち込まれた疫病で亡くなりました。その結果、労働力が足りなくなったため、隣国ポルトガルと組んで、アフリカの黒人―彼らは当時、黒人を人間だと思っておりません。白人以外はまったく人間だと思っておりません―の手足に鎖を付けて、奴隷船という船に乗せて新大陸アメリカへ運んでくるということをやっていました。後ほども触れますが、大国というものは、自分の領土が欲しくなる。資源が欲しくなる。いろんな欲望が出て侵略を繰り返してまいりました。

一方、日本も大国になって、元々が小さい国でしたから「どこか他に領土が欲しい」という気持ちが出てきました。そこで、大正期に入ってから、列強の一角の証拠として、アメリカやイギリスと同盟を結んで、協議をいたしました。その一番判りやすい例を取り上げますと、海軍の軍艦です。各国に割り当てられている軍艦の総トン数が決められる訳ですが、この時点(註:1930年に開催されたロンドン軍縮会議で米英日の軍艦の保有量比が決められた)で、アメリカやイギリスは「われわれの軍艦の総トン数比を10とすると、日本は7しか駄目だ」というふうに取り決められる訳です。このように日本は、自国を大国だと思っているにもかかわらず―あるいは「大国になった」と思っているにもかかわらず―白人の国からは大国としてなかなか認められない。そういうジレンマから、日本は―「侵略」というとまた「語弊がある」と言われるかもしれませんが―中国大陸を目指して戦争に持ち込んで行く訳でございます。こうして半世紀も経たないうちに、日本は大戦争に入り込んで、しかも敗戦という「これでもか」というほどの酷い経験を得ることになるのであります。


▼左翼運動はいかにいい加減か

戦後「国のために死にたい」と思っていた陸軍や海軍の出身者は(本来は逆の立場のはずですが…)、共産党や社会党の人、あるいは学生運動や労働運動の人たちと共に、占領軍の言われるままに行われていた当時(敗戦後)の日本の保守政治に大変反発を感じました。「これまで『鬼畜米英』と呼んで戦ってきたのに、そのアメリカ占領軍の言われるままに政治をやっているじゃないか! このままでは日本はどうなるのか?」と…。そこで、各地に自然発生的に「平和運動」というのが組織され、それは全国的に展開されます。

私自身は、昭和二十四年(19歳)に亀岡の青年団の副団長に。二十七年(22歳)には団長に選ばれました。青年団というのは、昔はその地域で15歳になったら加入する男女のいかんを問わず、かなり組織率の高い組織でございました。代表者は選挙制ではなく、秋の総会に団員全員が集まり、そこで記名で団長・副団長を選ぶんですが、そういった過程を経て、私は必然的にこの革新運動であるところの平和運動に身を投じることになります。


四方氏の熱弁に耳を傾ける壮年信徒たち

ところが、その後、多くの評論家や学者やわれわれの仲間を見ていますと、この経験は非常に珍しいようです。学生運動をやった連中はおりますけれど、田舎で青年団の役員として平和運動に飛び込んだ者はおりません。時間もありませんので、この辺の経緯は省略します。そして、結論として何を得たか? と言いますと、私は左翼運動に従事している共産党や社会党、労働運動、学生運動のリーダーたちと占拠もやりましたし、ずいぶんデモも行いました。あるいは講演会などのたくさんの行事もやりましたけれども、そういった交流を通して身につけた結論として、「この人たちがいかにいい加減な連中であるか」ということです。

もう一度、生意気なことを言わせていただきますと、戦争中は「お国のために死のう」と思っていた私自身が持っていた国を憂う気持ちは、ほとんど平和運動をやっている彼らからは感じられなかった。ただ、面白がってやっているだけ……。実は、私が目指していた平和運動とは「吉田茂政権を倒して占領軍に対抗する革命をやる」というぐらいの気持ちを持っていたのですが、ご案内のとおり、共産党も社会党も「なんでも反対!」でございます。学生運動のリーダーも非常に嘴(くちばし)が黄色いと申しますか、世間のことを解っていない連中が多いです。労働運動のリーダーも、私の居た亀岡は京都市に近いので、京都市内の大きな会社で労働運動をやっているリーダーたちもおりましたけれども、彼らも田舎へ帰ってくると、まったく平和運動には目も向けないという、極めていい加減な連中だということが判りました。例を挙げればきりがありません。そういう訳で、私がこの時代に得たものは「左翼運動家がいかにいい加減であったか」ということであります。

もうひと言付け加えますと、京大法学部のゼミに入る際に、私はそういう平和運動に従事しておりましたから、当時はそういう革新運動に没頭している連中だけが入るゼミがありました。国際政治学の立川ゼミというゼミであります。ここに入りました時、最初に教授が「皆で平和運動のあり方を討論しよう」と提案ました。私以外は全員、全学連の委員長やそれに似た地位にいる左翼の連中がほとんどで、1年下には、後に映画監督になった大島渚もいました。そして、論争した訳ですけれども、結論としてその教授が「今日の論争では、四方君の結論、理論が一番正しい。よって、このゼミのリーダーは四方君がやれ」と言われましたが、こういう無責任な連中と一緒にゼミをやるのは嫌ですので、2、3カ月でゼミを辞めたこともありました。

日本の左翼をずっと見てきましたけれども、まったく駄目ですね。昔から言われることですが、与党にしっかりした政治をしてもらうには野党が強くなければいけません。政治も各企業も、独裁(ワンマン)になると必ず大きな問題が出てまいります。「独裁(ワンマン)の座に胡座(あぐら)をかいて民衆(社員)の声を聞かなくなる」というのが普通であります。ですから、与党同様に野党がしっかりしないと…。いい加減な野党だと、与党が独裁的になってしまい、全然進歩がなくなってくる。戦後63年になりますが、はっきり申し上げて、学生運動も労働運動も共産党も社会党―社会党は名前が変わってしまいましたが―もまったく進歩していない。政権を取る力がまったく無いということでございます。

学生時代にそういった運動をやっていましたので、私は民間企業に就職できなかったのですが、地元の亀岡警察署では、私は「赤(左翼)」だと思われておりました。ただ、もう一度申し上げますけれども、メーデーなどの際には、京都市内で赤旗を振ってしょっちゅうデモなどをやりましたが、その時に共産党の連中が「『赤旗の歌』を歌おう!」といって声をかけても、当時はほとんど皆、『赤旗の歌』を歌いませんでした。今はどうか知りませんけれど、われわれは共産主義者だからデモに参加している訳ではない。「占領政策に反対」だから、デモに参加しているということなんです。「国を憂える気持ち」でデモに参加している訳ですから「『共産党の歌』などは絶対歌わない」ということなんです。


▼なぜ警察官僚(キャリア)になったのか

とにもかくにも、「戦争に負ける」ということは革命に等しいことでありました。地主さんの土地は全部取り上げられて小作の農家の人たちに分配されました。昭和二十二年にはいち早く労働基準法ができ、それから2年くらいして労働組合法ができました。ここで、いわゆる「労働権」というものが確立されるようになりました。そして、労働基準法からほんの1カ月くらい遅れて、今の憲法ができるという流れです。ですから、この辺の急激な変化は、全く革命に等しい。フランス革命(1789年)あるいはアメリカの独立戦争(1776年)と同じ様な革命に等しい社会変革であった訳です。

革命の後の権力者というものは、自分が得た地位を維持するために、軍隊か警察を味方に取り込もうとします。今でも小さいながら世界中あちこちでクーデターが起こったりしていますね。政権が急に変わると、新しい権力者は例外なく武力行使装置である軍隊と警察を味方にしようとする訳です。敗戦後の日本では軍隊は解体されてしまったので、武力組織といえば警察が代表的なものであります。当時(1949年)、たまたま中国で革命を成功させたのが毛沢東―後に少しおかしくなりますけれども、当時は日の出の勢い―ですが、日本でも『毛沢東選集』というものが出版されました。日本で革命運動を一緒にやっている連中は、あまりにもひどい体たらくでしたので、「あの広大な中国で、毛沢東はどうやって革命を成功させたのか?」と、貪(むさぼ)るように読みま
した。

今でも「最も記憶に残る本は何ですか?」と問われたら、そのひとつに必ず『毛沢東選集』と答えます。毛沢東を尊敬している訳ではないですが、何故読んだかと申しますと、今申し上げたように「あの中国で、どうして革命が成功したのか?」という疑問があったからです。これを解りやすく申しますと、「毛沢東の革命は、『一握りの帝国主義者だけが敵である』と敵を限定して、『警察も軍隊も敵ではない』と旧体制の武力組織を安心させておいて、各地で革命が成功すると、その土地を全部取り上げ、貧乏な小作として泣いていた農民に全部分配した。分配してもらった農民たちは皆喜んで、結果、その大半が毛沢東の革命軍に参加する」ということでした。毛沢東は各地での革命に成功する度に、どんどんどんどん兵力が増えていきました。この毛沢東の本を読みながら、私は「とにかく日本は戦争に負けた」と…。

日本は「敗戦」という革命の経験をしている。これからの警察がどういう警察になるか? 戦前「特高警察」といわれたような暗い警察にまたなってもらっては困る。ですから、民間企業に就職する気は全くありませんでした。実際には、何度か冷やかしで受験したことがありますけれども、やっぱり身元が赤だということで採用されませんでした。その男が何故、警察官僚を目指したのかというと、今申し上げたように「これから国づくりが始まる中で、警察が変な方向に進んではならない」という気持ちがあったからです。

警察官になるには2つの道があります。各都道府県の警察に受験して「お巡りさん(巡査)」になる道と、国家公務員である警察上級職―いわゆるキャリア―の試験を受けて入る方法とがあります。昭和二十七年、二十八年の秋の青年団役員会で、皆が「四方は巡査からやるのか、キャリアの試験を受けるのか?」というテーマで議論してくれたのですが、「やはり警察を良くするためには一巡査では何もやれないだろう」ということで、上級職(キャリア)試験を受けました。幸いにも、京都府から私一人が上級職に採用されることになったのですが、採用される時に、京都府警の本部長の次の地位(警視監)の警務部長から呼び出しがありました。

行きますと「君が四方君か?」、「そうです」、「かなりの赤らしいな」と…。皆、そう言っていたようですが「まあ、学生の赤なんてたいしたことないだろう」ということで、私がそういう革新運動に従事していた前歴は、まったく問題にしないということで採用してくれました。後ほど、また触れますが、昔、内務省というお役所がありましたが、ここはすごい権力を握っていました(註:明治時代から終戦直後まで、警察、土木(国土交通省)、衛生(厚生労働省)、地方自治(総務省)などの国内行政の大部分を掌握する巨大な中央官庁。内務大臣は副総理格とされた)。全国の知事は、選挙で選ばれるのではなく、すべて内務省のお役人が中央から派遣されたんです。ですから、警察庁の仕事は民間企業と違って非常にスケールが大きい。器が大きい。それから31年間、警察官僚として仕事をしてまいりました。


▼最初の仕事は売春の取り締まり

警察官僚時代には、いろんな仕事をやりました。最初に、自分の希望するところに赴任する訳ですけれども、私は森繁久弥さんと淡島千景さんの映画(註:1955年に公開された大阪を舞台にした映画『夫婦善哉』)を見てから「大阪で勉強をしたい」と思い、希望を書きました。結果、希望どおり大阪府警に配置されたのですが、最初に城東警察署で警邏(けいら)一係長になりました。警邏一係長とは、交番と駐在所を監督する係長で、係長の下には主任が3人います。この主任3人と係長の計4名が監督者で、城東区―現在の鶴見区も当時は含まれますから、ものすごく広い―を受け持ちました。まず、交番が何処にあるかを覚えるだけも大変なことです。

そして、今でも覚えていますが、昼間初めて、自転車に乗って監督に回った時のことです。まだ警官の制服を着ているという意識がないもんですから、城東区の堤防の所で喧嘩している男を2人見かけた時も「ああ、喧嘩してるなあ」と思いながらそのまま通り過ぎようとしたら「お巡りさん!」と呼びかける声が聞こえました。「誰が呼ばれてるのかな?」と思い振り向きますと、私が呼ばれてました(会場笑い)。「お巡りさん、あいつら棒を持って喧嘩してますから、(危険なので)なんとか止めてください」と言われて初めて「ああ、そうか」というようなもんです。それでも頑張って自転車を間に挟み、二人を捕まえて手錠をかけて…、というようなことを何とかやれて、ホッとしたような出来事もありました。

警部になれば、本庁(大阪府警本部)へ戻るんですが、私は昭和三十二年の10月(27歳)に警部補に昇進しました。同時に「大阪府警本部の風紀捜査担当を命ずる」という辞令をもらったんですが、警察庁に採用されてまだ2年半ぐらいしか経っていませんでしたから、何のことか判りませんでした。「風紀捜査とは何ですか?」と尋ねますと、まず「売春を取り締まること」それから「猥褻(わいせつ)罪を取り締まる」つまり、俗に言えば「エロと売春を取り締まるのがお前の仕事だ」と言われました。当時、僕はまだ新婚早々でしたから、慌てて「それは刺激が強過ぎます」と答えたんですが、あとの祭り…。

昭和三十三年4月に売春防止法の罰則が施行されることになりましたが、「君が市内はもちろん、大阪府下の売春を真っ暗にする責任者だ」(会場笑い)と言われました。二十歳代の若造の僕にその仕事を命ずる当時の本部長というのは「勇気があったな」と思います。自分が後に本部長になった時でも「そんな勇気が自分にあったかなあ」と思いました。とにかく、それを命ぜられて西成区にあります西日本最大の飛田(とびた)遊郭、それからあの地方に巣くっていた木曽組―当時、まだ山口組はさほど有名ではありませんでした―という暴力団の売春組織の取締りから始めました。

昔は「赤線(あかせん)」と呼ばれた遊郭では、お女郎さん全員が警察から鑑札をもらって、定期的に病院へ行って性病の検診も受けるという、そういう公娼―公認の娼婦―だった訳です。私の記憶では、飛田遊郭だけで売春の女性が2,000人おりました。そのほとんどが気の毒なことに、九州や四国から親の借金のカタやなんやで売られてきた―つまり人身売買の―人たちであります。「売春防止法」というのは、売春行為そのものを徹底的に無くすことが目的ではなく、その売春宿を管理しておる管理者による搾取。それを無くすことを目的に制定された法律です。

売られてきた売春婦は、そのほとんどが「借金のカタ」だったため、稼いだお金のほとんどを売春宿の主に取られてしまっているという状況でした。この法律の目的は、その搾取を無くすことでしたが、塀に囲まれた飛田遊郭の中の煙草(タバコ)屋さんもおうどん屋さんも、全部飛田遊郭のおかげで飯を食っておられる訳ですから、われわれの捜査に協力してくれる店は一軒もありません。そこで、私の部下の刑事たちが考え、西成で夜鳴き蕎麦(そば)の屋台を三台借りてきて、チャルメラや笛の稽古をしたりして、夜鳴き蕎麦屋に化けたり、ゴミを集めるバタ屋に扮装したりして、あの中に入り込んだのを覚えております。飛田遊郭と木曽組の売春を徹底して取り締まった後、私の記憶ではこの近く(西区本田付近)の松島遊郭を手がけたと思います。そんな経験を積んだこともありました。


▼佐藤内閣の大臣秘書官に

いろんな仕事をやってまいりましたけれども、昭和四十三年(38歳)の佐藤内閣の時に、自治大臣秘書官を命ぜられて、東京大学、京都大学をはじめ国立大学、並びに大きな私立大学のほとんどが極左の学生によって閉鎖されました。彼らに講堂を占拠されるという異常事態、その状態がずっと続いておる最中に内閣改造が行われました。(通常は、自治大臣が兼任する)国家公安委員長が(この時は、専任でしたから)組閣の目玉だとの前評判でしたが、誰が彼の秘書官になるのかと思っていたら、私にそのお鉢が回ってきました。

(内閣改造があっても)大臣は留任になりましたから、2年間ほとんど毎日国会議事堂の中までお供するわけです。また、大臣に対する質問や警備関係の質問ならば警備局が答弁書を持って、交通問題であれば交通局が答弁書を持って、夜遅く大臣室にやってまいります。当時の大臣(荒木万寿夫氏)は九州男児でございましたから、局長以下が答弁書を持ってきても、すぐにサーッと読んで「ああ、どうも有り難う」と。そして局長以下が帰った後、5分ぐらい遅れてから、ブザーが鳴り、秘書官である私が飛んでいきますと「この答弁資料は、局長も課長もろくに見ないで判を捺(お)しているだけだ」そして「四方君、明日の朝までにこれ全部書き換えてくれ」と言われ、何度徹夜して書き換えたか判りません。

この時に勉強になりましたのは、本会議や予算委員会、そして各委員会がどのように運営されていて、どんなやり取りが行われているのかということが非常によく解った点です。それから地方議会ですね。東京都議会、大阪府議会、愛知県県議会等は理事者(国会でいう「政府委員」のこと)として、知事の方々と同様に、横に並んで出席した経験があります。それよりずっと後に経験を積み、国会では、警察庁の課長になった時に答弁にしょっちゅう呼び出されましたけれども、秘書官だった当時は、国会でのやり取りやあるいは大きな問題が起こる度に―自民党本部で朝飯を食べながらの勉強会がありますが―そういうところに再三引っ張り出されて見てまいりました。

今はどうか判りませんが、多くの場合、共産党以外は、質問される先生(議員)も関係省庁の官僚を呼んで資料請求をしたり、あるいは「こういう質問をしようと思っているけれども、だいたいこれで良いか?(トンチンカンな質問をして恥をかいたら困る)」こういうことですね。それで、答弁資料は全て、各官庁の課長補佐クラスが書きます。それを各省庁の局議に諮(はか)り、局長以下が「これでよろしい」というところまで文章を詰めた後、答弁資料が出来上がる訳です。

で、私が秘書官を務めていた当時、警察の問題が大きな問題でしたので、私が仕える大臣と佐藤総理とに、同じ質問が出される場合が多かったのですが、総理大臣の答弁資料は、私が総理大臣秘書官のところへ持ってまいります。ですので、例えば翌日の本会議で、総理が答弁された際に警備局が書いたそのままの答弁を読まれているのか、誰が手を入れたのかがすぐわかる訳です。因みに総理大臣の答弁は、お役所が書いたそのままの答弁でありました。

私が仕えていた大臣は、私が全部書き換えておりますので、答弁の本質は変わりませんけれども、答弁のやり方が少し違う。この時、僕は非常に嬉しかったですね。私は、青年団の副団長の経験がありますから、人前でしょっちゅう演説をやっていた経験がありますし、選挙運動の応援では、国会議員から町会議員にいたるまで行っておりますので、演説口調の文章に修正するのは、非常に楽にできたんです。


▼スケールの違う戦前組

ここで結論ですけれども、まず第一に―これは何も警察に限った話だけではありませんが―敗戦によって現在の民主警察制度ができましたが、敗戦後、特に徹底的に解体され、力を弱められたのは警察権力であります。先ほど申し上げたように、昔は内務省という強大な官庁がありましたが、この内務省こそGHQの占領政策によって最も解体された役所でございました。旧内務省の主力は、刑法局(警察)と地方局(後の自治省)の2つですが、これ以外にも民生局や運輸局などがありました。これがそれぞれ警察庁、自治省、労働省、運輸省、後の海上保安庁と、これだけの省庁にバラバラにされた訳です。

そのため、(同じ警察官僚といっても)旧内務省時代の先輩と戦後警察へ入った後輩とでは、権限の幅が全く違います。権限の幅が小さくなりますと、当然のことながら、人間も小さくなります。幸い私はこの年齢ですので、(戦後に入庁しましたが、戦前派の)内務省出身の(スケールの大きい)先輩に仕えることができた訳です。内務省自体は昭和二十二年に解体されますが、役所の仕組みはそれ以降大きく変わりました。

どう劇的に変わったかと申し上げますと、内務省の先輩であり―名前を申し上げれば皆さまもきっとよくご存知の方だと思いますが―私が警察庁に勤務していた当時に、ナンバー・ワンの警察庁長官になられた後藤田正晴さん。この人が昭和十四年に内務省に採用された一人でございます。決して後藤田さんの名誉を傷つけるような意味で申し上げるのではないのですが、実は後藤田さんはかつて「長官は無理だろう」と言われておりました。と申しますのも、もう一人素晴らしい方がおられたからですが、その方が途中で辞めざるを得ないような事情が発生し、自治省に出向されていた後藤田さんが再び警察庁に戻ってこられて長官に就かれたという経緯がございます。

そして、その後藤田さんの二年後輩に、総理大臣にまで登りつめられた中曽根康弘さんがいます。この内務省昭和十六年入省組にはきら星の如く優秀な人材が揃っていました。私の想像ですが、おそらく中曽根元総理はこの同期の仲間内において「首相になることは容易ではない」と思われていたのではないかと思います。東京都警察本部のことを警視庁といいますが、中曽根さんは警視庁の監察官をしている時に退職し、衆議院に立候補されました。それから、大阪市で長く(16年間)市長をされた大島靖さん。この大島さんは、後藤田さんと内務省の同期ですが、敗戦後、労働省に行かれてから大阪市長になられた労働省出身の方ですが、彼も内務省OBであることは間違いございません。

ですから、「私の尊敬すべき先輩は昭和十六年採用までの先輩であった」ということです。昭和十七年から二十年に至るまで、内務省の先輩方がおられる訳ですが、その頃から軍部が実権を握るようになりました。その影響を受けて、たとえ内務官僚になったとしても、バリバリ仕事をやれるような魅力がなくなってくる。そして、優秀な人材はどんどん軍隊に取られる。あるいは兵学校、士官学校へ行ってしまう。というようなことで、昭和十六年までの入省組に比べますと、(その後の入省組は)なんとなくスケールが小さく感じられました。時に彼らは、戦前採用されたキャリアの先輩を差し置いて「おや」というような生意気なことも言いました。


▼志の大きな人間になれ

どこの国でもそうですが、日本も昔(註:明治以後)から「高等文官試験」というキャリアとノンキャリアを区別した試験がありました。敗戦後、「高等文官試験」という昔のキャリアの試験はなくなりましたが、すぐに国家公務員の上級職試験として昭和二十三年から復活しました。しかし、GHQから「警察庁だけはまかりならん!」ということで、警察庁は上級職(キャリア)採用試験をやることを禁じられました。

しかし、われわれの先輩はなかなかしたたかで、こっそりと上級職試験を敢行したのです。「上級職」という名前を付けると睨(にら)まれるので、「三級職」という、いかにも下のほうの役職であると見せかけて、上級職試験をやりました。その時に私の二番目の兄貴が採用されたのですが、それが占領軍に見つかってしまい「けしからん」ということになり、警察庁の幹部がGHQに呼ばれ「止めろ」と言われました。しかし、再び昭和二十四年に、今度はさらにカモフラージュして、(キャリア合格者は幹部候補生ということで)最初から「警部補」という身分になるのではなく、一般と同じように「巡査から始める」という形にして上級職試験をやりました。それがまた見つかりまして「もう二度と許さん」ということで、二十五年のサンフランシスコ講和条約が結ばれる(日本の独立が回復される)までは警察庁では上級職試験をやれなかったということがございました。

こういったことから推して、戦後の警察というものは、戦前に比べてずいぶん姿が変わってまいりました。実は私は、現在の警察のあり方に満足していませんし、また後ほど触れますが、警察官僚として奉職した31年間で確信を持って学んだことは、「やはり志の大きな人間でなければ駄目だ」ということです。いろんな方々が本に書いておられますが、特にリーダーシップを執るべき立場にいる人は、最近特に多いですが、志の小さい人では駄目ですし、また、秀才というだけでも駄目です。

私は以前から「秀才とリーダーシップは関係ない」と思っています。文章を書かせたり、計算をさせるならば、確かに(優秀な人のほうが)計算も速いし、語学も達者な人が多い。しかし、リーダーシップはそうではない。リーダーシップにとって最も重要な要素は「人間関係」だと思っております。これはかつて、京セラの稲盛和夫名誉会長も似たようなことをおっしゃってましたが、そういう意味も含めて「志を大きく持つべき」であると感じます。しかし、よくよく考えてみますと、スケールが小さくなったのは警察庁に限らず、各省庁に共通しているようです。何故、スケールが小さくなったかと申しますと、戦後63年の諸々のものが集約されて、その結果として、志の小さな人間になってきたんだと思います。

民間人になってから22年。今日のような講演の席で、私はよく「官僚として三十一年、民間(に転換して)二十年余り経たれますが、官と民とは、どう違うのでしょうか?」あるいは「官の世界から民の世界に入って戸惑いはなかったのでしょうか?」と尋ねられますが、変わるのは仕事の中身であって、私自身は本質的にはあまり変わっていないと思います。警察内でも、交通をやっていた者が急に刑事の仕事を命じられたら、まったく仕事の内容が変わる訳です。また、私は仕事の性質が変わるところに転勤することに慣れております。

したがって、民間会社に入ったからといって格別驚くことはありませんでした。ただし、まず「売り上げ(利益)が第一目標になる」という点が違う。志の方向がまったく異なります。しかし、リーダーシップにおいてはほとんど同じだと思っておりますので、そんなに違いはないと思います。


▼民間人になって学んだこと

民間人になって、関西電力には(常勤顧問として)1年間、それから、関西国際空港(会社には常務取締役、後に専務取締役として勤務)は、ちょうど建設時代で、非常に勉強になりました。世界中を探しても、あれだけ巨大な埋め立て工事をやったことは、歴史的なことで、当時、全世界から多くの見学者が訪れました。この関西国際空港に6年間。これはすべて「天下り」で行ったのではないということをご理解いただきたいのですが…。その後、昔はニチイという名で、今はマイカルという名前になったチェーンストアをご存知の方も多いと思いますが、このグループから「是非来ていただきたい」と強い招請を受けました。

民間人になってからの22年間で得たものは何かと申しますと、関電には1年間しか居りませんでしたから、何も言うことはありませんが、関西国際空港は、国家的プロジェクトとして「国が全責任を持ってやること」と法律上定められていたのに、大蔵省(あるいは政府)が金を出し渋ったために、関西の財界、大阪府、大阪市等から多額の資金を出していただいて作った第3セクター方式の大プロジェクトでしたから、その時期にその会社に居て私自身いろいろと勉強になりました。何しろ寄り合い所帯ですから、はじめて役員会に出席した時に驚いたのは「皆、バラバラ」ということでした。今はもう変わったと思いますが、当時は第3セクターの難しさというものをずいぶんと学びました。

それと同時に、日本の技術の素晴らしさ…。実はものすごい早さで関空は地盤沈下しているのですが、場所によって沈下速度が異なる訳です。それをコンピュータで計り、地中にあるすべての柱の下にジャッキを入れて高さ調整しているから、常に空港ターミナルビルは水平(フラット)状態にあるのです。ターミナルビルの前面に高架道路が走っており、空港建物の四階に着くようになっていますが、道路の沈下速度とビルの沈下速度も異なりますから、放っておけば境目で蹴躓(けつまづ)いてしまいます。これもちゃんと計算し調整されているという、事務屋の私から見れば、驚きの連続であるほど、日本の素晴らしい技術を勉強させていただきました。

その後、請われて役員になったマイカルでは、破綻(はたん)する直前に社長を受けざるを得なくなりましたが、これは、マイカルのメインバンクであった第一勧業銀行が、富士銀行、日本興業銀行(と経営統合して「みずほ銀行」になる直前でしたので、三行)の頭取と追加融資の件を相談していたのですが、私の前任者(宇都宮浩太郎社長)がやる気を失ってしまいました。前任の社長は、ある常務を「自分の後任に」と考えていたのですが、その案をメインバンクに反対されて、結局、平成十三年の正月明けに急に私に電話がかかってきたのです。「銀行陣が四方が社長を引き受けないと応援しないと言っている」ということでしたので、やむを得ず引き受けたのですが…。

これもマイカルという年間1兆2千億ぐらいの売り上げがあって「ジャスコに追いつけ追い越せ」と、かなり勢いがあった会社が、あの当時の約10年あまり業績がずーっと右肩下がりになっていたのですが、この原因はズバリ独裁です。マイカルに限ったことではないですが、企業名を具体的に挙げませんが、どこの企業でも独裁体制になって7、8年あるいは10年も経ちますと、おかしくなってきます。まず社員が言いたいことを言わなくなり、独裁一派の顔色ばかり窺(うかが)うようになります。そして、次から次へと赤字のプロジェクト開発をやることになります。

マイカルが最初に取り組んだ横浜の本牧での大きな街づくり(註:「マイカルタウン」の第一号として、スーパーSATYだけでなく、ファッション、レストラン、スポーツクラブ、映画館、ホテル等を含む12棟からなる巨大複合施設としてオープン)を成功させました。これは素晴らしい計画でしたが、それを周囲に褒められたので調子に乗ってしまい、銀行から多額の融資を受けて全国各地で次々と同じ様な大きな街づくりを手がけました。

2月17日、求道会創立六十二周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『1945年の敗戦から今日までの何が問題か〜皆様に是非聞いていただきたい〜』の講題で、一富士債権回収会長の四方修(しかたおさむ)氏が記念講演を行った。『グリコ・森永事件』の捜査を指揮した大阪府警の本部長として有名な四方氏は、退官後、大手スーパー「マイカル」の再建に辣腕を揮い、その後、(株)一富士債権回収を立ち上げた。本紙では、四回に分けて、四方氏の記念講演を紹介してきた。 

このマイカルタウン本牧(横浜)に続いて、桑名、明石、それから中国の大連、そして小樽と茨木などの地に次々と大規模な出店を行いました。これらの大型開発の会議に私も出席しましたが、「四方さんは大久保彦左衛門(註:執行部から独立した御意見番の意)として自由に意見を言ってくれ」と、当時のマイカルの代表(小林敏峯会長)に言われてましたので、私一人言いたい放題言っていましたが、それでも、とにかく独裁一家の気に入るような提案が選ばれ、それを元に「各関係省庁の了解を取る」といった様子でした。この私がマイカルの取締役になったにも関わらず、マイカルの暴走を止めることができなかったことは誠に残念でした。


▼債権回収代行とはどんな仕事か

警察官僚退官後、そのような仕事を経て、現在私は、金融機関が持っている不良債権を回収する仕事をやっております。これまで金融機関の不良債権の回収は、弁護士にしか許されていなかったのですが(バブル崩壊後に大量の不良債権が発生したので)「それでは間に合わない」ということで、平成十二年に法律ができて、弁護士資格がなくても法務大臣の許可が取れれば不良債権回収の仕事がやれるようになりました。そして、ある人から頼まれて、株式会社一富士債権回収を創り今に至っております。

最近も次々と新しいタイプの不良債権が出てきております。長年続いた不況の中で「サービサー」と呼ばれるこの仕事の存在を、多額の借金で苦しんでおられるのにご存知ない経営者の方がまだまだ多い。私には「もっと早く相談に来ていただけたら、倒産せずに済んだのに…」と思われる会社がいっぱいあるんです。

サービサーの存在をご存知ない方も多いと思いますので、簡単に説明させていただきます。例えば、中小企業の経営者の方で、銀行に20億円の借金があるけれども、その元利返済ができないと不良債権化します。放っておけば、銀行は抵当権を執行して不動産など資産価値のあるものを皆召し上げてしまうか、あるいは外資系金融機関に債権を譲りますが、外資系の場合は、かなり厳しく取り立てを行います。

そこで、仮に、Aという銀行から20億円借りておられる方がわれわれ「サービサー」に来ていただくと(不良債権処理を依頼していただいた場合)、その人と一緒に銀行に行き、20億円貸された当初と比較してその会社の現在の資産価値を計算します。例えば、資産価値が3億円に落ちている(註:たいていの場合、借金したバブル期と比べて不動産価値が大幅に下落しているから)と算出された場合、われわれサービサーが3億円で20億円の債権を譲り受けます。

そうしますと、借金をしている人の返済相手(債権者)は、銀行から私共に替わります。資産を全部売却したとしても返せっこない20億円の不良債権が2億円や5億円になった後、債務者の人と私共があらためて、小さくなった借金を今後どのように処理して再生を図っていくか、ご相談することになる訳です。サービサーに飛び込んできていただければ、そういうことができるのに、それを知らないために、その20億円の債務の金利を銀行に払い続けるために、法外に金利の高い街金融から借りたり、悪い経営コンサルタントに引っかかっている例が多いということを申し上げておきます。


▼法律より自己抑制のほうが上策

山口県で高等学校の校長をされている先生が、このあいだ私のところへ2冊の本を送ってきてくださいました。彼はその著書の中で「いずれにしても、今の時代は子供たち自身が悪いのではなく、63年間に及ぶ敗戦後の歴史の積み重ねの結果、現在の子供のような結果になってしまった」と述べておられますが、人間は他人から肥やしをもらって育つ以上、自分は他人にとって良い肥料であるかどうか? ということを常に省みなければならない。これを自分の人生のモットーとして生きてきたと思います。

元警察本部長がそんなことを言って良いのか判りませんが、交通取り締まりを例に挙げましょう。私の理想は「交通取り締まりを全部止める」ことです。そうして、交通安全は自分たち、すなわち国民の一人ひとりが自分の頭で考えていく…。これが一番交通安全上良いのではないかと思います。例えば、交通事故をしょっちゅう起こしているドライバーの調査を行いますと、裏通りの一時停止にしても、本来ならば安全確認のために一時停止しなければならないのに、お巡りさんがいるかどうかだけ見て、安全確認せずにバーッと行ってしまう。交差点に入る場合も、「信号が赤か青か」それだけを見ていますね。飛び出してくる歩行者や自転車がいるかどうかに視線がいかないということですが、同じことが踏切でも起こっています。遮断機が上ってさえいれば、電車が接近しているのかどうかを自分自身で確認しようとせずに、踏切に突っ込んでゆく…。

道路交通法は、昭和三十五年にできたのですが、先ほど触れた昭和十六年に内務省に入省された内海さんという人が、この法律を作りました。私が警察庁の交通局で初めて勤務した時に、彼は「四方君、道路交通法を作る時に思い切って罰則を減らしておけば良かった。減らさなかったばかりに、道路交通法を施行した時代と同様に、未だに同じような取り締まりをやっている」と話していました。これは決して「取り締まりが必要ない」と言っているのではありませんが、交通安全の理想国家を創って、基本的には交通取り締まりを止めて自分で安全を確認するのが一番です。

私が大阪府警の交通部長に着任した時に、(内務省の先輩である)大島市長が「四方さん、大阪人はマナーが悪い。大阪市交通局と大阪府警が一緒になって大阪人のマナーを向上させるための運動をやろう」と提案されましたが、私は東京と大阪の市民性を比較して「マナーを向上させる運動など止めたほうが良いですよ。そんな運動をすると、大阪人の良さも一緒に失われてしまいます」と申し上げました。と申しますのも、大阪人は、信号機が赤でも「自動車が来ない」と確認したら、信号が赤でも平気で横断しますが、これが本来の民主主義国家だと思います。

間違ってはいけません、自らの手で革命を起こし、自らの血と汗を流して革命をやった国では、法律とは自分たちで作るものです。自分たちの国のために法律を作るのだから、おのずと法律も「自分たちの法律」になります。「信号機」も法律のひとつなんですね。まず前提として、自分たちのための信号機であって、信号機のためにわれわれがあるのではないんですね。ですから、「絶対安全だと確認できたら赤信号でも渡って良い」というのが、本来の民主主義なんです。しかし、日本の民主主義は戦争に負けた後にアメリカから与えられた民主主義です。革命で勝ち取ったのではなく、最初から与えられていたが故に、自由と平等の本質が全く理解ができておりません。ですから、選挙においても大変間違った解釈で今日まで来ている訳です。

今朝(日曜日の朝)もテレビ討論を聴いていますと―私は毎日、日野原重明先生の新聞記事や雑誌や本の切り抜きを集めていますが―それらの論点に共通して見られる欠点は、戦争に負けた後、占領政策によって日本がどのような被害を受けたか、その被害の中で今日まで尾を引いているのは何なのかが十分理解されていない点です。


▼中学校の義務教育化が若者をダメにした

まず、第一に「教育問題」であります。教育は、占領軍によってその内容が180度変換しました。昭和三十八年から私は大阪府警の少年課長をやりましたが、この頃は第二の少年非行のピークでもあります。近年、「少年非行の低年齢化」が叫ばれていますが、そんな馬鹿なことはない。小学1、2年生から非行をやる時代が来るなんて、あり得ないと思います。これは自慢ですけれども、日本で初めて年齢別人口と非行化の比率を調べてみたところ、圧倒的に中学3年生から件数が増加しています。ということは、「中学3年間で非行に走るのを止めさえすれば、日本の非行はほとんどなくなるのではないか?」と言えるほど、日本の非行は中学3年間で多くなる傾向があります。

戦後、義務教育になった中学校に、1学期目は「中学だ、珍しいな」と皆喜んで通います。当時の中学生のほとんどは、自分のお父さんもお母さんも、昔の尋常小学校高等科卒が多かった頃ですから、「お父さんお母さんも経験していない中学へ自分は行くのだ」と心勇んだはずです。ところが、小学校の勉強も十分理解できなかった可哀想な子供まで、義務教育ということで、やれ「英語だ」、「数学だ」と言われても、何のことやら解らないという身で、だんだん勉強が嫌いになってくる。授業に出ると恥をかくので、2学期頃から怠ける。学校をサボッて休みがちになり、非行の道に入っていってしまう…。これが3年間続く訳です。

何も中学生全員が「上の学校へ進学したい」と考えている訳ではないのです。「卒業したら良き家庭の主婦になるための勉強をしたい」と希望する子もいれば「卒業したら百姓になりたい」あるいは「職工になりたい」という子もいます。また、「卒業したらさらに優秀な学校へ進学したい」という子もいます。このように千差万別の子どもたちを、3年間同じ教室に入れて同じ勉強を与えるのは、日本教職員組合のいわゆる「万人平等」という建前からであります。私は「これこそが少年非行の最大の原因だ」と、当時、新聞記者会見で発表しましたら、大阪教職員組合の幹部の方が私のところへ抗議に来られました。私はその抗議に対して説明しながら涙が出てまいりました。

「われわれが子供の頃から先生方に望んでいる担任の先生の姿でもありますが、まずその教室で一番勉強のできない子供たちに最大の愛を注いでいただきたい。一番貧しい家庭の子供に最大の愛を注いでいただきたい。そういう気持ちが今の先生方にあるのならば、現在の6・3・3制の真ん中の3(中学生)の姿などあり得ない」と…。当時、私は電車で通勤しておりましたけれど、時折出会う修学旅行の集団を見ていますと、皆、立派なカメラを持って良い靴を履いている。先生方は生徒たちと一緒に騒いでいますが、必ずそういった集団の中に、貧しい家庭の子供の姿を見かけます。可哀想に、革靴が買えないからズック靴を履いているその子には、誰も一瞥(いちべつ)も与えない…。そういう例を挙げながら、「あなた方先生は、本来の教師としての愛情があるのか?」という反論をしたら、皆逃げていってしまいました。

当時、高校への進学率はまだ3割前後でしたので、高校へ進学した後は極端に非行が減ったのですが、今や高校への進学率が9割を超える時代になりました。そうなりますと、勉強をする気がなくても「皆が行くからしょうがない」と、猫も杓子も高校へ進学する。しかし、高等学校へ進学したものの、義務教育だった中学の時と同じように、「勉強しても解らない」、「面白くない」と、どんどん不良化していってしまう。そういった背景から、現在は中学3年間と高校3年間が非行の温床になっています。

またその一方で、冒頭に申し上げましたように、教育内容の改憲として、まず道徳教育が廃止されました。そして歴史教育が廃止され、地理教育も廃止されました。つまり「日本の伝統ある文化文明」を勉強する時間がなくなった訳であります。本来、道徳というものは、宗教がその役割を担い、それぞれの宗派や教団が信者の方々へ教えてきたものだと思います。クリスチャンの家庭でホームステイさせてもらった経験のある方ならご存知だと思いますが、日曜日には必ず教会へ行って牧師さんの説教を聞きに行きます。金光教さんにしても、月に何度かの祭典で先生方のご教話を聞かれていると思います。


▼政治がその気になれば、教育は変えられる

ところが、日本では、江戸時代も含めて昔から宗教倫理教育というものが根付かなかったため、明治維新の後、「教育でしか道徳を教えることができない」と、明治天皇の『教育勅語』ができました。この『教育勅語』は、今日は詳しく触れる時間がございませんが、本当に良いことが書かれています。「親孝行しろ」とか「兄弟仲良くしろ」あるいは「友達同士は互いを信じ合って、助け合って」とか…。しかし、それらも含めて全部消されてしまいました。『教育勅語』に代わる道徳は、戦後、教育としては取り上げられませんでした。私が現職の頃に調べた内容では、先生が子供に教える道徳とは、先生の解釈によって教えられることから、教える人によってその内容が随分と異なります。道徳規範を教えなくなった戦後教育…。他にも日本の歴史教育、地理教育など本当に酷いものです。

最近テレビで視た番組で「大分県は何処にあるのか?」と尋ねられた参加者のひとりが、島根県のところに印をつけているのを見ましたが、こんな状況をどうすれば良くすることができるのでしょうか? 昔の人の言葉に「アメリカでは大統領が三代続けてやれば社会改革ができる」という言葉がありますが、アメリカの教育改革はそうなんです。例えば、まだ地下鉄の構内が酷い状態だった頃、当時ニューヨークの地下鉄公団の総裁だった人が「地下鉄をきれいにしよう」という運動を始めました。その運動に注目した大統領から刷新が始まり、三代の大統領がアメリカの教育を徹底的に改編しました。『ゼロ・トレランス(妥協の余地なし)方式』と申しますが、これは要するに「(大人の)言うことを聞かない子供に対してはかなり厳しい懲罰を科す」という仕組みなんですが、これがアメリカ全土に拡がったことにより、凄く良くなった訳であります。

現在、日本、アメリカ、中国、韓国、フランスなどの中学校や高校教育の比較調査をやっておられるところがあります。その調査結果によりますと、本当に日本の状態は酷い。先ほど話に出てきた、山口県で高等学校の校長先生をされている方の著書のひとつは「学校が荒れすさんだ状態を、皆様はどれほど理解されていますか? 本当に酷い状態です。このままいけば日本は滅びます」という書き出しで始まっています。そして、その荒(すさ)んだ学校を、どのような過程を経て良くしていったかが書かれているのですが、私がこの本を読んで感じたことは「今、学校の現場におられる立派な先生は、自分のクラスを良くするために本当に血みどろになって頑張っておられる」ということでした。

この学校では、たまたま良い先生がおられたから荒れた教室が改善されましたが、何故、政府は政策として、その先生がやっておられるようなことを全国どこの学校でも取り組めるような対策を講じないのか? 公務員の経験から申し上げますと、文部科学大臣がその気になって立案し、総理大臣が三代続けて取り組み、マスメディアもNHKだけでも良いからこの問題を取り上げて「国民の皆さん、日教組はこのように言っていますが、このままでは日本の将来は駄目になります」と訴えれば、国民の皆さんは必ず解っていただけると思います。もちろん、世の中には良い子供たちもいます。頑張っている子もいれば、真面目に仕事をしている子もいます。しかし、全体的な国の流れとし「良い国民を育てる」ということに、いったいどれだけ力を注いできたのか?

最後に、私が警察審議官の時代に総理大臣秘書官を呼んで調べたのですが、総理大臣の所信表明演説に、教育問題、非行問題に触れた演説はほとんど入っていないで、鈴木総理の所信表明演説に「一度くらい入れてくれ」と、私の後輩でもある総理秘書官に頼んでやっと所信表明演説にこの問題が入りましたが、喜んで見てみますとたった2行出ているだけでした。

皆さんは、当時(1982年)中曽根行政管理庁長官が鈴木総理の任期終了近く、次に自分が総理大臣になるという時の『土光臨調』(註:鈴木善幸内閣で「増税なき財政再建」を達成するために設立された土光敏夫氏が会長を務めた第二臨時行政調査会)というのを覚えておられるでしょうか? 石川島播磨重工や東芝を再建され、経団連の会長まで務められた土光さんは、自ら範を示すために、毎朝必ず味噌汁と丸干しを食べておられましたね。その土光さんの「土光臨調」で、加藤寛さんという学者さんが部会長を務めておられる第三部会が「自動車の運転免許証の更新期間の2年は短い、長くしろ」ということを、土光臨調第一回目の答申の目玉にするということでした。

私は交通局審議官としてこの第三部会にまいりましたが、10人ほどの学職経験者が、黙ってこの話を聞いておられました。「何故、2年が悪いのですか? これは法律で決められてあることなのです。スイスはどうだ、アメリカはどうだ」と言われるのですが、申し訳ないけれども、ヨーロッパもアメリカも、日本が先進国では事故率が低くなったので、「いろいろと規制の多い日本の交通安全対策を見習え」いという風潮が生まれているのに、「何故遅れている国(欧米諸国)の真似を日本がしなければならないのか?」といった意見が大半を占めました。加藤さんは、最後まで頑張り通した訳ですが、どの話を聴いても「法律を改正する理由はまったくありません」との官僚的な答弁でした。すべての政府の審議会がこんな実態だとは申しませんが、実際はそれに近いです。

今朝テレビで、現在、政府の地方分権改革推進委員会の委員長をしておられる伊藤忠の会長さん(丹羽宇一郎氏)がおっしゃることを聴いてきました。たしかに良いことも言われますが、いったいどれだけ本気で国のことを考えて地方分権をやろうとされているのか、私には伝わってきませんでした。そういう意味において、一番重要なのは、最終的に選挙権を持っておられる有権者の皆さんの気持ち、考え方です。ところが、残念ながら、選挙権も日本人にとっては「血と汗を流して勝ち取った」ものではなく、「上から与えられた」ものですから、その大切さを解っていない…。ですから、テレビを通して「格好良いわ」とか「テレビでよく見る有名な人だわ」などといった理由で投票を決めたりする訳ですが、年々、真面目な人が出づらく(当選しづらく)なっているように感じます。どちらにしても、帰結は国民の責任でありますけれども、そんなことを言っていたらいつまで経っても世の中良くなりませんので、良い総理大臣が良い政治をしてくれるように、お互い力を入れて頑張っていきましょう。長くなりましたが、以上で本日の話を終わります。ご清聴有り難うございました。           

                               (連載終わり 文責編集部)


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