ジョンブリーン博士 |
今、ご紹介を頂きましたジョンブリーンと申します。皆様方のほうが宗教の専門家でいらして、実践家でもいらっしゃいますので、私のような、十九世紀の歴史研究の専門の者が、靖国についてお話をするなんてのは、軽率でもあるかもしれません。厚かましい、おこがましい、と思われるかもしれませんが、ともかく、私が気づいたことだけ、今日お話したいと思います。それでは、早速本題に入ります。
小泉総理が公式参拝するまでのあのどんちゃん騒ぎ。それから、総理が参拝した当日の、境内におけるデモ殴り合いなどからして、靖国問題は存在しないなどとは決して言えないでしょう。靖国はそういう性格のところかもしれません。近代国家が創った特殊な神社で、明治の初年から、国家のイデオロギ軍部帝国主義と密接に結びつく神社なので、論争を呼んでもいたしかたないでしょう。
しかし、そうでない別の全く別でないにしても別の靖国神社もあります。例えば、目の前で倒れた仲間を悼む戦友の靖国。大陸から帰って来なかった夫を追悼する未亡人の靖国。それから当然でしょうが、神職たちの靖国などなどがあります。われわれは、いわゆる靖国問題を追求するあまり、この、より複雑で多面的な靖国像を見失う恐れがあるように思えます。政治問題としての靖国問題は、避けて通れないので、今日はもちろん触れますけど、主な焦点はそこではありません。
注目したいところは、今日は実は三つほどあります。第一節では、靖国の働きに目を向けたいと思います。靖国はその根本的な働きにおいては、祭祀を執り行う聖なる場であり、社会学的に言えば儀礼の場であると、私は理解しています。ですから、第一節では、靖国の祭祀儀礼を検討します。第二節では、さっき申し上げた戦友の人たち、未亡人たちの靖国観に注目したいんです。彼らの声は十分に聞こえてきませんから。それから第三節では、時間があればのことですが、あるいは質疑応答でも取り上げたいと思うんですけど、問題としての靖国について、私なりの意見を述べさせていただきます。
☆儀礼空間の構造について
それでは、早速、第一節に入らせていただきます。靖国神社は、他の多くの神社と違って、神社本庁の傘下に入ってない結果でもあろうかと思いますが、独自の祭祀の分類、儀礼の分類の仕方をします。かなり複雑なんですが、分析的に言えば、大きく四つの儀礼範はん疇ちゅうに分けて考えることができます。まず、霊れい璽じ奉安祭と言って、国のためにいのちを捧げた人たちの霊魂を英霊にする。祭神にするのがその目的である祭事があります。合ごう祀し祭と言う人もいます。
次は、慰霊祭。来週十月十八日の秋季例大祭、それから春季例大祭、さらに夏の御霊祭などもこの類のもので、規模も最も大きい重要な祭祀がこの慰霊祭です。その目的は、神学的に言えば、霊璽奉安祭で祭神になった英霊を鎮しずめることです。
三つ目は、皇室の儀礼。神社の年中行事として執り行われる年祭、新にい嘗なめ祭など。それから最後に、臨機応変の祭祀、すなわち個人からの依頼による□お祓い、結婚式などがその主なものです。
ここでは、もっぱら儀礼の一と二、つまり霊璽奉安祭と慰霊祭について、私の意見、私が気づいたことを述べさせていただきますが、これらの儀礼祭祀が執り行われる空間についても、若干触れておく必要があると思っています。
ブリーン博士の講演に耳を傾ける国宗会員諸師
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まず平面図註=会場ではOHPによる図面が表示されている□お願いします。これは、靖国神社本殿の平面図です。僕は儀礼論もやっていますので、儀礼が執り行われる、祭祀が執り行われる空間をとにかく重視して考えています。この靖国神社本殿の儀礼空間につきまして、まず気がつくことは、三つの区分に空間が分けられていること。それはつまり、ごく簡単に申し上げますと皆様宗教家ですので、釈迦に説法というような感じかもしれませんけどここには東の間といいまして、参拝者が集まる空間があります。ここは神職などのいる空間で、上段の間と言いまして、空間的に若干高くなった場所でもあります。そして、奥の方には、内陣内陣等がありまして、向かって右側にも左側にも、相あい殿どのという空間があります。
次に、側面図お願いします。今の平面図を、側面から見たところを私の妻に描いてもらったんですけど、こういうようなことになるかと思います。平面図で表わされていた三つの空間が、それぞれ高さが異なっておりまして、上下的にも非常に重要な意味合いを持っています。要するに、奥に行けば行くほど、高くなれば高くなるほど神聖なる空間になるという、どこの儀礼場でもあるような、そういうような構造の空間であることだけは最初に指摘しておきます。それから、この儀礼空間は、先ほど申し上げた霊璽奉安祭や慰霊祭などが展開される空間でもあります。
☆霊璽奉安祭
それでは早速、霊璽奉安祭について話をしたいと思います。終戦直後の一九四五年の暮れに当時は占領下なんですけど靖国神社は大規模な招しょう魂こん祭をやりました。これは、最後かもしれないという気持ちでやったらしいです。そして、この招魂祭の対象は、帰国してないから外地で戦没しただろうけれども、身元が確認できない数十万人の陸海軍人だったんです。そして、この招魂祭によって、これらの戦没した方たち、戦没したとされた方たちが、本殿のこの相あい殿どのというところに、仮に祀られることになりました。将来その身元が判り次第そして靖国神社がGHQに廃止されなければの話ですがそれぞれの霊璽が内陣に移され、それでれっきとした祭神=英霊として祀られるだろうという考え方でこの時の招魂祭をやったらしいです。
今、取り上げる霊璽奉安祭は、こういうような儀礼、つまり、身元がやっと確認された人たちの霊を相殿から内陣に移行するところに、その儀礼的な、いわば力学があります。配布資料には、霊璽奉安祭の式次第を載せましたので、ご覧ください。時は夜、所は本殿の霊璽奉安祭は、三つの段階から成ります。
まず、宮司は神楽笛を伴奏に、階段を昇っていく。そして、水漬く屍という不気味なタイトルの曲が流れる中で、宮司は内陣で構える。本殿の光が消される。そして、神職たちは霊璽つまり戦死者の名前を紙に書いたものを相殿から取り出し、宮司に渡す。すると、宮司はこれらの霊璽を内陣に運び、祭壇の上に置く。そして、退下する。宮司が階段を降りると、ブラスバンドが海の幸、靖国の歌、山の幸など、より陽気な曲を演奏する中で、神職たちは、内陣に移行された霊璽に様なものを供え、そして宮司は上段の間に移動し、玉串を供える。
私には、神学的に理解しかねるところが多くあるこの霊璽奉安祭ですが、玉串を供えるという宮司の儀礼的行為は、それまで相殿に宿っていた戦死者の霊魂が、やっと祭神になり、英霊になった瞬間だとも解釈できそうです。いずれにしても、この儀礼をもって、祭神英霊となった霊璽が、二百万人を超える英霊の共同体に初めて加わります。その結果、生きている者との関係が、いきなり、しかも抜本的に変わります。これからは、戦争で倒れたものが夫息子としても悼まれることなく、悲しまれることなく、もっぱら祭神=英霊として祀られ、拝まれ、頼まれる、ありがたき存在へと変身します。
☆秋季例大祭
次に、秋季例大祭を事例に、慰霊祭を検討してみたいです。秋季例大祭は、シンボルの上では、先に見た霊璽奉安祭と大きく相違します。例えば、時は夜ではなく朝。そして音楽は、神楽笛でなく、もっぱらブラスバンド。そして、宮司が暗い隠れた空間の内陣の扉は開くものの、中まで入らない。全体的に言えば、明るい儀礼と理解すべきでしょう。そして、この秋季例大祭もまた、分析上、三つの主な段階から成るものとして理解されやすいでしょう。
一、この神職たちは、内陣へと導く階段を昇って、神の前に様なものを供える。
二、宮司は本殿上段の間から、幣へい帛はく、祝詞のりと、そして玉串を祭神に供える。
三、天皇の名代たる勅使ちょくし、そして防衛庁、日本遺族会、英霊に応える会、神社本庁、靖国崇敬奉賛会、それぞれの代表が、必ずその順で玉串を祭神に供え、祭神を拝む。
では、この慰霊祭は何を意味するものでしょうか;神学的にいえば、これは、勅使神職その他の特権ある者による祭神の慰霊=鎮めと簡単に捉えるべきでしょう。社会学的に見てみれば、そうした慰霊=鎮めなどの儀礼的行為を通して、形成される共同体が注目されるでしょう。その共同体といいますのは、勅使に代表される天皇をてっぺんに、儀礼の専門家たる神職を補佐に、そして、防衛庁に代表される軍部、日本遺族会、英霊に応える会などをその中心とするものであります。この共同体は、特権的、階層的、そして理想的なものとなります。こういう社会学的な解釈は、十分に成り立つと思われます。
しかし、宮司は、儀礼の第二段階で重要な祝詞のりとを唱えますが、この祝詞を素材に秋季例大祭が展開する慰霊祭の意味をもう少し考察してみたいと思います。肝心なところ肝心なところと言っていいかどうか判りませんが、私が肝心だろうと思ったところを、配布資料に載せましたが、これについて、いちいち今は読んでゆきませんが、指摘したいことが二つほどあります。
ひとつは、祝詞から浮かび上がってくる生者と死者、つまり、生きてる者と死んでる者との関係です。死者は、祭神=英霊になったからと言って、永遠に慰められたわけではありません。むしろ、天皇をはじめとする生者による永遠なる拝礼鎮めを中心とする祭によってのみ、平安を獲得する。そして、天皇を含む生者も、このような永遠に続く祭を行うことによってのみ、平安を得ることができる。つまり、秋季例大祭のような慰霊祭から判断すれば、先に見た生者の共同体と死者の共同体とが常に依存し合う、助けたり助けられたりするような、いわば緊張に満ちた関係として映ってきます。ここでは取り上げる余裕がありませんが、こうした関係には、重要な経済的な側面も当然潜んでいます。
☆天皇はご祭神より上
そして、この祝詞(のりと)でもうひとつ指摘したい特徴は、ここから読み取れる天皇と英霊の位置付けです。まず、祝詞の書き出しのところは、これは配布資料の一番最初に載せたところなんですが、およそ、こういう意味でしょう。「まことに畏れ多い天皇陛下の大御心によりまして、立派なお供え物を賜わりましたことを、私ども英霊は、大変喜び、忝(かたじけな)いことだと思っております」。そういう意味で取れると思うのですが......。ここでは、言葉の上でも発想の上でも、一種のランク付けがなされ、「すめらみことなる」天皇は、明らかに英霊より上位にランクされていることに気がつきます。
祝詞の三つ目に載せた部分ですが、これは宮司が英霊に向かって、「天皇陛下のしろしめすこの国とその国柄が、永遠に威厳をもって続きますように、今も将来も守って下さい」という趣旨のものですが、これは要するに、早い話、英霊の任務は、あの世から天皇あるいは天皇の治めるこの国に仕えることにあることが判ります。
このように見ていくと、私が先ほど試みた秋季例大祭の社会学的解釈に、多少の修正を施さなくてはならなくなるでしょう。つまり、遺族・戦友などが心から望んでいるような「死者を拝む天皇」の姿が、祝詞を読んでいく限りは遠くなっていきます。むしろ、生者も死者もひとつの共同体を成して、天皇を拝んでいる。そういう儀礼的解釈のほうが正当となりましょう。
実は、靖国で神職をしている友人がいますが、その方からは、「(一般的に)『天皇あるいは天皇の名代たる勅使が、戦没者の御霊を拝む。奉る』という言い方をする人もいますが、私はそうした言い方に対して大変な抵抗を感じます」と言われたことがあるのですが、こういう発言は、上に見てきた文脈では理解できるでしょう。矛盾が多く存在する慰霊祭の解釈ですが、ここでは簡単に、天皇がてっぺんに現われてくるこの慰霊祭における天皇と英霊との関係、靖国と天皇との関係について、ちょっと簡単に触れたいと思います。
靖国に奉られている200万人以上の人たちは、一応ですよ......、「天皇のためにいのちを捧げた」ことが、その特別な関係の最も基本的な前提となるでしょう。ですから、昭和天皇ご自身が、靖国に対して、特に親近感を覚えておられたことはよく知られています。事実、戦後8度も昭和天皇が靖国神社にお参りされました。そういう訳で、靖国の特別な位置付けは、「勅斎社」という言葉にも表現されます。つまり、靖国は天皇の名代としての勅使が派遣される数少ない神社のひとつです。それから、例えば、靖国の神門・拝殿の幕・本殿の提灯などに菊花紋が打ち出してあるのもご周知の通りです。それから、天皇と神社との経済的な結びつきも当然あります。例えば、本殿の後ろに位置してます霊璽奉安(れいじほうあん)殿という立派な建物は、昭和天皇の小遣い(註=内廷費)で戦後建てたと言われています。
ここで、霊璽奉安祭と秋季例大祭にちょっと話を戻しますが、それらの神学的意義について、靖国の神職の友人に何度か尋ねたことがあります。これはキリスト教圏で生まれ育った私ですから、こういう疑問が湧くこと自体仕方ないんですが、「霊璽奉安祭の場合は、相殿(あいどの)にずっと宿っていた御霊と、内々殿に移行したその御霊とどう違うのか?」とか、「英霊が存在するあの世とこの世とがどう結びつくのか?」とか、それから、「靖国の祭神と古事記・日本書紀に出てくる神々との関係はどうか?」とか、そのようなことについて尋ねたことがありますけど、私の友人の神職は、必ず「自分が不勉強でちょっと解りません」などと答えてくれるんです。その神職の方は、解らないのではなくて、これらのような神学的な勉強する必要を感じないようです。これは当然かもしれませんけど、結論的に言えば、靖国はあんまり神学と関係のないところだということが判りました。神学よりは、宗教的行為たる儀礼の場であると理解した方が正当な見方で、そして、その儀礼の働きのひとつは、上に見てきた通り、天皇を中心とする理想的な生者と死者の共同体を形成することにあると私は考えています。
☆戦友・未亡人たちの靖国
次に観点を変えて、霊璽奉安祭や秋季例大祭などに集う戦友・未亡人たちに目を向けたいと思います。彼らの靖国観は、これまでこの国で行われてきた靖国をめぐる議論では、不思議なぐらい無視されてきたように思います。では、戦友・未亡人たちは、靖国をどう見ているのでしょうか? 去年(2000年)の秋から暮れにかけて私が行なった調査・面談などが、この辺のお話の素材になります。この辺の本題に入る前に、ちょっと二、三お断りしたいことがあります。
第一に、靖国に定期的に参拝する方たちを対象とすること。戦友でも遺族でも、靖国を敬遠して、警戒している方たちが多いことを私はよく知ってます。これらの集団の存在はとても重要なんで、その働き、その動きなどについては別の機会に話をしたいと思います。
それから、第二のお断り。私の調査は、今回の小泉総理の参拝(2001年8月13日)以前に行ったものであること。しかし、戦友・遺族・未亡人たちは、総理大臣が戦没者を公式に追悼することを強く望んでいたので、おそらく一人も今回の小泉総理の参拝に反対した者はいなかったでしょう。私が調査を行なった当時は総理が公式に参拝すべきかどうかの問題の他に、当時官房長官だった野中広務氏の提案した『靖国国家護持案』が、その戦友たちの注目を惹(ひ)いていました。
事実、その「野中改革案」なるものがたびたび面談にも出てきたので、ちょっと簡単にそれを説明します。野中案――今年(2001年)また、(小泉)総理大臣の公式参拝に抗議して復活したこの案ですが――それは、かいつまんで言えば、@靖国神社から一切の宗教色を取り払う。それから、AA級戦犯を分祀する。そして、B靖国の神職たちがそれに応じてくれなければ、別の国立の慰霊施設を造る、という抜本的な案であります。目的は当然、「総理大臣が憲法に抵触しない形で、戦没者を追悼できるようにすること」だったでしょう。
◆待ち合わせの場としての靖国
では、戦友の声に耳を貸しましょう。1945年8月、Kさんが中国大陸で中隊長をしていた部隊は、中国中部で弔(とむらい)合戦を展開していた。するとある日、アメリカ空軍のP51という精鋭戦闘機から集中爆撃を受けた。終戦から12日前、つまり8月3日の日のことだった。P51が落とした爆弾は、途中、小玉に分かれてしまう新型のもので、これをKさんの部隊がまともに被(かぶ)り、20人近くがそこで即死しました。その攻撃のわずか12日後に終戦となったので、Kさんは武器を捨てて中国側に渡しました。Kさんは靖国についてこう語る。「私の心の依りどころは、やはり靖国神社でありまして、あそこへ行けば、亡くなった部下の者と会えるというので、毎年8月3日は私の一番大事な日でありまして、お参りをしております。靖国は故郷(ふるさと)のような、郷愁のようなね、そういう思いなんですよ」と締め括くくりました。
Tさん自身は戦時中内地にいたが、同期生の多くが満州に駐屯していた。戦争が終わると、300人ほどの者がソ連に連行され、捕虜となった。その300人の内、100人も亡くなって、日本に戻ってくることがなかった。Tさんは言う。「ですから、お参りすると、その連中にしょっちゅうわれわれの今の状況を報告し、とにかく『いい日本にしてやるよ』と話してやるわけです。ですから、私のような軍人にとっては、靖国神社っていうのは観念的な存在でありますねぇ。そういう意味では」。
Nさんの連隊任務は、アメリカ軍が本土に上陸した時に迎え撃つことであった。そのため、房総半島に約1年いた。ちょうどその時分に、東京大空襲があって、そしてその翌日、Nさんは東京都内を歩いた。その時の光景を「一生忘れない」と言うNさんだが、「靖国神社はそういうようなことから、私の心の支えである。若くして、本当に国のために亡くなった方々が祀られているわけですからねぇ」。
Sさんは、「あんまり靖国神社にこだわらない」と言いながらも、毎月1回の月例参拝は、海軍の友人と必ず行く。「友人はたくさん靖国で祀られているんですから、お参りすると、必ず平和のために祈る。平和な日本を築き上げますよ。そういう感覚でね、われわれ生き残った連中も今後、そういう形で参拝をする」。
つまり、これらの人々にとって、靖国神社は非常に貴重な存在であることをまず確認します。そして、「待ち合わせの場」であること。戦友との待ち合わせもあれば、亡くなった仲間との待ち合わせもあります。多くの戦友は、参拝すると仲間が目の前に現れる。戦没する前の姿がありのままに見える。そういう経験をすると語ってくれます。
もうひとつ付け加えておきますけど、靖国はこれらの人たちにとっては、平和のところでもあることを指摘しておく必要がある思います。靖国神社の境内には、ご存知のように、軍国主義の時代の面影をそのまま留めた多くの兵器などが配置されています(遊就館)が、戦友の方たちにとっては、それにも関わらず、靖国は、「靖国=平和」だと言うんで、平和を祈るところ、死者に平和をもたらすところ、自分の気持ちが平和になるところのようです。
靖国の向かいに千鳥ヶ淵の無名戦士の墓地が、ご存知のようにありますけど、そこは「靖国問題の解決を提供する」とよく言われています。いわゆる「戦犯」は祀られていない。宗教施設でもない。そして、総理の参拝も天皇の参拝も、なんの憲法問題もなく行われる。そういう理論はよく耳にします。しかし、私が面談をした戦友の人たちに限定してみれば、千鳥ヶ淵はなんの解決にもならない。彼らの精神的・感情的なニーズには、千鳥ヶ淵はとうてい応えてくれるはずもないことは明らかです。
◆「改革案」への戦友たちの反応
それでは、これだけ靖国神社に対して親近感を持つ戦友たちが、靖国問題そのものに、そして問題の解決として提起された抜本的な改革案について、どう考えているんでしょうか?彼らは、当然反対すると思われますが、面白いことには、意見がかなり鋭く分かれています。「憲法問題がどうであろうと、支那(しな)が……」――中国と言わないで支那って言うんですけど――「支那がいくら抗議してこようと、総理は堂々と(靖国神社に)公式参拝すべきだ」と・・・・・・、「改革案には一切取り合うべきではない」そういう人も当然います。
しかし、皆がそうだったわけでもありません。陸軍将校だったKさんは、「別の施設を造るなり、千鳥ヶ淵を国家のものにするなりしても、無意味だ」と言いますが、「A級戦犯は分祀するしかない」との立場です。それは、「決して東京(註=極東軍事)裁判の判決を認めるからではないが、戦争指導者だった方々と、戦争で亡くなった方たちの扱いが違ってしかるべき」と述べました。しかし、Mさんは「いわゆるA級戦犯も国のためにいのちを捧げたんだから、祀られるべきである、差別してはいけない。支那の言いなりになって、A級戦犯を分祀すれば、そのうち『B級もC級も分祀せよ』と必ず言ってくるから、一歩も譲るべきではない」と反対の意見でした。
しかし、MさんもAさんも、靖国の宗教性に対して、案外、大いなる疑問を表現しました。戦後、外交官としてソ連に長く滞在したAさんですが、彼の発言は――配布資料に出しましたので、ちょっと簡単に読んでいきますと――「日本だけが靖国神社という非常に特殊な形になっておりますね。国家で英霊を祀ろうとしない。外国からの国賓が来ても日本政府自体でご案内できない。それはなぜかというと、日本の神道形式で――彼は『しんとう』じゃなくて、『しんどう』と言ってるんですけど――靖国神社が行われているからですね。神道ね。旧軍人の間では、『神道は宗教ではない』と・・・・・・。教義はありませんしね。(神道は)単なる儀式であって、日本の習慣であるという具合に皆が思っておられるんですが。靖国という宗教法人は、宗教法人を止めるべきと思うんですがね。自分で『宗教法人だ』と主張してですよ、全部その宗教儀式に則(のっと)って英霊をお祀りするから、宗教を否定する人たちは来ない訳ですよ。これは、現在ある靖国のあり方に、重大なる疑問を持っているわけです。だから、私は(靖国神社は)宗教法人を止めて、天皇陛下・総理大臣が、みな無宗教でお参りできるようにされたら良いと思っているんです」と、こう言うんです。
そこで、Oさんは「自分は賛成だ」と言って、「神社という形をとる限り、国際的に非常に奇妙なことがあるんで、私は、あの場は造り替えてでも、九段の地にあの英霊を奉賛する、もっときちんとした姿のものをあそこに造るべきだ」と・・・・・・。「あそこまでは言い過ぎでしょう。この会の人間が言ったことになったら、おそらく烈火のごとく怒る先輩がおられる」と・・・・・・。(私は)「反論してください」と言いましたが、その時その場で、反対を唱えたものは一人もいませんでした。
Kさんはむしろ、「私は別に反論はないんですけどね。これもしかし、靖国神社の宮司(註=神職のこと)さん方に言ったら、びっくりされるでしょう。私はあんまり大きな声で言えないんですが、ここにひとつの神道集団というね、こういう点はやはり堂々全部さらけ出してですね、きちっとした対策を取ればですね、何か合意の道が開かれるんじゃないかと思っております。場合によっては、こういう人たちの職業問題が出てくるんじゃないですか?そういうことは、全く無視できないわけですね。どちらも成り立つ方法はないんじゃないか。私は原案を持っていないんだけれどもね」と、こう言うんです。結論的に言えば、私が面談をした、私の面談に応じてくれた多くの戦友は、靖国に大変な親近感を持ちながらも、今の靖国神社の姿に対して多少の疑問を抱いているようです。と言うよりは、A級戦犯問題であろうと、神社の宗教性であろうと、別の施設の建設にしても、かなり柔軟な姿勢を持っていると言った方が良いでしょうか。そういうことが確かなようです。
時間があまり残っていませんので、残念ながら、未亡人たちの見方はちょっと飛ばしたほうが良いと思いますので……。結論的に言えば、未亡人たちは、自分の夫が「戦没した」という知らせを陸軍省から貰うまで、あまり靖国を意識していなかった。でも、「祀られる」ということを聞いて、靖国神社のことをものすごくありがたく思っている方が非常に多いので……。でも、その野中改革案に関して言えば、彼女たちは戦友よりも柔軟な姿勢を持ち、やはり「平和を祈るのが最高の目的であって、平和を祈るところは、靖国でも区の施設でも、まぁ国が別に施設を造ってでも、できるものであるなら反対はしない」と……。多数はそういう立場であったんで。申し訳ありませんが、ちょっと時間の関係で飛ばさなけばなりません。質疑応答の時、また触れてもいいと思っています。
◆国と靖国が戦没者の所有権を争う
それでは、第三節の『問題の靖国と靖国の問題』について、気付いたことを、2、3申し上げます。まず、「国家、政府と靖国神社との関係」について簡単に触れたいと思います。ここ2、3年出まわっているあの改革案(野中案)は、抜本的なものですが、「A級戦犯の分祀」、それは神学的に可能なのでしょうか? 何を意味するものでしょうか?「神社の宗教色――これは一体何を指して言っているんでしょうか?――の剥奪」。そして、神社側の抵抗があれば「別の施設を国が造る」というような内容なんですが。まず言うべきことは、国(政府)が実際にこれ(野中案)を実行しようとすれば、それはまぎれもない宗教弾圧になると思います。とにかく、矛盾をたくさん孕(はら)む案だと結論付けなければならないと思います。
でも、ここでもうひとつ留意すべきことは、この案は、国家からの痛烈な靖国神社攻撃に等しいものである。このような案は、当然ですが、その究極的な目的は、政府と戦死者との密接な関係作りにあると思います。ですから、その案から見れば、現在の靖国は、そこへの道に立ちはだかっている(邪魔な)存在ということになります。つまり、言ってみれば、靖国と政府とが、戦死者の所有権を争っているというありさまでもあります。
靖国の宮司を始めとする神職たちは、当然このような案に対して猛烈に反対しています。私は去年(2000年)の秋季例大祭に参列しましたが、その祭事が終わってから、拝殿に集まっていた私たち参拝者の前に、湯沢宮司が現われまして、烈火のごとく怒った様子で、その改革案について、自分なりの意見を述べられました。それはまず、A級戦犯の分祀については、「それは一切できません」。それから、神社の宗教色、神道色の剥奪についても、「そういう考えはけしからん」というようなことを述べられまして、それで、靖国境内の中の施設に対しては、「政府からの口出しを一切許しません」と……。
それから、国が靖国神社でないところで、別に戦死者を弔うという案についても、「それは当然容認できない」とのことでした。「われわれ現代人の勝手で別の施設を造って、そこへ英霊をお招きし、慰霊をすれば満足するんじゃないか、というような話はおかしい」と言われる。さっきも言いましたが、靖国と国とが死者の所有権、戦没者の所有権をめぐって争うというありさまというふうに説明しましたが、いずれにしても国と靖国神社との関係は、揺れています。小泉政権の下では、問題はどう展開していくかはまだちょっと判らないのが現状です。
◆遺族会はどう思っているのか?
それからもうひとつ。靖国神社と百万世帯以上を誇る日本遺族会との関係。これもまた、そうすっきりしたものではないことは明らかです。特に、緊張感の原因のひとつは、他でもないあの改革案なんですが、日本遺族会の会長を務めていた方が、最近の毎日新聞の取材に応じ、次のような示唆に富んだ発言をしました。
「遺族会と靖国神社は、仲が良いように思われているが、そうでもない。なぜ靖国に祀っていただいているかというと、もともと国が『靖国に』と言ったからだ。(われわれにとっては)『国が祀るというところが大事なんで、国が参拝してくれない状態が続くなら、何も靖国にこだわらなくていい。宗教色を排除した国立墓地でもいいじゃないか』という議論は、遺族会の間に少なからずある」と、こう言うんです。あまり解説を必要としない明確な発言です。で、日本遺族会(の会長)にとっては、「大事なのは戦死者であって、国の追悼儀礼である。靖国神社そのものは、さほど貴重でない」という読み方、捉え方で良いでしょうか?
実は私は、その野中改革案作成に、日本遺族会のメンバーが加わっていたと、人から言われたんですが、事の真偽は存じませんが、とにかく、そこでもうひとつ言うべきことは、日本遺族会は、全ての会員が会長の意見に賛同しているわけでもなくて、実は私が日本遺族会の人たちと面談をした時に、どうも日本遺族会そのものが二つに分かれかねないような状態になる、という感じがしました。どこの組織でも、特に日本遺族会のように規模の大きい組織では、必ず亀裂・分裂が起こりますから、大したことでもないと言われれば、それまでですけど……。
しかし、今までわれわれが描いてきた靖国問題が、変貌しつつあることを意味するという結論が出ると思われます。やはり、これまでは、靖国問題あるいは靖国神社と密接に関係している組織と憲法とのぶつかり合い、あるいは信教の自由との問題、人権との問題というふうに描かれてきたんですが、そういう側面は確かに依然としてありますが、しかし私が上述したように、死者の所有権をめぐる競り合いが、何か展開されつつあるようにも見えます。その争い、競り合い、その中で、靖国神社は以前と違って、ひとつのプレーヤーにすぎなくなってきたという感じもしないではありません。これはちょっと大胆過ぎる分析かもしれませんが……。
◆軍国主義を讃美する遊就館
皆さん、靖国神社に行かれた方ならよくご存知でしょう。神社の拝殿から北の方角に境内を歩いて行くと、遊就館(ゆうしゅうかん)という戦争博物館があります。終戦後、GHQに閉鎖させられたこの遊就館は、1986年にやっと再び開館しました、すごく新しい博物館なんですが、私はよく靖国神社の展示物巡りをしたことがあります。
靖国神社の遊就館の入口から入っていくと、大ホールに出てきます。その大ホールには、艦上爆撃機「彗星」、ロケット特攻機「桜花」、人間魚雷「回天」、97式中型戦車など、実際の戦争で使われたものや、実物大の模型が展示してあるのが、ご承知の通りです。そして、大ホールの周りに、14もの展示室が配置され、それらの中に、第2次世界大戦の遺品、つまり戦没した人たちの手紙・日記・愛用の時計・ペン・血染めの軍服などが展示されています。
私は今言いましたように、何度もこの博物館の展示物巡りをしたことがありまして、その度に必ず感動させられますが、その感動という気持ちと共に、大変な違和感を禁じえません。それは、私はお国のため、天皇陛下のためにいのちを捧げるなんていうことは、悲劇以外の何ものでもないと思うのですが、ここの展示物は、これを「立派なことである」、「この上ない名誉である」と訴えているところから、そういう私の違和感が湧いてくるのだと思います。どこの国の戦争博物館でも、そういう側面(国威宣揚)があって仕方ないでしょうが、遊就館は極端だと思います。想像を絶するくらい勇敢な若い男たちが倒れたことは、それが無意味であったとか、彼らの戦死が無駄であったとか、戦争は栄光に満ちたものでなく、凄惨で野蛮極まりないものだとか、遊就館はこのような可能性さえ許せるような空間ではありません。
また、日本国民――全国民ですよ――が犠牲となった軍国主義の諸悪を反省させるような、そういうような展示物は、到底受け入れるような場所ではありません。「倒れた者は皆英霊だ。天皇陛下のために、お国のために死んだんだから。その人がどういう生き方をした人であろうと、立派に死にさえすれば良い」そういうところから、やはり私の違和感が湧いてくるのだと思います。
そこで、靖国神社の宗教色を取り払う話は、今まで説明してきましたが、それは実現不可能なもので、望ましいとも私は思いませんが、だからといって僕としては、こういう軍国主義、戦死を賞賛する軍国色や、いたるところにあるシンボルだけは、やっぱり取り払って欲しいです。でも、無理でしょう。靖国は、現在、新世紀に向けて、遊就館を大幅に増築する計画・企画をしています。
◆やはり、別の国立の施設を
最後に、靖国問題について、私なりの意見を述べさせていただくことになっていますが、第1は、申し上げたその遊就館の感想です。遊就館は、やはり、靖国神社全体を色付ける、形付けるものでありまして、靖国を考えれば、遊就館――その軍国主義の面影を留めるような兵器など――は、必ず考慮すべきだと思います。
次に、総理大臣の公式参拝ということに関して、私の勝手な意見を述べさせてもらいます。正直に言いまして、私は総理の公式参拝には反対の立場です。それは、今も申し上げましたように、靖国神社は特に軍国主義のシンボルに満ちた空間であります。で、総理個人の考えはどうであろうと、そういう軍国主義的な、そういうシンボルに満ちた空間に総理が行くと、総理の個人的な発想や考えはどうであろうと、当然、「自分がそれに賛同する」という意味になるわけなんで、ですから、特に「中国や韓国などの抗議に負ける」とかいう意味じゃなくて、小泉総理にシンボルっていう次元……、政治家ですから、もっとシンボルの次元に注意を払って欲しいという気持ちがあります。
そうすると、別の施設を造ることに関しては、僕は賛成です。私が面談をした多くの戦友の方たちも反対しなかったので、結局どちらかと言えば、誰の靖国かと言えば、誰の死者かと言えば、それはやはり戦友の靖国、戦友の死者、未亡人の死者ですから、彼らの意見を尊重しなければいけないという意味でも、やはり別の施設を建てるべきではないかと思います。
つきましては、そうしますと、靖国神社はこのままにしておいて、別の施設を国が建てて、新世紀に向けて、そうすればいいんじゃないかと思います。そして、私の友人で、さっきも何度かこっそりと引用しました靖国神社の神職の方の言葉を借りて言えば、「今、総理に来て欲しくない」と言うのです。「総理大臣が来れば、今年(2001年)8月のような光景があれば、ご祭神が到底、平安を獲得できない。だから、総理に来て欲しくない」そうです。ですから、大変勝手なんですけど、まぁ外国人の外から見た意見なんで、あまり価値のないものと言われればそれまでなんですけど、やはり解決としては、国賓でも案内できるような無宗教の施設を建てるということが、ひとつの解決策でもあるんじゃないかと思います。ご静聴ありがとうございました。
(おわり)