創立82周年 婦人大会 記念講演
        『わが師を語る』講演

三宅美智雄

御布教八十五年記念大祭迎えの五百日信行開始まであと56日と迫った7月15日、創立八十二周年記念婦人大会が開催され、約1,200名の婦人会員が参加した。大会では、大恩師親先生のご次男として生を受け、34歳で東京の常盤台にお道開きされ、昨年ご長男に教会長職を譲られた三宅美智雄先生を講師にお迎えして、『わが師を語る』と題する記念講演を賜った。本サイトでは、数回に分けて、三宅美智雄師の記念講演を紹介する。


三宅美智雄師

▼大きな目玉が…

皆さんおめでとうございます。実は、私が泉尾教会の婦人大会でお話をさせていただくのは二度目のことでございます。たぶん、本日、このお広前にお座りになっておられる方の9割くらいの方々は、その前回のことはご存じなかろうかと思います。それは、私が東京(常盤台)へ出させていただいて5年目(1968年)のことであります。ですから、ずいぶん前のことになりますね。今度も、親先生から「婦人大会の話をするように」と命ぜられました。しかし、ここ何年かの泉尾教会の婦人大会は、有名人が来てお話しなさっておられるので、「私のような者が行ってお邪魔になるのと違いますか?」と、親先生に申し上げましたら、「実は、今となっては、大恩師親先生のことを一番よく知っている人は、先生しか居ません。だから、皆に大恩師親先生のことを話してやってください」と言われました。

そういうふうに言われますと、大恩師親先生のことをご存知の方は少ないと思います。ただ今も、お若い信者さんが、感話の中で大恩師親先生のことを申されましたが、それはおそらく「ご晩年の大恩師親先生」のことだったと思います。もう、霊様になられてから10年以上過ぎたわけでありますけれども、私の中には常に大恩師親先生がいらっしゃいます。先ほどお広前へお参りさせていただいて、神様に今日の参拝をさせていただいた御礼を申し上げ、そして、霊様の前で改めて大恩師親先生の霊様に「今日はお話をする御用を頂きましたので、させていただきます」と、そうお礼申しました。ご霊前で頭を下げて拝んでそう申し上げたのですよ。そして、頭を上げて、ご霊前をじっと見てましたらね。「大きな目玉」が見えたんです。お扉のちょうど中央に金具がありますね。あの金具のところ辺りに「大きな目玉」がある。びっくりしたんです。で、私はもう咄嗟(とっさ)に、それが誰の目であるか判りました。それは、私の中に生きてござる大恩師親先生の目であると…。

その時、大恩師親先生の霊様が、「今日の講演で、お前はどんな話をするのか?」と言われた。本日の講題は、現親先生から「こういうことでお話ししなさい」と言われておりましたお題が『わが師を語る』ということでしたから、大恩師親先生のその「大きな目玉」に対して、「『わが師を語る』というお話をさせていただきます」と、こう申し上げたんです。そうすると、その「大きな目」がカッと力を込めて私を睨(にら)んでおられる。今はもうそんな言い方をする人は少なくなりましたが、昔からえらく叱られた時に「大目玉を喰らった」と言うでしょう。私は、そういう気がしました。その目玉の輝きをですよ…。ただピカッと輝いているのではない。その「大きな目玉」が私をグッと睨(にら)んでおられるのです。私はその時、「あっ! これは怒られた(大目玉を喰らった)な」と気が付きました。

そこで、大恩師親先生の「大きな目玉」がおっしゃったお言葉は、「お前に師が語れるか?」というお言葉でした。「『わが師を語る』という題でお話しさせていただきます」という私の言葉へのお答えが、「お前に師が語れるか?」というお言葉だったのですから、私にはもう言いようがない。「済みません。お話しできません」では済まんし、今さら、お結界に行って、親先生に「お話しできません」と申し上げる訳にもまいりませんし、こうして、本日の婦人大会のために用意していただいたパンフレットにも、講師として私の名前も印刷してあるし、『いずみ』にもそう出ている。「今、大恩師親先生に叱られたので、もう止めさせてもらいます」とも言えず、といって、「お前に師が語れるのか?」と言われて…。

今の方々はご存じないかと思いますが、私がまだ泉尾教会で修行をさせていただいていた頃には、親先生(=大恩師親先生)から「拝命」というのが出るのです。「拝命」というのは、どんなものかと言いますと、広告の紙とか使い古しの紙の裏面に、親先生がカーッと走り書きをされて、これを手渡されるのです。「拝命」には2種類があった。ひとつは信心拝命…、もうひとつは用事拝命…。それはそれは事細かに出されるんですよ。


▼「あかんもんはあかん」

確か私が20、21歳だった頃に、二代親先生と私が奥へ呼ばれまして、親先生から「今日からあんたらの名前を変える」と、こう言われました。「え、名前を変える?」と思っていますと、二代親先生―その頃は「二代先生」とお呼びしていましたが―は「先生」に、そして私の方を向いて、お前が「若先生」と…、そういう風に今から変える。と、そうおっしゃった。それがきっかけとなって、晩年までそう呼びました。二代親先生が亡くなられる10年か15年くらい前から、私は泉尾教会の他の先生方から「東京の先生」とか「常盤台の先生」と呼ばれるんですが、二代先生は私のことを「若先生、若先生」と呼ばれるんですよ。私が「先生、私はもう『若先生』とは違いますよ」と申しますと「いや、若先生と呼ぶ」とおっしゃる。これは何処へ行ってもそうおっしゃる。また、実の兄弟でありますから、当然のことかもしれませんけれども、どんなことでも聞いてくださった。今、私が一番寂しいのは、私の本音を聞いてもらえる人が居なくなったことです。皆、お愛想を言わんならんとか、ちょっと社交辞令を言わんならんとか、そんなんがありますが…。その時分に、二代先生と私の間でこんな議論が出ました。


講師の熱弁に耳を傾ける婦人会員たち

それは、人間というものは「生まれついて駄目な人」それから「天分を持っている人」などいろいろある。けれども、「箸にも棒にもかからない」という言葉のように「駄目なものは駄目」と言ってしまったのでは、私は“信心”と違うと思う。もし、神様が「駄目なものは駄目だ」と言われたとしたら、われわれは希望を失うではありませんか。そうでしょう?「お前は駄目な奴やけれども助けてやる」とか「弱いけれども大丈夫にしてやる」とおっしゃるのが神様やと思う。それが、私の論議…。それを二代先生が聞かれて「それは違う。駄目なものは駄目。なんぼ言うてもあかんものはあかん」とおっしゃる。それで2人はちょっと論争したんですが…。当時、私は東京から大阪に、月に2回ぐらいお参りしていましたが、その2回のお参り毎に二代先生は私を待っておられて「どうや?」とこう言われる。半月分溜めておいたものをぶっつける訳ですから、私も「これは容易ならん」と思って来ています。

「初めから駄目なもんは駄目。おかげ頂くものはおかげ頂く」と二代先生…。「そう決まったものじゃない。駄目なものでも、そこを神様にお願いして、なんとか直してもらえるはずや」と私…。何カ月間も議論しました。半年ぐらい経った頃に、二代先生が私に「若先生」と呼びかけてこられた。「ちょっと看板書き換えや」、「どんな看板ですか?」、「『あかんもんはあかん』ちゅう話やけどなぁ…」と言われるのですね。一方、その時、私の用意してきた答えは、半年にわたって「『あかんもんはあかん』のやない。神様に必死にお願いしたらなんとかしてもらえる」と思っていたけれども、ずっと考えていって、また、日々実際に信者のことを願い―新しい教会でしたからお参りする人も少なかったんですけれども―その人々をなんとかしておかげを頂こうというものがありましたからね。毎日毎日戦争のような日々でありました。それでハッと思ってみて「こんなにお願いしているのになあ…。ここまで言っているのに、なんで聞いてくれへんのか…?」と、私は自分を責めるのです。それで「私も、看板書き換えます」と二代先生に申し上げたんです。「そうか、どない看板書き換えるんや?」と…。私は、「半年間、先生はこうおっしゃったけれども、今日の私は先生のおっしゃる通り(「あかんもんはあかん」)やと思います」と申し上げました。先生は先生で、「半年間、お前とこう言い合ってきたけれども、お前の言う通りやな」と…。

そこで、すっかり立場が逆転してしまい、それまでガンガン火を噴くように言い合っていたのがピタッと止まり、ぶつかりがなくなった。これを親先生がお聴きになった。「お聴きになった」と言っても、話を傍(かたわら)で座って聴いておられる訳じゃない。私と二代先生が話しているのを、廊下や横の部屋でこっそり聴いておられて、ガラッと入って来られた。「なんの話してたんや?」とお尋ねになられたので、二代先生が「こうでこうで…」と説明なさった。そしたら、親先生はどうおっしゃったかと言いますと、「一塊の鋼(はがね)、これは岩のようなものだ。このままではなんの役にも立たん。どうしようもない。けれども、その鋼を何百度という温度で真っ赤になるまで熱して、そしてその鋼を金槌でガンガン叩く。そしたら堅い鋼でも、熱してガンガン叩くとペッタンコになる。そして、それをまた火の中に入れ、どんどんと熱する。すると真っ赤になる。真っ赤になったら引き揚げて、叩いて叩いて叩き伸ばす。そしてジュウッと水に潜(くぐ)らす。そして再び引き出しまた熱する。熱して叩いて叩いて、冷やす。また熱して熱して…と、それを繰り返す。それによって、日本刀ができる」そうおっしゃった。         

そして、「今のお前は、ただの鋼(はがね)や。そこらに転がしておいたら邪魔になるだけでなんの役にも立たんけど、そんなお前でも、溶けるほどに真っ赤に熱してもらって、その上からガンガンと叩いてもらって、水をぶっかけて、また熱して、叩いて、冷やして、熱して、叩いて…。これを繰り返しておったら『私はこうなろう』と思わなくても、スパッとどんなものでも切れる日本刀になる。それは神様がしてくださる。『わしは銘刀になる』というてなれるもんやない」と、そう2人の前で話をされた。2人とも「うーん」と呻(うな)るしかなかったですね。親先生のおっしゃる通り。そんなことを、「大きな目玉」を見ながら思いました。


▼ 常盤台のお広前はお前の死に場所だ

「師を語る」という時、その師を語るのは他ならぬ弟子その人です。もちろん、私は大恩師親先生を「師匠」と仰いでいます。昭和三十八年に泉尾教会を出発する時―今のお広前(拝める宮)の前のお広前でしたが―お結界に行って「ただ今から東京に遣(や)らしていただきます」とお届けしました。すると、大恩師親先生は「三宅の家はメグリが深い。3つのメグリがある。ひとつは、御用をしなければ30までのいのち…。ひとつは、七代続く貧乏…。もうひとつは、兄弟ハダハダ―ハダハダ(肌々)とは、そりの合わない(不仲)のこと―この3つのメグリがある」とおっしゃった。それはちょうど、大恩師親先生ご自身が泉尾の地にご布教なさって36年目の正月のことでした。「私はこれまでそのメグリを取り払うご修行をさせていただいた。けれども、三宅の家のメグリは、そんなちょっとやそっとで解けるようなメグリとは違う。普通で言えば、畳の上では死ねんような、そういう深いメグリ…。そのメグリを受け継いでいるお前が、『人を助けるという御用に使うてやろう』と、神様から頂いたのが東京のお広前…。だから『万歳! 行ってらっしゃ〜い』そんな甘いもんじゃない。お前は今から死にに行くんだ! あの常盤台のお広前は、お前の死に場所だ! ひとりの人を助けるために死んでこい!」と、そう言われました。

私はその時、もう31歳でした。「御用せなんだら30までには…」よりは、ちょっと寿命を延ばしてもらってる訳です。でも「死んでこい!」と言われて、「はい、死んできます」とはなかなか言えませんね。実際にやってみたら分かる。「先生、どうしましょうか?」と言ってくる信者の願いというものは、そう簡単におかげを頂けるものではありません。おかげとは、そんなに簡単なものではないです。

私が思い出すのは…。肺癌でお願いをされた人があって、その人がちょうど常盤台に布教させていただいて5年目の時に入院をされて、医者からも「家族も呼ぶように(もう駄目だ)」と言われていました。そこで、その方の奥さんがお参りをされて「どうぞ助けてください」とお願いされました。そのお届けを受けたのが、大祭の4日前でした。私はその時、「あっ、大祭のおかげ!」と思いました。「大祭におかげを授けよ」という神様の思し召しだと自分で頂いた。そして、その人を引き受けた。「あんたのご主人のいのち、あと4日経ったらご大祭…。ご大祭には大阪から親先生がお見えになる。親先生に祈っていただいたら必ず助かる」から、その日はお広前の横にある控えの間―小さいお広前でしたからね―がありまして、そこに布団を敷いて、そこへ寝させて―病院から連れてですよ―「そこに寝てご大祭をいただきなさい」と申しました。

早速その人は、お医者さんに相談したんですね。そしたら、お医者さんから「3〜4時間ぐらいだったら(外出しても)良いですよ」と許可が出た。ただし「熱が出たら駄目ですよ」と、そう言われたんですね。で、その奥さんから喜び勇んで電話がかかってきた。「医者から許可が出ました。ただし、熱が出たら駄目ですと言われました」と…。「ああ、良かった。必ずおかげを頂こう」と、本当に、ほんとにそれこそ自分のいのちを縮めるような願いでご祈念させてもらった。そして、ご大祭の日の朝、早朝のご祈念をさせていただいて、ご祈念が終わって、私もうちらに入らせてもらった。そしたら、家内が「先生、えらいことなんです」と…。ちょうど上の娘が9つでしたから、小学校3年生頃やね。「昨日の夜からうなされてます」ただの熱は出ていない。うわごとを言っている。「先生、お神酒(みき)さん吹いたってください」。「よっしゃ、吹いたる!」って言って吹いてやったんですね。そしたら、火がついたように娘が泣くんですね。余計に熱が出る。そして、私はお神酒さんを置いてご祈念をした。「どうぞ、今日は待ちに待ったご大祭でございます。ご大祭というのは、ただ装束を着けてお祭をするのがご大祭と違う。神さんが出てこられる。神さんと出会う。それがご大祭。だから、必ずおかげが頂ける」とご祈念させていただきました。


▼お祭は神様と出会う場

ちょっと話が横へ行ってしまいますが、私が本日の講師の御用をいただいた際に、泉尾婦人会の会長さんがわざわざ常盤台へお参りしてくださり、お願いに来られた。そんなに大層に来てもらわなくてもいいのに…。そこで「何時の切符取ったらよろしいか?」と尋ねた。そうしたら「ここ(泉尾教会)に、2時頃に着いてもらうようお願いします」と言って帰られた。そして「これが、当日のパンフレットです」と、皆さんが今お手元に持っておられるパンフレットを持って来られたんですね。それで見たらですね、「お祭(感謝祭)は1時半から」と書かれている。「あれ? さっきは2時と言っておられたのに。どないなってるんかな?」と…。それで電話した。「どうしたの、これ?」って…。そしたら「お疲れでしょうから、お祭が終わって2時ぐらいにお越しいただいてお話ししてくださったら結構です」と…。それを聞いて、私はガクッとしました。

そうしたら、今の教会長が御用から帰ってきましたので、「実は今、泉尾教会から婦人会の人が来て、お祭が終わった頃に来なさいと言われた。それからお話をしてくれたらよろしいと言って帰られた」と伝えたところ、教会長も怒りましてですね「御用をするのは、もうやめたら…」と言う。いつになく強い調子でね。そして泣きなさった。「有名人を招いてお話を聞くといったような、そんな講師であれば、それはそれで良いですけれど、このお祭は、行事じゃない。お祭というのは、婦人大会の一番中心。そこへ参拝もせずにお話に行くというのは、間違っている」と…。私も「その通りや!」と思ったので、そう言ってお断りの電話を泉尾教会の事務所へかけさせていただきました。そしたら、ちょうど親先生がご外遊中だったので、親奥様が連絡をしてくださったんだと思います。親先生がわざわざローマから国際電話をかけてこられた。「信者は、『先生は遠路でお疲れだろう』と思ってそう言ったんで、堪えてやってください」と…。そこで、私は「それはもう御用を頂くことは、有り難い嬉しいことなんですけれども、信者がお祭というものをそんな風に頂いているのであれば、大会も大したことないなと思いますよ」と私は言いました。神様と出会うお祭に、「あなたは休憩しててよろしい」って…。

今日ここへ来ておられる方々は熱心な人ばっかりやから、そんな人はこの中にはおらんかもしれんけど、昔からお祭詞(のりと)の時間は居眠りタイムみたいなところがあってね。ちょうど「一同、平伏」と号令がかかると、それが寝る時間の合図みたいになってる(会場笑い)。ほんと不思議な…。時間でいったら3分もないんじゃないかと思う。今日の祭詞なんか、わりと短かったでしょう? 大祭の祭詞でも5分。あんな時間でも寝れるんですよ。不思議ですよね人間って…。私が、大恩師親先生が生きておられる間によく言われた。その当時、神前拝詞ではなくて、大祓(おおはらい)詞でした。前半と後半の中間部分に「…天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)宣(の)れ〜。此(か)く宣らば…」と真ん中で変わるところあるでしょ。あの「宣れ〜」と「此(か)く宣らば…」の間の1秒か2秒のところで、寝てる人があると、そう言われたことがありました。「なるほどな」と思いました。

お祭というものは、本当はここへ参っている泉尾婦人会が全員お装束つけて、ここ(神前)へ座らせてもらうべきものやと私は思います。お祭をしている人は、装束を着けてご神殿でやっている。そっちに座っている人は、こちら側を見て、まあ見物というか、とにかく見ているだけ。けれども、それは「お祭」と違う。「神様と出会う姿」と違う。だから服装でも言うでしょ。私が「お祭に参拝する時には、服装を整えなさいよ」というのは、それなんですよ。もう自分のいのちのような神様と出会うのに、いい加減な服装をして来られると、私はガクッとするんです。そういう意味で言うと、私は今日のお祭も、この婦人大会の願い、あるいは婦人大会に対する親先生の願いというものを、感謝祭という形でああして神様にお届けされたんです。それをわれわれが、眠っていてはいけませんよね。今日は、善信先生が祭主を務められましたけれども、皆さん「私も…」というものがなかった。私はそれこそ「お祭は間に合わなくてもよろしいから、それまでにゆっくり休んでください」ということになってしまいますよ。私はそれを言いたかった。
        
▼親先生は親先生

そういう経緯があった上での、本日の私の講演な訳ですけれど…。そこで、その大きな(ご霊前の大恩師の)目玉に「師が語れるのか?」と、こう詰問された訳です。他宗教ですけれども、私は浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が好きで、親鸞聖人のお弟子さん(註:河和田の唯円)が書いたという『歎異抄(たんにしょう)』という本を、それこそ暗記するぐらい読んだ。難しい言葉が並んでますから、聞いただけでは意味がパッとめませんけれど、一生懸命読むことで、どれほど元気をもらったことか…。この本の中で親鸞さんが―まあ親鸞さんが書いた訳ではない。お弟子さんが書いたんですけれど―、自身の言葉として「親鸞は、弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」という一節があります。

私は今日のご霊前で、この大恩師の目玉を見て「お前に師が語れるのか?」と言われた時に、ああそうか。私は、お師匠様と思っておったけれども、「お前は弟子になる資格がない。弟子と違う」そう言われたような気がしました。ご霊前に参拝させていただいて、大会までに休憩させてもらっておるほんの僅かな時間の出来事でしたけれども、私はそう思いました。今日は、もう『わが師を語る』という題は止めておこうと思った。代わりに、私の懺悔(ざんげ)を聞いてもらおうと…。ここまで来させていただいた、この道筋は、ひとえに大恩師親先生に包まれて、祈られて、私は、ようやっとここまで来させてもらったのですから…。

もう随分前のことですけれども、青森にある新宗教の教団の教主様と一緒に中国へ行ったことがありました。その機内で、私はその教主様とちょうど隣の席になりました。その先生は、学問的にも卓越しておられ、人格的にも、品行的にも素晴らしい先生…。その先生が私に「三宅君、君はお父さんのことを親先生と呼んでるな。それも、面と向かって親先生。信者に向かって親先生と言うのなら解るけれども、いろんな宗教の代表者が集まるような公の席でも、親先生と言っているな」とおっしゃった。私が「はい。そうなんです。そうとしか言いようがないんです。小さい頃からそうなんです」と答えると、「子供の時にお母さんがそう呼ぶように言うたんか?」と尋ねられました。普通の家ならば「お父ちゃん」とでも呼ぶところですが、母は一度も「歳雄さん」とも「あなた」とも呼びませんでした。その時分は「親先生」ではなく「先生」と呼ばれていましたが、子供の私にも「お父さん」ではなく「先生」と呼ぶように躾(しつけ)ました。それが今日までずーっと続いているのです。

小学校4年生頃に、各家庭の事情を調べるために『お父さん、お母さん』という題で綴り方―今は作文と申しますが―を書かされました。そこで私が「わが家にはお母さんは居るけれど、お父さんは居ない」と書きましたら、担任の先生がビックリしてすぐに家庭訪問に来られました。私はヤンチャでしたから「美智雄が学校でまた何か悪いことでもしでかしたのか?」と心配する母が奥玄関から出て応待しますと、担任の先生が「お宅にはご主人がいらっしゃらないんですか?」と尋ねられ、母は「いえ、主人は居ります」と答えました。「しかし、お宅のお子さんが綴り方で『お母さんは居るけれど、お父さんは居ない』と書いたので…」と怪訝(けげん)な顔をされる先生に、母は「済みません。家では主人のことをお父さんとは呼んでないんです。先生と呼んでいるのです」と説明しますと、学校の先生も「そうでしたか」とやっと納得された様子で帰られました。母はその一件について何も言いませんでしたが、今になって考えると面白いですよね。

私はよく親先生に叩かれました。親先生は怒られるとすぐにバーッと手が飛んでくるんです。その手が飛んでくる時に、母が私の上に体ごと覆い被(かぶ)さることがありました。そうすると、叩いた親先生の手は、母を叩くことになるんですね。母は私に「謝りなさい」と言って、私の横に母も座り、両手を着いて一緒に謝ってくれたのです。さすがに親先生もそれ以上はよう手を出せなかったようです。母はとにかく親先生のなさることは何でも受け止められました。

ですから、機内で一緒になったその教団の教主様に「私は小さい頃から父のことを『親先生』と呼び慣れているのです。他の言い方を知らないんです」と説明しますと、その教主様は「三宅君、君は幸せ者だよ。たいていどこの宗教でも教会でもお寺でも先生は居る。先生とは教える人。しかし、君のお父さんの場合は、先生の上に親が付いている。親とは「慈母」という言葉に表されるように子供を慈しむ存在。しかし、親として優しく慈しむだけでは「教えて仕込む」という先生の務めが果たせない。だから親先生とは、1人の人間が母親と父親の両方やっているようなものだ。そんな親先生を、君がどう頂けるのか…? その理由が『小さい頃から言い慣れているから親先生と呼んでいます』というだけでは困る」そのように教えられました。

長い道歩みの中で、私は大恩師親先生に優しく包んでもらった記憶はありません。とにかく「親先生」は怖かった。ご帰幽されて11年経った今でもそうです。しかし、ここまでお育ていただいて、仕込んでくださった親先生という存在がなかったら、今の自分はありません。だから、今度はその立場を頂いた自分が、人を祈り育て、仕込み成長させていかないといかんと思います。ご霊前の大恩師親先生が「お前に師が語れるのか?」と問いかけて来られたのは、裏を返せば「お前は1人でも人を育てているか? 真の意味で親先生になっているのか?」と、そうおっしゃったのだと思わせてもらいます。

今日のお話はだいぶひねてますけれども、私も、もう一度今日から再び一書生に立ち返り、新たに求道生活を始めさせていただこう。人を育てる、人を創る、人を仕込むというお役目を果たさせていただこうと思います。そうして、再び大恩師親先生のご霊前へ出て「今から親先生のことを申し上げます」と言ったら、きっと「そうか」と師を語らせていただくお許しが出ると思います。先はあまり長くはありませんけれども、死ぬまでにお役目を果たせるかどうか…。なんとかさせていただきたいと思います。


▼八十五年記念大祭を自分のお祭に

今、皆さん方のお話を伺っておりますと、さかんに「あと500日余で御布教八十五年」と申されておりますが、御布教八十五年というのは、「大恩師親先生が昭和2年の1月24日に泉尾の地で御布教なさって85年目になります」というのではないのですよ。そんなもの、ここに居る人は誰も知らない訳ですから…。そうでしょう? 私でも大恩師親先生が泉尾の広前にお座りになって5年目に生まれたぐらいですから、当然、ご布教当時のことは知りません。ですから、「御布教八十五年だから…」といって、知らんことをいくら言っても虚(うつ)ろなものですよ。それではまるで看板みたいなもので、記念大祭が終わると跡形もなくなくなってしまう…。そうではないはずです。

私は、この85年の記念祭というものは、私が大恩師親先生の霊様の前に座って「親先生。今から親先生のことを申し上げます」とお届けしたら「よし。そう言うてみよ」とお許しが出る。そのようなお祭でなければ、御布教八十五年記念大祭は嘘のお祭になってしまう。居眠りタイムのお祭になると思いますよ。今日ご参列の皆さま方には、各々ご家庭があり、立場がある。ご主人がいらっしゃる。子供さんもお孫さんもいらっしゃる。その前で「有り難う」と向こうが拝んでくれるような自分になることです。「信心というものは、そんなに有り難いものか?」と常々理屈を並べるご主人でも、思わず手を合わせて拝んでもらえるような自分にならせていただく…。その出発日が今日であるというふうに、私は思います。

先ほど、連合会長(親奥様)のご挨拶があったでしょう。私はその時、じっとご霊前を拝んでいたんです。25年ほど前でしょうか。私は必ず東京から毎月8日の月次祭はお参りをしていました。7月8日の月次祭にお参りしましたら、母が「ちょっとそこに座って聞いて」と言うので、「何ですか?」と私が座っている奥の十畳ぐらいの部屋の隅から母が歩いてきて、私の座っている前に立って頭を下げる。「どなた様も本日はおめでとうございます」と、挨拶の最初の部分からズーッと話をする。そして「有り難うございました」と挨拶が最後までゆくと「どうだった?」と感想を求めるんです。母は「この話を15日にするんやけど、私は人前で挨拶するのは嫌いやから」と言って「何処か悪いところはなかったか?」と尋ねます。「じゃあ、ここのところはこう直されたほうが…」と、いくらか原稿を直すと「じゃあ、もういっぺんやるから」と、再びお辞儀から始められる。私がご霊前に座っていますと、その母の霊様が、今日の連合会長さんのご挨拶を聞かれて「本当に安心した」という顔をしてらっしゃった。きっと、母は自分がここで挨拶をする以上に手に汗を握って心配していたことと思います。それをその前で、孫の嫁である連合会長さんが堂々と立派にご挨拶をされた。私は、それも霊様のお祈り添えあってのことだと思います。

今日は遠いところから参拝された方もあると思います。しかし、そのことは単に「私は参拝しました」と言うんじゃないのですよ。その参拝を一生懸命に心配して「電車に遅れないか」とか「ちゃんと歩けるように」とお祈りしてくださっている影の力、祈られている力あればこそ、させていただけた参拝であるということを解っていただきたい。きっと母の霊様は、今日の大会をきっと誰よりも自分のことのように手に汗を握って―特に私の話などは「何を言い出すんや」とヒヤヒヤしながら―聞いておられると思います。原稿も何もないのですから…。実は持って来たのですが、ここ(広前)へ来た途端に「お前に師が語れるのか?」と言われて全部すっ飛んでしまったのです。ですから、全部自分の思うままを申し上げているので、霊様は私以上にヒヤヒヤしてくださってると思います。

祈られてこそのわれ。思われてこそのわれというものを、皆さま方もめいめい自分の心に刻みつけて、今日からの新しいいのちを生きていただきたい。そして、85年のお祭を自分の祭にしてください。決して単なる教会の行事ではありませんよ。お装束を着けるのは親先生ではありません。(お参りするのは、そちら側からだったとしても)自分がお装束を着けさせていただいているつもりで、神様に出会う。神様と語る。この婦人大会を機に、そう頂いてもらえたら、私は大恩師親先生にも二代親先生にも親先生にも「よしよし」とおっしゃっていただけると思います。本日は有り難うございました。           

(連載おわり 文責編集部)         




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