2月17日、求道会創立67周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『商社マン生活 半世紀』と題して、元丸紅株式会社副会長の橋本守関西国連協会本部長が記念講演を行った。本サイトでは、数回に分けて、橋本守氏の記念講演を紹介してゆく。
橋本 守氏
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▼憧れのニューヨーク勤務
ただ今、ご紹介いただきました関西国連協会の橋本でございます。私は根っからの商売人ですので、司会の方から「橋本先生」と紹介されてもピンときません。「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」という川柳もございましたが…(会場笑い)。私は学生の頃から海外へ行きたかったんです。丸紅に入社したのが1953年(昭和28年)ですが、当時、日本は進駐軍による占領は一応、終わっていましたが、まだ国際連合に入れてもらえませんでした。そして、やっと国連に加盟が許されたのが、敗戦から11年4カ月が経った1956年12月18日のことでした。そういう時代の空気の中で青春を過ごしましたので、学生時代から「海外に行きたいな」と思っておりました。その割にはそれほど勉強しませんでしたが…。
さて、丸紅に入社してから1回目の海外駐在は1960年3月10日、憧れのニューヨーク駐在の辞令が出ました。羽田空港から生まれて初めて飛行機に乗ったんですが、当時の飛行機は、現在の旅客機のように水平に駐機するのではなく、前の車輪を高くして停まっています。機体前方の搭乗口から後方の座席へ向かいますと、通路が下り坂になっております。指定された席に座りますと、仰け反ってこんな姿勢になってしまいます(会場笑い)。「こんなことでは飯も食えんじゃないか?」と思っていましたが、要らぬ心配で、離陸するとちゃんと水平に戻りました。
当時は、ニューヨークどころかハワイまででも直行便がなく、私の場合は、まず太平洋の真ん中にあるウェーク島で給油し、そしてホノルルへ向かいました。そこで再び乗り換えるのですが、行きがけに、まずホノルルで初商売をしました。2泊させていただき、日本へしょっちゅう来ていたバイヤーに「おい、俺がニューヨークへ行く時は必ず立ち寄るから、ちゃんと商売くれよ!」と予め頼んでおいたのですが、彼はちゃんと仕事をくれました。その後、3月10日にニューヨークへ無事に着いた訳ですが、何から話したらよろしいか…。とにかくいろいろとございました。
私がニューヨーク駐在を命じられた時は、誰かの交替要員(後任)ではなく、「新しい商売をしてこい!」ということで辞令を貰いましたので、ニューヨークに着いたものの、それまでに具体的に何らかの商取引があった訳ではありませんので、いったい何から手を付けたらいいのか、さっぱり判りませんでした。そんな矢先の6月29日、ブロードウェイを横切ろうとした時、えらい交通事故に遭いました。日本は車は左側通行ですが、アメリカは右側通行です。日本人の癖で、横断信号のない所を、自分の右側から車が来ないので強引に渡ろうとした時、ボーンと当てられてひっくり返りました。そこへ警官がやってきて、ひっくり返っている僕を上からグーッと押さえつけた。僕は「ホワイトホール・フォー・ナインワンハンドレッド(WH4・9100番)」─会社の電話番号です─それだけ言って、気を失いました。
次にパッと目が開いた時には、病院のベッドで真っ白な病院服を着て横たわっていました。しかし、喉がカラカラに渇いてかなわない。「コカコーラでも買いに行こう」と思い、戸棚を探し自分の背広からお金を出そうとすると、背広の両襟が血だらけ…。「えらいことになっとるな」と…。口の中にも手を入れてみるとドロドロで血だらけ。しかも、財布は中身を盗られて空っぽでしたので、看護婦さんを呼んで水を貰いました。結果的に1カ月ほど入院しました。アメリカは右側通行、英国や香港は日本と同じ左側通行。そして英国からヨーロッパ大陸へ渡ると、また右側通行です。その時以来、「道を渡る時は両方から車が来ていないかどうかよく見てから渡れ」と自分に言って聞かせました。あのときは
酷い目に遭いましたが、こうして50年以上も経った今日でも元気に喋っています。
1960年当時、日本は国連加盟直後でした。当時の「メイド・イン・ジャパン」の商品は、海外では「安かろう、悪かろう」というイメージがありました。丸紅のニューヨーク支店には、ドルの現金がほとんどありませんでした。給料も遅配…。しかし、これは丸紅にお金がない訳ではなく、日本円はいっぱいあっても、外貨すなわち米ドルが一定額以上割り当ててもらえなかったんです。そこで、上司は「電報も1本にまとめて打ち、まず自分の金で立て替えろ。後で必ず返すから」と来る。否が応でもポイントだけに絞り、言葉数を少なく書く必要に迫られましたが、あれも「良い勉強になった」と後になって思いました。
妻子は最初の2年間は呼び寄せることができませんでした。会社の先輩に「独り身で2年間はたまりませんな」と言うと、「おい、橋本君、君は2年待ったら呼べるじゃないか。俺の時代は家内が来るまで3年待たされたぞ!」とおっしゃる。私は「先輩が何年待たれたか知りませんが、今は奥様が居られるじゃないですか。 僕は今、家内が居ないんですよ」とボヤきつつ、先輩の家へしょっちゅう晩飯を食べに呼ばれ、麻雀もやらせてもらいました。ご飯を食べさせてもらった上に、小遣いまで頂ける(会場笑い)。これは本当に懐かしいことでございました。麻雀で飯を食おうとは思いませんが、けれども、何ごとにも勝負事は勝ったほうが嬉しかったですね。
▼俺が喧嘩できるようにしろ!
当時の日本のイメージが如何に悪かったかということを話しますと、私は繊維製品を扱っていましたが、白い生地を染めたりプリントしたりして縫製業者に売る。アメリカでは「コンバーター」と呼ばれる問屋さんの所へ、日本の東レのナイロン織物を売りにかかりました。アメリカは化学製品メーカーのデュポンをはじめ、ナイロン王国です。私は前任者がいない分野へ「何か新しい商売を見つけてこい!」と会社から送られた訳ですから、新しい商売を見つけないことには食っていけない…。その頃、ジェイ・ファブリックスのバーナル・シルバーという大将が、私に「午後5時以降にウチの会社へ来い」と言う。何ごとかと聞くと「日本人が出入りしているのが他のお客さんに見つかると、ウチの格が下がるんじゃ!」こういうことを言うんです。なんちゅうことを言うのかと思いました。私はたとえ「橋本は馬鹿や!」と言われても「その通り、正解」と、全然堪えなかったけれども、日本の悪口を言われると、もの凄く腹が立ちました。あの頃に、私は愛国心ができたと思います。
橋本守氏の熱弁に耳を傾ける求道会員各氏
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そんな中、とにかくナイロンタフタ(註:ナイロン繊維で織った薄くて光沢のある生地。主として雨合羽や傘などの生地になるが、変色しやすい欠点がある)10万ヤード(約9万メートル)の初契約が取れました。契約が取れたことは良かったですが、その時、バイヤーから何と言われたか? もし、日本からの船積みに積み遅れが生じたり、品質不良のクレームがついたら、その時に「メイド・イン・ジャパンなんか使うからや」と言われるので、「問題が生じた時には、その損害賠償金を保険会社が支払い、その保険会社へ丸紅が支払うというパフォーマンス・ボンド(契約履行証明)を一札(いっさつ)保険会社から取ってこい」と言われました。ところが、これには、丸紅の本社がOKを出さないと保険会社はボンドを発行してくれません。当時、常務を務めておられて、後に丸紅米国会社の社長になられたYさんに「橋本、そこまで馬鹿にされてまで商売したいのか? お前には大和魂があるのか!」と、こっぴどく言われました。「保険会社が一札くれなかったら契約しないとまで言われて、まだ売り込みに行くのか?」と言われました。私は「私が、あるいは丸紅が信用されていない訳じゃない。日本が信用されていないんです!」と答えました。
覚えておられる方もおられるかと思いますが、当時、「ハガティ事件」というのがありました。アイゼンハワー大統領が日本へ行きたいということで、ジェイムス・ハガティという大統領報道官が先遣隊としてアメリカから日本に打ち合わせにやって来たんですが、羽田空港に着いた途端、全学連がハガティ氏の車を取り囲んで動けなくして、追い返してしまったんです。結局、アイゼンハワー大統領も日本には来なかった。そういう時代に、バイヤーからは「パフォーマンス・ボンドを取ってこないとこの契約は成立しない」と言われ、上司からは「お前そこまで馬鹿にされてまだ商売がしたいのか? 大和魂があるのか!」と言われた訳ですが、私は「この契約を通じて、良い品物を納期通りにピシーッと納めて、日本の面魂(つらだましい)を見せてやりたい。1回だけこのボンドを保険会社から入れさせてくれ。この契約を通じて日本製品がしっかりしているところを見せてやりたい」と頼みこみ、ボンドを入れてもらいました。東レもしっかりやってくれました。
そこからどんどん商売が広がり、半年ぐらいしてから僕は東レに言いました。「マーケット・クレーム」という言葉がありますが、商品市況が下がると、渡した商品の何処かに傷がないかと粗探しをされ、クレームが一杯ついたんです。当時、東レは、三井物産、三菱商事、日商岩井といった様々な商社を介して製品を輸出していましたが、「アメリカにおける東レのナイロン販売は、すべて丸紅に任せろ。そして、こういった理不尽なマーケット・クレームがあっても、俺がもっと強く喧嘩できるようにしろ!」と言いました。そして、先方に「こいつ(橋本)と喧嘩したら、日本からのナイロンは買えないんだと」と思わせることができたらこちらの勝ちです。東レも自分のところのためですから、「そうか、お前が喧嘩に強くなれば、ウチも得するな。よし、やってくれ!」ということになり、とにかく日本からアメリカへのナイロン繊維の輸出は、丸紅が独占契約─当時「丸紅のモノポリ」と言われましたが─にまで漕ぎつけたことも懐かしい思い出です。
▼ケネディ暗殺と天皇崩御に接して
1960年から7年間、1回目のニューヨーク駐在を務めました。その間いろいろなことがございました。例えば、ジョン・F・ケネディ大統領の時代に、日本から繊維関係のお客様が来られた時、「アメリカの繊維工場を案内してほしい」と頼まれたので、「お安い御用」と引き受けました。当時は会社の車など使わずにマイカーを使って、ニューヨークからニュージャージーまで有料道路を走っていた道中、カーラジオで音楽を聴いている時に臨時ニュースに切り替わりました。「おい、ちょっと待ってくれ」とお喋りを止めてラジオに耳を澄ませると「John F Kennedy was shot. He is very critical(ジョン・F・ケネディ大統領が撃たれ、重篤な状態にある)」という臨時ニュースが飛び込んできました。「これはえらいことになった!」と思いつつ、日本から来られたお客さんを乗せて繊維工場に着くと、皆仕事をせず、ガクッとうなだれている。「ケネディは、死んだのか?」と尋ねると「死んだ…」と言う。そのまま1週間、アメリカは喪に服していました。ブロードウェイのタイムズスクエアにはミュージカル劇場がたくさんありますが、これが全部、1週間興行を取り止めました。テレビも1週間、ニュース番組以外、娯楽番組は一切なし。鎮魂のミサをテレビでも流していました。これは1963年のことです。
一方、昭和天皇が崩御されたのは1989年のことでしたが、果たして(ケネディ大統領暗殺時のアメリカ人の服喪姿勢と比べて)日本はその時、どうだったのでしょうか? 当時、私はロンドン駐在でしたから、その時の日本国内の様子はあまりよく判らないのですが、ひとつ、驚いたことがありました。崩御されたのは1989年1月7日のことですが、1年前の1988年から日経新聞に─私はロンドンでも毎日日経を読んでいました─「天皇陛下がご危篤」という記事が何度も載りました。ところが驚いたことに、英国の国営放送であるBBCでは、このことについて何も言わない。お隠れになった日は、富士銀行の方が私の家に来られていて、麻雀をしている最中だったんですが、その部屋に家内が飛び込んできて「パパ、大変よ! BBCで『日本の天皇陛下がご危篤!』と報道しているわよ」と言ってきた。日本のテレビ局は昨年以来ワイワイ騒いでいる。しかし、有り難いことに、天皇陛下はその都度、いのちを取り留められておられた。
一方、BBCが初めて「危ない」というニュースを流したら、その日の内に亡くなられた。このあたり、情報分析力というべきなのか、たまたま当たったのか判りませんが、いずれにしてもBBCが1回報道した直後に崩御されたことには感心しました。何回も丁寧に言ってくれるのも有り難いけれども、かえって心配ばかり募ります。その点、BBCはピシッと1回の報道で当てたのには驚きました。
ケネディ暗殺から2年後の1965年11月、ニューヨークで有名なブラック・アウト(大停電)が起こりました。地下鉄も走らない。当時、私はマンハッタンにある丸紅の会社に通勤するのに、マンハッタン島ではなくて、駐車料金が安いイースト・リバーの東岸、いわゆるロング・アイランドに車を止めて、そこから地下鉄で会社に通っていましたが、その地下鉄も止まってしまったので、さあ困った…。マンハッタン島の東側がイースト・リバー、西側がハドソン・リバーですが、この橋を歩いて渡って車を止めてある駐車場まで辿り着くのにずいぶん時間がかかりました。私は商売人ですから、その時、「この停電で誰か儲けた奴はおるだろうか? 損したのは誰だろうか?」という話をアメリカ人の友人としていましたが、ホテルは自宅に帰れなくなった人が殺到し、大儲けしたそうです。それから、移動することができなくなったので、レストランは全く商売にならなかったそうです。
ところが、その大停電から10カ月後に産婦人科医院はどこも満員になった…。何かというと、お産ラッシュです。だから、停電でもできることがあるんですね(会場笑い)。逆に言うと、テレビも映らない、ラジオも聴けない。「そしたら…」ということになるんでしょうか。あの停電で誰が儲けたのか、誰が損したのかと話し合っていましたが、10カ月後のことを言い当てた人は誰もいませんでした。
▼働くために休む
話は変わりますが、ニューヨークの会社のトイレで大便をしていた時、「個室」の外からトイレの掃除婦をしている女性2人の会話が聞こえてきました。「この夏どうするの? 休暇(バケーション)は何処へ?」という問いに「私は北欧へ2週間行くの…」と答えている。当時、私の休暇と言えば、自宅から車で30分ぐらいの所にある、会社が建ててくれた海岸の傍にある保養所に2泊3日ぐらいで行くのが精一杯のバケーションでした。ところが、便所掃除をしているオバチャンが休暇を2週間もとって…。「あぁ、まいったな」と思いました。ニューヨークには1960年から7年間滞在した後、1974年から再び3年ほど行ったんですが、二度目の時には、私もカリブ海のバハマ諸島か(ロッキー山麓の)コロラド州のボルダー辺りまでバケーションに行きましたが…。
三宅善信先生も、昨年(2012年)10月に南アフリカのヨハネスブルグに行ったとおっしゃってましたが、南アフリカも良い所ですよ。私もロンドン駐在の時には、南アフリカへよく行きましたが、その中のひとつにケープタウンのすぐそばのステレンボッシュという町があります。そこにロンドンへちょこちょこ顔出しする旧知のドクター・ルパードの事務所に行ったんです。このステレンボッシュは、ものすごくきれいな街なんです。僕は彼に「あなたのところはきれいな街だな。あなたはいつもロンドンへ来るけれども、ここは大自然がそのまま残っていて、海岸もあって、ロンドンにはない何とも言えない美しさがあるいい街だな」って彼に言ったんです。
彼は、「そんなに気に入ったのなら、俺はこの町に別荘を持っているから、奥さんを連れて1カ月ぐらい休暇に来たらどうか?」と言ってくれたんです。そこで僕は喜んで、「そうか! そしたら2人連れで1週間ぐらい来させてもらってもいいか?」と言ったんです。そしたら彼が「お前は『この街が好きだ。素晴らしい』と言いながら、『1カ月来い』と言っているのに『1週間来ようか』とはなんじゃい! その程度しか気に入っていないのか!」と怒りました。そこで、私は「あなたは日本人の生活様式を全然知らない。日本では、1週間休みを取るだけでも大変なんじゃ。日本の経営者は無茶苦茶働いているぞ。それでも休みは週末を挟んで4〜5日バケーションを取るのが精いっぱいなんじゃ」ということを言いました。
そしたら、彼は「うーん、日本の社長連中は働いてないんだな。働いていないから休暇も4〜5日取れば十分なんだな?」と言うので、「何を言うとるか、ワシらは無茶苦茶働いとるぞ!」と言いました。すると今度は何と言ったと思いますか? 「無責任な社長ばっかりじゃのう…」私が「何が無責任じゃ?」と尋ねると、「そんなに疲れ切った頭で、重要なことを決めていく…。それほど企業にとって恐ろしいこと(リスク)はないぞ。ワシらの考えは、とにかく一生懸命働く。しかし1カ月はゆっくりとバケーションを取らないと、体が続かない」と…。「4〜5日しか休みを取らないで大事なことを決めていくなんて、それほど無責任なことはないぞ!」と言う。どう言っても理解してくれないのですね。このようにバケーションひとつ取ってもいろいろ意見が違うなあということを思いましたね。
先ほど、信者さんの代表として体験談を発表された森本君が、僕がロンドンに駐在していた時に彼がイタリアにおったという話をしてましたけれども、当時私は、欧州アフリカ地域の総支配人兼丸紅英国法人の社長でしたから、毎年欧州やアフリカ域内を飛び回っていたので、年間200日ぐらいはロンドンに居ませんでした。ODA(政府開発援助)というものがあるんですが、日本政府がODA資金として途上国に援助を提供する訳ですが、商社がいかにこれを取り込むかということが課題でした。そもそも、ODAは途上国向けが多かったですけれども、中でもアフリカが多い。こういうものを日本の現地大使館にアプローチして、「ウチの国に援助してほしいと本省(東京の外務省)に言うていけ」と言って大使館の背中を押す訳ですが、成立すればこっちも商売が取れる訳です。当時、私は年間200日ぐらいはロンドンを留守にしていましたが、家内によく「日本に子供3人を残して、一緒に主人のロンドン駐在に付いて来ているのに、肝心の主人は海外出張ばかりで家にいない。なんで私1人がロンドンで生活しているんだろう」と言われましたね。だけど「これが俺の仕事だ」と言って、一生懸命仕事してきました。
▼まずは人間同士の信頼から
1983年から3年間は、丸紅本社のヒラ取締役で、丸紅の香港会社の社長として赴任していましたが、どうも10年間ニューヨークに居た時と気分が違う。何かと思ったら、プレッシャーが違うんです。ニューヨークでは「日本人を馬鹿にしやがる。何くそ!」という気持ちがあったんですが、香港に居ると「日本人は偉い、日本は良い国だ」という気持ちで接してくれているのがよく分かるんですね。「ハハーン、これだな。気分的に楽しいのは…」と思いました。香港でも一生懸命仕事を頑張ってきました。香港駐在時は、メイドさんが2人いましたが、1人は掃除・洗濯担当。もう1人は炊事担当…。家内は、あの頃が一番楽だったと思います。お客さんもしょっちゅう来ました。玄関を開けるのはメイドですが、彼女たちは日本語ができません。けれども来客はドアを開けてくれたメイドに対して「○○会社の長谷川です」と挨拶するものですから、メイドもキョトンとしています。私が「長谷川さん、彼女はメイドだよ。僕の家内は後ろで待ってるじゃないか」と、慌てて紹介することもありました。この2人のメイドさんはよく頑張ってくれました。
香港は同じ中国語といっても、柔らかい語感の広東語の世界です。当時、エミーと言う女性が僕の秘書で、私の社長室を出た所に机を持っていました。こちらがベルを押さないで「エミー」とファーストネームで呼ぶと、「ハイ」とは言わず、必ず間延びした声で「ハーイー」と言うんです。「何故、ちゃんと『ハイ』と返事しないんや?」と尋ねると、香港の男性社員が「『ハイ』なんて言えませんよ。広東語で『ハイ』の意味は『女性のアソコ』なんですから」と、僕に教えてくれました(会場笑い)。他にも面白い話があります。
香港の「煌林ゴルフクラブ」という有名なゴルフ場があるんですが、私は日本からお客さんが来るとここへ連れて行くことがよくありました。ここでプレーする際は香港人がキャディーとして付きますが、日本人同士が一緒にラウンドを回ると、決まってキャディーが大笑いするんです。「ハイ」は女性のアソコですが、「ドウモ」は広東語で「毛深い」という意味なんですよ(会場笑い)。よくできたもんですね……。「今のショット、素晴らしかったね!」と誉められると、「はいはい、どうもどうも」といった会話がしょっちゅう出てきますが、キャディーさんにしてみれば、お客が「アソコが毛深いな」と言い合いながらラウンドを回っているようなものです。悪気は全然ないんですが、言葉というのは恐ろしいものだと思いました。
ロンドン駐在の話も少しだけ申し上げますと、ニューヨークとも違う香港とも違う。「英国はマナー─いわゆる「Ladies and gentlemen」─の国」という印象を受けました。品があり、マナーにうるさい。そのくせ、泥棒が多かったですが…(会場笑い)。ですから「何をお高くとまっていやがるんじゃ!」と思いましたが、それもロンドンの印象のひとつです。
そもそもミシュランは有名なタイヤメーカーですが─一般の人にはホテルやレストランを2つ星や3つ星とランクキングする『ミシュランガイド』のほうで有名ですが─、丸紅もゴムの取引をやっていた関係で、このミシュランの社長に会いにパリへ行った時の話をします。当時、丸紅フランスの社長だった松田君が、ミシュランの社長の所へ私を連れて行ってくれたんです。松田君はフランス語がペラペラなんですが僕はフランス語は喋れない。ミシュランの購買部長もフランス語で喋っていたんですが、僕だけフランス語が喋れないことを素早く見抜いたミシュランの社長が部下に何といったか? 「おい、英語で喋れ。俺はフランス語は解らん」と、堂々たるフランス人のミシュランの社長が部下に英語で命令して、笑いながら僕にウインクするんですよ。英語を知っていても母国語しか話そうとしないフランス人がほとんどなのに、なんと心憎いまでに情のある人かと感激しました。有り難かったですね。
実は、この話には後日談があります。この松田君が、パリへ出張でみえた日本の有名会社の重役をミシュランの社長の所へお連れしたところ、その大会社の重役はフランス語で挨拶をし始めたそうです。すると、このミシュランの社長はなんと言ったと思いますか? 「あなたの英語はサッパリ解りません」と英語で言われたそうです。この話は後から松田君に聞いたんですが、フランス語が母国語のミシュランの社長が、部下に「英語で喋れ。俺はフランス語は解らん」といって僕にウインクしてくれた人が、同じく日本から来た客で、フランス語で挨拶をし始めた相手に「あなたの英語はサッパリ解りません」と言うのです。一生懸命フランス語で喋っているお客はがっくりですよ。私に対してウインクしてくださった人と同一人とは思えません。要するに人間同士の付き合いというのは、言葉以上に「こいつ、賢そうにしているけど、好かん奴やな」とか「こいつ、アホやけど面白い奴やな」というところが先にあるのでしょうね。世界中、まず相手の人間性を見るところから始めるあたりは共通なのかもしれません。
▼真の国際人とは
私はよく、会社の新入社員を対象にした講習や講座で、商社マンの心がけはどうだこうだと喋りましたが、その時に「橋本さん、あなたは海外に長いことおられましたがお子さんの教育はどうされてましたか?」と尋ねた新入社員がおりました。私はその質問に対して、「今は答える必要ない。新入社員は皆、独身だろう? 君たちがいつ結婚するかは知らんが、結婚してからも子供が小学校に行くまで何年かかる? つまり、君たちが結婚して子供が生まれて小学校に行くまでに、少なくとも10年以上かかるだろう。そんな先のことまで今答える必要はない。10年後に先輩に聞け。ただひと言だけ言っておく、心配するな」と答えました。
また、よく聞かれた質問に「国際人とはどういう人をいうのですか?」というのがありました。私は「これはいい質問だ」と前置きして、「落語家の桂小米朝(現・桂米團治)は日本の良さを英語で喋れる人を国際人だと言っていた。日本のどういうところが海外に比べて良いのか、悪いか。これを英語で喋れる人が国際人だろう」また、「僕の国際人の定義は『国境を意識しない人』です。例えば、100人の新入社員の前で喋る。僕の話が終わると皆、外へ出て、『今の話、面白なかったな。つまらんかったな』と、お互いに喋り合う。では、この100人が30カ国から来ているとしよう。この100人が『今の話、面白なかったな』と、気楽に言い合える。そういう風に国境を意識しない人を国際人というのじゃないか」と言ったことがあります。
元阪神タイガース監督の吉田義男さんは家も近所で仲良くさせてもらってます。彼は3回監督やっていろいろ苦労もしたようですが、奥さんは「主人がいくら苦労しても、私は主人を支えますよ」と言っておられました。吉田監督の奥さんは、べっぴんなだけでなしに、良い嫁さんでした。この吉田義男監督が、ある時「橋本さん、あんたは随分海外に詳しい。阪神タイガースにも外国人の選手が居るけれども、どういうふうに扱ったらいいか」と、尋ねてこられたことがありました。僕はその時も、先程言いましたように「国境を意識しない人が国際人だ。外国人も日本人も同じように鍛えれば良い。こいつはアメリカから来た奴だ、こいつは○○からきた奴だ。そんなことをいちいち考える暇があったら、いくらでもやることがあるよ。意識するな」と言ってあげたら、彼は「良い話を聞いた」と喜んでましたよ。こんな話を始めたらきりがないんですが…。
このような立派な所で私のような柄の悪い男が話をするのは初めてです。しかし、私は柄は悪いですが嘘はついたことはありません。家内にだってなんでも白状しました。要するに、私の言いたいことは。尊敬される日本になってほしい。品性のある文化国家になってほしい。道徳のある国は絶対に滅びない。健全な民主主義国家になってほしい。そのためには、国民のレベルが高くなければならない。個人の確立も必要だ。自己責任もはっきりしなければいけない。先ほど、ジョン・F・ケネディが亡くなった時の話をしましたけれども、彼が言った「Ask not what your country can do for you ─ Ask what you can do for your country(国が君のために何をしてくれるかを問うなかれ。国のために何ができるかを自らに問え)」という有名な言葉があります。非常に印象深いです。
最後に、私の好きな言葉「雲外蒼天(うんがいそうてん)」を紹介して、結びの言葉としたいと思います。これは「どんなに雨が酷く降っていても、暗雲の上には輝く太陽があるんだ。暗雲が去って眩しい光がパーッと差し込んだ時に、目が眩(くら)んで倒れないように、日ごろから志を高く持って生きていこうではないか」これが「雲外蒼天」という言葉の意味であります。皆様のご活躍をお祈り申し上げて、お話を終わらせていただきます。ご清聴有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)