◇◆ 創立七十周年記念青年大会記念講演◆◇


「マイク一筋〜スポーツの感動を伝えて〜」

NHK大阪放送局 チーフアナウンサー佐塚元章


私の第一声は、「私の第一声は」で初めさせていただきます。これは、私のイメージの何パーセントかになっていると思います。初対面の人に―初めて出会う人を迎える時に―その姿はもちろん、どのような表情で、どのような声で接してくるのか?「この人はこんな声の人なんだなぁ。この人は、こんなに勢いのある挨拶で接してこられるのか……」その、ほんの一瞬に、その人のある種のイメージは湧くものと思います。今、ご紹介をしていただきましたが、私のイメージはどのような感じだったでしょうか?まぁ皆さん方は、それぞれにきっと、「思いの外、年と齢しを取っているんだなぁ」とか「以外に声がよくない」とか、それぞれに思われたのではないかと思います。ですから、その第一声というのは、私たちアナウンサーが、非常に気にするところなのです。私は、NHKで二十四年間、スポーツアナウンサーをやっております。もちろん、一般のニュースも読んでおりますが、例えば、甲子園球場の高校野球の担当になりまして、朝一番の第一試合の担当になりますと、第一試合は早くて、八時半から始まります。前夜から、いろいろと準備をして、「何々高校は、どんなチームだ。この選 手の名前の読み方はどういうふうに読むのか。これまでの大会では、どんな成績を残しているのか……」と、机の上で、いろいろと紙に書いて資料作りをします。その上で、「明日の第一声は、なんとスタートしようかな……」天気予報を聞きまして、どうやら明日は甲子園球場も快晴のようである。そうだ「青空に覆われた甲子園球場……、大会第二日目第一試合を迎えました」その最初の言葉を、いつも五つくらい紙に書いて、「よし、これで行こう」と考えるのですが、大体の場合、それが決まらないのです。

そして、行きの電車の中でも、「最初の言葉は何にしようか?」と、一生懸命考えるのですが、昨夜はよいと思っても、「やっぱり、これが今一番だな」という気持ちで、いざ、放送席に着きますと、「やっぱり、これで行こう」と思ってますと、テーマ音楽、あのNHKのお馴染みの、チャンチャカチャン、チャチャチャチャカチャン……この時は、気持ちがドキドキしていまして、予め、「この言葉でスタートをしよう」と思っておりましても、アナウンサーというのは、最後まで迷っていることが多いのです。

そして、テーマ音楽が間もなく終わる……、その終わる瞬間に、何故か心が決まるのです。これでいってやろう……。「空に雲の一片もありません甲子園球場。いよいよ大会も、二日目に入りました……」後で考えてみますと、その言葉は、夕べからずーと考えていたものでも、何でもないのです。その瞬間に言葉が決まるのです。これがまた不思議なのです。しかし、これはアドリブというべきではない。やはり、何時間も、最初の出だしの言葉を、幾つもの例を挙げながら考えてきて、そして初めて、そのとっさの言葉が効く。やっぱり、準備の無いところには、なかなかよい言葉が生まれてこないというわけで、このアナウンサーをやっておりますと、「第一声」ということに非常にこだわって、今日は皆さんの前で、「第一声」は私のイメージを決めるということで、話をスタートしました。

テレビ放送といいますのは、皆さんはブラウン管を通じましてご覧になりますから、聴いてる人、見ている人のお顔がこちらからは見えません。しかし、今日は、こうして皆さんと面と向かって直接お話する訳ですので、私の専門分野ではないのです。したがって、この講演というのは「どうも勝手が違う」という感じがします。ひとつ、寛ろいで下さって、足を崩して下さって、お気軽に聞いていただけたいと思います

時々、学生さんに講演することがあるのですが、「予め、どのようなことを聴きたいか」というアンケート調査をいたしますと、一番、多い質問が「どうしてスポーツアナウンサーになったのですか?」と言う話です。皆さんの関心も、もしかしたら、そうかも知れません。この解答は、野球が無料(ただ)で観られるからです。私は、実は「ハングリー野球少年」でした。昭和二十六年の生まれです。ハングリーといいますのも、野球を楽しむということはもちろんでありますが、静岡の実家の近くに、草くさ薙なぎ球場と申しまして、お年と齢しを召した方はご存じかも知れませんが、戦後、沢村栄治投手が、ベイブルースやルーゲイリックなどそうそうたるメンバーを率いて日本にやって参りましたアメリカの大リーグチームと、大熱戦を演じたことがあります。今でも沢村栄治投手の豪速球は語り草となっていますが、その草薙球場のすぐ近くで生まれました。そして、朝から私は晩まで、真っ黒になって野球をしていた少年でした。そして、野球を観戦することも、いつしか大好きになった。そういたしますと、当時、高校野球の入場料が大体、百円でした。小遣いが、大体、五円から十円でしたから 、なかなか、いつもいつも野球観戦に行く訳にはまいりません。ですから、私は、草薙球場の外野の方向にある木によじ登ったりしまして、そこが私の指定席だったのですが、そこで野球を無料(ただ)で、観戦する少年だったのです。で時々、お金を出して野球場に行きますと、放送局の人たちが野球を観ながら仕事をして、給料を貰っている。「よい職業だなぁ」と思いました。ただで野球が観られる職業―この「アナウンサーになりたい」という夢の、大きな原因なのです。もちろん、それだけではありません。子ども心に、その野球がいろいろ持っているゲーム性―その野球そのものが持っている楽しさ―に、いつしか感動しました。そして、「このようなことが本当に起こるのだろうか」といった、まさに「筋書きのないドラマ」を何度か観まして、「あっ野球って素晴らしいなぁ」ということを感じました。その現場で、野球を観るだけでなく、当時はまだモノクロのテレビの時代だったのですが、テレビ中継も必死になって視ていました。地元の高校が出場する試合など、朝からワクワクして、その日の試合を楽しみにしていました。その中で、解説者がいった言葉や放送から教えられたこと が、まだ小学生だった私には、オーバーにいえば、何か人生を感じさせてくれる……。野球を放送で視るということに「プラスアルファがあるんだなぁ」と、子ども心に感じまして、素晴らしい放送というのは「すごく大きな力を持っているんだなぁ」ということを感じて、いつしか、何となく「放送局に勤めたいなぁ」というふうに思いました。

本日は、私が野球少年であった証拠を、ひとつ持ってきました。私も実は、甲子園の高校球児を憧れていまして「いつしか、このグローブを持って甲子園の砂の上に立って、プレーをしてみたい」とそう思って、小学校六年生の時に母親から買ってもらって大事に使っていたのがこのグローブです。職業柄、私はもう全国あちこち転勤していますが、このグローブだけはいつも一緒に持って行くことにしております。今から三十五、六年前だったのですが、当時のお金で千円でした。母親と一緒に、お年玉を貯めて、これにちょっと追加してもらって買ったのですが、今も、この色―はげた色―ここに、私も野球少年だった証明があると思うのです。本当は、このグローブで、甲子園でプレーしたかったのです。ところが中学校のころに早くも挫折しまして、プレーヤーとしては、こんなに体力も無い、運動能力も無い、ということで、すぐに諦めまして、漠然と「放送局のほうに入ってみたいなぁ……、スポーツの関わる仕事をしてみたいなぁ……」と思うようになった訳です。

ところが、余談なんですが、先日、このグローブで、私の少年野球時代の夢が叶えられまして、甲子園球場のマウンドに上がることができたのです。と申しますのは、阪神タイガース主催の「大阪各局対抗アナウンサースピードガンコンテスト」という催しがあったのです。私は率先して、「NHKからは僕が代表して出ます」と上司に申して、仕事の合間を縫って、NHK代表として参加させてもらいました。皆さんもご存知だと思いますが、ABCの伊藤アナウンサー、毎日放送の結城アナウンサーなど、壮々たるメンバーが登板いたしまして、二球投げて、スピードガンのコンテストをやったのですが、私は八十八キロで、最下位ではありませんでした。「NHKは、『皆さまのNHK』ですから、優勝してはいけないなぁ」なんて言い訳になりますが、八十八キロと、まずまずの投球でした。そんなことよりも、少年時代から思い込んできた甲子園のグランドで、母親に買ってもらったグラブで、序盤でしたから五万の大観衆を前にプレイボール直前にマウンドに立つことができたのも、「アナウンサーになった役得かなぁ」と思いました。

それと、阪神の吉田義男監督に、その登板の前に、このグラブのことを説明しましたら、驚いていました。「こんなグラブがよく残っていたなぁ。私の時代のグラブですね」と吉田さんもしきりに感心されていまして、私も本当に嬉しく思いました。その時に、どういう服装でやったかと申しますと、このTシャツを着せられました。ちょっと、この四十代のオジさんにとっては格好が悪かったのですが、さすがに黄色……、阪神タイガースですね。背中に2番と書いてある。これは、どういう意味か分かりますか?これはNHKのチャンネル数でございます。ちゃんと主催者がチャンネルごとに作ってくれまして、なかなか阪神タイガースも気が効いております。このTシャツを着て、スピードガンコンテストに出場しました。ちょっと、これを着て街を歩くわけにはいけませんので、もし、ぜひという方がおられましたら、このチャンネル入りのTシャツを皆さんにプレゼントしようかなぁ、と思います。この中で、欲しい方いらっしゃいますか?どなたか、おられませんでしょうか?一回、洗濯しましたんで汗臭くないと思います。

ということで、余談が多くなりましたが、そのようなきっかけで、私の念願が叶って、スポーツアナウンサーになりまして二十四年が経ちました。しかし、二十四年間もスポーツアナウンサーをさせていただいているのには、恩人がいるのです。それは、なんと十四歳の少女だったのです。皆様のよくご存じの水泳の岩崎恭子さんです。バルセロナオリンピック、女子二百メートル平泳ぎの決勝……。オリンピックの金メダルの放送に遭遇できるというのは、ただ幸運としか申せません。最近、日本の金メダル獲得数は二桁にも達しません。わずかの金メダル……。その金メダルの放送に、私も一回だけ、携わることができました。ソウルオリンピックの時は、体操の池谷西川両君の高校生が活躍した男子団体を放送することができましたが、銅でした。金メダルは、後にも先にも、アトランタオリンピックまでの三回のオリンピックで、この一回だけ……。この岩崎恭子ちゃんが、私のスポーツアナウンサーを、こうして続けられる恩人なのです。その時、私がラジオの担当でした。一九九二年七月二七日、スペインバルセロナ……。コバルトブルーの地中海と同じような色のプールです。そのプールの名はベ ルナルトヒコネルプール。ボンジュイックの丘、標高二七〇メートル。その丘の頂にオリンピックプールがありました。「いよいよ女子二百メートル平泳ぎの決勝であります。準決勝では、自己記録を大幅に更新しました岩崎恭子が登場します四コース…。そして五コースには、世界記録保持者アメリカのアニタモールが登場します。日本の岩崎がどこまでこのアニタモールに迫ることができるのか?いよいよ、決勝の開始であります」岩崎恭子ちゃんは、いわゆるダークホース(穴馬)という存在でした。中学三年生―国内オリンピック競泳予選で急に力を付けて、一気にお姉さんを抜いて代表権を得た。「まさか決勝に出ることさえもやや意外」なくらいでした。ところが、本番で自己記録を次々に更新して、決勝の八名まで入ったのです。そして、世界記録保持者アニタモールというのは抜群に強いというふうに見られておりました。

「いよいよ、決勝の八人がスタート台に立ちました。上空は真っ青、オリンピックプールにこの光が輝いて、まるでコバルトブルーのようであります」……「よぉーい」とはいいません。忘れましたが「レディ(用意)」でしたか……。「八人の選手が前傾姿勢を取りました。日本の岩崎恭子、第四コース。第五コース、世界記録保持者アニタモールであります。『よぉーい』の声が聞かれまして前傾姿勢…。さぁ、スタート…。「ビィッ」と鳴るのです。ピストルじゃない。ポーォーン。ジャッポーン……。待ちくたびれた八人の選手が一斉に一発でスタート切りまして、もう一五メートルから二五メートル……。早速、アニタモールが頭一つのリードを奪いまして、世界記録保持者さすがに強い。もう体半分のリードを奪いまして、いま三〇メートルから四〇メートル…、間もなく五〇のターンに向かいます。いまアニタモール五〇のターン……。続いてカナダさらにはスペイン、さらには向こう側は中国もターンしまして、日本の岩崎恭子は第五位から六位というところであります。さぁ、今度は七五メーター、折り返してきまして、一〇〇メートルターンに向かいます」こんなに早くないのですよ……本 当は。途中、割愛しているわけですが……。(会場笑い)「さぁ一〇〇メートルのターン。アニタモールがいまターンしました。そして続いて二位三位。日本の岩崎恭子が大体四位ぐらいか……。四位か五位か……。今度は一五〇のターンに向かいます。岩崎が徐々に、ピッチを上げてきまして、一二五メーター……。そして一五〇メーターのいまターン……。アニタモール、断然強い。体ひとつリードを奪いまして、いよいよ最後の五〇にはいります。アメリカ、アニタモールがいまターンをしまして、さぁ、残り……」ここで段々、数字が減ってくるわけですね。「残り四〇メートルになりました。いま岩崎は三位か四位、好位置につけて今、ターンしました。最後のターンであります」ここで末光さんという福岡のスイミングクラブのNHK解説者が、「岩崎も良い位置に着けていますよ」と一言、言ったんですね。「アニタモールがいま一七五メーター。岩崎、追い上げてきた岩崎、追い上げてきた岩崎、追い上げてきた。アニタモール。アニタモールが逃げるか、岩崎が追い上げてくるか。岩崎か、アニタモール……。岩崎、ぐんぐんピッチが上がった。ぐんぐんピッチが上がった!ぐんぐんピッチが… …。岩崎、岩崎、詰める。アニタモールに接近。並んだ、並んだ。残り一〇メートル。岩崎かアニタモールか。さぁ岩崎、追い込んだ。さぁ、タッチの差で岩崎か、アニタモールか!アメリカか、日本か!アメリカか日本か!」(会場拍手)

昔はですね、肉眼で見ていたのです。判定を……。今では、電光電子。電子的に、タッチしますと、瞬時に着順がボードに写りますので、今のアナウンスはずるいですね。「岩崎か、アニタモールか!日本か、アメリカか」「JPN―ジャパン。日本、勝った岩崎!勝った十四歳!金メダル五十六年ぶり。前畑さんよりも、大金メダルを獲得しました。岩崎勝った!勝った!」もう大パニックです。放送席はテレビラジオ、日本のジャパンテレビアナウンサーという人が三人並んでいますが、もう放送席や解説席も一緒に机やマットをひっくり返さんばかりの大熱狂……。

そこまではよかったのですが、公式記録が手元に来ました。私は、もう背筋に、まさに冷水……。本当に生きた心地はしなかったのです。なんと、優勝岩崎恭子は間違いないんですが、第二位は中国の第八コース、リンギイだったのです。その差が〇秒二。二位と三位の差が〇秒〇三……。つまり、この三人は、誰が勝ってもおかしくない……。よく「タッチが流れる」といいますが、平泳ぎは両手を着かないと、ゴールになりません。私の放送では、日米一騎討ち。岩崎かアニタモールか、そのデッドヒートを放送してきたのです。ところが、一番向こう側第八コースのリンギイ選手が追い込んでいることが、全然、視線の中に入ってこなかった。もし、リンギイ選手が金メダルを獲得していたら、何という、どっちらけの放送になっていたでしょう。「日本かアメリカか?アニタモールか岩崎か?優勝、中国リンギイ!」これではさまになりません。アナウンサーというのは耳が肥えていますが、「まぁ、恭子ちゃんの優勝にみんな熱狂しているから、気付く人はいないだろう」と思いながらも、アナウンサーというのは、冷静に聞いていますから、帰ったら(NHKに戻ったら、誰かに)指摘されるかなぁ ……。と心配してました。「お前の放送では、二位はアニタモールでなければおかしいじゃないか」と言われかねない。ところが、いまだかつて、一度も言われたこともないのです。これは全て、岩崎恭子さんが優勝してくれたからなのです。私が、こうして立っていられるのも、恭子ちゃんのおかげなのです。私のスポーツアナウンサー人生二十四年……。岩崎恭子ちゃんのおかげで、今も続けられている、というお話なのです。


*自分でも想像できない力が湧き出る瞬間

でも、そのことで私は教わりました。そういえば、先輩がアナウンサー一年目の時に教えてくれました。「アナウンサーという仕事は、いつの日か、大変な修羅場に立つことがある。この職業に就いていたら、一生に一回は、そういう凄い場面に出会う。その時が勝負。その時に、一パーセントの冷静さを残しているかどうかだ」と……。私には一パーセントの冷静さがなかった。アナウンサーとして、まだ未熟だったと思いました。どのように熱狂する場面でも、心の一パーセントは冷静に展望を見つめているクールな目を持っていなければいけない。それを、恭子ちゃんが私に教えてくれたのです。

「身震いした放送」と申しますと、昨年の夏の甲子園決勝戦があります。松山商業対熊本工業。最初のうちは、正直いいまして凡戦でした。ところが二対二となって、三対二と松山商業リードで迎えた九回、熊本工業、ツーアウト、ランナーなしから、なんと一年生の沢村君が、堂々ホームランをレフトスタンドにかっ飛ばして、三対三。ここで甲子園、五万観衆は異様な熱狂になって、一気に大熱戦。一本のホームランで、一気に素晴らしい好ゲームになったのです。そして、延長……。十回、ワンアウト満塁、熊本工業バッター三番の星好、ライトへ大飛球を打ち上げました。この大飛球の一時間前から夏の甲子園には珍しい強風がライトからレフト方向に約十メートル。熊本工業の本田君の打った打球はライト。私も一瞬「ホームランか」といっている。しかし、その強風に押し戻されたのが、まず幸運。しかし、これはワンアウトフルベース。犠牲フライになることはまず間違いない。ところが、そのプレーの前に松山商業沢田監督は、ピッチャー出身でしたが、肩が強い矢野をライトに代えていました。素晴らしい采配だったのですが、そのライトの矢野君が取って、普通ですと、この位置ですと絶対 に犠牲フライ。誰もが熊本工業のサヨナラ勝ちをイメージした。私も長年、野球を見てますと、大体こんな当たりでこの位置ですと、犠牲フライと誰もが思うと思います。ところが、ライトの矢野君が、ライン際ライトの線の近くからボールを投げると、これもまた十メートルの強風に後押しされて、ダイレクトにキャッチャーまで返ってきて、なんと、タッチアウト!「どうして、こんなプレーが起こったのか!」全国のファンが「どうして、あれがアウトになるんだ!」まさに長島監督のいうところの「ミラクル」矢野君が「もう一度やる」といってもできない、あの見事なバックホームを演じたのです。

そして、先ほど申した岩崎恭子ちゃんも、「もう一回あのタイムで泳げ」といっても、今だに泳いでないのです。あれは十四歳だからできたのです。何故、できたのか?自分でも分からない……。自分を超えたプレーが生まれた。それは、程よい緊張感なのか。あるいは集中なのか。私には判らないのですが、「若さ」といってしまえば一言ですが、「自分自身でも想像できない力が自分の中から湧き出る」ということがあるのです。私のアナウンサーとしての体験の中から、そのようなことがあるんだろうか、と考えますと、「あれがそうだったのかなぁ」ということがいっぱいあります。

それは昭和五十五年の福岡国際マラソンの中継。モスクワオリンピックの日本代表三人を決めるマラソンレースでした。当時の日本のマラソン選手は、伊藤国光、宗兄弟、瀬古……。まだ中山選手が出てくる前で、世界クラスのすごいレベルに上がっていました。「誰が出ても、オリンピックでメダルが獲れるのではないか」という時代でした。その最終予選で、外国人選手が次々、サバイバルレースから落ちていきます。四二、一九五キロ。いよいよ平和台陸上競技場に、なんと、日本のファンが期待した通り、瀬古、宗兄弟の三人が一緒になって入って来た。そして、すっかり色づいた銀杏がなびく平和台陸上競技場のマラソンゲイトを潜って競技場を一周と四分の一―約五五〇メーター走るのですが、私はその時、ゴールの実況アナウンサーでした。まだ若かった三十歳ちょっと過ぎた頃です。この時、メインのアナウンサーが乗っていた放送車から、「それではゴール、佐塚アナウンサーどうぞ」といわれて、私が担当する訳ですが、このアナウンスメントのポイントは、この三人が、いつ、何処で、スパートを仕掛けをするのか、なのです。その瞬間を逃したら、もう失敗なんです。私はメインのア ナウンサーから「それでは、平和陸上競技場の佐塚アナウンサーどうぞ」といわれた時は、まさにお相撲さんでいえば、土俵際に寄り倒されるような気持ちですね。二時間待っていまして、しかも三人が団子になって一緒に入ってくる。一体、それをどう放送したらよいのか……。もうパニックを越えた状態なのです。しかし、それでもスパートの瞬間を逃したらいけない……。それだけは忘れませんでした。

「三人がマラソンゲートを潜ってきました。アンツーカーの平和台陸上競技場にいま入ってきました。大きな歓声がメインスタンドからあがります。そして、まず、メインスタンド前から走っていきます。五〇〇メーター。まだ並んでいる。まだ並んでいる。瀬古か、宗兄弟か?茂か、猛か?まだ三人が並んでいる!今、残り四〇〇メートルなりました。左にカーブをきりました。さらに左にカーブをきりまして、残り三〇〇メーターであります。バックスタンドを夕陽を浴びて三人が走っていきます。さぁ誰が、何処で、何処でスパートをかけるのか……。瀬古がスパートした!瀬古がスパートした!残り二五〇メーター。スパートした。西陽を正面に、瀬古がスパート!宗兄弟追いかけて行く……。今、瀬古は第三コーナーを周っており……(息切れ)」これは一息ではいえない訳ですよ。「瀬古スパートした!残り一五メーター。瀬古が一気にいったゴールイン!」一分二〇秒間なんです。あとで録音を聴いてみましたら、こうしてトチッテしまいますね。前が、物が見えないこともあるのですが、そして息継ぎをしてしまいますね。しかし、実況の録音を聴いてみましたら、一回も呼吸していないのです 。まさに、恭子ちゃんではありませんが、ノーブレッシング。一分二〇秒、選手がゴールインするまで呼吸していないのです。私も夢中になっているから……、そして、「スパートする瞬間を絶対伝えなくてはいけない」という気持ちがあるからなのです。

と思うと、岩崎恭子ちゃんとか松山商業の矢野君のミラクル返球とはレベルが違いますが、私も、その緊張感の中での夢中さ……、その時は、今日、私はストップウォッチで計ってみたのですが、一所懸命やっても六〇秒でした。それを、呼吸しないで、しかも言葉を発し続けて一分二〇秒……。それが八〇秒間。言葉を喋りっぱなしで、ノーブレッシングができたというのは、自分を越えたというのですかね。そう。「夢中になってやれば、何かできるんだなぁ」という私の経験です。皆さんも人生の中で、そういうことが一度、二度は、あるのではないかと思います。


*自分で自分の元気を引っぱり出せ


たくさん話を用意して来たんですが、時間に限りがあります。『ウエイクアップ』―今日のテーマですね。あらためて、辞書を引いてみました。「元気をだせ」とか、「目覚めろ」というふうに出ていました。私たちは、言葉とか最初に話した声ということに非常に興味を持っています。声―皆さんも持っていますね、自分の声を……。自分自身の声なのです。その声というのは、人柄もあらわれますし、体調もあらわします。やはり元気がない時は、声が出なくなる。その人の「おはよう」という声で、ある程度、その人の心理状態が反映されていると思うのです。心が沈んでいる時は、声が小さくなる。一方、声は元気をひっぱり出すこともできるのです。


「私は挫折した」と最初に申しましたが、中学校の野球部に入った時、昔の教え方では、ボールを投げる、打つ前に、「とにかく声を出せ」と教わりました。訳の判らぬ野球部独特の声ですね。「オォーオ!オォーオ!」声を出すといっても、何といっていいのか分からないのが新入部員でした。私も一時期、「何という非合理的、非科学的な練習法なんだろう。こんなことをやっているから、今の日本のスポーツは駄目なんだ」と偉そうに思っていたのですが、最近は、すっかり考え方を改めました。

まず、声を出すということによって、自分の元気をひっぱり出すこともできるのですね。ですから、今日は体調が悪い。あんまり物事がうまく進まない、という時は、逆に声を出すことによって、自分の元気を引き出すということもできるのです。「ウエイクアップ」―「元気をだせ」と辞書に書いてありました。まず皆さんも、声を出してみたらどうでしょう。それは朝―これができそうでできない―しかし、家族に向かって、家庭の中では「おはよう」というのです。私はアナウンサーですから、新聞を読む時、「見出しぐらいは声を出せ」っと、いつも自分にいい聞かせています。それによって、自分の朝の元気を引き出すということをしています。そこから「目覚めろ」という訳もありました。

ウエイクアップ。これはですね、今年の選抜高校野球のテレビを私、担当したのです。-天理高校のピッチャー中野君が、試合を終了して、歓喜の中で涙を……、大粒の涙が出ました。私はそのことはいいました。「感極まって、中野君もついに目に光るものがあります」ところが、後で、私たちの言葉ですが、物事の本質がまだ見えてないということです。「まだ見えていないな」と先輩に言われました。「分かってない」ということなのです。「中野投手は九回ワンアウトを取った時に、目頭があつくなって涙ぐんでいた。それがテレビに映っていたじゃないか。そのことに君は触れてない」と、あとで先輩に指摘をされました。まだ僕が視ようとする気持ちが足りないんだなぁ……。一所懸命にやっているつもりだけれども、そのひとつの情景を―モニターといいますが、テレビの画面を見ながら放送するのですが―何故、そこをもっとよく視ていなかったんだろう。あるいは、現場の二、三〇メートル先にいる中野君の姿が、もっとしっかり見えなかったんだろうか。見えるというのは、視力一二とか一五とかいうものではなくて、根本が見えていなかったら、私たちの「表現」も出てこないのです 。先に「表現」があるのではないのです。その姿に気付く―見えるということが、次は放送になって、私たちは「表現」という言葉につながるのです。もっと見えなければ、ウエイクアップ―目覚めろ―というのは、私たちの仕事から考えますと、そういったことではないかと思います。今、私がアナウンサーとして一番の関心事は、どういう精神状態の時に、自分の描いてる放送―いい放送―ができるのだろうか。もちろん、テクニックもありますが、私たちも生身で話しますので、その日の心の動きや体の調子、あるいは準備に不安があったら、そのまま放送でバレてしまいます。かといって、「準備万全、すべてやるべきことはやった」という時に、逆に、全く描けなくなってしまう時もあります。金縛りの状態です。準備は、しなくてはいけない。心の不安を取り除いて放送席に座る。でも、どういうふうにしたら、一番よい状態で―準備もした、適度の緊張感もある。そして、心の高揚、沸上がるものもある―そして素直にマイクの前に立てる。名アナウンサーは、それぞれ、そのノウハウを持っていると思いますが、私は一度として、「やった」という放送がないのです。いつも、後で 「あぁ、あそこはこうすればいいのか。あそこはこうすればよかった」ということばかりです。

そういった点では、ピッチャーに非常によく似ています。鈴木啓二(元近鉄バッファローズの名投手)さんでさえ、あれだけ三振を取った方が、覚えている画面は、「ホームランを打たれた場面」ばかりだそうです。アナウンサーというのは本当に臆病です。放送で、「やった!」という放送はありません。「あの時、こうすればよかった。あんな失敗をしてしまった」ということばかりです。ですから、どういう段取りを組んで、どういう気持ちでいく時が岩崎恭子ちゃんのような潜在能力を引き出すことができるのか?あるいは自分の力をフルに出すことができるか?その辺に非常に興味がありますが、皆さんの日常生活にも同じようなことがいえるのではないか、と思います。

しかし、私は、いつもマイクに向かう前は、ピッチャーでいえば完全試合を目指しています。完全主義ではありませんが、心地よく聞こえて、楽しくて感動が伝わって、ちょっとためになる……。このような放送がよい放送だと仮定しますと、そのすべてが出る。マウンドに登る時は、いつも完全試合を目指しています。それがだめだったら、完封シャットアウトゲーム―一点もやらない試合を……。それもだめだったら完投―九回まで投げぬくことを……。そういうふうに目指して、マイクの前に座ろうと思っています。しかし、誤解されてはいけないのは、なにも自分が完全試合することが放送としてよいことではないということです。一番の完全試合というのは、放送も素晴らしいし、そしてその感動を視ている人、聴いている人と一緒に共感できるいうところが、ゴールだと思います。

ご静聴ありがとうございました。




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