創立87周年 婦人大会 記念講演
『笑いの中に何かが見える〜落語の世界の師弟関係〜』
上方落語家
桂 七福

7月15日、創立87周年記念婦人大会が『二代親先生のご信心を頂いて』をテーマに開催され、全国から大勢の婦人会員が参加した。記念講演は、上方落語家の桂七福氏を講師に迎え、『笑いの中に何かが見える〜落語の世界の師弟関係〜』と題するお話を伺った。
本サイトでは、数回に分けて、桂七福先生の記念講演を紹介する。

桂 七福氏
桂 七福氏

▼差別偏見をなくすために落語家に

桂七福と申します。どうぞよろしくお願いいたします。本日は、徳島から車に乗ってやって参りました。司会者の方から「遠路はるばる四国から」とおっしゃっていただいたんですが、徳島はそれほど遠くありません。淡路島を縦断しまして、阪神高速でちょっと事故による渋滞がありまして、早めに一般道に降りましたが、それでも「混んでたなあ」と思いながらも、こちらの教会まで2時間半で来られました。今日こうやって私が寄せていただいてお話しさせていただくのは、いろんな縁が繋がっているんやなあと思います。私自身、何故、今日ここでお話をさせていただくチャンスが巡ってきたかと申しますと、私は落語家でありながら、世界平和を真剣に訴えているからです。人権講演をしながら、「戦争は嫌だ」とか「肌の色が違う」とか「何処そこで生まれたから」とか「信仰が違うから」と、差別や偏見を受けたりトラブルに巻き込まれたりしている人が、世界にもこの日本にも実にたくさん居られます。一番悲しい思いをしているのが、日常生活における、いわゆる「弱者」と呼ばれる人たちですが、子供さんや女性の方々が大変な思いをしていることが、少なからずあります。

私自身が母子家庭で育ったため、母親が頑張っている姿をずっと見ながら成長しましたが―年配の方はご理解いただけると思いますが―昔は「離婚に至る」ということは、「嫁の辛抱が足りないから」とか「男の人を巧くコントロールできないから離婚に至ったんだ」と言われました。離婚した女性の子供は、男親が居ないため、躾(しつけ)が行き届いていない「父(てて)なし子」と呼ばれ、「何か悪いことでもするんちゃうか」とか「嘘付くんちゃうか」と、小さい頃に友達関係をぜんぶ断ち切られ、ご近所では「遊んではいけない子」というレッテルが貼られます。「ウチの母親がこんなに頑張っているのに、なんでこんなことになるんだろう? けったいやなあ…」という幼少期の思いが、成長するにつれて、それが離婚した女性に対する差別偏見ということだと解ってきました。

なるべく早く現金が欲しいために、ウチの母親がスナックに勤めてホステスさんをしていた時は、「女性が夜の仕事に行くというのは、己の身体をお金に替えている」というような言われ方をして、アパートを追い出されたこともありました。「なんでこんなことになるんや?」と、当時は恨み辛みをいっぱい抱えておりましたが、齢を重ねるごとに「このままではあかんなあ」と思うようになりました。落語家になり、こういうことを訴えていける立場やテクニックを身につけることで、自分の思うことを外へ出して伝えていくということが大事ではないかという思いがドンドン膨らんでいきました。

実は、落語家になってから「差別偏見をなくそう」という話をするようになりますと、いろいろ困った方のお話も聞きますし、知識を貰って勉強もします。そうすると、言いたいこともできてきますから、ドンドンと世界が広がっていきます。落語家が大きな声で「世界平和」と言っておりますと、「そんなこと言うても世の中変わらへんわ」とおっしゃる口の悪い方も居られますが、だからといって、ほんまにそのことを誰も何も言わんようになったら現状は絶対に変わりませんから、私は、ずっと言い続ける、願い続けることが大事だと思っております。


▼女性と男性の違い

最初にこうやって理屈をこねさせていただいてますけれど、今日は女性の方々が中心の会でございます。「婦人大会」とお聞きして私も楽しみにしながら寄せてもらいました。中には男性の姿もチラホラ見られますが、やはり女性の方がいっぱい集まっておられます。いろんな方が居られますね。きれいな方、美しい方、可愛い方…、他にもいろんな方がいらっしゃいますが…(会場笑い)。これも言い方を間違えると「セクハラや」と怒られるんです。「セクハラ」、「モラハラ」、「パワハラ」世の中にはいろんなハラスメント(嫌がらせ)があります。この頃は臭いのハラスメントもあるそうです。人によっては良い香りのする柔軟剤も「あの臭いがきつすぎて鼻が痛い」といったハラスメントになるそうです。

婦人会員を前に熱弁を揮う落語家の桂七福氏
婦人会員を前に熱弁を揮う落語家の桂七福氏

女性と男性を比べてみますと、権利は一緒なんですが、考え方や性質に違う部分があります。今日は男性が圧倒的に少ないですが、落語家は汚い言葉もたくさん使います。例えば「今日は、ようこないにぎょうさん(よくこんなに大勢)クソババアが集まりましたなあ」(会場笑い)とかね。女性が多いところで敢えて言うんです。逆に男性ばかりの会ならば「クソジジイがぎょうさん集まりましたな」となりますが、実は、男の人に向かって「クソジジイ」と言うと、誰も笑わないんです。「あいつワシに向かってクソジジイ言うたな! なんとまあ失礼な奴や!」とムカッとして怒ります。ところが、女性ばかりの会で「ようまあ、クソババアばっかり集まりましたな」と言うと、ほとんどの女性は笑うんです。これは、女性と男性の性格や性質が大きく違うからなんです。男性は何故怒るかというと「自分がクソジジイと言われた」と錯覚し、「アイツは俺に向かってクソジジイと言いやがった!」とムカッときて、「桂七福はなんと失礼な奴や!」と怒り始めるんです。ところが、女性は「クソババア」と言われても何故怒らずに笑うかと申しますと、そこが女性の強さです。女性は「自分が言われた」とは誰も思わないんです(会場笑い)。自分じゃないなら誰が言われたかというと、「隣の人が言われた」と思うんです。

いろんな方が居られる前でお話しさせていただく時、「落語というものには四百年の歴史があり、少しずつ培われて今も残っているということは、穏やかな笑顔を提供する伝統芸能であるからだろう」とよく言われますが、本当の部分はちょっと違い、落語というものは、いろんなところ(問題)に手を出しています。例えば、人が生きる死ぬといった、大事ないのちの問題についても落語はちゃんとネタに取り込んでいます。

ここに、男性がある大病を患い入院されました。主治医の先生がつきまして手術しました。最新の医療の薬も投与しましたが、病状は一向に回復しない。ベッドで息を荒げる患者さんに対して、医師として大事な仕事があります。それは「患者さんの心を支える」という仕事です。患者さんの手を強く握りまして「しっかりしなさい。諦めてはいけないですよ。私も勉強と研究を重ねます。こうしている間にも、新たな手術方法が見つかるかもしれませんし、特効薬が開発されるかもしれませんから…」と声をかけますと、患者さんが「有り難うございます。私も最後の最後まで病気と戦います」と言う。「そうです、その気持ちを大事にね。そうそう、科学の道を歩む医師がこんなことを言うのは間違っているかもしれませんが、貴方は今、誰か会いたい人はいませんか? この人に会えば力が、勇気が湧いてくるような…。誰でも良いですよ。スポーツ選手、芸能人、有名な女優さん、アイドル歌手、落語家でも誰でも良いですよ。貴方に勇気を与えることができるなら、その人を連れて来ることがあなたの治療になるかもしれません」と言うと、患者さん、なお一層医者の手を強く握り「できれば、別の医者に診てもらいたい…」(会場笑い)。


▼裏が付いてなければ小咄(こばなし)にならない

笑ってええのかどうか判らんのですが、こんな話が小咄として昔から受け継がれて残っています。よく一般の方々から「こういう小咄は、ご自身で考えておられるんですか?」と聞かれますが、ほとんどの場合、考えておりません。落語と同じで古くから伝わっているネタが既にありますから、現代の言葉や状況に変えてやっております。因みにこの話も、昔、先輩と一緒に焼き鳥屋さんでご飯を食べて一杯飲んでいる時に「そういや七福、こういう小咄があるのを知っているか? 医者の小咄や…」と教わりました。「この小咄面白いですね、使わせてもらいます」と言って、一応ネタの取引は終了なんですが、先輩から何かを教わる時には、必ずひとつお説法というか裏側がくっついてきます。

あまり落語や小咄の裏側は説明されませんが、この小咄を習った時に教わった注意ポイントは、「この病人をどのように演じるかで話の流れは変わってくる。身体は病気に冒されて、痛い、辛い、しんどい思いをしているかもしれないが、『違う医者に診てもらいたい』という一言が言えるということは、この患者はとことん心は強いぞ、ということを皆様方にジワーッと伝えることができるような言葉を使いなさい。身体が弱っているだけでなく、心も弱っているという風な言葉を使うと、お笑い種にならないどころか、皆様方に元気を与えることもできない」と、先輩からそう教わりました。私もプロになるまでは、小咄には、こういう裏側がくっついてくるというのは知りませんでした。それまでは「馬鹿馬鹿しくて楽しい話を覚えて、それを喋っていれば良いんや」と思っていました。

皆様方のお仕事でも一緒だと思います。なんでも職業、仕事となりますと、後ろには「責任」というものがくっついてきます。その責任の度合いが、落語家の場合ちょっと違うんです。言葉のトリックというのはよく使います。例えば、なぞなぞみたいなものですけれど、これはある有名小学校のお受験の問題です。一緒に皆さんも考えてみてください。小学校の受験ですから、試験を受ける受験生は幼稚園の年長さんですから、6歳ぐらいの子が考える問題と思ってください。落語などの娯楽を楽しむ時に、よく「頭を柔軟にして聞いてください」とか「脳ミソを柔らかくして楽しんでください」と言いますけれど、こんな難しいことありません。「脳を柔らかくしろ」と言われても、開けて揉む訳にもいきませんからね。皆さん方が、どういう風に常識に囚われているかを量るような問題です。だからといって、解る人が賢いとか、解らない人がどうのという問題ではありません。

「ここに太郎君という男の子がおりました。この子はお金を9円持っています。お菓子屋さんに行って、ひとつ3円の飴を1個買いました。さて、太郎君が受け取ったお釣りはいくらだったでしょう?」という問題です。サラサラッと聞きますと、ほとんどの方は頭の中で引き算をされます。「9円持っていて3円の買い物をしたんだから、正解は6円でしょう」と答えを導き出すんですけれども、実はこの問題、「6円」という答えは不正解で、正しい答えは「0円」です。納得いかない方もいらっしゃると思いますが、この問題で尋ねられていることは「残ったお金がいくらか」ではなく、「お釣りがいくらか」なんです。9円持っていて3円の買い物をする時に、どういう風にお金を払うかというと、1円玉3つを渡し、飴を1個貰います。お釣りのやり取りはあるかというと、なかった。したがって、正解は0円となる訳です。こういうものを落語の中にいろいろ取り込んでいきます。落語というものは、親切そうに見えて、実際はわりと不親切です。解らない人は放ったらかしで進んでいくというところがあります。いちいち説明いたしません。ですから、判りにくい小咄もいろいろあります。例えば、これはアメリカン・ジョークです。

車が大きな事故をいたしました。その車には家族が同乗していて、ペットの猿も乗っていました。人間は皆、大怪我をして病院へ連れて行かれて意識が戻らない。グジャグジャになった車のところで、元気なのはペットの猿だけ。警察官が来て、その猿を見ながら「まあ、猿が元気でここに居ってもしゃあないな。えらい事故やったなあ。猿がもの言えたら、なんで事故が起こったか話が聞けるねんけど…」

交通事故を起こした車の同乗者全員が意識不明の重体で、元気なのはペットのサルだけだったので、「サルに人間の言葉が理解できたら事故原因が判るんやけど…」と話していましたら、そのサルが「ウキーッ。ウキーッ。ウキーッ」と答えました。「ん? こいつ人間の言葉解るのか? 人間に飼われてただけあって、人間の言葉解るのかもしれんなと思い、「お前、事故の原因が解るか?」と尋ねると、「ウキーッ。ウキーッ。ウキーッ」。すると警官が「ああそうか。ちょっと訊くけどな。その事故が起こった時に、奥さんは何してた?」「ヤーッ。ヤーッヤーッ」、「おお、お喋りに夢中やったんか…。ほんで、その時子供は何してた?」、「オーッ。オーッ。オーッ」、「おお、ゲームに夢中やったんやな…。ほんだら、お父さんは何してた?」、「ウェーッ。ウェーッ。ウェーッ」、「なるほど。酒飲んでて酔うてたか。うーん。そうなると、これは飲酒運転の事故やろうか。ははーん。ほんだらサル、その時おまえは何しとったんや?」(動作をつけて)「アー。ウーン」(会場笑い)これ、解る人には解ると思います。いつもはいちいちこんな説明しませんが、そのサルが車の運転をしていた場面を想像してもらえたら楽しめるんです。こういう形だけでオチをつけることを「しぐさオチ」といいます。

言葉で落とす場合は、いろんな複雑なオチがあるんですが、今日はあえて解りにくいものをやってみますね。お客さんが100人いらっしゃったら、私も一応「終わった(オチが付いた)よ」という顔をしますけれど、なぜそこで話が終わったのかオチがあまりよく解らないという小咄(こばなし)です。90人の方はだいたい解っても、残りの10人の方はなんとなく解ったような気がするものの、あまりはっきりと解らない。そういう小咄です。まあ、とにかくやってみましょう。


▼人の死を予見できる子供

ここに5歳になる男の子がおりました。この子は―たかが小咄ですから、そんなに真剣な顔で聴かなくても大丈夫ですよ(会場笑い)―生まれてこのかた言葉を喋ったことがない。「あー」とか「うー」とかの声は出すんですけれども、しっかりとした言葉を喋らない。もう5歳にもなるのに、言葉を喋らんとは、もしかしたら口がきかれへんのかもしれんというので、家族は心配が重なります。父親は「ああ、5歳になるのにまだ喋らんか…。まあ、口がきかれへんのやったら、ちゃんとした教育をさしてやりたいな。わしも親として勉強することが増えるな」と不安が高まります。そんな時、じいちゃん、ばあちゃんは違う角度からものを言うてくれます。不安がる親をなだめるような、安心させるような言葉を使ってくれます。「いやいや。心配いらん、心配いらん。うちの孫は人様よりちょっとゆっくり成長してるだけや。まだお前、オギャーと言うてから5年しか経ってへんやないか。ぼちぼち大きうなったらええねん。大丈夫、じきに喋りよるがな」と、おじいさんは安心する言葉を言ってくれるんですが、本心は不安が高まっています。

家族みんなの不安が高まったとき、その子が生まれて初めて言葉をはっきりと喋った。大きな口を開けて、大きな声で、一番最初に何を喋ったか。「おじいちゃん。おじいちゃん」とおじいちゃんのことを2回だけ呼んで、その後は再び口を閉じてしもた。それでも家族一同、その声をはっきりと聞いたもんやから喜んで、「良かった、良かった。うちの倅(せがれ)は喋れるんや。良かったなあ」一番喜んだのはおじいちゃんでした。まあそうですわな、孫が一番最初に呼んだのが、「父さん、母さん」と違って、親を飛ばして「じいちゃん」とわしを呼んだ。こんな嬉しいことはない。そういうことで、その日は家族一同、幸せに笑顔を浮かべてお休みになる…。

あくる日の朝、いつもでしたら家族の中で一番最初に起きてくるはずのおじいさんが起きてこない。もうぼちぼちお昼になろうかというのに、一向におじいさんが起きてこない…。お父さんが心配になっておじいさんの寝間に行きまして、「おじいさんもう昼でっせ。いつも早起きやのにどうしはったんですか? 窓を開けまっせ。ああ、布団を頭までかぶって体に悪いなあ。風邪でも引きましたか、熱ですか、頭痛いですか。もう布団上げまっせ。じいさん。ええ加減に起きてきたらどないです!」と言って、掛布団をパッとめくると、なんとそのおじいさん死んでしもうとる…。ちべとう(冷たくて)、硬うなってる。「えらいこっちゃ。通夜やがな、葬式やがな」と、家族一同大慌て…。

桂七福氏の講演を真剣に耳を傾ける婦人会員たち
桂七福氏の講演を真剣に耳を傾ける婦人会員たち

お通夜が終わって葬式が済んで、ひと月ぐらい経って、ようやく家の中が普段の生活を取り戻しかけたその時に、この子がまた喋った。今度は「おばあちゃん。おばあちゃん」呼ばれたおばあさん、顔色がサーッと青くなった「アワワワワ」「ばあさん、大丈夫や。心配することないがな。まあ確かにな、この前『おじいさん』と呼ばれておじいさんが死んでしもうたけどな、あんなんはそうそう重なったりせえへん。たまたまや…。ばあさん、あんたはまだまだ健康間違いなしやから、大丈夫、大丈夫」と不安がるおばあさんを一生懸命説得しました。夜が来て布団を用意し、怖がるおばあさんを無理やり布団の中に押し込んで寝かしつけた。あくる日やっぱり心配ですから、おやっさん、お陽さんが上ってからすぐにおばあさんの寝間に飛んで行きまして「おばん、朝やで。無事か…?」と、布団をバッと開けると、やっぱりおばあさん死んでしもうとる…。

「えらいこっちゃ。あいつに名前を呼ばれた者が次々に死んでいく。恐ろしい力を持った子を授かったもんや…」と不安がっておりましたら、またこの子が喋った。次は「お父さん。お父さん」呼ばれた親父はもう顔色変わるどころやない。腰抜かしてしもうて「えらいことになった。じいさん、ばあさんに続いてわしのことを呼びやがった。わしはまだまだやりたいこともある。夢も希望おおいにもある。仕事でもやりたいことがある。今、死ぬわけにはいかん。そうや。一晩中がんばって起きていたら、死なずに済むんちゃうか。寝てしもうたら魂引っ張られるに違いない。そうや、一晩中起きていよう!」と布団が用意されても恐ろしくて足もよう入れません。

部屋の真ん中に座布団1枚ポーンと置いて、方角を東の向きに整えて東の空を睨(にら)みながら、「どうぞひとつ、あいつに呼ばれたけれど、わしはまだ死ぬわけにはいきませんので、無事朝日を拝めますよう、よろしゅうお願いいたします。神様、仏様、ご先祖様…」と、いろんな宗教ごちゃまぜにいたしまして東の空をずーっと睨んで頑張ります。眠い目こすりながら頑張った甲斐がありました。ぼちぼちと東の空が白んでまいりました。「もうちょっとや。あいつに呼ばれたけど、わし死ぬわけにはいかんねん。早うお陽さん上ってくれ、お願いや…」と、とにかく一心不乱に東の空を睨んでおりましたら、やはり気持ちは通じました。赤ちゃんの指先ぐらいの太陽がちょっと顔を覗かせてくれた。その眩(まばゆ)いばかりの朝日がサーッと差し込んできまして、おやっさん全身に朝日を浴びることができた。「良かった。あいつに呼ばれたけれど、わしはこの通り生きてるがな。寝ずに頑張ったかいがあった。やあ、嬉しい」と、庭に飛び出して、お天道様に向かって、パーン、パーンと自分の無事を祝う拍手(かしわで)を打った、ちょうどその時です。お父さんは無事やったんですが、手を合わせた瞬間、実はお向かいのご主人が息を引き取っておられました…(会場、一部笑い)。


▼今も昔も変わらない人間の気持ち

ねえ。こういう雰囲気になるのは予想しておりました。なんとなくモヤモヤしたものが残りますでしょう。そのモヤモヤを晴らしていきたいと思います。まず第1ヒントです。「この子の本当のお父さんは誰なのか?」ということを考えてもらったら、ジワーッと判ってくると思います。おじいさんが呼ばれて亡くなった。おばあさんが呼ばれて亡くなった。そしてお父さんが呼ばれた時、なんでか判りませんがお向かいのご主人が亡くなったんです。「この子の父親は誰やねん?」ということですね(会場笑い)。

この小咄も現代風にアレンジして話しておりますが、実は、この小咄のネタは400年前から既にありました。落語の歴史とほぼ同時期に生まれた物語ですが、落語のみならず歌舞伎も同じ頃に誕生しました。400年ぐらい前に、戦国時代から続いていた国内の戦(いくさ)が終わって、徳川幕府が成立して世の中に平和というものが訪れました。そして娯楽ちゅうもんが発達いたします。一方で、世の中が平和になると、今も昔も変わらないでしょうかね。まず人々の風紀が乱れました。その風紀の乱れたことを皮肉っぽく揶揄したのが、この小咄なんだそうです。表現を変えたり、登場人物の紹介方法を変えたりしても、今でもちゃんと伝わります。かれこれ400年経ちましたけれど、世の中いろんな便利なものができてきましたが、人間の持っている「性根」というのでしょうか。そういうものはあんまり変わってないように思います。

今日もこのお教会の信者さん方の体験発表の中で「有難うございます」という言葉がたくさん出てまいりました。「有難う」という言葉も、実のところはよく考えたら不思議な言葉なんですね。「有るのが難しい」と書いて「有難う」なんですね。なので、「そんなことはあり得ない」と言ってるのと一緒なんですね。難という言葉がついてます。難しいという字ね。人は「難がないほうが良いなあ」と思います。いろんな難儀なことを聞くと、「難はないほうがええなあ」と思うんですが、「難が無い」と書いて「無難」なんですね。だったら「無難」のほうがええのかなと思いきや、「難が有る」と書いて有難うという言葉になりますから、難というのは人を成長させたりとか、何か学ぶきっかけにしたりとか、様々な力を与えてくれるそういうきっかけになるのかなと、ふと考えたりもいたします。


▼師匠の家の台所にあるものは何を食べてもよい

そしてもうひとつ、落語家になりますと、今皆さんにしたような小咄を通して、「笑い」というものをいろいろと提供したり、「笑い」が持つものを、あの手この手でお伝えしていきます。これは、弟子修行の時からずっと習います。本日の講題も『落語家の弟子修行』となっていますが、実際はあまり知られていない世界でございます。落語の世界では、通常、弟子が師匠を選ぶんです。自分から「私はあなたの弟子になりたいです」と言って、こちら側から師匠を選んでいく訳です。当然、運やタイミングもいろいろです。学歴や素質がどうのというのはあんまり関係ないんですね。自分が師匠のところにお願いに上がった時に、たまたま空いてたら入れるんです。定員は1名です。3年くらいは内弟子期間、いわば師匠の付き人期間です。自分が入門のお願いに行った時に、誰かが付いてたら入れないんです…。それも運とタイミングですから、ウチの師匠である桂福団治は、そこで「縁」という言葉をよく使います。

スムーズにいく時は「あんたとは縁があったんや」ということになります。逆に、自分が一生懸命願ってもどうにもならん時は「縁がないので違う方向探しましょう…」ということになります。ゴールに辿り着くために、一番短い距離を選ぶのではなく、たとえ回り道をしてでも「ここに辿り着けるようにすれば良い」というようなことをよく教えてくださいます。また、内弟子期間は、あまり知られてはいないんですけども、いろんなしくじりがあったり、理不尽な思いもいたします。

落語家の弟子になりますと、師匠の家のことは全部やります。炊事、洗濯、掃除、ありとあらゆる家事をいたします。昨今は男女共同参画社会で、「男性も家事を手伝いましょう」と世間で言われてますけれど、落語家の世界ではずっと以前からそんなの当たり前でした。でも、朝は、サラリーマンと違ってちょっと遅いスタートです。師匠のところに10時頃に伺い、まず一番最初に何をするか…。自分自身の朝ごはんです。師匠の家の台所を使って自分の朝ごはんを作って頂きます。一般的には師匠の家に住み込むものなんですが、ウチのお師匠さん(桂福団治)は、私のために近所にアパートを借りてくれました。といっても、アパートの費用はお家賃から光熱費まで全部、お師匠さんの口座から引き落としになっておりますので、内弟子期間中、弟子はお金を一切使いません。逆に、師匠から弟子に対して給料、小遣いなどという現金を渡すこともありませんし、弟子から師匠に対して、月謝、上納金などで現金を渡すこともないんです。落語家の師弟間にはまったくお金のやり取りはありません。この辺りは他の伝統芸能と違って、ちょっと珍しいかもしれません。

毎日、師匠の家に朝10時ぐらいに行き、「おはようございます」と入っていきます。誰もまだ起きていません。芸人の家は朝が遅いですから、師匠は昼頃に起きてきます。ですので、お昼までの間に用事を皆済ませるんです。まず、自分の朝ごはんを師匠のお宅で頂きます。弟子は「師匠の家の台所にあるものは、何を食べても良い」というルールがあります。ただし、これは台所だけ…。台所以外のものに手を付けたら、めちゃくちゃ怒られます。例えば、居間にあるお菓子、炬燵(こたつ)の上にあるミカン、仏壇の饅頭…。これ全部、絶対に手を出したらあかんのです。ただし、台所にあるものは何を食べてもOKです。今時分の季節(七月)は好きでしたね…。お中元、お歳暮の頃なんかもう、空き巣のように食べものを探してました。

ある時なんか、神戸牛の大きなステーキ肉が冷蔵庫にバーンと3枚ありました。朝の10時から、私がそのステーキ肉を3枚とも皆、1人で焼いて食べてしもうた。けれども、師匠はそんなことで怒りません。冷蔵庫に置いてあるということは、弟子が食べてもOKということですから。師匠が後から起きてきて「七福、そういえばな、神戸肉のビフテキのええ肉貰うたんや。食ってもええぞ…」てなことを言われた時には、もうすっかり食べた後でしたからね。「頂きました」と言うと「ああそうか。食うたか。美味かったか。よっしゃ、よっしゃ…」それで終わり。どんな贅沢しても怒られません。カニの缶詰で1個5,000円ぐらいするのがありますが、あれを朝から3缶ぐらい開けて食べても怒られませんでした。師匠の家でご飯をいただきますから、お金を使いません。また、外出する時も師匠と行動を一緒にしますから、食事代も皆師匠が出してくれます。


▼女性の下着の干し方も会得

「掃除の際は掃除機を使ってはいけない」と兄弟子から教わりました。ガーッと掃除機をかけると師匠と奥さんの眠りを妨げますから、ちりとりと箒(ほうき)と古新聞を使って掃除します。昨日の新聞をビリビリに破って水と一緒にバケツの中に入れて紙ふぶきをこしらえて、それを家中にビャッと撒くんです。そして、それを箒で集めます。まあ昔の掃除のやり方ですけれど、乾拭きの効果と埃を集める効果がありますね。あらかた集めた後、辺りを見回した時に、まだそこに新聞片が落ちているということは、そこに箒が当たっていないということですから、良い目印になります。それを集めて水を入れて揉んで埃を落として、今度は新聞のお団子を作ってガラスの内側を拭いて外側を拭いて、玄関掃除して電燈を磨いて燃えるごみで捨てる…。そんな私が一番最初に師匠のお宅でしくじったのは、洗濯でございます。入門5日目でしくじりました。

弟子も師匠と同じ洗濯機を使えるのですけれど、それまで洗濯機の使い方をあまり知らなかったので、洗剤をドーンと入れるんですが、昔の洗剤はこんな大きな箱でした。10キログラム、15キログラムの大きな箱でね、今みたいにスプーン1杯やないのです。カップに何倍も量って入れないといかんのですが、適量を分かっていない私は、烏口みたいな洗剤箱の口を開けてカップに取らずにザーッと適当に入れてましたが、私のような性格のものが「適当」と言いますと、だいたい量が多くなります。洗剤を投入してスイッチを入れて、洗濯機の蓋を開けたまま、回っている間中ずっと見ていました。蓋を開けたままなものですから、泡がじわじわと盛り上がってくる…。

その泡を捨てながら、「次が脱水やな」と思いながら見ているのですが、何しろ蓋が開いたままなので、安全装置が機能して脱水しないんですね。なんぼ押してもピーピー鳴るだけです。そこで、コンセントを抜いて無理矢理排水して、手で絞って干したんですが、それを師匠の奥さんに見つかってえらい怒られました。「柔軟剤入れてないやろ」、「私の下着を一緒に洗ってくれるのは良いことやけど、ネットに入れてもらわな困る」と言われて、思わず「奥さん、ネットってなんですか?」と聞き返してしまいました(会場笑い)。その時初めて、女性の下着を別に洗うネットというものの存在を知りました。奥さんのものと、師匠のものと、私の汚れ物を一緒に洗っても良いのですが、女性の者を洗うというのは、私にとって初めての体験でした。

奥さんから「七福、どうやって干してんの? 干し方を見せてごらん」と言われて、裏の物干し場へ行きました。奥さんずっといやらしい目つきで見てはります。先に教えてくれたら良いのに、横目でチラチラ見ながら私が失敗するのを待っているんですわ。「ああ、嫁と姑の確執というのは、こういう所から生まれるのか」なんて思いながら、「もうなんでもいいわ、干したれ!」と一番先に掴んだのが奥さんのパンティーです。婦人もののパンティーって洗ったら縮んでこんなに小さくなるんです。横見たらこんな大きいケツしてるのにね。パンツが可哀想ですわ(会場笑い)。それをタコ足の物干しにパンパンと挟みましたら、「ちょっと待ち、七福ちゃん。そんな干し方してるんか?」と言われたので、「え、何か拙いですか?」と聞くと、「女性の下着は周囲から見えるように干したらいかん。周りをハンカチなどで隠して…。ウエストのゴムをそんなに引っ張って干したら乾いた時に伸びてしまうから、ゆとりを持って…。日なたではなく、風通しの良い日陰に干さないかん…」と、矢継ぎ早に言われました。そして、その次に来たのがブラジャーですわ。取りあえずこれもタコ足の物干しに挟んだら、「ちょっと待ちなはれ、七福ちゃん。そんな干し方ではいかんやろ。いっぺん肩ひもを指でつまんでツーッと皺を取ってカップの形を整えてから内側に干さないかんやろ。アンタ、そんなことも知らんのかいな。阿呆とちがうか…」と言われ、「済みません」と一生懸命謝りましたけれど、皆さん、よう考えてみてください。私、噺家に入門したのが25歳の時なんです。25歳の男が女性の下着をちゃんと洗えるほうが気色悪いと思いませんか(会場笑い)? そうやって怒られながら、日々の生活を送りました。


▼ラーメン食べるのも噺家修業

弟子は師匠の外出時には、師匠にくっついてあっちこっちへ回りますが、弟子というのは師匠にとりまして居ないものという扱いになります。例えば、こちらの教会にウチの師匠と私が来たとしますと、こちらの役員さんの方が「お弟子さんもどうぞ」とお茶を出してくださったり、椅子を勧められても、決して出されたものに手をつけてはいけませんし、椅子に座ってもいけないのです。師匠の斜め後ろぐらいにスーッとスタンバイしまして「七福」と呼ばれたらスッと顔を出せるぐらいのところに居なければなりません。そして、出されたものに手を出してはいけません。飲めません、食べられません。また、弟子は居ないものですから、「お腹が空いた」とか「トイレに行きたい」と自分の意志を師匠に伝えてはいけないのです。「トイレに行きたいんですが、行ってきても良いですか?」と聞けば、師匠は「ああ、行ってこい」と言われますが、何故それを伝えてはいけないのか? それは、自分の都合で師匠の時間を止めることになるからです。「お腹が空いた」ということは、師匠にものをねだっていることになります。逆に師匠のほうから「七福、なんぞ腹に入れていこか」と言われたら、「有難うございます。お供させていただきます」と言わなければなりません。この辺りの話を聞くと、師弟関係の厳しさを感じられるかもしれません。実は、私が最初にしくじったのが、この食事の時でした。

その日は朝からずっと仕事が詰まっていたのですが、師匠が「そういえば、朝から何も食ってなかったなあ。ちょっとラーメンでも1杯入れていこか」と言って、天王寺駅の地下街(あべちか)の店に入りました。朝10時に師匠のお宅でご飯を食べてから、夜の8時頃まで何も飲み食いしていませんから、お腹はペコペコです。師匠は「七福、お前お腹空いてるやろ。好きなものを頼め!」と言って、ポンとメニューを渡してくれました。師匠は店の人に向かって「ワシは味噌ラーメン。コーンは要らんさかいにな」と注文されました。本当にアホでしたね、私は…。師匠が味噌ラーメンということは、どの程度のものを注文すれば良いかというのを考えるべきだったのですが、私は「好きなものを頼め」と言われたので、ほんまに好きなものを頼んだんです。ちなみに、私がその時注文したのがチャーシュー麺に餃子にライス大(会場笑い)。もちろん、全額師匠が払ってくれます。

無難な答えとして「師匠と同じものをお願いします」と言うのが正解のように言われますが、うちの師匠はそういう答えを嫌います。「同じものを…」と言いますと、「お前には自分の意志がないのか!」と、お叱りを受けますから、考えて注文するのですが、この時はほんまに何も考えずに自分が食べたいものを言いました。すると師匠は、ニコッと笑って私のほうを見ながら「君は僕より高級なものを注文したね」と皮肉を言われました。内心、「ああ、しくじった」と思ったので、「師匠すみません、注文しくじりました。言い直します」と言ったところ、これがまた気に入らない。「お前はいっぺん言うたことに責任が取れへんのか。お前は言葉を生業にするこの落語家の世界に入ったのに、自分の言ったことを訂正したり、いっぺん出した注文を取り下げて言い直すなど、なんと験の悪いことを言うんじゃ。言うたことには責任を取れ!」と一喝されました。

つまり、「ちゃんとルールを守って食事をしなさい」ということですね。噺家の場合、師匠が全部面倒を見てくれてますから、一緒にご飯を食べる時は、師匠が一口食べて呑み込むのを見計らって「それでは師匠、私も頂戴いたします」と食事をスタートするのです。そして、師匠が「ごちそうさん」と箸を置くまでに弟子はすべてを食べ終えて師匠の「ごちそうさん」を待たなければいけません。つまり「後からスタートして先にゴール」しなければならない。ラーメン屋の大将もそこまでせんで良いのに、この日はさらにサービスでキムチが付いてきました。汁物は強敵です。お勘定は師匠が払ってくれますから、米粒一粒はもちろんのこと、おつゆも全部飲まないと駄目です。言葉は悪いですが、敵味方で言えば、敵(師匠)は味噌ラーメン一杯ですわ。こっちはチャーシュー麺に餃子にライス大が付いています。とにかくガーッと食べました。味も何も判りません。焼きたての餃子があんなに熱いもんやとは思いませんでした。一口食べたら、中の肉汁がワァーッと出てくる。しばらく経ったら上顎の皮がペロッと剥けるのですが、そこへキムチを食べると痛いのなんの…(会場笑い)。

それでもとにかくかき込んで、師匠より少し早く食べ終わりました。師匠はサッと立ち上がってお金を払いに行きます。その時弟子は何をしているかといいますと、師匠がお金を払っている間、レジの横で扉を押さえておくんです。自動扉でしたらガッシャンコ、ガッシャンコとならんように、手で押さえて暖簾を上げておくんです。師匠がお金を払い終わり、その財布をポケットに入れた後、ドアに立ち止まることなく、暖簾が頭に触れることなく、スーッと出ていけるようにしておくんです。そして、目の前を通る時にすかさず「ご馳走様でした」と言わなあきません。

その時はちゃんとせないかんと思い、「師匠有難うございました。ご馳走様でした。先ほど注文の時には大変失礼いたしました。今後気をつけます」と、言おうと思っていたことをとにかく全部言いました。これでOKやと思っていたら、師匠がスッと横を通り過ぎながら、私の背中越しに「美味そうに餃子食べてたな。私にひとつも勧めてくれなんだなあ」と…。自動ドアと暖簾を押さえながら「オッサン、この体勢でどないせえっちゅうねん!」と思いました(会場笑い)。そういう日々が修行となっていくんですが、師匠にしてみれば遊びの延長なんでしょうな。こういう時に怒ったりするのではなく、ネタにして笑いに転換していきましょう。


▼一生で笑う時間の合計は、わずか1週間分

ひとつ、勉強的なことを申しあげておきますと、人間、笑うということを大変大事にしております。人間笑っていると福が訪れる「笑門来福」と申しますが、これは笑顔でいると儲け話がくるという意味ではなく、にこやかにしていると周囲の方が皆、話しかけやすくなるので対話のチャンスが生まれ、情報が自然と手元に集まってくるということです。ある京都の大学の学者さんで、人が一生の間に笑っている合計時間を計算された方が居られます。睡眠時間は1日8時間とした場合、人生の3分の1は寝ていることになりますが、それと同じように、仮に80歳を天寿とした場合、その人生一生分の笑いをまとめたらどれぐらいになるか。私は「全部かきあつめたら3カ月ぐらいになるかな」と思っていましたら、わずか1週間分しかないということでした。ピンときませんが、1日平均でだいたい20秒ぐらいです。皆さん、1日の間に20秒間を笑いに費やしているんです。

しかし、昨日一日振り返ってみましても、1日の間に「アハ、アハ、アハ」と4、5回笑ったかどうかというと疑問です。そんなに気にすることではないのですが、もしかしたら今晩辺り、気になる方が出てくるかもしれません。就寝前に一日の出来事を振り返り、「今日そういえば、桂七福という落語家が、どれだけ笑っているかという話をしていたなあ。人は1日20秒ぐらい笑っていると言ってはったけど、私はあんまり笑っていない気がする。このまま寝たら、明日今日の分もまとめて40秒笑わないかん。明日の宿題にするのは嫌やし、今日の分は今日のうちに笑っておこう」と、薄暗い部屋の中でムクッと起き上がり、部屋の隅っこを睨みながら「ワハハ、ウフフ、アハハ」と無理矢理1日分の20秒。笑い終わる頃には、多分ご自宅の前には救急車が1台…(会場笑い)。まあ、さほど気にすることはありません。私が一番願っている世界平和は、そうやってニコニコしながら隣近所から仲良くなっていくことです。

現在、上方落語協会には約300名の噺家が名前を登録していますが、笑いを振りまく活動をしているわれわれも、皆様方の笑顔によって支えられております。皆様方に、1回でも多くニコッと笑ってもらえるように、私自身も精進勉強を重ねていこうと思っております。今日は長い時間を頂戴しましたが、今日の講演が皆様方にとって何かのきっかけになれば有難いなと思いながら話をさせていただきました。またよろしければ、繁昌亭にも是非お越しください。繁昌亭もオープンして10年になろうとしていますが、その名とは裏腹に存続の危機が囁かれています。どうぞ皆さん、もっと落語を楽しんでください。では、これにてお話を締めさせていただきます。有難うございました。



(連載おわり 文責編集部)

 


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