7月15日、創立89周年記念婦人大会が『よろこび心 祈りあい』をテーマに開催され、全国から大勢の婦人会員が参加した。記念講演は、読売テレビ報道局解説デスクの山川友基氏を講師に迎え、『テレビ報道の舞台裏―私が出会った素晴らしい人たち―』と題するお話を伺った。本サイトでは、数回に分けて、山川氏の記念講演を紹介する。
山川 友基氏
|
▼一分一秒でも早く伝えるために
皆さん、こんにちは。読売テレビ報道部でニュースの解説をしています、山川友基と申します。ただ今ご紹介いただきましたように、『かんさい情報ネットten.』という、月曜日から金曜日まで、毎日夕方お伝えしている報道番組の中で出演をしてニュースの解説をしております。本日は、とても歴史のある泉尾教会にお招きいただきまして、このようにお話をする機会を頂戴しまして大変光栄です。有り難うございます。また、創立89周年記念の婦人大会という、伝統ある取り組みの場で話をできますことを大変嬉しく思っております。よろしくお願いいたします。
まずは、私自身のことをざっくばらんに話をさせていただきます。私は昭和45年の万博の年に生まれました46歳です。家族は、妻1人と小学校6年生の娘が1人います。今日はこちらへ寄せていただく道すがら、「どんな話をしたら良いか?」と考えながらやって来ました。立派なご神前ですので、ちょっと緊張しております。会場には本当にたくさんの方がお見えになっていますが、パッと見た感じ、私よりちょっとだけ年上の方が多いかなと思っております(会場笑い)。実は、私たちがやっております『かんさい情報ネット ten.』という夕方の番組を一番視ていただいている視聴者の方は女性がとても多く、ちょうど皆様ぐらいの年代の方が多いです。ちなみに『かんさい情報ネット ten.』をご覧いただいている方はどれぐらいいらっしゃいますか?(会場で手を挙げた方々を見ながら)たくさんいらっしゃいますね…。有り難うございます。たぶん、今手を挙げられなかった残りの方は(毎日放送の)『ちちんぷいぷい』をご覧になっているのかな…(会場笑い)。どうぞ、『かんさい情報ネット ten.』もよろしくお願いいたします。
近畿地方は今年ずっと猛暑が続いています。今日も本当に暑いです。一方、九州地方では豪雨の災害がありました。東海地方にも大雨が降ったり、今年は災害が非常に多いと感じています。災害がある度に、私たち取材班は現地に赴き、現地の状況をお伝えしています。もしかしたら、皆さんのご家族、ご親族、あるいは知人の方で被災された方が居られるかもしれません。お見舞い申し上げます。私たちの仕事は、災害現場だけではなく、いろんな方々の生きるか死ぬかといった厳しい状況に立ち会うことが非常に多いです。私も、1995年の阪神淡路大震災があった年に入社し、この仕事を始めました。この教会の皆さんも阪神淡路大震災の時には、たくさんの方が救援活動に行かれて尽力されたという話も伺いました。
災害というのは、本当にいつ起きるか判りません。今年の近畿地方はこういう状況ですけれども、いつ何時、自分が被災者になるか、家族や親族が辛い思いをするかは判らない状況の中で、私たちはニュースをいち早くお伝えする仕事をしています。災害が発生した時、一分一秒でも早くニュースをお伝えするために、私たちは日々訓練をしています。例えば、和歌山県沖で南海トラフ巨大地震が発生し、大津波が起きることが想定されていますが、実際に起きた場合、どのように対応するのか? どうやって緊急放送を一分一秒でも早く始めて皆さんに避難を呼びかけるか? そういうことを念頭に置きつつ、訓練しています。災害だけでなく、ニュースは人の生きる死ぬ場面に遭遇したり、その人の人生の転換点(ターニングポイント)に出くわすといったような場をご一緒するような機会が非常に多いです。私も今まで、23年間記者をしています。テレビ局というものは、社内の人事異動がわりと頻繁にあるのですが、私は入社した時から報道記者を志望して以来、23年間部署を変わることなく、ずっとこの仕事をやらせてもらっている希有な存在だと思っています。その間、毎日いろんな方々と出会ってきました。
▼報道の現場は人との出会いの場
例えば、今、尖閣諸島が問題になっていますけれど、2010年9月、中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船が衝突した事件がありました。日中関係が悪化した最初のきっかけと言っても良いかもしれません。違法操業の取り締まりを受けた中国漁船が海保の巡視船にぶつけてきた証拠の映像を、政府(註:仙石由人官房長官)は外交問題に発展することを懸念し、映像を公開しないことにしていたのですが、現場の海上保安官のいのちがけの頑張りや、そのことを菅政権にもみ消された悔しさを感じたある1人の現職の海上保安官が、『sengoku38』というタイトルを付けて、インターネット上にその映像を公開しました。その時、彼を一番最初に取材したのが私でした。当時は、彼と彼の奥さんと私しか、その映像を投稿したのが誰か知らないという状況で、奥さんはこれから夫がどうなるのか、子どもさんも男の子が2人いましたが家庭や家族はどうなるのか、このまま夫は逮捕されてしまうんじゃないかと心配し、非常に心を痛めておられました。私は連日、奥さんと連絡を取り合いながら、励ましながら、ニュースをお伝えしました。
泉尾教会の広前で婦人会員を前に記念講演をする山川友基氏
事件、事故の現場だけではありません。例えば、スポーツの取材などもあります。オリンピックなど、非常に華々しい世界レベルの選手たちが活躍する様を取材することもありますが、やはり勝つ人がいれば負ける人もいます。怪我で思い届かず出場できなかった人もいますが、そういう人の取材もします。そのうちの一人に、サッカーのJリーガーがいました。彼は非常に若い頃に活躍をされた方でしたが、怪我をしてしまったことで試合にも出られなくなってしまいました。けれども彼は、やっぱりサッカーがやりたい。まだ人生を諦めたくないということで、まだ誰もやったことがない最新の医療に自分の人生を賭けました。膝の治療でしたが、再生医療というのは、大きな手術をしてしまうと、そこで選手生命が終わってしまうかもしれないリスクがあります。けれども、彼の「まだ頑張りたい」という気持ちに応える形で、お医者さんも彼と一緒にチャレンジする姿を一緒になって応援する取材をしてニュースでお伝えしたこともあります。
この大正区は、非常に物づくりの盛んな所でもあります。悲しい取材の経験でいいますと、非常に景気の悪かった頃、大正区の中小企業や小さな工場がたくさん倒産しました。中には自らいのちを絶つという決断をされた方もいました。そこにお金を貸していた大阪の銀行、信用組合、信用金庫でも、1990年代後半の一時期、たくさん倒産しましたが、そういうニュースにも携わる機会がありました。いつ、どの銀行が潰れてしまうのか。誰もが疑心暗鬼になり、早くその情報が知りたいということで、私は連日夜に、銀行の幹部の家に出向き、「どうなんでしょうか」と話を聞いたこともあります。ある時、その幹部がいつもより少し遅い時間に家に戻ってきました。少し酔っ払って帰ってきた様子でしたが、悔しさで泣いていました。それが、その銀行の破綻を意味する、彼なりの最後のメッセージだった訳です。
しかし、素晴らしいことでも、非常に辛いことであっても、ニュースに登場する方は皆、輝いています。たくましく、何か覚悟を持っている、そういう人たちがとても多いように思います。そういう人たちのおかげで、私は成長する機会に恵まれました。本日は、『テレビ報道の舞台裏―私が出会った素晴らしい人たち―』という講題を付けさせていただきましたが、ニュースの現場は、テレビに出てくる人たちだけではなく、テレビに映らないところに、本当に素晴らしい人たちが居ます。
▼最後はテレビしかない
私は今でも心の支えにしている事件があります。今から13年前に起きた冤罪事件の話ですが、大阪市住吉区の帝塚山で、大阪地方裁判所の最高責任者が、路上で数人の男たちに襲われて現金を強奪され、本人も大怪我を負うという事件がありました。これは、結果的には冤罪事件だったのですが、当初警察も重要人物が被害に遭ったということで、「急いで犯人を捕まえないといけない!」と、警察の威信を懸けて捜査しましたが、1カ月ぐらい犯人を逮捕することができませんでした。「警察はいったい何をしているんだ?」という批判も受けながらの捜査だったため、警察にも焦りがあったのでしょう。1カ月後、5人の男性を逮捕しました。そのうちの3人は未成年の少年で、一番下はわずか13歳でした。
彼らは警察署で自白をしましたが、そのうちの2人は最後まで犯行を認めませんでした。私はある時、否認していた少年のお父さんと出会いました。お父さんは一生懸命「うちの息子は犯人じゃない。そんな事件は起こしていない!」ということを訴えていましたが、警察に言っても聞いてもらえません。市役所など、さまざまな行政の窓口でも訴えましたが、誰も耳を傾けてくれない。「こうなったら、最後はテレビしかない!」ということで、涙ながらに話してくださいました。私はこれまで、捕まっても「私は犯人じゃない!」と言う人もたくさん見てきましたので、彼も警察に逮捕された以上、当然それなりの理由があるのだろうと半信半疑でしたが、そのお父さんの「最後はテレビしかない。テレビの報道に頼るしかない!」という言葉を聞いた時に、テレビや報道は信じられているのだと、ちょっと熱い気持ちになりました。
そこから私の取材が始まったのですが、本当に彼たちが犯人じゃないのか、いったいどのような捜査がなされたのかを調べました。私の組織の中でも「そうは言っても、警察が捕まえたのだから、事件は終わりだ」と、これ以上取材する意味があるのかという空気があったことも事実です。しかし、だんだんいろんなことが判ってきて、警察が隠していた防犯カメラの映像があることを発見しました。その映像には、裁判所の所長が襲われた後に、襲った犯人たちがチラリと映っていました。警察はその映像の存在を知っていましたが、表には出していませんでした。
私がその映像を見つけた後にやったことは、映像を分析することでした。専門家の力を借りて、本当にこの人たちは捕まった人たちなのか、慎重に分析を進めた結果、映像に映っている人たちの背の高さに注目しました。そこでもう一度科学分析を行い、身長を測り直した結果、背の高さが全く違うことが判りました。それを証拠として裁判所に提出したところ、裁判所も認めてくれ、全員が無罪になりました。本当にやっていないと訴え続けた彼…。「やってしまった」と自白してしまった少年たち。それぞれの親が世間に叩かれながらも一生懸命自分の子どもを信じた。そういう事件でした。映像の力を使うことによって、裁判で彼らの無実を証明できた事件のひとつでした。
私の経験では、逮捕された場合、家族が(被疑者から)離れていくケースのほうが多いのですが、自分の子供たちを信じた親の頑張りは尋常なものではなかったと思います。仕事も失い、3人の少年たちのうち、2人は兄弟だったのですが、母子家庭の中学生でした。彼らは自白もしたので、捕まって入った少年院―大阪で捕まったのですが、少年院は兵庫県の加古川市の山奥にあります―に連日通って子供たちを励ましながら頑張った訳です。事件があってから一審判決が出るまで2年以上かかる事件でした。それでも警察、検察は、二審、三審まで食い下がったので、最高裁で最終的に無罪が確定するまでにはもっと時間がかかりましたので、もの凄く心労があったと思います。
そのお母さんは、その後、乳癌が見つかり亡くなりました。自分の身体を労う余裕もなく、病院に行くこともできず、そのことに気付いてあげる人が誰も居なかった。
その結果だったと思います。被告人にされてしまった母子家庭の少年たちの母親の死の直ぐ後に、もう1人の被告人のお父さんも癌で亡くなりました。一番支えになった人たち……。そういう人たちはテレビの画面には出てきませんが、ニュースの舞台裏には、必ずと言ってよいほどそういう人たちがいます。だから、間違いが起きてはいけない。事件が起きたら、当の本人だけではなく、周囲の人たちも大変辛い思いをします。そういうことが少しでも起こらないよう、テレビにそういう力があることを日々自戒しつつ、仕事をしているような状況です。
▼目に見えないものをどう見せるか
話が少し変わりますが、今からちょうど120年前、テレビの歴史にとって大事な発明がありました。ドイツの発明家のブラウンさんという方が発明したのですが、この人が居なかったらテレビは存在しなかったかもしれません。何か判りますか? ヒントは、彼の名前です。最近のテレビは液晶などの薄型画面に変わりましたが、少し前までは、テレビと言えば、全てブラウン管でしたよね…。調べてみたら、ブラウン管が発明されたのが、ちょうど120年前ということでした。そこからいろんな技術が開発されて、テレビ放送が始まる訳ですが、実はテレビも戦争の影響を受けました。
太平洋戦争があった昭和10年代当時、テレビを放送する実験が、世界に先駆けて日本で行われたそうです。ただ太平洋戦争が激化していく中で開発がいったん棚上げされ、テレビ放送は戦後になって始まります。1953(昭和28)年、NHKと私たちの系列である日本テレビがテレビ放送を開始しました。最初は街頭テレビでしたが、当時まだ生まれていない私には、街頭テレビがどういうものであったかよく判りません。この中で実際に街頭テレビを視た記憶のある方はいらっしゃいますか…? いらっしゃいますね、有り難うございます。国産テレビ第1号を作った会社は、実は大阪にあります。シャープです。当時のお金で17万5,000円したそうですが、高校卒の公務員の初任給が5,400円の時代ですから、計算するとテレビ1台買うのに3年は働かないと買えなかった訳です。
そして、さらにテレビの技術は進み、国際衛星放送ができる技術が開発されました。一番最初に日本とアメリカの間で国際衛星放送が行われたのは、放送開始から10年経った1963年(昭和38年)のことでした。当初の計画では、当日J・F・ケネディ大統領が日本に向けて、アメリカから生放送で挨拶をするという内容だったのですが、その予定されていた11月23日に、ケネディ大統領は暗殺されてしまいます。ですので、国際衛星放送で最初に日本に伝えられたニュースが「ケネディ大統領の暗殺」だったのです。翌年が東京オリンピック…。世界中からたくさんの選手たちが日本に来て、その活躍ぶりが世界中に発信され、私たちもテレビを通じてその様子を視た訳ですね。私自身はまだ生まれていませんが…。
そして、1970(昭和45)年に大阪で万博が開催されました。私はその年に生まれたので万博の記憶はないのですが、ウチの母は「あんたは万博行ってるで。私が連れて行った……」と言います。どういうことかと尋ねると「アンタがお腹の中にいる時に万博会場に行ったんや。夏の暑い時でめちゃくちゃしんどかったわ。せやから、アンタも万博行ったこと、ちゃんと覚えときや」といまだに言われます(会場笑い)。
そして、近年、情報通信が発達して、インターネットが出てきました。皆さんもインターネットを利用されていると思いますが、テレビは国際衛星通信が簡単にできるようになって、世界中のいろんな人たちのいろんな考え方があり、いろんな伝統や文化がある。世界は多様だということを知るひとつの道具になったのですが、今ここにきてテレビ業界の人間が直面していることがあります。今日は実際にテレビで使っているフリップというやつを作ってきました。まず、1枚目には「簡単・便利に!」と書かれていますが、真実はどこにあるのか? いろんなことがあって本当のことがよく判らないが、とにかく簡単、便利にものごとのエッセンスをかいつまんで教えてほしいというニーズが高まってきています。
では、多様性の問題はどうなっているんでしょうか? 私たちは(フリップを裏返し、)「悩ましい矛盾」を抱えている時代になったと思っています。それは何かと申しますと、「速報性と正確性の両立」の問題です。テレビは1分1秒でも早くニュースをお伝えしなければならない「速報性」を求められますが、それが本当に正しいことなのかどうかという問題があります。言うまでもなく正しいニュースをお伝えしなければなりません。この「早くしなければならないけれど、間違ってもいけない」というのが、今、本当に難しい課題です。
テレビ番組のようにフリップを見せて解りやすく講演する山川友基氏
インターネットの普及に続き、「SNS」と呼ばれるフェイスブックやツイッターが登場しました。横文字の言葉がもの凄く増えてきました。将棋界では、藤井聡太四段が彗星の如く現れましたが、彼は何で将棋の訓練をしてきたかといいますと、従来とは全く異なる「AI」です。これは「人工知能」という意味ですが、最近、実際に手に取って見ることができないものが増えてきていると思いませんか? 例えば、医療の世界で神の領域に入ってきているとも言われるもので「iPS細胞」があります。ひとつの体細胞がどんな細胞にも変化できる(万能細胞)という凄い医療技術で、私たちの健康を維持するためにとても良いものだと言われますが、素人には、それがいったいどんなものなのかがよく判らない。他にも、AKB48の女の子たち…。いったい誰が誰だか判りません(会場笑い)。こういったものも含めて、横文字がドンドン増えてきていますが、いずれも、実際に手に取って見れないという状況は、テレビの世界の人間にとっても困った状況です。映像に撮ってお伝えするのが仕事なので、実態がないものをテレビで伝えるのは本当に難しいです。
それから、最近よく耳にするのが「サイバー攻撃」です。国家同士の間でも、陸海空の戦いとは別に「第4の戦場」と呼ばれるサイバー空間での戦いですが、これも映像で捉えることができません。私の取材の経験で言いますと、昔は、北浜の証券取引所には「場立ち」と呼ばれる人たちが居て、手のサインで売買を成立させていたのですが、今はもう居なくなって、すべてがコンピューターの中での決済になりました。人間がやっていた頃は、証券取引所の場内を映すだけで、場立ちが一生懸命で活気づいている時は、経済も活気づいていて取引も活発だと判ります。あまり活気がなく場が静かだと、「今は経済があまり良い状況ではないのかな」と判断できたのですが、そういう存在が居なくなると、たとえ北浜まで足を運んでも、経済がどのように動いているのか、経済の状態が良いのか悪いのかも判りません。今ではコンピューターの中で「超高速取引」といって、1秒間に1,000回以上の取引が行われているそうです。これも映像が撮れません。
▼情けを報じるのが情報
では、どうすれば良いのか? 簡単・便利に真実を知りたい。短く、判りやすく、端的に…。しかし、そこでそぎ落とされていくものは、先ほどからお話している人間のドラマであったり、頑張りであったり、必死な姿といったものではないでしょうか。やはり、もう一度人間に戻らなければならないのではないでしょうか。頑張っている人を見て応援したい。悲しんでいる人に心を寄り添いたい。そういう心を人間は持っていると思います。
私たちの仕事のひとつにマラソン中継がありますが、実はこのマラソン中継という番組はとても視聴率が高いのです。画面を見ても、ただタッタッタと走っている人が映っているだけなのに視聴率が良い。これはやはり、人は頑張っている人に吸い寄せられる。頑張っている人を見たい。あるいは、次の瞬間に何か起きるのではないか。バタリと倒れてしまうのではないか。追い抜かれてしまうのではないか。人間だからこそ、予測できない展開があるかもしれない。そういったところに惹かれるのではないかと思います。だから、今も昔もマラソン中継は人気がある番組です。見えないものが増えているからこそ、実は見えるものや、人の温かさ、一生懸命さや逞(たくま)しさといったものを求めている人が増えているのではないかと思い、私たちはあらためてそこに価値を置いてテレビの仕事をしなければならないのではないかと思っています。
ニュースの舞台裏にどんな人々が居るのか。今年私が出会った人を2人ほどご紹介したいと思います。大正区にも関係ある、沖縄の話です。先月、沖縄に行ってきました。6月23日は「沖縄慰霊の日」ですが、これは沖縄戦が終わった日です。旧日本軍がアメリカ軍と激しい地上戦を行い、日米合わせて20万人の人が亡くなった、日本であった唯一の地上戦です。亡くなった方のうち9万4,000人は軍人ではなく、子供たちを含む沖縄の一般市民でした。沖縄では住民の4人に1人が亡くなったと言われています。ここ数年私は毎年、「慰霊の日」に合わせて取材に行っているんですが、今年はちょっと変わった所を取材しようと思い、「やちむんの里」に居られる沖縄の陶芸家を訪ねました。皆さんのご家庭でも沖縄の陶器であるやちむん(焼き物)を使っておられる方もおられるかもしれません。褐色の土の上に白い土を釉薬として塗り、彫刻をしたり絵を描いたりする、とても素朴な伝統の焼き物です。
今回は沖縄中部の読谷村(よみたんそん)に住んでおられる陶芸家の松田共司さんに会いに行きました。この読谷村も、戦争の影響を大きく受けました。アメリカ軍が上陸し、読谷村はほとんどアメリカの占領地になりました。日本軍がもともと使っていた飛行場があったのですが、そこも米軍の飛行場に変わり、周辺では不発弾の処理場も造られました。今、「やちむんの里」と呼ばれる所も、不発弾の処理場でしたが、松田さんは幼い頃から「バンバンバン!」という不発弾の処理をする音を聞きながら育ったそうです。読谷村の人々は、なんとか少しでも自分たちの土地をアメリカ軍から取り戻したいということで、村長さんや住民の皆さんが一生懸命頑張りました。松田さんが小学生の頃は、アメリカ軍の兵隊がパラシュート訓練で空から降下してきたり、時には大きな軍用のトラックもパラシュートで連日、ヘリから投下されてきたそうです。その訓練の最中、同級生の女の子がそのトラックの下敷きになって死んだという経験を持っておられます。
婦人会員の皆さんに熱弁を揮う山川友基氏
松田さんは、いわゆる不発弾処理の破壊の煙を創造の煙に変えて、なんとか陶芸を復活させたいという思いで仲間の方と共に長年取り組んでこられましたが、その後、不発弾処理の場所が返還され、そこで、いくつか焼き物の工房が営まれています。たくさんの若い人たちが弟子として入門してこられますが、弟子の半分は沖縄ではなく本土出身の人たちだそうです。そういう人たちも受け入れながら、沖縄がどういう所なのかを伝えていきたいと、活動されています。皆さんも、「普天間基地の辺野古への移設問題」というニュースを聞かれたことがあると思いますが、松田さんたちは基地の移設問題に対して表立って反対運動している人たちではなく、ただただ日々、沖縄の伝統ある焼き物“やちむん”を作り続けているだけです。
しかし、彼はこう言いました。「平和な状況がなければ、焼き物づくりなどできません。安心して人々が生活できる。そういう環境がなければ物は作れない。焼き物には土が必要です。もし爆弾が落ちてきたら、土地はメチャメチャになり大事な土は使えなくなります。だから、自分たちはひとつひとつの器を作ることで、皆さんにメッセージを伝えていきたい」。彼らは何か大きな運動をしている訳ではないけれど、そういう沖縄の人たちの目を通じて、私は沖縄の今を伝えようと思い、取材をしました。本当にいろんなことが繋がっていると思います。横の繋がりもありますし、時間の繋がりもあります。何故、その人がそういうことをしているのか。何故、一生懸命なのか。そういういろんな繋がりの中で人は存在していて、情報になっていく…。最近気が付いたのですが、「情報」は「情けを報じる」と書きますよね。日本語は不思議だと思います。やはり、人の情けの中に情報があるのだということにあらためて気が付いた次第です。
▼「道」としての報道
先ほど、講演の直前に東日本大震災の義援金の話をされたので、もうお一方思い出しました。中澤宗幸さんというバイオリンを作る職人さんです。今年3月11日の東日本大震災の、いわゆる節目の日に中澤さんを取材する機会がありました。中澤さんは今年78歳で、バイオリン製作一筋の方です。奥様は著名なバイオリニスト、中澤きみ子さんという方です。中澤さんは被災者でもありませんし、東北と関係がある訳でもなかったそうです。ただ、震災のニュースを視た時に、奥様のきみ子さんが津波に流されたたくさんの瓦礫を見て、「お父さん、これは瓦礫じゃないわよね。これは、人々の生活の中で使われていた大切な物だよね…」と言われたそうです。それを聞いた中澤さんは、瓦礫を材料にしてバイオリンを作り始めました。
特に、皆さんもご記憶にあると思いますが、岩手県の陸前高田市に「奇跡の一本松」という、津波で街が壊滅したにもかかわらず、1本だけ残った木がありましたが、傷みが激しくそのままでは保存できない状態になりました。その木を使ってバイオリンを作ることになりました。バイオリンは弦の他に表の板と裏の板がありますが、一本松から取れる材料が非常に少ないため、中澤さんはどこに使うか、ずいぶん考えたそうです。そして、最終的に表板と裏板を繋げる小指ぐらいの棒に使うことを決めたそうです。バイオリンの表板と裏板は接着されて繋がっているのではなく、この棒が微妙な角度で間に挟まっており、その具合によって音色が変わってしまうそうです。この部品を何と呼ぶのか尋ねたところ、英語では「Sound Post(音の柱)」ですが、日本語では「魂柱(こんちゅう)」と呼ぶそうです。日本語って、やっぱり凄いですね。この「魂柱」には、例えば演奏者の魂や製作者の魂など、いろんな「魂」が込められており、聞いてくださる方にそれが伝わる。そして、聞いてくださる方のいろんな思いが返ってくる。私も記者を始めて23年になりますが、初めて知りました。「人って凄いな」と、あらためて思います。
私たちニュースの仕事は報道、「報いる道」と書きます。例えば同じテレビ局でも「営業」だと「業」ですが、何故報道は「道」なのか…。やはり、世の中に対して何か報いていかないといけない。そのためのゴールはなく、道として究めていかなければいけない仕事なのかなと、自戒の念を込めて取り組んでいるところです。まだまだ途中の勉強不足の一記者ですけれども、これからも良いニュース、素晴らしい魅力的な人たちを1人でも多く皆様にお伝えして、微力ながらも「人間って素晴らしいな」と思えるような社会貢献をしていきたいと思います。本日は貴重な機会を賜り、有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)