5月にインドとパキスタンが、相次いで地下核実験を強行した。これは、核兵器保有国の拡散の防止を目的にしたNPT(核拡散防止条約)体制が事実上の崩壊を意味する。人類共栄会では、その創設時(昭和27年)以来、一貫して核兵器に反対し、各種の活動を行ってきた。ここでは、その歴史を改めて紹介する。
自制を呼びかける国際社会の声を無視して、5月11日と13日にインドが、また、28日と30日にはパキスタンが、地下核実験を強行した。ソ連社会主義体制の崩壊による「冷戦」の終結から十年近く経ち、世界の関心が、大国による核戦争への危機感から、むしろ小規模な民族・宗教紛争への対応の方向へ向かっているこの時勢に、印パ両国が核実験(核兵器保有の意志表示)を実施したことの意味は大きい。
インドが主要国首脳会議(バーミンガムサミット)の直前の時期を選んで核実験を実施したことは、明らかに「NPT(核拡散防止条約)体制」に対する挑戦であるが、それに対して、世界をリードする主要国の対応(対インド制裁)の足並み揃わなかったことが、引き続いて行われたパキスタンの核実験に歯止めをかけられなかったことの最大の原因である。このことは、NPT体制の事実上の崩壊を意味する。
人類共栄会創設者の三宅歳雄師は、1957(昭和32)年、「原水爆実験禁止要請国民使節」の一員として、自治体や労働界の代表と共に宗教界の代表としてモスクワを訪れ、時のソ連首相のブルガーニン氏とクレムリンで会見。2時間にわたって核軍縮の必要性の直談判におよぶという離れ業をやってのけた。
全面的核戦争がいつ起こっても不思議でないと思われた東西冷戦真っ最中の時期に、徒手空拳の一民間人が、超大国ソ連の首相に一歩も引けを取ることなく対面し、ブルガーニン氏をして「米英が核実験を止めるのであればソ連も止める。(核兵器を開発した)ソ連科学アカデミーの専門家とも話し合ってはどうか」と言わさしめたのは、驚嘆に値する。この間の詳しい経緯は、『平和を生きる』(講談社刊1988年)の53〜60ページに詳解されているので省略するが、三宅師の先見性と世界平和に掛けた意気込みの一旦を垣間見た思いがする。
その後も、世界の宗教者による平和活動を推進する国際団体であるWCRP(世界宗教者平和会議)を創設したり、国連本部で三次にわたって開催された「国連軍縮特別総会」にも、三宅師はその都度、出席し、日本の宗教者を代表して、核軍縮と世界平和に掛けられる意気込みを世界の指導者に示した。
1987(昭和62)年2月、ソ連のゴルバチョフ書記長(当時)が主催した「人類の生き残りのために核兵器のない世界をめざす国際平和フォーラム」に、三宅歳雄師は世界の識者のひとりとして招待され、クレムリンでソ連政府首脳と会談。また、ノーベル賞受賞者で反体制物理学者として有名なサハロフ博士とも会見し、同フォーラムの「決議文(核実験の即時全面禁止)」を、核保有国の政府に伝達する役割を担うなど(前掲書82〜90ページに詳細)、人類共栄への新理念を求めて、核軍縮に関しては、各方面にわたって大きな働きをした。この際の三宅師の「あなたあっての私、私あってのあなた、という相互依存関係抜きに
人類の生き残る道はない。アメリカあってのソ連という見方をすれば、相手もそのように変化する」といにフォーラムでの参加者の度肝を抜く発言が、ゴルバチョフ氏を動かし、その後のソ連の政策転向、すなわち、ペレストロイカ(改革開放)やグラスノスチ(情報公開)を促し、この時以来、ソ連は核実験を「相手国のするしないにかかわらず、自ら率先して停止(モラトリアム)する」というゴルバチョフの「新思考外交」に大きな影響を与えた。
こうして、三宅歳雄師が、時代時代の要請に応じて、否、時代に先んじて取り組んできた核軍縮への取り組みへの努力が、最近、ややもすると薄れがちであった人類共栄会の会員にとって、今回のインドの核実験は警鐘を鳴らす機会になった。今こそ、全会員を挙げての取り組みが求められる時である。この秋、インドで開催される第23回世界連邦世界大会に三宅龍雄会長が、同アジアセンター会長として出席するが、その際、開会式に出席するインド政府首脳に直接、核開発の即時停止を申し入れる予定である