人類の共栄と世界平和の実現をめざす人類共栄会は、1952(昭和27)年1月21日に大阪で創設された。一般民衆はいうまでもなく、政府ですら、その関心は戦後の復興や生活の向上に向けられ、海外援助のためのNGOなどということは、その概念すらなかった時代に「人類共栄」をめざした活動が開始されたことの意義は深い。爾来、今日まで47年間、人類共栄会は数々の活動を展開してきた。『人類共栄会通信』では創刊号に引き続き、その歴史を概観する。 ◆ゴルバチョフの改革・開放政策に 決定的な影響を与えた 1987(昭和62)年、三宅歳雄会長(当時)は、ソ連のゴルバチョフ書記長(当時)の招きにより、モスクワ国際フォーラム「核のない世界の実現――人類の生き残りのために――」に、世界の文化人と共に日本の宗教者を代表して招かれた。 三宅師は、「米ソ両国の相互不信から相互信頼へのコペルニクス的転換」を説き、その後のゴルバチョフ氏の改革・開放政策に決定的な影響を与えた。以後、数年間、ゴルバチョフ政権下のソ連は、一度も核実験を行わなかった。 また、三宅師は、ソ連の指導者だけでなく、反体制物理学者として流刑になっていたノーベル賞受賞者のサハロフ博士とも再会。30年前(1957年)にブルガーニン首相と核実験の即時全面停止の直談判を行った際、科学アカデミーを訪れ、当時、ソ連の核開発に関わった科学者と、唯一の被爆国からの使者として意見交換を行った時のことを回顧した。 また、この年は、日本仏教の母山ともいわれる比叡山延暦寺の開創1200年を記念して開催された「比叡山宗教サミット」の実現に尽力、日本国内における諸宗教協力の道を揺るぎないものにした。さらには、9月にバングラデシュのダッカで、第6回世界連邦アジア代表者会議を主催。同国のエルシャド大統領と会見し、未曾有の水害に見舞われた同国の民衆に見舞金ならびに医薬品16,000人分を提供。ダッカ市内にミヤケホームを建設、1,000名以上の子供を収容した。翌1988(昭和63)年には、モスクワで行われた「ロシア正教宣教千年祭」に招かれ、その足で、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に出席。秋には、ネパールの地震・バングラデシュの洪水被災者への救援活動を実施した。 ◆世界中の子供たちに未来を託して 昭和から平成に元号が変わった1989年には、三宅歳雄会長は、1月には、第5回WCRP世界大会を委員長としてメルボルンで開催。10月には、スリランカで第7回世界連邦アジア代表者会議を会長として主催した。その際、同国で孤児院を営む「ミヤケ財団」を設立。これにて、南アジア各国で営まれるミヤケホームは、4カ所(インド・ネパール・バングラデシュ・スリランカ)合計2,000名の子供たちを日々養うこととなった。 この年は、戦後の世界秩序を揺るがす大事件が多数起きした。6月には、北京で民主化運動を武力で弾圧した「天安門事件」が起こった。不動に見えたソ連・東欧・中国等の社会主義体制に一気にガタが訪れた。同じく、長年ソ連の支配下で苦しめられたポーランドが初の自由選挙を行い、非共産党勢力の「連帯」が圧勝。ワレサ政権が誕生した。 11 月には、資本主義世界と社会主義世界を分かつ目に見える境界線として、東西ドイツ(欧州)を隔てていた「ベルリンの壁」が、民衆の力によって突如崩壊した。この波は、東欧社会主義圏に瞬く間に拡大し、12月にはルーマニアの独裁者チャウセスク大統領が蜂起した民衆に殺され、東欧における社会主義体制は終焉をみた。 時を同じくして、ブッシュ米国大統領とゴルバチョフソ連大統領が地中海のマルタ島で会談。第二次世界大戦後約半世紀にわたって続いた米ソ両超大国の対峙による「冷戦構造の終焉」を確認し合った。 翌年2月には、人種差別政策を強行してきた南アフリカ政府が、黒人指導者として永年投獄されていたN・マンデラ氏を釈放し、世界中の人々は、東西対立(社会主義対資本主義)や南北対立(発展途上国対先進国)が解消され、真の平和な世界が訪れると希望に胸を膨らませた。 三宅歳雄会長は、この年の9月、百数十カ国の首脳がニューヨークの国連本部に集って開催された「世界子供サミット」に、世界を代表する6人の宗教指導者の一人として招かれ、ノーベル平和賞受賞者で南アフリカの黒人宗教指導者であるD・ツツ大主教らと共に、子供たちの幸福を祈った。この際、三宅会長は、国連のデクエヤル事務総長(写真)やユニセフのパルメ議長とも会談。南アジア各地で展開しているミヤケホームの事業が高く評価された。(次号につづく) |