エルサレムとローマの二大聖地を歴訪

2011年9月9日〜12日
金光教泉尾教会 総長
三宅善信

2011年9月9日から12日までの日程で、イスラエルとパレスチナを訪問し、ネタニヤフ首相も臨席した「9.11」事件10周年記念行事に列席。また、泉尾教会が中東地域で進める諸宗教対話による平和構築活動の視察を行った。引き続き、ローマで親先生と合流し、5年ぶりに教皇ベネディクト16世と謁見するなど、慌ただしい日程の中で、二大聖地を歴訪して、16日に帰国した。

▼安息日のイスラエル

9月9日のお昼前に関空を発つエールフランス便でパリ経由、テルアビブへと向かった。大阪→パリ12時間、ドゴール空港での乗り継ぎ2時間、パリ→テルアビブ4時間半のフライト時間から、日本とイスラエルの時差6時間を差し引くと、ベングリオン空港到着は、現地時間で日付が10日に変わった深夜零時過ぎ…。あの忌まわしい「9.11米国中枢同時多発テロ事件」から10周年ということで、各国の空港はいつも以上に厳重なセキュリティー検査体制…。特に、アメリカと並んでイスラム原理主義者から“敵視”されているイスラエルの空港はものものしかった。その上、この日(土曜日)は、「シャバット」と呼ばれるユダヤ教の「安息日」のため、一切の公共交通機関は運行されず、諸手続きを終えて、深夜の1時半に空港を出たところで早速困ってしまった。

ユダヤ教の「安息日」というのは、今から3,300年程前、エジプトで奴隷にされていたユダヤ人たちが、預言者モーセに導かれてエジプトを脱出し、シナイ山で神ヤハウェから授かったとされる「十戒」に記述されている人間が守らなければならない10の戒律の4番目に出てくる禁止事項である。この辺りの話は、五十数年前に公開されたチャールトン・ヘストン(モーセ役)とユル・ブリンナー(エジプト王役)主演の映画『十戒』(セシル・デミル監督)が、その後、何度もテレビで再放送されたので、ご覧になった方も多いかと思う。

およそ人間の社会においては、一定の社会規範(=禁止事項や戒律)はどの文明圏においても存在するが、それらの禁止事項の中で共通する最優先事項は、「殺人の禁止」であろう。仏教徒が守るべき「五戒」でも「不殺生戒(人間だけでなく、あらゆる動物を殺してはいけない)」はその冒頭に掲げられている。

しかし、ユダヤ人の場合─そして、後代、ユダヤ教から派生したキリスト教やイスラム教にも大きな影響を与えた─は、かなり異なっている。彼らの「十戒」は、1、「神(ヤハウェ)以外のものを神としてはいけない」。2、「(神の)偶像を作ってはいけない」。3、「神の名(ヤハウェ)を徒(いたずら)に唱えてはいけない(だから、「神よ!」と言わずに「主よ!」と呼びかける)」で始まる。その次に来るのが、4、「安息日を守ること」。5、「父母を敬うこと」と続いて、その次にやっと、6、「殺人をしてはいけない」という禁止事項が入ってくる(以下省略)。もちろん、法理論上、複数の禁止事項が相互に矛盾した場合、より遵守すべきは前にある項目であるので、「神を神としない輩(やから)は殺しても良い」ことになるし、「安息日の規定を守るために人命を犠牲にしても良い」ということになる。事実、「安息日で救急車が来なかったために助かるいのちが失われた」なんて例はいくらでもある。

日本人は、宗教上の戒律については「甘いほう」に拡大解釈するが、ユダヤ人は、「厳しいほう」に拡大解釈する。だから、「安息日には火を使ってはいけない」という戒律があるが、金曜日の内に調理しておいた土曜日(安息日)分の3食を冷たいまま食するが、日本人なら、「(十戒が定まった3,000年前には電気なんかなかったから)ヤハウェ神は電気を使うことまでは禁じていないので、電子レンジで加熱(チン)すればよい」と、甘いほうに拡大して考えるであろうが、ユダヤ人は「電気は火の延長」と、厳しいほうに拡大して考えて己を律する。

日本では、千数百年前に仏教が大陸から伝来した際、戒律に依れば、「僧侶の食事は午前中に限る」とされていたが、「これは薬である」ということにして夕餉(ゆうげ)を摂るようになり、同様に、仏道修行の妨げになる「葷(=ニラやニンニク等の精の付く食品)酒、山門(=寺院内)に入るを許さず」と禁止されているお酒を「般若湯(はんにゃとう)」という「深奥な仏の智慧に至るための薬」という方便にして飲むようになった。同様に、仏教ではその不殺生戒によって肉食を禁じているが、猪の肉を牡丹と、鹿の肉を紅葉と、鶏の肉を柏と呼び変えることによって、動物ではなく植物を食べている体(てい)にして、従来通り、これらの肉を食していた。

この「電気は火の延長だから使ってはならない」という解釈は、万事、エレクトロニクスのお世話になって便利で快適な生活を送っている現代文明人にとって、守ることが大変難しい戒律である。照明はもとより、電話・パソコン・自動車・エレベータ・テレビ等、ありとあらゆる文明の利器で、電気を使っていないものを探すほうが難しいくらいである。ということで、安息日の深夜の1時半頃にテルアビブの空港(エルサレムまで約30キロ)に降り立った私は、いきなり困難に直面した。タクシーがないからである。もちろん、電車・バス等の公共交通機関も全面的にストップしている。かろうじて、イスラエルでは少数派のアラブ人(イスラム教徒)たちがやっている「シェルート」と呼ばれる8〜10人乗りの乗り合いタクシーと交渉して、他に同方面へ行く人たちを空港ロビーで探して、これに乗り込んだ。そんな訳で、エルサレム市内のホテルにチェックインしたのは、とっくに午前3時を回っていた。しかも、エレベータも止まっている…。


▼三大宗教の聖地で

10日の夜が明けても、依然として「安息日」であることは言うまでもない。ユダヤ教やイスラム教では、古い伝統に則(のっと)り、一日は日没から始まって翌日の日没で終わる。現代のように、深夜の零時をもって日付が変わるわけではない。だから、「土曜日が安息日」であるという場合、われわれ(近代欧米式)の基準で言えば、金曜日の夕方から土曜日の夕方までが「安息日」ということになる。われわれでも、クリスマスは、前夜(12月24日)のイブから始まり、お葬式は前晩のお通夜から始まるので、古代の日付のカウント方式の残滓(ざんし)が少しは散見されるけれども…。

という訳で、戒律に従ってホテルでも火を使った温かい料理が供せられず、冷たいパンに10種類ほどある塩辛いチーズを挟んで朝食とした。これも、ユダヤ式の「厳格なほう」への拡大解釈で、律法には「母羊の乳で、子羊の肉を煮てはならない」と書いてあるから、日本人なら「ミルクはダメと書いてあるが、チーズやバターはいけないとは書いてないので、旨けりゃ肉と一緒に食べても構わない」と、「甘いほう」へ拡大解釈するところであろう。マクドナルドのハンバーガーショップを覗いてみたが、世界中同一メニューのはずが、バンズ(丸いパン)にハンバーグとチーズを挟んだチーズバーガーや、ドロドロのアイスクリームであるシェイクは売られていなかった。何事にも徹底しているのである。因みに「日本には、鶏肉を鶏卵でとじてご飯の上に載せた“親子丼”なる美味しい食べ物がある」と、ユダヤ人に教えてあげたら、皆、顔をしかめていた。

こんな公共交通機関も全面的にストップする中、2,000年前、ローマ帝国によって徹底的に破壊されたユダヤ教の神殿跡に、1,400年前、イスラム教徒によって「岩のドーム」と呼ばれるモスクが建てられた場所を取り囲む、総延長約4.5キロ、高さ約10メートル、厚さ約3メートルの堅牢な城壁によって取り囲まれた面積約1平方キロメートル(約30万坪)の旧市街を訪れた。このユネスコの世界遺産にも登録されている旧市街は、その複雑な歴史的経緯から、現在は、アルメニア人地区・ユダヤ人地区・キリスト教徒地区・ムスリム(イスラム教徒)地区に四分されて自治されている。先に述べたムハンマド(イスラム教の教祖:マホメットともいう)の魂が昇天したとされる「岩のドーム」の他にも、ユダヤ人の聖地「嘆きの壁」や、キリストの墓の上に建てられたとされる聖墳墓教会等、3つの宗教がそれぞれ譲ることのできない“聖地”が隣接している世界的にも極めて稀な場所である。

磔刑にかけられるイエスが自ら十字架を担いで進んだとされるエルサレム旧市街地内の道「ヴィア・ドロローサ」
磔刑にかけられるイエスが自ら十字架を担いで進んだとされるエルサレム旧市街地内の道「ヴィア・ドロローサ」

私が、彼の地を訪れるのは、1994年に、大恩師親先生のお供をしてこの地を訪れて以来、17年ぶりのことである。確かその時も安息日で、御齢91歳の大恩師親先生が紋付袴姿の正装で各宗教の聖地を訪れ、それぞれの最高指導者から熱烈歓迎されたときのことが昨日のことのように思い出された。もちろん、私は大恩師親先生のような「偉い人」ではないので、誰も特別に迎えてくれないが、その分、気軽にあちこちを歩き回って、日本ではほとんど接することのできないアルメニア人たちとの意見交換を行ったりした。また、イスラエル当局によるものものしい警備の中、「嘆きの壁」を訪れ、17年前と同様、世界平和を祈った。私は大学時代に、ユダヤ人の言葉であるヘブル語(ヘブライ語)も学んだ経験があるので、そこそこの標示なら読むことができるので、一般の観光ガイドよりははるかに内部まで入ってゆくことができる。

ユダヤ教徒最高の聖地「嘆きの壁」の上に、イスラム教の聖地「岩のドーム」がある
ユダヤ教徒最高の聖地「嘆きの壁」の上に、イスラム教の聖地「岩のドーム」がある

この日の夕方には、友人(ユダヤ人)の自宅を訪れ、安息日の夕食をご馳走になった。小さな3人の子供が居たが、皆、テレビゲームなど一切せずに、決められた経典を読誦させられていた。何事も「子供中心」の日本の家庭は子供に甘すぎると思った。因みに、イスラエル国内に住むユダヤ人と、ローマ帝国によって滅ぼされて以来、20世紀中葉に至るまで、2,000年間国家がなかったが故に、世界の各地に逃散したユダヤ人たちの人口を合計しても、日本人の約10分の1の1,200万人に過ぎないが、かのアインシュタイン博士をはじめユダヤ系のノーベル賞の受賞者数は、なんと129人に達し、18人の日本人受賞者と比べて70倍以上の高確率でノーベル賞受賞者を輩出している理由はここにあると思う。安息日が明けるこの日の日没、私はユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグを訪れ、人々と安息日終了の祈りを共にした。


▼9.11同時テロ10周年に出席

11日は、イスラエルにおける日本研究の大家であるヘブライ大学名誉教授のベン=アミー・シロニー博士(註:日本研究が評価されて、勲二等瑞宝章を受章)の自宅を表敬訪問し、「いとこ間の結婚が可能」(例えば、菅直人前首相と伸子夫人もいとこ同士)という世界でも稀な婚姻形態を共有するユダヤ人と日本人という話題から始まり、天皇陛下の敬語の使い方等、各方面に議論が大いに盛り上がった。シロニー博士は、大恩師親先生のこともご存知であった。

イスラエルにおける日本研究の泰斗ベン=アミー・シロニー博士のご自宅を訪問
イスラエルにおける日本研究の泰斗ベン=アミー・シロニー博士のご自宅を訪問

午後からは、ヘブル語を話すカトリック教徒のためのラテン総主教庁を訪れ、ダビデ・ニューハウス副主教とイスラエルにおける宗教的少数派(マイノリティ)の問題について話し合った。ヘブル語を母国語とするユダヤ教徒やアラビア語を母国語とするイスラム教徒はいくらでも居るが、ヘブル語やアラビア語を母国語とするキリスト教徒はごく少数であるが故に生じるさまざまな人権問題について、私は中国におけるチベット人仏教徒やイラクにおけるキリスト教など、宗教的・民族的少数派の人権擁護活動を積極的に展開しているので、意義深い話し合いができた。と同時に、かつて東方正教会の儀礼研究で修士号を得た私は、イコン(聖画)についても関心があり、大変貴重なヘブル語で書かれたイコンで飾られた同総主教庁の聖堂を見学した。

珍しいヘブル語で表記されたキリスト教の聖画
珍しいヘブル語で表記されたキリスト教の聖画

夕方には、エルサレムのアメリカ文化センターで開催された「9.11米国中枢同時多発テロ10周年記念写真展“グランド・ゼロ(爆心地)”開幕式典」に出席した。厳重な警備下で行われた同式典には、ネタニヤフ首相やシャピリオ駐イスラエル米国大使も臨席し、イスラエルと米国の一衣帯水(いちいたいすい)の関係を見せつけた。特に、ムバラク長期独裁政権崩壊後のエジプトにおいて、カイロのイスラエル大使館がエジプト市民の暴徒によって襲撃を受けている最中であったので、あらためて、この問題の根深さが浮き彫りにされたが、式典終了時に斉唱されたアメリカ国歌『星条旗』を式典に参加してたイスラエル市民のほとんどが唱えたのは両国の関係を象徴している。

「9.11同時多発テロ」十周年記念行事で講演した後、アメリカ大使と記念撮影に応じるネタニエフ首相。その講演を間際で聞いた三宅善信師
「9.11同時多発テロ」十周年記念行事で講演した後、アメリカ大使と記念撮影に応じるネタニエフ首相。その講演を間際で聞いた三宅善信師

▼新たな「嘆きの壁」を創ってはいけない

翌12日は、国内に総延長数十キロもの「壁」を造って分離しなければユダヤ人の安全が確保できないなど、イスラエルによる対パレスチナ政策の矛盾が露呈しているヨルダン川西岸の占領地域─イスラエル側の表現では「入植地域」─を訪問し、最も係争が激しいヘブロン地区のアラブ人族長シェイク・アブハデル・ジャバリ氏と、同氏が治める1,000エーカー(約120万坪)の荒涼たる砂漠内のテントで会談。同氏は「イスラム教徒もユダヤ教徒も宗教上の理由で“聖地”を明け渡すことができない以上、いかに平和的に共存してゆけるかが大切で、そのための相互信頼醸成が必要」と述べ、私は、「諸宗教が平和裏に共存している日本のモデルをぜひ参考にして欲しい。われわれにできることがあればなんでも協力する」と述べ、私が推進している諸宗教対話プログラムのDVDを贈呈した。ジャバリ氏は「あのような大地震と大津波にも不屈の闘志を見せて国土再建に励んでいる日本人を尊敬している」と述べるなど、終始和やかな雰囲気で会談は進んだ。

ヘブロン地区にあるアラブ人族長のテントを尋ねた三宅善信師
ヘブロン地区にあるアラブ人族長のテントを尋ねた三宅善信師

それにしても、2,000年前にローマ帝国によって神殿が破壊されたことによって、その西側の土台の石垣を「嘆きの壁」として聖地奪還を祈り続けているユダヤ人たちが、いくらテロリストからの安全確保のためとはいえ、万里の長城のような「壁」を建造してユダヤ人とパレスチナ人を分断しているということは、壁の向こう側に暮らすパレスチナ人の心に新たな「嘆きの壁」を創り出し、暴力の行使と復讐の悪循環を未来永劫継続させることに繋がりはしないだろうか…。

ユダヤ人とパレスチナ人の居住区を分けるためにイスラエル政府によって作られた巨大な壁
ユダヤ人とパレスチナ人の居住区を分けるためにイスラエル政府によって作られた巨大な壁

その後、私は、「壁」のこちら側のユダヤ人入植地側に戻り、キリスト教とユダヤ教の理解と協力センターを訪れ、昼食代わりのフルーツを食しながら、ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)たちと積極的に神学論争(例えば、「神が1人でない場合は、社会正義の源泉を何に求めるのか?」といったテーマ)を展開。中には、最近来日した経験のあるラビも居て、「多神教の日本人とでも、このように宗教対話が可能なのであるから、イスラム教徒とも実際に面と向かってしっかりと対話を進めて欲しい」と依頼した。

ユダヤ人入植地内の施設で、ラビたちと忌憚ない意見交換を行った三宅善信師
ユダヤ人入植地内の施設で、ラビたちと忌憚ない意見交換を行った三宅善信師

最後に、入植地内のユダヤ教徒の青少年たちが民族のアイデンティティを維持するための宗教教育を受ける施設を訪問し、分厚い律法の解釈集を暗記する様子を見学し、実質2日間のイスラエルにおける予定をすべて終了し、その足でテルアビブ空港から次の訪問地であるローマへ向かった。


▼5年ぶりの教皇謁見

ローマのフィウミチーノ空港に午後8時過ぎに到着した私は、入管・通関手続きをわずか数分で終えてタクシーに飛び乗り、30分後には、ローマ・カトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂から歩いて10分ほどの距離にあるホテルへチェックインした。エルサレムとローマという世界的な“聖地”を相次いで訪問することになったのであるが、何もかもが戒律で縛られたイスラエル人と、万事が陽気で楽観主義のイタリア人との対比は見事なほどであった。大阪教会の白神紀美雄副教会長先生と三宅道人常盤台教会長先生は、一足先にローマ入りしており、このホテルで合流した。

翌13日は、ローマが初めてという白神先生を午前中かけてサン・ピエトロ大聖堂とシスティーナ礼拝堂に案内─この2つだけで、約10キロ歩いた計算になる─した後、白神先生たちと別れて、翌朝行われる教皇謁見の準備のため、バチカンの外務省や宮内庁に赴き、必要な手続きを行った。バチカンは、全世界に信徒が12億人いるカトリック教会の総本山であると共に、世界最小の独立国でもあるので、複雑な官僚機構がある。洋の東西を問わず、役所というものは手続きがいろいろと煩雑である。それらの全てを終えて夕刻の親先生の到着を待った。親先生は、12日に名古屋の熱田神宮で開催されたWCRP日本委員会の役員会を終え、13日朝に教会を発たれて、この日の夕方ローマ入りされた。

ローマ教皇は、毎週水曜日には、外遊等でローマを離れておられない限り、世界各国から参詣する巡礼団に対して謁見される。会場は、数万人が集えるサン・ピエトロ大聖堂正面(東側)の広場か、南隣にある約1万5,000人収容謁見ホールが当てられるが、今回は、謁見ホールでの一般謁見となった。私が1977年に泉尾教会代表団の一員として大恩師親先生のお供をして初めてローマを訪れた際に、時の教皇パウロ6世と謁見したのがこのホールであった。また、1990年に二代親先生率いる代表団として訪れ、時の教皇ヨハネ・パウロ2世に謁見した時も、この謁見ホールであった。5年前に初めて現在の教皇ベネディクト16世と謁見した時は、屋外のサン・ピエトロ広場であった。それ以外に数回、別室にて少人数で個別に謁見させていただいた経験がある。

サン・ピエトロ大聖堂の頂上からローマ市内を見下ろす三宅善信師
サン・ピエトロ大聖堂の頂上からローマ市内を見下ろす三宅善信師

聖堂の中に入るにも、空港にあるのと同じ金属探知器を使って一人ひとり所持品を入念にチェックしなければならないご時勢であるので、謁見が行われる14日は、まだ式典の開始に3時間もある朝7時半に、われわれは正装して謁見ホール前のゲートへと向かったが、早くも長蛇の列ができていた。いかに当局から最前列の招待券を貰っているとはいえ、セキュリティチェックは全員受けなければならないので、ホールへ入堂して招待券を係官に示して自席へ案内されるまでは、1万5,000人居る一般謁見者と同じ扱いである。しかも、第1列といっても、ゆうに100席はあるであろうから、これまた、教皇の真正面の最前列へ座ろうと思えば、それなりの「競争」が出てくる。幸い、われわれはこの日の特別ゲストの2組目に指定されて、いわゆる「イの二番」の席に座った。広い謁見ホールがあっという間に満席になり、それぞれの国の小旗や揃いの服装を着た各国からの団参グループは、思い思いの歌を歌ったりして、教皇の入堂を今や遅しと待ちわびていた。


▼世界を視野に入れたバチカン

午前10時半、出先からヘリコプターでバチカンに帰着された教皇ベネディクト16世が登場すると、ホールの興奮は一気に沸点に達した。適切な比喩とは思えないが、お目当てのロックスターが登場した瞬間のステージの様であった。しかも、派手な照明やスモークなんかはないにもかかわらず…。教皇の先唱による短い祈祷に続いて、本日の説教を教会用語であるラテン語でする教皇…。この日の説教は、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたもう…」という名文句で始まる旧約聖書『詩篇』第22篇をテーマに取り上げたものであった。因みに、私は大学時代、ラテン語中級の単位も習得したので、説教の概要はなんとなく理解できた。

それに続いて、フランス語・英語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語・ポーランド語・ロシア語・イタリア語の9カ国語で、世界それぞれの地域から参集している団参グループに1時間半にわたって、個別の団体毎に祝福を述べられた。各グループの名前が読み上げられると同時に、立ち上がってそれぞれの国旗や団体のマークの入った小旗を振り、あるいは、短いコーラスや楽器の演奏を行って、「わたしたちはここに居ます!」と壇上の教皇にアピールすると、教皇はそちらに視線を送って、手で十字を切りながら、短い祝福を各国語で述べる。これらが延々と繰り返されるだけであるが、祝福を受けた各団体は大感激の様子であった。これぞバチカンの世界戦略と実感した。

金光教の先生方と共に教皇ベネディクト16世に謁見する三宅善信師
金光教の先生方と共に教皇ベネディクト16世に謁見する三宅善信師

そして最後に、この日、ローマに参内している世界各国の司教団約20名が教皇に挨拶をした後、この日の特別ゲストであるわれわれが壇上へと招かれた。壇上には、イタリアの名のある女子修道会長と、親先生と私と常盤台教会長と大阪教会副教会長らだけが祭壇上に招かれ、本誌グラビアページにも紹介されているように、親先生は教皇ベネディクト16世としっかり握手を交わされご挨拶…。私は、エルサレムを訪問してきたことや東日本大震災に対するバチカンの支援に謝意を述べるなど、短い時間ではあるが、それぞれ教皇と挨拶を交わした。17年前に、御齢91歳にして、今回と同じエルサレムとローマを歴訪された大恩師親先生のお供をさせていただいた時のことが思わず思い出された。

教皇ベネディクト16世と言葉を交わす三宅善信師。実は、この6週間後に再度謁見することになる
教皇ベネディクト16世と言葉を交わす三宅善信師。実は、この6週間後に再度謁見することになる

教皇謁見に引き続き、バチカンの諸宗教対話行政を担う諸宗教対話評議会(中央省庁に相当)を訪問し、副大臣に相当するピエル・ルイジ・チェラータ大司教らと1時間にわたって世界の諸問題について話し合った。この日の様子は、バチカン放送を通じて全世界に中継され、現在でもバチカンの公式ウェブサイトで動画閲覧することができる。

こうして、6日間におよぶエルサレムとローマという二大聖地を巡礼する旅を終えて、翌朝、フィウミチーノ空港を発ち、ドゴール経由の便で、9月16日に無事、帰国することができた。





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