2月22日、求道会創立69周年記念男子壮年信徒大会が開催され、『涙を笑いに変えて』と題して、河内ワイン代表取締役の金銅真代氏が記念講演を行った。本紙では、数回に分けて、金銅真代氏の記念講演を紹介してゆく。
金銅 真代氏
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▼河内ワインの始まり
皆さん、こんにちは。金銅真代と申します。どうぞよろしくお願いいたします。ただ今、ご紹介いただきましたように、私どもの会社は大阪府羽曳野市というところにございます。一山越えたらもう奈良県というこの丘陵地域は、昭和の初期は葡萄の栽培地として栄え、当時は栽培面積が日本一だったとの記録が残っております。
ところが、昭和9年に室戸台風が直撃し、皆落実してしまいました。栽培面積が大きかった分、被害も大きいものでした。果物の中には、りんごや柿など発酵する果物がございますが、中でも葡萄が最も糖度が高く、最後まで自力で発酵してお酒になれる唯一の果物です。そこで、これを転機として、栽培していた葡萄をお酒にしようということになり、ワイン造りが始まりました。駒ヶ谷は、当時、350軒ほどの集落で、喫茶店が1軒もないような何年経っても開発されない村だったのですが、350軒の内、25軒がワイン造りに関わっていました。
しかし、翌年の昭和10年に酒醸造の免許制が導入され規制がかかったことと、専門的な知識を持ったワイン造りの指導者がほとんど居なかったこともあり、ワイン生産に関わる家はどんどん減っていきました。最後に残ったのがチョーヤさんとうちの河内ワインの2軒だけでした。チョーヤさんは皆さんもご存知のとおり、梅酒でナショナルブランドになられましたが、実はチョーヤさんも最初の20年間はワイン造りに携わっておられました。現在では当社だけが残っていますが…。
私はこの河内ワインの三代目の嫁なんですが、まず最初に、会社の初代から順番にお話しさせていただき、それから15年前に三代目の夫が亡くなってからのことをお話しさせていただこうと思います。河内ワインという会社の初代である金銅徳一は、室戸台風をきっかけにワイン造りを始めた訳ですが、ワインを造って瓶詰めしたものを置いておくと、瓶底に滓(おり)として沈殿する酒石酸(タルタル酸)とナトリウムあるいはカリウムを化合した物質が、戦時中、音波探知機(ソナー)の原料として使われていました。NHKの朝ドラ『マッサン』でもやってましたが、当時、日本が負けるのは潜水艦の音波探知機が少ないことが原因だと考えた海軍から、河内ワインは酒石酸を納めるための指定工場になったこともございました。ですので、ワインをたくさん造っては酒石酸を海軍に納めていたのが初代である金銅徳一の時代です。そもそもワインにとっては不純物である酒石酸を海軍に納めるのですが、ワインは納める必要がなかったため、当時、酒類一般は贅沢(ぜいたく)品として規制されていたことと相まって、ワインが飛ぶように売れました。そのワインの売上で初代はどんどん土地や資産を増やしていきました。当時は「金徳屋」洋酒醸造所という屋号を名乗っていましたが、その頃に現在の河内ワインの礎が築かれました。
そして、二代目となる金銅一が誕生します。私の夫の父にあたりますが、二代目は非常に商才に長けた人でしたが車イス生活だったため、当時は正規の学校教育を受けることができず、早くから実社会に出ていました。昭和43年に会社を継いだ後、二代目は「未納税」と申しまして、販売用として酒税のかかる前のお酒を「S」という超有名企業にタンクローリーで納める仕事をしておられました。実は、同時期に梅酒も造っていたのですが―こんなことを言うと義父に叱られるかもしれませんが―正直なところ、河内ワインの梅酒はチョーヤさんのそれに比べてあまり売れませんでした。
ちょっと話が横道に逸れますが、現在四代目(金銅真代氏の長男、金銅重行氏)が、あまり量産しない形で「エビス福梅」シリーズとして毎年1種類ずつ出しております。「できるだけワイナリーが造った梅酒らしさを出したい」というのが四代目の希望でしたので、一般的なホワイトリカー(焼酎甲類)に梅の実を漬けただけの梅酒ではなく、ワインを蒸留して造ったブランデーベースで「梅酒」を造っているのですが、これがまろやかな梅酒ということで、だんだん話題になり、2年前の日経新聞のランキングで日本一を取らせていただきました。また、二代目は「地域に貢献したい」ということで、長年にわたり羽曳野市の商工会議所の会頭として地域のために尽力いたしました。
▼三代目の嫁として
そして、三代目が私の夫でございますが、私は大学を卒業した後に就職することなく、すぐその秋に22歳の若さで結婚いたしました。全く環境の違うところの方とお見合いで結婚した訳ですが、環境が違う結婚がこんなに大変なものだとは思いもしませんでした。自分で選んだ、決意したことなのですが、何度親を恨んだことか…。駒ヶ谷というところは働く村ということで有名だったんですが、当時、私の母が金徳屋の隣家へ様子を聞き合わせに行きました。その時に、二代目の夫人は畑にも行かないので、「三代目のお嫁さんになる人も何もしなくて良いお家じゃないか」と言われた言葉を鵜呑みにしました。「それならウチの娘でも大丈夫じゃないか」と母も考えたのですが、これは大間違いでした。あれほど皆さん働かれる村はないんじゃないかと思います。
葡萄栽培とは本当に大変な作業です。例えば、食用の葡萄の場合、畑の葡萄棚になっている葡萄の一房一房に雨がかからないように一枚一枚笠(袋)を被せます。笠をかけてホッチキスで2カ所パチパチと留めるのですが、できるだけ良い葡萄を早くから出荷できるように備えます。だいたい5月初旬から出荷が始まります。私も、この笠着せの手伝いに行ったのですが、自分が何枚着せたかはだいたい判ります。1日着せて、だいたい500枚でしたので喜んでいたら、主人に河内弁で「お前はアホか、隣の奥さんは1日に8,000枚着せるわ!」と怒られました。8,000枚ですよ! そんなのありえないじゃないですか! どうやって8,000枚も着せられるのかといいますと、朝5時に起きて夕方6時まで作業されるのですが、それでも1分間に10枚以上着せないと間に合わないので、腰の辺りにホッチキスを3つ程提(さ)げています。私はヨッコラショと座ってホッチキスの芯を入れたりするのですが、お隣の奥さんは3つのホッチキスを効率よく使いながら凄い勢いで葡萄に笠を着せていかれます。けれども、これぐらいやって、やっと一人前と呼ばれます。
本題とは関係ない話なのですが、私の夫である三代目は凄い男前でした。私は夫の顔に惚れて結婚したんですが、性格は裏腹に悪かったです(会場笑い)。それ以上に私の出来が悪かったということは、自分なりに分かっているのですが、男前な人はあまり優しくないかもしれませんね。けれども、いくら怒られても夫は凄く可愛い顔でしたから、寝顔を見て癒されてました(会場笑い)。この三代目は、河内ワイン館というワイン樽の廃材など4,000枚を再利用して壁の内張として小さな2階建ての販売所を建てたのですが、これはまさに彼のライフワークでした。
山の土を取って切り拓き、さまざまな所の公共建物が壊される際に出た廃材を貰ったりして、とにかく新(さら)の物を一切使わないやり方で建てました。彼は、私よりもお酒をこよなく愛した人でしたが、それ故に50歳の若さで亡くなってしまいましたが、彼には素晴らしい建築の才能があったのだと思います。「こんな建物にしたい」と思いを巡らしながら毎日設計図を描き、5年ぐらいかけて自力で建てましたが、完成した2年後に亡くなってしましました。けれども、この建物のおかげで、今も多くの方が足を運んでくださっていますし、私たちも、そのおかげで頑張れます。少しずつではありますが、良い方向に向かっていると思っております。
▼50歳の夫が先立つ
夫は2000年に亡くなったのですが、初代が土地を増やしていたことから、彼は相続税がもの凄くかかってくることが判っていました。とはいえ、まさか彼が父親よりも先に亡くなることは誰も想定していませんから、父親が先に亡くなったときのことを踏まえて、彼は相続税対策として、わざと天文学的なお金を借金をしていました。ところが、父親よりも息子である彼が先に亡くなってしまったものですから、大変なことになってしまいました。ちょうど当時、駒ヶ谷は建築ラッシュで本当にたくさんの畑が売れたため、皆さんはそのお金で家を建て替えたりされたのですが、当社も南阪奈道路の買収予定地にうちの土地がかかったこともあって、天文学的な数字の収入があったにもかかわらず、義父は一切そのお金を手にすることもなく、息子の借金返済のために、右から左へと支払いに充てました。
ワイン屋としての半生記に熱弁を揮う金銅真代氏
この他にも事業のために借りたお金もあったため、夫の死と共に私も借金を背負いました。当時、私には大学生を頭に男の子が3人おりましたが、夫が亡くなった次の日に夫の机を片付け、覚悟を決めました。義父は長男(私の夫)が27歳の時に息子に全ての経営権を委ね、その後一切口出しをしなかったのですが、夫は、実質的には経営者ではあったものの、あくまでも父を社長として立てていました。ですので、私も夫の上に出ることは良くないと思い、実質的な経営者としての立場を引き継いだものの、引き続き義父を社長として、私自身は代表取締役専務のまま一度も社長を名乗らずに、社長職は義父の死後、四代目となる息子へ引き継がせていただきました。夫が死んだとき、義父は「誰か代わりの方を経営者に入れよう」としていたようなんですが、当時45歳だった私は、何故か「自分がやるんや!」と思いました。そして、1年間は家に帰る暇もなく、ほとんど事務所の床で寝ていましたが、それでも自分の時代で会社を潰すことだけはしたくないという一念で本当に死にものぐるいで頑張りました。
▼下戸な酒屋
ところが、私には2つの欠点がありました。ひとつは、造り酒屋のくせにお酒がほとんど飲めなかったことです。もし、会社の経営だけだったならばできたかもしれませんが、夫が建ててくれたワイン館は、廃材4,000枚を使って建てたことから『なにわ大賞』の特別賞まで頂き、NHKをはじめ、さまざまな所から取材を受けていました。そのことがきっかけとなり、観光バスを仕立てて来館してくださる方が徐々に増え始めていた時期でしたので、これらの皆さんを案内する必要がありました。夫は非常に話が上手だったようで、いつも同じ話ばかりしているんですが、一回一回皆さんが笑って聞いておられました。
そこで、私も夫と同じ話をすれば良いんだなと思って自分が面白いと思ったことも織り交ぜて話をするのですが、笑ってもらえるどころか全くウケません。お酒が飲めない上に人前で喋るのも苦手な私が、いったいどうすれば良いのか…? 経営もさることながら、お客様にどう対応すれば良いのか、非常に悩んでました。この2つの弱点について、もう少し詳しくお話ししましょう。
まず、ひとつ目の弱点である「お酒が飲めないこと」ですが、私の実家の父が一滴も飲めない人だったので、私も飲めないことは判っていたんですが、嫁いでしばらくした頃、皆さんが美味しそうにワインを飲むのを見ていて「私も飲めるんじゃないか」と、クーッと飲んでみたところ、5分も経たないうちに天井がグルグル回ってきて思わず隣の部屋に倒れ込んでしまいました。そんな恥ずかしい体験をして以来、「飲めないのだから、飲まないでおこう」と思い、まったくお酒を口にすることはなかったんですが、ワイン館の案内をするようになって、そういう訳にはいかなくなりました。
▼ソムリエ協会の資格を取って
そこでまず、「ソムリエ協会の資格を取ってプロになってやろう」と思いました。厳密に言えば、私の場合は、レストランでお客さんにサービスするソムリエではなく、酒販店などでアドバイスをするワイン・アドバイザーになるのですが…。やはり名刺に「ソムリエ協会認定のワイン・アドバイザー」と書かれているのといないのでは大違いです。しかし、飲めない私がソムリエの学校に通った訳ですが、そこでは何種類もワインを飲んでブドウの品種の違いや特徴を覚えていきます。そして、資格試験の二次テストでは、出されたワインの品種が何か当てないと駄目なんです。
この資格を取るには感性も必要ですが、記憶力も必要ですので、受験される方はだいたい若い方が多いです。私は45歳でこの資格試験にチャレンジしましたから、どうしても若い方と対等という訳にはいきません。若い方は口に含んだワインをピュッと吐き出して、次々といろんなワインを試飲するのですが、私はひとつひとつが真剣勝負ですから、覚えるためにすべて呑んで次のワインを試飲していました。また、「これは何度か?」とアルコール度数を聞かれる設問もあったのですが、とにかく喉を通る時の熱さで「これは17度ぐらい」とか「これは15度ぐらい」と体で感じながら覚えないと無理やと思い、全部呑んでいました。
お酒の飲めない私がそれだけ呑んでいる訳ですから、帰りの電車に乗る頃には、それこそゆで蛸みたいなおばちゃんです(会場笑い)。凄く恥ずかしかったので、環状線の電車に乗る時は必ずドア際に立って雑誌で顔を隠すようにしていました。近鉄線は赤い表示が急行で緑色が準急なんですが、私の降りる駅は準急しか止まらないのに、お酒が回っているせいか、赤と緑を間違えて何度も(南大阪線の終点の)橿原神宮前駅まで行ってしまいました。何度も車で迎えに来てくれた長男にはずいぶん迷惑をかけてしまいましたが…。
1回目の試験の時は「もしかしたら試験に受かるんじゃないか…」という甘い考えで臨んだので見事落ちました。2回目の試験は、47歳の時でしたが「何がなんでも通らなければ!」の一念で試験に挑んだので通ることができました。学校に通う車中、『記憶力をよくするためのモーツアルト』というCDを聴きながら、学生時代の何倍も勉強しました。最後の追い込みは夏場でしたが、「寝てる場合じゃない」と夜中に起きて水をかぶって勉強を続けました。最後は私の主人がお付き合いのあった大徳寺の和尚様から頂いたお守りを握りしめて、祈るような気持ちで試験会場に向かいました。試験に通った時、ワインスクールの先生が、当時は本当にいろんなものを両肩に背負っていたため授業中寝ていることの多かった私を「金銅さん、カンニングしたんちゃう?」とからかいましたが、「隣の人の答えを写して間違えてたら悔しいので、私は一切見てません!」と言い返しました。よく迷って書き直すと駄目だと言いますが、試験終了時刻の間際に書き直した3問が見事に正解でした。あれは運が助けてくれたと思っています。
合格通知は官製葉書1枚なんですが、受け取った時、あまりの嬉しさに葉書を手に涙を流しながら裏山を走り回ったことを今でも覚えています。今はどうかと申しますと、「ワインなしの人生など考えられない」ぐらいワインが好きになりました(会場笑い)。あんなに嫌いだった日本酒も大好きになり、「こんなん誰が飲むの?」と思っていたシェリー酒も、スペインを訪れた時にイベリコ豚の生ハムと一緒に頂いた時の美味しさに驚きました。料理とお酒のマリアージュ(相性)は、本当にあるんですね。少し話が逸れますが、赤ワインは常温で飲んでいただくのが一番美味しいと言われますが、生ハムもチーズも常温で頂いたほうが美味しい食材です。日頃スーパー等で買い物をする時は、できるだけ賞味期限が遠い鮮度の良い食材を選びますが、チーズに限っては鮮度の良いものはまだ中に芯があるため、できるだけ賞味期限が近いものを選ぶのが正解です。こんな発見も、ワインの資格を取ってお酒が飲めるようになったおかげです。
▼口下手を克服して
2つ目の欠点である「人前で喋るのが苦手」ですが、学校の先生などが人前で毎日話せること自体尊敬してしまうのですが、何よりも自分の思っていることをそのまま言えることが凄いと思います。ワイン館の見学に来られた方に、帰られた後に一番印象に残ったことは何だったか尋ねると、「よう喋る専務さんが居はったわ…」と言われるほど、今でこそワインのこととなると、人前で1時間でも2時間でも話し続けてしまいますが、15年前は本当に皆さんに見つめられるだけで頭が真っ白になってしまいました。そんな私を変えてくれたのが、落語との出会いでした。
バスで来ていただいた見学の方に対して上手に話せないことを気にして、話し方教室にでも行こうかと真剣に考えていた時に、仕事の知り合いの方に「英語落語を習ってみないか?」と勧められました。英語は中学程度のレベルが解ればできるとのことでしたので、面白そうだと興味を引かれて行ってみました。すると、なんとあの桂枝雀さんに英語落語を教えた山本正明先生の道場でした。とてもお洒落な感覚を持った方で、毎週、英語落語を創って来られました。面白い時は皆笑いますが、面白くない時は、いくら尊敬する先生でも皆シラーッと下を向くので、そんな時は先生も「ああ、すべった」と笑っておられました。
その先生が素晴らしかったので、どんなに疲れてても英語落語教室には通ってましたが、長年人工透析をされていたため、残念ながら2年後には亡くなられました。それを機に英語落語の会は解散しましたが、そこに通っていた生徒たちは「尊敬する先生の遺志を継ぎたい」ということで、いろんなところで英語落語を続けました。私もそんな所へ何度か足を運んだのですが、疲れた自分にパワーをもらえず長続きしませんでした。そこで思いついたのが「フランス語で落語をする」ことでした。
大学の仏文科卒だったので安易に思いついたのですが、たまたま日仏文化交流に熱心に取り組んでおられるフランス人の青年と出会った際にその話をしたところ、「じゃあ、僕が両親に協力してもらって第1回目の文化交流をしましょう」という提案があり、フランスのワインの銘醸地であるブルゴーニュで第1回目の文化交流を計画しました。新聞にも大きく取り上げられ、そのことがきっかけとなり、関西テレビの夕方の番組『ニュースアンカー』の現地密着取材を受けました。それが面白かったと、全国放送の『FNNニュース』用に編集し直したものが全国に流れました。『ニュースアンカー』には2日間密着取材を受けたんですが、ニュース番組の終わりには必ずといっていいほど「これからどうされますか?」と質問を受けます。おそらく記者の方は「また来年もやります」といった答えを期待されていたんだろうと思いますが、私が「もうこんな大変なこと、二度としません」と答えたので、逆に「そんなことでは駄目でしょう、2日間取材しましたが、実際にオンエアされるのはほんの一部なんですから、『きっと来年もやっています!』ぐらい元気なことを言えないんですか?」と言われました。「ああ、テレビってそういうものなのか」と思った私はつい乗ってしまい「じゃあ、来年もやります!」と答えたところ、その部分がしっかり放送されてしまいました。それで引っ込みがつかなくなり、昨年12月で7回目の日仏文化交流となりました。
この落語は1回目はブルゴーニュで行いましたが、2回目以降は毎回パリでさせていただくことになりました。毎回違うネタで、15分から20分、フランス語で落語をします。ネタは、私の大学の先輩であります小佐田定雄先生が創作されたものを使うのですが、この方は桂米朝師匠や桂枝雀さんの新作落語のネタを創っておられた方です。私は7年前から浄瑠璃教室にも通っているのですが、その浄瑠璃教室で一緒になった小佐田先生に、むりやり頼んでオリジナルのネタを2つ書き下ろしていただきました。最初は、上方落語協会会長の桂文枝師匠がまだ桂三枝さんの頃の創作落語がもの凄く面白かったので、その時の創作落語をフランス人に訳してもらったものをやっていたのですが、最後にワインと梅酒、それぞれをネタに書いていただきました。私にとってこれは本当に苦行でしたが、今から思うと「人生の中で素晴らしい経験だったな」という気がいたします。
落語をする以上、人に笑ってもらうことも大事なんですが、表現するためのテクニックを身につけることができます。今日はこのような素晴らしいご神前でお話しさせていただいて少々緊張していますが、今ではワインのことならば、来ていただいた方に何度も笑っていただけるようなセミナーをできるようになりました。これもひとえに落語を勉強したおかげだと思います。それから、私の前に体験談を発表された方は、ちゃんとお腹に力を入れて喋っておられたので、聞き手にもハッキリと伝わっていましたが、口先だけで喋る癖のある私は、あれがなかなかできませんでした。これは、浄瑠璃を習うようになって、お腹から声を出すやり方を身につけることができました。ですので、落語と浄瑠璃が私の栄養になっていることは間違いないと思います。
▼お腹から大きな声を出す
先ほど話に出てきたワイナリーのレストランの前には、ちょっとしたイベントをすることができるスペースが設けられています。そこではいろんなイベントをしていますが、ある時、お客さんから「知り合いのお師匠さんのイベントのためにこのスペースを貸してもらえないか」と依頼がありました。「どうぞ、どうぞ」とお貸ししたのですが、その時のイベントが豊竹英太夫先生による素浄瑠璃(註:三味線の伴奏なしに義太夫の語りだけで聴かせる芸)の会でした。私はさすがに「素浄瑠璃だけで人を集めるのは難しい」と思い、そのことを伝えたところ、英太夫先生は「大丈夫、僕が20人ぐらいは連れてくるから」と言われました。イベントの際、そう約束される方は多いのですが、実際はなかなか巧くいかないことが多いため、内心「20人も連れてくるのは難しいだろう」と思い、こちらでも一所懸命人を集めました。ところが、英太夫先生は当日22人も連れてきてくださり、会は盛会のうちに終えることができました。その時はまだ素浄瑠璃の良さがあまり判らず、あまり私の心は動かなかったのですが、半分以上のお客さんを連れてきてくださったので、誘ってくださった英太夫先生へのご恩返しのつもりで何回か先生が主催しておられる素浄瑠璃教室に通おうと思い始めたところ、思いがけずハマってしまいました。今は一所懸命、浄瑠璃も習っています。大阪市からの文楽協会への助成金削減云々の問題はまだあるものの、存続の危機に直面してから逆に大阪の文楽公演の客足が伸びていることは良かったと思います。
実は、私は今、落語よりも素浄瑠璃に惹かれています。せっかくですので、『義経千本桜』の「道行初音旅」の一節を語らせてもらってもよろしいでしょうか?(会場拍手)『思ひぞいづる壇ノ浦の 海に兵船 平家の赤旗、陸(くが)に 白旗〜』と、こんな感じでございます(会場拍手)。浄瑠璃は大きな声を出すので、ストレスなど何処かへ飛んでいくそうです。素人浄瑠璃は、聞いているほうにしてみれば迷惑だそうですが…。ウチのお師匠さん曰く、「歌舞伎役者は短命な方が多いが、浄瑠璃をする義太夫に早死にはまずないね。やはり、大きな声を出すことによって、悪いものを出しているんやろうね。ただなかなか死なへんから、いつ人間国宝になれるか判らへん」そうです(会場笑い)。いずれにせよ、お腹から思い切り大きな声を出すことは、非常に健康であることは間違いないと思います。
海を越えて行った文化交流を通じて、思いもよらぬ効果もありました。例えば、パリで2年連続クレープ屋さんで一位を取ったお店の方(フランス人)に当社のワイン祭に来ていただいたこともあります。私にできることがあれば、今後も何らかの形で文化交流をやっていきたいと思います。
余談ですが、実は2年前から羽曳野市の教育委員をさせていただいています。最後に自分がやるべきことは、やはり地元に貢献することだと思っております。夫が亡くなって涙で一杯だった毎日から心機一転、それまでの私とは真逆のことをやってきたのかもしれません。例えば、市の教育長が方針のひとつとして出されたものに「笑育」がありますが、先日、村の小学校に私の習っている落語のお師匠さんを連れて行き、45分間落語の授業をしていただいたのですが、子供たちがなんといきいきとした顔で笑い、喜んでくれたことか…。先生方からも「こんな素敵な授業なら、毎週来ていただきたいぐらいです」という嬉しいお言葉を頂戴しました。やっぱり「笑う」という行為は人を前向きにさせます。悲しんでばかりいると顔も暗くなってきますが、笑うことによって自分自身が頑張れるビジョンが見えてくるのではないでしょうか。私もワインのセミナーを開催する時は、常に笑いを取り入れながら皆さんに楽しんでもらえるように工夫しています。
▼河内ワインの将来
最後に、私の息子である四代目についてお話ししようと思います。私が体を壊したのを機に、学校卒業後、社会に出ていた四代目が帰ってきて事業を継いでくれて今に至りますが、今、四代目が力を入れて取り組んでいることは、河内ワインをブランド化することです。例えば、フランスのブルゴーニュ地方のボージョレー村で取れるを新酒(ヌーヴォー)を『ボージョレーヌーヴォー』と呼ぶのですが、名前だけでも洒落た感じがしますよね。河内で新酒を出せば、先の例に倣って『カワチヌーヴォー』となります。これまでは「河内」というと、柄の悪い河内のオッチャンとかオバチャンのイメージばかり先行して、河内ワインといえば、洒落たワインボトルではなく、一升瓶を思い浮かべる方が多かったのですが、河内のイメージが全国的に悪くなったのは作家の今東光さんのせいだと聞きました。そんな中で「河内ワインのブランド化を!」ということで、一升瓶のワインも安いものにするのではなく、頑張って少しでも良い中身を入れて、ラベルなどで付加価値も高めて、その分ちょっと値段も上げていこうと取り組んでいます。
私自身は経営能力のないまま、ひたすらがむしゃらに頑張っただけなんですが、その頑張った中で一番成果があったものが、今の醸造長が河内ワインに来てくれたことです。かつて、ある大手の酒造会社の醸造長やった人なんですが、たまたまそこを辞められた時に出会いました。それ以来、「河内ワインって味が変わったね」と言われます。あまり褒められると「今までそんなに不味(まず)かったのか?」と思ってしまいますが…(会場笑い)。大きい会社で醸造に携わってこられた方なので、小さなワイナリーながら、酵母の工夫や発酵温度や機械投資など、本当にいろんなことをやってくれています。私が河内ワインの人間であることを差し引いても、以前とは全然違う美味しいワインができていることが、一番嬉しいことです。
私がその方と巡り会ったきっかけは、手書きのボトルです。私自身、もともと大学時代に絵画部で油絵を描いていたのですが、当時、ワインスクールの先生の奥様で、ボトルにとてもお洒落な絵を描かれる方が居られたので、その方の所へ2時間ぐらいかけて月に1回習いに行き、ボトルの1本1本に絵を描いていきました。ちょうどその頃、阪神百貨店の70周年の記念ボトルに選ばれたことをきっかけにドンドン注文が入ってくるようになりましたが、要望にお応えしようと来る日も来る日も手書きボトルを作り続けているうちに、自分は果たしてワイン屋なのか絵描きなのか判らない状態になっていました。「いったい何本描いたんやろう?」と瓶屋さんに尋ねたら、なんと2,000本描いたそうです。
得意先の紹介で、この手書きのボトルを、日本にブドウの垣根式栽培を紹介されたワイン醸造の権威の方にお見せしたところ、「君のような人は日本中探しても何処にも居らん」と褒めてくださり、このご縁がきっかけとなって、先生のお弟子さんがウチの醸造長に来てくださったんです。大阪芸大がすぐ傍にあるので、学生さんを雇ってボトルの絵を描いてもらったこともありましたが、やはり絵は人なんです。「この絵は私自身なのだ」という思いでひたすら描き続けた結果、ついに倒れてしまいました。けれども、この手書きボトルのおかげで今の醸造長に巡り会えたことを考えると、やはり努力なしでは何処へも繋がっていかないという気がします。
私自身は決して過去を振り返らない人間なんですが、今日は「これまでに苦労したことを話してほしい」と三宅善信先生から言われましたので、無我夢中で乗り越えた頃のことを振り返る機会を頂戴しました。とりとめのない話になってしまいましたが、一生懸命話させていただきました。ご静聴、有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)