大阪国際宗教同志会 創設60周年記念総会 記念講演
『日本における国家と宗教―歴史の視点から―』



東大寺 長老
森本公誠


森本公誠師

6月7日、金光教泉尾教会神徳館国際会議場において、国際宗教同志会創設60周年記念総会が、大阪国際宗教同志会の会員諸師と共に、各宗派から多数の来賓を招いて開催された。京都大学大学院に在学中、エジプト・カイロ大学へ留学。京都大学より文学博士学位取得後、長らく京都大学文学部講師を務めるという、イスラム研究学者としてのユニークな経歴をお持ちの森本公誠先生は、2004年5月より3年間、華厳宗管長、東大寺別当の要職を務められた。今回は、その森本先生をお招きして、『日本における国家と宗教―歴史の視点から―』という講題でお話しいただいた。

▼イスラム世界との文明間対話 

ただ今ご紹介いただきました東大寺の森本でございます。本日は国際宗教同志会にお招きいただきまして、誠に有り難うございます。ただ今、私の経歴をご紹介していただきましたように、私は東大寺に籍を置いておりますけれども、若い時に―今から思えば若気の至りだったのかなと思いますけれども―「いきなり仏教のことを勉強するよりも、まったく日本人には馴染みが薄いイスラムとはいったいどういうものか勉強してみよう」と思ったのがきっかけでございます。もう半世紀近く前のことでございますが、そういう思いを抱いてイスラムについて勉学した訳でございます。ところが実際は、イスラムとの関わり合いが本当に長くなって、一時的なことでは終わらなくなってしまいました。

本日、皆様にお話しさせていただこうと思いますのは、去る2月20日、21日の2日間、外務省主催の『イスラム世界との文明間対話セミナー』が東京で行われた際に、私に与えられましたテーマとして、外国人に日本を紹介するための基調講演を仰せつかりました。持ち時間は1時間ちょっとだったと思いますが、私は「1時間で日本の文化をどうやって紹介するんだ?」と本当に困った訳です。しかし、自分が日頃考えていることとか、これまでイスラム圏の人々と接触した時のことなど、そういう諸々の体験を綯(な)い交ぜにし、筋立ていたしましてお話しした訳であります。

今申し上げた『イスラム世界との文明間対話セミナー』とは、2001年、まだ「9・11」同時多発テロが起こる前に、当時の外務大臣でありました河野洋平氏が湾岸アラブ諸国を訪問された際に、「対話セミナーを開いてはどうか?」という提案を受けたことをきっかけに始まったものです。今年は第5回目だったのですが、聞くところによりますと、対話セミナーと言いながらも、どういう訳か、「日本の文化そのものをアラブ圏の人たちに伝える」といったテーマは、今まで採り上げたことがなかったそうです。


解りやすく説明される森本公誠先生


そこで、そのお役が私に回ってきた次第ですが、事務局である外務省側にも「異なる文化間の共存共栄を図るにはどうすればよいかということを、真剣に学んでいかなければならない」という大きなテーマに対する思いがあってのことのようでした。イスラム圏からは、36名ほどの知識人や外交官が招かれ、また多数の日本の方々も参加されました。

私がこの講演で心がけましたのは、イスラム圏の人々にとって関心が深いと思われる「国家と宗教の関係」について取り上げるということ。それから、日本のイスラム研究者は―私がこういうことを言うのは申し訳ないかと思うのですが―意外と、自らの文化である日本のことについてはご存じないということが多い訳であります。立派な大学の先生であっても、イスラム圏の人々から、知識人として質問を受けるのですが、その答えとしては少々歯切れが悪いというか、そういう状況を、私自身目撃したことが多々あるのです。

そういった経験から、私はまず「双方が共通した認識を持つこと」の必要性を感じ、またそうでなければ、「対話そのものが空回りするんじゃないか? すれ違ってしまうんじゃないか?」という思いがございました。これまでこの外務省が主催するセミナーでは、主にビジネスなど現代的なテーマを取り扱うことが多かったようですが、今年は「時間軸から見たテーマ」を採り上げることが、主たる目的だったようであります。 

▼日本という国をいかに説明するか

日本の歴史上において、常に国家と宗教の関係が一様のものであったかというと、ご承知のように、これは幾多の変遷を経ており、しかしその都度、新しい文化がその関係性の中で生み出されてきたと言えます。日本文化の諸々の姿の根底には、「国家と宗教の相互依存関係」と言いますか、その有り様が大きく横たわっているように私には思えます。

イスラム圏の人々からすると、「日本人は概して、結婚式の時は神社で式を挙げ、葬式はお寺で執り行う。これはおかしい」と信念的な頭(先入観)がございます。しかし、そのような宗教観こそが日本人にとっては妥当なものであります。先ほど四天王寺の出口猊下もおっしゃいましたが、この「妥当なものである」ということを理解してもらうためには、やはり、「日本の長い歴史の発展そのものを知ること」が前提として必要ではないか? と私は考えた次第です。

私はかつて、神学者であり、また非常に高い地位の政治家でもあるイラン人の方に「何故、日本では神道と仏教が共存できるのか?」という質問を受けたことがございます。この方は「おかしい(奇妙だ)から」という意味合いから尋ねたのではなく、「何故この異質な二つの宗教が共存できるのか?」という根元的な疑問から聞かれたようです。そのような質問に対して、どう答えたらよいか? そういう意味も含めまして、今述べたような歴史の視点から、まず第一段階の答えを提示する。そういうのも良いのではないかと思った訳であります。

しかし、内容としては、イスラム圏の人々からすれば、私の話はいささか専門的なものだったかもしれないと思っております。このような訳で、結果的には独断と偏見に満ちた日本の歴史観になったかもしれませんが、私がこれからお話しすることに対し、また後ほど、批判なりご意見なりを伺うことができれば、私としても幸いであります。要は、基本となるテーマは「異文化・異宗教の人たちに、日本という国を簡潔かつ総括的に紹介するにはどうしたらよいか?」であるとお考えいただけたら良いかと思います。

▼日本が律令国家をめざした理由

さて、それでは歴史に関わることでありますけれども、まず「国家」から考えた際、日本の古代国家が、法に基づく政治、いわゆる「法治国家」を目指す。イスラムでは、イスラム法に基づく国づくり、社会づくりということが前提となっているので、彼らにもとっつき易いと思い、そういう頭でもって、私は話を進めようとした訳であります。そうすると、日本の場合はやはり、古代の律令制を取り上げないといけないということになります。この東アジア世界が激動の時代を迎える7世紀から8世紀にかけて、日本では「法治国家を目指す」という動きが起こりました。


森本公誠先生の講演に耳を傾ける国宗会員諸

中国は長らく南北に分裂していましたが、この頃、随、続いて唐による統一が行われました。一方、隣国にあたる朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国が互いに激しい抗争を繰り返していました。この朝鮮半島の情勢を利用した唐王朝は、ご承知のように新羅と連合を組みまして、挟み撃ちにして百済それから高句麗を滅ぼし、その勢いに乗って、占領した百済軍の将兵に対し「次は一緒に日本を攻めよう」と言いながら、実は同盟国であった新羅を併呑しようとしていました。この計画は唐王朝で内密に検討されていましたが、その秘密がばれて、直ちに新羅の義湘(ぎしょう)というお坊さんが使者として派遣され、その事実を知るところとなりました。

ですので、日本へは新羅からの使節がこういった情報をもたらしてきた訳です。この時、日本からすると百済は既にいったん滅んだ国であった訳ですけれども、百済からの遺臣―滅亡した王朝に使えていた武将たち―から、「是非、百済王朝の復興を」と頼まれて、日本は朝鮮半島へ2万7千の兵を派遣して、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗北を喫したのであります。

そういうことがあったものですから、日本の支配者層は大変な恐怖心を以って「従前のような(諸豪族による連合)国家体制ではなく、中央集権化された(当時における)近代国家を確立すべきだ。そのためには、唐王朝が進めている律令というものを導入することによって、新しい国家体制を作るのが最も相応しいのではないか」という考えに至ったと思います。そこで、早速、日本では国土防衛のための軍事と行政のシステムの構築が急務となりました。「律」は刑法にあたり、「令」は行政法にあたるのですが、これらの編纂に日本も着手した訳です。しかも、この法体系ができるまでの間に、緊急時に、いつでも人民を動員できるようにするための基礎データとなる「戸籍の編纂」を全国規模で行うということに急いで取り組んだ訳です。


▼仏教における『王権神授説』

その結果、何が起こったかと言いますと、それまでは、概して地方豪族の私的な民であった人民が、天皇に属する公民(おおみたから)になったことであります。このような国家体制の樹立を最も推進したのは、壬申の乱で勝ち残った天武天皇です。天皇は、様々な政策を実行し、天皇の権威の高揚を図った訳であります。そして、「天皇とは、天皇家の祖先の皇霊すなわち皇祖神たちから、日本の統治の大権を付託された存在である」―これを私は、仏教における『王権神授説』と呼んでいますが―これを取り入れたと思う訳でありますけれども、天皇は、この「皇祖神から日本の統治の大権を付託された存在」であると同時に、「皇祖神がそのまま人の姿をとって現れた神―明神(あきつかみ)、あるいは現人神(あきつみかみ)―」であるとされた(註:『大宝律令』には「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」とある)訳であります。このような絶対的な宗教大権を持った天皇を頂点とするピラミッド型身分制社会を築くために、時の政権はおよそ30年をかけて国家基本法である『大宝律令』を完成させた訳ですが、これが701年のことであります。

こうして律令国家ができていく訳でありますけれども、当時の日本の知識人たちや、官僚になることを目指す一般の人、出家して仏教の僧侶になろうとする者は、皆一様に、漢字を習得して中国の儒教や歴史を学ぶことが必修の条件になります。さらに、僧侶は漢訳による仏教の経典を学んだ訳です。彼らのうちの成績優秀な者は、選ばれて唐土(とうど)に留学し、滞在期間が十数年になる者も稀ではありませんでした。当時はまだ、造船技術が未発達であったため、日本から中国への渡航は非常に危険であったにもかかわらず、在家者であれ、出家者であれ、留学生たちは中国文化の摂取に情熱を傾けた訳であります。それは、国家の発展と国民の安寧に寄与することを使命としたからだと思います。


▼総合大学(ユニバーシティ)としての東大寺

この『大宝律令』が制定されてから24年後、聖武天皇が24歳で即位されます。この天皇は最初「徳を以て治める」という儒教的価値観に基づく政治を目指しましたが、即位して8年後の天平四年(732年)以降、地震や干魃(かんばつ)、飢饉といった天災が次々と日本を襲ったことを受け、天皇は「こうした天変地異の責任は自分一人にある」という宣言をされます。現代人にしてみれば、「そういった自然災害が、何故個人の責任になるのか?」という疑問が出てくると思いますけれども、当時の常識からすると、豊かさとは直接的に天地自然の恵みがあってのことですから、そういった天変地異が結果的に国民を悲惨な状態に陥れたならば、「これはやはり、その民を治めている自分の責任だ」―一種の「災異思想(註:意志を持った「天」が、自然災害や異常気象を起こして人に忠告を与えるという儒教の思想)」と申しましょうか―これが大きく天皇の肩にのしかかる訳であります。

実際に飢饉などが起こりますと、この天皇は高齢者や困窮者への穀物の支給など寛大な政治を行いました。しかしながら、天皇のこのような政治姿勢に対し、天地自然はおいそれとは応えてくれなかった訳です。735年から737年―天平で言いますと天平七年から九年―天然痘の大流行により、多数の国民を死に至らしめ、国家は多大な損失を被り(註:朝廷で実権を握っていた藤原不比等の4人の息子たちをはじめ、政府高官の多くが死去した)ました。天皇はこの深刻な事態に対して「如何に国民を救済すれば良いか?」と、その精神的支柱となる政策を打ち出す必要に迫られた訳であります。天皇は苦悩の挙げ句、「国民の悲惨な状態を救い、国家を繁栄に導くには、仏教思想を全国に広めるしかない」と、そのように判断し、そのための2つの大きなプロジェクトを考えました。

そのひとつが『金光明最勝王経』というお経。これは、先ほど申し上げた「天皇が持つ『人民を治める』という大権、これは神が与えたもうたものである(王権神授説)」ということを述べているものです。この経典の説くところの国家観に基づいて、ご存知のように全国に国分寺(正式名称は「金光明四天王護国寺」)を建て、そして法華経に基づく国分尼寺(正式名称は「法華滅罪之寺」)を建てました。第二は、『華厳経』という、国家というひとつの狭い枠を超えた宇宙的スケールの普遍的な思想を持つ経典を拠り所として、首都の国分寺にその象徴としての盧舎那仏(るしゃなぶつ)を作ろうということであったように思います。

これにより、それぞれの国ごとに、ひとつの国分寺には20名の僧侶を置き、維持費として一定の田畑が与えられましたけれども、一般の人々にとってこの制度は、非常に生活に密着したものでした。というのも、毎月の「六斎日(ろくさいび)」(8日、14日、15日、23日、29日、30日)には「山の猟師も海の漁師も共に、生きものを獲ってはならない」そして「一般の者は、そういう生きものを食べてはならない」ということが定められました。普通は、仏教思想による「殺生を禁ず」の面だけが強調されがちですが、そうなると、猟師や漁師としては仕事にならず、その日が休日になる訳ですから、実は、日本における組織的な休日を設けた最初でもあったのです。

そうして、その休日に何をするかと言いますと、「国分寺へ来て僧侶の説法を聞く」ということだった訳であります。当時としては日本に六十余りの国がありましたから、各国に20人の僧侶ということは、全国で1,200人以上の僧侶が要ることになる訳であります。そうすると、この大勢の僧侶たちをいったい何処で教育するか? ということになってきます。その教育の場が、首都の国分寺すなわち東大寺がその役割を担うということになった訳であります。

東大寺というのは、現代で言えば国立の総合大学(ユニバーシティ)のようなものであります。今は存在しておりませんが、当時の東大寺の境内には、広いキャンパスを擁して、大仏殿の後方には巨大な講堂があり、この講堂をコの字型に囲むようにして、寄宿舎と大学の校舎を兼ねた僧坊が建てられました。古代建築の専門家の話によりますと、だいたいその規模からして「見習い僧から教授にあたる上位の僧侶まで含めて約1,000名の僧侶たちがいたのではないか?」という話でしたが、およそ数字的には合致いたします。


▼東大寺で僧たちは何を学んだのか

この僧侶たちは、だいたい何歳ぐらいから入ってきたかというと、16歳前後で、全国から推薦されて集まってきます。入学には国司(各地方長官、県知事に相当)の推薦が要るぐらいですから、各地方を代表する優秀な者たちが集まり、6つの学派に分かれて教条にあたる思想について、それぞれ学んだ訳であります。では、見習い僧たちはどういう学科を学んだのか? と言いますと、「五明(ごみょう)(「明」とは学問を指す)」という5つの学問を学びました。

それは、まず第一に「声明(しょうみょう)(声に関わる学問)」現在「声明」と言いますと、節付きのお経のことを指しますけど、もともとは「声に関わる」つまり言葉に関わる―言語学や文法学、外来の言葉など―ものを学ぶことを指しました。次は、その学んだ言葉をちゃんと論理的に人に伝えるということが必要になってきますので、当然論理学というものを学ぶ。「因明」すなわち物事は原因があって、そして結果が起こることですが、仏教の思想ともちょうど合います。この学問を二番目に学ぶ。

それから、三番目には仏教の教義そのものを学ぶのですが、これを「内明」と言いますが、当時の僧侶の学問はこれに止まらず、まだ先がございました。四番目が「工巧明(くぎょうみょう)」と言いまして、端的に言えば建築・土木ですね。要するに「形あるものを如何にして作るか?」という学問ですが、形といえば建物も形でありますし、彫刻のようなものも形であります。それから「原野を切り開いて農地にする」という行為も形になる訳です。

五番目は、直接的に困った人を助けることができる学問で「医方明」です。当時の医学とは、医学の教えと同時に「如何にして治癒させるか?」ということで薬として薬草を扱う必要が出てきますから、「薬草学を学ぶ」ということでもあります。これら5つの学問の修得は、インド仏教以来の伝統であった訳ですが、当時の僧侶はこのように、仏教道そのものよりも工学系や医学系の技術で名を成したものが結構多いんです。中には優秀な技術を買われ、政府の命令で還俗(げんぞく)する者もありました。

日本人にとると、古代文化は平安時代のイメージが非常に強いがために、皆「奈良時代は遠く去ってしまった時代だ」と思っておられるんじゃないかと私は思うのですが、実際にいろいろ調べていくと、本来仏教は何を目指していたのか?ということが、すぐ判るような教えなんです。要するに、体のことであれ、精神的なことであれ、「困った人を助けることが仏教の目的である」という考えが生きていたんじゃないかと考える次第です。この見習い僧たちは、所定の学業を修めると再び地方へ帰り、その地の文化の向上に、また経済の発展に貢献した訳であります。

奈良時代に最も貢献した僧侶というと行基さんですが、彼は仏教の奥義を究めたから有名になったのではなく、むしろ巨大な溜池を造ったり、灌漑用の水路を切り開いたり、あるいは川に橋を架ける、各地に寺院を建てたことから有名なんです。「寺院を建てる」とは言っても、実際は工事現場事務所なんです。それがやがて寺院になっていく訳ですが、そういうものを建てました。また、行基さんは東大寺大仏殿の造営にも貢献されました。その他にも、聖武天皇の侍医として最後まで仕えたのも、実は僧侶でありました。多くの侍医がいましたが、法栄というお坊さん―今の福岡県の宗像郡で、医者として名を成した人物であります―が、遠く九州からその名声を耳にした天皇によって抜擢された人物であります。彼が来た後、天皇は「他の者はもうよい」と言われたそうです。

仏教には様々な見解があり、奈良時代には中国から伝わった6つの学派があった訳ですが、見習い僧たちは、いずれの学派の教義も習うのが慣わしでありました。これを「六宗兼学」といいますが、平安時代には、これに真言と天台が加わり、八宗になります。この兼学という習慣は「一宗一派に偏らない」という考えを生み、東大寺の伝統になったようであります。見習い僧たちに五明であるとか、六宗であるとか、いわば広い視野に立っての勉学を奨励したのは、「精神的にも肉体的にも苦しむ人々を救う」という大原則に基づいているのであります。


▼荘園制と寺院の世俗化

さて、このような奈良時代が過ぎ、8世紀の末に都が奈良から京都に移り、支配者層の貴族化が進みますと、有力な貴族たちは棒給代わりに国家から与えられた土地を私有地化したり、自らの資本で未開地を開墾するなどして、荘園の領主となっていきます。そのような土地の農民はもはや公民(おおみたから)ではなく、私領地の領民になっていきます。東大寺のような巨大な寺院は、これまで国家の直接的な租税で賄われていましたが、こうした社会情勢の変化に伴って、租税の代わりに荘園を与えられるということになりました。寺院は自らこれを管理し、農民から租税を徴収して寺院の維持に充てた訳ですが、このような荘園の経営そのものは、主として寺院にいる俗人の官僚たちに任されていました。ところが、官僚というものは「功罪相半ば」と申しますか、評判が良くない面もありまして、どうも官僚に任せていると、私的に使ってしまったり、横流ししてしまったりといったことが、当時もあったようです(会場笑い)。これでは非常に能率が悪い。それならば、やはり「僧侶自身が荘園経営に直接携わらないといけない」ということになったのですが、そうすると、たとえその僧侶が学僧であったとしても、領地経営に派遣されるということが起こってきます。例えば、東大寺の荘園が北陸にもあるのですが、そういうところに派遣される。

その結果何が起こるかと申しますと、当然の成り行きとして「寺院の世俗化」が起こってくる訳であります。私的な荘園は売買が可能で、土地に対する権利は複雑でしたが、荘園の中でも係争事件や、隣接する荘園領主との境界の争いといったことが、しばしば起こるようになってきます。そのため、最有力な貴族であった藤原氏あるいは、後の時代では平家の荘園と東大寺の荘園が接していると、かなりの部分が侵食されるといったことが起こってくるのです。貴族の荘園では、自衛手段として「武士」と呼ばれる職能集団が養成され、それはやがて学問的素養を身に付けた貴族に対抗する勢力に育っていったのであります。

一方、大貴族の氏寺のような寺院では、僧侶としての学問の修得は、徐々にテキストが固定化され、型通りのものになっていきます。そして大貴族出身の僧侶や荘園経営に辣腕を振るう僧侶が幅を利かせるようになり、学問が不得手な僧侶や低い身分出身の僧侶は、刀や長刀を持つ僧兵となって寺院内を跋扈(ばっこ)したり、あるいは徒党を組んで都の政庁に押しかけたりしました。直接的に言うのは如何とは思うのですが、京都近くの高い山に大寺院がございましたけれども、そこの僧兵たちは、一番トップの方を襲うというようなことも行った訳でございます。むろん、そうした仏教界の堕落に飽き足らず、一人山林に引き籠もって修行に励む僧侶もいたのであります。

8世紀の始めに確立した律令国家は、平安末期―だいだい12世紀半ばではないかと思いますけれども―に内部から崩壊いたしまして、天皇、上皇、貴族、有力武士などが入り乱れての争乱が頻発し、やがて平氏と源氏という武家の二大勢力の抗争となり、東大寺はその争乱に巻き込まれて灰燼に帰した訳ですが、これが1180年のことであります。


▼天台宗と真言宗について

さて、6世紀半ばに仏教が伝来して以降、この新たな宗教を受容するために多くの僧侶が中国や朝鮮に渡り勉学に努めたのですが、仏教の習得というのは、膨大な数の経典を読みこなすことと、難解な経典解釈学である―仏教学をおやりになった方ならばすぐお解りになる話でございますが―教相判釈(きょうそうはんじゃく)(註:漢訳仏典圏において、仏教の教典を、その相(内容)によって、高低、深浅を判定し、解釈しようとする方法論)でもって困難を極めたようであります。釈迦牟尼仏陀が亡くなられた後に仏教が辿(たど)ってきた道は、社会背景の変動の中で大きく思想的にも変容を遂げていきまして、教団は分裂に分裂を重ねていきました。しかも、東アジアでは、今申し上げた教相判釈のような学問が発展したことによって学問の分派化が進み、それはそのまま日本に持ち込まれたのであります。

先ほどの話に出てきた南都の六宗、そして平安時代に起こった二宗を加えた八宗もそうですが…。ことに、平安時代の初めに起こった天台宗は、最澄さん―この方は、近江の国分寺で得度されたのが第一歩になるのです―が、京都近くの比叡山に籠もって、遣唐使の一員(留学僧(るがくそう))として中国に留学して天台教学を学んで帰国された後、804年に毎年2名の僧侶を得度させる許可を政府から貰いますが、これが日本天台宗の出発になります。

真言宗の空海さんは、当初、京都の大学寮(註:律令制下の官僚養成機関)に入って、儒教、道教、仏教を学んだ後に(最も優れたものとして)仏教を選択されたということであります。その際、山野にも入って修行を積まれたようです。この方も最澄さんと一緒に中国へ行かれましたが、お2人の立場はまったく異なったようです。空海さんは、仏教を勉強するためではなく、資格は確か、薬学を学ぶ薬生(やくしょう)として行かれたということであります。しかし、実際には、中国で真言密教の奥義を学び、帰国後次第にお弟子さんや信者を得た。そして東大寺の別当にもなり、823年には、朝廷から王城(平安京)鎮護の東寺(公称は「教王護国寺」)を下賜され、真言宗の根本道場となった訳です。

この2人の祖師さんは、「日本で初めて教典解釈を行い、そして著作も遺した」という点において注目される訳でありますけれど、その手法そのものは南都六宗の伝統を引き継いだものでありました。しかし、平安末期になると、政情不安から、世の中が末法思想的になります。世を悲観する風潮の中、貴族や武士が入り乱れての内乱が勃発しますと、人心の動揺が一層加速される訳です。そうなりますと、もはや天皇を頂点とする王朝政府(朝廷)も、国家の統治機構としての機能を果たすことができなくなる。そのような混乱の中で、代わって政権を掌握したのが武士階級です。源頼朝が武家の頭領として鎌倉に幕府を開いたことによって、京都の王朝政府と関東の武家政権という権力の両建ての状態が生まれる訳であります。


▼奈良平安仏教と鎌倉新仏教の違い

こうした状況下において「仏教の真の教義は何か?」を巡って、新たな宗旨を唱える者が続出しました。現在に至る仏教教団の諸宗派祖師さんは、ほとんどがこの激動の時代に輩出されています。法然さん然(しか)り、親鸞さん然り、栄西さん、道元さん、それから日蓮さん…。他にもいらっしゃいますが、こういう方々であります。

こうして勃興した日本固有の仏教諸派は、新たな時代の潮流として、それぞれ多数の信者の帰依を得た訳でありますけれども、やがて時代が下りますと、信者を獲得するための宗派集団に変質していったのではないかと思われます。もとはお経の優劣を論じる学派だったものが、今や各宗派の自己の教義の優越性を唱え、宗派の拡大を目指すようになり、目指すところの目的が徐々に変わっていったんではないかと思います。

もちろん、こうした祖師さんたちの活躍は素晴らしいものであった訳ですけれども「集団となるところの宗派の拡大」という目的の前には、当然「他の宗派を排除する」という原理も働きます。「奈良・平安仏教と、鎌倉仏教との大きな違いは何処にあるか?」といいますと、これは「日本古来の神道とどのように向き合うか?」であります。仏教は概して土着の信仰を排除するものではなかったので、土着の神々との共存を図りながら日本にまで伝わってきました。その結果、「神仏習合」という信仰形態が平安時代までに定着した訳です。

しかし、鎌倉時代のお祖師さんたちは、自らの説く仏教理論から、日本古来の神々を排除していかれたのではないかと思います。しかも、鎌倉時代以降の新しい仏教宗団は、それぞれ中世の身分制社会とも密接な繋がりを持っており、禅宗は武士階級に、浄土真宗は農民階級に、日蓮宗は商人階級に多くの信者を獲得いたしました。とりわけ浄土真宗の農民は、武器を持って強大な戦闘集団と化し、地方によっては世俗の領主を駆逐して、本願寺の門主は宗教領主として君臨いたしました。


▼権力によって人民支配の装置とされた仏教

鎌倉・室町の両武家政権が崩壊し、日本が群雄割拠の戦国時代に入りますと、守護・地頭に代わって戦乱を勝ち抜いた大名が台頭いたします。戦国大名たちは領主権を賭けて、広大な荘園を所有し武装する大寺院や、武装する真宗教団―一向宗ですね―と抗争いたしました。このような武装する仏教の諸集団を、宗教の域を超えるものとして断固壊滅させようとしたのが、新興の大名、織田信長でした。この信長の脳裏にあったのは、一種の政教分離の理念だったのではないかと思います。

戦国大名たちの抗争を経て日本の覇権を手中に収め、武家政権を再び確立させたのが徳川幕府でありますけれども、徳川幕府は、信長以来の政教分離の理念を踏襲いたしましたが、しかしその方法はなかなか巧みなものがあったようです。十六世紀半ばに伝来したキリスト教徒に対しては、その背後に西欧諸国の領土的野心を感じ取り、幕府はキリスト教を日本から排除するとともに、既に相当数存在していたキリスト教信者(キリシタン)に改宗を迫りました。

このような宗教政策から、幕府は日本全土の藩の領主である大名に対して、藩内の領民の信仰を証明する役割を仏教寺院に担わせたのです。その結果、寺院は祖先の供養を行う檀那寺となり、各宗の信者たちは檀家に位置づけられていきました。なお、東大寺のような学問寺は「そのような檀家を持ってはならない」という訳で、学問の継承と国家安泰祈願に必要な程度の荘園を与えられた訳であります。


▼天皇の名による欧米化

江戸時代は対外的には鎖国政策を採り、対内的には幕藩体制を強化した結果、比較的平和で安定した時期が続きましたが、18世紀になりますと、外来の仏教や儒教を排斥して、「日本には古く天皇を崇拝する信仰があったのだ」と、天皇の権威を強調する思想が芽生えていきます。いわゆる「尊皇思想」ですが、それは同時に儒教、仏教、道教などの外来の宗教を排除するものであります。こうした気運が起こりつつあった時に、「ヨーロッパ近代の植民地支配」の魔の手が、極東の日本にまで及んできたのであります。

このことに危機感を抱いた侍たちが、19世紀半ばのアメリカの黒船来航を機に、尊皇攘夷―この攘夷はまったく排除の原理に基づくものでありますけれども―を唱えるようになりました。現在「原理主義」といいますと、イスラムの専売特許のようになっておりますけれども、この「日本原理主義」ともいうべき尊皇攘夷運動を、日本各地で起こしました。これは、日本は「天皇を戴く神の国」であり、外来の人間はむろんのこと、外来の宗教や文化の流入も認めないというものでありました。世界情勢の変化を判断し、欧米諸国との開国を認めた江戸幕府は、この運動の中で倒れましたが、代わって明治政府は、この運動の流れに沿って天皇の権威の絶対化を引き継ぎました。

しかし、中身は全く違っており、「尊皇攘夷」ではなく「尊皇開国」を政府の方針に掲げ、「神仏の分離」、「天皇を神とする国家神道の樹立」そして「天皇の名による欧米化の促進」といった政策を推し進めました。政府は、国家神道を日本におけるあらゆる宗教の上部に位置づけ、神道は「宗教にして宗教に非(あら)ず」といった、一見詭弁とも取れる理論のもと、全国の主たる神社を国家の統制の下に置き、神道に携わる官僚化を招いていったのであります。

日本国内の近代化は、同時に西洋化を意味しております。こうした新たな時代の変化に、既成の仏教各宗派は危機感を募らせ、教団の改革が模索されました。しかし、その一方で、既存の宗教観に飽き足らず、新しい宗教観を唱える者も現れ出しました。これらは「新宗教」と呼ばれ、神道系と仏教系の2つの系統がありますが、第2次大戦以前は「淫祠(いんし)だ。邪教だ」と国から弾圧されました。日本政府が進める「近代化」とは、ヨーロッパ植民地支配をモデルにした軍事化の流れでもあった訳でもありますけれども、新宗教の教団はむろんのこと、既成の仏教教団においても、もはやこうした国家の進路に影響力を及ぼすようなことはなかったのであります。


▼宗教は否定されるべきもの?

62年前の第2次大戦の敗北は、日本人に大きな宗教観の喪失をもたらしました。国家神道の軛(くびき)からは解放されたものの、その反動として「宗教は否定されるべきもの」という考えが、知識人の間で支配的になったのであります。この流れに拍車をかける形になったのが、憲法第二十条で規定された「国家および公的機関による宗教教育の否定」でありまして、条文の法解釈は、あたかも宗教そのものを否定しているかのような誤解を生むことになったのであります。にもかかわらず、戦後続々と新興宗教が生まれたことは、心の救いを求める人々が、いかに多かったかを示していると言えるでしょう。それから60年、宗教観の喪失は倫理観の欠如を生み、現代の世相に暗い影を落としております。国家も国民も、今改めて「宗教といかに向き合うか?」が求められているのであります。

ひとくちに「宗教」と申しましても、現代のそれは極めて多様であります。最も信者が多いとされる仏教についても多くの宗派が存在し、教義内容も「果たして仏教のうちに包括できるか?」と疑問となるものもあるなど、非常に多様です。加えて、日本古来の神道も日本人のこころに深く定着していると私は思います。日本人の宗教心を象徴する言葉として「神仏を敬え」―「神」と「仏」をセットにして敬う―がありますが、その意味において大多数の日本人の信仰は、この言葉が良いかどうかはともかくとして、「神仏教」といっても過言でないと思われます。そのようなことが可能なのは何故か? といいますと、やはり「神道には、仏陀やキリストやムハンマドのような創唱者による教えというものが存在しない宗教」だからではないか? と思います。

日本という地理的環境が持つ自然の美しさ、四季折々に深山幽谷が醸し出す神秘性に、日本人は、人間の計らいを越えた偉大さ、あるいは不思議さを感得し、これを神とも仏とも見なして信仰の対象としてきました。「日本文化とは何か?」ということでありますが、私は「こうした宗教観とこれまで述べてきた国家像とが織りなす表象であると言えるのではないか?」と思っております。

最初に申し上げましたように、以上が、私がアラブの人たちに対してお話ししたことです。本日用いた原稿は、皆様方に「こういう話をする」という目的で作ったものではなかったのですが、この内容は(外務省に出す原稿でしたから)すべて英訳して、アラブの人に伝えてくださる。また、後々それを簡単なパンフレットにして配っていただけるということでしたので、あえて冒険をした訳であります。われわれ日本人も、外国のことを一から十まではなかなか解らない訳で、つい「この国はこうこうだ」とごく簡単なレッテルを貼ってしまいがちです。

しかし、われわれ日本人にはなかなかイスラム人のことは解らないのと同じように、彼らも日本のことはなかなか解らないのです。仮に関わることがあっても、多くの人はビジネスの話だけで終わりがちですが、こうした関係は、世の中がグローバル化することによって、ますます地球が狭くなっていく時代においては、やはりそのような域を超えて、相互に理解し合う必要が今後もっと出てくるのではないかと思っております。一時間ということでしたので、少々駆け足になりましたが、以上で終わりたいと思います。有り難うございました。        

(連載おわり 文責編集部)


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