9月2日から8日までの日程で、村山廣甫会長(曹洞宗審事院監事)をはじめ11名の国際宗教同志会代表団を率いてバチカンを訪問し、ローマ教皇ベネディクト16世との謁見をはじめ、諸宗教対話評議会の訪問などカトリック教会との交流プログラムを実施した。
▼ローマは一日して成らず
国際宗教同志会は、毎年G8宗教指導者サミットに代表を派遣しているが、国際宗教同志会独自の海外派遣団事業は、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世法王と会談するため、2007年秋に北インドのダラムサーラに代表団8名を派遣して以来5年ぶりのことである。国際宗教同志会の事務局長を務める私は、今回の派遣プログラムを実現するために8カ月前から準備をしてきた。目的地に到達するだけで、丸2日かかる僻地ダラムサーラとは異なり、関西空港からの直行便もあるローマそのものへは、ただ行くだけなら半日で行けるということもあり、それぞれの宗派教団の行事で多忙な先生方の日程に配慮して、今回は、謁見日である9月5日の前日(4日)の夕方にバチカン近くの指定ホテルに集合して、謁見日の翌日(6日)の朝に解散するという「現地集合現地解散」の日程となった。
とはいえ、今回のメンバーでは、一燈園当番の西田多戈止先生(国宗常任理事)を除く全員がローマ教皇との謁見の経験がなく、その西田先生ご自身も20年ほど前に先代教皇のヨハネ・パウロ2世と謁見されたことがあるだけなので、実質的には、先生方にとって、公的謁見は「初体験」ということになる。一方、私は、ここ数年、ほぼ毎年のようにローマを訪問する機会があり、昨秋などは、教皇ベネディクト16世と二度も謁見の栄を賜る機会に恵まれ、公的謁見の要領を最もよく心得ている者であり、また、国宗の事務局長でもあるので、今回の謁見に関する一切のお世話をさせていただくことになり、大恩師親先生の十三年祭の祭主の御用を終えた翌9月2日に関空を発つ便でローマ入りした。
大恩師親先生のお供をして1977年に初めて教皇パウロ6世に謁見して以来、これまで10回近くその時々のローマ教皇に謁見してきた私でさえ、これまで一度として全く同じパターンの謁見であったことがなく、いかにも「イタリアらしい」と言ってしまえばそれまでのことであるが、本当に「現場へ行ってみなければ何が起こるか判らない」のが教皇謁見なのである。
特に今回は、比叡山宗教サミット25周年記念行事のために来日したイタリアの知人から、「たしか9月5日の謁見は、バチカンではなく、カルテル・ガンドルフォ(註:教皇は夏の間、蒸し暑いローマを避けて、二十数キロ離れた高台のロッカ・デ・パーパにあるガンドルフォ城(カステル)で過ごすことになっており、その期間中の謁見は、謁見希望者が現地まで出向くことになっている)だったと思うけれど…」という報せが入ったので、昨年9月の謁見はバチカンだったから本当に不安だった。私1人であれば、前日の夕刻に会場の変更を知らされても、車に乗るなりして、どこへでも赴くことができるが、80歳代の先生方が3名もおられるような、しかも装束や袈裟衣で正装した団体を率いて現場即応するのは困難─例えば、タクシー4台に分乗したとしても、参加者の中で言葉の通じる人は3名しかいないので、トラブルが発生した際には現場対応できない─なことが目に見えているからである。だから、日本を発つ前から、「現地で小型のバスを仮チャーターする」などの準備をしていた。
昨年の9月11日、親先生や大阪教会の白神先生たちと共に謁見した時もそうであったように、ローマ市内で宿泊するホテルも「限りなくバチカン市国に近い」徒歩数分以内の場所にあるホテルを予約した。何故なら、2007年にバチカンを訪れた際に泊まったローマ市内のホテルが、通常ならタクシーで10分程度の距離にもかかわらず、当日の朝、ローマ中の全タクシーがストライキに入るという思わぬ事態に遭遇し、和装で路線バスを乗り継いで、小一時間かけて辿り着いた「事件」があり、往生したので、それ以後、私は「バチカンまで徒歩圏内」を宿泊先ホテルの第一条件としている。できるだけ、不確定要因を減らすためである。しかも、一口に「バチカンで謁見」と言っても、屋外のサン・ピエトロ大聖堂前の広場で行われる場合もあれば、屋内のパウロ6世記念謁見ホールで行われる場合もあり、これも、現地に行って直接確認するしか方法がない。
そんな訳で、私は9月3日の終日、各所を訪ねて情報収集と国宗の先生方が食事等で不自由しないようにいろいろと手配してまわった。そのような中でも、ただ道を歩いている時に、長年、毎日新聞社で宗教担当の論説委員をされていた方と偶然出くわしたりして驚いたりしたが、この日の晩、村山廣甫曹洞宗審事院監事ご夫妻と、大森慈祥辯天宗管長(国際宗教同志会常任理事)ご夫妻と、西田多戈止一燈園当番とその随行の方が直行便でローマ空港に到着され、さらに遅れて、深夜にロンドン経由の便で懸野直樹野宮神社宮司(同監事)ご夫妻も到着されたので、飲料水のペットボトルを用意して、それぞれの先生方のお迎えをし、チェックインのお手伝いをしたが、もう遅い時間帯であったので、移動日のこの日はそのままお休みいただくことにした。
国際宗教同志会会員諸師と古代ローマ帝国の遺跡コロッセオを見学
翌4日は、あいにく朝からかなり雨が降っていたが、先生方の中には「ローマは初めて」という方も居られたので、「真実の口」、「フォロ・ロマーノ(古代ローマの遺跡)」、「コロッセオ(古代ローマの競技場)」、「トレビの泉」、「パンテオン(古代ローマの汎神殿)」といったローマ観光の「鉄板コース」を案内して回った。私自身、18歳の時に大恩師親先生・初代大奥様をはじめとする泉尾教会のバチカン訪問団に加えていただき、初めてローマを訪れた際に、それらを観た覚えがあるが、その後、20回以上ローマに来たけれども、その目的は、教皇謁見やバチカン当局や各団体関係者との会合、さらには、第6回WCRP世界大会やG8宗教指導者サミット等の国際会議への参加や追悼ミサへの列席等が目的であったため、そのような「いわゆる観光地」にはその後一度も足を踏み入れたことがなかったので、良い経験になった。
36年前と何より変わったことは、当時は、どの観光地にも大量の日本人団体観光客が溢れており、片言の日本語を話す観光客目当ての押し売りにしつこく付き纏(まと)われたが、現在、そのような観光地にいる外国人といえば、ほとんど中国人の団体観光客ばかりで、隔世の感がある。もちろん、そのような押し売りは中国人に付き纏っているから、われわれは比較的ゆっくりと見学して回ることができた。しかし、いつ見ても、「よくこんな壮大な建造物群が2,000年も前に造られ、それがまた今日まで維持されてきたものよ…」と思わずにはいられない。「ローマは1日にして成らず」とはよく言ったものである。
▼4000分の1という超高倍率
この日の昼食後、私は国宗の先生方と別れて1人スーツ姿に着替え、厳重なセキュリティチェックをパスした後、有名なスイス衛兵の守る総大理石づくりのバチカン宮内庁へ出頭し、日本で8カ月前から準備していた「召喚状」を謁見担当官に差し出し、明日の「謁見会場入場許可証」と交換してもらった。この段階になって初めて、翌日の謁見会場がどこになるか、また、われわれの席はどの席が用意されるか(屋内謁見場でも1万人以上の収容人員がある)が判明するのである。教皇ベネディクト16世は、当初の予定では、この日の謁見はカルテル・ガンドルフォで行われる予定であったのであるが、数日後にスロバキア、そして、隣国シリアが大変な内戦状態になっているレバノンを公式訪問されるための準備で、バチカンに帰られているということで、われわれにとっては最も都合の良い「バチカンの謁見ホールでの謁見」になった。そこで、翌朝の謁見の注意事項を確認し、重要な書類を抱えてホテルへ戻り、市内観光から帰って来られる先生方を待った。
そして、この日の夜、最後の合流者である芳村正徳神習教教主(日本宗教連盟理事長)ご夫妻をホテルで迎え、11人全員が揃ったので、国際宗教同志会としての公式行事としての結団式夕食会の会場へと向かった。当初は、謁見前日なので「疲れてはいけない」と思い、ホテル内のレストランを予約しようとしたが、なんと「改装中」ということで、徒歩3分ほどの距離にあるカジュアルなレストランで、ピザやパスタを中心としたイタリア料理(基本的に、イタリアではピザやパスタが中心)を食した。中には、今回はじめて面識を得る先生方もおられたので、緊張された方もいると思ったが、気さくなレストランで話も弾み、明朝の謁見の段取りを詳しく説明することができた。あと心配なことは、いったいこの中で何人が登壇できてローマ教皇と直接言葉を交わすことができるかと、お天気だけである。何せ、先生方は皆、束帯や狩衣といった装束や、上等の袈裟衣をお召しになるので、なんとしても雨だけは避けたい…。
こうして、謁見当日の9月5日の夜が明けた。というより、突然の雷鳴で早朝5時半には強制的に目覚めさせられた。ホテルの部屋の窓をたたきつける豪雨…。でも、まだホテルを発つまで3時間ある…。強烈な雨は、空気中の水分を一挙に降らせてしまうので、前日のような終日しとしと降られるよりも、案外、早く止む可能性がある…。それだけを願って6時半、朝食用の食堂が開くと同時に飛び込んだが、先生方も皆、同じ思いで大急ぎの朝食を掻き込んで、7時45分のロビー集合を約してそれぞれの部屋へ着替えに戻った…。30分後に再びホテルのロビーに集まった時は、先生方は皆、それぞれの宗教の装束や法衣に身を包んでくださり、時に、芳村先生などは、平安時代さながらの衣冠束帯に浅沓(あさぐつ)(木製の歩きにくいカッポレ靴)という「第一正装」で準備してくださり、謁見会場までわずか数分の距離とはいえ、歩いていただくのが申し訳ないほどであった。
カトリックの総本山サンピエトロ大聖堂前で記念撮影する国際宗教同志会役員一同
幸い、先ほどまで土砂降りの雨も上がり、われわれ一行は謁見ホールのあるバチカン市国(註:ローマ教皇が統治する世界一狭い独立国家。面積0.44平方キロは、泉尾教会の約20倍で、東京ディズニーランドより少し狭い)の南端に向かって歩き始めた途端、街行く多くの人々の注目を集めた。朝8時前というのに、謁見会場前の保安検査場には、この日の謁見に参加する各国からの巡礼団約200人が既に列をなしていたが、われわれがその列に合流すると、たちまち何十というカメラ撮影の放射を浴びた。
ここで、飛行機に乗るときと同じように、一人ひとり持ち物のセキュリティチェックを受けなければならない。ローマ教皇ご自身はいうまでもなく、バチカンの施設自体がテロの対象になるご時勢なのである…。セキュリティチェックが始まるのを待つ30分ほどの間に、われわれの後方には既に数百人の列ができていた。もちろん、われわれは開門後約5分でゲートを通過し、パウロ6世記念謁見ホールへと向かった。われわれの出で立ちを見て、500年前に、かのミケランジェロがデザインしたという衣装を纏ったスイス衛兵の敬礼を受けて会場内へ入ると、謁見を取り仕切る儀典官が、私が昨日、当局まで出頭して入手した「入場許可証」に示された「第1ゾーン」目指して案内してくれた。
この謁見ホールは、優に1万人以上が入れる「巨大な劇場」のような構造の無柱空間になっており、それぞれ「第1」から「第6」までのゾーンに仕切られており、各ゾーン間の移動は禁止。各ゾーンの席数は2,000席ほどあるというとてつもない施設であるが、同一ゾーン内であれば、どの席に座るかは「先着順」のため、謁見開始の2時間半も前に会場入りした理由はそこにある。おかげで、国際宗教同志会代表団一行はほとんど「最前列」(60席ほどある左側第1列の中央より)に陣取ることができた。ここで重要なのは、われわれの中からいったい何名が、式典終了後に登壇して、ベネディクト16世と握手して直接言葉を交わすことができるかということであるが、それは会場へ行ってみるまで判らない。当日その場を仕切る儀典官が、予め準備された「特別謁見者リスト」と眼前に立つ人物の人相風体を確認しながら決めて行く…。だから、「荷物が大きくなって申し訳ないが、できるだけ仰々しい恰好で来ていただきたい」と、国宗役員の先生方にお願いしていたのである。世界各国から集う団体代表の人々といちいち言葉を交わすことも難しいので、最終的な席順は儀典官の第一印象に任されているからである。ほぼ「いの一番」に到着したわれわれ一行11名を見て、儀典官は「トレ・ペルソーネ・アド・ポスト・プリモーレ(お三方は特別席へ)」と言ってきたので、「キエディアモ・トレ・ピウ・フォーリ(あと3席いただけないか)?」と押し込んでみたが、「ノン(ダメだ)!」と言われた。
全世界から謁見に訪れた信徒に応える教皇ベネディクト16世
そこで、先生方と相談して、特別謁見席には、会長の村山老師と元会長の大森管長と常任理事の西田先生に座っていただくことにしたが、西田先生から、「私は以前に個別謁見をしたことがあるし、村山・大森両先生は初めてで、(たとえ謁見できても)言葉もご不自由だろうから、私(西田先生)の代わりに善信さんが上がりなさい」と言われ、せっかく装束まで着用してローマまで来ていただいた芳村教主や懸野宮司には申し訳なかったが、この3名が「国宗代表」として登壇するということになった。やっと席が決まってから待つこと2時間…。既に謁見ホールは満員になっており、世界各地からこの日のためにやってきた皮膚の色も、衣装も色とりどりの巡礼団たちは、教皇聖下の登場を今か今かと待っていた。よく考えてみると、この日、登壇して教皇ベネディクト16世と言葉を交わすことができる特別謁見者はたったの約20名…。600人に1人という超高倍率である。この日、全世界から1,000人以上の代表団をここに派遣したフォコラーレ(カトリックの在家団体)ですら、許された特別謁見者数はたったの4名…。それ以外の団体は、ほとんど1名の登壇者だったので、11分の3名というのは、われわれのことを4000倍の確率で格別に配慮してくださった人数だったのである。
▼すべての道はローマに通ず
特別席(プリモーレ)へ案内されると、私は、バチカンの公式カメラマンと打合せをしたりしながら教皇聖下の入場を自席でじっと待っていたが、初体験の先生方は、ベネディクト16世の入場を「今や遅し」という雰囲気で満たされた謁見ホールの様子にずいぶんと興奮されたことであろう。すると思いがけない人から声をかけられた。この日の謁見のために、世界各国からバチカンに帰参中の二十数名の司教団は、式典の間は教皇聖下と共に壇上に着席されるのであるが、その内の1人がスルスルとわれわれの目の前まで降りてこられて、流暢な日本語で「皆様はどちらの教団のご代表ですか?」と尋ねられたのである。もちろん、「日本で最も長い歴史を有する諸宗教対話団体である国際宗教同志会の代表です」とお答えした。その方は、欧州のさる国の首都の大司教であるが、東京の上智大学で二十数年間教鞭を執られた経験があるとのこと…。
私は、すかさず「私の媒酌人は安齋伸先生です」と答えると驚かれていた。長年上智大学の教授を務められた安齋先生は、若き日、欧州の留学先で、その後、ポーランド人として初のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世となったカロル・ユゼフ・ヴォイティワ司教と共に学ばれたことがあるくらい日本人のカトリック教徒としては有名な先生だからである。謁見会場では、この他にも、フォコラーレの代表団を率いていた香港人のステッラ女史からも声をかけられて驚いた。彼女と前回出会った時(昨年10月)も、偶然、夜のサン・ピエトロ駅のホームだった…。2日前の新聞記者といい、「私はいったいどれだけ偶然、人と出くわすのであろう…?」と思っていたが、逆に考えると、それだけこのバチカンというところが世界中から人々を引き寄せるエネルギーを持っているということである。「すべての道はローマに通ず」というが、まさにその通りだと思った。
そうこうしている内に、時間はドンドンと過ぎ、午前10時半、ついに教皇ベネディクト16世が入場された。その時の謁見会場の興奮といえば、言葉を探すのが難しいくらいである。総立ちでご入場を出迎えた人々を前に、教皇聖下はごく短い「祈り」をカトリック教会の公用語であるラテン語で行った後、皆に着席を促した。さて、ここからがカトリック教会の凄いところである。全世界に10億人以上信者がいるといわれるローマ・カトリック教会は、世界最大の宗教団体であることはいうまでもない。それだけに、この日の謁見会場に集まった人々が話す言語も実に多様である。そこで、言語ごとに「司会」者が交代する。しかし、たとえどの言語であろうとも、説教をされるのは御齢85歳の教皇お1人である。この日の説教は、フランス語から始まって、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、そしてイタリア語と、実に7カ国語で行われた! しかも、どの言語も、たとえ「原稿」を読んでいるとはいえ、実に淀みなく発音されている。私も学生時代に外国語を5カ国語学んだ経験があるから判るが、たとえ原稿を読むだけでも、なかなかあのように流暢に発音するのは難しい…。しかも、この後、もっと凄いことが起こるのである。
説教に続いて、言語ごとに巡礼団が紹介されるのである。たとえば、フランス語を話す人々ということで、フランス人はもとより、西アフリカ各国や一部カリブ海諸国からの巡礼団が紹介される。あるいは、スペイン語を話す人々といえば、スペインはもとより、メキシコやアルゼンチンなどの中南米諸国からの巡礼団が、言語ごとに分かれた司会者によって紹介され、名前を呼ばれた巡礼団は、10秒間ほど立ち上がって、歓声を上げ、手に手に持ったハンカチを振ったり、聖歌を唱ったりして教皇聖下に自分たちの存在をアピールするのであるが、その場所を認識された教皇聖下は、片手で十字を切って彼らを祝福しながら、それぞれの言語で短く彼らの呼びかけに応答されるのである。つまり、各国の言語が理解できていなければ、できない所行である。われわれ非キリスト教の異教徒である日本人(アジア人一般)はどの言語ゾーンに属するかというと、バチカンでは「英語」のゾーンに含まれることになっている。そこで、英・米・加・豪・印など英語を母国語とする国から来た人々に続いて、司会者から「日本から来た国際宗教同志会の皆さんです!」と会場に紹介されて、人々の歓呼に応えると同時に、壇上の教皇聖下から祝福を受けた。これらのパターンを7言語分繰り返すのである。
教皇ベネディクト16世に国際宗教同志会役員を紹介
あっという間に1時間半が過ぎ、一般謁見も終了の時間となったが、その一番最後に、壇上で教皇聖下の脇に着座していた司教団が教皇から祝福を受け、そして、いよいよわれわれ「特別謁見者」の登壇である。儀典官に促されて1列に並んだわれわれであったが、さすがに、この1年間に三度目の謁見となる私の髭面の風体と謁見用に特注した緋色の烏帽子には、教皇聖下も(お付きの秘書官も)見覚えがあるらしく、「昨年の東日本大震災の際には、日本への格別のお祈りありがとうございました。今回は、国際宗教同志会の代表団を率いて参りました」という私の言葉に微笑まれ、続いて、村山廣甫老師と大森慈祥管長のお二方を紹介させていただき、教皇聖下はお2人と手を取り合われて、それぞれに短いお言葉をかけられた。
こうして、国際宗教同志会として「歴史的な謁見」を終えたわれわれ一行は、群衆でごった返す謁見ホールを「脱出」─まるでアイドルみたいに、多くの人々から「写真撮っても良いですか?」と頼まれまくったから─して、サン・ピエトロ広場を横切り、(その時も大勢の人から写真を撮られつつ)装束姿のまま十数分、サンタンジェロ城の方角へ歩いて、バチカンのキリスト教以外の諸宗教に対する窓口である諸宗教対話評議会(PCID)を訪問し、1カ月前の比叡山宗教サミット25周年記念行事に来日されていた前PCID局長のピエール・チェラータ大司教とお目にかかったのをはじめ、イスラム圏を除くアジア担当の神父と約1時間にわたり話し合いを行い、国際宗教同志会の活動と歴史、なかんずく、創設者の1人である大恩師親先生が、日本が敗戦後に主権を回復してまだ2年しか経っていない1953年という早い段階でバチカンを訪問し、時の教皇ピオ12世と会談された話や、PCIDの初代議長(大臣に相当)のマレラ枢機卿以来、三代にわたる議長が泉尾教会を訪問されたことなど、カトリック教会と国際宗教同志会との特別な関係などについて報告を行った。
バチカン諸宗教対話評議会を訪問した国際宗教同志会役員
私は、昼食後、バチカンの機関誌『ロッセルバトーレ・ロマーノ』(ローマ市内で普通に販売されている日刊紙のひとつ)本社を訪れ、この日の謁見の模様を公式カメラマンが撮影したものを謁見時の打ち合わせどおり頒けてもらいに行った。そして、この日の夕刻、国際宗教同志会としての公式行事の掉尾を飾る村山国宗会長主催の慰労晩餐会が開催され、翌9月6日の朝、今回の行事に参加された先生方はそれぞれの日程に従い、各地へと向けて旅立たれたのを見送った。