求道会創立65周年記念 男子壮年信徒大会 記念講演
『森は海の恋人』
NPO法人森は海の恋人 代表
畠山重篤

2月13日、求道会創立六十五周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『森は海の恋人』と題して、「牡蠣の森を慕う会」代表の畠山重篤氏が記念講演を行った。宮城県気仙沼湾で牡蠣の養殖漁業を営む畠山氏は、その牡蠣が育つ海の環境を守るために、気仙沼湾に注ぎ込む大川を遡り、中流域の田園地帯や上流の室根山の森林まで結びつけた「流域」全体の自然環境を豊かにする活動をされている。本サイトでは、数回に分けて、畠山重篤氏の記念講演を紹介する。


畠山重篤氏

▼鎮守の森と鎮守の海

皆さん、こんにちは。私は今日、こちらの泉尾教会へは初めて参りましたけれど、大阪もどんどん自然が失われつつありますが、おそらく、上空から大正区を眺めると、この泉尾教会の境内地だけが、ぽっかりと空間が空いていて、緑の木々が茂っているのでしょう。木々が生えている場所があることによって、近隣の人々にどれだけ安らぎを与えているかは、実際にその場所を訪れてみると良く解るんじゃないかと思います。

私は、陸奥(みちのく)(東北)の気仙沼(けせんぬま)で牡蠣(かき)の養殖をしている一漁師なんですが、そのような者が、何故このような会にお招きいただいたのか、不思議に思っておられる方も居られると思います。数年前に社叢学会(しゃそうがっかい)という会から講演にお招きいただいたことがきっかけです。「叢(そう)」という字は難しい漢字ですが「くさむら」という意味です。日本の神社には、たいてい「鎮守の森」がありますが、世界のいろんな宗教の中で、森に囲まれた礼拝施設があるのは日本の鎮守の森だけなんですね。社叢学会とは、この「鎮守の森」について研究しておられる学会です。

関東の埼玉県にある秩父神社の宮司であり、京都大学の名誉教授で、神道界の重鎮でもあられる薗田稔先生という方が、この学会に居られるのですが、この方が、私が牡蠣養殖業者として海で働く男でありながら、長年、山に木を植える活動を続けていることを知られて、「鎮守の森をどう考えるかというテーマに、何か新しい解釈を加えることができるのではないか?」ということで、社叢学会が名古屋の熱田神宮で大会を開かれた際にお招きをいただきました。

そこで私は、「鎮守の森というものは、ただ単に、ある神社、あるいは、その近隣に住む氏子の方々との関係だけに留まらず、海まで視野に入れて鎮守の森が存在してるのだという考え方をしなければいけないんじゃないか?」といったことを、経験に基づいてお話させていただきました。皆さんも大都会にお住まいですから、日常生活の中で海のことまで視野に入れて物ごとを考えることはあまりないかもしれませんが、実は都会の真ん中に生えているこの泉尾教会の木々も、近くの海――大阪湾――と繋がっているんです。


記念講演中の泉尾教会広前

実際、日本列島を俯瞰(ふかん)してみますと、日本列島は南北に2,000キロ長く伸びた島国ですけれども、国土の真ん中に青々とした森林を乗せた脊梁(せきりょう)山脈――つまり背骨です――が貫いていますよね。そこから日本海と太平洋へ、二級河川も含めると21,000もの川が流れ込んでおり、国土の面積の7割は山(=森林)が占めている国です。私たち漁師の側からすれば、海藻や、貝類や、甲殻類や、魚といった海の生きものは、塩水だけで育っている訳ではないんです。山(森林)から流れてくる養分やミネラルが川を伝って海へと流れ込み、海とのコラボレーションで初めて海の生きものが育つということを、われわれ漁師はよく知っているんです。

この、日本の国土の7割を占めている山を日本全体の鎮守の森に見立ててはどうでしょうか? また、淡水と海水が混ざっている海域(=汽水域)が、日本列島の周りを取り囲んでいる訳ですが、これを鎮守の海に準(なぞら)えてみてはどうでしょうか? この鎮守の森と鎮守の海をしっかりと守ってゆけば、日本という国は食いっぱぐれることはないということなんです。面白いですね…。森と海の間の平野部に人間の生活が横たわっている訳です。

私たち漁師は、川の流域の子供たちを海に呼んで環境学習をずっと続けているんですが、これは私たちがやっていることが単に山に木を植えることだけが目的なのではなく、川の流域に住んでいる人間の心の中にも木を植えなければならないからです。それが、私が時々宗教界の方々に呼ばれて話をするようになったきっかけです。

やはり、川の流域に住んでいる私たちが「自然を汚さないように。少しでもきれいにしよう」という気持ちを持たないと、山に木だけを植えても、海辺のゴミ拾いだけをしても、自然環境は根本から良くならないということなんです。その他にも、2005年に名古屋で開かれました「愛・地球博」におきまして、森林をどうやってきれいに育(はぐく)むかということもあり、社叢学会では『森に生きる日本文化』をテーマに、森林の保護や育成について出展されました。先ほど、こちらの金光教様も宗教界に呼びかけて(註:IARF日本連絡協議会が中心となって『こころの再生・いのり館』というパビリオンに)出展されたと伺いました。そんなご縁で、神社庁の集まりだとかに呼ばれる機会が増えてきまして、また、昨年、秩父神社で開催された神道国際学会の記念シンポジウムで、こちらの総長様と知り合う機会を得まして、今回お招きいただいた次第です。


▼河口から上流まで自分の目で確かめる

皆さんが、東北地方の暮らしをイメージすることは、なかなか難しいかもしれません。また、われわれ東北に暮らす者にとっても、関西をイメージすることは難しいんです。何しろ、1,000キロメートル離れていますからね。昨日、こちらへ伺う前にも、朝起きると雪が20センチ以上積もっており、予定していた仙台空港は飛行機が飛ばないという訳です。そこで、遅刻することがあってはいけませんから、前日のうちに、私の住んでいる宮城県の気仙沼から車で2時間かけて、最寄りの新幹線の駅である岩手県の一関駅まで出て、新幹線でまず東京まで辿り着き、次は飛行機で羽田から伊丹空港まで移動し、そこからリムジンバスに乗って宿泊先の難波のホテルに到着したのは、夜遅くという有り様でした。それぐらい離れているんですね、気仙沼と大阪は…。こちらに着きますと、本当に暖かくて非常に驚きました。

「牡蠣の養殖」というと、皆さんでしたら真っ先に、大阪から近い広島を思い浮かべるでしょう。大阪の人は食い道楽ですから、牡蠣はよく召し上がると思いますが、食堂街を覗いていると、近頃は牡蠣の入ったお好み焼きなんていうのもあるんですね。広島は、日本一の牡蠣の産地ですが、あのような、(あまり新鮮な海水が入れ替わらない)瀬戸内海の奥のほうで、日本の牡蠣の生産量の6割がよく獲れるものですね。何故、そんなに獲れるかというと、広島湾は、太田川という川が流れ込んでいるからなんです。太田川は、上流へ行くと、島根県境のブナ林などの豊かな森林があります。この森林の豊かな養分が、太田川を通って広島湾へ流れ込んでいるからなんです。ですから、川が流れ込んでいない塩水だけの海では、牡蠣はまったく育たないんです。

私たちの気仙沼は漁業の盛んな町ですが、大川――小さな湾ですから、たった25キロの二級河川ですが――という川が流れ込んでいます。私の親父の代から牡蠣養殖の仕事を始めまして私が二代目。現在は、三代目の息子たちが跡を継いでくれていますが、四代目を継ぐべく孫も4人生まれました。跡取りとなる孫は現在小学校3年生ですが、私はその孫に「お前はお父さんの仕事の跡を継いでも大丈夫だよ」と、励ましているところです。しかし、現在、日本の漁業や林業で「うちの家業を継いでも大丈夫」と孫に言えるおじいさんはどれだけ居るかと考えると、今は非常に難しい時代だと思います。しかし、私は確信を持って孫にそう言える訳です。

実は、私たちの海も今から約40年前ぐらいまでは、赤潮(註:有害植物プランクトンの異常発生)で海が汚れていたことがありました。海が赤くなると、牡蠣も赤くなるんです。通常サイズの牡蠣ですと、呼吸のために1日にドラム缶1本(約200リットル)ぐらいの水を吸って吐いています。水中には顕微鏡でないと見えないようなプランクトンが一杯含まれるんですが、牡蠣は海水と一緒にプランクトンを吸い込んで鰓(えら)で漉(こ)すことによってプランクトンを取り込み、あの美味しい牡蠣ができるんです。ですから、有害な赤いプランクトンが発生しても、牡蠣は食べたいプランクトンだけを分別して吸い込むことができず、それも同様に吸い込んで食べてしまう訳です。そうすると、この胸の徽章(リボン)の色のように赤い牡蠣になってしまうのです。牡蠣は本来白いものですし、日本人は特に色に敏感ですから、赤い牡蠣などとても気持ち悪くて食べられません。われわれ気仙沼の牡蠣は、東京の築地市場に出荷するんですが、すべて廃棄処分にされてしまうような時代がありました。

そういう状況が続いて、「もうこの仕事も駄目だな…」と諦めた漁師は、陸(おか)に上がってタクシーの運転手や土方(どかた)を始めた人も大勢います。そもそも、漁師は転業できるような性質の商売ではありません。私も一時期諦めかけたことがありましたが、子どもの頃から海に親しんでいたので、海の生きものとの生活しか考えられないんです。仲間に話すと「畠山さん、実は俺もそうなんだ」と言う…。「なんとか、赤潮にまみれた海を、もう一度、元の青い海に戻すことはできないものか?」と、しばらくは酒を飲んで管(くだ)を巻いていました。

いったいどうすれば良いのか? その原因は何なのか? 太平洋の沖のほうから赤潮がやって来るのではなく、原因は必ず内側――人間の側――にあるはずです。大阪湾にしても同じでしょう? それまで漁師は、海ばかり見て背景(陸)を見ようとしていなかったんですが、私はそこで、生まれて初めて気仙沼湾に注いでいる大川の河口から上流まで歩いて行って、自分の目で確かめてみました。大阪の皆さんでしたら、淀川の河口から琵琶湖まで歩いてゆけば何が見えてくるかは一目瞭然です。その中には、こちらの泉尾教会も含めた人間模様が横たわっている訳です。

まず一番河口部の気仙沼市は、水産の町で魚が一杯獲れますから、缶詰などの加工工場がありましたが、当時は缶詰工場の排水規制がなく、魚を煮た汚水がどんどんそのまま海へ流されておりました。海岸の石垣には、こびりついた魚の脂が腐って真っ黒になり酷い臭いがしていました。科学的な理屈は解らなくとも、誰だって「こりゃあ駄目だな」と何となく思います。当時はまだ、洗濯機、冷蔵庫、テレビ―本日の会場には私と同年代の方も多く居られるようですから家電の「三種の神器」もお解りいただけると思いますが―が憧れの的だった時代です。それまで、洗濯物は洗濯板でゴシゴシ洗濯して、台所でも灰など自然のものを用いて食器を洗っていたのが、便利な化学洗剤ができて、それを大量に使用するようになりましたから、川底を見ると真っ黒なヘドロが溜まっていました。

もう少し上流へ遡っていきますと、大川の中流域は水田地帯です。私のお袋の実家が農家だったので、私も子どもの頃は田植えの手伝いによく行っておりました。当時の田んぼは、ドジョウやゲンゴロウやフナやアオダイショウといった、いろんな生きものがいて、実に賑やかでした。ところが、久しぶりに田んぼを訪れてみると、シーンと田んぼが静まりかえっていました。レイチェル・カーソンという方が『沈黙の春』という有名な本(註:1962年に出版されたDDTの残留性や生態系への悪影響を指摘し、世界的な禁止運動に発展した著作)を書かれましたが、まさにそんな世界です。

そこで草刈りをしている方に話を聞きますと、今でも農薬や除草剤を撒く前は、田んぼにも生きものが居るんだけれど、残念ながら(農家は年寄りばかりなので)今は手で草取りをする訳にもいかず、農薬や除草剤を撒けば生きものが死ぬことは判っているんだが、やらざるを得ない。兼業農家として土曜や日曜だけ百姓をやっている方は、週末にどんどん化学肥料を撒いてしまう…。「なるほど!」と思いました。海で働いてきた私は、これまで農家の方と話し合う機会はほとんどなかったんですが、「海の問題を解決するためには、農家の方とも話し合わなければならないな」となんとなく思いました。また、牛や豚といった畜産の現場から出る糞尿も、すべて川を通って流れている情景も見ました。

それから山へ行ってみました。皆さんもご存知だと思いますが、昔は里山といえば、ご飯を炊くのも暖房するのも薪や炭を使って生活していましたが、それらが石油やガスに取って代わりました。それまでの里山の雑木林といえば、今で言う油田のような存在(エネルギー源)でしたから、雑木林を多く所有している「山持ち」は「金持ち」だった訳です。ところが、材木が売れなくなったことで、里山は「役に立たないもの」に位置づけられてしまいました。林業をやっている人々は、そのままで山を所有していてもお金にならないから、何かお金に替わる木を植えなければならない。当時、国が拡大造林政策を進めていたことも重なり、どんどん里山の広葉樹は切り倒され、代わって建材用の杉や檜といった針葉樹が植えられました。

みんな「杉さえ植えればお金になる」と言われて、夢中になって杉を植えたんです。これは日本全国、和歌山へ行っても、四国へ行っても、九州へ行っても、何処へ行っても「よく、あんなところまで植えたな(註:日本の森林の20パーセントが杉林)」と思うほど山のてっぺんまで杉を植えています。杉を植えますと、最初の何年間かは雑草に負けないようになるまで下草刈りをする必要があります。ある程度、成長すると杉林の陰になって下草が生えなくなりますが…。杉の苗木は最初、1町歩(約1ヘクタール)に約3,000本(すなわち、苗木は180センチ間隔=1坪に1本の割合で植え付ける)ですが、20年も経つと間伐しなければなりません。この杉の間伐材は、当時は、工事現場の足場として使われるなど、すごい需要があったんです。今でも、中国へ行くと、よく工事現場の足場を竹で組んでいるのを見かけますが、あれと同じです。

しかし、その後の貿易の自由化や為替の自由化の影響を受けて、1ドル360円だったのが100円になり、外国からどんどん安い木材が入ってくることで、「日本の木材は総体的に高い」ということになって、売れなくなってしまったのです。国内で売れなくなったからといっても、もともと間伐することを前提で杉を植えていたので、どうしようもありません。私たちは、牡蠣の養殖の筏としてこういった杉の長木を使うんですが、今、海まで到着した木材が1本1,500円ぐらいで買えます。しかし、ここへ来るまでの杉材の運賃や切り賃をさっ引くと、山主の収入は1本たった300円です。20年育てても300円では煙草ひとつ買えない訳で、まったく割に合いません。割に合わないから「放っておけ」となります。

では、間伐を行わないとどうなるか? 枝と枝が混んできて、根元に陽光が入らない。光が入らないから、下草も生えない。その状態で雨が降ると、表土が流出してザーッと赤土が川に流れ込んできます。せっかく造ったダムも土砂であっという間に埋まっていきます。ですから、海で牡蠣の養殖のような仕事をしていると、川の流域のことが全部判るんです。
            

▼海と山は繋がっているという発想

「じゃあ、どうしようか?」こんな問題にわれわれ漁業者だけで解決策を見出すことは到底難しい。「これは当然、行政の仕事じゃないのか?」と思いました。私は当時、行政の仕組みについて詳しくなかったんですが、「まずは行政に相談してみよう」ということになりました。ところが、日本の行政システムは、皆様もよくご存知のとおり「縦割り行政」そのものなんですね。海は海、農地は農地、町は町、山は山、川は川とすべて担当セクションが異なります。例えば、海のことだからと水産試験場などを訪れますと、「われわれは海のことだけ任されているのだから、同じ農水省所管の第一次産業である農地はもちろんのこと、ましてや山のことなど絶対口を出すことなどできない」と言うんです。じゃあ、誰に相談したら良いのか? 川を管轄する国交省の出先機関へ伺いますと、彼らは、ダムや河口堰といった川に関わる工事を担当していますが、「環境アセスメントをする時に、われわれは河口から内側(陸側)については責任を負っていますが、海は管轄外です」という訳です。「ああ、そうですか…」海と繋がっている川を管轄する行政でもこの調子ですから、農地や山を担当している行政に海に関わる話をしても相手にされません。結局、縦割り行政システムの中においては、行政を相手にしてもまったく埒があかないということなんです。   

では、学者はどのように考えているんでしょうか? われわれの近くに東北大学がありますので「東北大学で、森から海までがどういう風に繋がってるのかを研究されている方がどなたか居られないでしょうか?」とお尋ねしてみたところ、たまたま私の知り合いで土壌学という土の研究を専門にしておられる方にお話を聞くことができたんですが、彼は「畠山君、今は学問の世界は『狭く、深く』という時代になってるんだ。そうしないと論文を書けないんだ」と言うのです。学者の世界は「論文を書いてなんぼ」です。ですから、山から海に至るまで人間の生活があって、それらがどのように繋がっているのかを研究をしようと思ったら、どれだけの月日がかかるか判らないし、金もいくらかかるか判らない。だから「誰もそんな学問はやらないよ」と言うんです。

大学も行政もあてにならないとなると、どうすれば良いのか? これは三十数年前にあった本当の話なんですけれども、こういう場に私は立たされた訳なんです。ですから、「これが解決しなければ漁師の生活は結局できなくなる」と思いました。今、日本の沿岸域の海が何処へ行っても疲弊しているのは、結局、「海は海だけでは完結できない」という問題と繋がっているからなんです。岸和田の漁師たちの中にも私の知り合いがいるんですが、皆、同じような思いを抱いているということです。しかし、われわれ漁師たちには力もないし、金もないし、知識もないと悶々と悩んでいたんですが、何かやれば、少しは助けてくれる人も出てくるかもしれない。そんな時に「海で働いて牡蠣を養殖している漁師が山に杉林ではなく雑木林を造る」というアイディアが閃(ひらめ)いたんです。

実は、昔から漁師は海へ行く時は山を見るんです。今はGPS(註:カーナビなどにも用いられる複数の人工衛星を使った全地球測位システム)などの機器を使うことで船の正確な現在地を掴めることができるんですけれども、昔はそんな機器はありませんから、自分の位置を調べるために山を見るんです。「山測り」というんですが、これは一点ではだめで、三角法(註:目印となる山頂などと自分の手元の基準点とを結んで、相似する三角形の組み合わせにより、自分の現在位地と標高(海面上の場合は標高はゼロ)を求める伝統的な測量法)で必ず3点みるんです。すると「ああ、今自分はここに居るんだな」と判ります。天気予報も、山を見て雲がかかっているか、雪が飛んでいるか、風が吹いているかとか、とにかくいろんなことを山を見ることで情報を得ていました。

そんな経験から「あの山に私たち漁師の何か目印になるような雑木林があればいいな」というアイディアを私はなんとなくイメージとして持っていたんですが、それを仲間に言ったら「ああ、それは良い」と…。仮に山で働いている人が山に木を植えても何のニュースにもならないけれど、海で働いている漁師が山に木を植えたら、何かしらニュースになるんじゃないかというような考えもありました。「まずはとにかくやってみよう」ということで始めました。


▼何かことを起こすにはスローガンが大切

それから、何かことを起こす際にはスローガンが要りますよね。本日のような大会をする時も何かスローガンを創られると思います。仲間から「言い出しっぺのお前が考えろ」と言われ、私も寝ないで考えてみたんですが、最初はなかなか良い言葉が出てきません。「ワカメも牡蠣も森の恵み」というのが私が一番最初に考えたスローガンですが、周りの者は「何だかお経みたいだ」とか「人の心を動かさない」と言います。それで「もう1回考えろ」と言われ考えてみましたけれど、なかなか浮かんでこないんです。「何かことを起こしたければ、言葉の世界においても何かやらなきゃいけないのか…」と思いつつも私は素人ですからね。私のオジは大川という川の中流域に住んでいるんですが、オジはいつでもこんなことを言っていました。「現在は、沿岸部のほうが遠洋漁業が盛んになったおかげもあって経済的にも豊かになったけれども、昔は山手のほうが経済的にも豊かだった。山には木もあるし、米もあるし、繭もあるし、屋根を葺(ふ)く茅もある」山に暮らす人のほうが海に暮らす人よりも豊かだった。豊かだったということは、文化度も高くてですね、文人墨客といいますが文化人もたくさん住んでいました。「熊谷武雄という気仙沼を代表する歌人の歌碑が宝鏡寺というお寺にあるから、それをちょっと見に行こう」と誘われて行きました。


畠山重篤氏の講演に熱心に耳を傾ける求道会員たち

歌碑には「手長野に木々はあれどもたらちねの柞(ははそ)のかげは拠るにしたしき」と刻まれています。手長山という山は、気仙沼の背景にあり、いろんな木々があるんですが、「たらちねってなんですか?」と尋ねると「垂乳根(たらちね)も知らないのか。たらちねっていうのは、お母さんをヨイショする言葉だ。和歌の世界では万葉の昔から使われてるんだ。たらちねの母なんていうのは有名な言葉じゃないか」と言われました。私は、そんなことも知りませんでした。そして「柞(ははそ)ってなんですか?」と尋ねると、「お前、万葉集なんかよく読んでないのか?」と聞かれたので「そんなもの読んだこともありません」と答えると、木へんに作文の作の右側を書いて柞(ははそ)と読むが、これは万葉集にも多く出てくる言葉で、ナラやクヌギの木の古語だと教わりました。また「よる(拠る)」は昼夜の「夜」ではなく、「近寄る」という意味です。

ですので、最初から通読すると「手長山にはいろんな木々があるけれど、ナラの木の林の中に入るとお母さんの傍へ行ったように心が休まる」という意味で「たらちね」と「柞」は「母」にかけているんですね「役立たず」と思われていた雑木林を、自然界の母に準(なぞら)えている訳です。手入れがされておらず真っ黒な杉山や、川を汚す人間や、農家の人にもいろんな問題があります。しかし、そんなことをしていると海が駄目になるということを、昔の人は知っていたんでしょうか? 私は「ああ、そうか。それならば、漁師が山に(建材になる)スギ・ヒノキではなくナラやクヌギやブナなどの雑木を植えるということには意味があるな」と思いました。「では、その熊谷武雄の家は、現在はどうなってますか?」と尋ねると、今はもうすでにお孫さんの代になってるということでした。

孫の熊谷龍子さんは今でも歌を詠んでおられて、東京から早稲田大学を中退した婿をもらって、林業や農業に取り組みながら、今でも歌を創り続けておられます。私は一大決心をして、その方に会いに行きました。「私は、漁師の生活をしているけれども、漁師が山に木を植える運動をしたいので、なにか協力をしてもらえませんか?」と尋ねてみました。彼女は「私は山手に住んでいて海岸付近に親戚もいませんし、柞の森に降った雨が川に流れていって海の植物プランクトンを増やし、牡蠣の餌になっていると言われても、何も解りません」と言うんです。そこで私は「じゃあ、とにかく一度海に来てください」と言って、彼女を海に招待しました。

牡蠣の養殖筏の場所へ連れて行って「牡蠣をごちそうしましょう」と言って、牡蠣殻の蓋を開けようとしたら、彼女は山の人ですから「この牡蠣の殻の中に牡蠣が何個入ってるんですか?」と尋ねました。彼女はエンドウ豆みたいに牡蠣が5つぐらい並んで入っていると思われたんでしょう。人の感覚とは、海からちょっと離れただけで、そういうものなんですよ―私は今までに体験学習で子供を1万人もわが家に呼びましたが、学校の先生にもその手の先生が多いです。自然というものを何も知らない先生も多いということですが、それも仕様がないです―。私は「いや、この中に牡蠣はひとつしか入っていません」と、海水で洗って実際に食べていただきました。彼女は「こんなに美味しいものを食べたのは初めてだ」と感激して言う訳です。そして、この牡蠣は柞の森に降った雨が川に流れて、植物プランクトンが増え、それが餌になってるということが体験を通して分かるんですね。

そして「今まで私は山から海を見てたんですけれども、海側から山を見るというのは初めての経験だ」と言いながら、歌詠みのインスピレーションがわーっと湧いてこられたんでしょう。やがて一首の歌が生まれ、送ってこられました。この歌は中学3年生の国語の教科書に載っておりますし、実は大学の入学試験にもなっている歌なんです。「森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく」という歌ですが、私の創った「ワカメも牡蠣も森の恵み」とはえらい違いな訳です。「ああ、やっぱり何かことを起こすには言葉を勉強しなきゃいけないな…」と、私は目覚めさせられました。やがてそういう交友の中から、今日のタイトルにもありますように「森は海の恋人」という言葉が生まれてきた訳です。普通、何かスローガンを創るといいますと、コピーライターという専門家が創るんですが『森は海の恋人』というタイトルは、東北の歌人の家系の中から生まれてきた100年のエッセンスが詰まった言葉なんです。この活動を始めて今年で23年になりますけれども、「森は海の恋人」という言葉は全く色褪せないで、今でも人々の心を鷲づかみにしています。私はそのことを経験から学ばさせていただきました。


▼木を植えることは人を育てること

そして、平成元年。「漁師が山に木を植える」という漁師の行動ですから、まずは山に大漁旗をいっぱい立てて木を植えました。緑の背景に大漁旗を立てたものですから、マスコミの方々も皆驚きました。これは効果がありましたね。そして全国報道になり、全国からいろんな問い合わせがきました。金光教の先生が来られなかったことは残念ですが(会場笑い)、京都のある有名なお寺のお坊さんから「畠山君、よくぞ『森は海の恋人』と言ってくれた!」と言われました。確かに日本という国は、工業的には成功を収めて、洗濯機も手に入れ、テレビも手に入れ、冷蔵庫も手に入れ、高速道路も新幹線も手に入れたけれども、その代償として自然に負荷を与えてしまった。今の中国もそうなんですが…。目の前を流れている川を見ていると、本当に顔を背けたくなるような川になっていますし、特に河口付近へ行ってみますと、川の流域から流れてくるゴミやら何やらで本当に酷い状況です。私は多くの問い合わせから、「こんなことでは、日本という国はいつまでたっても一等国にはなれない。何らかの形で、取り戻さないといけない」と思っておられる心ある方が大勢居られるということを実感しました。

東北の寒村から始まった『森は海の恋人』という運動は、全国から注目され始めました。でも私は、それだけでは駄目だと思っています。森は苗木をどんどん植えれば育っていきますが、問題は、川の流域に住んでいる人々―これは行政も含めてですが―の心です。人々の心に木を植えなければいけないと思った時に、私は「これは教育に結び付けることができるな」と、パッと思いつきました。そして、すぐに川の上流の小学校に行きまして、校長先生にそういう話をしてみました。「先生、川の上流に居て、日常の生活の中で海のことを思うのはどういう時ですか?」と尋ねてみました。

この記念講演の約1カ月後の3月11日に、東北地方を襲ったマグニチュード9・0の巨大地震と大津波によって、畠山重篤氏の地元気仙沼市は死者・行方不明者2,200名(4月5日現在)を出した。

3月28日付の朝日新聞の報道によると、地震発生時に海辺の作業場に居た畠山氏は、三歳の孫さんを抱えて気仙沼湾の対岸にある高台の自宅へ駆け上がり、息子さん夫婦や孫さんなど同居する家族十名はいのち拾いしたが、市内中心街の老人ホームの二階で暮らしていた実母は、津波にのまれて死亡。

今回の津波で、70台の養殖筏、五隻の漁船、作業場、作業機械など所有していたほぼ全てを失われた。


「そうですね、寿司屋に行った時に(海のことは)ちょっと思い出します」(会場笑い)という答えが返ってきました。皆様はいかがでしょうか? 日常生活の中で、海のことを思う時がありますか?「では、子供たちはどうですか?」と教室で聞いてみますと、ほとんどの子供が―海からたった二十数キロしか離れてない学校なんですが―「1年に1回海水浴に連れて行ってもらう時だけ」という子がほとんどでした。「これは駄目だ!」と思いまして「じゃあ校長先生、私が海に招待しますから、子供たちを海へ連れてきてもらえませんか?」と提案しますと「それは願ってもないことだ」と、忘れもしませんが、平成二年に森林組合のバスに乗って子供たちが海にやってきました。

私は仲間と相談して、子供たちに養殖の仕事を体験させたり、海に連れて行っていろいろなものを見せたり、牡蠣やホタテ貝を食べさせたりと、いろんなことをさせようと準備や段取りをして子供たちを迎えました。「海へ行ける!」ということで、子供たちの目はキラキラしていました。それを見ただけで「これは善いことをしているんだな」ということが判りました。そして、いろいろな養殖の作業を体験させながら子供たちを船で海へ連れて行き、牡蠣の種を縄に挟んで海にぶら下げる作業などを実際にやらせていると、やがて子供たちから「餌はどうするんですか?」と質問が来ました。養殖ですから、魚の養殖と同じで餌をやっていると思っているんでしょう。

私は「いや、牡蠣の養殖は牡蠣の種を海中にぶら下げさえしておけば、ひとりでに大きくなる」と答えると、「それはおかしいと思う」と言います。農家の子供たちにしてみれば、米を育てるにも野菜を育てるにも林檎を育てるにも肥料と農薬を蒔かなきゃいけないし、家畜には毎日餌をやらなきゃならない。「餌は要らない」と言うと、非常に怪訝(けげん)な顔をしている。そして「漁師さんは泥棒みたいですね。漁師さんは何もしないでただ獲るだけ」と言うのです。私は「なるほど、巧いこと言うな」と思いつつ「だから、われわれは泥棒と言われるのが嫌だから、今日やれることをやっているんだ」と答えました。

牡蠣を食べさせたり楽しいこともいろいろ経験してもらい、室根山が見えるところまで船を出して「あそこの山や森に降った雨が、川を通ってこの海まで来るおかげでプランクトンが殖えて、こういう海の生きものが育つんだよ」という話をしますと、子供たちは納得するんです。また、「プランクトンネット」というプランクトンを取る網があるんですが、それを海へドブンと入れて引き揚げてコップに入れて見せて「水の中にはこんなモヤモヤチクチクしたものが一杯います。牡蠣は毎日これを食べているから、君たちもちょっと牡蠣の身になってこれを味わってみないか?」と言ってプランクトンを飲ませるというアイディアも生まれました。「川の上流に住んでいる男の子が、学校に着く前にトイレを我慢できなくて川で立ちションをした場合、おしっこがここまで流れてくる。海に流れてきたものを最初に体の中に取り込むのはこの植物プランクトンだよ」という話をすると、子供たちはその状況をさっと頭の中に取り込む訳です。学校の先生方からも「生きた授業で羨ましい」と言われます。


▼小さな運動が世の中を変える

そうしていろいろ経験して家へ帰った子供たちから、やがて感想文が送られてきます。これは私の宝物になっていて、今でも大事にとってありますが、例えば「私たちは、畠山さんのところに体験学習に行った次の日から、朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました」と言うんです。昔は頭なんてそんなにしょっちゅう洗いませんでしたが、今の子供たちは朝シャンといって、朝から頭を洗うんですね。「こういった化学物質は、海のプランクトンやさまざまな生きものにとって良いものは何もない」という話を覚えていたのでしょう。実際に使う量を半分にしたかどうかは判りませんが、とにかくそういうことから注意しはじめたということです。

他にも、5年生の女の子は、油物の料理の皿をお母さんが洗う時にたくさん洗剤を振りかけていたそうなんですが、その女の子が「お母さんそんなに洗剤を振りかけると、最終的に、この台所の排水は海まで流れて行って、海の生きものの中にその化学成分が溜まって、結局、最後は人間に返ってくるんだよ」と話をすると、「じゃあ洗剤を使う量も決めましょう」となり、それからなるべく自然界で簡単に分解する洗剤を使うことになったそうです。女の子が親に頼んだことがきっかけとなって、農家のお父さんが農薬や除草剤を止めたり減らすようになる。最初は少しからでも良いんです。

スタートは、自分の親も川の上流で農業をやっているが、「海のことまで考えて百姓をやる」なんて考えたこともなかった。たった人口6,000人の小さな村ですけれども、そういった子供たちを対象にした体験学習をきっかけに、川の上流でそういう農業をすると海に迷惑がかかる。海に迷惑がかかると、海の魚貝類や海草類が取れなくなる。そうすると、ご飯のおかずが減るから米も売れなくなるんじゃないか。「それなら、合鴨農法など、なるべく農薬を使わない農業をしよう」という動きなどもだんだん広まってきました。

また、上流にある村では、「環境保全型農業に切り替えていこう」とか「これまで山に杉ばかり植えてきたけれど、やっぱり雑木林も大事にしていかなければいけない」といったようなアイディアが交流の中で生まれたりと、今度は親から行政へと伝わっていくんですね。そういうことを23年間続けてきた中で、活動自体が非常に熟成されてきたように思います。

これまでに川の流域に住んでる方々や子供たちを1万人招いて、教育や流域の交流にずいぶん取り組んできた結果、流域に暮らす人々がだいたい同じような気持ちを持てるようになってきました。行政もそれまでは知らんふりをしていたんですけれど、実はこういった考え方が、教科書に取り上げられることになったんです。原点はたった25キロの川と森と海の関係なんですが、日本列島に流れている2万1千本の川の流域で同じような意識や考えを持つことができれば、日本という国が蘇(よみがえ)ることを示唆している…。そういうことに気付いた訳です。一度、皆様もお孫さんに聞いてみてください。今、小学校5年生の社会の教科書に、『森は海の恋人』という運動が出ていますから、学校へ行けば必ずこのことを勉強しなければいけないことになっています。

神社の神職の方々も、「鎮守の森」というものを考える時、それは確かに自然界の森だけれども、人の心の中にも鎮守の森をつくらなければならないと思います。つまり、宗教という立場に立っている方々もそういう大事な役目を担っているということだと思います。このところ地球温暖化の問題や食料問題といった、先行きが駄目になるような話ばかり続いていますから、皆様も不安があると思うんです。しかし、森と川と海の関係をなるべく自然に近いように戻してさえやれば、これはこれでまた新しい産業を生むんです。例えば、ダムの問題も、今までは川を全部堰き止めてしまった結果、森の養分がダム湖で全部溜まってしまっています。ところが、技術的にダム湖に溜まっている養分を何とか海まで運ぶようなダムの設計をできないものか…? そんな技術は世界に通用する技術になると思います。

ですから、今、私は国交省や農水省の方が集まる所に積極的に働きかけをしています。これまで「自然を守る」ということは、何かの開発計画に対して反対するような意味合いにばかり取られてきているんですが、違うんです。私は、これは新しい日本の新しい産業革命にもなるということだと思います。日本の国内を流れる2万1千本の川を、なるべく自然に近い形に戻してやると、海は黙っていても蘇えってきますから、魚貝類や海草類が一杯取れるんです…。


▼森と川と海さえ守れば

現在、私は農林水産省の政策評価第三者委員会の委員になっているんですが、時々霞ヶ関の農水省へ行って―大きなポスターが貼られているのを見かけた方も居られると思いますが―「食料自給率をどう向上させるか?」といった話し合いをしています。つまり、逆から言うと「お米をどうやって食べるか?」ということなんです。米が余っているので何とかしなければならないから「学校給食でご飯を食べさせよう」とか「自衛隊にも協力してもらう」とか、そんな話ばかりになりがちです。

しかし、私は「それはおかずが悪いんだ」と言っています。ご飯を食べるようなおかずといえば、肉も良いですが、肉ばかりだと飽きてきます。そうなると海のものじゃないですか? 海草魚貝類が豊富に出回れば、黙っていても日本人は米を食べるようになると思います。寿司屋へ行って高い寿司を食べたとします。例えば、500円の寿司を食べたとします。米代はいくらだと思いますか? たった20円ですよ。シャリ代なんて本当にしれていて、上に乗ってるネタが高いんです。寿司のネタは全部海の周辺で取れるんですから、森と川と海の関係をちゃんとすれば、畜産や農業のように餌や肥料も要らなくて、何もしなくてもお米を食べるような国になるんです。ですから、沿岸域の海さえちゃんとすれば日本の食料問題は解決されるんです。そして、肉に偏った欧米型の食生活を止めて魚中心の伝統的な日本食を摂っていけば、結局メタボなどといった健康問題にも通じる訳ですから、医療費もかからなくなります。

それからもうひとつ。地球温暖化防止の観点からCO2問題が取り沙汰されていますが、陸の森林が炭酸ガスを吸って酸素を吐く。つまり、二酸化炭素や水素を蓄えてこれを炭水化物として固定化しているのですが、これは「森林は陸だけではなく海にもある」ということなんです。森や川の養分は海に流れていきますと、植物プランクトンによって海の周りで海草が殖えます。実はこれも、炭酸同化作用(光合成)をしているんです。大気中に含まれている二酸化炭素の50倍の二酸化炭素が、実は海水の中に溶け込んでいるんです。海の中には炭酸ガスが大量にあって、これを光合成によって酸素と食べ物になる炭水化物に換えてくれているのが海の植物群なんです。現在、私は京都大学の研究に関わっているんですが、研究によって、日本の森と川と海の関係をちゃんしてゆけば、日本国の周りに生えている植物プランクトンや海草の森が、日本が排出しているCO2を全部吸収する力があることが判ったんです。「森は海の恋人」なんて、何だか恥ずかしいスローガンですが、この言葉には凄い意味があったということなんです。

今日はあまり時間がありませんから詳しいことは何も話せませんでしたが、また機会を与えていただければ幸いです。学問の世界においても、従来の大学は縦割りで「狭く深く」なんですが、7年前に京都大学は大決心をされて、林学から水産までの学部をひとつにまとめ、「京都大学フィールド科学教育研究センター」を創りました。そして、世界で初めて「森里海連還学」と言う学問が京都大学から生まれました。部分的な専門家の先生は全部居られますが、この分野をトータル的に見ることのできる先生が居ないことに気がつき、わざわざ京都大学から、林学、山、河川生態学、水産学の先生たちが三陸の私のところにまで来られて、「畠山さん、時々京都大学に来て学生にあなたの経験談を話してほしい。C・W・ニコルさんという作家がおられますが、この方は山で学生たちを実習させていますから、ニコルさんとあなたに「社会連携教授」という―単なる称号ですが―辞令を出しますから、ぜひ京都大学に来てください」と言われまして、7年前から年に何回か京都大学に来て話をしています。おかげで、私は東北人ではありますが、関西通になりました。和歌山にも京都大学の瀬戸臨海実験所がありますが、ここもフィールド科学教育研究センターの拠点になっています。

日本という国は、森と川と海をちゃんと管理さえすれば大丈夫です。マイナーなイメージばかり先行していて不安感があるかもしれませんが、ぜひ「自然の関係をしっかりしてゆけば、日本という国は大丈夫だ」ということも覚えていただいて、これからの生活をしていただきたい。そして、子供たちや孫たちにもそういうことを伝えていっていただければと思います。本日はご清聴有り難うございました。

               (連載おわり 文責編集部)


戻る