7月15日、創立86周年記念婦人大会が『難しさに向え、よろこび勇め』をテーマに開催され、全国から婦人会員が参加した。記念公演は、NPO法人リライフ代表、相愛大学人文学部教授の釋徹宗先生を講師に迎え、『老病死の人間学』と題する記念講演を行った。本サイトでは、数回に分けて、釋徹宗先生の記念講演を紹介する。
釋 徹宗
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▼誰かと繋がっているという実感
ただ今ご紹介に与りました釋徹宗と申します。よろしくお願いいたします。本日は伝統ある泉尾教会の婦人大会に呼んでいただき、有り難うございます。こちらの三宅善信先生と親しくさせていただいておりまして、それがご縁で今日こちらに寄せていただきました。
私は、大阪府の北の端にあります池田市のお寺(浄土真宗本願寺派如来寺)の住職をしているのですが、お寺のすぐ裏にある古民家を使って、認知症の方の「共同生活の家」というのを運営しております。『老病死の人間学』というタイトルを付けたんですが、そんなに長いお時間があるわけではないので、今日は、認知症の部分に特化してお話をさせていただこうかと思います。
ウチのお寺の裏に、植木屋のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでおられた古民家があるんですが、おばあちゃんが亡くなられた後、おじいちゃんが1人で暮らしておられましたが、そのおじいちゃんも亡くなられて空き家になったんです。子供さん─子供さんといってもお孫さんがおられるような歳ですが─が3人居られるんですが、どなたも戻ってこられない。あとで写真を見ていただきますが、昔ながらの農家の家で、瓦屋根に広い縁側、杉板の天井、大黒柱があって、土間もあるような設計になっているんですよね。それにこの方はもともと植木屋さんで、植木を置いておく広いお庭もあります。
ウチのお寺の辺りは本当に田舎で、お寺の周りはみんなウチの檀家さんです。「昔ながらの村」という形が残っていて、かつその空き家に誰も住まれないようなので、ここで認知症の方に住んでいただくと、すごく良いんじゃないか。そして、専用の施設ではなく、この「普通の家で普通に暮らす」というのはどうだろうかと思いました。その時に、介護に関しては本当に素人だったんですけれども、友達と集まってNPOを立ち上げ、ここで認知症の方に暮らしてもらおうと考えたんです。結果的にはこのやり方で良かったと考えております。どこが良かったかについては、これからお話させていただきます。
釋徹宗先生の講演を聴くために集まった満堂の婦人会員たち
ここ十数年ずっと高齢者、特に認知症の方と関わっておりますと、これからのいわゆる高齢化社会において、延々と続く老いを「いかに生きるか」というのは、いろいろと考えるところがあります。また学ぶところもあります。ひとつは「これからは、いろんなコミュニティーに首を突っ込むという生き方をしていかないといけないんじゃないか」と、私は思うんです。私はこれを「コミュニティーの重所属」と呼んでいます。重所属とは、同時に複数の集団に所属するという意味です。泉尾教会もひとつの信仰コミュニティーですね。皆様方も泉尾教会以外にも、いろんなところに首を突っ込んで、いろんなコミュニティーに関わるという生き方をしておられると思います。今や、至る所がかつての地域共同体ではなく、都市型社会になっておりますので、「いろんなところに首を突っ込む」という生き方が、きっと大事だと思うんですね。
私は認知症の方や難病の方と関わっていて、つくづく思うんですけれども、人間って「ああ、繋がってるな…」と実感できたら、「今日も苦しいけれど、もう1日頑張って生きてみよう」と思えるんです。われわれの心と体はそんな風にできてるということを、時々痛感します。逆に言えば、「何にも繋がっていない」ということは、ものすごく大変です。われわれの心と体は「何処かで誰かと繋がっている」という実感さえあれば「もう1日生きよう」と思えるように根っこの部分ができてるんです。繋がっているという実感は、根っこのところで生きる力を支えているという風に思うようになったんです。特に、われわれ宗教の領域というのは、生きてる人とだけ繋がっているわけではありません。先に逝った人とも繋がっており、神様仏様にも繋がっている。この「繋がっている」という実感が、われわれの生きる力を根底から支えてるという風に思います。
▼『殯の森』
皆さんの中に河瀬直美監督をご存知の方は居られますか? 私も大ファンなんですが、本当に良い映画を撮られます。あまり一般受けする映画は作られないんですけれども、ほんとに綺麗な映像で奈良を撮られますよね。河瀬監督の映画作品でお勧めのひとつに『殯(もがり)の森』というのがあります。河瀬監督の映画は、どれもタイトルが難しいことで有名ですが、この漢字は「もがり」と読むんですね。「殯」というのは、人間が息を引き取ってから埋葬するまでの間のインターバルのことなんです。現在では、死後24時間置いたら火葬できるんですが、古代にはもっと長く置いたんですね。特に、皇族とかお公家さんみたいな人は長く置いたんです。この『殯の森』という映画は、カンヌ映画祭のグランプリを取ったんです。どんな映画かというと、奈良のちょっと山里にある普通の民家を使って、認知症の方のグループホームをやるというテーマです。寺の裏の古民家を使って認知症の方のグループホームを運営しだしてちょうど2年目ぐらいに、その映画が世に出たもんですから、すごく共感するところが多かったんです。良い映画ですので、ぜひご覧ください。
この中の主人公は、しげきさんという認知症のおじいちゃん。この人はもともと役者さんではなく、普段は喫茶店のマスターをされているような方です。河瀬さんはそういう人を多く出演させています。河瀬さんってそういう人なんですよ。しげきさんは、奥さんを亡くして心が完全に折れてるんですよね。認知症というだけではなく、奥さんを亡くして生きる力を無くしているというのが、この人の特徴です。私もずいぶん多くの高齢者の方と関わってきましたけれども、やっぱり、奥さんを亡くして心が折れている男性は本当に多いです。旦那さんを亡くして心が折れている女性というのは、あんまり見たことがありません。むしろ、元気になったいう人はたまに居たりしますけれども(会場笑い)。
もちろん愛する人を亡くした悲しみは男性も女性も変わりはないですね。でも、女性のほうがだいたい大丈夫。理由のひとつは、身の回りのことを自分でできることが大きい。もうひとつは、女の人のほうが、人と繋がるのも上手なんです。男の人は苦手な人が多いですね。男性は、ちょっとこう自分のバリアを張りがちなんです。特に会社を辞めて何処にも所属する場所がない人は殻を張ることが多い。この前ある所で聞いた話ですと、65歳以上で、2週間2人以上の人と話すことがないっていう男性が2割以上いるそうです。2人の人とばかり喋っているということなんですね。
今、喋っていて思い出しましたけれども、先ほどお話したウチの寺の裏にある「むつみ庵」という認知症の方の共同生活の家で、4年ほど暮らしておられた溝口さんというおじいちゃんが居てはるんですよ。この人は元精神科医。東京大学で講師もしていたという、かなりエリートの精神科医の方なんですが、ひどい認知症なんです。ひどい認知症なんですけれども、認知症になる1年前までは、現役の医者として普通に診察してはりました。1年で急激に症状が悪化した訳です。お嬢さんもお医者さんなんですが、この方に聞いた話ですと、奥さんを亡くして急速に認知症の症状が進んだそうです。
この溝口さんというおじいちゃん、娘さんから話を聞いてびっくりしたんですけれども、娘さんが言うには「ウチの父が自分で靴下を脱ぐのを見たことがない」そうなんです。世の中にそんな人居るんですかね。聞けば、小さい時からずっとエリートなんです。子供の時は、全部お母さんが身の回りの世話をして、結婚してからは、全部奥さんが身の回りの世話をしていた。「ただいま」と帰ってきたら、カバンをボンッとほって、ドンッとソファに座ってたんですって。奥さんが上着を脱がして、靴下を脱がしてたんですって。その奥さんが亡くなって、たった1年でひどい認知症です。溝口先生を見てると、「自分のことは自分でせなあかんなあ」と、本当につくづく思いましたね。皆さんも、今日家に帰ったら旦那さんに言ってください。「あんた、自分のことはなんでも自分でしいや。あんたのためやから」という風に言ってあげてください。
ここだけの話なんですけど、この溝口さんは変わった人だったんですよ。身体が大きくて、いつも同じ所に座らないと気が済まない。共同生活ですから、他の認知症の方も居られるでしょう? その認知症のおばあちゃんが、とことことこと歩いてたら、パッと脚出してひっくり返すんですよ。「どういう性格してるんかな」と思いましたね。この溝口先生はすごい乾燥肌なんです。冬になったら毎日、スタッフが「先生、スキンクリームを塗りましょうね」と、一生懸命塗るんですけれども、塗っているスタッフの顔面を急に殴ったんですよ。攻撃性が強いんです。ところがですね、木下さんっていうすっごく若くて美人のスタッフがいるんですね。木下さんが塗ってるときは、じいっとしてるんです。勝手な人でしたね…(会場笑い)。残念ながら、その溝口先生は四年ほどウチの施設で暮らされた後、名古屋のほうにお嬢さんと一緒に引っ越しされて、今は居られないんですけれども。溝口先生も、奥さんが亡くなられたのがひとつのきっかけで、認知症が進んだようでしたね。
河瀬監督の映画『殯の森』に話を戻しますと、しげきさんという人も、奥さんを亡くして完全に生きる力を無くしている。そこに真知子さんという、若い女性スタッフが働くことになります。この真知子さんは、自分のミスで子供を死なせてしまって、完全に心が死んでしまっている。この2人がグループホームで出会う。そういう話なんです。最後、しげきさんは、真知子さんとずうっと山の中を放浪して、穴を掘って、奥さんの思い出の品と共に眠るっていうようなことをします。あれはやっぱりね、帰るところを探しているんですね。
▼心の共振現象
(『殯の森』という映画は)「人間はやっぱり、何処かに帰っていかないといけない」という、そういう気にあらためてさせてくれる良い映画だと思います。この映画の冒頭に、近所のお寺のお坊さんがやってくるという場面があるんですが、「近所のお寺の本物のお坊さんに来てもらった」と河瀬さんが言ってました。
このお坊さんがいろいろ喋るんですが、普段は黙ったままのしげきさんが、この時に限って喋るんです。「あのー、生きてるってどういうことなんですか? 僕は生きてるんですか?」そしてこのお坊さん役のお坊さんが─年配のお坊さんなんですが─なかなか味のある人で、「しげきさん、毎日ご飯食べてますか?」「はい。食べています」「それ、ひとつ生きてるってことですよね」そして「じゃあ、隣の人と手を握ってみてください」と言われてしげきさんは真知子さんの手を握って「温かいですか?」と聞かれ「温かいです」と答えると、「それも、生きてるってことですよね」という場面があるんです。この「食べてるから生きてる」というのは、生きものとして生きてるということですが、「手を繋ぐと温かい」というのは、いわば、繋がってるから生きてるっていう、人間ならではの領域になってきます。この「繋がる」というのは、何も直接的に手を握って繋がるということではなく、離れてても、縁もゆかりもなくても、「繋がる」ということが起こります。
例えばですね、きっと皆さん、東日本大震災で被災された方の行動などを見てると、自分が被災した訳ではないのに、まるでわがことのように胸が痛んだことがあったと思います。私も何度か被災地へ行かせていただきましたけれども、親を亡くしたお子さんが2,000人を超えます。また、津波の中で「死んでも子供の手を放さんとこう」と思っていた手をつい放してしまって、もう二度と子供に会えなくなってしまったお母さんもいます。皆さんもそういう方の話を聞いていると、まるで自分のことのように胸が痛む。自分のことのように涙が止まらないってことがあったと思うんですね。私はこれを「心の共振現象」と呼んでるんです。「共振現象」というのは物理の言葉なんですが、どんな物質も固有の振動数を持っていて、同じ振動数があると離れてても同じように震えるっていうものです。音楽室で音叉と呼ばれるU字型の金属をコーンと叩くと、ブーンと鳴ります。その音叉の横に振動してない別の音叉をもう1個持ってくると、離れていても勝手にブーンと鳴り出します。これが「共振現象」です。同じ心の振動です。同じ心の振動が起こることによって、その人と繋がるということが起こります。
これが「繋がっている」という実感に、ひいてはわれわれ一人ひとりの生きていく力になっていきます。この共振現象を起こすためにはですね、自分というバリアを張りっぱなしでは起きません。普段、われわれは自分というものを守るために、バリアを張って暮らしているんです。バリアを張らずに無防備な状態でいると、傷付いてばかりです。人間の社会とは、そういうものです。だから自分というものを守るためにバリアを張ってるんです。けれども、ずっと張ったままだと、心というものはだんだん振動しなくなって錆びてくるんです。だから、生きているうちに、日常生活の中でバリアをはずして、ありのままの自分というか、無防備な自分、裸の自分になれる時間と場所があるかどうか…。これが生きる上での分岐点です。その意味で言うと、こういう宗教の場は、仏様や神様の前で、全面的にバリアをはずして、素の自分として、そこにただあることができるのではないでしょうか。ここに居られる皆さんが、同じ心の振動を起こす。それがきっと、生きる上での曲がり角ということになるんだろうという風に思います。
▼「むつみ庵」について
さて、ウチの寺の裏の家でやっている「むつみ庵」というグループホームのお話をさせていただきます。グループホームというのは、同じ障害を持った人たちが集まって共同生活をする。それをスタッフがサポートするという形態です。かつては「最新の市民参加型福祉」という風に言われたこともありました。認知症の方のグループホームもあれば、精神障害の方のグループホームや身体障害の方のグループホームもあります。ウチのは認知症の方の共同生活の家、認知症の方のグループホームですね。いわば、在宅ケアと介護施設の隙間を埋めるような存在…。長年関わってきた者の実感として言えるんですが、認知症の方で体がまだまだ元気な方は、グループホームが一番良いような気がします。共同生活をするということは、時には在宅よりも良いと思っています。結構、自信があります。福祉の世界では「在宅が一番」みたいに言う人も多いですが、人によっては、共同生活の家のほうが良いと言う人もいます。私の場合は、たまたま裏の家が空き家になったもんですから、そんな風に始めました。
凄い苦労もしたんですよ。何の苦労をしたかと言いますと、なかなか認可が下りなかったんです。運営して十数年になりますけれども、「普通の家で暮らす」という発想が、行政のほうにはもともとなかったみたいなんです。何度も何度もチェックを受けてはダメ出しされて、また申請をやり直して指導に沿ってやり返して…、というのを何度も繰り返しました。どれもこれもバカバカしいことばっかりなんですよ。例えば「あんたのとこの施設は個室が確保されてないから、あかん」と言うんですよ。そこで「うちは、ちゃんと一人一人別の部屋にしてありますよ」と答えると、「何を言ってるんですか。あんたのとこは鍵かからないでしょう? 鍵がかからないのは個室として認められない」と…。鍵がかかるも何も、むつみ庵はそもそもが普通の家ですから、間仕切りは襖なんですよ(会場笑い)。にもかかわらず、紙でできた襖であろうが障子であろうが「鍵がかからないのは個室として認められへん」と言うんですよ。
それで、友だちと一緒にホームセンターへ行き、昔のトイレにあった、引っかけ型のいい加減な鍵をドライバーで襖に取り付けたんですよ。そして、「これでどうでしょうか?」と役人に尋ねたら、「これじゃあ駄目ですね。この鍵、中からでも簡単に開けられるでしょう? 中から開けられたら駄目なんです。自分で勝手に開けて徘徊したらどうするんですか? どう責任を取るんですか?」と言われました。来ていただいたら判るんですが、ウチの施設は、各部屋どころか玄関にも鍵がかかっていないんです。何しろ庭が広いもんですから徘徊し放題で疲れて眠るまで徘徊できるようになってるんです。それで「ウチ、徘徊自由の家にしようかと思ってるんです(会場笑い)」と言ったら「バカもん! 介護医療を一から勉強しろ!」と怒られたんです。何しろ素人ばっかりでやってるもんですから分からないんです。
それで、最初に取り付けた鍵を取り外して今度は外側にドライバーで付け、「これでどうでしょうか?」と尋ねたところ、「一応鍵なので仕方がない」と、OKをいただけたんです。それから2週間もしないうちに消防署の方が点検に来て、消火器の配置を見て回っている時に、パッと件の鍵を見て「これでは、うちは認可できません。中から開けられませんから」と言われたんです(会場笑い)。じゃあ、どんな鍵ならええの?という話です。火事の時に、中から開けられなかったらあかんのです。つまり、どの方もドアでガチャンと施錠できるドアしか想定していなかったため、それができない襖でグループホームを運営する施設がなかったのでそんなことになった訳です。苦労はしましたが、こうしてなんとか認可を頂きました。小さくとも、存在の意義は大きいと思っています。
「グループホーム」と申しましても、施設の併設とか病院の併設とかがほとんどで、うちのような単立グループホームというのは珍しいです。ましてや、古民家改修型というのは大変珍しいです。テーマは「不合理な家」です(会場笑い)。いくつかテーマがあるんですが、ひとつは「寺檀家制度風活用の家」。スタッフは、ほとんどうちの檀家さんにお願いしてるんです。「働きたい」という人がいれば積極的にスタッフとして雇用しているんです。規模は小さいですが、地域雇用に貢献してるんです。皆お寺と檀家の関係なので好意的にやってくれています。それがひとつ目の大きな特徴です。2つ目の特徴は「古民家改修型」。
もうひとつは「不合理なものを大事にする家」です。理屈に合わないものを大切にする。例えば、もともとその家にあったお仏壇を、そのまま置いてあるんです。最初は「それはあかん。宗教的なものは一切認められない。それに、だいたいお仏壇とか仏間とか要らないだろう? これを撤去したら、もう1つ部屋ができるだろう」と福祉課の役人は言うんです。けれども、「とりあえず置かせてください」と頼みました。何も仏教を伝道するためにこの活動をしている訳じゃないので、決してお仏壇の前で仏教を説いたりしません。実際に、天理教の方も真如苑の方も暮らしておられます。ただ、もう来ていただいたら判るんですが、明らかにその家の中心のような感じがするんです。
なかなかウンと言ってもらえなかったので、一生懸命説明したんですよ。例えば、昔の人は畳の縁や敷居を踏みませんが、外国人が来て「これを踏んだらどうなるんですか? 私は踏みますが、そうするとどうなるんですか?」と言われても、なかなかうまく説明できないですが、これが文化なんです。文化というのは、だいたい不合理なんです。「文明」と「文化」とありますが、「文明」は、そもそも合理的にできているんです。「近代文明」という言葉にも表れているように、どこの文化圏、どこの民族でも転用が可能なんです。近代化された所は、世界中同じ光景が広がっています。インフラが整理されて、集合住宅があって、病院があって、学校があって、そこで暮らしている人はだいたい同じようなことで悩んでいます。鬱病の増加とか、自殺率の増加とか、少子高齢化とか、合理的であるが故に発生した問題も、世界中に拡大します。
▼不合理なものの価値
一方、「近代文化」とは言わないでしょう? 文化というのは、そもそも不合理なものなんです。文化っていうのは理屈に合わないので、ある一定の範囲以上は広がらない。先程の「畳や敷居を踏まない」というのは日本文化ですね。縁を踏まないというのは、不合理といえば不合理です。この不合理で理屈に合わない事柄が、実は体の知性を育てていると私は考えているのです。ですので「お仏壇を撤去しろ」と役所から言われた時も「床の間があるでしょう。床の間に荷物を一杯積み上げたりゴミを置いたりしたら抵抗あるでしょう? けれども床の間がなくても暮らせます。また、床の間がない家も一杯あります。それでも、そこに床の間があれば、われわれはゴミを置いたら抵抗を感じるし、やはりお花を活けたりお香を置いたり、掛け軸をかけたりします。あってもなくても暮らせるけれど、あったら気になるものがあると、生活は変わってくると思うんです。不合理なものが育てるのは体の知性と言いましたが、私はこれを「身体知」と呼んでいます。
体というものは理屈通りにいきません。合理的なものは頭の栄養になりますが、理屈に合わないものは体の栄養になる。そんな訳であまり介護理論にも沿っておらず、家の中はもう段差だらけで、階段も昔ながらの狭くて急な階段です。今の新しい施設というのは、部屋に人が入ったらセンサーが反応して照明が勝手に点灯して、部屋を出たら消える。水道は、手を差し出しさえすれば水が出て、手を引っ込めたら勝手に止まる…。バリアフリーでそこかしこにセンサーがついているんです。そんなところで認知症の人が暮らしたら、一カ月もしないうちに蛇口をひねって水を出す能力自体がなくなるんです。足もあっという間に上がらなくなるんです。生活すること自体がわれわれの体の知性を保っている。だから、できるだけ普通に生活することを大事にしています。
昔ながらの狭くて急な階段も、役所から「取り替えろ」と言われたんですが、「とりあえずこのままやらせてほしい。うちは手伝ってくれる人が大勢居るので、入居者の方の階段の昇り降りには必ずスタッフがサポートに付くから1回やらせてくれ」とお願いしました。あれから12年経ちますが、階段で怪我した人は1人も居ません。むしろ、平坦なところで転んで怪我したことは何回かあるんです。この階段が明らかに危険なことは、認知証の方でも判るんです。だから持ってる力をふりしぼって昇り降りするので、意外に怪我しないんです。人間ってほんとに不合理ですよ…。だから、家の中の不合理なものを身体知に変えていくことを大事にしていきたいと思っています。
▼入所者の物語に添うように
このやり方、お勧めなんですよ…。どんなに都市部でも必ず空き家がありますでしょう? そんな空き家を使って、志さえあれば、もしくは「一緒にやろう」という仲間さえあれば、私のような全くの素人でも運営可能です。空き家を改造すればコストもそんなに多くかからないですし、そこでちゃんと事業所認定してもらえば介護保険が下りますし、今の介護保険制度がある限り、運営母体が儲ける気さえなければスタッフに十分な給料を払えます。本当にその気になれば、そんなに難しくないということが、やってみて結構、判りました。
(スライドを見せながら)これがむつみ庵の概観図です。なかなか立派な家なんですが、もう築60年ぐらいの家です。これが玄関ですが、なかなかしっかりした田舎の家です。ちょっとおばあちゃんが1人日向ぼっこされてます。この写真の2人は徘徊中なんですよ。ぐるぐる回っても安心ですし、幸いもともと植木屋さん家(ち)だったものですから、本当に季節の花が咲いてくれますし、実のなる木もあります。なかなか自慢の庭なんですが、うちのスタッフは時々「こんなに一生懸命サポートしても、庭に負ける」と愚痴をこぼす時があるぐらいです。庭を自由にウロウロできるというのは、介護施設にとっては大きいです。雨が続くと皆さん明らかにストレスを感じておられる時があります。天気の良い時はお庭に出てランチをしたりします。こんな風に皆で流しそうめんをしたり、バーべキューをしたりもします。
これは庭の隅にある畑なんですけれど、もともと畑にしようと思っていた訳ではないんです。あるおばあちゃんが毎日庭をウロウロして、手で土を掘ったりしていたんです。最初は気に留めなかったんですが、若い男性スタッフが「あれ、農作業をしているつもりじゃないでしょうか?」と言い出したので、お子さんに電話してみたら、若い頃に四国で農家をされていたんです。それを聞いて「なるほど、じゃあ畑にしましょうか」ということになりました。むつみ庵での取り組みは、だいたいこういう行き当たりばったりな感じです。取り立ててプランがある訳ではないんですが、できるだけ暮らしておられる皆さんの物語に添うようにと思って運営しています。
これはなかなか好評でして、認知症の方も何かのお世話をするのが楽しいようです。お世話をして農作物ができることが喜びなんです。認知症ですから、せっかく出てきた芽を摘んでしまう方も居られるんですが、むつみ庵の前に置いてあるテーブルに、うまくできた作物を置いて100円均一で売ったりもしてます。それをやっているうちに近所の人も手伝ってくれるようになって、畑でできたものを置いてくれるようになりました。おかげでちょっとした収入にもなったりしています。
この写真は食事の支度をしているところですが、お2人とも認知症の方なんです。取り立てて変わったところもなければ、特に見ていただく所もないんですが、普通の家の居間に座っておりますと、トントンと包丁の音がしてお味噌汁の匂いがしてくるという普通の家なんです。皆さんもむつみ庵に来ていただきますと分かりますが、いかにも施設というにおいがしません。本当にごく普通に暮らしています。これがお部屋です。田舎のおばあちゃんの部屋みたいな感じですね。自分の持ち物を持ってきてもらって暮らしていただいています。これはちょっと判りにくいですが、先ほどお話に出てきた急な階段です。健常者の方でも「ちょっと怖い」と感じるぐらい細くて急な階段です。入居者の方にはこの階段を昇り降りして暮らしていただいてます。
「理屈に合わないものを大事にすることによって、体の知性が落ちないということを、われわれも考えていかなければならない」これは以前からある人類学者の方が言われてるんですが、ここ4、50年、われわれの身体知はどんどん落ちていっています。何故なら、われわれは体の知性を使わなくても暮らせる社会に暮らしてるからです。例えば、夜道を歩くのに灯りを持たなくても歩けますよね。コンビニの灯りもありますし、各家の外灯の光もあります。けれども、田舎に行くと「夜ってこんなにも暗いものか」と思うくらい真っ暗なんです。そんな真っ暗なところに暮らしていると、隣家に行くのにも全身のセンサーを使わないと行けないんです。そういったところでは、体の知性はあまり落ちないんです。けれども人間って─ここが人間の面倒臭いところですが─便利で楽になると、頭は賢くなるんですが体が馬鹿になるんです。そうやって体を甘くみていますと、現代人はいずれ体の問題に気付き始めます。
これ(写真を見せながら)、女性の方はご存じないかもしれませんが、最近男性のおしっこ用のトイレにこんな「的」が付いているんです。時にはハエのシールが貼ってあったりします。トイレ掃除をすると判りますが、男性のおしっこって思ったよりも飛び散っていますでしょう? 立ったままする洋式のトイレは凄く飛び散ってます。駅のトイレも電車のトイレも、凄く飛び散るらしいです。そこで、誰か賢い人がここに的のシールを貼ったら皆がそれめがけてするようになり、その結果、飛び散らないようになったそうです。
これを生体心理学では「アフォーダンス(affordance)」と言うんです。「アフォーダンス」とは、われわれは自分というものを出して暮らしていますが、実は、周りから許されて暮らしているんです。周りから許しを得て暮らすということを「アフォード」というんです。周りの状況に引っ張られて暮らすこと。これをもう一度考え直そう。それを使った理論がこれです。(写真を見せながら)こんな風にドアの取っ手が付いていたら、これを引っ張ろうとする人は居ないでしょう。絶対に押そうとすると思います。これもアフォーダンス。こんな風にすると、皆考えずに押そうとする形に許されて自分の行動が導かれるんです。また、こんな風に取っ手が付いていると、回すってことですねよ。
よく考えると、家の中に理屈の合わないものは結構あるんですが、それを大事にすることによって、周りの環境に許されて自分が導かれるというような感性…。この周囲の環境にわが身を任せる感覚は、信仰にも通じるものがあると考えています。周りとの関係を考えて、衣食住をもう一度見直すことが重要じゃないかと思います。
▼家族の方も安心して預けられる施設
家族会の様子は、できた時分からずっと暮らしておられる方も居られますが、だいたいご家族も顔見知りになっていますので、ご家族同士仲良くされています。これもやるまで気が付かなかったことです。認知症の方にとって、この家はきっと良い家になるだろうと予想はしていたんですが、まさか家族の方がこんなに喜ぶとは思っていませんでした。というのは、いかにも施設という感じじゃないからみたいです。
だいたいの人は、認知症の家族のお世話に精も根も尽き果てて預けに来はります。「もうとてもじゃないけれど、無理だ」という時がありますよね。お母さんと娘さんがずっと一緒に暮らしておられたけれど、娘さんは働かなければならない。働いて帰ってくるまでお母さんが飛び出したりしてはいけないので家に閉じ込めているんですが、帰ってくると、便を壁に塗ったり、石を食べたりする。もうとても無理…。そういう状態で親御さんを預けに来られる。それでも「親を施設に預けて良いものか…」という負い目があるんです。でも、普通の家で暮らしているものですから、「施設に預けた」という心理的負担が少なく、今まで通り、ちょっと田舎でおじいじゃん、おばあちゃんが暮らしている。これがどうも良かったみたいです。毎年第三者機関から審査を受けているんですが、「こんなに家族が頻繁に来られる施設は珍しい」と書いていただいています。それほど来やすい、敷居が低いと思います。
(スライド写真を見せながら)こんな風に近所の方が田んぼで育てたお花を持ってきてくださったりします。こちらが仏壇のある部屋です。たまたまうちのお寺と同じ宗派で、旦那さんを亡くされた米山さんという方がおられるんですが、ご本人の希望で「旦那さんの命日だけちょっとお経を上げてくれないか」とおっしゃるので、その時だけお経を上げます。お経が始まると、だいたい皆さんバラバラと集まってきて、こんな感じになります。お仏壇があると、認知症の方でもそちらに足を向けて寝ころばないですよ。これを身体知と言いますが、認知症が進んでも身体が生きる力を支えることが起こる訳です。これは物置に見えるかもしれませんが、実はケアプランセンターです。今ちょっと事情があってストップしているんですが、物置に「ケアプランセンター」と書いて貼っただけでも、ちゃんとケアプランセンターとして事業申請して認知を受ければ、ちゃんとケアプランの仕事を始められます。
けれども、誰でもこの家が合うかというと、そうでもありません。生まれも育ちも駅前の商店街という人だったら、刺激に欠けるかもしれません。ですから、大事なことは、さまざまなモデルがあること。いろいろなモデルがあって、自分に合ったものを選べることが大事です。そのためにも、行政で地域デザインをしていかないといけません。この地域にどれほどいろいろなタイプの暮らせる場所、居場所を作ることができるか…。うまくコーディネイトできれば、「ここで生きて、ここで死んでいこう」という町になっていきます。そういう意味では、このむつみ庵は小さいけれども、存在の意味があるだろうと思っています。
▼いかに見送るか
むつみ庵では、これまで5人の方を見送らせていただきました。5人ともお元気な時に延命治療の拒否を表明されていて、ご家族の方も「それでお願いします」ということでしたので、最後の1、2カ月はぐんぐん痩せていかれて、栄養の経口摂取が難しくなり、枯れ木のようになっていかれました。現在の医療であれば、この状態だと病院に移さないといけません。点滴や胃瘻(いろう)をして栄養補給をすれば、2カ月、3カ月延命することができます。けれども、それは不自然じゃないかと考える人が出てきています。見ていると判りますが、この状態になると、今まであちこち痛いとか苦しいと言っていたのが、段々なくなっていきます。多分、痛みを感じる能力もなくなっていくのだと思いますが、ずっと「痛い」、「苦しい」と言っていたのが、あまり言わなくなり、枯れ木のようになってフェードアウトしていく。「もう近いなあ」と思ってから、だいたい2週間ですね。そのぐらいになると、ご家族に連絡して、皆さんに来ていただいて、枕元でアルバムとか見ながら昔話をして、その中で息を引き取っていくという看取りを、条件が合えばさせてただいております。
私はもともとそんなに志の高い人間という訳でもなかったのですが、認知症高齢者の施設をやっていくうちにだんだんといろいろなことを学びました。先程お見せしたスライドに「認知症高齢者に学ぶ」と書いてありましたが、実は、それは私自身のことでして、日々、本当にいろいろなことを学びます。われわれがこれから如何に生きていくべきか、宿題をもらう時があります。
認知症の方とか、息を引き取っていかれる方は、その背中で教えてくれます。気が付いたのですが、ある頃から、われわれ現代の日本人は、急速に「人にお世話されるのが苦手」になっています。人のお世話をするのも苦手かもしれませんが、人のお世話になるのが特に苦手ですね。これは現代人のこれからのテーマだと私は思います。お世話され上手の体質みたいなものを考えていかなくてはいけない。先程申し上げたように、自分(自我)というものをグーッと頑張って持っている人こそ、一番お世話しにくいんです。かつて、地域コミュニティが強かった時代というのは、われわれは人に迷惑をかけたりかけられたりして暮らしていた訳ですが、ある時からわれわれは人にあまりお世話されなくても暮らしていけるようになってきました。その代わり、対価を支払う。そして、支払った対価と同等のサービスを受けて当然という体質になっていきます。これを「消費者体質」といいます。われわれはどんどん消費者になりつつある。けれども、消費者であるだけではどうにも前に進まない時代が必ずやってくる。消費者には別にお世話をされている感覚がないんですね。「対価を支払っているのだから、それだけサービスを受けて当然」という体質でやってきていると、人のお世話をするのもされるのも苦手になってくる。
▼お世話され上手な人になる
ところが、たまに居られるんです、お世話され上手の人が…。そういう人が1人居ると、家の中がすごく良いムードになります。人に身体を預けるのが上手といいますか、そんなお世話され上手の人を何人か見てきました。共通する点は、「こだわりがない」ということ…。あまりこだわりがないと、お世話され上手になっていくのです。如何に迷惑をかけていくかということを考えていかないといけない。私も考えるようになったのは、生まれた時から下半身が動かない障害者の方とお話をしていて、その方は「世の中に迷惑をかけていかないと生きていけない。だから、如何に上手に人を迷惑をかけていくかが私の生きる術なんです」と言われて、「なるほど!」と思いました。われわれ現代の日本人は、「人に迷惑をかけてはいけない」と思っているところに躓(つまず)きがある。これは、現代人のある意味、傲慢じゃないかと思います。われわれも、どうしても迷惑をかけたり、かけられたりする訳です。人間存在というものは、はじめから人に迷惑をかける存在なのです。ですから、上手に迷惑をかける、上手にお世話される、上手にお世話する。こういう体質を養っていかなくてはいけないんじゃないか…。私自身のテーマとしても考えております。
もうひとつ大切なことは、認知症になっても、「この人は大事な人」という感覚は壊れないということです。むつみ庵の入居者の中には、私のことを自分の親だと思ったり、自分の子供も誰か判らなくなっているという人もおられます。記憶の時系列がガタガタになり、暑い寒いの感覚も崩れていき、夏に一杯着込んで汗をびっしょりかいていたかと思うと、冬にシャツとパンツでウロウロしていたりします。そんな風に完全に人格が崩れてしまっていても、眼前の人が誰か判らなくても、「この人が自分にとって大事な人かどうか?」というのは、なんとなく判るみたいです。知り合いのお坊さんから、こんな話を聞きました。
ある奥さんが、嫁いでこられた時から、寝たり起きたりを繰り返すお姑さんの介護をずっとされてきたんですが、本当に人の良いお姑さんだったので、介護そのものはそんなに苦じゃなかったそうです。嫁姑の仲も良くて、いろんなお話もできて、苦ではなかった。けれども、そのお姑さんが認知症になられた。認知症になった後も、そのお嫁さんが引き続きお世話をしてきたそうですが、ある時、お姑さんのお部屋に入ったら「あんた、誰?」と言われたらしいです。それはもうショックでショックで、そのお坊さんの所に来られて「私はあんなに長い間お世話してきたのに、『あんた、誰?』と言われて、もう全身の力が抜けてしまい、お世話する気になれません」と言われた。そのお坊さんは認知症のことをよくご存知なので、「それは、脳が縮んだり一部が壊れたりしたせいであって、お姑さんのせいではないですよ。だから気にしないでお世話を続けてあげてください」と助言したそうです。
そして、とうとうお姑さんがもう本当に末期になった時、そのお嫁さんに「何処のどなたか存じませんが、有り難う」と言われたそうなんですよ。そこで、お嫁さんは「そんなに気にしなくても良いですよ」と言うと、そのお姑さんが「私、実は心残りがあるんです。息子の嫁にどうしても『有り難う』と言いたかった。なのに言うことができなくて…」と、お姑さんが言われるので「そうなんですか、そのお嫁さんはどうしたんですか?」と尋ねると、「もう死んでしもてん」と…(会場笑い)。どうも、お姑さんの頭の中では嫁が先に死んだことになっていたみたいです。そして「あんたも良い人やけど、そのお嫁さんはほんまに良い子やった。有り難う」と言って、死んでいったらしいです。お嫁さんも喜んで、わざわざそのお坊さんの所に話をしに行かれたそうです。この話、ものすごくよう解ります。この人は誰か判らない。けれども、自分にとって大事な人(の認識)というものは、結構壊れない。相当認知症が進んで脳の機能が損なわれても、壊れないんです。
私の経験上から言いますと、ちょうど認知症の始まる境界を行ったり来たりする時があるでしょう? あの時にあまり酷い目に遭ったり、意地悪されたり、怒られたりすると、きっちり嫌な認知症高齢者になっていきます。嫌な認知症の人って、居るんですよ。認知高齢者で仲間外れをするのが好きな人とか、つねったりする人とか。家族だから余計腹が立ちますよね。ですから、他人だからお世話できるところもあるんです。それに、家族には「あんなによくできたのに、もうできない」という苛立ちが湧くこともあるんです。けれども、ウロウロしている時にできるだけ上手に関わってあげると、本当に心の優しい認知症高齢者になると思います。そんな気がします。機会があれば、看取りのほうについてもお話しさせていただきたいと思いますが、時間がまいりましたので、今日のお話はこのぐらいにさせていただきます。有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)