7月15日、創立八十三周年記念婦人大会が開催され、約800名の婦人会員が全国から参加した。大会では、長年にわたって、インドネシア、ベトナム、韓国などで現地調査をされてきた文化人類学の合田博子氏を講師に迎え、『震災でどう変わる日本の家庭』と題する記念講演を行った。本サイトでは、数回に分けて、合田博子氏の記念講演を紹介する。
合田博子氏
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▼文化人類学って何?
ただ今、ご紹介に与りました合田博子と申します。今から40分間程度、お話しさせていただきたいと思います。ご丁寧な紹介を頂いたんですけれど、もう少しざっくばらんな自己紹介から入って、今日の講題に繋げていきたいと思います。
今、ご紹介いたいだた内容にもございましたが、私は、この3月まで、姫路にあります兵庫県立大学で教員をしておりました。65歳で定年になりましたが、今、希望していることは、できるだけ仕事といきいきした生活のバランスのとれた生活既望―ワーク・ライフ・バランスといいますが―を取り戻したいと思っております。実は今、大学はいろいろと変革の時期でありまして、定年直前の忙しさたるや、本当に寝る暇もないほどでした。退職して4カ月経ち、つい最近、2週間ほど夫とヨーロッパへ旅行しに行ってまいりました。
夫も別の大学で教員をしておりましたが、実は、夫も私と同じ文化人類学者で、専門も同じ東南アジアですので、もう何十回も自分の研究のために、夫は主にフィリピンに、私はインドネシアや韓国やベトナムといったところに行っておりましたが、お互い、アメリカやヨーロッパには一切行ったことがありませんでした。海外と言えば、自分の研究のフィールドである東南アジアばかりです。
そこで去年、きっかけがありまして、2週間、夫と共にアメリカへ初めて行ってまいりました。それから今年、初めてヨーロッパに参りました。いずれも、息子がたまたま仕事の関係で、昨年はアメリカ、今年はパリに居たため、息子に会いに行くことを口実にして行きました。それが可能になったのは、私がこの3月で大学を退職したこと―夫は私より一足先に退職していたんですけれども―そして、昨年の6月に、長らく在宅介護をしておりました主人の母を91歳で見送ったためです。「おばあちゃま、ありがとう」と、ちょうど一周忌が済んだ頃に、2人で久しぶりに旅をさせていただきました。今日はその辺の経験も踏まえながら、お話をさせていただきたいと思っております。
私は、東南アジアを専門とする「文化人類学」という学問をしていたんですけれども、文化人類学といってもちょっと分かりにくいかもしれません。日本でこういったことを研究しておられた方で一番有名なのが柳田國男先生という方です。皆様も何処かでお名前を聞かれたことがあるかもしれませんが、明治の初め頃に兵庫県の福崎町に生まれ、主に東北の岩手県の遠野地方という所で、雪女の話や座敷わらしの話といった、いろいろな民話を研究なさった方です。
もちろん、東北に限らず日本中で研究をしてらっしゃるんですけれども…。例えば、この他に有名なのが、九州の宮崎県に今でもある椎葉村というところで、山の猟師さん―今風のハンターではなく、本当に昔ながらの作法で猪や鹿の狩りをしてらっしゃる方です―が残っておられます。まあ東北にもマタギさんといった方が居られたんですけれども、そちらではなく、この椎葉村の狩猟民俗に関してまとめられた『後狩詞記(のちのかりことばのき)』という、猟師さんのいろいろな山野仕事をする上での約束事のようなものを、今から100年前くらいに書かれた方です。
この柳田國男先生が日本各地で研究されたようなことを世界版で行うのが文化人類学だと思ってください。ですから、夫婦揃って文化人類学を専門にしているからといって、別に同じ東南アジアである必然性はなく、どちらかがアフリカのことを研究してても良かったのですけれども、縁あって、主人も私も東南アジアのことばかり研究しておりました。
▼灘のけんか祭から学んだこと
13年ほど前に、たまたま大学の学生の演習(ゼミ)の関係で、野外調査や現地調査―いわゆるフィールドワーク―を教えることになりました。希望する学生にフィールドワークをさせるということは、当時どこの大学でも取り組んでいたんですけれども、兵庫県立大学では、フィールドワークを必修科目にして単位を与える代わりに、教授は2年生を対象に1年間フィールドワークを実地指導しなければいけないということになりました。とはいえ、毎年10人以上の学生にお金を一杯出させて、東南アジアに引っ張り出すという訳にもまいりません。そこで、実は日本国内のことはあまり研究していなかったんですけれども、日本国内で野外調査を教えなければならなくなったため、急遽、私自身、日本のことに集中して研究することになりました。
私の居た兵庫県立大学は姫路にあります。もしかしたら本日も姫路のほうからお越しになっている方もいらっしゃるかもしれませんが、姫路には、とても有名なお祭があります。今は時期的にちょうど京都の祇園祭の時期ですけれども、姫路の祭は秋祭…。10月の第1週から第2週までの間に、ちょうど播磨地方の東から西にかけて、毎日のように秋祭が行われます。その中で一番有名なのが松原八幡神社の「灘のけんか祭」と呼ばれるお祭です。そこへ学生たちを連れて行き、祭から入っていきますが、お祭だけを調査するのではなく、そこの地域の自然環境や風土といいますか、文化的な人の繋がりといいますか、そういった独特のものを調べていくことで、文化人類学の調査対象にしました。
以前から「灘のけんか祭は凄い」とは聞いていましたが、本格的に調査するのならば、いきなりお祭の当日に見物客のように行っても仕様がないので、10月15日頃にあるお祭の前、8月中頃の準備段階からいろいろ調べたいと思って、まったく面識のない松原八幡神社の宮司さんに電話をしました。そして、お話を伺いたい旨をお伝えして、夏の暑い盛りにお会いしに行きました。すると、たまたま意気投合してしまいまして―特にその時は、今みたいに冷房を自粛しようという時分ではなかったんですけれども―多分、そこの宮司さんのお考えで、クーラーもなく扇風機が回っているだけの暗い神殿の傍で、2時間も話し込んでしまいました。
合田博子先生の講演に耳を傾ける婦人会員たち |
神道は日本の伝統的な宗教ですけれども、これまでは氏子の方とお話しするチャンスもさほどありませんでした。私はたまたま恵まれていただけなのかもしれないですけれども、いろいろとご縁があって、それからすっかり地域に入らせていただき、お祭のことを調べさせていただきました。この調査を通して判ったことは、お祭が今も生きていたということです。生きていたということはですね、「重要無形民俗文化財だから」とか「毎年やっているからやらなければいけないんだ」ということではなく、本当に町の文化祭のような形で、大人も子供も皆で1年に1回やることを楽しみにしている。そのために、毎年どういう風にお祭を盛り上げていったら良いのかと、皆さん一生懸命だったんですね。
神社ですから、氏子組織というのがありますが、その中でもちょうど42歳ぐらいの、昔の日本の習慣で言うところの「厄年」と呼ばれる齢の方々が、祭の責任を担う中堅を務めます。一般的には、病気になったり悪いことが起こる「厄年」という言い方もあるらしいですけれども、(これぐらいの年齢になると)社会的な役目を負うので「役年」だという言い方もあるらしいです。言わば地域で、これは男の方ですけれども、一番責任を担うのが中堅なんですね。
江戸時代やもっと以前のことを考えると、やはり、村の自治組織というものがありました。その時にも、四十代ぐらいの方が一番中心になって村の政治をやっていました。その上の年配方となると、会社でしたら部長さんや社長さんといったそういう実務執行上の責任役員の立場を引退して、年寄として会長さんや顧問といった名誉職的な立場になって、それ以降は、お祭における神事やご先祖さんとの関係といったものに対して責任を持たれました。そして、実際の世俗のいろいろな村の取り決めからは一歩引いて、そういった仕事は中堅に任せて、お祭を取り仕切る訳です。そして、実際に御神輿を担いだり、いろんな準備をしたりするのは若衆です。そのように、年齢で以てグループを分け、村のいろいろな行事を皆で分担してやっていたんですね。
少し難しい言葉で言いますと「宮座制」と呼ぶのですが、これは、プロの宗教家(神職)ではない一般の氏子が責任ある地位を占めて何か仕事をする制度があります。あるいは、皆でお当番を決めてグルグルと回っていくので、「当屋制」とも呼ばれました。私は、そういったことを調べることになりました。それは、灘のけんか祭だけを調べるのではなくて、兵庫県中の祭を調べました。この「宮座制」や「当屋制」というものは、近畿地方には非常に多く、特に琵琶湖の周辺、近江のあたりに目立つものだったんです。兵庫県にも実はあるということだったんで、そういうことを調べてきました。
▼政治とはまつりごと
これは私の従来の研究、あるいは学生を指導していく上で必要なことだったんですけれども、初めて灘のけんか祭の調査に入った時に、皆さんがどのようにお祭を取り仕切っていくのか? お祭だけでなく、どういう風に皆が責任を交代しながら分担するのか? どういう風に世代毎に役割を分担させたりしてお宮さんを成り立たせていくのか? これは神様をお祀りするという宗教的な行いだけではなく、普段の生活をしていく上で、責任ある村の政治をどのように成り立たせていくか─いわゆる「自治組織」の運営ですね─といった両側面から捉える必要があります。
江戸時代や室町時代の「お上」は─今でも「行政」のことを「お上」と言いますが─地域が、徴税の代行や道普請など公共事業を行政から命じられたことだけをやっていくのではなく、自分たちの近所や親戚や家庭といった生活を、どうやって成り立たせていくかということを「宮座制」や「当屋制」という形式をとって分担していたんですね。今では「まつりごと」というと宗教的な行事を指しますが、昔は政治を政(まつりごと)と呼び、祭政一体のものだったんです。現代社会の中では「政教分離」で、政治と宗教的なことは分けて考えられていますが、市井の人間の生活の中では、その2つの要素を別の機能とは捉えずに、ひとつの村なり地域なりを創り上げていきました。
私が初めて現地を訪れて「こういうことを調べたい」と話しますと、播州の人は結構荒っぽくてポンポンとものを言う方が多いんですが、「先生が調べることに私たちも協力するけれども、いったん調査を始めたら7年間やらなきゃ駄目だよ」と言われました。何故、7年間なのかと申しますと、灘には昔からある地区が7つあるんですが、それらが1年おきに交替でけんか祭運営の責任地区となりました。けれども、責任地区でない年は何もしないのかというと、7地区はそれぞれ独自の屋台(山車)や獅子舞を持っています。責任地区でなくても毎年やるべきことはやっておられるんですが、7年に一度は全体を統括しなければならない。それを、どの地区が引き受けるかによって、それぞれ地区の性格が異なるので、1年だけ調べて論文書いて「これが灘のけんか祭の研究成果です」と言われても、そんなものは実態を反映していないよ、とクギをさされました。私もその通りだと思いましたので、1周回って本当に7年間やりました。実は、7年に留まらず、十数年経った今でもやっているのですが…。
▼環境と人間とがどうかかわってゆくか
ちょうど7年一回りした頃に、まったく別の所から環境と人間社会との関係を調べる必要性にぶつかりました。土木工学や河川工学といったいわば理工系の方々と、私のような文化人類学や民俗学といった文化系の研究者が合同で調査するというチャンスに恵まれました。これは文部科学省の補助金を貰って調べたんですが、そういうことが可能になったきっかけは環境問題でした。環境と人間がどういう風に関わっていくかが、今、非常に大事になってきています。
特に21世紀になってから、環境といいますと、「水」─湧き水や雨水や川の水など─をどうやって使っていくのか。私たちにとって「土壌」がどのように大切なのか。そして、二酸化炭素を吸収して酸素を出してくれる「森」の大切さなどが挙げられるようになりました。かつて、水や空気は、放っておいても「いくらでも享受できるものだ」と思われていましたが、これだけ産業が盛んになってしまったら、きれいな空気や水がなくなってきてしまう訳です。そこで環境学がとても大事になってきたのですが、こればかりは科学技術が発達すれば解決できるというものではありません。「(温暖化ガスの排出規制など)こういうことをしたほうが環境に良い」ということが判っても、それをするか、しないか最終的に決めるのは政治的な決断です。
また、環境を大切にするために「もったいない」と、水を大切に使ったり、森の木をあまり切らないようにしようと努力するのは「人間のこころ」ですから、科学技術が発展すれば環境問題が解決される訳ではないんです。そこで、「環境と人間との関係」がとても大事になってきました。こういった経緯から、理系の方と私のようにお祭を研究していた文系の人間が、一緒になって研究する機会ができた訳です。
兵庫県では、特に溜め池に焦点を当てて研究をしました。淡路島や加古川の辺りは、溜め池の大変多い所ですが、溜め池がたくさんある地域を回っていくうちに、私は、溜め池が多く残る土地は、これまでにお祭のことを調べてきた土地と重なるということを発見したのです。溜め池がたくさんある所は、さっきの「宮座制」や「当屋制」といった、お祭を大事に育てていく組織がしっかり残っている所だったんです。兵庫県南部はもともと溜め池の多い地域ですから、重なるのは当たり前かも知れません。
けれども、「宮座制」や「当屋制」といった神社の組織がいまだに残っているのは、農業が残っているところなんです。どんなに都市化されていても、細々と農業をやっている。だから、お祭も続いているし、溜め池も水利組合を作って管理もしていたんです。溜め池や水利権の調査を進めていくうちに、地域の環境維持とお祭の組織がパッと一致したことから、「私のこれから向かう研究はこれだ!」ということになったんです。昔の日本は特に、神社やお寺を中心に村が動いていましたが、そういった神社やお寺を支えている集団は、村の人間関係を基調にした政治体制を作っていくだけではなく、常日頃から環境を大事にする集団でもあったのだということが判ってきたのです。
▼欠損した人間関係をどう補うか
さて、ここからいよいよ本日の講題である『災害でどう変わる日本の家庭』という大事なお話に入っていこうと思います。まず、環境と人間の関わり合いを考える時、自然の恵みである水や太陽の光や空気といった環境が私たちに与えてくれるものは計り知れないものがあります。しかし、それは自然ですから、反面、何が起こるか判りません。例えば、今回の東日本大震災のような地震や津波が起きたりもする訳です。これに関連して、今、エネルギーとしての原子力発電がとても大変なことになっています。こういった問題が起きてしまった後にどう対処していくかを考える時、人間関係が大事になって行く訳です。
今回、東日本大震災が起きたその時に、被災地の皆さんがまず心配したのは、家族の安否ですね。津波でバーッと流されてしまったり、仕事に行った先で災害に遭い、家族と離れ離れになってしまった。「どうしたら良いのか?」と、まず気掛かりなのは家族の安否です。そしてだんだん判ってきたことは、家族が既に亡くなったり行方不明になっているという重い事実でした。家族とは、最後の砦ですよね。普段は喧嘩しているかもしれないけれど、そういう時に真っ先に感じることは「ああ、家族がいて良かった」、「夫がいて良かった」、「妻がいて良かった」、「子供がいて良かった」、「おじいちゃん、おばあちゃんがいて良かった」といった家族の存在です。ところが、多くの人が家族を亡くして欠損した家族ができてしまった訳ですが、そこでどういうことが起きたかといいますと、それまで核家族としてバラバラに暮らしていた親族が、たまたま津波に流されなかった家に数家族が集まって来て─欠けてしまった家族や全部残っている家族もありますが─一緒に住むという状況が否応なしに生まれました。つまり、一時的に昔の大家族制に戻った訳です。
もちろん、親戚の家ではなく、避難所に避難された方も大勢おられますが、その時も各家でバラバラに行くのではなく、かなり狭い地域の隣組のような10軒ぐらいのご近所の方々が「一緒に避難所に入ろう」といったことをされてました。これには、実は阪神淡路大震災の時の大きな反省がありました。たまたま各自がバラバラで避難所へ入ってしまうと、その避難所の中で、偶然隣り合わせになった人々や世話役さんとの人間関係を新たに作っていくのはなかなか大変です。若い人はまだ良いですけれど、お年寄りにとっては、新しい人間関係を一から構築していくのははなかなか難しいものです。けれども、昔からの隣組の方たちと一緒に避難所へ入ってゆけば、従前からのお隣さん、お向かいさんと一緒に、またご近所の関係を作っていける訳です。もちろん、家族はとても大事なんですが、家族の構成員が欠けてしまった時、次に頼るのは「ご近所さん」なんです。
▼合田家の場合
私の体験と皆さんの体験はそれほど違わないと思うんですが、災害時ではなく普段の暮らしの経験からお話ししようと思います。まず、私は大学の教員という仕事をしていましたが、夫の両親は、私たちが結婚した頃はまだ60歳ぐらいでしたので、岡山で夫婦2人で元気に住んでいました。ところが、親がだんだん齢を取ってきまして─私は26歳で結婚したんですが─、親が七十代,八十代になってきましたら、ちょうど義父が86歳の時に病に倒れました。義父と義母は12歳も齢が違う夫婦でしたので、義母はまだ七十代で、「(自分の住み慣れた)岡山で、なんとか息子夫婦と一緒に暮らしたい」と、「大家族になりたい」と言い出しました。まず母親が言ったことは「博子さん、岡山の大学に転勤できないかね?」でした。私は長男の嫁ですので結婚した時から覚悟していたんですけれども、当時、夫は神戸の大学で、私は姫路の大学で教鞭を執っていたため、いろいろな事情があって、それができなかったんですね。そこで、「お母さん、それはできない。お父さんとお母さんが神戸の私たちの家に来てくれるしかない……」と答えるしかありませんでした。
初めから親子共々同じ所に住んでいれば良いですけれども、現代のように職業が多様になってきますと、年老いた両親のどちらかが亡くなった後や片方が病気になってしまった場合、息子(娘)夫婦の住んでいる所に親が移ってきて同居するといったケースは案外多いのではないでしょうか。結局、お義母さんは、長男夫婦である─もちろん、長男の所でなくても良いですけれど─神戸の私たちの所へ来ました。義父は、そのまま入院して2年後に亡くなりましたが、その後、義母が1人残ってわれわれと20年間同居しました。義父が寝たきりになった直後は、義母もがっくりして死にそうになってしまったんですけれども、女は強いですね…。5年ぐらいしたらすっかり元気になって長生きしていたんですけれども、さすがに88歳になった頃から寝たきりに近くなり、私の介護生活が始まりました。
私自身の両親は既に亡くなっていましたから、義母は4人居る親のうちの最後に残された親ですけれども、私も仕事をしていますし、夫も仕事をしています。子供は3人いますけれども、皆社会人として既に独立しているので、「老々介護」とまではいかないですが、われわれ2人がこのおばあさんの面倒を看ることになりました。有り難いことに、介護保険とヘルパーさんのおかげで、2年間でしたが、夫も私も仕事をしながら乗り越えることができました。最後の半年ぐらいは「いつ死ぬか、いつ死ぬか」という状態でしたので、最期は病院で迎えましたが…。91歳でしたから、大往生だったと思います。母が偉かったのは、時々まだら惚けで分からなくなってはいましたが、意識がはっきりしている時には「本当に私は最期まで面倒を見てもらえて幸せだった……。有り難う。有り難う」と手を合わせるんです。私は、そういうおばあちゃんが神様か仏様だと思っていました。
私自身、ずっと仕事をしてきましたから、決して「良い嫁」ではなかったと思います。同居を始めた頃は、喧嘩をしたこともありました。けれども、介護をしている間、ずっと感謝されて…。たまたま、夫のほうが1、2年先に定年になりましたので─定年になってからも、昔ほど忙しくはないとはいえ仕事をしていましたが─在宅介護の一番大変な最期の1年間と病院に入院してからは、ほとんど夫が面倒を見てくれました。その時期、私のほうが忙しくなってしまったんです。その点、私は恵まれていたと思います。男の方が現役で仕事が忙しい最中は、年老いた親の面倒を看ることは難しいかもしれませんが、老々介護と呼ばれる年齢にさしかかる頃には、場合によってはお嫁さんのほうが少し若くてパートか何かでまだ仕事を続けていて、夫のほうが定年退職で時間があるということもあるかもしれません。うちの場合は、夫のほうが一歩先に定年になっていたために、ほとんどむしろ夫が中心人物となって介護生活を乗り切ることができた訳です。それを私はとても有り難かったと思っています。
「家族の役割」という言葉が社会学という学問に出てきます。「家族は最後の砦だ」という言葉が先ほど出てきましたが、やっぱり疲れた時に癒してくれたり、愚痴を聞いてもらったり(してくれるのは、家族かもしれません)。これを一言で言ってしまったら、「愛情のある所」ですね。
それから、もっと切実な話として「家族とは家計の基本」それから子供がない場合も家族ですけれども、子供ができた場合は「育児の基本」教育にはお金がかかりますけれども家庭での教育─どうしてもこの頃は躾に至るまで学校にすべて預けてしまっている向きがありますが─家庭の役割があると思います。が、この役割がだんだんなくなっていく訳です。
▼水の関係
結婚することで新しい家族を創っていく。家族も成長して変わってくる。家族構成の変遷の中で、ある時期は子供やおばあちゃんを入れて4人家族、5人家族だったのが、おばあゃんが亡くなり、子供が社会に出て行くことで、また構成員が変化していく訳です。今はかつてのように─同居するか別居するかは別として─家を継ぐために必ず長男がお嫁さんを貰ったり、あるいは娘さんしかいない場合はお婿さんを貰うといった形式だけでなく、いろんな形があります。現代社会は、昔のように、農家ならずっと農家、商家ならずっと商家という訳ではなく、仕事も変われば転勤や海外赴任もあるでしょう。その中で家族の形態そのものが変わっていくことは仕方がないんですね。
震災の時に、運悪く家族が亡くなって欠けてしまった時に、次に頼りになるのは避難所での人間関係です。その中でも、阪神淡路大震災の反省から少しでも良くしようとしたのが、「元々のお隣近所同士の関係を生かせる形で、同じ避難所の中で暮らす」ということでした。それは何かと申しますと、まずは家族・親族といった血の繋がりですが、その次の関係─私は「水の関係」と呼んでいますが─は、水を共有している関係だと思います。よく他人行儀なことを「水くさい」と言いますが、昔から稲作には必ず水が必要─先ほど水利組合の話をしましたが─ですが、何処かに湧いている泉などの水源から引いて来るにせよ、川から引いてくるにせよ、溜め池から引いてくるにせよ、皆、同じ水でお米を作っています。「水のきれいなところのお米は美味しい」と言いますが、その同じ水で稲を作る訳です。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、同じ井戸水を使ってご飯を炊き、お味噌汁を作って食べるのは、家族はもちろんですが、同じ地域に住んでいる方々も同じ水でもって食べているのです。親戚などの血の繋がりがなくても、同じ水源を共有する間柄であれば水くさい他人ではなく、水を一緒に使う近い他人ではないかと思います。
ですので、近隣の関係は実はとても大切なんです。人間関係は、まず家族・親族があって、地域があって、職場があって、同業者があって、商売をされていたら商売相手であるお客さんとの関係…。それから趣味を同じくする方や同じ信仰を持った方─まさに今日お集まりの皆さんがそうだと思いますが─といった「同好の士」の関係があります。家族だけでなく、そのような様々な関係を持っているということがとても大事なのではないかと思います。
家族はずっと一緒に住んでいきたいと思っていても、状態が変わっていくものですし、あるいは、家族の中で分裂してしまうこともあります。そんな血の繋がった者同士の喧嘩は、実は他人同士の喧嘩よりもきつかったりしますね。非常に不幸なことなんですけれども、そういうこともあります。やはり、人間関係というものは血の繋がりから始まるものだけれども、水の繋がりも大事にすることが必要なんじゃないかと思います。結局は、災害の時の安全網(セーフティ・ネット)は、やはり人間関係ですね。
私は専門家でないので判りませんが、環境に関して考える時、私たちは自然から恵みを受けながら、自然からの脅威も受けます。これは人間のコントロールが効かないものです。人は、どうしようもない時にどういうことを考えるかというと、もしかしたらそれが「信仰」というものかもしれません。信仰を持っていらっしゃる方もいれば持っていらっしゃらない方もいるでしょうが、家族や親族といった近い関係だけでなく、地域あるいはいろいろな広い関係を持っていくということで、公共の繋がりのようなものが必要になってきます。頭の中で必要と思っている人だけではなくて、胸に手を当てて「自分にとって大事な人は誰だろう?」と考えてみた時に、まず家族が浮かぶかもしれませんが、それだけではなく友達やお隣の方、あるいは信仰の上で師と仰いでおられる先生や、志を同じくして、苦楽を分かち合っているお友達が思い浮かぶ方もおられるだろうと思います。
そういった存在があると、結局誰かが生き残っても誰かが先に亡くなる。あるいは、自分が亡くなった後、辛いかもしれないけれど、誰かの心の中に自分の思い出が残っている。そういう時に、親子や親族ではない他人かもしれないけれど、お水を共にする関係を普段から持っていると、本当にどうしようもない事態が起きた時に、自分の心の中にもそういう支えがある、あるいは自分もそういう支えになれるんだという意識があったら、その先に何か希望が見えてくるのではないかと思います。今日はそんなところでお話を終わりにしたいと思います。ご清聴有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)