国際宗教同志会がサイパンで遺骨調査と慰霊祭

2016年7月4日〜8日
金光教泉尾教会 総長
三宅善信

北マリアナ諸島のサイパン島で実施された空援隊の遺骨収容作業の視察と国際宗教同志会主催の公務殉難者慰霊祭を実施するため、国際宗教同志会事務局長の三宅善信総長が、国際宗教同志会会員諸師と共に2016年7月4日から8日の日程で現地を訪問された。

▼3週間で4万人が犠牲になった島

大東亜戦争における「激戦地」と呼ばれた場所はいくつかあるが、東京から南へ2,400km離れたサイパン島において、1944年(昭和19年)6月15日から7月9日にかけての米軍とのわずか三週間の戦闘で、この島を守備していた日本軍の将兵と、サトウキビ栽培に従事していた民間人合わせて約4万人が犠牲となったこの島は、太平洋戦争最大の「激戦地」のひとつと言っても過言ではない。この島と数キロ先に浮かぶテニアン島が米軍の手の落ちたことによって、この二つの島の飛行場を「不沈空母」とした米軍が、わずか2カ月前に完成したばかりの「超空の要塞」と呼ばれた当時世界最大の爆撃機B29(航続距離9,000km)を使って日本の諸都市を攻撃できるようになり、事実、東京大空襲や大阪大空襲をはじめ日本の主要都市への連日連夜の絨毯爆撃、最終的には広島・長崎への原爆投下等、米軍による日本本土の非戦闘員に対する無差別攻撃、ひいては、日本の敗戦へと繋がったすべての日本人にとっても、「因縁の島」と言える。

昨年6月の国際宗教同志会例会時に、フィリピンやサイパンで旧日本兵の遺骨収容事業を行っている特定非営利活動法人「空援隊」の倉田宇山事務局長から、『戦後七十年:遺骨収容の現状』という講演を伺い、今なを113万柱もの元日本兵のご遺骨が故国を遠く離れた南洋の島々や東南アジアのジャングルで「草生す屍」として放置されているという現状に対して、本来なら一柱でも多くのご遺骨を収容しなければならない務めを負う所轄庁の厚労省や遺族会が不熱心で、その現状に対して義憤を感じてボランティアで外地での遺骨収容・帰還活動をしていることを教えていただいた国際宗教同志会として、慰霊祭を奉仕すると共に空援隊の遺骨収容事業を現地視察することとなった。

グアム・サイパンといえば、ハワイまでの飛行時間の三分の一で行けるお手軽な南国リゾートとして、かつては多数の日系のホテルがビーチサイドに建ち並び、水着姿の若者たちの嬌声が響き渡ったものである。また、日本の主要都市の空港からも毎日多数の直行便がこれらの島々と結んでいた。そこで、国際宗教同志会として現地を訪れることが決まった際にも、「すぐに行くことができる」と高をくくっていた私は、実際に航空券を予約する際になって愕然とした。関空とサイパンを結ぶ直行便路線がないのである。海外旅行用の検索サイトで調べても、直行便ならわずか三時間で行けたサイパンが、一端、真逆の方向へ北上して韓国の仁川(インチョン)か済州(チェジュ)島を経由してサイパンへ向かう韓国系の航空会社を利用するか、北京や上海経由の中国系航空会社か、マニラ経由のフィリピン航空の便しかないのである。あえて日系の航空会社を使いたければ成田経由の便(しかも、グアムでサイド乗り換え)になってしまう。

いろいろ調べたら、ひとつだけ、サイパンから170km南方に浮かぶグアム島を経由する米系のユナイテッド航空の便があった。しかし、たとえわずか170kmの距離であったとしても、いったんグアム空港へ降りて、入国手続き(グアムはアメリカの準州)や税関手続きを済ませ、再び、乗り継ぎ便に乗り換えねばならず、サイパン到着時に再度、入管・通関手続きが必要となる。サイパンは、テニアン・ロタその他の島々と共に、アメリカと「コモンウエルス(ゆるい国家連合)」という関係を持つ「北マリアナ諸島」(日本の小笠原諸島のすぐ南側に隣接)という独自の政治形態を取る島嶼国家である。

しかも、グアム・サイパンを結ぶ便は、30人乗りぐらいの小型機ゆえに、一刻も早く予約を入れねばすぐに満席になってしまうかもしれない。ということで、即決、ネットで予約を入れた(航空券を取得)したが、関空を11:35の便で発ち、サイパン空港到着が17:35と結構時間がかったが、サイパン空港で入管・通関を済ませてターミナルビルの外に出ると、2台のテレビカメラが待ち構えていた。1台は空援隊の公式記録班のものであり、もう1台は、大阪のテレビ局MBS毎日放送のカメラである。聞けば、この遺骨収容活動を半年掛けて追跡して一時間のドキュメンタリー番組を制作するそうである。8月28日の深夜『MBSドキュメンタリー映像’16』でオンエアされるので、是非、ご覧いただきたい。

明日からの打ち合わせも兼ねた夕食の後、ホテルで旅装を解いた到着日の午前02:00、倉田師から招集がかかった。「ホテルから数百メートルの場所に数百体の日本兵の遺骨が発見された集団埋葬地があるから、そこを見に行こう」というのである。ちょうど72年前のこの日のこの時刻に日本軍の「バンザイ突撃」が始まった時間帯である。新月の前夜ということで、辺りは完全に漆黒の闇に包まれている。公式記録によると、圧倒的な兵力を誇る米軍部隊の作戦本部を目指して、日本兵は口々に「天皇陛下万歳!」と叫びながら、銃剣を手に突撃してきたことになっているが、「現場」に立ってみれば、それが完全にフィクションだということが判る。何故なら、灌木と雑草が茂ったデコボコの地面を走って突撃すれば、三歩も走らない内に転倒してしまうのが関の山である。だからといって、懐中電灯など使おうものなら、それこそ米軍のマシンガンで蜂の巣にされるのがオチである。やはり、「現場」を経験してみないと判らないことがたくさんある。それにしても、薄気味悪い茂みである。

▼中国人だらけのサイパン島

サイパンでの実質「初日」にあたる7月5日は、朝からマリアナ観光局を訪れ、クリストファー・コンセプション局長と会談した。二十数年前は、サイパンの街中日本人だらけで、もちろん、大型免税品店の店員どころか、街中の食堂や土産物屋の店員たちもほとんどが日本語を話せ、日本語の看板が至るところあったが、その後、韓国人・ロシア人と主要な観光客層が入れ替わり、日本からの直行便もなくなったということで、現在では、サイパン島を訪れる外国人の九割近くが中国人ということであったが、観光局長としては、やはり「品の良い日本人観光客」の足が戻ってくることを期待しているようであるが、レジャーの選択肢が多様化した日本人が、これまでのような単純な「南国リゾート」というだけでは、サイパンに戻ってくることは考えにくいので、歴史や文化や自然といった要素の学習機能を加えたツーリズムを提唱しておいた。サイパン島と隣のテニアン島の現状は、中国資本によって買収されてしまったホテルや建設作業員まで中国人だらけの建設中の巨大カジノに象徴されるが、このことは単なる商業行為というよりは、米軍の施設が集中するこの地域に、中国側の監視施設を合法的に作って、有事には破壊工作までするという中国の国家的狙いも含まれている。

ジャングルの斜面を這いずり登る三宅善信総長
ジャングルの斜面を這いずり登る三宅善信総長

われわれは一度ホテルに戻って、山中に分け入って遺骨探査作業をして汚れても良い服装に着替えた後、つい先日、「日本兵の遺骨らしいものが発見された」という知らせのあったビーチ沿いの台風で倒れた椰子の木根元へ行くことになった。道路から十数メートルしか離れてない場所なのだが、そこら中、気根だらけのマングローブの林の中を潜ったり跨いだりして椰子の木の倒木の根元まで行って「発掘作業」をしたが、そこから発掘された骨片は、元日本兵のものかチャモロ人(この島の先住民)のものかハッキリしなかった。サイパン島最大の繁華街ガラパンのスーパーで弁当を購入して、最大の難所(山中の洞窟)へと向かった。

岩の割れ目の中から見つかった遺骨を手に取る三宅善信総長
岩の割れ目の中から見つかった遺骨を手に取る三宅善信総長

われわれを載せた大型バンは、島の西側の海岸道路(島の東側は断崖絶壁が続き、道路がない)を北上し、有名な景勝地「バードアイランド」を見下ろす崖の前の駐車場に停車した。バードアイランドとは、サイパン本島から100mほど離れた場所に屹立する直径と高さが50mほどの「岩」で、そこに多数の海鳥が営巣しているところを対岸(本島側)の断崖から観察できる絶好のポイントであるが、至る所にペットボトルの空き瓶やビニール袋が散在している。見れば、真っ赤なスポーツカーでひっきりなしに訪れてくる中国人の観光客がドンドンとゴミをポイ捨てしている…。彼らにとって、公共の地面どころかレストランや列車の床もゴミ箱同然である。こうして世界中の自然の美しい場所が中国人たちによって汚染されていくのだろうと思うと、政治的に偉そうな意見を主張する前に「人民の素養を高めろ」と中国政府には言いたい。もちろん、ここで弁当を広げたわれわれ日本人はゴミひとつ残さずに片付けたことは言うまでもない。

▼ジャングルの中で洞穴探し

弁当を食べ終わると、倉田師が、バードアイランドとは反対側の山の斜面を指差して、「あそこへ登ります」と言った。距離的には、泉尾教会で喩えると、駐車場のある現在地点が正門の辺りだとすると、「あそこ」は、会堂の大屋根のてっぺんぐらいの標高差であるが、問題は、その間が単なる斜面ではなく、人が踏み入れたことが一度も無いようなジャングルだということである。実際に分け入ってみると、国道から5m入るだけでも、大汗が吹き出してくる。斜面に垂れ下がる蔓のようなものを引きながら、這い上っていくのであるが、元々珊瑚礁であったような岩が隆起してできた白いゴツゴツした岩は、尖っていてあっという間に腕や脚は擦り傷だらけになる上に、体重の重い私が全力で掴むとすぐにボロッと崩れるので、危険極まりない。昔、ボーイスカウトで習ったいわゆる「三点支持」というやつで、両手両足の四点の内、常に三点は岩場に接着させて登っていくというロッククライミングの基本は解っているが、それを実行に移せる体力があるかどうかというとまた別の問題である。当時より、体重は二倍以上に増えたから……。

直線距離ならおそらく数十メートル、標高差30mの斜面を1時間以上かけて全身擦り傷だらけになってジャングルをかけずり回り、当時の日本兵の大変さを身をもって体験したが、季節が良かったのか、当初怖れていたヘビや毒虫はおろかジャングルの中には蚊さえいなかった。もし、刺されていたらマラリアやデング熱といった感染症を心配しなければならなかったのであるが……。その代わり、山中にもかかわらず地面にはやたらと巨大なヤドカリがそこかしこに蠢いているのが不気味であった。空援隊の皆さんは、そんな山腹をスイスイと登って、ひとつひとつの岩場の隙間(小さな洞穴)の中に遺骨がないか調査していく……。私自身、斜面からずり落ちないように、木登りやジャングルジムで遊んだ幼少の時以来、おそらく何十年も使ったことのないような足を肩の高さぐらいまで持ち上げるための筋肉を無意識の内に使ったのか、サイパン滞在中はずっと、臀部の筋肉がいやに引き攣った。

洞窟から這い出る三宅善信総長
洞窟から這い出る三宅善信総長

このようにして、山の斜面のジャングルを調査した後、バンで場所を移動して、国道から数メートル入った比較的簡単な場所にある、空援隊が既に数年前に遺骨を発見した場所へと向かった。ここでは、国道から数メートル入っただけなのに、岩場の隙間に日本兵の遺骨がそこそこあった。さらに、そこから数メートル入った縦横高さがそれぞれ5mぐらいある岩をよく見ると、その下に高さ30cmX幅70cmぐらいの隙間が開いている。倉田師から「この洞穴の中に遺骨があるので、匍匐(ほふく)前進で入ってください」という声が掛かった。パサパサの埃っぽい土であったが、水筒など不要な荷物はすべて外して、小さなデジカメと小型の懐中電灯だけを持ってその割れ目に突入した。私の身長分ぐらい侵入すると、そこは一坪ぐらいの広さで高さが約1mの「洞窟」になっており、底面の砂を少し掘るだけで、遺骨が結構出てきた。恐らく、上陸してきた米兵に追い詰められて、およそ人が入れるとは思えない岩の割れ目に逃げ込んだのであろう。何故なら、人が立って入れるような洞窟は皆、入口から火炎放射器で焼かれるか、手榴弾等で爆殺されているからである。このような洞穴の中で息を潜めながら、米兵が立ち去るのを待っている内に食糧が尽きて亡くなったのかもしれない。

再度、匍匐前進で洞窟の外へ出ると、先ほどの山登りで大汗をかいたTシャツの腹部にべっとりと泥が付き真っ黒になってしまったが、そのような格好のほうが「絵になる」のか、MBS毎日放送のクルーからインタビューを受けた。その後、いったんホテルへ戻り、シャワーを浴びてから、島の南部にある中華料理店で夕食を摂った。不思議なもので、人間、疲れすぎると食欲がなくなるものである。国際宗教同志会の事務局長として、明日から合流される先生方のための諸準備にも余念なく務めた。

▼所轄庁という障壁

翌6日の早朝03:30着の便で、国際宗教同志会会長の西田多戈止一燈園当番と新会員で兵庫県神道青年会会長の上村宜道先生が到着された。この日は朝から、サイパンの各官庁に挨拶回りをすることになっている。キチンとした身なり――といっても、南国故にノーネクタイであるが――に整えて、サイパン空港の目の前にあるHPO(歴史保存局)の事務所を訪れた。「戦死者の遺骨収容事業」というものは、ジャングルの中や洞窟の中を「発掘」して遺骨を発見すれば良いという単純なものではない。仮に洞窟の中で人骨を発見したとしても、例えば、その遺骨が軍服を着て日本製の手榴弾を握りしめたままで発見されれば、元日本兵の遺骨である蓋然性が高いが、実際には頭蓋骨から足の先まで完全に揃った遺骨が発見されることはほとんどあり得ない。もちろん、日本軍の玉砕後、一帯に累々と転がった遺体が米軍によってブルドーザーで掘った穴に何百単位で埋められた集団埋葬地なら、完全に揃った遺骨が発見されることがあるかもしれないが、そういう場所は、たいてい米軍側の資料に掲載されている。

 という訳で、このような洞窟の中から人骨の一部が何個か出てくるのとは、根本的に状況が異なるのであるが、これがまた問題を内包している。想像していただきたい。「人間の骨」と思われる骨片を洞窟の中、あるいは土中から発見したとして、その骨が本当に日本兵のものであるかはなかなか判断がつかない。70年前の骨であれば「日本兵の遺骨」の一部である可能性が高いが、7年前の骨であれば「殺人事件の証拠品」である。また、700年前の骨であれば「チャモロ人の古代遺跡」である。しかし、そのような違いは、考古学者や人類学者でないと容易に区別が付かない。そこで、人骨を発見したら、それに勝手に手を付けてはならず、サイパンでは必ずHPOに報告しなければならない。しかし、サイパンには考古学者や人類学者が居ないので、空援隊のような活動をしようと思えば、その都度、交通費と滞在費と報酬を支払ってアメリカ本土の大学から専門家を招聘しなければならず、費用負担もバカにならない。

デビッド・アパタン市長と三宅善信総長
デビッド・アパタン市長と三宅善信総長

さらに言うと、役所というものは、どこの国においても「自分のテリトリー」を冒されることを嫌がるものである。サイパンで唯一の歴史保存局(HPO)が一年間に発掘する何倍もの数の遺骨を発見する空援隊のことを「迷惑な存在」だと思っていることが、初めて訪れた私にも判るくらいの対応である。だから、たとえ空援隊が「◯◯◯◯で遺骨を発見したので…」と、定まった文書形式でHPOに報告しても、そのまま書類を放置されたままになる。このことは、未だに113万柱もの英霊の遺骨が外地に取り残されたままになっているにもかかわらず、本件に関する日本政府の担当機関である厚労省の役人たちもまったく同じ態度である。自分たちの「仕事(=予算獲得)」が半永久的に続くように、これまで年間数十柱ずつ遺骨収容を行っていたものを、空援隊の登場によって年間数千柱分のご遺骨が帰還してしまったら、自分たちのこれまでの怠慢が白日の下に曝されてしまうからか、とにかく非協力的である。

▼サイパンを飼い殺しにしている米国

HPOの事務所を発つ際、近くに見えるサイパン島の最高峰タッポーチョ山に雲がかかっていなかったので、急遽予定を変えて、山頂までバンを飛ばした。山頂まであと数メートルの地点にある駐車場にバンを駐めて、最後の階段を上り始めたら、急にスコールに襲われた。サイパンでは一日に数回、バケツをひっくり返したような豪雨に見舞われるが、たいていは数分から十分ほどで止む…。その後には、きれいな虹を見ることができた。「サイパン島の最高峰」と言っても、その標高は473mとたいしたことないが、サイパン島のすぐ東側の海は、世界で最も深いマリアナ海溝であるから、海底から一気に駆け上がる高さという点では、エベレスト山よりもはるかに高い11,000m以上もある高山とも言える。サイパン島は、南北約20km、東西約4kmの細長い島であるが、島の南方にあるタッポーチョ山に登ると、サイパン島の遙か北の端(バンザイクリフ)から、5km沖に浮かぶフラットなテニアン島まで含めてその全景を見渡すことができる。それ故、日本軍の司令部も置かれていた。

山頂から政府機関の集中するススペ地区に下り、太平洋戦史を展示した「アメリカンメモリアルパーク」の歴史博物館で時間調整をした。ハワイの真珠湾の戦争博物館でもしかりなのであるが、太平洋戦争に関するアメリカの博物館は、歴史学重視でわりと公平な視座(日米双方の立場)から展示されている。その後、日本の駐サイパン領事事務所を訪れ、松村敏夫領事と会談し、翌朝に実施される「国際宗教同志会の慰霊祭」への協力を依頼した。

スーパーで購入したおにぎりを車中で食した後、サイパン市長を表敬した。「市役所」というよりは、普通の商業ビルの一角を占めているだけの「市長事務所」を訪問したが、なんと日本人の女性が秘書をしていたのには驚いた。暫くすると、デビッド・アパタン市長が戻ってきて、われわれを歓迎してくださり、倉田師からこれまでのサイパンでの遺骨収容事業の経緯と、現在、北マリアナ諸島連邦政府の一機関であるHPOがその邪魔をしていることを指摘したら、市長からも「それは申し訳ない。協力できることはなんでの言って欲しい」との協力的なコメントを貰った。私は、明朝の慰霊祭への市長の参列を依頼し、快諾を得た。この後、もう一度、HPOの事務所に足を運んだ。責任者が居留守を使うような役所であったが、さすがに「宗教者が来ているから供養させて欲しい」というこちらの依頼には応じて、屋外に放置されたコンテナの中に収蔵されている遺骨の一部を見せてくれた。

 この日の夕方、国際宗教同志会の会員である高野山真言宗の上田尚道先生(明王院住職)と大西龍心先生(観音院住職)が到着されて、国際宗教同志会からの参加者が夕食を共にすると同時に、前日からクタクタになった体験を話したが、あの断崖絶壁や洞窟は実際に体験してみないとなかなか想像しがたいと思う。その後、ガラパンのスーパーで翌朝の慰霊祭の供花や籠盛りの果物を買い求めたが、大日本帝国の一部だった時代は、一時は5万人に達したという入植者島の開墾によって島一帯が広大なサトウキビ畑で、収穫したサトウキビを運搬するための小型機関車による外周鉄道まで整備されており、サイパンとお隣のテニアン島だけで、日本の全砂糖需要の七割が生産されていたそうであるが、米国占領後はその一切が焼き払われ、代わりにタガンタガンと呼ばれる繁殖力の旺盛な潅木の種が蒔かれ、この島では一切の農業ができなくされた。

そのことによって、すべての食糧を米国からの輸入に依存しなければならなくなり、しかも、島の東側は断崖絶壁、西側は珊瑚礁による遠浅という地理的環境のため、民間の大型輸送船が着岸できる港もないため、米国によって「生かされている島」にされてしまった。そう言えば、島の沖合には常に米軍の大型輸送船が停泊しており、これがこの島の命綱である。という訳で、安価だと思っていた南国特有のバナナやパイナップルと、高価だと思っていた北国産のリンゴも大して値段が変わらないという奇妙なマーケットであった。また、花屋に行っても、すぐに傷んでしまう生花のストックは少なく、ほとんどが造花であった。ホテルに戻ってから、慰霊祭会場のテント設置具合(この日の午後に慰霊祭会場入口付近に舗装用の生コンが蒔かれ、翌朝までに固まるか心配した)や翌朝の慰霊祭の打ち合わせを済ませて、全身筋肉痛の中でやっと眠りに就けると思いきや、驚くべきメイルが着信した。横浜での行事に参加してた元全日本仏教青年会会長の村山博雅曹洞宗東光院副住職から、「都合が付いたので、そちらへ向かいます。サイパン空港到着は午前03:30」との報せが……。タクシーが島に三台しかないというサイパンで深夜便で到着しても……。ホテルに空港までの送迎を頼んで、早朝四時にロビーで村山先生を迎えた。もちろん、この日の部屋も予約していないので、私の部屋で一休していただくことになった。

▼念願の慰霊行事を終えて

 こうして、慰霊祭当日7月7日の朝を迎えた。サイパン島を守備していた日本軍は、1944年7月7日に敢行された「バンザイ突撃」によって4,311名の将兵が玉砕した(米軍の犠牲者は406名)。この玉砕によって逃げ場を失ったサトウキビ生産に従事していた日本からの入植者たち約2万人は、翌々日の7月9日、サイパン島北端の「バンザイクリフ」や「スーサイドクリフ」から次々と身を投じて露と消えた太平洋戦争最大の激戦地であった。

国際宗教同志会会員諸師による慰霊祭にはサイパン政府や米軍関係者が大勢参列した
国際宗教同志会会員諸師による慰霊祭にはサイパン政府や米軍関係者が大勢参列した

空援隊が163柱の遺骨を収容したバンザイ突撃の激戦地跡とは、まさに、われわれが宿泊してたホテルの青空駐車場の先にある草地で、そこには真っ白な大型テント三張り用意され、日章旗と星条旗が掛けられた。祭壇中央には、上田尚道師の揮毫による「公務殉難者之霊」の位牌が設置され、私が日本から持参した榊や昨夕現地で揃えた生花や果物の他にも、日本の遺族から託された靖国神社のお札や写経などが供えられた。HPOの嫌がらせにより、遺骨を祭壇に供えることができないことが残念であったが、なんと当日の朝、この慰霊祭のことと聞きつけて、近所の住民が自宅の庭先から出てきた日本兵の遺骨を持参してくださったので、それを祭壇にお祀りした。そうこうしている内に、三々五々、地元の人々が集まってきた。

国際宗教同志会会員諸師による慰霊祭を終えて
国際宗教同志会会員諸師による慰霊祭を終えて

国際宗教同志会主催の神仏合同慰霊祭では、開式に当たり、ビクター・ホコグ北マリアナ連邦政府副知事とデビッド・アパタン市長と松村敏夫サイパン領事が挨拶を行った。続いて、村山師の鐘(りん)と大西師の鐃?(にょうはち=シンバル)の奏に合わせて祭員入場……。最初に、上村師が神式の修祓(大麻行事)で、祭場と参列者を清めた。さらに、大西師による四智梵語の声明。次に、上田師が祭壇正面に進み、「表白文(祭詞)」を奏上した。続いて、私が祭壇へ玉串を奉奠すると共に祈りの言葉を唱えた。その後、村山師の先唱で般若心経が唱導される中、西田多戈止会長をはじめ、松村敏夫領事やホコグ副知事、アパタン市長、北マリアナ諸島政府の観光局長、海岸部環境局長、土地資源局長、国立公園レンジャー隊長、サイパン警察署長、さらには、退役軍人会の代表ら三十数人が焼香し、かつての敵味方を超えて、戦争犠牲者の冥福と平和の継続を祈念した。なお、この模様は、地元のテレビ局でニュースとして取り上げられた。慰霊祭終了後、ホテルで直会を行った。

午後からは、7月7日のサイパン守備隊の玉砕の後、追い詰められた日本人(大半はサトウキビ農家)が島の最北端部分にある「バンザイクリフ」と呼ばれる海に面した高さ80mの断崖と、「スーサイドクリフ」と呼ばれる同じく高さ170mの山頂からの断崖へと向かい、そこからはるか2,400km北にある日本の方角を向いて「天皇陛下万歳!」と叫んで、肉体はこの南海の島で果てるとも、せめて魂だけはふるさとへ戻れるようにと願って、2万人もの日本人が一日にしていのちを失った場所を訪れ、祈りを捧げた。この場所は、11年前に天皇皇后両陛下もお見えになって祈りを捧げられた場所である。

続いて、時間の許す限り、初日私が潜った洞窟や野戦病院――といっても、「建物」などない単なる洞窟――跡を視察した後、慰労会を行った。私と上田・大西両師の日本への帰国の便はこの日の深夜便ということで、午前02:00にホテルを発ち、到着日の深夜に訪れた同じ集団埋葬地――現在もその下には何百という遺体が眠っているが、中国人のディベロッパーに購入されてしまったので、近い将来、破壊されるであろう――を訪れ、われわれの行った慰霊祭で少しは御霊も休まったかどうかを確認しようとした。ふと、夜空を見上げると、満点の星空で「天の川」までハッキリと見ることができた。そう言えば、今夜は七夕であった。72年前、バンザイ突撃のためにこの場所に潜んでいた日本兵たちも、この同じ星空を仰いで、日本で見た七夕の天の川に思いを寄せていたことであろう。こうして、私は午前04:15発の飛行機でサイパン空港を発ち、帰国の途に就いた。

(おわり)




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