2011年12月4日から10日の日程で、南アフリカ共和国のダーバンで開催された国連気候変動枠組会議の第17回締約国会議(COP17)に出席した。事実上、主要国が『京都議定書』を反故にするなど、現在の国際環境は「地球温暖化防止」とは正反対の方向に進んでいる中で、宗教者の役割が見直された。
▼南アフリカという国
12月4日の深夜に関西空港を発つエミレーツ便で、COP17が開催される南アフリカ共和国第二の都市ダーバンへと向かった。関空から中東のドバイまで11時間、ドバイ空港で5時間の乗り継ぎ待ち、ドバイからダーバンまで8時間の合計24時間におよぶ長旅である。経由地のドバイ空港に到着したのは現地時間の早朝5時半というのに、いつものことながら、この空港はあたかも朝夕のラッシュ時の梅田駅や新宿駅の如き人の波——当然、ターミナルビル内に軒を並べる世界の有名ブランド店やレストランも満員——で賑わっており、「24時間空港」とは名ばかりで、夜9時を過ぎると、レストランや土産物店も次々とシャッターを下ろしてしまう関空とは大違いである。
このようにして、南ア時間の5日夕方5時にダーバン空港へと到着した。関西空港とドバイ空港とダーバン空港のターミナルビルの外観は大変よく似ているが、「中身」は、それぞれのお国柄が出てまったく異なるのが興味深い。6時頃には、われわれ(註:今回はWCRP日本委員会の開発・環境委員会を代表して参加したので、一燈園の西田宗敬師とWCRP事務局員の三名が行動を共にした)は、地元WCRP南アフリカ委員会が予約してくれたホテルに到着したが、このホテルが、見るからに「木賃宿」という風情で、しかも、まだ夕方の6時過ぎだというのに、表通りには人っ子一人歩いていない治安の悪そうな地域のど真ん中にあった。
フロントも、強盗に襲われないように、鉄格子を挟んでお客と対面する。まるで、刑務所の面会所のような雰囲気である。一応、エレベータはあるが、日本のような全自動ではなく、客自ら各階の壁にある引き戸を開けて、エレベータ本体に付いている蛇腹の鉄格子を開いてから乗り込んで、また、鉄格子を閉めてから行き先階のボタンを押すという極めて古風な「リフト」である。各客室には、インターネットの接続設備どころか電話すらなく、トイレと寝室の間に目隠しの袖壁(そでかべ)があるくらいで、ベッドも端のほうに腰掛けたらひっくり返りそうなオンボロ部屋であった。さすがに、1泊900円である。
しかも、この券売機は「紙幣」が使えない…。日本の自動販売機はたいてい千円札が使えるし、場合によっては一万円札でも使える(それだけ偽札が少なく、また自販機を壊して現金を強奪する人間が少ないという意味だが…)のであるが、外国の自販機は基本的には「硬貨」のみしか使えない。しかも、「硬貨」といっても、日本の500円硬貨のような高額な硬貨は少なく、ユーロの場合、2ユーロ硬貨が最高額の硬貨である(米ドルの場合は25セント)。外国から到着したばかりの人が、たとえ空港内の銀行で両替したからといっても、そんなにジャラジャラと小銭を持っているはずがないし、ましてや、関西で言うところのICOCAのような鉄道用電子マネーを持っているはずがない。私の場合、たまたま、前回欧州に来た際のユーロ硬貨の釣り銭が結構あったので、それをジャラジャラ投入して、スキポール空港駅からアムステルダム中央駅へと向かった。余談であるが、駅のプラットホームと電車の床の高さが揃っているのも、日本の鉄道だけである。欧米の鉄道では、大きな荷物をぶら下げて乗り降りするだけでも大変である。
東日本大震災への各国からの支援に礼を言いつつ、温暖化問題についいてスピーチする三宅善信師
読者の皆さんの中には、「辺鄙(へんぴ)なアフリカだから……」と思われる向きもあるかもしれないが、南アフリカ共和国は、GDP世界第28位(欧州のオーストリア、南米のアルゼンチン、中東のイランとほぼ同じ)のアフリカ大陸内ではダントツ1位の経済力を誇る国家であるから、物価とて日本のそれと2倍以上の開きがあるわけではない。しかも、ダーバンは人口335万人(大阪市は267万人)の大都市であるから、やはり1泊900円は破格の安宿である。
ここで、南アフリカの歴史的背景について簡単に説明しておく。「南アフリカ」と聞いて、日本人が思い浮かべるのは、1994年まで続いた悪名高い「アパルトヘイト」と呼ばれる人種隔離政策であろう。あるいは、ダイヤモンドや金の世界的な産出国というイメージもある。南アフリカも、他のサハラ砂漠以南のアフリカ大陸諸国家同様、15世紀末のヨーロッパ人による「大航海時代」によって“発見”された地域であるが、そこには当然何千年も前から先住民(黒人の各部族)が暮らしていた。17世紀の中頃になると、欧州から東南アジアの香辛料を求めて進出したインド航路の主要中継基地として、大西洋とインド洋の境界である「喜望峰(ケープホーン)」にケープタウン植民地が造られた。中でも中心を占めたのは、オランダの「東インド会社」である。この時代、インド航路を通じて、中国や日本の磁器をはじめ多くの工芸品やお茶がヨーロッパに持ち込まれ、一大東洋ブームを巻き起こした。
ケープタウンの周辺に入植したオランダ人たちは、「ボーア人」と呼ばれ、先住民である牧畜民族のコイ人(註:かつては「ホッテントット」と呼ばれた)や狩猟民族のサン人(註:かつては「ブッシュマン」と呼ばれた)たちを奴隷化して大規模農業を営むと共に、彼らとの混血も進んだ。その後、18世紀末にダイヤモンドや金鉱を狙ってイギリス人たちが進出してくると、先住民やボーア人と新参のイギリス人との間で争いが起こった(註:二次にわたる「ボーア戦争」や先住民族と英国との間で戦われた「ズールー戦争」等)が、最終的にはイギリス人の勝利に終わり、公用語も英語となり、英国法(コモン・ロー)の大系に基づく法律が施行され、英語を解さないボーア人たちは、白人ながら「二等国民」として差別され、自らを「アフリカーナ(アフリカ人)」と呼ぶようになった。
20世紀初頭には、後に「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンジーが若き弁護士として、南アフリカでインド系移民への法的権利を擁護する運動に身を投じたが、第二次大戦後、農村部のアフリカーナや都市部の白人貧困層の政党である国民党が選挙で政権をとると、「アパルトヘイト」を制度化し、国連や欧米各国からの非難にもかかわらず、豊富な地下資源と先進国並みの科学技術力(註:1970年代にはすでに数発の核爆弾を開発・保有していた)を有する南アフリカ共和国は、国際的にも特別な位置づけを有していたが、1990年の米ソ冷戦終結に伴う国際環境の変化からデ・クラーク大統領(白人)は一切の人種差別政策を廃止した。そして1994年のネルソン・マンデラ氏(黒人)の大統領就任を迎えるのである。
マハトマ・ガンジー翁の孫エラ・ガンジー女史と言葉を交わす三宅善信師
以上が南アフリカの歴史の概観であるが、法的には白人と同等の権利を得たとは言え、アパルトヘイト期間中に生じた“格差”は埋め難く、日本でも「親の収入の差」によって「子供の学歴の差」が生じるように、概して、高学歴を取得した人物はより収入の多い職に就けるので、白人と黒人との間で、「貧富の格差」が固定化されることになる。われわれがチェックインしたホテルは、こういった背景によって生じた都市在住の黒人貧困層の暮らす地区に建てられたホテルであった。だから、1泊900円という破格の宿賃なのである。
南アフリカ共和国は、中東や北アフリカ地域のような内戦やテロ襲撃(軍事マター)の続発するような地域を除くと、世界でも有数の殺人・強盗事件(警察マター)の多い地域である。であるから、ホテルのフロントには鉄格子が嵌め込まれているのである。ただ、港湾地区にあるこのホテルからタクシーでほんの数分という目と鼻の先にはハワイのように海岸沿いにリゾートホテルが建ち並び、まるで「別世界」である。
前近代社会がそうであるように、人間というものは、国中がすべて貧しければ不満を抱かずに生きることができるが、同じ社会の中で圧倒的な格差が顕在するとき、略奪や強盗というものが発生するものである。因みに、国際会議センターのすぐ隣にある五ッ星の高級ホテルや海岸沿いのリゾートホテルは、各国の代表団が独占しており、われわれNGOが宿泊することのできるホテルは、市内なら今回のような木賃宿か、あるいはまともなホテルを取りたいのなら、200km以上離れた遠隔地しか空いていないが、公共交通機関も不十分な上に、治安の良くない南アフリカでは無理な話である。
▼変質してしまった温暖化防止会議
12月6日の朝、われわれは今回のCOP17のメイン会場であるダーバン市の国際会議センターへと向かった。私がこれまでに参加した三回の温暖化防止会議に比べて、警備陣が思いのほか軽微であり、なおかつ、会場へ出入りするときに必ず身につけておかなければならないIDカード(顔写真付き身分証明書)も、今回は数分間で取得することができた。2年前、コペンハーゲンで開催されたCOP15の際には、このIDカードを取得するだけで、氷点下1度の屋外で6時間も並ばされたことを考えると大変ラッキーだったので、危険な木賃宿というマイナス点とスムーズな入場というプラス点で相殺していると思うことにした。。
しかし、このことにはいくつかの“裏”があった。私はこれまで、2007年にインドネシアのバリ島で開催されたCOP13以来、ポーランドのポズナニで開催されたCOP14、デンマークのコペンハーゲンで開催されたCOP15と、相次いで国連の気候変動枠組会議にWCRP日本委員会の開発・環境副委員長として参加してきたが、残念ながら、年々「NGO排除」の傾向が強まっていることは事実である。
バリ会議やポズナニ会議では、国連事務総長や各国の首脳が演説し、各国政府代表が議論を戦わせる場をわれわれNGOからの参加者も見学することができた(註:当然、この会議の正式メンバーは「Conference Of Parties(締約国会議)」であるから、発言や賛否を表することができるのは各国政府の代表であることはいうまでもないが、国益の壁を越えてどの国の主張が温暖化防止に熱心であるかないかを監視し、評価するのは市民の代表NGOに委ねられた権利である)が、2009年のコペンハーゲン会議では、NGOの参加者は、会場の入場パスを受け取るために氷点下の屋外で6時間も並ばされた。これは、明らかに国連がNGOを排除していることを意味する。
もちろん、公に「排除する」とは言えないので、物理的に「排除する」ことにした。3万人近いNGOの代表が事前に国連の指示するとおりの参加申し込み手続きを経て会場入口に並んだのに、NGOの受付窓口を8カ所しか設けず、1人につき3分間で顔写真付きのIDカードを交付したとしても、1時間当たり20人X8カ所=160人。1日に10時間受付窓口を開いたとしても、一日に入場IDパスを受け取ることのできるNGO関係者は、1,600人に過ぎず、国連に事前登録した3万人全員に入場IDパスを支給するには、COP15の期間より長い19日間かかることからも、国連がNGOを排除しようとしたことは明白である。門川大作京都市長ですら、寒中で4時間待たされた。その結果、今回のダーバン会議では、各国政府代表が集う会議場には近づくことさえ許されない有り様だ。せっかく南アフリカまで来ながら、皆パソコンの画面に向かってインターネットを通して情報を収集している様は、異様ですらある。
会場まで来ているにもかかわらず、メディアセンターのパソコンで情報収集するNGO関係者たち
2008年秋のリーマンショック以来、先進国の政治指導者の関心は、完全に国内景気の回復と国際金融秩序の維持に向かっており、また、『京都議定書』が制定された当時と現在とでは、アメリカが早々とこの枠組から離脱したことは論外としても、国別の温室効果ガスの排出量は、EUや日本の比率は中国やインドなどの新興国の排出量と比べたら極めて小さく、先進国のみの排出量規制数値目標を課した『京都議定書』は、今や、完全に意味のないものとなってしまった。おまけに、原発事故の対応で精一杯の日本政府も、当面の電力不足を火力発電所のフル稼働で補おうとしており、排出規制の遵守は完全に諦めていることが明白である。
▼COP会場で祈りとスピーチ
そんな閉塞感の中で、『京都議定書』が決議された1997年のCOP3以来14年ぶりに、COP会場において宗教者が温暖化問題に関する国際パネルを開催したことは注目に値する。12月7日、南アフリカ共和国で唯一のカトリック枢機卿であるダーバン大司教のW・ナピエール枢機卿がモデレータとなって、マハトマ・ガンジー(註:ロンドンの法曹院を卒業した後のガンジーの公的生活の最初は、南アフリカにおける弁護士活動であった)の孫であるエラ・ガンジー女史をはじめ、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・ヒンズー教等から7人の代表が出て、パネル討議が開催された。各パネリストは、環境保全に対するその宗教独自の教義的根拠を述べ、温暖化による食糧危機や風土病の蔓延が、途上国の人々の生存を脅かす点からも、宗教者が気候変動の問題に取り組むことが喫緊の課題であると力説した。
議長を務めるダーバン大司教のW・ナピエール枢機卿から指名されて開会の祈りを行う三宅善信師
このパネル会場の最前列にいた私は、モデレータのナピエール枢機卿から突然指名されて、パネルの「開会の祈り」を務めることになり、日本人を代表して東日本大震災に際して全世界から寄せられた見舞いと支援に感謝の言葉を述べると共に、世界中の人々が環境を維持することによって安全を共有できるよう英語で祈った。その印象が良かったのか、「閉会の祈り」にも指名され、祈りの前に、「原発の安全性が問われる中で、容易に再生可能(自然)エネルギーへの切り替えを説くのは無責任な態度である。実際には、原発の創り出すエネルギーと同程度のエネルギーを再生可能エネルギーで補えるようになるためには、今後相当の期間を必要とするため、その間は、旧態依然たる化石燃料による発電をフル稼働して補うしかなく、そのことがもたらす地球上の全生物種に与える影響の深刻さを顧みた上での、罪深い究極の二者択一である」ことをスピーチして、われわれ人類が一層責任をもって、この問題に取り組めるように祈った。
いずれにしても、WCRPではこれまで日本委員会だけがこのCOP会議に参加してきた(註:親先生は、1997年のCOP3でNGOの副委員長を務められたのをはじめ、その後のCOP会議に数回参加されている)。また、広い会場内を隈無く歩き回り、各国政府や各NGOが出展しているブースを訪れ、そのいくつかと交流を持つことができた。われわれはまた、COP会場以外でも、黒人居住地区の真ん中にある地元ダーバンの宗教対話会館「コイノニア(「交わり」の意)」において開催された水資源に関するワークショップ等にも参加し、それらの中で積極的に発言をした。
諸宗教対話会館で開催された「水資源」に関するワークショップに参加する三宅善信師
こうして、3日間におよぶCOP17会議への参加を終えて、12月8日の夜ダーバン空港を発ち、8時間かけて中継地のドバイ空港まで戻った(現地時間の午前5時過ぎ)が、この空港は日本への乗り継ぎ便は極端に不便で、なんと翌朝の3時まで22時間待ちということなので、いったんドバイ市内まで出ることにしたが、わずか二十数年前まで何もなかった砂漠の上に、近未来的なピカピカの超高層ビル群が建ち並ぶこの人工都市には、リーマンショックの後遺症も無かったかのように、世界中から人が流れ込み、高級車が走り回り、名だたるブランドショップが延々と続く様は相変わらずで、二十年に及ぶ長期の経済不振に喘(あえ)ぐ日本の政治家や経済人が本当に無能に思えてきた。因みに、ドバイはペルシャ湾岸にあるアラブ首長国連邦を構成する一都市国家に過ぎないが、石油はほとんど産出しないので、単なる「石油成金」ではない。
そして、翌10日の午前3時発の便で大阪へ向かったが、運の悪いことにこの便も、この週から日本で開催されるFIFA大陸別クラブワールドカップに、アフリカ大陸を代表して出場するチュニジアのチーム(エスペランサ)の応援団の人々で満席で、初めて日本に行くサッカーのサポーターたちは興奮して、機内でずっと騒ぎっぱなしだったので、ホッと一息つく間もなく関空へ到着した。