☆国際宗教同志会の歴史

国際宗教同志会発足の経緯
大阪国際宗教同志会 前事務局長
                           内 海 雅 継
                          
 大阪大空襲の一周忌にあたる昭和21年3月14日が巡って来た。戦災から復興へと、宗教界も徐々に立ち上り、未だに多くいた家を焼失して壕生活を送っている人々を励まし、特に、戦地から未帰還の人の即時帰国を促進するために政府に働きかけるなど、いろいろな動きを始めた。また、各宗派はその立場立場で、戦災死者の慰霊・追悼の催に力を入れていた。

 宗教界もようやく、それぞれの成すべき使命を自覚してきた。
翼賛体制の下、国を挙げての大戦争に、結果的には協力することになった戦時下の「大日本戦時宗教報国会」が解体し、昭和20年10月21日、「日本宗教会」が発足。さらに翌昭和21年6月2日、日本宗教会が改まり、「日本宗教連盟」が結成された。

 金光教泉尾教会(三宅歳雄教会長)では、信仰を実践する中核としての青年会を再組織し、昭和22年1月12日、時の同志社総長牧野虎次先生を呼んで、青年大会記念講演を行なった。

 同志社総長牧野虎次先生と三宅歳雄師とは、この時以来、その行動を共にした。この出会いが、のちに「国際宗教同志会」として結実することになった。

昭和22年2月15日、同志社総長牧野虎次先生が発起人となり、金光教の三宅歳雄師の協力によって、大本の出口伊佐男、八坂神社宮司高原美忠、カトリック京都司教古屋義之、聖公会の大国義政、一燈園の西田天香の各師がそれに加わり、伝統仏教教団からは「京都三山」といわれる東西両本願寺、知恩院にも声をかけ、名実共に超宗派の態勢をとつて、「国際宗教同志会」を結成した。

 国際宗教同志会は、牧野虎次委員長のもと、同志社に事務所を置き、同大学外事部の奥村龍三氏が会務を担当した。終戦後の暗中模索状況にあった宗教界に、一条の光明を示した国際宗教同志会は、その後、急速に発展し、理解者を増していった。

同会は、各教団の相互理解を深めつつ、世界平和への活動に挺身。一時は、国際宗教青年同志会も付随させるまでに組織化に成功。昭和23年、国際宗教同志会が中心になって、さらにその枠を拡げて、「財団法人国際宗教同志会連盟」を作り、京都を中心に、大阪・神戸・東海・関東と各ブロックの同志会を結成。昭和28年には、ハワイにも支部ができたくらいである。その後、その「連盟」は解消したが、京都と大阪の国際宗教同志会は50年を経た今日も健在である。



国際宗教同志会主催の宗教講演会の控室。右より牧野虎次、西田天香
1人おいて三宅歳雄の各師(昭和35.11.28 三重県津市中央公民館)


 同会の中心的存在である牧野虎次前同志社総長(昭和22年に総長を退任)自ら各所に講演に出向き、その理解者を増していった。特に、昭和23年1月24日に、金光教泉尾教会で行なわれた同教会布教21年記念祭時の「信仰生活の国際性」と題した記念講演は圧巻であった。
かくして、牧野・三宅両師らが全力を挙げて取り組んだ国際宗教同志会とはいったい何であったのかを、同会の設立趣意書と規約をもとに、今一度、考えてみたい。

  
「国際宗教同志会」趣意書

 わが日本国は新憲法において軍備撤廃と戦争放棄を明言した。これこそ平和と文化の国家として新しく出発すべきわが国の立場を内外に宣言したものであって、吾人はその崇高な使命感に身の引き締るのを覚えずには居られない。かかる平和国家の建設は人類共通の理想であって、広く世界の理想と協力に挨つことなくして成り立ち得ないことは言うまでもないところであるが、軍備撤廃、戦争放棄は決して単に他人任せの消極的な態度でなく、最も積極的な平和推進の抱負に満ちたものでなければならぬ。この時に当たってわが同胞が選んだ光栄ある苦難の途を開拓するものは吾人の激しい宗教的情熱と強固な実践力をおいて外にはあり得ない。しかるに、道義の頽廃・性欲の紊乱止まるところを知らぬ現代の世相に直面し、宗教人の使命と責任の念、重大を加えつつあることは吾人の日々に痛恨するところである。吾人は、自らの信仰を称々深くすると共に、偏狭な宗教我を去り国籍や民族の如何を問はず、広く同志を各宗各派に求め、国際的且つ超宗派的に結合せる強力な一大宗教運動を展開し、以て真の宗教的文化日本を建設し、ひいては世界平和へのゆるぎなき礎石を築かんとするものである。

規 約
一、 本会は、国際宗教同志会と称す。
二、 本会は、事務所を京都市今出川御門前、同志社本部内に置く。
三、 本会は、国際的かつ超宗派的に同志協力し、以て宗教的平和日本を建設
し、世界平和に貢献することを目的とする。
四、 本会は、その目的を達成するために次のような仕事から始める。
 (イ) 例会の開催。
 (ロ) 国際宗教懇談会の開催。
 (ハ) 関係諸機関との連絡。(以下省略)

 常任委員は次の通りである (ABC順)

▽委員長 同志社理事会会長牧野虎次 ▽主事 同志社専務理事奥村龍三 ▽常任委員 愛善苑委員長出口伊佐男、真宗大谷派参与本田廣善、カトリック京都教区長古屋義之、天理教布教部長岩田長三郎、金光教泉尾教会長三宅歳雄、一燈園主西田天香、浄土真宗本願寺派総務小笠原彰真、臨済学院専門学校教授緒方宗博、真言宗醍醐派管長岡田戒玉、真宗大谷派朱雀御坊主末廣愛邦、サンパウロ交易株式会社取締役社長荘野忠徳、八坂神社宮司高原美忠、日本基督教
団京都教会青年部長吉田隆吉、豊国神社宮司吉田良光(敬称略)
                               
 京都本部のほか、名古屋市中村区の東海毎日新聞社内に東海地方本部、神戸・大阪・福岡・金沢に地方事務所を開設した。
 こうして各地に支部を作るために役員はたびたび出講。その講師には、主に、牧野、三宅、西田の各師のほかに、同志社女子専門学校教授グイン女史、カトリック教会バーン神父など外国人宗教者も協力した。


ダレス国務長官との出会い
 
 国際宗教同志会の22年度の活動は、ニューヨーク市キリスト教会連盟内「正義と恒久平和委員会」委員長のジョン・F・ダレス氏(後の国務長官)宛に書信を送って、氏の平和運動の尽力に感謝し、今後の活動を期待する旨を、各宗派の代表者の署名を添付して送った。戦勝国アメリカの平和運動に携わる宗教家へ、日本の宗教家からの初のサインを送ったのである。

 同年7月23日、総理大臣官邸において開かれた「新日本建設国民運動に関する宗教団体代表者協議会」に国際宗教同志会から代表が招かれるまでに、社会的評価も高まってきた。
 
 また、8月1日より7日間、毎朝6時から約一時間「暁天宗教講座」を各宗派持ち回りで開始した。同月17日、相国寺山内長得院で西田天香、出口王仁三郎、牧野虎次の三師の喜寿祝賀会を開いた。

 12月5日、アメリカから貿易商として来日した向山照男氏が、本願寺派北米開教総長松蔭了諦師のメッセージを携えてきた。国際宗教同志会は、祈りの実践として、海外に対しては、日米の宗教家の親善、世界平和運動に力を入れた。国内的には、宗教的生産増強運動の展開。神社・寺院の境内を学童遊戯場として開放。他にも、宗教を背景に選出した参議院議員の講演会開催。各宗各派合同の宗教講座の開催。国際宗教会館の建設なども企画された。

 昭和23年1月30日、インド独立の父マハトマ・ガンジーがニューデリーで急進的なヒンズー教徒によって暗殺された。国際宗教同志会からはガンジー翁の追悼文を送り、死を惜しんだ。

 3月15日、名古屋市中区の燈影精舎で催された国際宗教同志会東海地方支部結成式で、臨済学院専門学校教授の緒方宗博師は宗教の国際化の必要を訴えている。同年4月、牧野虎次委員長は国際宗教同志会の講演会で「宗派を超えた人類愛を育む宗教のあり方」を説いた。

 5月31日には、マサチューセッツ州アンドバー・ニュートン神学校のフランク・ダブニー校長が金光教泉尾教会で「世界平和と宗教の使命」と題し、熱弁を振った。また、6月には、同志社大学顧問として来日中の米国外国伝道協会教育部長ルース・T・シーベリー女史が「平和と婦人の使命」の議題で講演した。このように、この時期には、講演会方式による敬蒙活動が盛んに行なわれた。

 さらに11月6日には、東京の築地本願寺で「国際宗教懇談会」を催した。これには日本宗教連盟も協賛し、内外有力宗教家が多数参加した。「世界の恒久平和実現に対し、宗教家は具体的に何をなし得るか、また、何をなさねばならないか」が討議された。


大阪国際宗教同志会発足
 
 昭和24年3月5日、「大阪国際宗教同志会」の発会式が、大阪市東区瓦町の日本デモクラシー会館で行なわれた。

 発会式では、ジャコブ・デイセーダー牧師が講演。「世界平和の基礎は、信仰により互いに神の愛に目覚めることにあります。皆さんの信じている神は私の信じている神であり、私の礼拝する神は皆さんが祈りを捧げる神です。なぜなら、どの宗教の神も同じ一つの神だからです」と、キリスト教を通して信仰の同一性を訴え、どの宗教においても神の愛は寛容で、永遠であることを説いた。この講演でデイセーダー牧師は、戦争中、爆撃機の搭乗員として日本を攻撃したことを悔い、宗教者として懺悔の心で平和を説き、来日して、民衆の救いに努めていた。また、文部政務次官の左藤義詮氏(後の大阪府知事)、同志社大学の奥村龍三氏も力強い講演で聴衆を魅了した。大会後、大阪国際宗教同志会として次の「宣言」を発表した。
  
 世界史は絶えず人類の歴史を創造している。日本国憲法は第二章第九条に未だ世界史上斯くも大胆に謳い得なかった戦争の放棄と武器の廃棄を積極的に明規した。それを裏書きするが如く、マッカーサー元帥は去る1日、日本国の中立要望を言明した。わたくし達宗教を信ずる者達は、飽くまで全人類の平和を守るために努力する。(以下略)

大阪国際宗教同志会は、委員長の三宅成雄師のほか次の各師が役一貞に就任した。
妙見宗管長野間秀泉、天理教総務松井忠義、メソジスト大阪教会市川牧師、大阪社会事業団C・S・モラン、真宗仏光寺派宗務総長松永仏骨、融通念仏宗宗務総長戸田宏圓、それに秋庭政吉、池尻活二の各氏。

 同年5月15日には、同志社栄光館において、国際宗教同志会主催の「宗教連合音楽会」が催され、各宗派の音楽部、合唱団が出演し、明るい雰囲気で、芸術の分野における宗教交流の働きが注目された。
 京都国際宗教同志会では、来日中のアメリカの世界的神学者、ユニオン神学大学院ジョン・ベネット教授(社会倫理学)の歓迎午餐会を昭和25年7月2日、京都市鳥丸鞍馬口の彰栄倶楽部で催した。このように、この時期は国際宗教同志会の活動が多方面に展開された。

 国際宗教同志会では、その頃、「対日講和」問題で来日する米国のジョン・F・ダレス国務省顧問とも「宗教と平和」について語り合う特別会見の機会をつくることを企画した。ダレス氏はクリスチャンの全米信徒協議会の会長を務め、多忙な政務の中でも静かな祈りの時を持つことを忘れない人物であった。国際宗教同志会にダレス氏を紹介したのは、牧野虎次先生の後を受けて同志社総長に就任した湯浅八郎先生であった。

 トルーマン大統領は、日本の米軍駐留を国際法上、正当なものとするために、対日講和条約の締結を急ぎ、昭和26年1月26日、ダレス特使を日本に派遣した。牧野委員長は、クリスチャンであるダレス氏と国際宗教同志会幹部の特別会見を実現させ、日本宗教者の心根も解ってもらいたいし、膝詰めで平和について語り合うよう努力した。



「学界人から見た今後の宗教のあり方」開催
(昭和29.2.7 金光教泉尾教会)

 昭和27年2月7日、三宅歳雄師は新たな政治情勢の展開を前に、学者と宗教者の懇談会「学界人から見た今後の宗教のあり方」を大阪国際宗教同志会として催すことにした。当日の参加者は次の各氏である。

 大阪市立大学長恒藤恭、前同志社総長牧野虎次、京都大学教授有賀鐵太郎、大阪大学教授相原信作、同大学教授菅田栄治、神戸大学教授宮田喜代蔵、同大学教授樺俊雄、同大学教授西村勝彦、浪速大学教授三宅実、花園大学教授緒方宗博、国際宗教同志会書記長奥村龍三の各氏である。

三宅師はこの成果を踏まえて、以後、この種の会合(学者と宗教者の懇談会)をたびたび催し、常に冷静な知識人の見評を求めた。


世界を舞台に
 
昭和28年4月17日、米国のキリスト教フレンド派指導者ハワード・H・ブリントン夫妻が同志社アーモスト館に招かれ、国際宗教同志会幹部と懇談。ブリントン博士は、国際的な宗教家の交流と世界平和への基礎条件として、戦後の世界を二分する両陣営の一方の旗頭ソ連への働きかけの必要性を訴えた。

 同年8月、三宅歳雄師は、第5回WAWF世界大会(世界連邦コペンハーゲン大会) に出席。バチカンでは、時のローマ教皇ピオ十二世と会見。オーストリアのコーネル大統領と会談するなど、日本がまだ国際的には認知されていなかった時代にもかかわらず、華々しい成果を収めた。続いて三宅師は、アメリカに渡り、9月10日、ワシントンの国務省にダレス国務長官を訪ねた。国務長官として多忙を極めていたダレス氏であったが、快く三宅師と会見し、「訪日した際、国際宗教同志会幹部との話し合いは有益だった」と述べた。

 三宅師は、ワシントンからの帰途、ハワイに立ち寄った。当時、国際宗教同志会委員長牧野虎次氏は、ホノルル市のマキキ聖城教会の牧師に赴任していたからである。牧野委員長は、三宅師のハワイ来訪を機に、「ハワイ国際宗教同志会」の結成を準備していた。同年9月17日、同教会で同志会の結成式が行なわれた。ワールド・ブラザーフッド世界同胞協会のシャイマー氏を座長に、カトリック・プロテスタント・モルモン教・仏教・神道の各代表が集い、日本の国際宗教同志会を代表して、三宅師が「宗教と平和の問題」と題して講演。会場には日、米、欧州、カナダ、韓国、中国、フィリピンの各代表が民族を超えて世界平和を祈念し、さながら「世界宗教会議」を思わせた。この結成式に参列していた韓国の金泰祐氏は感銘し、帰国後、東亜新聞社社長任龍吉氏、東亜公社専務理事尹声九氏らと協力して、釜山に「韓国国際宗教同志会」を結成した。
 

核兵器廃絶をめざして



世界同胞愛協会A.コンプトン会長(右から2人目)らを大阪に迎えて
(昭和29.2.8)


 昭和29年2月8日、アメリカのワールド・ブラザーフッド世界同胞協会の会長でノーベル物理学賞受賞者アーサー・H・コンプトン博士(合衆国原子力委員会委員長をして原爆を開発。後に平和運動に転じた)が泉尾教会を訪れ、「祈りの塔」の落成式に参列。三宅歳雄師や大阪国際宗教同志会幹部と世界平和について懇談した。また、8月20日には、イギリスの世界的物理学者でロンドン大学教授のキャザリン・ロンズデール夫人が泉尾教会を訪れた。夫人は熱心なクエーカー教徒で、英国のロイヤル・ソサイエティ王立科学協会会員。夫人は大戦中、政府からの原子爆弾開発の研究依頼を断わり、投獄されたこともあり、世界的な国際婦人平和連盟の英国支部長として平和運動にも携わっていた。ここで大阪国際宗教同志会と懇談会を持ち、世界平和の問題について討議した。さらに同月19日、京都国際宗教同志会でも「ロンズデール夫人を囲む会」を催し、ここに京都大学の湯川秀樹教授を招き、有益な会合を持った。

 昭和30年8月9日から二日間、世界宗教会議大阪大会が金光教泉尾教会で開催された。日本側の共同議長は、四天王寺管長出口常順師、京都大学教授有賀鐵太郎博士大阪国際宗教同志会委員長三宅歳雄師。議題は「戦争の原因追究と防止の問題」「第二次世界大戦の宗教的残務処理の問題」をあげて議論した。

 大阪からは、国際宗教同志会幹部が多数出席。特に、国会議員で大阪仏教界の重鎮、左藤義詮師が、戦争の残務処理、政治・経済の行きづまりの諸問題を指摘、その打開策について熱心な意見を述べた。



世界宗教会議大阪大会に大阪国際宗教同志会幹部多数出席
(昭和30.8.9 金光教泉尾教会)


 時を同じく8月6日、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、それらの機運に併せ、国際宗教同志会としても、平和を希求し、いろいろと多方面にわたって動いて行った。

昭和32年6月6日、世界平和評議会コロンボ総会に参加するための日本代表団(小畑忠良氏団長)が空路セイロン(現スリランカ)のコロンボヘ向けて出発した。日本代表団中の唯一の宗教者として、三宅歳雄師は望まれてこれに参加した。「原水爆反対を宗教人が結束して」と訴える三宅師は、「特に宗教者の部会を持つべき」と総会で提唱し、これが実現した。この会議で三宅師は、ニコライ府主教らロシア正教関係者と意気投合。共産圏への働きかけの足がかりをつかんだ。




三宅歳雄師「原水爆実験禁止国民使節」として訪ソ。クレムリンで
ブルガーニン首相と会談(昭和32.8.5 ソ連モスクワ)

 同年7月27日、日本より正式に「原水爆実験禁止要請訪ソ使節団」がモスクワに向かった。「世界平和のため、原水爆実験禁止をソ連に要請する」と空港でステートメントを発表。各界を代表するこの一行の中に三宅歳雄師が加わっていた。代表団一行は8月5日、クレムリンでブルガーニン首相と二時間にわたって直談判し、核兵器の全面禁止の第一歩として、実験の禁止を要請した。


日米宗教者の交流

 昭和34年2月10日、米国アイオワ州立大学宗教学部教授のマーカス・バッハ博士が泉尾教会に来訪。三宅師が国際宗教同志会の幹部と出会いの場をつくり、世界平和と宗教者の使命について懇談。

翌年もまた来日したバッハ博士は、自らが考えていた「宗教間の協力と平和への働き」が、日本では既に「国際宗教同志会」として実践されていることに共感。帰国後、すぐに米国各宗教団体に働きかけ、昭和36年10月、日本の宗教界の代表を招き、日米宗教者の交流を図ることを計画した。そのことを聞いた三宅師は、日本宗教界の代表に呼びかけ、バッハ博士の橋渡しに応じて、宗教者による米国視察団の派遣を実現させた。

一行は次の諸氏である。(順不同 敬称略)

仏教代表 全日本仏教会 事務総長(曹洞宗) 大村仁道 
浄土真宗本願寺派元総務 高辻恵雄 
神社神道代表 鶴ケ岡八幡 宮司 岡田実 熱田神宮 権宮司 篠田康雄
教派神道代表 大本学院長 桜井重雄 金光教泉尾教会長 三宅歳雄
新宗教代表 立正佼成会 教学研究主任 鴨宮成介 
新日本宗教団体連合会 事務局長 楠正俊
その他 一燈園創設者・光泉林理事長 西田天香(代理 西田武) 成蹊学園理事 丹羽孝三
国際宗教同志会 事務局長 黒川直也

 団長は大阪国際宗教同志会委員長の三宅歳雄師が務め、米国各地を巡廻。時のジョンソン副大統領とも会見するに及んだ。

 かくして国際宗教同志会の役割りは大きく、この訪米団の人選には、日本宗教連盟や全日本仏教会、新宗連等が協力し、日本の超宗派活動の草分けともなった。

 昭和39年11月11日、国際紛争調停のための国連機関である国際司法裁判所長官であったザフルラ・カーン卿(パキスタンの初代外相)が泉尾教会を訪問。卿は世界の諸宗教の相互理解を深めるインターフェイス運動協議会の会長として来日。国際宗教同志会の三宅歳雄師と初めて会見。

 昭和40年3月22日、国際宗教同志会やNCC等の共催で、京都のノートルダム女子大学を会場に「隠れキリシタン再発見百年祭」のために来日したローマ教皇使節マレラ枢機卿を囲む懇談会を開催した。



日本政府賓客として来日したローマ教皇パウロ6世特使のマレラ枢機卿
(非キリスト教徒聖省長官)が大阪国際宗教同志会幹部と懇談
(昭和45.7.30 金光教泉尾教会)

世界宗教者平和会議を生み出す

 昭和43年1月、日米諸宗教者京都会議が京都岡崎の国際会議場で行なわれた。国際宗教同志会代表として三宅歳雄師はこれに出席した。この会議で、立正佼成会会長庭野日敬師と出会い、互いに共鳴。さらに米国代表のダナ・M・グリーリー博士やホーマー・ジャック博士等と意気投合。「日米宗教者が協力して、これを世界の組織に育てよう」と話し合った。いうまでもなく、この出会いが、この後、世界宗教者平和会議(WCRP)として結実することになる。三宅師は、この後、ローマ教皇パワロ六世はじめ、ギリシャ正教総主教や英国国教会のカンタベリー大主教を歴訪。WCRP開催に向けて協力を依頼する。

 昭和45年7月30日、金光教泉尾教会にローマ教皇パワロ六世の名代でマレラ枢機卿が来駕。三宅歳雄教会長を訪ねた。三宅師は、マレラ枢機卿の来訪を、大阪国際宗教同志会幹部と共に出迎え、その日、マレラ枢機卿を中心として宗教特別懇談会を催した。




国際宗教同志会で培ってきた信頼と経験が第1回世界宗教者平和会議(WCRP)として結実。
 (昭和45.10.20 国立京都国際会館)


 同年10月16日から21日まで、国立京都国際会舘に於いて、世界の十大宗教を含む39ケ国から三百数十名の代表を招いて人類史上画期的な第一回の世界宗教者平和会議(WCRP)が開催された。その際の主要メンバーは引き続き、12月に、戦火のベトナムを訪問。「行動する宗教者」として注目を浴びた。


日韓両国の和解をめざして

 大阪国際宗教同志会は、36年間にわたる日本の植民地支配のため和解が極めて困難と思われた日本と韓国の宗教者の連帯を韓国側に働きかけた結果、昭和46年6月6日ソウルで韓国宗教人協議会と懇談会を持つことができた。日本側は三宅師・四天王寺副管長吉田秀映師、妙見宗管長野間秀泉師、神道石切教管長木積一仁師等17名。

 大阪国際宗教同志会のこの訪韓が実り、第一回の日韓宗教者会議が翌昭和47年3月10日から14日まで、金光教泉尾教会で開健された。日韓両国の宗教者にとつて歴史的ともいえる会議となった。この時の韓国側の団長は大韓仏教曹渓宗総務院教務部長宋月珠師。

 一方、同年12月11日、韓国宗教人協議会(崔徳新会長)の招きで、大阪国際宗教同志会を中心とした日本の宗教者の一行15名は韓国を訪問。ソウル市の世宗ホテルで第二回日韓宗教者会議が開催された。

日韓両国で開催された宗教者会議の成果は、翌昭和48年11月26日から三日間の日程で、大阪コクサイホテルで開健された三回目の会議において、「日韓宗教者協議会」が正式に発足するということで結実した。同会議には、韓国側から韓国宗教人協議会長で天道教教領の崔徳新師を団長として20名が参加。



日韓宗教者協議会結成に国際宗教同志会の幹部が多数参加した。
(昭和48.11.26 大阪コクサイホテル)


 この会議の日本側の参加者は、▽カトリック 田口芳五郎(枢機卿)、岸英司(英知大学長)、▽プロテスタント 湯浅八郎(国際基督教大学名誉総長)、有賀鐵太郎(京都国際宗教同志会長)、土居真俊(NCC宗教研究所長)、▽仏教 出口常順(四天王寺管長)、葉上照澄(比叡山延暦寺長藹)、野間秀泉(妙見宗管長)、平岡宕峯(大阪府私学連合会会長)、西村現淳(本門仏立宗清風寺住職)、▽神社神道 高原忠清(住吉大社宮司)、▽新宗教 佐原慶治(妙道会教団会長)、▽諸宗教 中山慶一 (天理教表統領)、▽大阪府宗教婦人連盟 三宅恒子(同理事長)。              (順不同敬称略)

 こうして、国際宗教同志会発足当初の経緯からはじまって、時代の要請もあって、内外にその理解者を急激に増やしていったこと。特に、現在では当たり前になっているが、当時は考えもされなかった諸宗教間の相互理解の推進から、さらに一歩進んで協力して平和運動にとり組んだことは、もっと評価されてもいいと思う。米国のダレス国務長官、国際司法裁判所のカーン長官、バチカン対非キリスト教徒聖省のマレラ長官、世界食料機構のボイド・オア総裁といった敬虔な信仰心を持った政治的指導者、さらには米英の原爆開発に影響を与えた核物理学者のコンプトン博士やロンズデール博士らなど、蒼々たる顔ぶれが国際宗教同志会の会合に参加するために来日したことや、三宅歳雄師を中心に、多くの国際宗教同志会のメンバーが海外に出かけ、各国の要人や宗教指導者と直接話し合い、相互理解を深め合ってきた歴史を忘れてはならない。

 さらに、国際宗教同志会の働きが元になって、世界的な諸宗教協力機関であるWCRPや日韓宗教協議会といった団体が結成されていったことなど、現代の同志あるいは、後世の研究者のためにも残して置くことが、発足当初からこの運動に関わらせていただいた者の使命であろう。昭和50年代以後、国際宗教同志会は、その国際的な活躍を主催団体として行なうのではなく、国際宗教同志会が関わり生み出したそれぞれの団体に譲って、共催もしくは参加者を派遣するという形が一般化し、国際宗教同志会自身としては、年に何回かの例会や講演会を催すという活動を中心に行ってきたが、なお、大阪国際宗教同志会理事長(現名誉会長) の三宅歳雄師をはじめ国際宗教同志会の活動を通して国際舞台に展開していった多くの宗教家たちが、それぞれの団体に役員として名を連ね、牧野虎次先生以来の国際宗教同志会精神を広めていっていることには変わりない。

こうして、国際宗教同志会の発展期の経緯を述べてきたが、昭和50年代以後の活動については、今日の国際宗教同志会の諸先生もよくご存知であると思われる。

その後の大阪国際宗教同志会の主な活動

昭和48年11月 ニューヨークでワルトハイム国連事務総長と会見
昭和50年10月 ニューヨークで「理解の殿堂(TOU)」精神頂上会議に参加
昭和52年11月 日韓宗教者協議会として訪韓中に裡里市爆発事故に遭遇、急遽見舞金を贈呈
昭和55年 3月 大阪国際宗教同志会訪中。中国仏教協会並びに中日友好協会代表者と交流(北京)
昭和55年 7月 三宅歳雄理事長、世界連邦世界協会(WAWF)名誉理事長・同アジアセンター会長に就任。
泉尾教会で第18回世界連邦世界大会大阪会議開催
昭和57年11月 日韓宗教者協議会発足10周年記念総会開催(大阪)
昭和58年 3月  中国宗教指導者来阪、主国際宗教同志会と懇談会
昭和59年 1月 国際自由宗教連盟(IARF)大阪シンポジウムに国宗が参加
昭和60年10月 テンプルトン財団副会長フオーカー氏と懇談会(大阪)
昭和61年 9月  韓国宗教青年来阪・国際宗教青年部と懇談
昭和62年 8月 大阪国際宗教同志会宗教青年訪韓、青年会議
平成元年 11月 韓国宗教婦人代表来阪、国際宗教同志会婦人部と懇談会(大阪)ムを開催(大阪)
平成 3年 4月 カーター米国元大統領を迎えて、泉尾教会で第1回平和フォーラムを開催(大阪)
平成 3年 9月 日韓宗教者協議会総立20周年記念総会ならびに平和フォーラム開催
平成 4年 4月 ユニセフ上級顧問ディアロ博士を迎えてアフリカ問題をテーマに第3回平和フォーラム開催(大阪)
平成 7年 1月 阪神・淡路大震災に当たり韓国宗教協議会より見舞のメッセー

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