ウィーンでサウジ国王提唱の対話会議に出席

2013年11月25日~30日

 2012年の11月25日から30日にかけて、オーストリアの都ウィーンで開催されたサウジアラビア国王提唱の諸宗教・諸文化間対話についての国際会議(KAICEED)に招かれて参加した。


▼イメージと異なったウィーンの街並み

11月は、定例の祭典日に加えて、七五三やお初穂感謝祭といった祭典や府内各地区の集会、さらには、全国各出社の秋季大祭など、連日「行事」が詰まっているが、そんな中で、10月になってから招待状が届いたサウジアラビア国王提唱の国際会議の日程を親先生にお願いして確保していただいた。会議そのものは、26日の朝から始まるので、計算上は、関西空港を25日の午前中に発つ欧州系の航空会社の便を乗り継げば(関空→ウィーン直行便はない)、同日の夕刻にはウィーンに着くことができるが、あろうことか11月25日は、3万人もの市民ランナーが終日市内の幹線道路を占領する「大阪マラソン」の開催日に当たり、千日前通を東側から大正橋を渡って大正区に「侵入」し、すぐに北方へと向きを変えて岩松橋から大正区を「脱出」し、ドーム球場前の千代崎通で折り返し、再び岩松橋から大正区に「侵入」し、またすぐに左折して大正橋から大正区を「脱出」して千日前通を東向きに戻るという、おそらく大正区内を50mほどしか走らないにもかかわらず、これらの地点から約400m離れた三軒家交差点は言うに及ばず、約1,000m離れた国道43号線の辺りまで渋滞が引き起こされ、これらの「橋」を押さえられたら“陸の孤島”となる大正区はどうすることもできなくなってしまうのである。

昨秋の海外出張の帰国時にも大阪マラソンによる交通規制でえらい目に遭ったので、今回は慎重を期して、飛行時間はドバイでの乗り継ぎ待ち時間も加えると倍近くかかるが、マラソン前日の深夜に関西空港を出発するエミレーツ航空便でウィーンまで行くことにした。以前にも書いたことがあるかと思うが、私は、内外を問わず何処へ行っても、現地で知り合いとバッタリと出くわす人である。今回もいきなり、関空のエミレーツ航空の待合いラウンジで、9月上旬に国際宗教同志会のバチカン訪問団でご一緒させていただいた辯天宗の大森管長のご令室様一行と出くわし、教皇ベネディクト16世との謁見の思い出話で盛り上がった。

乗り継ぎ地のドバイ空港は、『南アフリカで第4回IFAPAサミットに出席』にも詳しく書いたように、早朝の5時といった時間帯でも「夕方の5時と違うかしらん」と思えるほどの雑踏で、世界中からヒト・モノ・カネが集結している。だから、先月には南アフリカへの行き帰りに、そして、今回はオーストリアへの行き帰りにと、1カ月に4回もドバイ空港で乗り換えるということになった。大阪を出発したときは、かなり寒かったので結構着込んでいたが、中東のドバイは年中暑いので、汗をかいてしまった。そしてまた、大阪よりも遙かに寒いウィーンへと向かうのである。体調が変になりそうだ。ウィーンの空港へ到着した時も、預け荷物引き取りのターンテーブルでスーツケースの出てくるのを待っていたら、後ろから「ミヤケさん!」と声をかけられた。振り向くと、前駐日スーダン大使のムサ・オマール博士だった。オマール博士とは20年来の知己である。ここから先も、9月のバチカン訪問時のように、どんどんと知人とバッタリ出会うような気がしてきた。

意外なことに、これだけ海外での会議に出席している私であるが、オーストリアへは、18歳で大恩師親先生・初代大奥様のお供をして初めて欧州へ行った際に、インスブルグを訪れた時以来、36年ぶりのことである。そんなことであるから、ウィーンはもちろん初めてである。オーストリア=スロバキア国境に近いウィーン国際空港から西向きに30分も走れば、そこは「芸術の都」ウィーンである。ところが、空港から高速道を相当走っても、街並みは一向に「それらしい風景」には変化せず、ウィーンの旧市街地へ入る直前までは、内陸国家には珍しい石油化学コンビナートのような大規模な工場が建ち並んでいる。これなら、関空から大阪市内へ車で帰るときに、車窓の左側に見える堺臨海コンビナートとあまり変わらない風景である。とてもじゃないけれど、650年間の長きにわたり、神聖ローマ帝国皇帝として、また、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝として欧州一の名門ハプスブルグ家が君臨した帝都ウィーンと、あまりにもイメージがかけ離れすぎている…。ヨハン・シュトラウス、シューベルト、ベートーベン、ブラームス、モーツアルトなどがその才能を綺羅星のごとく競い合った「音楽の都」はどこへ行った? と思った。

でも、よく考えてみれば、この内陸の先進工業国家の繁栄にとって最も重要な政策と言えば、石油をはじめとするエネルギー資源を確保することである。幸い欧州一の大河ドナウが国を東西に突っ切って、東隣のスロバキアからその南隣のハンガリーさらにはセルビアからブルガリアとルーマニアの国境地帯を流れて、黒海から地中海へ出る大型船舶の航路が確保されており、日本では臨海部にしかない石油化学コンビナートが海から1,000キロ以上離れた内陸のドナウ川沿いにあってもおかしいとは言えない。そのようなことを思いながら、ウィーン空港でほぼ同じ時間帯に到着した本会議への参加者数名を載せたミニバンが市内中心部に近い会議場と宿泊施設を兼ねたヒルトンホテルへと到着した。


▼ヒューマンネットワークを拡げる機会

さすがに超リッチなサウジアラビア国王が提唱する会議だけあって、私の飛行機代もホテル代も食事代もすべて主催者持ちである。ホテルのロビーに設けられた会議参加者受付に行くと、私に関するデータはすべて係員一人ひとりが持つ携帯端末に入力されており、名前を告げるだけで、分厚い資料と部屋の鍵が手渡された。私は明日からの会議のタイムテーブルを聞き、今夜の夕食会の時間も尋ねたが、あまりに遅い時間帯であったので、明日からのハードな日程を考えて夕食はスキップした。と言っても、今や世界中の主要な空港やホテルでは、ノートパソコンさえ持参すれば、自由にインターネットにアクセスすることができる。海外に居ても随意に日本国内のネットを繋いで原稿等を執筆し、海外の会議場で撮った写真等もすぐに日本に電送できるので、自室に籠もって「仕事」をすることができるようになったから、ますます公式行事の時以外は、自室に閉じ籠もりっきりになり、たとえホテルから徒歩5分の場所に世界的名所があったとしても、そういう場所を見に行ったりはしなくなった。また、空港やホテルのレイアウトは世界中何処へ行ってもほとんど変わらないので、後で何処へ行ったのか見当が付かなくなるということもしばしばある。

KAICIID会議の分科会の会場にて
KAICIID会議の分科会の会場にて

26日朝、ホテルの朝食会場に行くと、ホールの真ん中に置かれた長いテーブルにはいろんな料理が盛られており、各自が自由に皿に取り分けるブッフェ方式の食事が用意されていた。何故なら、食べたいものはなんでも自由に食べられる日本人と違って、イスラム教徒には「ハラール」と呼ばれる厳しい食事上の禁忌 (タブー)があり、ユダヤ教徒には「コーシャ」という禁忌が、また、ヒンズー教や仏教といったインド発祥の宗教は「ベジタリアン(菜食主義)」といったように、その人の宗教によって食べられるものと食べられないものが厳格に規定されているので、日本のように「全員同じメニュー」を提供することができないからである。それ故、多くの種類の料理の中から各自がめいめいの判断で食材を取ってテーブルまでゆくことになる。

この日は、10人掛けの丸いテーブルが20卓ほど並べられていた。それらのテーブルの中には、宗教間対話の国際会議というと必ず顔を合わすお馴染みの顔が何人も居た。でも、私はこういった時、なるべく面識のない人々が座っているテーブルに、「ここに座っても良いですか?」と声を掛けて着席することにしている。このときも、面識のないご婦人が3人座っているテーブルに着いて、お互いに自己紹介をして、どんなことをしているか話し合った。

すると、私の横の空いた席に「ここの席よろしいですか?」と声を掛けて初老の紳士が座ってきた。諸宗教対話の国際組織としては後発の、万国宗教会議100周年に当たる1993年にサンフランシスコで設立されたが、その後、急激に勢力を拡大したURI(宗教連合イニシアティブ)の創設者ウイリアム・スウィング主教であった。彼が「URIを知っていますか?」と尋ねたので、「もちろん、創設された時から知っていますよ。それに、私は2週間前にはサンフランシスコに滞在していました」と言うと、喜ばれて、その後の会話が弾んだ。もちろん、大恩師親先生が1970年にWCRP(世界宗教者平和会議)を庭野日敬立正佼成会開祖らと共に創設されたことや、現在、親先生が世界最古の諸宗教対話団体であるIARF(国際自由宗教連盟)の会長を務めておられることなども紹介した。こういう出会いがあるから、国際会議というものは、何も正式の会議中だけが「会議」ではないのである。なのに、いつも顔見知りの人同士でばかり食事を食べている人の気が知れない。

朝食を終えて、ホールを出ようとした時、キャサリン・マーシャル女史が入ってきた。私たちは顔を見合わせるなり両手を拡げて抱き合った。マーシャル女史とは、わずかこの1カ月間に、南アフリカでの会議とカリフォルニアのシンポジウムに続いて、三度目の顔合わせだったからである。5月にワシントンDCで開催されたG8宗教指導者サミットも含めると、今年だけで4回同じ会議に出席したことになる。日本人同士でも、これだけ「重なる」人は珍しい。しかも、彼女は宗教界の人ではなく、数年前まで世界銀行の総裁顧問を務め、現在はワシントンDCにあるシンクタンクで米国政府や各種の国際機関に政策提言を行っている人物であり、そのマーシャル女史とたびたび同席するようになったということは、私の活動が「宗教界」という限定を超えて、それだけ「拡がった」ということを意味している。


▼実践に根ざしたワークショップの数々

今回の会議の正式名称は、「(サウジアラビアの)アブドラ・ビン=アブドゥルアジズ国王国際諸宗教・諸文化対話センター(略称:KAICIID)」開所記念行事である。世界各国からイスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒を中心に約200名の宗教者と社会活動家が招かれて出席した。KAICIIDは、サウジアラビアのアブドラ国王の肝いりで創設された機関で、イスラム教の聖地を抱えるサウジと、中世まではイスラム圏であったスペインに創設されたセンターに続く3カ所目のセンターが、数百年間にわたって欧州のキリスト教圏(ハプスブルグ帝国)とアジアのイスラム教圏(オスマン帝国)の境目にあり、また、現代ではOPEC(石油輸出機構)の本部があり、アラブ諸国にも馴染みのあるウィーンに開設された。

サウジアラビア宗教大臣顧問のアブドゥル・アル=ヒーダン博士と
サウジアラビア宗教大臣顧問のアブドゥル・アル=ヒーダン博士と

この日の「会議」は午前8時半から始まった。テーマ毎に2つの会合が別々の部屋で同時並行的に開催されるので、どちらかひとつのテーマを選ばなければならない。最初のワークショップの選択肢は「紛争管理」と「文化的プログラム」である。私は「紛争管理」のセッションを選択した。ワークショップの形式は、壇上にプレゼンテーションを行う5つの団体の代表とモデレータが座り、一般の参加者は、フロアに設置された円卓に7、8人ずつ着席するという形式で、フロアには10個以上のテーブルが用意され、後ろのほうでは、遅れて入場してきた人が20人ほど立ち見していた。私と同じテーブルには、マーシャル女史をはじめ、WCRPのウイリアム・ベンドレイ事務総長も居た。また、2008年に大阪と京都で開催されたG8宗教指導者サミットに参加してくださったサウジアラビアの宗教大臣顧問のアブドゥル・アル=ヒーダン博士も、私の姿を見つけて、私の席までわざわざ挨拶に来てくださった。

当セッションでプレゼンテーションを行ったのは、「CWRDCR(世界宗教・外交・紛争解決センター)」、「GPIW(女性による地球平和イニシアティブ)」、「AV(アブラハムズ(一神教)の展望)」、「SCG(共通背景探求)」、「HNI(ヘンリー・マーティン研究所)」の5団体である。それぞれの団体が世界の各地で、実に多彩なプログラムを実施しており、各分野への取り組みもさることながら、集金活動や広報のやり方なども大変勉強になり、現在、親先生が会長を務められ、実質的に私が国際事務局業務の監督を行っているIARFにも応用できる点が多々あるように思われた。私は、GPIWのディナ・メリアム会長の環境問題に対する取り組みについて、生物多様性と同様に、宗教や文化についても「多様であること自体」が価値である観点から質問をした。彼女とは、この日の朝食で同じテーブルになって話し合ったばかりであり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教的背景の参加者が大半を占めるこの会議で、仏教的観点から環境問題へのアプローチをしたのがユニークであった。

KAICIID会議の分科会の会場にて
KAICIID会議の分科会の会場にて

休憩後の第2番目のワークショップのテーマは、「青年」と「宗教教育」であったが、私は「宗教教育」のセッションに参加した。当セッションでプレゼンテーションを行ったのは、「TBFF(トニー・ブレア信仰財団)」、「FM(信仰問題)」、「CCIE(キリスト教・イスラム教出会いセンター)」、「AF(アディアム財団)」、「PROCMRA(アフリカにおけるクリスチャンとムスリムのためのプログラム)」の5団体の代表たちである。私は2010年夏にカナダで開催されたG8宗教指導者サミットの折、TBFFが主催するインターネットを通じて全世界に放送するラジオ番組のゲストとして招かれ、出演したことがある。この財団の創設者は、言うまでもなくトニー・ブレア元英国首相であり、米国のブッシュ政権と組んでアフガニスタンやイラクに軍事侵攻した手法を反省して、ブレア氏が退任後に設立した財団で、主に国連「ミレニアム開発目標」の実現を目指している。

これらのワークショップは、いずれも「実際にプログラムを実施している団体」のものばかりで、プレゼンテーション後のフロアとの質疑応答も大いに盛り上がった。約200名が参加したこの日の4つのセッションに、日本からは、私以外に吉岡達也ピースボート共同代表と畠山友利WCRP日本委員会事務局長が参加した。また、昼食後には、KAICIIDが作成した啓蒙映画の『3つの信仰、ひとつの神』と『コルドバの外で』が上映された。


▼国連事務総長らも列席した開所式典

この日の夕方には、神聖ローマ皇帝として、また、オーストリア皇帝として、650年の長きにわたり全欧州に君臨したハプスブルグ家の居城ホフブルグ宮殿で開催されるKAICIIDウイーンセンターの開所式および晩餐会に出席した。各国の要人も出席するというので、厳重に警備された宮殿に着くと、午前中からのワークショップに参加していた約200人に加えて、世界各国から招かれたセレブを含め、タキシードやイブニングドレスに身を包んだ約800名の紳士淑女の皆さんが次々と到着した。こういったガラ・パーティの常として、正式に始まるまで1時間以上、大ホールのホワイエ(前室のロビー)で手に手にカクテルグラスを持って、いろんな人と自由に歓談するソーシャルタイムが設けられている。この際にも、旧知のオマール前駐日スーダン大使やサウジアラビアのアル=ヒーダン宗教大臣顧問らが、特に、イスラム諸国からの参加者を次々と紹介してくださった。また、目立つように装束姿でガラ・パーティに出席したのが良かったのか、サウジアラビアや地元ウィーンのテレビ局等からのインタビューも受けた。

ハプスブルグ家の居城ホフブルグ宮殿にて
ハプスブルグ家の居城ホフブルグ宮殿にて

このソーシャルタイムの間にも、実に多くの知己を得たが、中でも興味深かったのが、マサチューセッツ州のアンドバー・ニュートン神学大学院のニック・カーター学長である。たまたまタキシードに身を包んだ紳士に話しかけられ、彼の英語の訛 (なま)りから「ニューイングランドから来られたのですか?」と尋ねると、「判りますか?」と聞かれたので、「二十数年前にハーバード大学の神学大学院で学んだ経験があるので…」と答えたら、「あの大学院の附属図書館のアンドバー図書館をご存じですか?」と聞かれたので、「もちろん、よくそこで勉強しました」と答えた。どうやら、その図書館は、かつてハーバードで学んだアンドバー神学大学院の創設者が寄付して建てられたものだそうだ。

その時、私の脳裏にふと、どこかで聞いた「アンドバー神学校」という言葉が浮かんだ。よく考えてみたら、同志社の創設者新島襄が、幕末に鎖国の国禁を犯して渡米し、キリスト教を学んだ神学校の名前だった! それから150年の歳月を経て、アンドバー神学校がアンドバー・ニュートン神学大学院という名になったのである。私は「新島襄を知っていますか?」と尋ねると、カーター学長は「もちろん存じています。同志社の校祖新島襄は、わが校の出身者で最も有名な人の1人ですから…」と返事されたので、「実は、私はその同志社で学びました」と答えて、大いに話が弾んだ。

新島襄の卒業したアンドバー・ニュートン神学大学院のニック・カーター学長と
新島襄の卒業したアンドバー・ニュートン神学大学院のニック・カーター学長と

このように盛り上がったソーシャルタイムの後、大ホールに招き入れられて、いよいよKAICIIDウイーンセンターの開所式典が始まった。さすがにウィーンだけあって生のオーケストラによる演奏の後、パン・ギムン国連事務総長やサウジの外相ファイサル殿下らの来賓が入場した。司会者から趣旨説明があり、オーストリアのハインツ・フィッシャー大統領による歓迎の辞に続いて、サウジアラビアのアブドラ・ビン=アブドゥルアジズ国王と、もうひとつのKAICIIDセンターが所在するスペインのファン・カルロス国王がビデオメッセージを寄せた。続いて、パン国連事務総長が祝辞を述べ、来賓の何名かがスピーチを行った後、庭野光祥立正佼成会次代会長を含むKAICIIDの理事10名が壇上で、ウイーンセンター設置文書に署名を行い、2時間近い開所式典が終わった。

ホフブルグ宮殿内のガラ・ディナーの会場
ホフブルグ宮殿内のガラ・ディナーの会場

その後、3時間にもおよぶ晩餐会となった。さすがに国家の迎賓館でのディナーは美味であったが、先述したように、宗教上の禁忌が多くあり、それらの違いを識別した料理が見事に配膳されたのには感心した。このディナーの席でも、イスラエルの首席ラビ(ユダヤ教の最高指導者)をしているデビッド・ローゼン博士や、2000年にニューヨークの国連本部で開催された「ミレニアム宗教サミット」を主催したババ・ジャイン博士や、最近、インドにおけるIARFのイベントをサポートしてくださっているアルヤ・サマージ会長のスワミ・アグニベッシュ師や、昨年、ボルドーでのG8宗教指導者サミットのホストを務めたフランス正教会のエマニュエル府主教や、現在、アサド独裁政権と反アサド派との間で激しい戦闘が繰り広げられている中東シリアから参加されたマル・イブラヒム大主教といった旧知の方々とも大勢再会を果たすことができた。このガラ・パーティの豪華感は言葉だけでは表しがたいものがあるが、会場脇に三十数台のテレビカメラが取材に訪れていたことからも、世界的に注目されたイベントであったことは理解していただけるであろう。


▼宗教対話の世界でも「継続は力」

翌27日は、公式の行事はなかったが、各自の出発便の時間が許す限り、朝食会の会場で、偶然隣の席に座った人々と交流を深め合った。昨晩のソーシャルタイムの際に、私がアンドバー・ニュートン神学大学院の学長をその言葉の訛りから出身地を当てたように、周囲は外国人ばかりなので、当然、英語だけで話している私に「大阪のご出身ですか?」と尋ねてきた日本人がいた。彼は、日本の青年たちを世界1周の船旅に連れ出して、いろいろな体験をさせるNGOとして有名な『ピースボート』の創設者で共同代表を務めている吉岡達也氏であった。吉岡氏は、「私も枚方の出身なもので、未だに英語の発音が大阪弁訛りです」と言って笑った。『ピースボート』の評価については、毀誉褒貶いろいろあるが、いずれにしても、発足以来30年間に七十数回の「ピースボート」を実施してきたことは事実であり、まさに「継続は力」を地で行っていると思った。

KAICIIDファイサル・ビン=アブドルラフマン・ビン=ムアマアル氏と
KAICIIDファイサル・ビン=アブドルラフマン・ビン=ムアマアル氏と

この朝食の席で偶然隣り合わせた人に、英国国教会の首座カンタベリー大主教の下で、諸宗教間対話の責任者をしているニック・ベインズ主教が居た。ベインズ主教とは、2010年夏にカナダで開催されたG8宗教指導者サミットの際に一度お目にかかっていたが、お互いすっかり顔を忘れていた。しかし、メイルではしょっちゅう意見交換するサークルに入っている者同士で、お互いに奇遇を祝福し合った。というのも、2013年夏のG8宗教指導者サミットの開催国が英国なので、その準備に入らねばならず、同継続委員の1人である私の意見を聞かれたからである。他にも、今回のKAICIIDの事務総長を務めるサウジアラビアのファイサル・ビン=アブドルラフマン・ビン=ムアマアル氏と面識を得たのも、2011年にフランスで開催されたG8宗教指導者サミットの際のことであった。イスラム教の聖地メッカの守護者として、他のあらゆる宗教を否定しなければならないはずの厳格なワッハーブ派のサウジ王家が、諸宗教間対話に関心を示さなければならなくなるほど、今日の世界を取り巻く状況は混迷しているということをあらためて感じさせられた行事であった。

シリア正教会アレッポ大主教オマル・イブラヒム師と
シリア正教会アレッポ大主教オマル・イブラヒム師と

こうして、ウィーンにおけるすべての行事を終えて、翌朝にウィーンを発つエミレーツ航空便で、往路とは全く逆の経路で、ドバイ経由で丸1日かけて11月30日の晩に無事、関西空港へと帰国した。



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