6月22日、創立八十一周年青年大会が開催され、冒険家の風間深志(かざましんじ)氏が『地球に生きる』という講題で記念講演を行った。オートバイによる北極点・南極点到達やユーラシア大陸横断など、数々の記録を有する冒険家である風間氏は、極限状況に身を置くことによって気付くことのできた、「自分が生きていること自体の有り難さ」について、熱っぽく語った。本誌では、数回に分けて本講演の内容を紹介する。
▼なぜ「冒険家」になったのか
風間深志氏
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皆さん、こんにちは。ただ今、ご紹介いただきました風間深志と申します。長年冒険をやって来て、今年で57歳になります。皆さんの中にはご存知ない方も大勢おられるかもしれませんが、私は2004年、パリ・ダカールラリーに、皆が「止めろ」と制止するのを振り切ってこのレースに参加(註:風間氏は、1982年の第4回パリ・ダカールラリーに日本人として初挑戦し、バイクのインターナショナル500CCクラスで優勝している)したのですが、私は、そのレース中に怪我をしてしまったため、先ほど係の方に急にお願いして、椅子を持ってきていただきましたが、15分間ぐらいなら立って話ができるのですが、それ以上長く立っていると、痛みで汗が噴き出してしまうので、失礼ですが、ここからは座ったまま話すことをお許しいただきたいと思います。
皆さんは、教会長先生は申すまでもなく、これまでにいろんな著名な方のお話を聞いておられると思いますが、冒険家の話を聴く機会はないんじゃないかと思います。私は30歳の時から「冒険家」と名乗り始め、今年で27年経ちます。最初の頃は恥ずかしかったのですが、故あって「冒険家」と名乗ることにしました。といいますのは、日本は、遊びの貧しい国で、集中的に仕事をしたり有意義なことをすることにおいては素晴らしい民族なんですが、ことさら遊びに関しては「良からぬこと」という意識が働くのか、何の役にも立たない「冒険」というジャンルで活動する人がおらず、また、なかなか人も育たない土壌であります。
僕は、今ご紹介いただいたように、もともとバイク乗りなんですが、オートバイの地位を少しでも向上させたいという思いがあります。もしかしたら、皆さんの中には「バイク乗り」というと「荒っぽい人たち」とか「非行少年」といったように、あまり良くないイメージをお持ちの方もいるかもしれません。しかし、そんな中でも僕はバイクが大好きな少年でした。
僕はこう見えても、昔は会社員をやっていました。バイク雑誌の編集者を8年ほどやりましたが、その当時もオートバイの社会的地位向上のために、様々なスポーツを通じてバイクの素晴らしさに触れる活動をしていました。しかし、活字や写真を通して、読者と会話のキャッチボールをしながら、バイクについての本作りをするということ。それはそれで有意義なことなんですが、もともと編集をやるということが自分の心情ではなく、何かしら「バイクを研究したい、極めたい」という思いがありました。
そこで、30歳になったのを節目に「まず、(アフリカ大陸最高峰の)キリマンジャロにオートバイで行こう!」と思い立ったが途端、その企てを読売新聞が記事にして書いてくれたんです。その記事は僕が想像したよりもずっと大きなもので、1979年11月の夕刊に15段抜きの記事が『日本の冒険野郎、元日には山頂へ』というタイトルで掲載されました。実際に行ったのは1980年の2月です。
新聞でそんな風に大きく取り上げられたことに一番喜び、驚いたのは、僕自身でした。というのも、それより遡ること1カ月前に、神戸生まれで、僕より2つ年上の、サーキットで行われるロードレースという競技で世界各地を転戦していた片山敬済(たかずみ)さんが、日本人として初めて、ロードレース世界選手権のチャンピオンになったんですが、当時、そのことを報じる新聞記事がたったの一段のベタ記事だったんですよ!権威のある競技の世界チャンピオンになったのに、「日本人ライダー、世界の頂点に」という記事がたったの一段…。「まだまだ日本のモータースポーツを取り巻く環境は厳しく、つまらないな」と、僕はずいぶん憤りを感じました。
ところが、僕が同じオートバイに関する記事で十五段抜きの記事。その時、僕は、オートバイには、ロードレースとかトライアルといったいろんな競技やカテゴリーがあるけれども、「たとえ正面からその競技に取り組んで話題にしても、社会が受け取ってくれない部分がある」と思う反面、僕が「キリマンジャロという山に、オートバイを押し上げていくという冒険」という形で伝えると、こんなにも多くの人が聞く耳を持ってくださる。そのことを目の当たりした時「よし、この手でいこう! オートバイの様々な中身や遊びを“冒険”という名の包装紙でくるんで、皆さんにプレゼンテーションしていこう」と思いました。そこで、30歳を期にサラリーマンを辞め、「冒険家」と名乗ることにしました。そして現在に至ります。
日本で僕以前に「冒険家」と名乗った人がいるかというと、おそらくいないと思います。上村直己さんは「登山家」ですし、三浦雄一郎さんは「プロスキーヤー」と名乗っています。もちろん、お二人とも冒険家らしい雰囲気で捉えられていた面はあると思いますが、本人自らが肩書きとして「冒険家」と名乗るのは、当時の日本の世相から考えても、非常に憚(はばか)られるものがありました。「冒険家などという職業が何処にあるんだ?」と。しかし僕は二輪でやっていきたかったので、この道を選びました。
▼右足一本だけでも……
90年代に入り、冒険家としてのキャリアも10年を過ぎると、僕自身板に付いてきて恥ずかしくなくなってきました。「冒険家」と呼ばれると「ハイ」なんて答えてね(会場笑い)。いまだに「冒険家って何だろうな?」という思いはありますが、以来、ずっと冒険をしてきました。その最新の冒険が昨年の富山港から極東ロシア沿海州のウラジオストックへ向かい、ハバロフスクからずっと走ってシベリアを横断して、ウラル山脈というアジアとヨーロッパの境界にある山脈を越えて、モスクワへ入り、ドイツ、スイス、フランスと回り、最終的にはポルトガルのロカ岬という大西洋を望むユーラシア大陸の最西端にある岬に到達するまで走ってきました。
自身の体験について熱弁する風間深志氏 |
その前に先ほどの脚の骨折の原因になったパリ・ダカールラリーに出場し、初めての骨折、13カ月の入院を経験しました。皆さんの中にも何かの怪我や疾患で入院した経験をお持ちの方がおられると思いますけれども、入院したことで、私は昔を顧みたり、深く自分というものを考える良い機会になったと思います。その時には、最近よく耳にします鬱(うつ)病にも罹(かか)りました。鬱病といっても2週間ぐらいの期間でしたが、鬱というものがどういうものか、僕も身を以て体験しました。ちょうどその時は、他人様のどんな言葉にもなかなか同意できず、ただただ顔を見上げるばかり。自分自身のモチベーションのようなものが上がってこないんです。
鬱病の話が出たのでお話ししますが、「お前より脚の悪い奴がアメリカ大陸を手漕ぎの自転車で横断したんだぞ? お前はまだ脚があるから良いじゃないか!」などと言われても、ちっとも心に響かないし、何の癒しにならない。けれども片足がポッと持ち上がったのを見た時「そうだ、たとえどん底に落ちても、僕自身から元気―現在、僕は『地球元気村』というNPO法人で、皆と一緒に元気を啓蒙し、元気とは何なのかを広める活動の先頭に立っているんですが―を無くしてしまったら何の価値があるだろう?」と思ったんです。「これからは、脚が悪いというひとつの特徴を、むしろ僕の新しい特性(個性)として生きていくしかないんじゃないか」と…。もうこうなると、居直りの精神ですね。そう考えた瞬間に、僕は急に気分が楽になり、気持ちの上では、どん底から半分中腰ぐらいまで立つことができました。
それでも、それはあくまで「理論」であって、日々病室で新聞を読んだりテレビを視ていると「春です。これから山のシーズンですよ!」と、僕もよく知っている田部井淳子さん(註:1975年女性では世界初のエベレスト登頂に成功。また、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者として知られる)が出て「ここに立つと、こんな景色が楽しめるんですね」とか「野山にはこんな動物がいたり、草花が咲いています。やはり山は良いですね」などと紹介しているのを見聞きすることがあります。そうすると「ああ、僕はもう(かつてのようには山へ)行けないんだ」という思いが湧いてきて、(理論的には解っていても)また下を向いてしまうんです。なかなか理屈じゃない、自分自身の内面の事実です。そういったものがないとどうにもならない。
ある時、身体測定があり、いつも中腰の僕が両脚で起立―僕の左脚は皿を取ってしまったので力がほとんどないんですが―した時に、先生が「左脚が駄目だったら、右脚を2倍強くするんだよ」と、ひとことさりげなく言ったんです。僕はそれを聞いて「ああそうか。僕は右脚を人よりも2倍の太さにすれば良いんだ。そうすれば俺は普通に戻れるんだ」とものすごく勇気づけられ、理論ではなく、自己完結(自分自身で問題を解結)することができたと思います。それからは「退院したら再び冒険やるんだ」と、2、3カ月経つ頃には富士山の頂上まで登り、今年はもう3回目になります。現在はもう、オートバイを雪の中で押したり、山で押し上げたりすることはできないけれども「長丁場を耐えるということなら、自分が今まで訓練してきたことでできる」と、昨年はユーラシア大陸横断1万8千キロをオートバイで走りましたが、これは大した苦労ではなかったと思います。
▼家族の繁栄と国家の安全
僕もこれまでに世界各国いろんなところへ行きましたけれども、去年、足かけ3カ月もの間、多くの人の表情を見ながら、また、それぞれの国の状況を見ながら、ユーラシア大陸を東端から西端まで延べ10カ国を「線で結んで」連続して訪れたことは、僕自身初めての経験でした。これは、非常に有意義な体験だったと思います。面白いことに、これらの国々をずっと見ていくと、世界共通の基準(スタンダード)のようなものを感じるんです。それは何かと言うと、どの国の人も皆それぞれ自分の幸せや家族の繁栄、そして国家の安全を願っている。貧富の格差もあり、宗教観にしても様々…。ですから、人間には違いがあって当然だと思うのですが、先に述べた点においては、皆その「基準の中に居る」ということが、よく解りました。
しかし、翻って世界のスタンダードから日本を見ると、その10カ国共通のスタンダードの中に入らない違いがあるんです。それは「島国であるが故に、われわれ日本人は、こじんまりとした小さな幸せ感を持っていて、それに満足しているんじゃないか?」と…。旅をしている間、僕は何だか日本のほうが特殊な国のような気すらしました。やはり、多くの国々の人々はもっと国家を愛しているし…。
例えば、僕はこれまでに、世界中のいろんなところに泊まったけれど、世界遺産があるほとんどの街にも泊まりました。その地で暮らす人々は、「良いものをわれわれ自身の手で残していくんだ」と、古い街並みを後世に残すことに確信を持っており、「隣国の遺産に負けない」というプライドや誇りを持っている。また、地下に巨大な駐車場を作って地上の景観(に配慮して、近代化の波から遺産)を守っている。日本は「世界遺産、世界遺産」と言うけれども―僕も富士山の世界遺産化推進に署名したし、熊野古道にも行きました―どうも、世界遺産に指定されると、お土産の「世界遺産饅頭がたくさん売れることによって地域が潤う」といったような経済効果ばかりが先行していて「他の国々と比較してみた時、(世界遺産に対するアプローチが)どうも捉え方が違うな」と感じます。
これは、地域、社会、国家、日本を愛する気持ちが前面に出た結果だろうか? 僕は疑わしい…。世界には千何百という民族があるけれど、われわれ日本人は、すぐに目先の利益を追ってしまい、その次に地域の繁栄などが関心事になりがちだけれども、彼らは、民族、歴史などの大きい重みのあるものの競争をしているからね。例えば、家族というものを尊重し、おじいさんおばあさんの優先順位が一番高い。子供はそれについてゆき、負けないように育っていく…。「日本は家族や会社とか全て、一度見直したほうが良いぞ」と思わざるを得ない。
ユーラシア大陸の旅から一年近く経ってみて、僕も改めて感じることですが、広くいろんな国を眺めて自分自身の脚下を照らしてみたり、顧みるというのは素晴らしい行為だと思うから、これから夏休みを迎え、大勢の人が外国に行かれると思いますが、旅を通して普段気付かないことにいっぱい気付かれると思います。「百聞は一見にしかず」といいますが、私は冒険家として皆さんが普段行けないようなところにいっぱい足を運びました。
その一例として、極地にも行ってきました。南極には1,400万円かけて。北極には8,800万円かけて行ってきましたが、では「お金さえかければ行けるのか?」ということになってしまいます。極地のようなとんでもない所に行って、自分の目標を達成したり、安全に帰ってくるためには、それだけで非常にお金がかかるんです。ここでいうお金というものは「安全を買うこと」だと思います。そういう意味では、やたらとお金がかかって恥ずかしいんですけれどね。僕の場合、そういう冒険に行った経緯として、バイクがあったんですね。「何もわざわざバイクでキリマンジャロに登らなくても…」とか、「なんでバイクでエベレストに行くんだ?」という問いもありますけれど、それに対する答えは、「僕はバイクが何よりも好きだから」と言うしかありません。
▼自然の魅力と人間の風当たり
バイクに乗っていろんな旅をしていますと、「今日は良かったな」と思い起こすのは、道中に出会う様々な自然の魅力ですね。自然の魅力がバイクの魅力なんです。たまたま僕はバイクに乗っていますけど、自転車に乗ることも、ヒッチハイクも登山も同じことです。様々な人々や自然、物事に出会う。その中で、内なる自分と対峙して、苦しい時に優しい言葉や心に沁みるような言葉をかけてくれる人との出会い。あるいは、ものすごく落ち込んだ時にホッとするような風景に気持ちが癒される…。「自然は先生」だと思います。バイクといえども、結局、自然が魅力なんです。「とことん自然の奥に潜む、究極(の風景)に出会ってみたい」と思う気持ちが冒険心を生むんです。
例えば、僕がエベレストに行ったのは、こんな理由からでした。8,840メートルの頂上には、土や岩といった僕の求める世界がある。エベレストの頂上にも、大好きなバイクの世界が在ったんです。「世界一の頂点にバイクで臨まないことには、僕はバイクに対して半端に終わることになる。あそこにバイクで行こう。そして、自分の納得する所まで、バイクを押し上げよう」と、2回続けて行きました。先日、中国で開催される北京オリンピックの聖火ランナーが、エベレストの頂上に立ちましてけれど、あれはネパール側から立ちましたね。僕はこのネパールサイドから1回行き、次の年は中国サイドからオートバイを押し上げて行きました。
この「オートバイ」という言葉が出てくる度に、中には「オートバイなあ…」という違和感を覚える方もいるかもしれません。確かに、エベレストに普通の登山で行くならばまだしも、バイクで行くということ自体、僕にとってもすごいリスクです。ネパール側のエベレスト街道という道をバイクで行くんですが、沿道でどれだけの人に「何でバイクで行くんだ? そこで記念写真を撮ってくれ」と言われたことか…。場合によっては、時々クレームを受けたりすることもあるので、向こうから誰か人がやって来ると、僕はバイクを藪の中に隠して、そしてまた「ナマステー(こんにちは)」なんて道行く人に挨拶しながら、再びバイクを引っ張り出して行く…。しかし、最終目的地までバイクに乗っていける訳じゃなく、後半の道程はバイクを押して行くんですからね。
そんな風に、自然に挑む前に、人間の風当たりというか、人間が発する目線が怖く、自分自身「なかなか辛いな」と感じます。「人間社会の中で生きるということは、なかなか大変だな」などと思ったりしながらも、その後、アコンカグアという南米最高峰(6,959メートル)にも登ったりしました。ひとつの大きな斜面をバイクで行くと、場合によっては、一人の人間が点のように立っています。僕は「その人の目障りになったらいけない」と思い、風に耐えながら止まり、その人が視界から消えてなくなった後に行くんです。僕がどれだけ苦労しているか、皆さんに話したいぐらい、もの凄いリスクがあるんですよ。それでもオートバイで行くことは僕にとって、その山の意味や挑む意味があるので、オートバイで行きます。
▼地平線の果てを目指して
あらゆる試練が目の前に立ちはだかっても、自然には人を惹きつける魅力があります。アフリカで行われたパリ・ダカールラリーへもオートバイで行きましたが、この時行った理由は、「自然の何処を目指して行こう? 自分の向かう所は何処なんだろう?」と考えた時に、ふと「地平線」という言葉が浮かびました。僕の目指す場所としてふさわしく、また「本物の地平線に出会わないうちは、僕はバイクに半端な気持ちで乗っていることになる」と…。アフリカのサハラ砂漠の核心に迫るには、パリ・ダカールラリーが一番です。ガソリンや食糧、物資の供給を自分自身で確保しなくても、ルールに則っていけば、世界で最も大きな砂漠に行くことができる。僕は、そこで本物の地平線を見てみたくて行くことにしました。エベレストの頂上を目指した時は、そこにも「僕の愛する土や岩がある」という思いがあったけれど、旅人は、無限の可能性を水平(地平)の中に、旅のロマンを見出し、山登りの人は、垂直の壁の中に山のロマンを求めるのだろう。エベレストより高い所があればそこを目指し、人間の見えないものや限界のないものへ挑む気持ち。「地平線はユートピアだ。蒼い空と褐色の大地。バイク乗り冥利に尽きるだろう。素晴らしい世界があるだろう」と思って、行きました。
ところが、実際に行ってみると、サハラ砂漠は凄くおっかないどころでしたね。元来、砂漠は、人間の生息を許さないところなんです。つまり、蒼い空と褐色の大地だけでは、人間は生きていけない。やはり、人間は水を飲んで、食べ物を喰っていかないと生きられない。だから、砂漠は恐怖の場所なんです。そういったところで人間のすることはというと、まず「どっちへ行ったら生き延びられるか?」ということなんです。パリ・ダカでは、もうサバイバル・ゲームになってしまって、終始、いのちの存続のために走りきることになる。サハラ砂漠の西の果ての国、セネガルの首都であるダカールを目指して走った結果、僕は6位だったんですが、もうそんなことはどうでも良いんです。ゴールした瞬間はとにかく、生き続けて走って来れた。それが一番の喜びでした。
▼冒険家の旅にはキリがない
しかし、僕自身は「冒険家」と言いながら、それは「一人の旅人」というジャンルに括(くく)られる訳です。地平線を堪能し、同時に本当におっかない砂漠という地平線を脱出して、瑞々しい大海原の波風を受けながら無事、生還の喜びに浸っている自分が、もう「次は何処へ行こうか?」と考えていました。その時、「次は地平線の終着駅であり、経線が一点に交わる北極点か南極点だろう」そして「そこへ行かないとバイクの旅は終わらない。そこへ行かないと、僕は中途半端なライダーになってしまう」と感じたんです。
それで、「地球のてっぺん北極点に行こう」と、次の目標が見えてきた訳です。けれども、北極点に到達したら到達したで、今度は「南極点に行かなきゃ」と…。人間の思いにはキリがない。とにかく、バイクが好きで始まった旅は、ある時は地平線だったり、サハラだったり、キリマンジャロだったり、エベレストだったりする訳です。
僕が最初に「冒険家をやってて良かった!」と思ったきっかけは、さっきのパリ・ダカールラリーを走った時に、たまたまひとつのハプニングが起きたことなんですよ。毎日、地平線をずっと走っていたんだけれど、ある時、2日間の日程を1日に詰めなければならない砂嵐が来たんです。本来、2日間でこなす1,300キロの日程を1日に詰めて走る…。これはちょっと無理なことなんですね。けれども、無理にでも出発しなければならない巡り合わせになって走りました。
日本人では、僕が初めて参戦したんだけれど、僕は、パリ・ダカの公用語になっているフランス語がまったく解らない。その時は、あるイタリア人が下手な英語で「明日のスタートは4時だぞ」って教えてくれてね。「いつもなら7時スタートなんだけど明日は4時だ」と…。そして、あんまりよく解らないけれども何かが「キャンセルになった」と言っている。けれども、とにかく「よし、行こう!」という気持ちで準備を進めました。朝になって気が付いたのが、いつもなら出発前に配給されるランチボックスをくれない。どういう訳か解らないけれども、くれない。結局、そのままスタートになってしまい、結果的にその日、僕は飲まず喰わずになっちゃったんです。
水がない、飯がない…。他の出場選手はその事情が判っているから自分で何とか用意しているんだけれども、僕はそういう情報の伝達が自分に無いものだから、そもそも丸腰で行っているし、水も持っていない。食料はいつも大会主催者側によって用意されるオフィシャルサプライをあてにしていて、水分補給はその食料の中に入っているパックのジュースをいつも楽しみにしていたんだけれど、それも無い状態で走ることになってしまいました。
僕は、朝ご飯も食べておらず腹も減っていたから、最初のうちは「何処かに給水所かチェックポイントがあって、そこで何かくれるだろう」と思っていたけれど、その日に限って何故かそのようが場所はないし、当然水も食糧も何もない。それも何か理由はあったにしても、僕はとにかく判らない状態で走っているから空腹感で辛かった。
けれども、そのうちに今度は空腹ではなく喉が渇いて仕方がなくなってきました。朝4時にスタートしてから9時、10時、11時…。昼を過ぎて1時、2時ともなってくると、もう猛烈な喉の乾きで、僕も弱った状況になってきました。昼の1時、2時頃になると、もう腹は減って口は開きっぱなしになって、そのまま口が塞(ふさ)がらなくなっていました。バイクのタンクにお腹を寄りかけて、水を飲まない状態で口を開いたまま走っていると、唾液が渇いてくるからますます口は開いたままで塞がらなくなるんです。これを塞ぐには唾。要するに潤いが必要なんですよ。ことわざの「開いた口が塞がらないとは、こういうことだ」などと思いながら―本当はそんな冗談を言っている余裕はないんだけどね―呼吸していると、気管が右と左の肺に枝分かれしているということがよく感じられるんです。そういう弱った状況の中で、僕は心の中で「水・水…」と呻(うめ)きながら走っていました。
とにかく、ずっと砂漠で荒れ地の中をただボーっと走っている訳ではないんですよ。それこそ、本気でバイクを操らないと大転倒してしまうし、大転倒してバイクが止まれば、もうそれは「死」を意味するんです。生きて帰れない。ですから僕は、もし転んでも「自分がバイクの下敷き(地面とのショックアブソーバー)になろう」と、バイクを助けるくらいの覚悟で乗ってましたけれどね。その間、僕は開いたままの口の中で「水・水…」と言ってました。
▼大切なのは空気、水、飯
ところが、ある時ふと、僕は自分に向かって「頑張れ」と言ってたんです。「頑張れ」って自分で言いながら気が付いたのは、喉の奥に当たる冷たい風だったんですね。冷たい風が口蓋垂(のどちんこ)の咽喉に当たると、気持ち良くて、まるで水の代わりのようで良いんです。そして「今は水が飲めないけれど、ああ俺は空気を吸って生きてるな」と思った。その時に「そうか。水より大事なものは空気だったんだな」ということに気が付きました。
自分は、空気を吸って生きてるんだな。このまま空気に感謝して、俺は何とかこの場をやり過ごして生きて還るぞ…。そういう気分で、再び自分に「頑張れ」って言いながら走りました。この時、僕は砂漠の中でバイクに乗りながら、一番僕にとって大切な物を思いました。この世の中で一番大事なものは「空気」。空気が吸えた自分にとって、次は何が一番大事か? 「水」。水を飲んだ自分は何をしたいか? 「飯喰いたい」これは絶対の順番だと思いましたね。
そしてとうとう大西洋岸のダカールにゴールした訳ですが、到着後に日本の駐セネガル大使が「飯でも食いに来い」とパーティーをやってくれたんですが、「お前、6位でよく頑張ったな。どんなトロフィー貰ったんだ? トロフィーを見せてくれ」と言われるので貰ったトロフィーを見せてたんだけど、その時の僕にとって、トロフィーは枯葉に等しかったですね。そんなものは…。順位とか順番なんていうものは、帰ってきた後、興味のある人間が発する「どうだった?」という質問に対する方便なんだと思う。僕は6位完走できるくらい頑張った。高いクオリティーを持つ、そんな強者たちの集まりの中で「6位になれました」という言葉は、あるいは「1位になれました」でも「3位になれました」でも良いのですが、それらは単に、第三者に報告するための方便なんです。それよりずっと大切なものは、空気、水、飯。その順番は、サハラがもたらした自分に対する勲章だと思っています。
「冒険やっていて良かったな」と思うのは、とことん自分自身が追い込まれた時に出てくる呻(うめ)き声のようなもの。それは「ギャー」なのか「ウー」なのか判らないけれど、何かもの凄く大切な言葉が出てくる。そういうものをひとつ知るということが、自分にとってのステップアップ、成長だと思います。「この成長こそが、自分の冒険なんだ」と思い始めたら、もう冒険を止められなくなってしまいました。もちろん、日々の生活の中にも様々な試練や努力があると思うし、また仕事の中にもいろんな進歩や学習があり、飛躍させる成長があると思います。けれども、僕は自然というものについて、損得ではなく、言葉ではなく、自分の身を以て感じさせる体験のひとつひとつがとても大切だと思うようになりました。
そんな訳で、毎年冒険から離れられなくなってしまいました。しかも、それが単なる「旅」ではなくて「冒険」であり続けるために、いろんなことの敷居を、以前よりは今回、今回よりは次回、そしてまた次の回へと、段々高くしていくんですが、おそらくその敷居を少しずつ高めていくことが、冒険家が死をもって最後を迎えてしまうひとつの原因でもあると思います。
どうしても、以前より緩(ゆる)いことをすることに意味を感じなくなってしまうので、やはり内面的な部分で魅力に欠けるものだから、段々とエスカレートしていき、最後には「死んでしまうしかない」という冒険家の性質を僕も持っているかもしれないけれども、そうなってしまうと、冒険に何の意味も無くなってしまう。僕は半端だからそう思うのかもしれないけれど、やっぱり最後は「なんちゃって!」と、生き恥を掻いても良いから「生きている」ということがすごく大事だと思っています。「あなたは何故、冒険をし続けるのか?」と尋ねる多くの人たちはこの「段々深みに填(はま)っていく」という感覚が解らないかもしれませんが…。
▼北極という極限の世界
次に、北極に行った話をします。それは1987年、僕が37歳の時なんですが、植村直己さんが北極点に立ったのも同じ37歳。僕が植村さんの本を読みながら学んだことは「男の勝負どころは37歳」ということなんですよ。もちろん、体力は若い時分と比べると落ちるけれども、知力や精神力が、かなり高いところにある。だから僕は「ここが、ある意味ひとつの勝負どころだ」と思った。それで、僕も北極点には37歳で行こうと思いました。サハラ砂漠で「極点に行かなくちゃ」と思ったのは僕が32歳の時でしたから、それから5年後の話です。
いろいろと北極というものを調査しながら行ったんですが、オートバイも普通だと35万円ぐらいで買えるマシーンが、特別仕様のため1,400万円もかかりました。もし仮に普通のオートバイを持って行っても、極寒の地ではエンジンは全然かからないし、跨(またが)るクッションは一ミリも動かない。むりやり動かすと、―電車のシートなんかを考えてもらうと解りやすいけれど―普通は柔らかいものなんですが、北極ではこれが石と同じくらい固くなります。氷点下40度、60度の世界になってくると、石の上に座っているのと同じです。あらゆる物質は、マイナス25度を下回ると、急激なカーブを描いて硬くなったり、いきなりボロボロになったりと、要するに、粘着強度や伸び率、復元性とかいろんな部分の性質がガラッと変わってしまうんです。ましてや、エンジンを普通にかけて作動させるためには、オイルメーカーによるマイナス60度を下回っても固くならないためのエンジンオイルの研究があったりするんです。
お箸とコーヒーを下に置いて一行日記を書いて「さあコーヒーを飲もうか」と思っても、コップをひっくり返してみたら一滴も落ちてこない氷になったり、自分の手帳を一枚一枚捲(めく)っていくと、捲った先のページがほんのちょっと温度が高いから捲った瞬間に湯気がフワーッと出る。他にも、例えば普段家で使っているポリエチレンのゴミ袋を振るだけで綺麗な粉になって飛んで行くんです。そのくらい、あらゆるものは変化してしまうけれども、そんな極限状況の中でも人間の髪の毛や目の玉は凍らないんだから「人間というものはよくできているな」と感心します。
人類はさすがに氷河期を超えて生き延びた生命体ですよ。普通だったら湿気ている鼻腔も、その湿気が凍って息ができなくなるんじゃないか? と思いますが、上手くできたもので、鼻の中に氷はできますが、氷の外側を覆っている鼻水というか粘液が常時出ているため、氷をポッと取り出すことができて、結果的に鼻は凍らない。目も、睫毛は凍るけれども、涙で表面が濡れている目の玉は凍らないんですよ。頬が凄く白くなって、今にも凍傷になるかならないかといった状況でも、目の玉や鼻の穴は凍らないようにできている。涙も涙腺が常に開いているから出てくるしね。そういう風に、やはり氷河期を超えてきた生命は、僕らの知識や、一生の間で一回体験するかしないかといったような極めてレアな極限状況にも適応できるまったく想像することが及びもしないようなポテンシャルや性能を秘めていると思います。だから、人間って馬鹿にしたもんじゃないし、なかなか可能性のある生き物なんです。
そうして、1,400万円かけたオートバイを北極まで持って行ったんだけど、そのバイクが動き出して50メートル進むのに丸一日かかってしまいました。深い雪で全然動かないんです。それを押して行くんだけれど、一日かけてたったの50メートルでしたね。北極点までは、直線距離で880キロあるんです…。先が思いやられます。
意外に思われるかもしれませんが、北極の氷は厚い所でも2メートル少ししかないんですよ。その2メートルの氷の下は全部深さ6,000メートルの北極海。その氷は、頑として動かない様に見えて、実は常に動いています。動いているし、氷の大地の中の「池」のように、海の表面が出ているところもところどころにあるのですが、その「池」もちょっと経つと、また凍ってくるのですが、そこは薄っぺらな氷で覆われていて踏んだら危険です。それらが「ギシギシ、キューッ」と音を出している、そこを行くのだけど、おっかねえんだよね。
深い雪の中では、「面」で重量を受ける(分散する)キャタピラやスキー、スノーボービルは動くようにできているけれども、オートバイというものは二輪で、回転する二輪の中の一点が地面に接して動くように造られた乗り物だから、雪の上では、タイヤの回転する地点を掘り下げるだけになって、前に進むという理論にならないんです。
それを前に進めようと思うと、僕がバイクから降りて押していくのですが、実際には、バイクも何もなしで歩くほうが何十倍も楽なのです。しかし、僕はバイク乗りですから、ひたすらバイクを押してゆく。それの連続です。とにかく押して前に進むしかない。それでも、もし僕が「徒歩で行くほうがどれほど楽か」という事実を言わなければ、一般の人は「あいつは自分の脚で歩かずに、オートバイに乗って楽して北極点へ行った」と思われるから、敢えて言うけどね。バイクを押して北極点へ向かうことは、自分の脚で歩くよりはるかに大変な作業でした。
▼精神なる父と肉体なる母
そんな中で頑張って行ったんですけれど、毎日毎日非常に矛盾に満ちたこと(バイク乗りがバイクを押していること)をやっていると「こんなことを必死でやったところで、いったい何になるんだ?」と自分自身に対する疑問というか、苛立ちというか、同じところで腕立て伏せしている様な気分になってきて、本当に泣けてくる。けれども借金も一杯してしまった―8,800万円もお金を投資して、ここでリタイヤしたら、支援してくれた人皆にすごい迷惑かける―から、ただ頑張るしかないと思い、頑張りましたけれどもね…。
けれども、ある日とうとう両手の指が全部凍傷になってしまいました。指が凍傷で白くなってしまい、いよいよにっちもさっちもいかなくなって、左手の薬指は腫(は)れ上がって、腫瘍(しゅよう)までできてしまったんです。それをそのままにしておくと、指は切断することになります。凍傷というのは「マイナスの火傷」ですから、腐ってくるんですね。
外はマイナス45度以下 ―僕の場合はマイナス54度という温度が自分が体験した最低温記録でしたが―の中で、上下の口髭(ひげ)がくっついてね、口が開かなくなってしまう。「何故、極地へ行く冒険家は、格好つけて髭を生やしているんだろう?」なんて人は思うかもしれないけれども、あれは電気カミソリは使えないし、髭を剃るための石けんも使えないという訳で、どうしても髭は伸ばし放題になるんですよ。その髭に息が鼻腔から出た瞬間に凍って、口髭にくっついて、それが氷柱(つらら)となって垂れ下がっていって顎(あご)の髭とくっつくから、口が開かなくなったりしてね。口を開けるには、非常に悲惨なんだけれど、まずハアハアと口で息を凍った髭に吹きかけて、上と下の氷を溶かしてからパーンと開いたりとかね…。
そういう非常に寒い極限の地では、人間は気持ちが内へ向くんですね。外に行かない。内へ内へと向かって行って、結局は自分の精神との会話になってしまう。ですから北極では、内に籠もって、自己との対話の毎日でした。「なんで俺はこんなことをやっているんだ?」、「極点に何を見出そうとしているんだ?」、「あそこに何があるっていうんだ?」と、そんなことを毎日自問自答するのですが、ある日いよいよ指を切り落とすか落とさないかという決断の時が来た。
何故そうなったのかというと、走らないオートバイは氷だらけになるから、オートバイを毎日エンジンがかかるようにするためには、8時間バイクを押して、8時間寝るのを除いて、朝と夕方の8時間は準備に費やすんだけど、飯を作ったりバイクを整備したりする時は、細かい手作業をしなければならないので、普段着けているこんなでかいグローブの様な手袋を外して素手に近い状態でやるんで、指先が凍傷になっちゃうんです。
ズキズキする指先を見ながら「このまま冒険を続けるかどうか」考えました。指を守る決断をしたならば、ラジオ無線は毎日交信していますから、SOSさえ出せば飛行機が十何時間かけて救援に来てくれるんです。指とか自分のいのちの命運というものが、自分の決断に関わっているんだね。自分がSOSを出しさえすれば、自分の指を守ることができる。SOSを出さなければ指を失う。ただし、その代わり旅は続けることができる…。
究極の選択の中で、僕は整理をしながら考えたんです。どうするか? これまでにエベレストへも行ったし、サハラ砂漠へも行ってきた。僕は小さいころからオートバイが好きで、自分の車輪の跡を大地へ刻み込みながら世界中を旅してきたが、今、自分は北極点という地球の頂点を目指し、ここにいる…。そして、「このまま遠征を続けて北極点まで行こう!」と決めた時にパッと出た言葉が「お母さんごめん!」という言葉でした。
思わず出た言葉ですけれども、本当に思わず出てきましたね。「北極点まで行くぞ!」という気持ちが、どうして「お母さんごめんなさい」になるのか? やはり、指を無くすことを自分で覚悟したからでしょうね。それまで僕は「自分というものは何者であるのか?」ということを、いつも日記にも書いていたんですが、「自分は何を求めて行くのか?」また「風間深志という者は何者であるのか?」という問いを、自分の人生に対する、究極の自問自答の言葉としていたんです。
自分の正体…。「自分はいったい何に喜び、何に向かって行くのか?」「何故、生きているのか?」そう考えることが、自分探しになるんですね。その自分探しの言葉のひとつが、思わぬところで「お母さんごめん!」と出てきてハッと気付きました。それは「肉体はお母さんだ」ということ。その言葉が浮かんでから、こうやって見ていくと「自分の身体は、全部母のものなんだ。母からもらった肉体なんだな」とつくづく感じ、お母さんに感謝しました。
それが、その時浮かんできた言葉の最後だったんですが、では、お父さんは何処にいるのかを考えました。「お父さんは何処にいるのか?」ということも、やはり出てきましたね。これから向かおうとする北極点の方角を見ていると、「北極点が向こうにあるんだ。あそこへ向かって行こう!」という自分の意志の力。そういった精神と呼ぶようなものの中に父があるような気がしてきました。
それまでは、何となく他人の言葉のようだから身に沁みて解らなかったけれども、「やはり、人間というものは父親の背中を見て生きているな」と…。いろいろ具体的に教わっている間は「何くそ、俺は俺だ!」と思ったりしたけれども、やはりよく自分の心の言葉に耳を澄ませると「やっぱり、父親というのはそういうもんだな」と感じましたね。
「肉体の母」に対する「精神なる父」というのが自分を自分たらしめているんだなんだな、ということを感じた次の瞬間から、僕は「親孝行とは、どういうものであるか?」という親孝行の神髄について、日記を通して毎日考えました。他に考えることが無いといえば無いんですけれども…。気持ちが内側へ内側へと向くものだから、ひとつの疑問に対する答えを放っておいて次に行くということは、やはり許されない。心の中の本当の自分に対する自問自答だから、これは嘘をつけないし、跨(また)いでは通れない。
▼親孝行の神髄は頑張って生きぬくこと
「親孝行って何だろう?」と、めちゃくちゃ集中して考えました。本気で考えましたね。僕の父と母は、98歳と97歳で今でも健在なんですけれども、「80過ぎた父にも母にも、長らく肩も揉んだことがないな」と思い、「飛行機に乗ったことさえない両親に、外国旅行をさせてあげようか」なんて、いろいろ頭の中で考えてみたんだけれど、そのいずれもが真の親孝行の神髄とは思えない。「じゃあ、どういうものが親孝行の神髄だろうか?」と考えていた時に、出てきた言葉が「僕がいつも守られていたのは、何を大事に思っていたからなのか?」ということでした。極寒の北極に居ながら、日本に居る両親という、自分が置いてきた日常に向かって、自分の全身全霊が向かっている。家族に向かっている。そこへ向かう理由は、そこには家族が居て「お父さん頑張って!」と言ってくれる子供たちも居る。そういうものに対して、テレパシーを送っていて、そんな日常が、極限状況に居る自分の背中を後押ししていることを、すごく感じていることに気が付いたんですね。
その一方で、父である自分が居ることにも気が付いた。僕は、父や母のことを思う子であるけれども、同時に、父である自分もここに居る。そして「もしかしたら生きて帰れないかもしれない土壇場の自分は、子供に何を願うだろうか?」というところに答えはあったんだ。生きて帰れないかもしれない親として、子供に思ったことは「お母さんとお父さんのあげたいのちを粗末にするんじゃない。輝いて生きろよ」という気持ち。これが自分の気持ちの全てでした。
「それならば、僕は何時でも何処でも親孝行ができるんだ。これで良いんだな」そして「親が心配するから、子供は死んではならないけれど、思いっきり輝いて生きるということは、やはり親孝行の神髄だ」と思いました。そういうことであれば、もう両親の居ない同僚たちにも向けられる言葉でしょう。「たとえお墓に行かなくても、亡き父や母に対して何時でも何処でもできる親孝行とは、頑張って生きるということではないかな」と…。そんなことを思いながら、北極で、父と母を発見したという次第でした。
▼日常こそ大切なもの
最終的に、僕は北極点にまで行けました。北極点に到達した時は、両手を挙げて喜びましたけれども、実はその時、一番やりたかったことが何だったのかというと、一も二もなく「早く家に帰りたい」ということでした。本当のゴールは、日常なんだ。日常に帰らないと、本当のゴールにならない。豊かな日常を持っていると、素晴しい抱負や夢も湧いてくるし、また、様々な冒険心や夢を育んでもくれる。そういった中で育まれた冒険の新しい試みやチャレンジの究極の場面に出遭った時、自分の背中を押してくれるものは日常だということを、僕はいつも噛みしめています。だから、常に到達の目標は日常に向かっており、日常に帰ってゆく…。
冒険でなくとも、例えば、音楽で目標を持って、素晴らしいコンクールで優勝したり、小説で文学賞を取ったりしても、その大きな目標を達成した後こそ、家(=日常)に帰らなくては意味なんてない。僕は、学問も芸術も、全てそういうものだと思う。そして再び、日常を肥やしにして邁進(まいしん)してこそ、自分も成長することができるし、ひとつひとつの目標も「達成した」と言えるんじゃないかと思う。そんなことを考えながら、僕は再びユーラシア大陸横断の冒険に出て、脚を折ってしまった訳だけれど、こんな脚になったことも含めて、死ぬまで生涯学習です。
生きているということは「常に、誰かから教訓を学び、何かから教えられながら輝いて生きて行く」ということだろうと思います。
北極点に到達した後、僕は南極にも行きましたけれど、南極には、また違う意味で違うことを感じました。北極点もそうだと言えるけれど、南極点も、南極から見る360度全ての景色が北なんですよ。南極点には西も東も無いんですね。北という方角しかない。それから、「今何時だ」という時間もない(註:地球上では英国にあるグリニッジ標準時を中心に東西の経度で15度分移動する毎に1時間ずつ現地時刻がズレてゆくように規定されている)。そんな中に居ると、時間の概念が崩れ「時間とは、いったい何であるのか?」ということを考えたりするんですよ。
けれども、そんな中でも、自分はちゃんと脈を打ちながら生きていて、体は時を刻んでいる。これは、確実にいのちの終焉(しゅうえん)の方向に向かって生まれたのではなく、これから先の未来に向かって時を刻んでいる。そうやって時間というものはあるけれども、1日は24時間で、1年は365日。そして僕は南極点に立っている。
霧氷を見ると太陽はぐるぐる回る。「何故回るのか?」と思うと、なるほど確かに、僕は今、太陽系第三惑星というものの頂点―南極は底だけれども、宇宙には上下の区別はないから、どちらも頂点と考えて―に居る。ここ南極点は点だから時間の区切りがないけれども、地球が23・5度傾いたまま、24時間で一回転する自転が「1日」。さらにそれが365回繰り返されて、一回公転すると「1年」。そういった今まで自分を支えてきた観念の集大成が崩れてしまうと、僕自身の人生という歴史が否定されたようなとんでもない何か欠落したような精神状態になって、生きた心地がしない。
これまで当たり前のこととして享受してきたことを削がれた生命の不完全さというか…。いのちには性格があるんですね。この性格は、東西南北や1日24時間といった日頃意識することすらない法則から離れたことがないものだから、これがなくなるとえらく不安になり、自然と泣けてくるんです。それが、地球という第3惑星の天体宇宙における個性のひとつなんですね。第3惑星に生きる生命の一個体としての個性が1日24時間、1年365日。これが木星ならば、1日10時間、1年が4,329日でしょう? そう考えると、僕らの肉体の持つ特性や性格とは、地球そのものが創ったものなんですね。その地球を取り巻く天体宇宙というものには、上下の区別もなくなってしまうというところに行ってしまうんですけれども、その宇宙と地球という惑星の切れ目にあるのが極点なんです。
そのせいか、極点に行くと、非常な悲しみとか不安が出てくるけれども、地球というものがまさしく自分そのものなんだということを感じました。そんな訳で、僕は『地球に生きる』というタイトルを出させてもらったけれども、本当は「地球のことを大事にしよう」なんて決まったことを言いたかったのではなく、地球を大事にするということは「自分を大事にしろ」ということと全く同じだということ。僕はそれを南極で教わって帰ってきました。
それだけ思っていても、再びユーラシア大陸横断の旅が始まったり、脚を折って鬱になったりするんだから、人間というものは本当に弱いものだということ。だからこそ「毎日を頑張らなきゃならないな」ということをつくづく感じております。以上、ご清聴有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)