▼三宅歳雄先生の魂が私をここへ呼ばれた
非常に感動的なお話(註=菅波茂AMDA理事長の講演)を聞かせていただいて、どうもありがとうございました。人類共栄会をお創りになられました三宅歳雄先生には、二十数年前に――当時、私はシンガポールで7年間ほど天理教の布教をやっておりました時に――世界宗教者平和会議(WCRP)のアジア版の会議(ACRP)がシンガポールでございまして、その時に親しくお話をさせていただく機会に恵まれました。まず最初に、その時の思い出を話させていただきたいと思います。
三宅歳雄先生に対する私の第一印象は、非常に謙虚な方といいますか……。私の父親ぐらいの年齢差があるんですけども、私を「先生」と呼ばれまして、いろいろお尋ねになられました。当時、国際宗教者連盟というのがシンガポールにございまして、日本人では唯一、私が役員を務めていました。そこでいろんな宗教の考え方に出遭った訳ですね。剣道や柔道や空手とか日本人学校とか、いろんなことをやったんですけども、多民族国家のシンガポールという「現場」で悪戦苦闘いたしておりました。イスラムは、学生の時にエジプトにひと月ほど行ったことがありますので、ある程度は肌で理解しておったんですけども、ヒンズー教の人々との交流は初めてだったんです。
そのような複雑な社会情勢(民族構成)の中でACRPの会議が開催されたのですが、もちろん、三宅歳雄先生はシンガポールにお住みになられたことがない訳ですから、私に「シンガポールの事情を聞きたい」ということで、会議の間に出てこられたんですね。それで、非常に謙虚に、若い私のこの拙つたない経験をお聞きいただきました。それが非常に印象に残っております。「三宅先生、毎日カレーばかりで大変でしょうから、日本料理レストランでもご案内いたしましょうか?」と言いますと、「いや、私はあなたのお話を聞かせていただきたい」と、コーヒー1杯で何時間も話した思い出があります。
最初に、そのエピソードをちょっと語らせていただいて、その後、結局、菅波先生のおっしゃった結論になっていくと思うんですけども、「魂の医療」という話については、モデレータの三宅善信先生との話し合いの中で、感じさせていただいたところに繋つなげていただきたいと思うんです……。
菅波先生は、「三宅歳雄先生は無原則(註=目の前の難儀に苦しむ人を助けるのに、前提や条件をつけないという意味)の人であった」とお話されましたが、私もまったく同感で、「無原則の人の魂が原点となって人類共栄会というものができた」と申し上げたい。無原則というのは「カオス(chaos=混沌)」という意味で、私も非常にカオスティックな人間でございますので、たぶん、無原則の三宅先生の魂が、今日、私をこういう席に呼ばれたんじゃないかとそういうように感じております。そういう「魂のご縁がある」というように今、私は感じておるんですけども……。カオスから生命が生まれるんであって、コスモス(cosmos=秩序)から生命は生まれないんです。新しいものは確実に無原則から生まれてくるという正しさを、三宅歳雄先生はご自分の生き様を通して証明されたんじゃないかと、このように考えます。
▼日本人は精神的難民である
そこで、まず、私は日本の社会がおかしいんじゃないかと前々から思っていましたのですが、特に最近はそう思います。「9・11事件(米国同時多発テロ事件)」が起こって、なおさらそのように思います。例えば、昨日もテレビで、狂牛病の被害者の酪農家が、牛をお城に捨てたニュースが流れてましたね。農水省の責任を糾弾するメッセージを牛の体に書いて。そのニュースを見ておりますと、(狂牛病だからといって)殺すわけにはいかないから、これらの疑いのある牛たちを預かっておられる酪農家がおられるんですね。インタビュアーの質問に答えて、「これらの牛を維持していくだけでも1日2千円の飼料代が掛かる」と……。捨てられた牛に対する餌代がです。2千円というお金は、1カ月間のアフガニスタン難民の十人分の食費に相当します。だから、アフガニスタンの人間の価値は、日本の狂牛病の牛の300分の1しかないんですね、数字の上では……。2千円で10人の難民が1カ月ご飯をいただける。ところが、この国では、狂牛病の牛一頭を生かしておくためにその2千円を1日で使ってしまっているんです。ひと月で6万円ですよ。大変なことだ。
もうひとつ、憤慨していることは、菅波先生の話にもありましたが、食べる物が無くて餓死する人までいるこのような時代にですよ、『世界大喰い選手権大会』なんて番組やっているんですね。ああいう番組を作るプロデューサーは、どういう感覚でやっているんでしょうかね。飽食の時代……。これは、後でも述べたいと思うんですけれども、「日本は物質的には難民ではないですけども、精神的に完全に難民の姿をしておる」と……。精神は目に見えませんけども、しばしばそういう現象を通して「日本は難民の国である」と思います。ですから、菅波先生のおっしゃった「魂の救済」というレベルの話をするときに、やはり、現実の世界で起こっておる難民の状況が、自分の心の中に常にあるんだということに気がつくことが大切なんだと思います。
▼難民救済は自己の救済である
私は二十数年前に、アフガン難民救済同志会というプログラムをやったことがあります。ベトナム難民やアフリカ難民のこともやりました。その中で、(共産軍に圧迫された)ベトナム難民は逃げる難民――逃げられるだけまだ良いんですね――でしたが、アフリカの難民は佇む難民だと……。空から援助物資を落としてもらわないと生き延びることができない。その点、ベトナム難民は逃げられるだけまだましだと……。比較すればの話ですよ。人間は、希望というものがあると逃げる。しかし、その希望もなくしてしまっている人々がいるのです。
ところが、私がアフガンから帰ってまいりまして、机の上の朝日新聞の一面を見ますと、たまたま、ある記事が目に留まったんですが、厚生省の前で「養老年金を上げろ」と、ハンストをやっている老人の写真がありました。法律から見ると、もちろん、権利はあると思うんですけども、これはちょっとですね……。物質的に何不自由のない生活をしていながら、「もっと欲しい」という姿は精神的難民ではなかろうかと……。
それが、フィードバックされまして、「果たして自分はどうなのか?」ということを考えたときに、「もう少し、こういう条件が整えば、もっと仕事ができるのに、私のやっていることを理解してくれる人が非常に少ない。なぜだ?」という不満がやってくることがあるんですね。私のやってきたことについてお話する時間はございませんけども、そういう思いが出た時に、「条件を求める」ということは、やはり、「物を求める」のと、全く求める心は同じなんで、難民というのは自分の心の中にあるのであって、「世界の難民は、私の心の反映に過ぎない」と、いうように悟りまして、「難民問題は自分の問題である。よその世界の問題ではない」と、自分が理解するようになりました。したがって、難民を救済するんではなくて、自己救済であると……。それ(難民救済活動)によって「自分が助けられている」のであるというところまでいかないと――なかなかここまで行きませんが――だめだと思うようになりました。
菅波先生は「トラブルを通して信頼と希望が生まれてくる」とおっしゃいましたが、まさに、そのとおりであって、考えてみれば、「自分が助かっている」のであって、被害者は難民であって、それを媒介して、自分自身が動くことによって「自分自身が助けられている」と、このように思っております。そこで、時間がございませんが、十ほどに分けて、私のコメントをさせていただきたいと思います。
▼魂の世界は根の世界
まず最初に、日本のマスコミのキリスト教以外の宗教に対する差別と偏見についてもおっしゃってくださいました。天理教では、40年前からコンゴの医療伝道をやっております。ラオスでもやっております。大きな病院を造って、それを現地の政府に寄付したり、コンゴの方を日本に呼びまして、病院で衛生検査技師とか看護士にして送り返しているというのを営々と続けていますが、これも菅波先生がおっしゃったように、1行も新聞には出ません。その中で、すごい生き様があります。そのことについては、また本にまとめましたので、関心のある方はお読みいただいたらいいと思うんですけども。まったくその通りでございます。例えば、ネパールにおきましても、40年ほど前からいろいろやっております。費用も必要になってまいります。その他、菅波先生の協力を得ましてケニアでもいろいろやっております。
私は、一宗教家の端くれとして、メディアで扱ってくれることによって、メディアが(自分たちの仕事を)評価してくれるということは、非常に嬉しいわけですけども、魂の世界というのは枝葉の世界ではなくて根の世界であるから、逆に、認めてもらわないほうが良いと私は思っているんですね。こちらから、そういう希望(大々的に報道してもらう)は一切表に出さない。もう、完全に根の世界……。その根が、枝葉の世界を支えておるので、枝葉は光に向かって伸びてゆきますが、根というのは光に背中を向けて大地を這はっていくわけですから、根の世界というのは、限りなく地中に潜っていく世界です。
宗教家の難民救済活動というのは、もちろん報道を通して、紹介していただくことは結構ですけど……。最近、ITの発達によって、そういうネットワークが非常にできましたから、菅波先生がおっしゃったように、「蔵」の中――私はインターネットの世界は、いろんな物が入っている「蔵」と思うんですけど――を通してネットワークを繋ぐことができますから、私は新聞記事とか雑誌とかそういうことには、あまり期待しておりません。
そういう報道というのは、誇張とファクト・セレクション(fact selection)というか、事実の(意図的な)選択をしますよね。日本の場合には、菅波先生がおっしゃったように、キリスト教団体がした活動は報じるけれども、日本独自の宗教がやったって報じないという……。これは明らかにセレクションですよね。事実を意図的に選択しているわけです。バイアス(bias=偏見)を持ってね。
それから、ファクト・ファブリケーション(fact fabricantion)といって、事実を捏造(ねつぞう)するメディアだってあるくらいですから、報道というのはすべてが正しいとは言えません。非常に間違った情報を流しているのもあり、アフガン問題にしても言えるわけで、行間をよく読まないと、われわれは報道によって誤魔化されますので、その点は注意しなければならない。
▼神のほうが私を離さなくて……
それから、菅波先生は尺八をやっておられたということですが、私も都山流をやったんですけど、1日だけ……(会場笑い)。フルートは真剣にやっておりまして、音楽家になろうと思ったんですけども、私が東京芸大のフルート専攻に行かなかったおかげで、誰か一人が私の代わりに通ったと思うんですけども(会場笑い)、それだけ上手かったんですよ。
その後、私は天理教から逃れようと思って、エクソダス(註=旧約聖書の『Exodus(出エジプト記)』の題名。モーゼがエジプトから脱出したことに因む)を何回も試みたんですけども、神のほうが私を離さなくて、結局その後、便所掃除とか下足番とか廊下拭きとか、いろんなことを3年ほどやりました。まあ、その時にはフルートを吹いてるんじゃなくて、廊下を拭いていたんですね(会場笑い)。それで、今日はホラを吹くために来ておりますが(会場爆笑)。しかし、同じふくということもやはり、菅波先生のふき方のほうが素晴らしいと思っているんですが……。
「夫婦仲良く」という話もございましたが、これも非常に感動いたしました。私のほうは、先生と違いまして、女房と私の趣味はまったく違っておりまして、女房は詩人であり、画家で――画家といっても素人なんですけども――しょっちゅう絵を描いているんですが、私は絵が下手で、馬を描いたつもりでも鹿に見えたり、馬鹿にされているんです(会場笑い)。同様に、詩を批評することはできますが、自分で創作することはなかなかできないんですね。それで、異種の趣味でもって、お互いに協調し合っています。夫婦仲良いことには変わりないんですが……。
▼井上昭夫流責任の取り方
昨年の8月に、天理大学の学生をインドへ連れて行きました。グジャラート州の地震の被災地で「ボンガ」という土嚢どのうで家を造る。アドベという円形のものですね。それから、チック・ダムという堤防を造ってまいりました。そして、建築資材用に木を千本植えてきました。そういう計画を立てたときに、大学のほうでは、他の教授連中が「もし、現地で事故があったら、誰が責任を持つんだ」と、実行する前に責任の話ばっかりでね、教授会では……。
そこで、逆にこちらから、その教授に「あなたの責任というのは、どういう定義をしておられるんですか? 腹を切ることなのか? あるいは頭を下げる(誤る)ことなのか? 職を退くことなのか? 金銭でそれを賠償することなのか? まずあなたのおっしゃる責任を定義してください」と言ったら、責任を持つといっても、責任の定義をほとんどせずに、ただ「責任、責任」と言っていたんですね。
そこで、また、その教授が「あんた(井上)の果たす責任はどうだ?」と、こう聞くもんですから、私は「もし万が一、事故で亡くなった学生の魂は、私が腹を切ることによっても救われない。家内にちゃんと許可を得ております。死んだその場所(インド)で家内と永住するんです。そこで、その遺志を生かすというのが、私の責任の取り方だ」と言いますと、皆、黙りました。「責任、責任」と言うときには、自分にとって責任を果たすというのはどういう行為なのかということを具体的に話して、法律を超えた魂のレベルでの議論でないとできないですね。そうじゃなきゃ、単なる条件闘争の裁判沙汰になっちゃう話です。
それから、私のところも(菅波先生のところと同様に、夫婦)仲が良いですけど――また一度、紹介させていただきますが(会場笑い)――「遠い所で縁ができる」というのは、素晴らしいことだと思います。それから、「メッセージとは参加である」という話もございました。つまり、参加というのは行動ですよね。体験知の世界だと思うんですよ。やはり、難民救済というのは体験知で、理論知じゃないんですよ。体験しないと解らない世界がいっぱいあります。
インドに行って学生たちは全員下痢をいたしました。「こんなダムが崩れたような便が出たのは初めてだ」と申しておりました。参加者には、全部レポート出させたんですけど……。帰ってきますと、やはり建築する喜びができまして、ボンガも1,200の袋を作りました。捨ててある米袋を貰いまして、そこに土を詰めて、円形に組み上げていくんです。
私は10年ほど、このアドベあるいはスーパー・アドベという土嚢で造る家を研究しております。人類だけが住居を造る時に自然を破壊している。虫や鳥は自然を一切破壊しない。そういうことで、「土に帰ろう」ということで、土を材料にした建築をやっております。参加した学生たち全員が下痢をしたということもありまして、「もうインドは懲こり懲ごりだ」と言うのかなと思っていますと、「先生、もう一度、連れていってくれ」と言うんですよね。
インドでは、牛が道路にいっぱいおります。自動車はそれを避けて走りますから、それを思い出して……。日本では、牛が1頭迷子になったら、朝からテレビでやっているんですよね。それは当たり前の話なんですよね、インドでは……。そういったことも、実際にインドへ行った生徒たちは解りますし、日本の社会がいかに馬鹿げているかということも解ると思うんです。
▼ヒューマン・セキュリティーが大切
その次に、「いろいろ意欲と能力があってもチャンスがなければだめだ」という話もございました。結局は貧困が原因でありますけども、魂のレベルからすると、物質的に極限の貧困は別にいたしまして、「物質的に不自由であるときに、魂が光り輝く」んですよね。人間、衣食住が十分保障されておったら、その分、魂は欠落していますよ。どっかに行っちゃっているんですよ。やはり、1杯のご飯を家族で分けて食べるというところに魂の世界が現れて来るのでありまして、満ち溢れている世界では、冷や飯出すと、「俺になぜ朝から冷や飯出すんや」ということになりますので、「恵まれているということが精神的貧困の入口である」ということを認識することが大切であると、このように考えております。
それから、ヒューマン・セキュリティーの問題。これは、「人間の安全保障」というように訳され、これまでは、安全保障といえば「国家の安全保障」だったんですが、国連では、衣食住を基本として、極限の貧困状況にある人が難民として国境を越えてゆくという意味で、人間の安全保障をどのようにキープしていくかという問題が重要なテーマになっているんです。実は、私、明後日からジュネーブに行くんですけども、それは、人間の安全保障に関する国連の会議があるからです。
国連は会議ばっかりやっていますが、(職員の出張規定によれば)飛行機に九時間以上乗らなければならない移動ならビジネスクラスのチケット代が出るんですよね。例えば、ビジネスクラスのチケット代が1人50万円だとすると、3人アフガンに行く国連の職員を2人にすれば、それで浮いた50万円でどれだけの難民の方の飯が助かるのかということです。会議をあまりたくさんやって欲しくないと……。国連が会議をやるというのは――現地でやる場合の話ですけど――大変な金の無駄があると思います。インターネットで済むところを体を動かして――まあ、動かすことももちろん大切なんですが――そういう辺りも、NGOはこれからチェックしていかないといけない。私は、カンファレンスとかシンポジウムとかワークショップは止めて、それよりも、行動を起こそうと……。ヒューマン・セキュリティーは、行動をもって達成できるのであって、決して会議では達成できませんよ。いくら本を出版したってだめだということを言っていこうと思ってるんです。
▼遠いところへ行くほどこちらが助けられる
その次に、宗教NGOについて非常に貴重なお話をいただきました。この点については、私共も宗教団体のひとりとして――隠れた形で取材される方は自由ですけども――メディアに載せてくれれば、それはそれで嬉しいですけど、私は、記者に会って、全部チェックしてから取材に応じるようにしています。報道規制じゃなくて、「君、こういう見方は間違っているよ」と、記者を育てるという意味で記者とは会いますけども、こちらのやったことを情報として宣伝して欲しいということは一切していません。記者には「こういうことは嫌なので止めて欲しい」と、このように言いますね。「私を理解してくれている記者は他にもいる」というようなことで、報道機関同士を競争させるんですよ。逆に、こちらが報道を利・活用しないとだめだと思うんですよね。非常に間違った報道をする場合があるんですから……。
それから、タリバンを招かれたエピソードについても、非常に感心しました。私はアフガンからムジャヘディン(聖なる戦士)を何人も呼んだことがありました。東京にヒズミ・イスラミというセクトがありまして、この親分のヘクマチアル氏というのは、今はテヘランに亡命していますが、彼がまた、アメリカの傀儡(かいらい)政権(註=カルザイ議長派の北部同盟)とドンパチやろうとしてますので、そのうちまたやるんじゃなかろうかと思うんですけども……。彼と、現地でも会いまして、何人かを日本に呼びました。
「東京にそれの支部を創って欲しい」と言われまして、いろんなことをやったんですが、例えば、古着を2トン送ったり、トラックを送ったり……。すると、連中は私に隠れて秋葉原でホカロンを1万個買ってる(会場笑い)んですね。兵隊さん、寒いんでしょうね。それを、私に隠れて買っているんです。「彼は今日どこに行ったんだ?」と尋ねますと、「歯医者に行ってる」と言うので、歯が痛いのかなと思っていたら、そういうことを隠れてやっていたんですね。そういうこともあってか、私が行ったときに立派な絨毯(ジュータン)をくれました。コーランを読みながら4カ月間、4人の女性が編んだ絨毯なんですよ。私は日本刀を持って行きまして、武士道の話――葉隠れの話――をしてきたんです。向こうには「パッシュトゥン族の掟」というのがあって、笑われましたけども、そういうエピソードがありました。絨毯と日本刀の文化交流です。
菅波先生のやっておられること、すなわち、いろんな遠い所へ行かれる、異文化のところへ行かれるということは、結局はこちらが豊かになるんですよね。やっぱり遠い所へ行けば行くほど、向こうの方によってわれわれが助かると、このように思います。まあ、欧米の方はそうではなくて、「(遅れている連中を)教えてやろう」という気で行かれるでしょうがね……。
今回のアフガン攻撃でも、ビン・ラディン氏が、アフガニスタンでなくて、もし、メルボルンとかパリに逃げたらどうだったでしょうか? アメリカ軍はパリやメルボルンを空爆すると思いますか? しないでしょう……。ですから、この戦争は絶対的に人種差別ですよね。けしからんと私は思います。それを言い始めると明日の朝くらいまでしゃべりまくってしまいます(会場笑い)ので、15分しかございませんので、ここら辺にしておきます。
▼表と裏のふたつひとつの力
最後に、人類共栄会が50年の歴史を積み重ねられて、やはり、三宅歳雄先生の魂がここで蘇よみがえって、金光教の先生方がそれぞれのネットワークを組みながら、宗派を超えて地球規模の活動をなさっていることは素晴らしいことだと思います。しかも、隠れてですね。ビン・ラディンも隠れているんですから……(会場笑い)。隠れられると、やはり、表で活動している人は困るんですよね。不気味になるんですよ。強大な相手に不気味に思わせるには、隠れるしか方法がないんです。「隠れる」というのは「篭(こも)る」というんです。ただ単に隠れる、姿を隠すというのではいかんのです。
篭ると隠れるとは違うんです。だから、生命の誕生は「身篭る」と言うでしょう? 篭ることが大事なんです。単なる隠れるではなくて、目的を持って一時、隠れることを篭るというんです。篭ることによって新しい生命が生まれるわけですから……。ですから、私は、宗教的なNGOというのは篭ることが大切だと思います。それが、表と裏のふたつひとつの力になるんじゃなかろうかと思うんですね。というのは、この種の活動は、結局は「自分の魂が救われる」というのが到着地点なんですから……。
菅波先生のご講演を聴いて、このように感じました。どうもありがとうございました。