創立85周年 記念青年大会 記念講演
『気付きながら生きる〜日々の出会いの中で〜』
 色鉛筆絵家
吉田ときお

6月3日、『師願継承=一歩踏み出す信心で未来を拓く』をテーマに創立85周年記念青年大会が開催され、ケーブルテレビ会社の役員で色鉛筆絵家の吉田ときお氏が『気付きながら生きる〜日々の出会いの中で〜』という講題で記念講演を行った。本サイトでは、数回に分けて本講演の内容を紹介する。


吉田ときお氏


▼色鉛筆屑のお地蔵さん

皆さん、こんにちは。ただ今、ご紹介いただきました吉田ときおでございます。この度は、85周年という大きな節目にお招きいただき、有り難うございます。私は今、ご紹介いただきましたように、福井県の越前市から参りました。数年前に、武生(たけふ)市とその東隣の今立町が合併してできた市でございます。北側には鯖江市、西側に越前町がありますが、この二市一町をカバーしているケーブルテレビ会社の役員(丹南ケーブルテレビ常務取締役)をさせていただいております。その傍らで、色鉛筆を使った絵描きの活動をしておりますが、仕事を抱えているため、年に二度しか開催できませんが、金沢市から越前市の辺りで毎年個展をさせていただいております。元々はプランナーの仕事をしておりまして、地域興しやイベントなどの企画・プロデュースをさせていただいております。

その流れで、1,500年ほど前に韓半島にあった王国のひとつである百済(ペクチェ)の最後の都が扶余(プヨ)─当時は泗批(サビ)と呼ばれていましたが─ですが、韓半島に対して、ここ越前の地が倭国(日本)側の玄関口であり、この扶余の町と1,500年の時を超えて、もう一度文化交流を復活させようとプロジェクトを立ち上げまして、現在、そのど真ん中で頑張っているところです。それから、6月8日に、越前市で映画製作の記者発表を予定しております。これは何かと申しますと、実は、越前市と鯖江市を舞台にした映画『HAPPY! メディアな人々』を作ることになっています。主演は「ファイト一発!」のCMで有名な渡辺裕之さん、監督は市川徹さん、そして私も企画原案、シナリオも含めましてプロデュースさせていただいております。

このように、いろんな仕事に関わっておりますと、いろんなジャンルの方々、いろんな風景やシーンに出会います。今日はそういった出会いを通して感じたことや気付いたことを皆さんにお話しさせていただきたいと思います。ただ、こうして立派なご神殿を背にして立って話しておりますと「釈迦に説法」ではありませんが、私のようなものがお話しできるのであろうかと非常に躊躇してしまいます。けれども、私なりに感じたことの中に、皆様にとって何かひとつでも気付き、共感していただけるようなことや、ヒントになるようなものがありましたら幸いだと思っております。

本題に入ります前に、私が絵を描くときの道具である色鉛筆について少しお話しさせていただこうと思います。(パワーポイントで展示会場の写真を紹介しながら)これは、白山連峰の麓の吉野谷に「工芸の里」として利用されている鶉荘(うずらそう)という250年前の建築物があるのですが、現在そこがギャラリーとして使われています。今回はここを使って個展をさせていただきました。金沢市から車で40分もかかる山間の里にあり、また、ほとんど前宣伝もしなかったものですから、いったいどれだけの人が見に来てくださるか不安だったのですが、蓋を開けてみますと、1週間で700人を超える方に来ていただけました。私がどのような絵を描くかと申しますと、風景画をメインにしつつ、桜と金魚が大好きなので、こういった絵を描いております。

エンピツを使って、描いては削り、描いては削りながら描くのですが、この過程で必ずできるものがエンピツの削り屑です。私はこの削り屑を粉砕し、その粉を粘土に混ぜてこのようにお地蔵さんを作っております。これはどれも2cmから3cmの小さな手のひらサイズのお地蔵さんです。エンピツの削り屑100%でできたお地蔵さんですから、何もご利益もないと思うのですが、私のホームページをご覧になった方から「是非、分けてくれないか…」、「是非、作ってくれないか…」というお便りをいただきます。先日、四国の方から「私は今、子宮癌と闘っております。近々二度目の大きな手術を受ける予定があり、不安な気持ちで日々を送っております。どうかお地蔵さんを作っていただけないでしょうか?」というメールをいただきました。このようなお便りをいただきますと、私も一生懸命になって作ります。これまでにも、札幌から鹿児島まで70個以上のお地蔵さんを届けましたが、必ずその方へ宛てたメッセージをお地蔵さんに添えて届けることにしております。

Pencil is my treasurePencil is my treasure

「私は、たまたま今、皆さんより少し元気なのだ。そして、たまたま今、元気を失っている人たちのために私が何かできることはないか?」と考えた時、お地蔵さんを作ることが精一杯だと私は感じます。しかし、それならば、こういうことができることに感謝をしつつ、むしろ喜びながらやらないと意味がないと思っています。こういったことを、これからも喜びながらライフワークとしてやっていこうと考えています。真っさらの鉛筆は18cm弱ありますが、当然、削れば削るほど小さくなります。これ以上削れないほど小さくなった鉛筆を、私はこのようにフレームに入れて飾っております。このチビ鉛筆たちに対しても、私は「ありがとう」の気持ちを込めまして、個展をする際には必ず他の作品同様に出品することにしています。1本の鉛筆をフルに活用する。ある意味、これは私のコンセプトです。


▼みんなが幸せ! が、本当の幸せ

個展会場の半分は、先ほどご覧いただいたような風景画が占めていますが、残りの半分は、色鉛筆でお地蔵さんの絵を描き、日頃の気付きや感じたことを言葉にして載せております。今日、皆様にお話しさせていただきますのは、本題となりますこの言葉の部分です。「気付き」の語源を辿っていきますと、「ごくごく当たり前のこと」というところに行き着きます。当たり前のことだから「気付く」んです。ですから、今日は皆さんに当たり前のことばかり話していきたいと思います。

まず、『どっちもどっちがいつも争う』。私の一番嫌いな言葉が「どっちもどっち」なんです。AさんがBさんの悪口を言い、BさんがAさんの悪口を言うことを「どっちもどっち」と言いますが、そんな2人を見ながら「こんな風にはなりたくないな」と思って描いたのがこの作品です。このようなイメージで、今からお話をさせていただきます。まずはじめに、『みんなが幸せ! が、本当の幸せ』という言葉です。これは3年前、私が福井市まで電車に乗って初詣に出かけた時のことです。電車は中央の通路を挟んで、両側に長いシートがあります。元旦ということもあってか電車は空いていたので、私もデンと座っていたところ、次の駅で3人の親子連れ─三十代のお母さん、小学校高学年のお嬢さん、小学校低学年のぼっちゃん─が乗ってこられました。真ん中にお母さんが座り、その両脇にお嬢さんとぼっちゃんが座りました。

この2人の子供さんは、電車に乗ってきた時から何か言い争っています。それを黙って聞いておりましたら、年始の挨拶におじいちゃんの所へ出かけたようです。そして、帰りがけにおじいちゃんから「2人で分けなさい」と1万円のお年玉をもらいました。要は、この2人はその取り分で揉めている訳です。お姉ちゃんは「私はお姉ちゃんなんだから、6,000円よ」の一点張りです。それに対して弟は「(おじいちゃんは)2人で分けなさいって言ったじゃないか。だから半分こだろ」と言っています。次の駅に着いても、そのまた次の駅に着いてもこの話をしています。その真ん中にいるお母さんは、ただ黙って聞いておられる。お姉ちゃんが「私がお姉ちゃんだから…」と言い張ると、お姉ちゃんの顔をじっと見て聞いている。弟が「半分こだ…」と言う時は、弟の顔を見てじっと話を聞いている。そして3つ目の駅を越えた頃、いきなりお母さんが「ようしっ、判った!」と切り出しました。

これはどうなることかと私も興味津々で聞いておりましたら、お母さんはまずお姉ちゃんのほうをしっかり見まして「カズちゃんはお姉ちゃんだよね」と念を押し、今度は弟のほうを向いて「ヒロ君、カズちゃんはお姉ちゃんよ。だから6,000円よ」とはっきり言いました。そうすると、お姉ちゃんの方は「それ見たことか」と胸を張り、弟のほうはプーッと膨れます。このお母さんが偉いのはここからなんです。すぐに今度はお姉ちゃんのほうをしっかりと向いて「お姉ちゃん、カズちゃんはお姉ちゃんだから、弟のヒロ君に1,000円お年玉をあげなさいよ」と言うんです。お姉ちゃんのことをしっかりと認めた上で、かつ、結果は半分こです。私は「このお母さんは凄いな」と思いました。お姉ちゃんの立場やプライドを守ってあげることで、姉としての自覚に繋がり「弟にお年玉をやってやるぞ」という気持ちになれます。また、弟のほうは公平に分け合うことで、思いやりに繋がるんじゃないかと思いました。

この結果が、もし、6,000円と4,000円で分けたとしたら、さすがのお姉ちゃんもこころの何処かに何か引っかかります。弟も不満です。それを見ているお母さんもハッピーではありません。ひいてはお年玉をあげたおじいちゃんもハッピーではありません。けれども、6,000円−1,000円で5,000円、4,000円+1,000円で5,000円と、お互いに5,000円ずつ公平に分かち合うことで、本当に皆がハッピーになれるんです。小さなことですけれども、そのひとつひとつが繋がっていくと『みんなが幸せ! が、本当の幸せ』というところに、いつか行き着くんじゃないかなと思った次第です。これが、最初の気付きです


▼得を説くのが説得

われわれの地域は、越前和紙、越前焼、越前打刃物といった越前ブランドが多く集積している場所でもあります。冬になりますと、これに越前蕎麦、越前ガニ、越前水仙が加わります。特に、越前水仙祭は非常に人気がありまして、毎年1月下旬の真冬に開催されます。関西や中京方面からもバスを仕立てて大勢の方が来られます。その中で最も人気があるのが、越前ガニが振る舞われるコーナーです。寒い時に温かいものを無料で頂けて、しかも越前ガニが無料でもらえますから人気も出る訳です。行ってみるとすごい人出で、五重にも六重にも人の輪が連なっています。私は整理券を持ってテーブル席で待っていました。会場は真ん中に大きな厨房があり、それを囲むように立ち席のカウンターがあります。そして、さらにそれを囲むようにテーブル席があります。厨房を挟んで五重六重に人が並び、かつ温かい鍋をお椀で啜(すす)っています。

そこへ厨房から一人、アルバイトの女の子が出てきました。そして、テーブル席をきれいにしてトレイに食べ終わった、あるいは食べ残したお椀や飲み残したコップを高く積み上げて、両手で抱えて厨房に戻ろうとしています。しかし、今申し上げたように、五重六重の人で厨房の入り口付近が塞がれています。その人垣を前にしてこの女の子は何度も何度も「すみません、通路を空けてください。私、厨房に入れません。お願いします!」と叫ぶのですが、無料のカニ鍋を待つ人々は微動だにしません。誰一人、動こうとしない。私は後ろから「ほんのちょっと、よけてやりゃ良いのにな…」と思いながら見ていました。

そうすると、この女の子が疲れ果て、困り果てて最終的に言った言葉が「でないと、皆さんのお洋服が汚れてしまいます」というひと言でした。このひと言を付けただけで、サーッと道が開いた。これを見ていた私は「これぞ、説得なんだな!」と感じました。といいますのも、自分の都合だけをいくら話しても人は動かないんです。けれども「こうするとこうなりますよ」裏を返せば「こうするとあなたは得なんですよ」と相手の得を説く。そうすると、相手の気持ちが動くんです。これが説得なんだということを私は肌で感じました。それから、私はプレゼンや商談に出かける時、このシーンを思い浮かべながら出かけることにしています。


▼雑用こそ丁寧に

また、先ほど申しましたように、私はプランナーの仕事をしている手前、若い人たちから「私は今、企画(プラン)を立てているんだけど、良い企画ができない。どうしても良い企画がまとまらない。どうしたらよいか?」といった相談を受けます。こういった時に、私は必ず「今、あなたがまとめようとしているキカクは、企てる、画策すると書いて『企画』になっていませんか?」とお聞きします。キカクという言葉は確かに「企てる」、「画策する」と書くんですが、それでは駄目なんですよね。だから苦しむ。そうではなくて、必ずクライアント、もしくはその後ろにいるお客様の笑顔や喜びを描く「喜描く」が一番大事なんです。こういうキカクですと、まず成功します。ですから皆さん、もし何か企画をされる場合、良い企画がまとまらず悩まれた場合、「果たして私の企画には喜びがいっぱい詰まっているだろうか? 皆の喜ぶ笑顔がいっぱい詰まっているだろうか?」そういう視点で企画書を見つめていただきたい。

私はある企業のアドバイザー契約をしておりまして、いつもアドバイスをしております。その日も社長に呼ばれまして、2人でいろいろ話をしていた時です。社長に私が使っている古い資料をコピーさせてほしいと頼まれました。その資料はえらく使い古されてかなりボロボロになっていて、非常に汚れているんです。「こんなのでよろしければ…」とお貸ししました。すると、社長はブザーを鳴らしてすぐに総務の女の子を呼び出し、て「コピーしてこい!」といって渡しました。確かA4サイズの紙が3枚でしたが、その女の子が5分経っても10分経っても帰ってきません。その社長は典型的な叩き上げのワンマン社長で、気が短いことで有名な方だったんですが、傍から見ていてもイライラしてくるのが判るんです。

そして15分近く経った後、その子が社長室の扉をトントンとノックしました。そして、開けたと同時に社長が怒鳴りつけました。「こんな雑用もできないのか!」、「コピー1枚取るのにどれだけ時間がかかっているんだ!」と、無茶苦茶怒るんです。けれどもいつも怒鳴られるのに慣れているんでしょう。その女の子は社長の怒鳴り声に驚く様子もなく私に「どうも遅くなりました」と資料を返してくれました。返してもらった資料を見て、私は驚くと共に感動しました。私のボロボロの資料の汚れが隅々まで消しゴムで消してあって、かつそれで消えない所は砂消しで消し、それでも駄目なところは修正液でピッピッピときれいにしてあります。もちろん、その社長のところに届いたコピーは非常にきれいなものでした。

それまで私はこの企業に対して決して良いイメージを持っていなかったんですが、たった1枚のコピーで私はこの企業が大好きになりました。たとえ雑用であっても、心配りということが非常に重要なんだと思います。こういう社員のいる会社は安泰です。ですから、もし皆さんのところに会社の部下がたくさんおられたら、同じことを1回してみてください。この雑用ほど奥が深い仕事はないです。と言いますのは、その人の仕事に取り組む姿勢─もしくは言い方がきついかもしれませんが─人柄までがその雑用を通して見えてきます。

もし、仮に3人、5人おられたら、今回と同じように汚れた資料を「コピーしておいで」と頼んでみてください。そうすると、雑用ですから雑に仕上げてくる子もいます。きちっと揃えもしないで持ってくる子もいるでしょう。その他に、それなりに持ってくる子もいます。また、今回のように雑用に気配り、心配りを加えて持ってくる子もいるでしょう。もしそういう社員がたくさんおられたら、その会社は安泰です。会社が困難な状態に陥った時に絶対強いです。ですから、雑用という雑用はないのかもしれませんが、もしあるとすれば、そういった意味合いで一度確認してみるのもひとつかと思います。


▼便利だけがすべてではない

それから、先ほどの話にもありましたように、今、私は扶余(プヨ)と繋がっております。福井の越前和紙や越前漆器は1,500年の歴史があるのですが、これ以外にもさまざまな伝統産業があります。越前地区は、世界的にも非常に稀な「匠の里」だと言われています。では、それはどこから、いつ頃、どのようにしてやってきたのでしょうか? われわれは地域メディアとして、番組作りを通して検証してみた結果、次のようなことが判りました。先ほど申しましたように、当時、韓半島にあった三国─新羅、高句麗、百済─の中から、最終的に百済からもたらされた渡来文化だということが判明しました。

私は2006年に初めて扶余の町を訪れたのですが、その後、ほんの6年の間に扶余の町はすっかり変わっていました。私が一番驚いたのは道路事情です。扶余の町に出かけますと、メインの通りはしっかりと舗装されていますが、少し脇道に入ると砂利路でまったく舗装されていない道ばかりです。私はこれが不思議でたまりませんでした。そのころ、扶余には百済観光ホテルという唯一、外国人でも泊まれるレベルのホテルがありました。郡守さん─日本でいうところの市長職の方ですが─が乗用車でそのホテルまで送ってくださった時の話です。その時は雨が降っており、水たまりができた砂利路を上下左右に揺られながら、ゆっくりとホテルに向かっていました。

私は郡守さんに「舗装されていないこんな道ばかりで、市民から苦情は来ないですか?」とお尋ねしました。すると「吉田さん、前を行く車を見てください」とフロントガラスのほうを指差されました。そして言われるには「車は通行人に泥をかけないように、ゆっくりと走っているでしょう。こんな道だから気配りが生まれるんです」そしてさらに「吉田さん、あの通行人を見てごらんなさい。傘を差しながらもドライバーに『有り難う』と言っているでしょう。こんな道だからこそ感謝が生まれるんです」と言われました。便利なことが全てではないということなんです。私は日本に帰国後、砂利路を探してみましたが、なかなか見つからない。今日の日本とは、高速化、利便性、あるいは合理化、効率化のほうに向かってひた走ってきました。

しかし、振り返ってみますと、私たち日本人は、手に入れた便利さと引き替えにこうした扶余の町で見かけたような大切なことを失っているのではないかと気付きました。やはり、町の中のハード面が豊かになればなるほど、私はそこに住む人や地域というものが軟弱になっているのではないかと思います。あのような町─「あのような」というと失礼なんですが─に生きていますと、いろんな知恵や助け合い、思いやりなどがいろいろ出てきます。ですので、もし何か自然災害が起きた時には、おそらく日本よりもあのような所に住む人のほうが絶対強いと私は感じます。扶余の砂利路から感じたことは、「便利だけがすべてじゃないよ」ということ。大規模な自然災害から立ち直ろうとする今の日本こそ、そこをしっかりと見極めないといけないのではないか…。


▼あなたにとって平和とは?

扶余に関連するお話をもうひとつ。2006年に、私はニューヨークの国連本部にプレゼンテーションに行きました。実は、国連が唯一共催する国際平和映画祭(Grobal Peace Film Festival)というのがあるのですが、そこに毎年400本以上の平和をテーマにした作品が寄せられるんです。この映画祭を是非一度、われわれの地域でやらせていただきたいと、国連へプレゼンに伺ったのです。そして2006年当時のコフィー・アナン事務総長、アンワルル・チャウドリー事務次長さんとお会いしました。また、「国連の友」代表を務めておられるノエル・ブラウンさんともお会いし、何とか2008年にわれわれの地域で開催することになりました。けれども、「開催するだけでは面白くないな」という話になり、われわれも映画を作って出品することになりました。そこで、扶余へ赴き、「あなたにとって平和とはなんですか?」、「平和のために何をしたら良いですか?」というインタビュー方式で撮影を始めました。郡守さんはもちろんのこと、地元の役人の方、歴史館の館長さん、大学の教授など、さまざまな人に聞いて回りました。しかし、どの方も20〜30分かけて答えられるため「これでは編集できないな」と困り果てていました。

そして最終日、「最後に小学校で同じ質問をしたい」と連絡をしたところ、「1時間後に来てほしい」と言われました。おそらく、この1時間の間に児童を指導するのでしょうが、おそらくこれまでインタビューしてきた方々と同じだろうと察しが付いたので、日本に帰ってからどういう風に編集しようかと迷いながら駐車場のほうへ歩いていきました。学校の真ん中に校庭があるのですが、そこで小学校5年生の女の子がいっぱい遊んでいました。何故かその時は女の子ばかりだったんですが、大きなカメラやマイクを持っているので「テレビ局の人間だ」と彼女たちもすぐ判ったんですね。すぐに皆駆け寄ってきて、われわれが日本人だと判ると「こんにちは!」と日本語で応対してくれました。これだけ集まってきたのだからとふざけ半分でインタビューごっこではありませんが、子供たちにマイクを向けてみました。電源も入れず「あなたにとって『平和』とはなんですか?」と韓国語で尋ねると、9割以上の子供から「統一」という言葉が返ってきました。この答えが返ってくることは、だいたい察しが付いていましたから、次に「『平和』には何が必要ですか?」と聞いてみました。

すると、小学校5年生が「相手より一歩下がって、相手をしっかりと見て理解することからです」と言うんです。小学校5年生がですよ。日本に帰って同じ質問をしたとしても、小学生はおろか中学生、高校生、大学生どころか大人だって、いきなりマイクを向けられたらこんな答えは返ってきません。われわれも、海をちょっと隔てただけでこんなに差があるのかと思いました。この子だけではと思いまして、このまま立ち去るのが惜しい気がして、慌てて電源をキチッと入れてその隣の子、隣の子とインタビューしてみました。すると、どの子もよく似たレベルの話をされるので、「これはすごいな」と、吃驚しました。その後、駐車場に停めておいた車に機材を積んでいると、小学校1年生の子が集団下校するのに出くわしました。この子たちも、われわれの姿を見ると寄ってきたので、再びふざけ半分で「あなたにとって『平和』とは何だと思う?」と聞いてみました。そうしましたら、小学校1年生の子が、われわれの問いかけにニッコリ笑ってひと言、「仲良し」と答えたんです。私はこの言葉を聞いて、「これまで何十分も何時間もかけて何をしていたんだろう」と、本当に目から鱗が落ちる思いでした。子供というのはすごいですね。最終的に、私たちの映画の中にはこの「平和とは仲良し」という言葉を入れさせていただいたんです。

先ほどの話に戻りますが、皆さん何か企画をされる時にはですね、同年代の話を聞かずに、むしろ自分より20歳上または20歳下ぐらいの人たちに同じことを聞いてみてください。すごい発見があります。今でも覚えているのが、保育園に取材に行った時に、幼稚園で一番大きい子たちが砂場で遊んでいました。その中の1人が「おじちゃん!」と私を呼ぶので言ってみると「教えて」と言うんです。私は5〜6歳の子の質問なら何でも答えられるのではと思いました。その子は裸足だったんですが、ドンとお尻を砂場に降ろして左足をグッと上げて「この指、何という名前?」と聞くんです。それは手で言う人差し指なんですが、こんなことを聞かれるとは思わないですね。小さい子だからそういう問いかけが来るんです。そういった視点で小さい子の意見も馬鹿にせずにしっかりと耳を傾けてみると、案外面白い斬新な企画が生まれてくるんじゃないかと思います。


▼子供を本気で叱れ

今、私が一番気になっていることは親子関係です。日頃ケーブルテレビで取材に行きましても、親子関係がとても気になります。新聞を見ましても、わが子を虐待する親が増えています。また、逆に子供が親に手をかけるという話も増えています。これはいったい何故なんだろうという思いから、私は個展を開く時には疑問を投げかける意味でこういったコーナーを設けております。これは「親の叱りは時が経って分かる。心に残る叱りは財産となる。金より、物より残すのは本気の叱り」という作品ですが、今、自分の子供に何の遠慮もせずに本気で叱っておられる方がどれだけいらっしゃるでしょうか。私を含めて、躊躇していませんか? 何かわが子を叱るのに、自信をなくしている…。本気で叱っていない。そういうところが先ほどのことにも繋がるんじゃないかと思います。私は親父もお袋もとうに亡くなりましたが、今になって分かることがあるんです。叱られた時は「クソジジイ」、「クソババア」などと思っているのですが、今になってあの叱りとは……。あの時頭をコツンと叩かれたのはこういう意味だったのかと分かるんです。歳を取ってから分かることがいっぱいあります。ですから、皆さんも是非、本気になって子供を叱っていただきたい。記憶に残るような叱り方でないと、心の財産にはなりません。その子に面と向かって本気で叱る。これが大事だと私は強く思っております。

親の叱りは時が経って…

私のお袋はすごく強い人でした。私には姉がいるのですが、その姉は日本舞踊を習っていました。3歳の子供の頃から踊りが好きで、音楽が流れればもう踊っているというぐらい踊りが好きでした。そこでお袋は、姉が中学校を出るとすぐに東京の藤間流という、藤間紫さんの所へ内弟子に入れてしまいました。中学校を出たばかりで、東京でで慣れない1人暮らし。しかも強いタテ社会の日本舞踊の業界に入って行く訳です。当時はまだ新幹線ができるちょっと前でしたから、夜行列車に乗って武生まで7時間、8時間かけて東京へ出る必要がありました。姉は家を出て東京へ行きましたが、12カ月ほど経った頃、姉は突然泣きじゃくって帰ってきたんです。たまたま私は2階で本を読んでいたのですが、何か聞こえるので耳を澄ますと、姉の泣き声でした。ところがお袋は、一歩も玄関から入れないんです。「何しに帰ってきたんだ? 今すぐ帰れ!」の一点張りです。30分ぐらい経った後、姉が諦めてトボトボと帰っていくシーンを幼い私は2階から眺めておりました。この時、私は「なんてきつい親なんだろう。まるで鬼のようだ」と思いましたが、しばらくしてから階下へ降りると、ガラス越しに母親が号泣しているのが判りました。姉は現在、金沢でたくさんのお弟子さんを抱えており、私にとっては甥っ子でもある2番目の息子の藤間信之輔は、あの東儀秀樹さんとも踊ったりと国内外で活躍しておりますが、「でもあの時、あのお袋が居なかったら、おそらくこんな巡り合わせもなかったね」と姉と話しております。まさにこの作品に書いたように「今頃になって分かったよ。母さんの強情は強い情けと書くんだね」ということなんです。本気で叱る。ある時はとことん子供に対して強情になる。これが、先程申し上げたような親が子を、子が親に手をかけるようなことをなくすために一番ではないかと思います。

今日はいろいろお話をさせていただきましたが、先程申し上げたように、私のホームページを通じてたくさんの方がいろんな悩みをかかえて来られます。インターネットというものは顔が見えない分、本心で話してこられるのですね。その方たちに一生懸命答えております。いろんな方がいろんな悩みをかかえて生きておられます。私はそういう時に、必ずお返しする言葉があります。それは「人生はいつも途中。失敗しても成功しても人生はすべて途中」この言葉を皆様にもお伝えして、私の拙い話を終わらせていただきたいと思います。長時間ご清聴ありがとうございました。



(連載おわり 文責編集部)

 


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