2月22日、求道会創立六十三周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『家族の絆』の講題で、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会事務局長の増元照明氏が記念講演を行った。増元氏は、「北朝鮮には、対話ではなく、圧力をかける以外に解決策はない」とする強硬派の論客であり、「日本国民の怒りのメッセージが拉致問題解決の力になる」と強調した。本紙では、数回に分けて、増元氏の記念講演を紹介してゆく。
増元照明氏
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▼同盟国アメリカに対する不信感
皆さんこんにちは。ただ今、ご紹介いただきました北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(通称「家族会」)の事務局長を務めております増元照明です。私の姉、るみ子は昭和五十三年(1978年)8月に、(東シナ海に面した)鹿児島県の吹上浜から石川修一さんと共に拉致されてしまいました。それからもう31年が経とうとしていますが、未だに彼女を帰国させることができておりませんし、先がまだ見えない状況で本当にイライラしています。
先日(2月17日)米国のヒラリー・クリントン国務長官が日本に来られましたが、その際に、拉致被害者家族と面会の機会を持っていただくことができました。これも昨年、(ブッシュ政権当時の)クリストファー・ヒル国務次官補がゴンドリーザ・ライス国務長官と共に推進してきた北朝鮮に対する宥和的な政策―それは、アメリカの国益に沿った判断として「テロ支援国家指定解除」という、圧力を止める代わりに北朝鮮の核を放棄させるという―日本国民からすると、アメリカの身勝手極まりない路線変更に、日本国民は非常に怒りました。
アメリカはいつも、同盟国として日本と共に戦ってくれると思っていたし、中東での「テロとの戦い」を推進してきたアメリカに、日本も憲法九条の制約下で最大限の協力をしてきました。にも関わらず、昨夏にブッシュ政権の執った「テロ支援国家指定解除」というやり方は、戦後六十数年間「アメリカはいつでも助けてくれる」と思っていた日本国民にとって、大きな不信感を呼んだと思います。実際には「アメリカは日本を助けてくれなかった」と…。
日本国民のいのちに対しても、アメリカは「自国の国益を優先して動く」という事実を目の当たりにして、アメリカに対する不信感が大きくなり、アメリカ大使館へも日本国民から多くの抗議の葉書が届いたんですが、それに対して、バラク・オバマ新政権が敏感に反応したということではないでしょうか? 先月の新政権誕生直後に、中曽根弘文外務大臣とクリントン国務長官が電話会談をされた時に、クリントン長官のほうから「拉致問題は忘れない」と言っていました。それを受けて、クリントン国務長官が来日される際に、「向こうから拉致問題に言及されたのであれば、もしかしたら会って話を聞いていただけるかもしれない」と思い、2月3日に内閣府および外務省を通して要請をしていました。そうしたら、日本政府の要請によってではなく、クリントン国務長官、そしてアメリカ大使館の意向として30分ほどの面会が許されました。
実際にクリントン国務長官とお会いした飯塚代表と横田夫妻から聞いた話ですが、クリントン長官は30分間のうちのほとんど8割方の時間を、家族側の現在の状況、家族がどのような思いを抱えており、どのように考えているのかをひたすら聴いておられたそうです。あとの2割の時間は、今後の政策について「北朝鮮への圧力の強化とテロ支援国として再指定してもらえないか」というわれわれサイドからの依頼でしたが、そういった政策に関する話は―国務長官の一存では答えられないためだと思いますが―「話を流された」という印象を、飯塚代表と横田夫妻は受けたそうです。もちろん、オバマ新政権の対北政策がまだ定まっていない状況だとは思いますが、クリントン長官が来日される前の記者会見の中でおっしゃっていた「北朝鮮が核を放棄する覚悟があれば、米朝国交正常化をする用意がある」といった言葉の中にもアメリカの基本姿勢が現れていると思います。
しかし、日本政府は今、「拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はなし」という基本姿勢で北朝鮮に対し望んでいます。その同盟国の基本姿勢を理解することもなく、拉致問題に対する日本国民の思いをまったく無視した形で「核を放棄さえすれば、米朝国交正常化をする用意がある」と言っている根底には、「日本の拉致問題を忘れない」という言葉が単なるリップサービスであるということが垣間見えると私は思っております。
もし、本当に「拉致問題を忘れない」そして「拉致被害者のことを重要視している」という考えで進むのであれば、米朝国交正常化も「拉致問題の解決なしにはできない」というメッセージを世界に与えなければならない。にも関わらず、核の放棄だけで国交正常化の条件にしたことが非常に残念でなりませんでした。確かに、家族会と面会された後は、拉致問題の重要性をメディアに対して発言しておられますが、根底はどうか判りません。ですから、是非、皆さんには、この問題を国の問題として考えていただきたいと思います。
皆さんの怒りやアメリカに対する不信感が増幅したことを受けて、米国務長官が日本国民の声を気にして家族会の代表と会うという結果をもたらしました。今回の面会は、2月16日から18日にかけて、たった3日間という日本滞在の日程の合間に、忙しいクリントン国務長官に「会わなければならない」と思わせるような日本国民の声があったからこそ、実現したことなんです。やはり、声を上げていくことによって、為政者たちも耳を傾けます。そして日本国民の声が正しく伝わることが、拉致問題の解決に向けての大きな力になるんです。本日は『家族の絆』という講題でお話をさせていただきますが、私は家族会の中でも、政府関係者やマスコミからは強硬派と呼ばれておりまして、いつも政府の姿勢に対して文句ばかり言っています。たまに周囲の人からは、「それでは『姉ちゃんを返せ!』という思いが伝わらない」と言われますが、思いがあるからこそ、日本政府のだらしなさに非常に怒りを感じているわけであります。
▼家族の前から突然、るみ子が居なくなった
先ほど申し上げたように、私の姉るみ子は昭和五十三年に拉致されました。姉は4人姉弟の3番目なんですが、家族の中でも中心的な存在で、常に明るさを振りまいていました。もともとそういう性格だった訳ではなく、姉が明るい性格に変わったのは高校を卒業してからで、それまではずっと泣いておりました。「泣いていた」といいますか、厳格な父親が何かあると、すぐに子供たちを殴ったりしていましたので、子供たちは父親のことを非常に怖がっていたんです。
先ほどお話―男子壮年信徒大会での感話―を拝聴させていただいた大阪の会員さんも、亡くなられた父上に対する思いを語っておられましたが、私にとっても、子供の頃の父親は非常に怖い存在でした。そんな父親から逃げたい一心で、故郷の鹿児島から北海道の大学まで逃げて行ったほどです。そんな風に子供たちが怖がる父親が、一番可愛がっていたのが姉のるみ子でした。
増元照明氏の熱弁に耳を傾ける求道会員
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その姉が昭和五十三年8月12日に、急に目の前から居なくなってしまいました。当時、私もちょうど夏休みで帰郷していたのですが、前夜は母と2人の姉、私の4人で食事をして談笑していました。ところが、翌日には突然、姉の笑顔が家族の中から消えた…。この事態を家族としてどう捉えて良いのか、まったく解らないんです。今日の昼まで一緒に笑っていたのに、その姉が夕方から突然居なくなった。何処かに行ったのか、交通事故にでも遭ったのか、何も判らない。そんな予想だにできなかった状況に直面して、当時、私は22歳になっていましたが、まだ大人になりきっていなかったのでしょう。どうすることもできませんでした。
そんな中、父親は一番可愛がっていた娘が居なくなったことに対して、非常にショックを受けたのではないかと思います。それまで子供に対して弱味を見せたことのない父親が、私の目の前で、姉の居なくなった吹上浜の渚の前に座って、地面に何か文字のようなものを書く姿を見せるんです。それまで子供に対して絶対に弱味を見せず、いつも威張っていた父親が…。姉が何処に行ったのか、まったく判らない状態が1年半ほど続きました。
▼北朝鮮の仕業と判ったけれども、政府は……
ある日、産経新聞の若い記者が家にやってきて、彼から「実は、昭和五十三年の7月、8月にアベックの失踪事件が立て続けに起こりました。日本海側で2件、未遂が1件。そしてこの鹿児島で1件。これがすべて、北朝鮮という国家による拉致の疑いが強い」という報告を受けたんです。それまで、警察からも日本政府―当時、日本政府が本件についてどこまで関知していたかどうか判りませんが―からも、家族に「今、どのような状況になっているか」という報告が一切なかったと聞いています。そこへ、新聞記者とはいえ、一民間の方から報せが入った。これが政府当局から聞いたのであれば「なるほど、そうなのか」という気持ちになるかもしれませんが、「何故、北朝鮮が? 何故、うちの姉ちゃんを…?」ということになる訳です。当時、私は北朝鮮という国に関する知識も持っておりませんでしたし、姉もごく普通に暮らしてきた一国民で、彼女が北朝鮮の悪口を言っていたことなど、聞いた覚えがありません。そんな普通に暮らしていた普通の市民が、何故、北朝鮮に連れ去られていかなければならないのか? 半信半疑のままでした。
それまでの1年半は、姉が何処に居るのかずっと判らない状況が続いており、家族の会話の中でるみ子の名前が出るだけで母も泣き出してしまうような有り様でしたから、家族の中で姉の名前を出すこと自体ができなくなっている状況の中に「北朝鮮による拉致」という想像だにできない話がもたらされました。しかし、家族とは不思議なもので、その時に何か光が見えたような気持ちになったのです。当時、父が言っておりました。「拉致されたのなら、絶対に生きているだろう。生きていれば、必ずいつか会える。だから希望を持って、いつかまた会えることを信じて、これから生きていく」と…。
私も「父の言う通りだ」と思いましたし、光を感じました。しかし、その中には「(北朝鮮の仕業だと判ったのだから)当然、すぐに政府が私の姉を救出するために動いてくれているんだろう」という思いが含まれていました。産経新聞の一記者が気付いたことを、政府が気付かないはずがない。「きっと政府が動いてくれる。だから、今、私たち家族が下手に騒いでも、連れて行かれた姉に危害が加えられる恐れもある。だから、じっと耐えるしかない」と思っておりました。
しかし、当時の警察官僚のOBが2002年12月の読売新聞に寄稿された文を読みますと、確かに日本政府は、昭和五十三年7、8月に多発した海岸でのアベック失踪事件、そして未遂事件。この2カ月の間に起こった4件の事件は「北朝鮮による拉致に違いない」と、結論を出しています。これは新潟県警、福井県警、鹿児島県警、さらに富山県警―富山は未遂に終わりましたが―の4つの県警が集められての結論でした。
しかし、「今回の一連の事件を公表するか、公表しないか」という議論の末「公表しない」という結論に達したということです。何故、そういうことになったのかは未だに解りません。その時の社会情勢もあったとは思いますが、今、想像できることは、日本の国家主権を無視して日本の領土に他国の工作員が易々と入り込み、そして日本国民を連れ去っていくということ。そんなことは、独立国家にとってはあってはならないことなんです。独立国家として、こういうことは「起こってはいけないこと」なんです。
しかし、日本国内に易々と侵入した外国の工作機関員によって、無辜(むこ)の日本国民が拉致されたというとんでもない主権侵害事件が実際に起こってしまった訳ですから、本来なら、日本の警察や政府の責任問題になるところです。そこで、この「事件」そのものを「なかったこと」にしてしまえば、誰も責任を取らなくて良いし、国際的な問題にもならない。そういう発想から、多発した「失踪事件の真相を公表しない」というお役所的な結論を出したのではないでしょうか?
おそらく、当時の政府首脳や一部の政治家の方には報告が上がっていたと思います。しかし、事件そのものを「なかったこと」にしてしまうことによって、政府レベルにおいても、北朝鮮による拉致被害の実態を放置してしまったのではないかと思います。要するに、私たちの国は、自国の国民を守るシステムを作っていなかったということです。そして、現在も過去の事実から学ぶどころか、未だにそういったシステムを作っているという状況ではないということを、皆さんに解っていただきたいと思います。
▼めぐみさん事件によって家族会が結成された
そんな私たち家族の我慢や思いとは裏腹に、私たちは19年間にわたって沈黙を余儀なくさせられてきた訳ですが、新潟から連れ去られた横田めぐみさんという13歳の女の子の事件が大きくクローズアップされたことを受けて、私たちは『家族会』を結成することができました。おそらく19年間、父も母も「娘を助けたい」というよりも「娘に会いたい」という思いをずっと抑えてきたんだと思います。しかし、自分から動くことができなかった。動くことにより悪いことが起きることを想像したり、動こうにも何処へ働きかけたら良いのか判らなかった。
しかし、家族会が結成されて全国に散らばる被害者家族が一同に政府に要請する行動を取ることで、家族が自らの足で動き、娘であるるみ子を取り戻せる可能性が出てきたことに、父は非常に喜びを感じたのではないかと思います。そして「このことが公になれば、必ず娘は2、3年で―当初は「1年かからないだろう」とさえ思っていました―戻ってくるだろう」という、本当の希望を見出していました。
家族会を結成した後、「日本政府に要請するにはどうすれば良いか?」ということで、まずは署名活動をすることになりました。新潟では、すでにある程度運動に関する知識を持った専門家が支援に加わっておられたこともあって、新潟で署名を集める時はその方たちを中心に「横田めぐみさんら日本人を救う会」というのができました。そして、その会のメンバーを中心に署名用紙を置いて署名していただけるような場所を提供していただき、横田さん夫妻もそこへ出向き署名活動を行っていましたが、鹿児島では、そういった会がなかなかできなかったんです。
市川修一さんのところもそうでしたが、私のところも署名用紙を「横田めぐみさんら日本人を救う会」から貰っても、何処でどのように「署名活動」をすれば良いのか判らなかったので、戸別に訪問してお願いしておりました。父や母は「自分の足で動くことによって、娘を取り戻すことができる」という強い信念があったからこそできたことだと思うのですが、暑い鹿児島の夏にも、坂の多い実家付近の家々を戸別に訪問していた母が、当時は「北朝鮮による拉致」などまったく世間に認知されていない時代でしたから、門前払いを受けたり、罵声を浴びせられて追い出されたという話を聞きまして「70を超える母に、それはあまりに大変だ。戸別訪問はもうしなくて良い」と言って、私は、るみ子の卒業した高校に「PTAの方々だけでも良いから、署名していただけないでしょうか?」という手紙を出させていただきました。
そうしたら、ある程度署名の数がまとまりますからね。追って校長先生にお願いをしましたら、すぐOBの方たちが、鹿児島市の天文館という繁華街で「署名活動をやろう」ということになりました。私は、父と母と一緒にお邪魔して、天文館のアーケードの中で襷(たすき)をかけて、道行く人に「娘が北朝鮮に拉致されておりますので、是非救出するためにご協力ください!」と、声をはりあげてお願いしました。しかし、やはりほとんどの方が素通りされるんです。そのことに、父は非常に憤りを覚えたんでしょう。「なんで、助けてくれないんだ。日本人が北朝鮮に拉致されている事実があるのに、なんで誰も署名してくれないんだ!」という思いが強かったんだと思います。その通り過ぎている人たちに「署名をしてくれ」と追い縋(すが)って頼んでいました。その時、私は父を止めてしまいましたけれども、それだけ父には「なんとしても娘を取り戻したい」という気持ちが強かったんだと思います。
求道会員ひとり一人に語りかける増元照明氏
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そういった活動も少しずつ実を結び、1998年には50万人分くらいの署名が集まったので、私はそれを持って父と一緒に小渕恵三外務大臣(当時)にお会いすることができました。また、その翌年に小渕さんが総理になられた時も、官邸でお会いすることができました。二度目の時は、父母が共に東京へ出てきたのですが、その後は、父も脚が弱ってきたことから、東京に出ることがだんだん億劫(おっくう)になり、年齢的なものだと思いますが、トイレが近くなるため、そう長時間外へ出ることができなくなり、旅することもあまりできなくなりました。
いつも自分で動いていた父が、なかなか東京に出て行くことができなくなってきた頃、私に対して「済まんね。悪かね」と言っていました。「自分は行けんでお前に全部任せないけんけど、済まんね」と…。私にしてみれば、「老父のために」というよりも「この救出運動を推進することによって、るみ子に会いたいから」活動をやっていたのですが…。父の「悪かね。ありがとね」という台詞(せりふ)を、非常に面映(おもはゆ)いというか、不思議な感覚を持って聞いておりました。自分の体が弱くなったがために「自分自身が動くことによって、るみ子を助けたい」という思いが叶わず、前面に出て行くこともできない。息子である私にやってもらうしかないけれども、それは「本当に申し訳ない」という思いだったのではないでしょうか。私にしてみれば「私もるみ子の家族なんだから、別に父からお礼を言われる筋合いはない」という反発がありました。
▼日朝国交正常化交渉の陰で
そんな活動を続けていくうちに、4年の歳月が経ちました。拉致被害者家族連絡会を結成して4年。政府の関係者や、いろいろな大臣やお偉方に会っては要請を繰り返してきました。しかし、ほとんど進展が見られないんです。動いていかない。進展があるどころか、逆に、悪くなっていってしまった。それは何故かというと、1990年代末、当時の大幹事長である野中広務さんが、北朝鮮との国交正常化を高らかに訴えたことを受けて、報道機関がこの拉致問題をなかなか伝えなくなったからです。そして政府は、北朝鮮との国交正常化をするために動き始めました。
報道機関としては「日朝国交正常化が間もないだろう」と睨(にら)み、そのためにも、ぜひ、自社の平壌(ピョンヤン)に支局を置きたい。おそらく、金正日と国交正常化成立時の総理大臣が、平壌で―2002年9月17日に、小泉総理と金正日との間で締結された『平壌宣言』のときもそうでしたけれども―調印をするだろうと…。その歴史的瞬間を「自社のカメラマンや記者が撮影し捉えたことを報道したい」という思いがあって、「平壌に支局を開設したい」という要請を北朝鮮政府当局にしておりました。
そうすると、何が起こるかというと、どの新聞社も北朝鮮の悪口を書けなくなるんです。北朝鮮という国は、自分の国の悪口を書く報道機関を全部排除しますから…。1990年に金丸信さんたちが訪朝(註:田辺誠日本社会党副委員長と共に訪朝し、全日成主席と会談。後に「土下座外交」と酷評された)された時も、どちらかと言うと、保守系、右と言われている産経新聞の記者は同行を許されませんでした。産経新聞は当初から平壌に支局を置くなんて考えてもいなかったでしょうけれど…。
1990年代末、メディアはそんな方向―北朝鮮に関する報道を自粛する傾向―に流れていき、政治は国交正常化を優先させて、拉致被害者のことを全く問題視しようとしませんでした。そんな社会状況下で、本当に私たちは苦しみました。「なんで、日本政府は拉致被害者のことを放置しておくんだろう? なんで、日本政府は姉たちのことを無視するんだろう?」そんな思いがどんどん強くなっていき、私の中にも「どうしようもないんだ」という諦めの気持ちがこみ上げてきました。そんな中でも、私の両親や横田さんご夫妻、有本さんご夫妻などの両親世代は、子供のことを絶対に諦めないんですね。だからこそ、「絶対に最後まで闘う」という強い意志を持って、この難局を乗り越えられていったと感じます。
▼アメリカの圧力に怯(おび)えた北朝鮮
それが、2002年の9月17日に、平壌で日朝首脳会談が開催されることになって、小泉純一郎日本国総理大臣(当時)と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長による首脳会談が行われました。両者は『日朝平壌宣言』に署名し、国交正常化交渉を10月に再開することで合意しました。この際、北朝鮮の金正日―悪の根源ですが―が「拉致」を認めることになりました。
何故、彼が拉致を認めたのかは今でも解りませんけれども、私が想像するには、アメリカからの圧力があったからだと思います。当時アメリカは、クリントン政権からブッシュ政権に代わり、対北朝鮮政策が前政権と全然違う方向に動き始めていました。北朝鮮に対して厳しい圧力をかけながら核の放棄をさせる。北朝鮮の体制までをも揺るがすような厳しい圧力をかけて「北朝鮮国内の人権問題を改善しよう」というブッシュ大統領の意思の表れでした。そんな中で、2001年9月11日の『9.11同時多発テロ』が起こったんです。
アメリカは、これを受けて「テロとの戦い」を推進し、テロ支援国家であるイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで批判しました。金正日はこれに怯(おび)えたんですね。金正日という人は「非常に頭が良い」と言われていますが、元側近によると―
長(ファンジャンヨブ)さん(註:1997年に北朝鮮から亡命した思想家。金日成総合大学学長、朝鮮労働党中央委員を歴任した金日成主席のゴーストライター。北朝鮮独自のイデオロギーである「チュチェ(主体)思想」の普及に努めた人物)も言っていましたが―臆病な人間だそうです。「自分のいのちが危うくなったり、自らの体制が崩れるようなことになると、非常に怯えてしまう。暗殺も恐れているため、自分の半径500メートル以内には武器を持った人間を絶対に近寄らせない。側近でさえ、あまり信じていない。それほど彼は臆病者である」という風に言っておられました。
中東でアメリカの武力を見せつけられた金正日は、「もしかしたら、自分の体制も崩壊し、その時には自分のいのちもなくなるかもしれない」ということを強く感じたのでしょう。では、どうすればいいのか? 日本と友好関係を結んでおけば、日本が協力してアメリカの武力制裁を止めてくれるのではないか。韓国も、当時はキムデジュン(金大中)政権が、軍事力ではなく宥和(ゆうわ)政策による南北統一を目指した『太陽政策』を推進していましたから、一緒になって止めてくれるのではないか。「日本や韓国が止めてくれるならば、アメリカの武力制裁もなくなるんではないか」と考えたんだろうと思います。
▼なぜ、金正日に直接怒りをぶつけない
しかし、日朝両国が友好関係を結ぶには、目の前に横たわる「拉致問題」という大きな壁がありました。当時、徐々にではありましたが、拉致問題が日本国内にもだんだん知られるようになっていったんです。ですから、金正日は第1回日朝首脳会談が行われた2002年9月17日に、北朝鮮当局による拉致の事実を認めることにより、日本と友好関係を結ぼうと思ったのだと、私は分析しています。一般には、「小泉さんが訪朝したことを受けて、拉致問題に関する扉を開いた」というふうに言われていますが…。確かに、訪朝しなければこの問題は始まりません。しかし「金正日の怯(おび)えから来る思惑のレールの上を、日本の政府は走らされていった」というのが、私の実感です。
何故なら、日本国の総理が、本当に日本国民のいのちを重要視していたのなら、あの9月17日の平壌(ピョンヤン)で「5人生存、8人死亡」という情報をもたらされた時に、眼前に居た金正日に対して怒りをぶつけなければならなかったのではないでしょうか? 私だったら怒ります。「なんということをしてくれたんだ! それで、死んだという8人の墓は何処にあるんだ? 彼らは何時、何処で、どうやって死んだんだ? それが判るまで『日朝平壌宣言』にサインなんかできるわけがないだろう!」と、直接、金正日に怒りをぶつけてくれたなら良かったのに、と私は思うんですが…。
結局、それをすることもなく、北朝鮮による「5人生存、8人死亡、1人未確認」という紙切れ2枚のその場で受けた報告を小泉総理は信じて、「それじゃあ仕方がない」という思いで、『日朝平壌宣言』にサインをされた。しかし、もし彼が拉致被害者の家族だったら…。あるいは、国民のことを本当に自分の子供のように思って、国民を重要な存在として考えていたならば、きっとその場で怒るはずです。ところが、全く怒りを見せないどころか、『日朝平壌宣言』という北朝鮮に有利な宣言にサインまでされた…。これが、拉致問題をその後も長引かせる大きな要因になったと思います。
今、皆様のお手元にお配りしたパンフレットがあると思いますが、これは日本政府の拉致問題対策本部が昨年末に作ったものです。この冊子に、今、私が申し上げたようなことが書かれています。北朝鮮側の主張の問題点や、2002年9月28日から10月1日に日本政府の現地調査団が行った際に、北朝鮮からもたらされた死亡に関する証拠書類ですが、日本政府も、このような刊行物を作っています。日本政府が問い合わせた安否不明の拉致被害者12名のうち、「(北朝鮮国内で)8名は死亡したが、4名はそもそも北朝鮮に入国していない」というのが北朝鮮側の主張ですが、「5名の生存者とその家族たちは、すでに帰国させた。死亡した8名についても、必要な情報提供を行い、遺骨2人分も返還済みである。にもかかわらず、日本側は『死んだ被害者を生き返らせろ』と、無理な要求をしている」と、言っています。
しかし、こうした北朝鮮側の主張には、以下のような多くの問題点があり、日本政府としては、決して北朝鮮側の主張を受け入れることはできません。その大きな問題点が、冊子の1項目、2項目に書かれています。例えば、横田めぐみさんと7人の拉致被害者の死亡確認書や問題点などが書かれていますので、後ほどじっくりご覧いただければと思います。
例えば、家族が川で溺れて、その体が浮き上がってきた時、たとえ、その時点で既に死んでしまっているかもしれないとしても、しかし、その体を病院に連れて行って「本当に死んだ」ということを医者の口からはっきりと確認するまで、親兄弟というものは家族の一員の死を受け入れることはできないんです。たとえ、目の前で事故に遭って倒れて、すでに意識不明だったとしても、その人を病院まで連れて行って本当に心臓が止まったのかどうかを確認するまでは、家族の死を受け入れることはありえません。ですから、北朝鮮側が出したこのような紙切れ1枚の情報だけで、私たちに「家族の死を受け入れろ」ということ自体がおかしいんです。
だいたい、北朝鮮当局が公表したこの死亡原因にしても、非常にあやふやといいますか、ほとんどデタラメとしか思えないような「死亡原因」ばかりです。当時、日本政府の調査団長であった外務省の斎木昭隆アジア大洋州局長が直接現地へ出向き、「横田めぐみさんが首を吊った」という木を実際に見てこられたんですが、枝が非常に細く、とても成人女性が首を吊れるような木ではなかったそうです。そのような木を以って「この木で横田めぐみさんは首を吊った」というような説明をされたが、局長は「とんでもない。それを受け入れろというほうがおかしい」ということをおっしゃってました。それだけ、あやふやな証拠書類なんです。
しかも、「遺骨は2人分返した」と言っていますが、そのうちの1人である「横田めぐみさんのもの」といわれる遺骨には、DNA鑑定の結果、2人分の遺骨が混ざって入っていましたし、松木薫さんの遺骨にいたっては、4人分の遺骨が入り混じっていたそうです。めぐみさんの遺骨として渡されたものは、全く異なる2人の人間の骨が入っていました。これだけ嘘が判明しているにも関わらず、「遺骨は返したし、説明もした。だから、拉致問題は解決済みだ」と、われわれにでっちあげの調査報告を押しつけてきたんです。この報告書を受けて、日本政府も横田めぐみさんの遺骨を持って来て、一時は私たち拉致被害者の家族を納得させようという動きが見えました。
でも、最終的に遺骨が横田めぐみさんのものではない。北朝鮮が最終的に示した死亡確認書がまったく受け入れられるものではないということを受けて、同じ年の12月8日に当時の福田康夫官房長官が「このような再調査の結果を出してきた北朝鮮サイドに非常な怒りを覚える。北朝鮮が迅速かつ誠意ある対応を取らなければ、厳しい対応を取らざるを得ない」と、「官房長官談話」として発表しました。しかし、結局、その後日本政府は、北朝鮮に「怒りのメッセージ」を出しませんでした。
▼国交正常化は解決に資さない
この「怒りのメッセージ」とは、私たちが唱えているのは経済制裁のことです。日本は憲法の制約上、武力を使うことはできません。私が為政者だったら、どのような手を使ってでも北朝鮮に対して厳しい姿勢を見せます。でも、今の日本では「平和憲法」がありますから、国家間の争いごとをを解決する手段として武力を行使することはできません。しかし、日本は経済という大きな力を持っています。だから、その力を使って、北朝鮮に圧力をかけてもらいたい。そして、私たちの家族を取り戻してほしいと要請しています。何故、この圧力が必要なのか? これはですね、この圧力で北朝鮮から拉致被害者を取り戻した国があるからです。
ご存知の方も居られるかもしれませんが、中東のレバノンという国で、私の姉と同じ1978年(昭和五十三年)に、4人の女性が拉致されました。「日立製作所の関係者だ」と名乗って名刺を見せた北朝鮮の工作員は、「日本で秘書として働かないか? 給与は高額だ」といった話を、YMCAで日本語教育を受けていた人々を対象に持ちかけ、多数応募があった中から4人を選び、騙して北朝鮮へ連れ去りました。
ところが家族から「日本に行った娘や妹からまったく連絡が来ない。おかしい」と声が上がったため、北朝鮮も「これは拙(まず)い」と思ったのか、北朝鮮に連れてきた4人のうち2人を、ベオグラードまで連れて行き家族に電話をかけさせました。何故、わざわざベオグラード(ユーゴスラビア連邦の首都)まで出向いたかというと、北朝鮮から直接電話をかけると、発信元がバレる可能性があるからです。最初はこの作戦が成功したのですが、数カ月経つとまた家族が騒ぎ始めたので、再び2人をベオグラードまで連れて行き、家族へ電話をかけさせたんですが、この2人が監視の目を盗んで逃げたんです。それで「4人が北朝鮮に拉致された」という事実が明るみに出ました。
そこでレバノン政府はどうしたかといいますと、PLOと左派軍事勢力のコネを使って、そこから金日成に話を通し、「拉致被害者を解放しないならば、とんでもないことになるぞ!」と圧力をかけたんです。そこで、金日成は金正日に命じて、4人の拉致被害者を本国へ帰しました。彼女たちは敬虔なイスラム教徒でしたが、そのうちの1人は既に脱走米兵と結婚させられており、既にお腹に子供がいた(註:イスラム教では中絶は大罪になる)ため、致し方なく母親に「私は北朝鮮に帰ります」と告げて、再び北朝鮮へと向かいました。他の3人は、現在イタリアやアメリカに居ますが、脅迫されているのか、この3人は当時の状況を話すことを非常に嫌がっています。あの時、北朝鮮によって自分たちの人生が奪われたということで、日本の取材にも応じようとしませんでした。
北朝鮮に帰った女性の方は、曽我ひとみさんの夫になった元脱走米兵のジェンキンスさんによると、「すでに亡くなられた」と聞きました。この方は、北朝鮮で過ごした二十数年間の間に母国レバノンへ帰国したのはたった一度ですが、子供は北朝鮮に残したままの帰国…。つまり、必ず北朝鮮に戻ってくるよう、子供は人質という訳です。彼女の母親も北朝鮮へ会いに行けたのはたった一度。ですから、お互いが自由に会うこともできないんです。「今、国交正常化すれば、日本と北朝鮮を自由に行き来することができ、拉致問題も自然に解決するのでは?」と言う方がおられますが、北朝鮮は国交のあった国からも拉致しているのですから、国交正常化は無意味です。
北朝鮮と同じく、社会主義独裁国家であったルーマニアは、チャウシェスク政権の時代から金日成と非常に仲が良かったんですが、かの国の人も拉致されています。マカオは1975年に北朝鮮と国交を回復していますが、この国からも拉致されています。そして、すでに拉致被害者の名前が判明しているにもかかわらず、北朝鮮はその事実を否定し続けています。ですから、そんな国が日本と国交正常化したからといって、拉致被害者をすんなり帰すことなど、あり得ないんです。それどころか、下手すると殺されかねません。国交正常化の人質として拉致被害者が存在するならば、国交正常化が成ってしまえば拉致被害者は邪魔者になってしまう。ですから、北朝鮮の主張が事実だとするならば、「5人生存、8人死亡」の情報どおりに、今も生存している被害者を抹殺する可能性が非常に高いです。だから、私は「国交正常化すれば何とかなる」などと言う人は、北朝鮮のことをまったく解っておられないか、もしくは意図的に北朝鮮サイドに立っている人間ではないかと思います。時々「北朝鮮の工作員ではないのか?」と思うような言動をされる方がメディアにも政治家にも居て、本当にびっくりします。
▼対北宥和政策は無意味
現在、日本政府は17人の拉致被害者を認定していますが、「特定失踪者問題調査会」というところには、全国から「もしかしたら、自分の家族も…」と、実に470人もの方が調査を依頼しています。これは、曽我ひとみさんという日本政府がまったく把握していなかった拉致被害者が浮かび上がってきたからです。皆さん、曽我ひとみさんとお母様のミヨシさんが拉致されたのは、実は私の姉るみ子が拉致された時とまったく同じ年、同じ月、同じ日の同じ時間なんです。佐渡で2人、鹿児島で2人が、同じ時に連れ去られているんです。つまり、北朝鮮はそれだけ頻繁に拉致を行っていたという事実がここにある訳です。そうなると、もしかすると、現在政府が認定している17人以外にも拉致被害者は大勢居るのではないか? と、行方不明者の家族が続々と「特定失踪者問題調査会」へ調査を依頼されるようになりました。
何故、これほど頻繁に北朝鮮の工作員が日本へやってきたかというと、1970年以降、金正日が金日成の後継者として認められ、徐々に実権を握っていくのですが、その過程で1974年に工作機関のトップに就任しました。北朝鮮は「対南工作」という、韓国を共産圏化することが目標なんですが、「それが遅々として進まないのは何故なのか?」ということをもう一度見直そうということになり、つまり、スパイも含めて北朝鮮の人々の振る舞いがあまりにも韓国人のそれとかけ離れているので、たとえ侵入してもすぐにバレてしまうので、その一環として、1976年に「工作員の現地人化教育をすべきだ」という指令を出したそうです。何しろ後継者である金正日の指令ですから、工作機関は競って拉致指令を重視するようになっていったのではないでしょうか? そして、各工作員たちが自分の手柄を少しでも増やすために、競って多くの拉致を行ったのではないかと思います。
私の姉は九州で拉致されていますが、ここはナンポ(南浦)という工作機関がやっており、日本海側はチョンジン(清津)という工作機関がやっていました。2つの工作機関が競って拉致を繰り返した訳ですから、「現在公表されている17人という数は、少な過ぎるのではないか?」という推測から、調査会はおそらく最低でも100人の拉致被害者がいると結論を出しました。被害者が100人にも上る問題を、日本政府はなかなか認定しませんが、徐々に認識されつつある状態です。
では、この100人をどうやって安全に日本へ連れ戻すのかということです。まさか100人全員が死亡ということはありえませんし、1人のいのちも疎かにする訳にはいきません。たとえ北朝鮮側が「拉致被害者はこれだけですよ」と発表したとしても、名前の挙がらなかった被害者を取りこぼすことはあってはならないのです。現在、日本政府は拉致被害者は生存しているという大前提で「すべての拉致被害者を帰国させるまで」と、交渉を重ねています。そんな中、何が要になるのか? といいますと、先ほど申し上げたレバノン政府のやり方を学ぶべきではないでしょうか? 北朝鮮に対して、宥和政策はまず成功しません。韓国では、キム・デジュン(金大中)、ノ・ムヒョン(盧武鉱)政権と、10年間にわたって北朝鮮に優しい政権が続きました。食糧生産もままならない北朝鮮は、その政策にずいぶんと助けられたと思います。しかし、そんなにしてもらったのに、北朝鮮当局は、朝鮮戦争後に韓国から連れ去られた500人近い拉致被害者を認めることはありませんし、その人々の存在すら否定している有り様です。つまり、10年間にわたる宥和政策を以ってしても、拉致問題は解決しなかったんです。
▼圧力をかける以外に解決策はない
日本は1990年から北朝鮮に対しずっと優しい政策を執ってきましたが、国交正常化するという姿勢を見せた時も、北朝鮮側は「拉致被害者は存在しない」と言い続けてきました。しかし、アメリカが圧力をかけ始めたため、結局認めざるを得ない状況になった。私は、これこそが北朝鮮との交渉で学ぶべき点で、こういった方法をわれわれ日本政府も執るべきではないのか? 拉致被害者を取り戻す方法はこれではないのか?
という思いがあります。ですから私は、北朝鮮には是非、圧力をかけて交渉に臨んでほしい。「六者協議」が始まった6年前からは、ずっと北朝鮮ペースで交渉が行われてきましたが、日本側は拉致問題に対して特に怒るわけでもなく、たとえ北朝鮮側が交渉に応じなくとも「拉致被害者を早く返してください」と、低姿勢で臨んできました。しかし結局、この6年間、何も成果を残さなかった。
安倍政権になって、ようやく「ミサイルと核開発に対する制裁」という圧力をかけるようになりましたけれども、それからの2年間、何も成果が出ないことを受けて、左派の人々は「圧力をかけても何も成果が出ない。やはり、宥和的に解決していくべきでは?」とか「北朝鮮を経済支援をするべきではないか」といった意見が出るようになりました。彼らも韓国政府が10年間続けた宥和政策の結果(無成果)を学んでいるはずなのに、何故、その結果には触れないで「北朝鮮には優しくするべきだ」としか言わないのか…。北朝鮮から本当に拉致被害者を取り戻すつもりならば、圧力というものが必要だと解っているにもかかわらず、北朝鮮の言うとおり、北朝鮮に有利な方向へと話を持っていこうとする方々の中に日本人がいるということが、私には残念でなりません。
6年間にわたって六者協議が進められてきましたが、昨年、ブッシュ政権の政策転換により、ヒル国務次官補が自分の利益のために北朝鮮との交渉を進めようとして、「核施設の無能力化」を条件に、「テロ指定国家の解除」に踏み切ってしまいました。そして、北朝鮮との交渉が進まない理由として、「日本がエネルギー支援に参加しないからだ」と言い始めたのです。日本の中でも「核廃棄の協議を進めるためには、日本もエネルギー支援に参加すべきではないか」と言う方々も出てきました。
▼各国が日本のカネをあてにしているのだから
六者協議のフレームワーク自体が「日本のお金をアテにしたフレームワーク」であるということを理解するならば、日本が主張すべきことをキチンと主張しさえすれば、日本の意見はあのフレームワークの中で通るということが解るはずなのです。中国は、北朝鮮に対して多額の経済支援を行い、「あの最貧国の生活レベルをもう少し上げてやろう」なんて思っていません。日本のお金が北朝鮮に1兆円くらい投入されれば、インフラも整い、経済的にも好転する。隣接している東北圏(旧満州)は、中国の中でもどちらかというと貧しい地域に当たるんですが、そこも潤うことになる。「日本から1兆円の資金が北朝鮮に投じられれば、北朝鮮の社会インフラと経済は良くなる。中国企業はその後に進出すればよい」というふうに考えています。韓国はキム・デジュン(金大中)政権の時に自国の経済が非常に落ち込みましたが、現在はそこからいくらか持ち直してきています。けれども、北朝鮮との統一(併合)を実現化したとしても、とても持つ国ではありません。現状では、経済的にも持ちこたえることは非常に難しいです。ですから「北朝鮮が統一前に、せめてもう少し経済的に上がってもらえれば、統一する時のコストを抑えることができる」というような希望は持っているようです。
イ・ミョンバク(李明博)という韓国の新しい政権が『非核開放3000』政策(註:北朝鮮に核放棄をさせ、経済を改革開放させ、10年後には北朝鮮人民の年間1人当たり所得を3,000ドルに引き上げようとする計画。因みに、現在の年間所得は1,700ドル)を謳(うた)っていますが、その中で「日本から、3兆円から4兆円の支援が北朝鮮へ行けば、近い将来、北朝鮮のGDPも上がり、そして国民も潤うようになる」(註:北朝鮮人1人当たりのGDPは、3兆円なら1,250ドル、4兆円なら1,670ドル上昇するので、目標の3,000ドルを超えることができる)と言っています。今はまだ、その確約を欠いていますけれども、韓国も結局、日本のお金をアテにしているのです。
ロシアなどはほとんど無関心です。「できればあそこにパイプラインを敷いて、シベリア産の原油を日本に送れれば良い」と思っていますけれども、「基本的にはどうでも良い」と思っているふうに考えます。アメリカはすでに中東(対アフガニスタンと対イラクの戦争)で100兆円以上のお金を使っていますから、極東の小さな国に対する関心も薄いですし、そこに多額の資金を投入するなんてことは考えていません。つまり北朝鮮の核を放棄させるフレームワークは、日本のお金がなければ成り立たないフレームワークなのです。
仮に、日本が拉致問題を重要な問題として関係各国に働きかけ、「拉致被害者が帰ってこない限り、北朝鮮への支援策は国民が許さないだろうから、エネルギー支援はおろか、経済支援も一切できない」という態度で協議に臨んでいけば、困るのは中国・韓国・アメリカです。この関係3カ国が、北朝鮮に対して「拉致問題をどうにかしろ」という圧力をかけ始める。そのような状況を作っていくべきなのです。そして、それは日本の経済力でできることなのです。それを発信せずに、「日本政府は拉致被害者のことは余り問題にしていない」という誤ったメッセージを送り続けてきたから、関係各国からの協力を得られないのです。いくらリップサービスを言われても、私たちは「実際にどのような協力をしてくれるのか?」ということを具体的に要求しなければならないと思いますし、私たち家族にとっても、それが一番重要な問題です。
▼俺は、日本を信じる
私の父は、6年前にこの世を去りました。非常に厳格な父でしたけれども、そんなに賢い訳でもありませんでした。しかし、その父が死の直前に突然、目をカッと見開いて充血した目で私の目を睨(にら)み―意識があったのかどうかは判りません。もの凄い形相でしたから―「俺は日本を信じる!」と言ったんです。それまで日本政府をずっと批判してきた父が、急にそんなことを言ったものですから、私は非常に驚きました。「なんてだらしない政府だ」とか「役人なんかだらしない奴らばかりだ」と言ってきた父が、「日本を信じろ」と言い、そして「お前も信じろ」と…。ビックリする言葉でした。
しかし、あの時、父が言いたかったのは「日本というのは、日本政府のことを表すのではない」ということだと、私は理解しています。日本という国。その国の力を父は信頼し信用していたのだと思います。「北朝鮮などという小国に負けるはずがない。日本という国の力は、もっと強いものがある。だから、それを信じろ。日本国民の力は、きっと姉を救出するために大きな力になってくれるから、それを信じろ」そして、父は、そんな想いを「日本」という言葉で私に伝えたかったのだと思います。
父の危篤状態が続き、いつ心臓が止まってもおかしくない中で、2002年の10月15日(蓮池さん夫妻、地村さん夫妻、曽我ひとみさんの5名の拉致被害者が帰国を果たした日)を迎え、その翌々日の10月17日未明。生存していた拉致被害者の帰国を受けて、ほとんどのテレビが喜びの場面を映すそのような日の未明に、父は心臓を止めました。
15日に止めてもおかしくなかった。16日に止まってもおかしくなかった。それが17日未明であったということは、父の強い思いがあったのではないかと私は推察します。「帰ってきた拉致被害者が喜びに満ち溢れている今日(きょう)、まだここに帰って来れていない被害者が居るのだ。その家族は今、このような状況になっているのだ」ということを、日本全国の皆さんに知っていただきたかったから、17日という日にわざわざ心臓を止めて、皆さんに「娘るみ子のことを忘れないでくれ!」という思いを伝えたかったのではないかと強く思っています。私は父をあまり好きではなかったですし、怖がっていた人間ですが、晩年の父の強い思いを知ることによって、父に対する感謝の念が沸き起こってきました。そして「父の思いを本当に遂げさせてやりたい」という気持ちがいたします。
▼失われた30年を無駄にしない
無事に帰国できたとしても、失われた姉の31年近い歳月は取り戻せません。24歳という、本当に若い年齢で姉は北朝鮮に連れ去られて行きました。横田めぐみちゃんは、ほんの13歳で…。有本恵子さんも20代の前半です。田口八重子さんは23歳、石岡亨さんたちは22歳で北朝鮮に連れ去られて行きました。その彼らがその連れ去られた時の若さのままで日本に戻って来ることはありません。彼らが日本の中で暮らしていたら幸せであったろうし、充実した人生を送れていたかもしれない。その30年という、彼らの失った時間はもう取り戻すことはできません。もし、彼らが無事帰って来れた時、姉に「照ちゃん、なんで助けてくれなかったの?」と言われても、僕は答えようがないのです。「ごめん」としか言えないんです。
しかし、「日本政府が、だらしなかったから、ごめん…」と言ったところで、彼らの失われた30年は決して返って来ません。けれども、彼らの生きてきた意味がそこにあり、必要ではないのかと思っています。30年…。彼らの失った30年に対し、私は何らかの意味を持たせてやりたいと思っているのです。「皆が30年苦しんだことによって、日本政府が、この問題を放置してきたことを日本国民も知った。結局、この国は「本気で国民を守らない国」だということがよく分かった。それで、(拉致被害者の)皆さんが30年間苦労したおかげで、この国の国民が目覚めて、この国を変えようとしている動きができた。皆さん方の30年にわたる犠牲が、この国をまとまった国にするための大きな原点になった。だから無駄ではなかった」と、彼らに言いたいのです。
そのためにも、日本国民の皆さんにこの拉致問題を通して、この国の在り方を一緒になって考えてもらいたいのです。「本当に、このままで良いのか? この国の政府は、自国民の生命、国民を放置したままで良いのか? 国民の安全を守らないで本当に良いのか? 日本の主権を侵した国家犯罪である「拉致」というこの非道な行為に対して、日本は何もできない国で良いのか? レバノンにできたことが、何故、この国にできないのか! 本当にこのままで良いのだろうか」ということを、拉致問題を通して、拉致被害者の救出を通して、皆さんに考えていただきたいのです。そして、この国を良い国にしていこうという流れを作ってもらいたいのです。そうでなければ、彼らの人生、30年が全く無駄なものになってしまいますし、彼らの苦しみが何のために行われて来たのか分からなくなります。せめて皆さんに、「この国を変える」という大きな気持ちを持っていただくことが、彼らの30年に対する報いになるのではないかと私は今思っています。
彼らが帰ってきた時に、私は「ごめんね」と言います。「でも、みんなの苦労は無駄じゃなかったよ」と言いたいのです。ですから、皆さんも私たちと共に闘ってください。「今、何ができるのか?」という質問も多々ありますけれども、6年ほど前から、私たちはブルーリボンバッチを付けることを皆さんにお願いし始めました。バッチでなくても手作りのブルーリボンでも結構ですが、このブルーリボンというのは、北朝鮮にいる被害者と日本にいる家族を結ぶ空と海の色を示しています。これで拉致被害者が早期に日本へ帰って来ることを願うシンボルです。このブルーリボン運動に参加していただくことによって、北朝鮮には日本人の意志の強さの表明として理解されます。北朝鮮が今、何を望んでいるかと言いますと、日本人がこの拉致問題を忘れて、北朝鮮に対する悪い印象を取り払ってくれることなのです。
しかし、このブルーリボンを無言で皆さんが付けていただくことによって、北朝鮮政府が日本人の意志を感じることができます。階級社会である北朝鮮人同士では、必ず胸元の金日成バッジを確かめる習慣がありますから、日本人もブルーリボンを付けて「私たち日本人は、決して拉致被害者を忘れないし、被害者が帰って来るまで絶対に北朝鮮に対しては一歩も引かない」という無言の意志を表すことによって、圧力になって行きます。在日の朝鮮総連から必ず情報が平壌(ピョンヤン)へ上がります。また、日本人は事件を忘れるどころか、かえってどんどんと拉致被害者の救出を願う人たちが増えているという現象を知ることによって、金正日北朝鮮政府が「拉致被害者を返さなければもうどうしようもない」というところまで、皆さん一人ひとりが圧力をかけていっていただきたいと思っています。それが早期に救出する大きな力になると、私は考えております。是非ご協力ください。
▼結果的には、北朝鮮の人々を救うことにもなる
私たちがこういう北朝鮮問題について話をすると、よく日本による戦前の朝鮮に対する植民地支配に言及して「日本は悪いことをしたのだから、今、仕返しに悪いことをされても仕方がないじゃないか」という方たちがいらっしゃいますが、私はその考え方は間違っていると思っております。脱北者の話を聞きますと、今一番苦しんでいるのは、拉致被害者もそうですが、北朝鮮の人民なんです。人民は、金正日の圧政のために、いついのちを奪われるのか判らず、強制収容所には、人口の1%にあたる20万人が常に収容されていて、明日のいのちをも知れない。中朝国境には、10万人もの脱北者が溢れて、苦しい生活を強いられています。もし中国当局に掴まったら、本国に強制送還されて厳しい糾弾を受け、下手をすれば殺されるかもしれない…。そのような恐怖に多くの人間が苛(さいな)まれている今、私たち日本人が朝鮮人に対し、本当に贖罪意識を持つのであれば、「朝鮮人民を助けるために動いてください」と私は申し上げたいのです。
「あなたたち(日本のことを悪くいう左派の日本人)がやっていることは、結果的に北朝鮮人民を苦しめている金正日を助けることになるんです。もし、本当に贖罪意識を持っているのであれば、私たちこそ金正日と闘うべきなんじゃないですか? 朝鮮人民を解放するために闘うべきではないのですか?」ということを申し上げたいと思います。ですから、左派の人たちからそう言われたら、是非、皆さんもそう反論してください。私たちにとっては、この救出運動はもちろん「家族を助ける」ということが第一義です。しかし、この運動を通して「北朝鮮の人民も一緒に解放されれば良い」という思い…。これは嘘ではありません。彼ら(拉致被害者)の払った犠牲が、北朝鮮人民を解放するために使われていくのであれば、それは大きな意味を持つものになっていくと思います。一緒に考えて、ご協力そしてご理解を賜れば有り難いと思います。
本日は長時間にわたり、生意気なことを申し上げましたけれども、拉致問題を通してこの国の在り方を考えて、一緒にこの国を創っていっていただけると有り難いと思います。ご清聴有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)