2016年4月12・13両日、オランダのライデン郊外の町カーグで、2016年度のIARF国際評議員会が開催され、同会の副会長を務められる三宅光雄教会長の名代で、三宅善信総長が出席した。
「第2バチカン公会議」とは、現代におけるローマ・カトリック教会のあり方を探るため、1962年10月11日に教皇ヨハネス23世の下に招集され、2,500名以上の司教と修道会総長らが五大陸86カ国から集い、期間中に教皇がパウロ6世に代替わりするなどの曲折を経て、1965年12月7日に閉幕するまで4年間の長きにわたって、4期に分けて様々な問題について検討を重ねたという、1,900年間に及ぶカトリック教会史上の大きなエポックメイキングな出来事であった。これ以後、従来はごく少数の神学者しか理解することのできないラテン語で行われていた世界各地の教会での典礼(礼拝様式)を、その国の国語で行うことが許可されるなど、カトリック教会の「アジョルナメント(現代社会への適応)」が推進されることとなった。最終日には、1054年以来、ローマ帝国の東西分裂の影響で900年以上の長きにわたって、相互に破門し合っていた東方正教会との間で、破門を解き合った。
▼出国するだけでヘトヘト…
4月10日のご本部団体参拝の翌朝、関西国際空港を発つKLM便に乗るため、午前07:45頃、難波駅に出向いたが、なんと08:00発の関空特急ラピートは、全席売切とのこと…。21年前(1994年)に関西国際空港がオープンして以来、おそらく200回以上ラピートを利用してきたが、2・3年前までは、何時乗っても一車両に2・3人の乗客というガラガラで、不採算路線として廃止されないかしらん? と心配していたことが嘘のような話である。勝手知ったる関空なので、到着後、わずか5分間ぐらいで預け荷物のチェックイン(搭乗手続き)を済ませて、さあ手荷物検査場へ向かおうとして、長蛇の列を目の当たりにした。パッと見20,000uほど(泉尾教会の敷地面積と同じくらい)ある関空四階の国際線出発ターミナルビルの出発エリア内は、南北二カ所ある手荷物保安検査場に向かう人の長蛇の列で半分ぐらい埋め尽くされており、グネグネと折り重なった行列の最後尾がいったいどこにあるのやら判らないような凄まじい状態であった。予め混雑が予想されるGWや春節の時期のピーク時ならいざ知らず、日程的に特別なイベントが何もないこの時期に、保安検査場エリアだけがこれだけ混雑するということは、明らかに空港当局の運用上の問題であり、大いに改善をしていただきたいものである。
海外に出張する際にはいつも、数日間教会を空けるための日程を確保するため、前の晩に徹夜してヘトヘトな状態で飛行機に飛び乗り、機内で爆睡することになっているが、これだと飛行機に搭乗する前に相当なエネルギーを消耗してしまう。もちろん、長蛇の列の大半は中国人である。調べてみたら、一日に関西空港に発着する国際線160便の内、欧米や豪州・ハワイ等が目的地の便は、フランクフルト、アムステルダム、ヘルシンキ、パリ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、メルボルン、ホノルル、イスタンブール、ドバイのたった10便のみであり、それ以外の150便は全てアジア各地もしくは日本周辺の島々行きである。ニューヨークへもロンドンへも直行便で飛ぶことができない。にもかかわらず、北京や上海といった大都市は当然としても、武漢、蘭州、鄭州、大連、青島、ハルピン、瀋陽、杭州、寧波、西安、昆明、徐州、厦門、成都と、いったどこにあるのやら地図上でパッとその位置を指すこともできないような中国の地方都市からも、毎日、定期便が飛んでくるのである。大阪の街が至るところ中国人だらけになる理由が解る。でも、こんなことを続けていると、今後、世界を股に掛けるような活動そしている国際ビジネスマンたちは、関西国際空港を利用することを確実に避けるようになって、大阪の経済的な地盤がますます沈下していくであろう。その上、狭くて硬いエコノミークラスの椅子に11時間も座らされるのだから、体重90kmの身には堪えることこの上ない…。
▼大正区のようなオランダ
日本を午前中の便で出発すると、直行便なら欧州の各都市に到着するのは、同日の夕方になる。アムステルダムのスキポール空港では、東京からの便に乗ってきた立正佼成会の渉外チームのIARF担当の三人と合流して会場となるライデン郊外の町カーグへと向かった。オランダでIARFの国際評議員会が開催されるのは、昨年4月に続いて二度目のことであるが、昨年の開催地スコーンホーフェンはスキポール空港から車で一時間ほどの距離にあり、遠すぎるきらいもあったので、その反省を活かして、今回の開催地は空港から15分ほどの場所にあるカーグへと向かった。カーグの町自体は、長径3km短径1kmほどの細長い湖に浮かぶ直径1kmほどの「島」である。その「島」と「本土」との間には、川幅30mほどの運河で隔てられており、水上交通優先の原則から「橋」が架けられておらず、人も車も「渡し船」を利用して対岸に渡る。渡し船と言っても、長さが10m幅が5mほどの「四角い俎板(まないた)」のような船で、その甲板に乗用車なら四台を載せて、10秒進めば、もう「対岸」へ着く…。そして、車を降ろしたら、対岸で待っていた車を載せて、元へ戻るというピストン輸送を一日に何百回も繰り返している。
「国土の四分の一が海面下の干拓地で、運河に囲まれていて、対岸へは渡し船で移動する」というオランダには、よく似た環境の大正区に生まれ育った人間としては、親近感を覚える。ただし、このオランダという国は、小さな国家にもかかわらず、工業と農業と商業がバランス良く発展しており、四百年以上前から世界を相手に貿易していたことはご存じのとおりである。江戸時代の「鎖国」期間中でも、欧州の国では唯一このオランダだけが長崎の出島を通じて、日本と交易していたくらいであす。季節も良かったのか、スキポール空港からカーグの町へ来る道中も、見渡す限りのチューリップ畑が広がっていた。
今回の国際評議員会の会場となるホテルは、三角屋根の木造三階建てであるが、受付フロントすらなく、レストラン内のバーカウンターがホテルのフロントも兼ねているという典型的な「木賃宿」である。日本人全員の三階の鍵を渡されたが、エレベータどころか、館内に上層階へ昇るための階段すらなく、日本でも見られる安物のアパートのような金属製の非常階段が建物の壁面に取り付けられているような構造である。おまけにこれが螺旋階段なので、中心に近いほうはほとんど「蹴込み」がなく、大きな旅行用スーツケースも持って昇降するのは一苦労である。もし、雨でも降ったら階段も屋外廊下も滑りやすくなるので、とても危険である。ルーム内は一応清潔であるが、三角屋根の屋根裏部屋であるので、とても窮屈な気がする。明日から二日間、二階と三階が客室で、一階にレストランと会議室のあるこの木賃宿に缶詰になって会議をするのである。
▼予算管理能力に欠ける一神教徒…
到着日の夜は、国際評議員と地元オランダのIARFメンバーの交流を兼ねた夕食会が開催された。翌、4月12日朝09:00から、2016年度の国際評議員会が、正・副会長、財務理事を含む11人の国際評議員と1名の事務局員、3名のオブザーバーを含む全15名で始まった。議長を務めるウィツケ・ダイクストラ会長による開会宣言に続いて、私の「開会の祈り」で幕を開けた国際評議員会は、議題の承認と、前年度の議事録の承認の後、実質審議に入った。最初に、世界各地のチャプター(国別の個人会員の集合体)からの報告。続いて、昨年夏から新たに国際事務局員に雇用されたポーランド人のルカシュ・リニエヴィッツ氏の初仕事となる事務局レポートが報告された。さらに、ベッツィー・ダール財務理事から財務状況に関する報告があった。
国際評議員会の冒頭の祈りで導師を勤める三宅善信師
昼食休憩後、引き続き財務について話し合われ、公益法人として登記されている英国と、実際に会長と事務局員の暮らすオランダと、最大の資金拠出国である日本と、財務理事の暮らす米国との間で、資金調達・管理をどのように役割分担するかについて、それぞれの法体系が異なることも含めた話し合われた。さらには、2016年度の各活動プロジェクトへの予算の箇所付けが行われた。これまで、30年以上の長きにわたって、大恩師親先生や二代親先生の名代として、また、2002年から2010年にかけては私自身が国際評議員として、それ以後は三代親先生の名代として、IARFの国際評議員会に参加してきて、その都度、『いずみ』等へのレポートで再三再四にわたって書いてきたので、読者の皆様も聞き飽きたかと思われるが、しかも、その間、のべ百人以上の国際評議員の皆さんとその都度、議論を戦わせてきたが、欧米・中東・南アジア等の地域から先取された国際評議員会の誰一人として、赤字予算に反対する者はなく、自分たちの「やりたいことはやる」くせに、そのことに対する財政手当は希望的観測に終始し、腹の空いたタコが思わず自分の脚を食うように、IARFの偉大な先人たちが積み上げてくださった基金を食いつぶすか、そのことに見かねた日本の代表が赤字補填してくれた歳入によって、かろうじて組織の命脈が保たれているのに、そのことを反省する者は一人も居ないというのが実情である。
そのことを咎めて「収入の範囲内でやるように」と私がいくら主張しても、「大きなことを言わないと、大きな金が集まらない」と言うばかりである。「実際にはそのことができず、赤字だけが残ったらどうするつもりか?」と私が問い質しても、「自分たちが精一杯やって、その結果、たとえできなかったも、その時はその時だ。一年後にできているかどうかは何人にも判らない…」という。こういう考え方こそ、一神教の悪い点のひとつである。「全知全能の神ならぬ人の身にとっては、できないことがあってもそれは致し方ないことである」と考えるのである。私に言わせていただければ、「全人類の誰一人としてできなかったというのなら、それは致し方ないことであるが、誰か巧くできている人が居るという場合に、もし、自分たちが巧くできていなかったというのであれば、それは、自分たちの努力が足らなかったからだ」と主張しているのであるが、彼らは絶対に聞く耳を持たない。予算に限らず、2018年に開催される予定の第35回IARF世界大会の開催候補地案についても話し合われたが、これとて、それぞれが「○○○○(自分の地域)で開催したい!」と威勢の良いことを言うが、「世界大会開催に必要なヒト・モノ・カネはどうやって集める?」と尋ねると、「それはみんなが出し合って…」と答えるだけである。私の経験上、「みんなが出し合って」と主張する奴ほど、「人並みに拠出しない」奴がほとんどである。
▼財務理事の交代について
二日目(4月13日)は、インドでHRRC(人権資源センター)活動を推進するRFNY(宗教的自由青年ネットワーク)のジャンビー・グプテ女史から、彼らの活動計画について説明がなされ、各国評議員からの質疑応答が行われた。続いて、次期世界大会開催候補地案についての検討がなされ、第一優先順位を有する北米大陸での受け入れの可能性について、その場合には、ホストを務めることになる米国UUA教団の会長選挙が6月末にあるので、「次期会長が決まって方針が確定するまで決定を待って欲しい」との報告が同教団のエリック・チェリー国際部長からあり、了承されると同時に、北米が受け入れを拒否した場合の「プランB」としての開催候補地を南アジアと欧州での開催の可能性について探った後、2016年度の予算を賛成多数で承認した。ただし、初めから「赤字」が組み込まれているような無責任な予算を承認することはできないので、私と立正佼成会の代表の2名は、2016年度の予算に賛成しなかったが、専らIARFから助成金をもらってプログラムを実施している評議員たちは、諸手を挙げて賛成した。
鋭い問題点の指摘で議論をリードする三宅善信師
昼食休憩後、財務理事の辞意を表明したダール女史の後任選びを行ったが、現有の評議員の中に適任者がおらず、また、2014年に英国バーミンガムで開催された第34回世界大会時に可決された国際評議員定数の「21人以内」から「11人」への削減という原則と照らし合わせて、次期世界大会までの「暫定任期」で財務理事就任を条件として、早急に一人を選任することになった。この案件でも、私は、まず「第34回世界大会時の総会で決議された11名枠を尊重すること。だから、ダール女史が財務理事を辞任し、現在の評議員の中から財務理事就任希望者が居ないのであれば、ダール女史は評議員も辞任すべきである」と主張したが、目の前にダール女史がいる状況では、皆、ダール女史に気を遣って、私のような原則論をきちっと主張する者は他にいなかった。そこで、「もし、どうしても、財務理事を務める国際評議員を2018年に開催される次回の世界大会までの二年間、暫定的に一人増やしたいのであれば、その人物は、国際評議員会に参加するための飛行機代とかホテル代を自己負担できる者から選出すべきである。さもないと、財務理事のために、新たな財政赤字が増えるというナンセンスなことになる」と主張したが、これも少数意見に留まった。なにしろ、現会長は「自分自身がIARFの会長として世界中を飛び回るための予算まで付けろ」と真顔で主張するような御仁である。私から言わせて貰えば、「自分自身の飛行機代すら払えないような人物がよくも会長職を受諾したな…」と思っている。
他にも、各国で展開されているプロジェクトの進捗・資金管理の担当者を選任し、来年四月の国際評議員会の日程を確定し、最後に、二日間の会議の各自の発言の速記を全員で確認して閉会となった。いつも悪い点ばかり書いているので、ひとつ以前と比べて大幅に良くなった点は、参加者のほぼ全員が、ITのスキルが高くなったことで、会議中もそれぞれのノートパソコンを使って、随時、予算書のデータ更新を行ったり、みんなで話し合った内容を即座にプロジェクターに映し出して、修正を加える等の点が上げられる。あとは、予算管理に関して、私と同じような感性になってくれたら、IARFはあっという間に十倍ぐらいの予算規模の団体になれるのだが…。
▼35年前の世界大会の会場を訪れて
こうして二日間、朝から晩までの国際評議員会を終えて、翌、4月14日朝、私はホテルをチェックアウトして帰途に就いたが、今回のオランダ滞在にひとつだけ立ち寄りたい場所があった。今回の会場となったカーグの町は、欧州における日本研究の中心地ライデン(註:江戸後期の文政時代に八年間日本に滞在したシーボルトは帰国後、ライデン大学で欧州における日本学の端緒となった。幕末の安政年間にも再来日に四年間滞在)とは長径3kmの湖の対岸であるが、地図を見ていた私の目に止まったのは、私がIARFと関わる端緒となった1981年にライデン郊外のノールドバイカーフートという町で開催された第24回IARF世界大会の会場と車で数分の距離だということであった。そこで、スキポール空港へ向かう車の運転手に無理をお願いして、5分で良いから、その会議場を訪れてみたいと思った。
運転手に「ノールドバイカーフートという町は知っているか? そこに会議場はあるか?」と尋ねたら、「町は知っている。この近くだ。会議場があるかどうかは知らないがホテルはある」というので、車を走らせた。町に入ってから、道に迷った運転手から「どのような建物だったか覚えているか?」と尋ねられたが、宿泊施設と会議施設を備えた「ルーベンホルスト・コングレスセンター」という施設名と、円形の会議場とシンボルタワーがあったことは覚えているが、どのような宿泊施設であったかは、まるっきり記憶がない。それに、期間中、ほとんどコングレスセンターに居たので、ノールドバイカーフートという町の街並みなんて覚えているはずもないし、たとえ覚えていたとしても、それから35年の歳月が経過しているので、都心の歴史的景観保存地区ならいざ知らず、郊外の住宅地なんてすっかり景色が一変しているはずである。
35年前、欧州初の金光教の祈りを行った同じコングレスセンターの今
そうこうしている内にシンブルタワーを車窓から見つけて、コングレスセンターに辿り着くことができた。懐かしい円形ホールもあったが、周りの宿泊棟はすっかり「今風の」ホテルになっていた。ちょうど、何かのコンベンションの最中であったが、懐かしさを手伝って、車から降り、コンベンションの参加者に紛れて、円形ホールまで入った。当時、大学院の一年になったばかりの私は、大恩師親先生のお供をして、三代親先生と神戸灘教会長と共に、ユニテリアンのデイナ・グリーリー博士やホーマー・ジャック博士や立正佼成会の庭野日敬開祖先生といった錚々たる顔ぶれの参加されたIARF世界大会に参加させていただいたいのである。大恩師親先生と庭野先生、グリーリー・ジャック両博士の四方は、その11年前にWCRP(世界宗教者平和会議)を創設された同志でもあられた。そして、このオランダでのIARF世界大会こそが、私にとっての諸宗教対話国際会議の原点であり、装束を着用して欧州で初めて金光式の祭典を仕えさせていただいたことも、昨日のことのように覚えている。
その大会が「雛形」であるとするなら、現在のIARFはまだまだ改善の余地だらけである。書籍通販のアマゾンはおろか、インターネットすらなかった35年前、日本では購入することの不可能であったドイツ語等で書かれた電話帳ぐらいある分厚い神学の専門書を三冊ほど購入して持って帰ってことを覚えている。その本は、今も私の書棚の最上段に埃を被って鎮座している。体調の優れない中、また、大変タイトなスケジュールの中で、無理してオランダまでやってきたが、また、事実、帰途のKLM便も燃料系統の不具合で、いったんターミナルビルから離れて滑走路まで行きながら、引き返して、整備しなおし、また出かけ、また部品を交換するなど3回も出発を延期して3時間も遅延したので、15日の感謝祭直前に泉尾教会に戻るという際どい日程が最後に待ち受けていたが、それでも、今回のIARF国際評議員会はいろんな意味で、良い機会であった。