創立83周年 青年大会 記念講演 男子壮年信徒大会 記念講演

         『無我 ―癌宣告から奇跡の復活―
                      感謝の心で世のお役に立つ!』

プロレスラー

 西村 修


6月6日、創立八十三周年記念青年大会が開催され、現役プロレスラーの西村修氏が『無我―癌宣告から奇跡の復活―感謝の心で世のお役に立つ!』という講題で記念講演を行った。プロレスラーとしては小柄な西村氏は、1991年に新日本プロレスでデビュー後、厳しい鍛練に耐え、さらに25歳の時には癌の手術を受けるなど、数々の困難を乗り越えて現役プロレスラーとして活躍されている。その一方で、菜食主義を貫き、精神修行に励みつつ、慶應義塾大学の哲学科に在籍するなど、「戦う哲学者」としてのユニークな経歴の持ち主である。本サイトでは、数回に分けて本講演の内容を紹介する。


自らの壮絶な体験を
熱弁する西村修氏

▼なぜ、参議院選挙に出ようと思ったのか?

皆さま初めまして。ただ今ご紹介に与(あずか)りました、全日本プロレス所属の現役プロレスラー西村修と申します。私は1971年9月、東京都文京区生まれの現在38歳。身長は185センチメートル、体重は100キロございます。高校を卒業して18歳の時に、当時、アントニオ猪木氏が率いていた新日本プロレスに入門いたしました。私が人生の大半を過ごしてきたプロレスについては、後ほど詳しくお話しさせていただきます。

実は、私はこの夏に行われる参議院議員選挙に国民新党から出馬する決意をいたしました。18歳から38歳の現在に至るまで、プロレス一筋で生きてきた私が、何故、参院選に立候補するのか? 今回の参院選にも、タレントやスポーツ選手出身の候補者がたくさん出られるようですが、彼らとどこが違うのか? 西村修はいったい何を訴えたいと思っているのか? 皆さん、そのように思っておられると思いますので、まずはそこからお話ししてゆきたいと思います。

私は現在の日本人のあり方を、食育から、そして環境から立て直してゆきたいと思ったからなんです。たった3、40年の間に、日本人の食生活は驚くほど変わってしまいました。それは、第2次世界大戦の敗戦後、日本の子供たちの食生活をGHQ(連合国総司令部)の命令によって、それまで日常的に食べていた玄米や麦飯や味噌汁から、パンや牛乳に一気に変えられてしまったからです。その結果、猛烈なまでのアレルギー体質や心の不安定を訴える人が増加していったのです。私自身は、食生活を根本的に変えることによって後腹膜腫瘍という癌を克服しました。そればかりか、風邪ひとつ引かない体を作った訳です。人間の体やこころの健康が、食生活によって大きく好転することを知った私は、国に対して食生活のあり方を訴えたいと思い、この夏の戦い(参院選)に向けて立ち上がることを決意しました。


西村修氏の熱弁に真剣に耳を傾ける泉尾教会青年会員たち

例えば、うつ病に対する治療薬として抗うつ剤を使用するのは、確かに症状を緩和させる作用があるかもしれませんが、本当にうつ病を治そうと思うならば、まず「何故、うつ病になったのか?」ということから考えないといけない訳です。そんなこと素人の私に言われなくとも、精神科の医者も本当は解っているんですけれども、治療を行い薬を処方しないと、保険が適応されないんですね。ですから、薬を大量に、長期間投与すれば「ビジネス」になるんです。しかし、本当に大切なことは、身近な理解者が、親身になってカウンセリングをやることなんです。家族もしくは周囲のカウンセラーが話を聴いてあげるのがベストなんですが、しかし、これでは保険が適応されないため、そういった根本的な救済措置が定着せず、医療との連携が生まれないのです。

私はまず、これをどうにかしなければいけないと思っていますが、それには厚生労働省を変えていく必要があります。毎年、3万人を超す自殺者や、3,000万人を超えるこころの病を持った人が日本には居ると言われていますが、数字として表に出てきた方々を助ける方法だけでなく、自殺を考えないようにするには、こころの病にならないようにするには、そういった状況に追い込まれることを未然に防ぐことを考える必要があると思っています。


▼人づくりは食育から

もうひとつは「食育」です。食事がいかに人間を健康に導き、病にならない体にするか、あるいは、こころの安定を図っているかということを、ぜひ学校で子供たちに教えていただきたい。そして、親御さんや子供たちの食事に対する認識を高め、意識を変えてもらいたい。そのためには、文部科学省に訴えないといけないんです。給食にしても、1週間にたった5回の昼食かもしれませんが、現在のパンと牛乳が中心の給食が、私には惜しくて仕方ない訳です。65年前にGHQが決めたパン食を、何故現在に至るまで、日本の子供たちが食べ続けなければならないんでしょうか? 私は、日本の子供たちの心を落ち着かせて丈夫な体を作るためには、やはりお米を食べさせたいと思います。1週間で5回、1カ月で二十数回、1年で約300回、小学校6年間で1,800回摂る学校での給食…。その食事を通して、人々の意識を高める。学校給食のあり方を変えることと、学校教育の一環として食育を勉強してもらうことが大切だと思います。

戦前は、農薬の散布などありませんでした。農薬散布などしなくても、そのままの状態で植物に十分なエネルギーがあり、多少、害虫がついても、決して全部食べられてしまうようなことはありませんでした。しかし、100年前まで溯ると、害虫すら寄りつかないほど草や木そのものに免疫力があったようです。そして、今では考えられないほど穀物も野菜も栄養価が高かったそうです。もちろん、かつての状態を取り戻すことは簡単にできることではありませんが、私は、食物の状態としては、これがベストだと思います。むしろ、その状態までわれわれが回復させなければ、これからもっと化学薬品に汚染された食べものを子供たちの口へ運ぶことになるのです。一見、全く別の方向に見えるかもしれませんが、いくらプロレスラーとしての立派な体躯を作るためとはいえ、欧米式の高カロリー食によって癌を患った者にすれば、農林水産省に対して農薬の散布の是非を問うこと、そして土壌改良から考え直すことを訴えていく必要があると思います。

私は、この3つの事柄を、国会議員として厚生労働省、文部科学省、農林水産省に対して働きかけたいと考えています。そのために、私はこの夏の参院選に立候補する決意を固めました。もちろん、今日私はここへ選挙運動のために来たのではなく、青年会員の皆さま方へまずご挨拶をさせていただくことを目的としてまいった訳ですが、一度、皆さま一人ひとりの食事について、考えていただくきっかけになれば…、と思います。

「食生活を改善する」方法のひとつに、腸を鍛える方法があります。腸を鍛えることは、すなわち免疫力を高めることになるのですが、この「腸を鍛える方法」には、3つあります。ひとつは「食物繊維を多く含む食物を食べる」こと。野菜、海草類を食べ、便通を良くすることです。もうひとつは「浣腸や腸内洗浄を行うことで、直接腸内をきれいにする」ことです。もうひとつは「油」です。油のような脂肪分は、ともすれば「健康の敵」のように言われますが、意外と人間の体にとって大事なものなんです。例えば、イタリアでは、おじいさんやおばあさんが当たり前のようにやっていて、非常に重宝されていることが、寝る前に必ず大匙(さじ)1杯の生のオリーブオイルを飲むことです。人間は口からお尻の肛門まですべて粘膜で覆われているんですが、そこを潤滑油のようにオリーブオイルが覆うことで粘膜を保護し、通りを良くすることができるんです。

それから「水分の摂り方」です。先ほど食事のことを申し上げましたが、これほどわれわれの生活が豊かになり贅沢になったにもかかわらず、人々の健康や精神状態はむしろ悪化の一途を辿っています。私は、食育に関してそこまで訴えている国会議員は居ないんじゃないかと思います。私自身、決して専門家ではなく、ただひたすらにプロレスを20年間やってまいりましたが、自分が癌を患って、体やこころが本当に健康になるにはどうすれば良いか、真剣に模索して取り組んで参りました。ですので、私は誰よりも健康の有り難みやいのちの尊さを実感してまいりました。その実感を元に、食の大切さについて、季節の食べ物が、いかにこころのコンディションに影響を与えているかについて伝えていきたいと思います。そして、もともと日本人が有していた安全な食べ物や健康、やさしさや思いやりのあるこころを取り戻したいと考えています。

▼家族団欒と地産地消

次に、家族の話をしたいと思います。現在、どんどん富裕層と貧困層の二極化が進んでいますが、かつての日本は人口の9割が中流社会に属していました。その中で人々は、互いに助け合ったり、相手を思いやることで、社会生活を営んでいました。かつて、本当に素晴らしい日本が存在したんです。そして「一家団欒(だんらん)」という言葉が実際の生活に息づいていました。その頃は、お父さんやお母さんと子供だけでなく、おじいちゃんやおばあちゃんも一緒に食卓を囲んで揃って同じ食事を摂っていました。実は、これも食育の一部なんですね。


牛が持つ闘争本能、反射的、本能的な面を、人間は牛肉を食べることによって知らず知らずのうちに取り込んでいます。同様に、化学物質をたくさん含有した食品を食べ続けることによって、精神状態がおかしくなっても不思議ではないんです。家族は日々、同じものを食べることによって、同じ感情を取り入れていると言えます。家族は同じような考え方、同じような性格になってくるんです。ですから、家族が一緒に同じものを食べるという行為は、実はすごく大きな意味があるんです。今では家族が皆、好き勝手な時間に別々の食事をしたり、日常的にコンビニ弁当やファーストフードといった外食をすることも当たり前になっていますが、そういった食生活は、水面下で家族のこころの絆が薄れていく原因を作っているんです。

先ほど、学校給食から「欧米食を排除したい」と申しましたが、これは本心です。今、朝から晩まで街頭演説に立っていますが、時には某有名ハンバーガーショップやコーヒーショップの前で演説をしたこともありました。店内からわざわざ店員の方が出てきて、私の話を真剣に聞いておられました。コーヒーが体に良いか悪いかを考える時、ビタミン含有量や栄養素を考えるだけでは不十分なんですね。コーヒー豆を生産するのに適している気候や季節、世界のどの国で作られているか、皆さまはご存知でしょうか? ジャマイカ、ブラジル、キューバ、ハワイといった、とても暑い国がコーヒーの主要産地です。この「とても暑いところで穫れる食物」には、実は「体を冷やす作用」があるんです。ですので、もし皆さまが赤道直下に暮らしているならば、コーヒーは最も適した飲み物になるんですが、温暖な気候の日本に暮らしている人間にとって最適な飲み物はコーヒーとは違うんです。神様は「遠い国から穫ってきたものを食べよ」とは言っていません。その土地、地域で穫れたものを食べることが、体に一番良いことなんです。

先日来、口蹄疫の蔓延が深刻な問題としてニュース等で取り上げられていますが、私は宮崎県の養鶏組合の理事会でお話をさせていただいたことがございます。「場違いかもしれない」と思いつつ、私はそこでも食育に関するお話をさせていただいたところ、話が終わるや否や、拍手喝采を浴びました。その際、ある専務理事の方が「動物もまったく同じです。家畜にとっても、今、もっともやらなければならない重要な問題が食育なんです」とおっしゃいました。どんどん卵を産ませることや、とにかくどんどん早く体を大きくするために、ビタミンやさまざまな化学添加物を混ぜた飼料を与えています。ところが、雑穀を食べて育った鶏は非常によい筋肉が付きますし、栄養価の高い美味しい卵を産みますし、おまけに病気もあまりしないそうです。これは、動物たちが私たち人間に注意信号を発しているように思えます。ですから、今こそ私たち人間は、健康やいのちの尊さを改めて考えねばならない時期に差しかかっていると思います。私は、1億3千万人の日本国民の健康を守るために、この夏、戦ってこようと決意しております。


▼プロレス界の門を叩いて

私は、1971年9月に東京都文京区に生まれました。現在、38歳です。身長は185センチメートル、体重は100キログラムあります。高校を卒業した後、18歳の時に、当時アントニオ猪木が率いていた新日本プロレスに入門いたしました。入門するには、難関テストを突破せねばなりません。そのテストとは、スクワット(註:背筋をまっすぐ立てたまま、立ったりしゃがんだりを繰り返す運動)を1,000回、腕立て伏せ200回、走るテスト、バーベルを持ち上げるテスト、受け身のテスト、そして相手と組み手を行うスパーリング(試合形式)のテストなどがあるんですが、私はこの入門テストを突破し、150人の応募者から選ばれた4名の1人として合格し、無事入門することができました。

当時、すでに身長は185センチメートルありましたが、全く太らない体質の私は、体重が72、3キログラムしかありませんでした。なんとか体重を増やそうと、先輩に竹刀で猛烈にぶっ叩かれながら、毎食どんぶり飯を2、3杯食べ続けました。太るために、大きくなるために死にもの狂いです。一方で、24時間体制の先輩からの雑用をしながら、4時間から長い時には8時間にも及ぶ大変苦しい練習を日々こなしていきました。時には血尿が出るほど、肉体的にも苦痛の日々が続きました。例えば「スクワットを3,000回」というと、立ったりしゃがんだりの運動を2時間以上続けないといけない訳です。ちなみに、だいたい500回で15分から20分かかると言われていますが、1日の休みもなく、最低でも毎日スクワット500回、腕立て250回はやります。

しかし、一番辛いことは、先輩から「お前、リングに上がってこい!」と、指名されると、七十数キロしかない私は、百何十キロの先輩が右足でチョンと蹴るだけでひっくり返されてしまいます。そして、体の上に乗っかかられると、息もできない苦しさです。人間にとって、痛いのと苦しいのとどちらが辛いかと申しますと「苦しい」ほうなんですね。確かに痛みも辛いんですが、痛みは我慢しようと思えば我慢できるんです。もちろん、そこまでいくには大変な努力が要りますけれども、脳にはそんな不思議な作用(註:耐えきれないほどの痛みには、自ら脳内麻薬物質を分泌して、痛みを感じなくさせる)があります。

しかし、息苦しいことはどうしようもなく苦しいんですね。顔の上に百何十キロの人のお腹が乗っかった状態で、首をグッと手前に持ってこられるだけで息ができなくなるんです。こちらがタップ(註:押さえ込んでいる相手の背中を叩いて)してギブアップの意思を伝えると、1秒だけ離した後に、またやられます。その苦しみは相当なものです。最後はパニック障害を引き起こしてしまい、おかげで閉所恐怖症になってしまいました。ですので、未だにエレベータに乗りたくないんです。そんな猛烈なまでのしごきや苛(いじ)め、トレーニングに耐え抜き、19歳の時にデビューを果たしました。

1993年にデビューして2年と少し経った頃に、若手が十数名参加したトーナメントがあったのですが、幸い、私はそのトーナメントで準優勝することができました。そこで今度は「アメリカで修行してこい!」と言われました。若手のプロレスラーは、だいたい2、3年海外修行に行かされるんですが、アメリカか、ヨーロッパか、メキシコへ行かされます。アメリカは、非常に大きな選手による肉弾戦のようなプロレスやボディビルダーのようにシェイプされた超近代的なプロレスで、ヨーロッパは非常に伝統的なスタイルがあります。メキシコでは、飛(と)んだり跳(は)ねたりと、大変賑やかなプロレスをやります。日本におけるプロレスは、1950年代に力道山がアメリカから持ち込んだんですが、それをアントニオ猪木やジャイアント馬場が引き継いでいきました。その元々アメリカにあったプロレスとは、1910年代から20年代にヨーロッパから来たものと言われています。英国のランカシャー地方、マンチェスター地方というところのものですが、その原点が未だにプロレスの中に息づいております。

私は、20年間ずっとプロレスをやっている訳ですが、プロレスラーは1年で約120試合こなします。北は北海道から南は沖縄までドサ廻りします。大阪でやる時は、たいてい大阪府立体育館。大阪ドームでも数日行いました。特に大阪府立体育館へは、何度となく足を運んでおります。そうやって全国をぐるぐると回っている訳ですが、何処へ行っても、プロレスを見たことがない方々は「(試合と言っても)ショーなんでしょう? 八百長でしょう?」と言われます。私はそう言われた時には、プロレスのルールのお話をします。

最近では、テレビで「総合格闘技」(註:打撃系格闘技と組技系格闘技の両方の要素を取り入れた格闘技)といって、プライドやパンクラスなどがございますが、彼らは「人間兵器」と化します。例えば、拳やつま先、踵(かかと)、膝など、骨の出ているところが「人間の武器」となります。そういうところを使って相手の急所(弱点)を攻めていきます。こういった総合格闘技では、顔面を殴ったり首を絞めたりと急所を攻め合う競技なので、攻撃を仕掛けてこられたら、当然、これを避けようとしますけれども、その点、プロレスのルールは違うんですね。         

ただ今、申し上げたような爪先(つまさき)、踵(かかと)、膝(ひざ)、肘(ひじ)など身体の尖った部分を使ってはいけないし、相手の急所を攻めてもいけないんです。みぞおち、首、顔面への攻撃も禁止ですし、髪を引っぱるのも禁止です。要するに、プロレスのルールとは、人間が鍛えられるところだけを攻め合い、いかに相手の技を受けきれるかがルールであり、見せ所であります。誰でも痛い思いをすることなく勝てるほうが良いに決まっていますが、ファンはそんな試合を認めてくれません。プロレスとは、いかに相手の技を受けるかによって、耐久力、忍耐力を誇示しながら相手を仕留めるという、まさに我慢比べというか、愛がなければできないスポーツなんです。


▼暴飲暴食で癌になった

私は、23歳の時(1993年)にアメリカへ渡り、フロリダ州のタンパという街に3年間滞在して本場のプロレスを学んだのですが、この時に、体を大きくするためとはいえ、大変な暴飲暴食生活が始まりました。半端なものではありません。痩せることも大変ですが、とにかく太る、体を大きくすることも大変な努力が要ります。毎日1ガロン(約3.8リットル)以上の牛乳を飲み、1ポンド(約450グラム)のステーキを2枚、毎日毎日食べておりました。そんなにカロリーを摂っているのに、当時は体調も不安定で風邪も引きやすく、精神的にもイライラしたり、不安になったりしていました。93年から3年間アメリカでの修行を終えた後、今度は97年からヨーロッパへ行かせてもらったんですが、その時もアメリカの時と同じく、暴飲暴食を繰り返していました。私が癌を患ったのは、その頃です。

26歳の時に、私は後腹膜腫瘍(こうふくまくしゅよう)という癌に罹りました。医者からは「左足の付け根部分、鼠径部の所にあるリンパに直結しているため、大変転移が早い癌だ」と言われました。当時、毎日微熱が続いていた―皆さまも、もし微熱が続いていたらお気を付けください。体が健康な状態ならば、熱は出ないようになっていますから、微熱は体調不良の注意信号です―のですが、その微熱は当時、1カ月以上にわたって37度以上の熱がありました。お風呂に入って体を洗っている時、下腹部にしこりを見つけたのですが、てっきりプロレスで痛めたか、何処かにぶつけて血の塊でもできたのかと思い、まさかそれが癌だとは思いもしませんでした。「そのうち治るだろう」と思い、放っておいたのですが、微熱は取れず、時には39度、40度の熱が出ました。

しかし、それでもプロレスの興行を休む訳にはいかないんですね。何しろ中学、高校の部活とは訳が違いますし、会場には3,000人、4,000人のお客様、時には1万人ものお客様が待っている訳ですから、39度熱が出たからといって、そうそう休む訳にはまいりません。リングに向かう時、いつもガウンを着てタオルを引っかけて入場するんですが、その薄い布1枚ですら重く感じるような体調です。応援に来たお客様は、握手を求める人もいればバーンと体を叩く人もいますから、リングにたどり着くだけで冷や汗がダラダラ出るような状態で試合をしたのを覚えています。98年の7月頃から体調が悪くなり、そのしこりを何処かでぶつけたのか、8月にはさらに体調が悪化したため、東京の慶應義塾大学病院の泌尿器科に診察に行きました。

最初の診察の時、触診しただけで、医師からあっという間に8枚か9枚の紙を出されました。そして首を捻りながら「もしかしたら、癌の疑いがあります」と言われました。もし、癌ならば、徹底的に検査を受けなければなりません。この癌の場合、腎臓、肝臓を通って脳に転移する可能性があるため、すぐに血液検査を行い、CT、エコー、胸部レントゲン検査を行うことになりました。そして、「癌であると判った場合は、すぐに入院、エイズ検査、手術の予約を入れるため、今月中に申込書を提出していただきます」と言われました。診察室に入ってから、ほんの3、4分の間のできごとでした。診察室を出て、まずレントゲン検査へ向かいました。

検査を待っている間は、ただただ涙しか出ませんでした。あれから12年経った今でこそ、風邪ひとつ引かない元気な体に回復しましたが、その時は、いくら「人間はいつか死ぬ」ということを頭では解っていても、そう簡単に受け入れることはできません。その時、私は楽しかった思い出や、おばあちゃん―私は大変なおばあちゃん子でしたので―、お父さん、お母さん、恋人、仕事仲間、そしてこれから先に起こるはずだった楽しいできごと…。そのすべてを打ち切らなければならないのかと思うと、「何故、私だけが…」という思いしか浮かんできません。よく病気を患った方は「何故、私だけがこんな病に罹らなければならないのだろう?」と憤ると言いますが、私も笑っているつもりでも、涙しか出てこないんです。夜、眠る時は「もし、このまま死んでしまったらどうしよう?」と怖く、朝、目が覚めると「良かった、今日も生きていて良かった」と思うのです。検査結果が出るまで、そのようなことばかり考えていました。

私は慶應病院の診察結果を待つ間に、セカンドオピニオンを求めて、超音波エコーやCT等の機械を備えている病院を3軒、4軒と回り、「癌かどうかだけ、今すぐ教えてください」と頼みました。ある大きな病院へ行った際には「ちょっと怪しいですね。けれども、開腹手術してみないことには正確には判りません」と言われ、小さな病院へ行けば「癌ではありません!」と言い切るんです。「これは、あなたがプロレスをやっているから、何処かでぶつけて炎症でも起こしているのでしょう。ビタミンCを出しておきますから、1日3回食後に飲んで、2週間ほど様子を見てください」と言われた病院もありました。今だから笑って済ませることができますが、もし、私が最初にこの病院―東京渋谷にある「○○クリニック」という病院でしたが―だけに行き、この病院の診察結果を信じていたら、大変なことになっていました。

慶應病院の検査結果が1週間後に出たのですが、覚悟をした上で付き添ってくれた母親と2人で聞きに行きました。レントゲンも、腫瘍マーカーもCT検査でも見つけられませんでしたが、エコーの先生が見つけてくれました。「この黒い部分が癌です。直ちに手術をいたしましょう。その上で、大変転移が早い癌ですから、放射線治療の適用になります。放射線の照射によって、30パーセントから40パーセント体力が落ちますが、それでもやっておかれたほうが良いです」とおっしゃいました。これは私自身、大変な決断を迫られることになりました。放射線治療を受けたら、何故、30〜40パーセントも体力が落ちるのかといいますと、造血作用のある骨髄を3割から4割破壊してしまうためです。医師の診断結果を聞き、手術の日を待つだけなんですが、私は放射線治療が、スポーツ選手として、プロレスラーとして、致命的なものだと感じていました。医師は「(職業の)進路の変更を考えたほうが良い」と言いましたが、そう簡単にプロレスを諦める訳にはいかないんです。


▼放射線治療を拒否した理由

少し、癌についてお話ししようと思います。体の中の一番弱っているところに癌はできます。そこから、リンパという経路を通ってミクロの世界で場所を変えて発生することを「転移」と言います。原発性のものは、腸や肝臓や肺など、さまざまな場所から出ることはほとんどなく、すべては人間の体の一番弱いところから発生して周囲へ拡がっていきます。しかし、癌細胞はある程度大きくなりませんと、エコーでも、CTでも、血液検査でも、腫瘍マーカーでも映らないんです。ミクロン単位の世界で見えないため、どこに飛んで(転移して)いるか判らない。一番最初の原発性の所―私の場合は後腹膜という鼠蹊(そけい)部にできましたが―から腎臓、肝臓、肺へと辿っていくのですが、取りあえず半年から1年間要注意期間がございました。時期が延びれば延びるほどだんだん安全になっていきますが、統計的には「5年が目安(5年間生存できればその癌は治った)」と言われています。

しかし、これは決して「完治した」という意味ではありません。むろん、7年後、10年後に再発する人もたくさん居ます。再発は怖いです。例えば治療後7年間、体に良い食事を摂り、精神的なリハビリを行い、ストレスを排除するように心がけ、アガリクスなど体に良いと思われるものを摂取していても、その間、体は耐えているんですね。それが、ある時、気が緩んだのをきっかけにボンと再発してしまう…。再発とは、それでアウトになってしまうぐらい恐ろしいことなんです。ですので、再発をしないように抗ガン剤でミクロの世界の癌(細胞レベル)を殺してしまう訳です。

私の場合は、摘出手術後の放射線治療を奨められましたが、私はプロレスを簡単に諦められませんでした。ミクロの世界で、もしかしたら転移しているかもしれないし、転移していないかもしれない。今、放射線治療をしなかったことを、4、5年経った頃に後悔するかもしれない。その時点で「あの時、放射線治療を行っていれば…」と思っても手遅れです。26歳の私は、「プロレスを取るか、いのちを取るか」の決断を迫られました。ある時、私はファンの方から1通の励ましの手紙を頂きました。その方は手紙の中で、最愛のおばあさんが、つい先日癌で亡くなったことを告げ、「西村さん、どうかお願いですから、このまま引退と言わずに、一生懸命元気になって復帰してください。おばあちゃんの仇(かたき)を取ってください」と書かれていました。私も大変なおばあちゃん子でしたから、このファンレターには涙が出るような感動を覚えました。もし私がこのまま引退してしまったら、私がリングへ復帰することを心待ちにしてくださっているファンの方々に対して、勇気を与えるどころか逃げることになってしまう。その時、私のいのちは私のものではないと思いました。最終的に、私は放射線治療を受けることを諦め、体質改善のもと、再びプロレスのリングへ復帰することを決意しました。


▼食事の変化が日本を変える

病院では特にすることもなかったため、3週間入院した後に退院しました。「どうすれば癌ができないようにできるのか?」そのために、まず「何故癌ができてしまったのか?」その原因を考えようと思いました。物事には必ず原因があります。原因を追求しなければ真の治療とは言えません。私は非常に神経質で八方美人的なところもあり、気の使い過ぎで太れなかったところもありました。まず「このストレスを溜めやすい性格を変えよう」と思い、お寺に通っていろんな和尚の話を聞きました。良い意味での諦め、いい加減さを持つこと、常に100パーセント求めないこと―あるものはあるし、できないことはできない―などです。100パーセント求めることがストレスを生む。私はコンピュータではなく、1個の人間なのだから、一度に10個も20個も頼まれてもできないと諦めるしかない。そういったことを和尚から教わりながら自問自答を繰り返しながら、日に日にあまり気にしすぎないような性格へと改善を図っていきました。

もうひとつ、大変な問題がありました。「体を大きくしなければいけない」と思い、毎日4リットルの牛乳と1キロの肉、プロテインパウダーを思い切り食べておりましたが、これをどう改善していくか…。癌を患いますと、皆さん、やれ「肉が悪い」とか言います。他にも「ポリフェノール効果の高い赤ワインを飲みなさい」とか「オリーブオイルを飲みなさい」とか「ニンニクが良い」とか「トマトが良い」とか「ブロッコリーが良い」と、いろんな経験則やデータがあります。私はそのような話を聞く度に、直接その街へ出向き、食べ物から食生活改善を図る旅をしてまいりました。「オリーブオイル、ニンニク、トマト、赤ワイン」というと、イタリア料理が頭に浮かびます。その時に、私はイタリアに1泊4,000円で泊まれる農家を見つけました。これは宿代と食事の食べ放題がすべて含まれて4,000円でした。私はそこにホームステイのような形で滞在し、昼間は農家のワインの出荷の仕事を手伝い、空いている時間は山歩きをしたりしましたが、だんだん食生活の影響で元気が出てきました。

しかし、私が一番「変わった」と感じたのは、台湾でした。私の知り合いが「台湾で薬膳料理や漢方の名医を知っているから、とにかく来なさい」と誘ってくれたのですが、当時はまだ手術から1年経っていない頃で、まだ微熱が続いたり、すぐに高熱が出たりと体調が不安定な頃でした。その頃はまだプロレスも休んでいました。台湾に行きますと、とにかく漢方のお医者様が大勢おられます。日本では体の調子が優れない時や元気がない時やどこかが痛い時は、ほとんどの方が(西洋医学の)病院へ行かれると思います。

しかし、台湾へ行きますと、10人中7〜8人は、まず漢方医へ行きます。日本では「漢方薬は、長い間飲み続ければ効いてくる」というような認識がありますが、台湾は違います。台湾では漢方医師がまず目の色、舌の色、脈拍、触診のたった4種類から判断します。この4種類から約16通りの体質を診断し、その人の体質に最も適した体質を判断し、漢方薬を処方してもらえるのです。漢方薬は葉っぱや木の実や根っこを煎じて飲むんですが、味はもの凄く不味(まず)いです。しかし、飲んだその日から元気が出るんです。私も「今日は軽いジョギングをしてみよう」といった気持ちが湧いてきました。

アントニオ猪木は「元気があれば何でもできる」と非常にいい加減なことを言いましたが、病人はその元気がないから何もできないんですね。この台湾の漢方薬を飲むと、その元気が出てくるんです。私はしばらくの間、その漢方薬屋に通いながら、私は「いかに人間のこころや体が食事に左右されるか」ということを痛感いたしました。漢方医師が言うには、「処方している葉っぱや木の実や根っこを煎じた漢方薬は、要するに食事だ」と言います。「東洋思想の中には『医食同源』という素晴らしい言葉があります。あなたは、その食物が持つパワーを頂いて元気になるんです。ですから、これから食事を摂る時には、『すべて薬だ』と思って食べなさい。中には体に良いものもあれば、体に悪いものもあります。食事というものは、美味しい・不味いとか、満腹感を満たすだけではなくて、すべて意味があります」とおっしゃいました。

私は台湾を訪れた後に、イタリアを訪れ、その後、インド、スリランカなど、様々な土地を訪れました。そして、ますます食事の大切さや、体やこころに与える影響を実感いたしました。何処の国へ行っても「季節のもの、その土地の気候風土で取れたものを食べるように」と、どの食用医学者も研究者も同じことを言います。食事に季節の野菜を取り入れる感覚は、日本人だけのものではありません。例えば冬場に、体調が優れない時にレタス・胡瓜・トマトといったビタミンたっぷりの野菜サラダを食べようと思われる方も多いと思いますが、こういった夏野菜には体を冷やす作用があるため、冬に摂るとむしろ逆効果になります。冬はむしろ根菜類を食べると良いのです。同様に、春には春のもの、夏には夏のもの、秋には秋のもの、冬には冬のものを食べることが大切なんです。

私は復帰に向けてトレーニングを再開した頃、極端と言われるかもしれませんが食事を菜食に切り替えました。肉類を一切断ち、基本的には穀物類(玄米、白米、麦)に少量の漬け物、味噌汁を摂りますが、時にはそれだけで食事を終えることもあります。「お前はプロレスラーなんだから、肉でも食べないと力が付かないんじゃないか?」と言う方もいましたが、そんなことはありません。私は、自分の体を通して3つのポイントを発見しました。ひとつ目は筋肉の状態です。食べ物によって硬くなったり弛んだりします。2つ目は体の疲れ具合です。それまでは、夕方になると倦怠感を感じたり、体が熱くなったり寒くなったりしていました。3つ目は精神状態です。これはズバリ効きました。以前なら不安になったりイライラしたようなことが、食事を整えることによって粘り強くなったり我慢強くなりました。私はもともとキレやすい性分ではありませんが、非常に落ち着くんです。どこのお医者さんも「細胞も筋肉も髪も爪も食事から作られますが、忘れてはいけないのは、こころのコンディションも作っている点です」と口を揃えて言います。例えば、刑務所では麦ご飯が出されますが、あれは経費削減が目的ではなく、犯罪者の高ぶる感情を一気に抑制する作用があるからこそ出るんです。

私自身、食生活とトレーニングでここまで元気になれたので、このことを誰かに教えてあげたいと思いました。学校での健康セミナーや講演なども行いましたが、これ以外に個別でカウンセリングを始めました。プロレスは年間120試合こなしていますので残りの240日は練習はしても時間を作ることが可能です。まずお父さんお母さんと面談し、鬱病、引きこもり、登校拒否などの問題を抱えた子どもたちを預かりました。子どもたちの食事を改善し、運動をさせることで、それらの問題は、劇的なまでに改善いたしました。この個別カウンセリングと食事、運動の改善活動を通して、多くの子どもたちを救うことができました。この他にも、毎日新聞と協賛して、『小児癌撲滅キャンペーン』に参加しました。このキャンペーンは、様々な団体とタイアップして行われましたが、私は新日本プロレスとして組み、何百人の子どもたちを会場に呼んで元気と勇気を与えました。しかし、そういった社会貢献だけでは長期的な取り組みを必要とする自殺者の問題は、解決できないことも見えて参りました。それが、今回の出馬のきっかけでもあります。どうか、多くの日本の子どもにより良い未来を残すためにも、皆さま何卒よろしくお願い申し上げます。本日は、ご清聴有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)




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