2月21日、求道会創立六十四周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『思いを伝える』の講題で、伴ピーアール株式会社の代表取締役伴一郎氏が記念講演を行った。伴氏は、大阪におけるピーアール会社の草分け的存在として、「大阪みやげ」としてのくいだおれ人形等のストラップを企画したり、ヨシ(葦)を使った琵琶湖淀川水系の水質浄化親水プロジェクトを推進するなど、ユニークな活動を展開されている。本サイトでは、数回に分けて、伴一郎氏の記念講演を紹介してゆく。
伴
一郎 氏
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▼ピーアールって何?
ただ今、ご紹介いただきました伴でございます。実は、私も金光教(尼崎教会)の教徒で、四代目の信心になります。ピーアール会社を起こして二十数年経ちますが、私が設立するまで、大阪にピーアール専門会社は一社もありませんでした。たとえ類似の会社があったとしても、そのほとんどが、広告代理店か企業の広告宣伝部門でした。
ピーアール(PR)というのは、戦後、GHQ(連合国総司令部)のマッカーサー(元帥)が、(大日本帝国陸海軍の)「大本営」を解散させた後、それまでのように、国民に対して一方的に国策を宣伝するとか、戦争遂行のために国論をひとつの方向に向けさせるためといった形ではなく、風通しの良い民主的世論形成の手段のひとつとして導入した施策です。ですから、それはコマーシャルとは異なるものです。例えば、コマーシャルでは、一方的にアリナミンAを「好きになってください」と伝えるだけです。つまり「販売促進」のことですが、こちらは一方的に「買ってください」と言うだけなんですけれども、PRとは「パブリック・リレーションズ」のことでして、企業(行政)の思いを消費者(市民)に伝えたり、消費者の思いを企業に伝えるといった、企業と消費者の真ん中に位置する―金光教で言うところの『取次』の役割を果たす―ことです。
当時から、東京には電通という巨大な広告代理店がありましたから、そこへ相談に行ったりしていましたが、「どうせなら、大阪にもピーアールの会社が一社くらいあってもいいんじゃないか」ということで、1986年に独立させていただきました。仕事の内容は、新聞社やテレビ局といった、マスコミをはじめとするあらゆる所へ記事を書いて送ったり、新聞記者の方にお話をして「実はこういう方が居られるのですが、その人のこういう活動を記事にしてあげてください」と紹介したりするといった中間的な役割です。
似ているようですが、広告代理店の場合は、例えば新聞でも、これくらいの枠(紙面)を買い取って、300万とか500万といった価格で広告を載せたり、テレビなら15秒のCMを作成するといった仕事になるんですが、PR会社の場合は、日頃から親しくしている論説委員や記者さんたちに「記事にしてくれませんか?」と作成を依頼するなど様々な仕事―まさに「リレーション(関係)」を通じて―思いを伝えていくという仕事です。現在、日本のPR会社の大半は東京にあり、約60社ほどあります。大阪にはようやく3社ほどができましたが、そのほとんどが、うちの会社から独立していった人たちです。
▼阪神淡路大震災で気付かされたこと
今日は『思いを伝える』というテーマですが、この「(意識して)思いを伝える」というのと、「(自然と)思いが伝わる」のとはまた少し違いますね。例えば、15年前に起きた阪神淡路大震災の時ですが、私は尼崎に住んでいたため、神戸の人よりは被害は比較的軽かったんですけれども…。倒壊した家屋や地割れで道路状況が悪く、自動車が使えなくなることは容易に想像がつきましたので、リヤカーの値段がハネ上がる前にすぐに皆で買い集めて、避難所になっている小学校などへ無料で配りに行きました。何しろ、飲み水を運んだりするだけでも重労働ですからね。被災地に行きますと、建物は倒れ、あらゆるものが瓦礫になっている…。家が壊れ、タンスなどの家具をはじめ、あらゆるものが道端に投げ捨てられていて、本当に無残な姿でした。
親しみやすい口調で語りかけた伴一郎氏 |
しかし、建物の残骸と投棄された家財道具によって、道幅が1メートルもなくなってしまったところを歩きながらよく見ていると、あらゆるものがめちゃくちゃになってはいるけれども、ある場所で不思議な光景に出くわしました。そこでは、壊れた家の前の道路に新聞紙を広げ、その上に壊れたタンスやテレビが置かれているんです。古くて、何十年も経っているようなものも多かったんですけれども、その壊れたタンスやテレビの下に新聞紙が一枚敷いてある…。
私がこれを見た時に感じたことは、「何十年も前に嫁入りして、子供が生まれ、孫もできた。長い長い人生ご夫婦と共に多くの想い出が詰まった家が潰れてしまい、もう家財道具も泣く泣く捨てるしかない。しかし、長年慣れ親しんだ家にあったタンスやテレビは単なる「家具」ではなく、ひとつひとつ思い入れが詰まった大切な想い出そのものだから、そのまま路上に捨て置くことはできない」という思いです。彼らが新聞紙の上に長年使ってきた家具をそっと置き、泣く泣く別れを告げておられたであろうそんな風景から、その人たちが「もの言わぬものとの対話をされた思い」が伝わってきました。私はこれを見た時、「何か人と違う伝え方をされてるなあ」と思いました。
▼不祥事を起こした時こそ問われるトップの力量
私のところはPR会社ですから、ゼネコンや鉄道など、あらゆるところからの仕事の依頼があるんですけれども、その発注元のほとんどは、企業の広告宣伝部ではなく、広報室からです。自分のところの会社のトップを社会にどういう風に見ていただくか? といった用件は、「宣伝部」ではなく「広報室」の仕事です。これが良い時はいいんですけれども、実際には、不祥事の時によく依頼があります。例えば、ファンヒーターの不具合による一酸化炭素中毒が原因で人が亡くなった時など、「どういう形で社会へメッセージを伝えていけばいいんだろうか?」と…。雪印(註:2000年7月に関西で発生し、1万人以上被害者の出た雪印乳業の集団食中毒事件。その翌年には雪印食品が牛肉偽装事件を起こし、企業イメージの低下によって、七十数年の歴史を持つ企業グループが解体した)でも事件がありましたよね。
こんなことを言ったら失礼かも知れませんが、大企業の経営トップの座に就かれる方は、たいてい、一流大学を卒業後、社内競争に打ち勝って生き残った方ですから、人生経験において、何も大きな失敗をしないまま現在の地位まで上がってこられるケースがほとんどです。昔の共同体においては、一人前の構成員としての「大人」になっていく練習と昇給(地位の向上)が車の両輪で進んでいったんですけれども、今は「警察に捕まりさえしなかったらいいやん(構わない)」とか「法律に違反してなかったらいいやん」とか「よそもやってるからいいやん」といった調子で、社会の立派な構成員としての「大人」になる訓練をされないまま企業のトップの座に就く方がものすごく多くなってきたように思います。
僕らが子供の頃は、例えば「まんまんちゃん(仏様)が見てはる」とか「神さん見てはるから罰(ばち)あたるで」といったように、たとえ誰が見ていなくても、自分の心の片隅に一種の自主規制があり、大人になるため「潔さは、昇給より大切なことだ」という価値観がある中で成長してゆけたんですが、最近の企業は「給料が高くなった(地位が高くなった)あの人は偉い」という評価尺しかなくなってしまいましたので、心は子供のままで大人になってしまったような方も居られるように思います。下に居てる社員も、そんな方がトップだと「少しでも睨(にら)まれるようなことを起こすとすぐに飛ばされる」から、苦言を呈する社員が居なくなってしまい、トップがまさに「裸の王様」になっておられるケースが非常に多いですね。
しかし、そんなトップほど、何か不祥事が起こると、すぐ「謝って済まそう」とするんです。「謝る」のは良いけれど、ただ「謝る」だけでは会社まで潰れてしまいますからね。その辺りをそうならないようにするには、起こってしまった失敗をどういう形で社会に伝えてゆけばいいのか? もちろん、素晴らしい経営トップの方も大勢いらっしゃるんですけれどもね…。
▼「水の都」大阪のプロモーターとして
大阪で仕事をするにあたって、私は「水の都」大阪と「商人のまち、商都」大阪と「食のまち、食いだおれのまち」大阪という、3つのテーマをベースに、様々な形のプロモーションを伝える仕事をしております。まず「水の都」大阪ですが、皆様ご存知のように「大坂(おおさか)」という言葉は、400年ほど前にできました。それまでは「なにわ(難波・浪速)」と呼ばれていました。四天王寺が建立された1400年前は「難波津(なにわづ)」という名前で呼ばれていたんです。淡路島や明石の方向から西の風が吹いてくると、大阪湾というのは丸くなっていますから、西からの瀬戸内海の波が入ってくる。南の方の和歌山のほう(紀淡海峡)からも太平洋の波が入ってくる。1メートルと1メートルの波が重なると、2メートルになるんですね。古代の大阪湾の海岸線は、上町台地の西辺すなわち現在の松屋町筋のあたりですから、現在の難波も汐見橋も大正区のこの辺りも遠浅の海で、いっぱい葦が生えていましたから、2メートルもの大波が浅瀬に打ち寄せると、急にものすごく盛り上がるんです。手漕ぎの舟など簡単にクルッとひっくり返ってしまいます。そんな「波の難しいところ」という意味から「難波」あるいは「浪の速いところ」という意味から「浪速」という名前が付いたと言われています。地名とは、地元に住んでいる人たちが、他の場所と見比べて付けたものがほとんどなんですね。
例えば、ここ大正区は尻無川と木津川に挟まれていますが、尻無川という奇妙な名前も、淀川の支流のひとつである尻無川の河口付近は低湿地帯で、潮の干満によって海岸線がかなり動き、「どこからが海=河尻で、どこまでが川か判らない」状態だったので、尻無川という名前になったそうです。今でも水面の高さが潮の干満に合わせて1日に4回1メートル50センチほど上がったり下がったりしていますが、川の流れそのものも向きが正反対になり、大阪湾の潮が引いた時には川の流れがものすごく速くなるので「なみはや(=浪速)」と呼ばれたとも聞きます。皆様よくご存知の『一寸法師』の物語も、出発地点はここ大坂の地(現在の難波の辺り)です。「水の都」大阪をテーマにするには、少し昔に溯って話す必要があります。
▼天神祭は日本最大の祭
現在、大阪市の面積の1割ほどが河川や運河などの水面なんですが、水のことをテーマにするならば「天神祭」との関わりも出てきます。昨年『水都大阪2009』という、新淀川ができてちょうど100周年に当たるのを記念したイベントやプロモーションがありました。天満橋では、高さ8メートル、胴回りが30メートルの巨大なアヒルを大川(旧淀川の本流)に浮かべたりもしました。
「天神さん」はご存知の通り、全国に12,000社ほどあり、それぞれご祭礼が行われていますが、その中で最も大きな祭が大阪天満宮の「天神祭」です。ちなみに、毎年7月25日に催行される天神祭のクライマックス「船渡御(ふなとぎょ)」の3時間で使われるお金が、だいたい10億円です。毎年10億円を皆が出し合っていて、そこには大阪天満宮のお金は一切入ってないんです。この祭は、すべて商売人の持ち寄り(寄付)で行われているんです。
この3時間で集まる人数は100万人で、大川周辺に出る屋台が3,000店です。私は、日本で一番大きな祭りと思うんですけれども…。よく「日本三大祭のひとつ」と紹介されますけれども、大阪では「日本三大祭」と言わないですね。たいてい「三大○○」というのは、3番目のところが言うことが多いんです。一番大きなところは「三大○○」なんて言いませんからね。「日本三大祭」の中で一番小さな祭は東京の神田祭で、だいたい20万人ぐらい。京都の祇園祭が3日間やって80万人ぐらい来るんですけども、天神祭は、1日の内のたった3時間で100万人が来るといわれています。
天神さんというのは菅原道真公のことですが、この人は都で失脚した後、難波(なにわ)の浜から流されて九州の太宰府まで行かれ、その後2年ほどで亡くなられました。すると、各地で天変地異が起こり「京都の清涼殿(天皇の日常生活の居所)に雷が落ちて、朝廷の要人に死傷者が出た」とか「その讒言(ざんげん)を言った政敵の左大臣藤原時平が39歳の若さで急死した」と語られ、道真を失脚させた当の藤原一族が、怨霊鎮めとして道真を「天満大自在天神」として祀ることを始めました。それで全国に12,000社の天満宮、天神社、菅原神社などとという神社ができたと言われています。ただ、当初は恐ろしくて恐ろしくてしようがない怨霊神でしたが、これを神として祀り出すと、今度は良い神様になられて、鎌倉時代・室町時代になると五穀豊穣の神様になられました。天神様の霊力を表す「雷」という字は、雨という字に田んぼの田と書きますが、雨が降って田んぼが潤う。そこへ光輝きながら稲の魂(たま)が下りてくるという「五穀豊穣」のストーリーができました。そして、徳川時代になると、今度は学問の神様になられ、その一番大きな祭を水の都大阪でやっている訳です。
私は大阪天満宮の宮司である寺井種伯さんと一緒に「現在、地球温暖化もずいぶん問題になっていますから、これからは環境の神様のかたちも取り入れたらどうでしょうか?」ということを提案しました。実は、私は寺井さんが宮司になられる前からずっと友達なんです。彼はミッションスクールである関西学院大学の神学科を出ておられ、現在神社の宮司さんですが、名字が「寺井」。何というか「全部が揃っている」という気がしますね(会場笑い)。
▼琵琶湖の葦で茅の輪くぐりを
「水」と「大気」をテーマにして、エコロジーというものをどういう形で伝えていったら良いだろうかということで、またいろいろ調べました。大阪(なにわ)を表す枕詞は「夕日がきれいな所ですよ」という「押し照(や)る」と「葦(あし)が散る」です。これは葦(あし)が一杯生えている場所ですよという意味です。神社などで売られている破魔矢(はまや)は、江戸時代までは全部、葦(よし)の軸で作ってきました。何故、この植物の正式名である「葦(あし)と呼ばないかといいますと、「葦(あし)=悪(あ)し」を連想させるため、その逆の「葦(よし)=良(よ)し」と呼ばれるようになったようです。夏越しの大祓の際に神社の入口にある「茅(ち)の輪くぐり」も葦(あし)を使って作られた輪ですが、古代の文献を調べてみますと、茅の輪くぐりの「茅」という字は、草冠に矛(ほこ)―葦の葉っぱをこのように持つと剣の形になります―と書きます。古代の人は、汚い水が流れてきても葦原を通ると水がきれいになるため、葦の根本にはいろんな魚が居ると経験則で判っていましたから「葦を輪っかにしてその中をくぐると、穢(けが)れが取れる」と思ったようです。そこで「その物語を伝えてこう」と、10年ほど前に大阪天満宮の入り口に琵琶湖から持ってきていただいた葦を使って、直径5メートルの大きな茅の輪を作りました。茅の輪の横には環境のことも書かせていただきました。
昔は「7歳までは神預かり」と言いまして、生まれた子供の内のかなり多くの部分が幼児期に亡くなってしまうので、葦の葉っぱを7枚重ねて巻いた中にお餅を入れて蒸したもの―昔のちまきですね―が作られました。今は米へんに宗と書いて「粽(ちまき)」と書きますが、昔は皆、茅(ちがや)で巻いていました。粽は男の子の物語なのに対し、女の子は「将来子供が親になったら立派な子供を産んでもらいたい」という願いを込めて、餅の中に餡を入れても、虫の付かない木(=樫)の葉で包んだ「柏餅(かしわもち)」を食べました。
茅の輪くぐりを大阪天満宮でしましたら、他の神社から「是非、うちでもやりたい」という声がかかりました。谷町にある生国魂(いくたま)神社さんも「6年前から茅の輪くぐりをしたかったんです」ということで、神主さんが自ら琵琶湖まで葦を刈りに行き、それを輪にして作られました。他にも大阪城のなかにある豊国(ほうこく)神社―ここは豊太閤(豊臣秀吉)を祀っておられる神社ですが―からも「茅の輪くぐりをやりたい」と声がかかりました。葦という植物は、水を浄化するのと同時にCO2を吸収して酸素を非常に多く出すんです。こうしてどんどん茅の輪くぐりがあちこちで復活してきております。
この尻無川にも、琵琶湖の水が24時間かけて流れて来ています。だいたい琵琶湖から天神橋までが23時間、道頓堀の手前までで23時間半かかります。そして尻無川から大阪湾へ。私は今、これを地球温暖化のテーマとして思いを伝えていこうと動いています。実は、道頓堀川をはじめ大川、堂島川、土佐堀川も皆、東から西に流れているため、世界でも珍しい夕日が映り込む川なんですが、これをテーマにいろんなことをやっていこうと動いています。今、道頓堀の水もバケツで掬(すく)うと水道の水の色と変わりません。長い間「汚い川」と言われていましたが、大阪市内は下水道もほぼ100パーセント完備したおかげで、下水の汚水は川には流れ込んでいません。そして、琵琶湖の水質もだんだんときれいになっており、葦もどんどん増やしていく方向で計画が進んでいます。下水道の普及率が低かった京都も最近はほとんど下水を川に流さなくなってきておりますね。尻無川の水は、まだ底部にヘドロが溜まってはいますが、徐々にきれいな水に変わりつつあります。
▼大阪のど真ん中でビーチバレーから七夕祭まで
川の水がきれいになってきますと、スポーツ界からこんな依頼もありました。FIBV(国際ビーチバレーボール連盟)は、これまでパリのエッフェル塔の下などでビーチバレーの大会をしておられたのですが、泉州の淡輪海岸では、昔から大会が開かれていましたから、「大阪市内でもできないでしょうか?」と尋ねてこられました。そこで「じゃあ、ビジネス街のど真ん中の中之島でしましょう」ということで、2年前に天満橋の大林ビルの真ん前にある剣先公園で、「FIBVビーチーバレー女子ワールドツアー」を開催しました。去年は、関西電力本社の前で開催され、今年も同じく関西電力の前で7月に開催するんですが、「何故、大阪市内でビーチバレーができるのか?」というビーチバレー協会の方の質問に対して「北浜や堂島浜や八軒家浜の地名のとおり、昔は浜(ビーチ)でした」というお話をしまして、「淀川の砂でビーチーバレーをしましょう」となった訳です。去年は浅尾美和選手やかおる姫(菅山かおる選手)といった新しい選手も皆来まして、水の都をピーアールしました。その時、ビーチバレーを見に来た子供たちにも解りやすい言葉で琵琶湖、淀川流域の話をしました。例えば、「顔が琵琶湖。首が瀬田川と宇治川。そして右手が京都から流れて来る桂川。そして、左手のほうから流れてきているのが奈良の木津川。そしてちょうど真ん中の首の辺りにあるのが石清水八幡宮ですよ」といった風にです。そして「胴体が大きな淀川。そして、足を広げた形が大阪湾ですよ」と言うと、子供だけでなくお母さん方やおじいさん、おばあさんも「解りやすい」と好評でした。
去年からは、大川で天満橋と天神橋の間で七夕(たなばた)祭りをやりました。これぐらいの丸いLEDの玉を約2万個用意し、川へ流しました。私自身、大阪水上安全協会の理事や大阪港遊覧船サンタマリア号や水上バスといった、あらゆる観光船の企画委員長を仰せ付かっている関係から「この時間内は船を止めてください」と事前に依頼し、皆にLEDの玉を放流してもらったんです。
何故、このような企画をしたかといいますと、例えばディズニーアニメーションでは『星に願いを』と、空に向かって星に願いをかけるんですが、古来、日本は水に映った月とか星を愛(め)でる習慣があるんですね。お雑煮もそうですし、盃に映った月を愛でるのもそうです。実際に宇宙に飛び出して行った探査機は、これまで願いをかけていた「星」が、実は4,000℃の星だったり、亜硫酸ガスの星だったりといったことがだんだん判ってきます。そうすると「銀河系で一番美しい星は何処か?」というと、足下にあったということです。ですから、遠くの「星に願いを」かけるのではなく、もっと足下の地球を大切にして、土地や水を大切に使うことの大切さを伝えたいと思います。自分たちの故郷である地球を守らないと、どうしようもない時代になってきたんですから…。去年からそんなテーマでイベントをしましたら「京都も是非やりたい」、「東京でもやりたい」という声がかかりました。まずは京都で、8月に旧の七夕祭をして鴨川や堀川を使って短冊に願い事を書いて流すことを考えています。
例えば「天神祭の時に100万人の出すごみが約500トン」と日めくりに書かれていますが、大阪天満宮の寺井宮司から「『ごみ掃除のボランティア募集』と書いても、ちょっとしか来てくれない。なんか解りやすい言葉で書いてくれへんか?」と頼まれました。そこで、私は「ごみ掃除のボランティア募集」を「心のゴミ掃除をしませんか?」というコピーに変えてみました。すると今度は、ざっと500人ほどの応募があったそうです。
どういう形で思いを伝えていくのか? フレーズをほんの少し変えることで、教祖の御教えや多くの先生方が遺(のこ)された教えを解りやすく伝えていくと、実はほとんどの物事が解決していくんじゃないかという気もいたします。
どうしてこのように「大阪の水をきれいにしよう」と思うに至ったかと申しますと、気が付けば、現在ガソリンが1リットル125円です。対して、水が1リットル入りのペットボトルで150円します。皆、知らないうちに飲み水に対してお金を払うことを当たり前のように受け止めているんですが、子供の頃に、将来ガソリンよりも高い水を飲むことになるとは思ってもみなかったですよね。われわれは、そんな変化を「仕方がない。世の流れだ」と放っておいてはいかんという気がします。だからこそ、「今の琵琶湖淀川流域を少しでも元に戻していきましょう」とか「気が付いた人から水をきれいにしていきましょう」とか「枯れた葦も刈り取って、循環型の社会に戻していきましょう」と、私なりに思いをさまざまな形で伝えていっております。ふとしたことに気付かせていただくには、日々、こころの鏡を磨いている必要があります。こころの鏡を磨いていれば、あらゆることが見えてくるんじゃないかと思います。
▼くいだおれVSかに道楽VSづぼらや
最後に「食いだおれのまち大阪」の話です。私は長年、大阪観光コンベンション協会の会報を毎月作っているんですが、大阪の土産物が岩おこし以外見当たらない…。1990年に鶴見緑地で「花の万博」が開催されたんですが、その時、私は広報を担当していたのですが、首都圏や京都から来られた観光客の方に「大阪の土産物は何ですか?」とよく尋ねられました。ところが、花博の会場で売っている土産物というと、それが饅頭であろうと岩おこしであろうと、ただ、マスコットキャラクターである「花ずきんちゃん」の判子を押しただけで売っておられるんです。大阪市の土産物協会と観光協会に「大阪名物って何ですか?」と尋ねてみると、「岩おこし」や「釣り鐘饅頭」や「つげの櫛」や「数珠」、「欄間」といった回答が返ってきました。数珠が大阪土産というのにも驚きましたし、欄間はいくら良いものでも土産物として持って帰れません。そこで、「それなら新しい土産物を持って帰ってもらおう」となった訳です。
「大阪に何があるか?」というと、道頓堀には350年前からの五座(浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座)芝居小屋があった、と思いつきました。調べてみると、くいだおれ人形も、最初は「由良亀」という淡路島出身の文楽人形師が創られたものだそうです。「かに道楽」の看板の動くカニは、比較的新しいものだそうですが、「いったいどういう経緯でこういったものを造られたんですか?」と尋ねると、中座や松竹座では入れ替え待ちのお客さんが道頓堀通りにいっぱい並んでいる。芝居小屋へやって来た人が巨大な動くカニを見ていると「ええ暇潰しになる」と言われたそうです。くいだおれ人形も、まるで歌舞伎役者のように眉や目がキュッと動いたり止まったりするんですが、お店の方に言わせると「これ見得を切ってるんや!」ということになっているそうです。かに道楽のご主人も「瞬間的にカニの目玉が止まるところが、見得を切ってるんや」と言ってましたが…。さらには、巨大なふぐ提灯がトレードマークの「づぼらや」へも「とにかく、看板を新しい大阪土産にしましょう」という話を持っていきました。
最初に、くいだおれに話をしに行きました時に「われわれはPR会社ですから、お店にお金を差し上げます。お店の電話番号を土産物の最後に入れましょう。新聞にも載せましょう」と話しますと、われわれのことを広告代理店と間違われたのか「お客さんが来るようになって、宣伝してくれて、なおかつお金もくれる」なんて巧い話は眉唾もんやと思われたんでしょうね。同様の話を、私はかに道楽とづぼらやにもしましたが、最初は皆、「大阪の新しい土産物を創りましょう!」と言っても信用してくれないんですね。 けれども、だんだんPR会社がどんな会社なのかということが判るにつれて警戒心も解けていき「やりましょう」と承諾していただけました。
かに道楽へ行くと「くいだおれは美味(うま)いもんがないから、あんなチンドン屋(くいだおれ太郎の人形)を出して商売してるんや!」と言い、一方、くいだおれへ行きますと「カニなんか料理の内に入らん。ただ茹(ゆ)でて出しとるだけやないか!」と互いにすでに対抗心がある。私は「まあそう言わんと…」と、それぞれの社長へ「キーホルダーをまず作りましょう」とお話ししましたら、今度はかに道楽とくいだおれの双方から、「(こんな巧い話をライバル店の)相手に、もう声掛けんときや」と言われました(会場笑い)。私が「づぼらやさんにも声を掛けます」と言うと、「あんなもん(巨大ふぐ提灯)、金かかってないで…。ただの提灯だけや」とおっしゃる。そこでづぼらやさんに行って「かに道楽さんがこんなこと言うてましたで」と言うたら「うちはエコやから、わざと風で動くようになっとんねんや」とおっしゃってました(会場笑い)。このように、大阪というまちは、普通の人がお笑いのセンスを持っているまちです。
▼大阪には年間二千万人の観光客が来る
そこで、3社それぞれの社長にお話しして、キーホルダーを作った訳ですが、その時に観光協会に「新しい土産物、食いだおれのまち大阪の土産物を作ったで」と言いますと、観光協会の方が「なんぼ(いくつ)ぐらい売るつもりなん?」と尋ねるので、「年間60万個は売れますよ」と言いますと「(年間100万人の観光客が来る)大阪城天守閣のキーホルダーでも、一番ヒットした商品で年間3,000個(1日10個)売れただけや。どうやって計算したら60万個なんて数字が出てくるの?」と驚かれました。実は、20年前まで、大阪の観光協会は、大阪に年間何万人の観光客が来ているのかすら数えてなかったんですね。京都や神戸は、観光客のカウントを行っているんですけれども、東京と大阪だけが数えていなかったそうです。
と申しますのも、大阪の場合、何処から観光客が入ってくるか判らない。新幹線、飛行機、阪神高速、地下鉄、私鉄、JR在来線、フェリー等々、ありとあらゆるところから入ってくる訳です。それは東京も同じことですね。ですから、今、道頓堀でお好み焼きを食べている人が、観光客か地元の人間か判らない訳です。ですので、とりあえず仮説で「府外から2,000万人は来ています」とお答えしました。その根拠は、大阪に住んでいる人は大阪のホテルに泊まらないでしょうから、府内各ホテルの年間宿泊者数の合計ということで、在阪のホテルに問い合わせますと「この宿泊者の3パーセントの方々が、大阪の土産物を欲してます」との回答がありました。すると、2,000万人の3パーセントですと、60万人になりますから、私は「キーホルダーの売れ行き見込みを60万個」と見積もりました。そして、観光協会がお金を出すというところまで話は進んだんですけれど「それにしても、60万個という数字は大き過ぎるのでは…?」とおっしゃる。私は「PR会社が仕掛けを考えて、いろんな形で販促を展開しようと考えています」と説明したんですが、天下りのお役人がやっている観光協会からは「やはりこの話はなかったことにしましょう」と連絡がありました。
それならば「うち(伴ピーアール)でこの仕事をやらせていただこう」と、最初、大阪城の天守閣の上で売り出しました。すると、あっという間に1年間で60万個売れました。それを聞いた観光協会は「これは儲かる!」と思われたのかもしれませんが、「やっぱりあの話、元に戻してくれへんか?」と言ってこられました(会場笑い)。私は「解りました」と、これを承諾して、改めて一緒に仕事をさせていただきましたが、現在に至るまでに約700万個売れています。このロイヤリティ(商標使用料)は全部、くいだおれ、かに道楽、づぼらやさんに入っていくんです。大阪城の天守閣(註:戦後、再建された5層8階建ての鉄筋コンクリート造り)の2階に、2メートル20センチの純金箔貼りのシャチホコが置かれているんですが、これも実は、土産物屋さんがそのキーホルダーの売り上げの利益で寄付されたものです。
▼金光教信者にとって「思いを伝える」こととは
今の時代は、実ったものを刈り取るばかりで「自分(今)さえ良ければそれでいい」と考える人が多いですが、昔の人は、例えば田んぼでも、稲刈りの後は(その根に空気中の窒素分を固定する能力があるというバクテリアが共生しているマメ科植物の一種である)レンゲの種をまいて花を咲かせ、土壌に養分を還元していくことが、ごく当たり前に行われていたんじゃないかと思います。仮に商売を水に例えるなら「こっちが取ったろう」と思ってたらいを手前に引っぱると、水(利益)は(こちらの意に反して)向こう側へこぼれ、「どうぞ」と思って、たらいを向こう側へ押しやると、水は(勝手に)こっちへこぼれてくるといったあんばいなんじゃないかと思います。こちらが「取ったろ、取ったろ」だけやなしに、お互いのことを考えることが大切なんじゃないかと思います。
特に、私たち金光教の信奉者にとって、信心とは「こうでなければ、いかん」というのではなく、「あれもこれも、いろんなことを呑み込んで勉強させてもらう」ことやと思います。例えば、この一升枡。(人が)「一升枡にピンポン玉を入れても、これだけしか入りません」というところを、私たち金光教の信奉者は「せやけど、この隙間にビー玉が入る。この隙間には小豆が入る。ゴマも入るし、お米も入る」と、どんどん一升枡を隙間なく一杯に詰めていくことができるんです。私たちが何か思いを伝えようとする時は、このモノが一杯詰まった一升枡に指を差し込むようなもんです。すると、一升瓶の中に詰まったもの全体が動き、それを見て私もいろいろな伝え方が判ってくる。「これでないとあかん」ではなく「何もかも受けきっていく」という気持ち…。その気持ちが、人に思いを伝える一番大事な鍵だと思います。ご清聴、有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)