人類共栄会 半世紀のあゆみ(前編)
人類の共栄と世界平和の実現をめざす人類共栄会は、1952(昭和27)年1月21日に大阪で創設された。一般民衆はいうまでもなく、政府ですら、その関心は戦後の復興や生活の向上に向けられ、海外援助のためのNGOなどということは、その概念すらなかった時代に「人類共栄」をめざした活動が開始されたことの意義は深い。爾来、今日まで46年間、人類共栄会は数々の活動を展開してきた。『人類共栄会通信』発刊にあたり、その歴史を概観する。


人類共栄会創設の経緯

1950(昭和25)年6月、日本の敗戦による太平洋戦争の終結によって平和を取り戻したかに見えた東アジア地域において、朝鮮戦争が勃発。「平和を願う世界の諸国民」(『日本国憲法』前文)との協調をめざす日本の戦後政策に早くも翳りと矛盾が生じてきた。また、この年の9月、貧しいながらも日々の糧と雨露を凌げる最低限の住居を一応、確保できるようになった人々をジェーン台風が襲った。地盤の低い大阪市北西部は、ほとんど床上浸水の被害に見舞われた。

1927(昭和2)年以来、金光教泉尾教会長として、大阪の地で人々の救済活動を行っていた三宅歳雄師は、人々の生活に未曾有の悲劇をもたらせた太平洋戦争を体験。「世界の平和なしには、個々人の幸福はありえない」と自覚し、終戦以来、国籍・宗教の壁を超えて、相互理解・協力活動を展開していた。

1950年12月、日米平和条約交渉のため来日していたJ・F・ダレス国務省顧問(後の国務長官)と国際宗教同志会の副委員長として会見した三宅歳雄師は、世界レベルでの救援活動の展開を決意、種々の準備を経て、1952(昭和27)年1月21日、人類共栄会を創設し、会長に就任した。当時の世界情勢は、51年9月サンフランシスコ講話条約締結、52年5月には「血のメーデー」事件、同年11月にはマーシャル諸島で水爆実験と、第二次世界大戦後の米ソ両超大国による世界の再分割、冷戦構造の定着が始まった時期に相当する。

三宅歳雄会長は、人類共栄会を創設したその年の11月には、世界食料機構の初代総裁でノーベル平和賞を受賞したボイド・オア卿夫妻を泉尾教会に招き、世界連邦アジア会議大阪会議を開催。人類共栄会会長としての国際活動の第一歩を記した。


欧米各国の首脳と会談

1953(昭和28)年8月、三宅歳雄会長は、世界平和と人類救済を願って、世界連邦第5回世界大会に日本代表として出席するためにコペンハーゲンへ。途中、バチカンでは、時のローマ教皇ピオ12世と会見。ウイーンでは、オーストリアのコーネル大統領・ラープ首相とも会見した。欧州からの帰途、アメリカへ立ち寄り、ワシントンでは、旧知のダレス国務長官と会談、引き続き日本への宿料援助等を依頼した。また、ホノルルでは、現地のラジオ放送に出演。世界平和にかける日本の決意を表明した。以後、三宅歳雄会長の海外での国際会議出席は、102回を数える。

翌1954(昭和29)年、泉尾教会の境内に世界平和を祈念する超教派のモニュメント「祈りの塔」を建立。落成式には、アメリカの水爆開発の責任者で、後に平和運動に身を投じたノーベル物理学賞受賞者のA・コンプトン博士も訪れた。また、国内でも湯川秀樹博士や西谷啓治博士らと共に「科学者と宗教人の懇談会」を組織し、現代社会における諸問題について、幅広く意見の交換を行うようになった。




核兵器の廃絶と世界平和を願って

1957(昭和32)年には、6月にセイロン(現スリランカ)のコロンボで開催された世界平和評議会委員会に日本代表として出席。第三世界の指導者や社会主義圏の指導者とも関係を築いた。翌7月には、原水爆実験禁止要請国民使節の宗教代表として訪ソ。当時のブルガーニン首相と渡り合ったことは本誌第3面に詳解されているとおりである。ソ連の各開発に関わった科学者との懇談やソ連各地で講演会を実施したことも、当時の世界情勢を考えると驚愕に値する。モスクワからの帰途、モンゴルや中国に立ち寄り、それぞれの指導者と会見した。

1963(昭和38)年、三宅歳雄師はWAWF(世界連邦世界協会)国際理事に選任された。1965(昭和40)年には、サンフランシスコで開催されたWAWF第12回世界大会に出席。1968(昭和43)年には、ローマ教皇パウロ6世と単独会見、1969(昭和44)年には、イスタンブールでギリシャ正教のアテナゴラス総主教と会見し、また、ボストンで開催された第20回IARF(国際自由宗教連盟)世界大会に参加。1970(昭和45)年3月には、ジュネーブで開催されたTOU(理解の殿堂)主催の第2回精神頂上会議に出席、国際常任委員に選出されるなど、世界的に重要なポストに次々と就任した。これらの一連の活動は、同年10月に京都で開催された第1回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会(副委員長に就任)に結実された。

その間、国内では、1959(昭和34)年の伊勢湾台風や1961(昭和36)年の第二室戸台風の被災地に、泉尾教会を中心に救援奉仕団数百名を派遣、災害援助でも実績を残した。


国連と提携した活動を展開

1970(昭和45)年10月、三宅歳雄会長はWCRPを成功裏に閉幕に導くやいなや、「宗教による平和」の理念を実戦行動に移すべく、同年12月、立正佼成会会長の庭野日敬会長(当時)らと共に、戦火の南ベトナム各地を視察。翌年8月には、ベトナム難民救済援助物資の送付。また、明治期以来、日本の植民地政策の標的とされ、それ故に、戦後は激しく対立していた韓国の宗教代表者たちを訪問、日韓宗教者交流の先鞭をつけた。

1972(昭和47)年5月、三宅歳雄会長は、ウ・タント前国連事務総長の提唱の「人類生存のための百人委員」に選出された。同年8月、ブリュッセルで開催された第15回WAWF世界大会に出席。西ドイツのハイネマン大統領と会見。また、ロンドンでは、旧知のザフルラ・カーン元国際司法裁判所長官と会談した。翌1973(昭和48)年3月には、ロシアの最高宗教指導者ピーメン総主教とモスクワで会見。また、11月には、ニューヨークでワルトハイム国連事務総長と会談した。

1975(昭和50)年1月、ニューデリーでアムド大統領・ガンジー首相らインド政府首脳と会談。ゾロアスター教本部で講演を行った。7月には、国連創設30周年を記念してサンフランシスコで開催された第1回地球市民世界大会に出席。また、ニューヨークでは、国連憲章改正委員会に委員として出席した。

1976(昭和51)年11月、シンガポールで開催された第1回アジア宗教者平和会議(ACRP)に日本代表として出席。人道的見地から、当時大量に発生していた海上ベトナム難民(ボートピープル)の日本受入に奔走した。翌年6月には、第2回地球市民世界大会に副会長として出席。10月には、日韓宗教協議会訪韓使節団団長として出くわした爆発事故の被災者に見舞金を贈呈した。

1978(昭和53)年には、第1回国連軍縮特別総会NGO会議に出席。翌年8月には、プリンストンで開催された第3回WCRP世界大会に出席、カーター米国大統領に、世界の宗教者の代表として招かれ、ホワイトハウスを訪問した。




各国から顕彰を受ける

三宅歳雄会長は、1980(昭和55)年2月、世界連邦アジア協議会に出席、ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサ尼と会談。以後、人類共栄会はカルカッタにおいてテレサ尼の事業を支援してきた。3月に訪中、中国政府要人と会談。7月にWAWF(世界連邦世界協会)名誉理事長・同アジアセンター(WAC)会長に就任。8月には、泉尾教会を会場に第18回世界連邦世界大会・第3回地球市民世界大会大阪会議を主催。9月には、泉尾教会にカンボジアのソン・サン首相の訪問を受ける。12月には、イタリア大地震の見舞金として2万ドルを国連に寄託。

翌年1月には、国際アカデミー賞を受賞。また、4月には、タイのスラム街の指導者プラティープ女史の訪問を受けた。

1982(昭和57)年、三宅歳雄会長は、A・シュバイツアー賞と圓光大学(韓国)より名誉博士号を相次いで受賞した。5月、WCRP訪中団として北京を訪問、人民大会堂で中国政府首脳と核廃絶について協議。6月には、ニューヨークで開催された第2回国連軍縮特別総会に出席。9月には、英国で開催された世界憲法制定協議会に出席した。

1984(昭和59)年8月、ナイロビで開催された第4回WCRP世界大会で同国際委員長に選任され、総額50万ドルのアフリカ救援プロジェクトを実施。国連難民定住センターに給水施設を寄贈。

翌年3月、カトマンズに孤児の養育・教育施設ミヤケホームを建設。また、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所を訪問、その難民プロジェクトに援助。6月には、サンフランシスコで開催された地球市民創設10周年・国連創設40周年記念大会に副会長として出席。この年、中国仏教協会より「国際平和賞」を、またシカゴ大学より名誉博士号を授与されている。