日韓宗教者協議会30周年記念総会 基調発題
「忘己利他」こそ宗教者の道
和宗総本山 四天王寺 第105世管長
                瀧藤尊教                        
 先程、ご司会の方からお話いただきましたように、(「宗教生態主義」という概念は)確かに、われわれ(日本の宗教者)にとりましては、今回のこの主題が、あまり馴染んでいない言葉でございます。しかし、頂戴いたしました趣旨についてのご説明を拝見いたしますと、結局は「自分のためにと同時に、他者のためにあらねばならない」という問題であります。「自己中心主義ではなくて、常に個々の集団を超越した立場において、共生の世界を建設しなければならない」といったようなように理解いたしたわけでございます。

 そういう立場から考えまして、私たちの日本仏教というもの、いわゆる淵源に遡ってみます時に、これは西暦574年から622年にわたってご生存なされた、聖徳太子によって布教されて、その精神がその後、8世紀から9世紀に渡る伝教大師(最澄)によって継承され、開花した「本覚(ほんがく)思想」への発展、あるいはその後、各宗派に発展して今日に及んでいる精神についての解説をいたしますことが、この本題に叶うことかと思う次第でございます。

 聖徳太子によって示されました思想というのは、いわゆる「一大乗(いちだいじょう)」という言葉によって表わされる思想なのです。これはある程度、超越的な世界の問題に関わりますので、その前に私自身のかつての行的体験の一部から、ご理解願うことが解りやすかろうかと思いますので、ちょっと触れさせていただきます。

 まだ私が20代の若者だった時のことです。比叡山で「回峰行」という山を巡る行に入っていたのでございます。山道、峰々を歩きまして、夜明け方に静寂な谷間に到達したのでございます。まだ夜明けの始まりという時間でございまして、辺りは静寂そのものでありました。かすかに谷川のせせらぎが聞こえてくる程度の状態でした。

 もちろん、行の初歩(の段階)ではないのでありまして、かなり日数を経まして――100日をもって満願とするのでありますが――ほとんど90日くらいに達してのできごとでありました。およそ朝の2時から4時間ほど歩きまして、早朝6時頃のことなのですが、静寂の天地に休憩のためにしばし佇んでいることが多かったのです。

 その時、私が体得した心境なのでありますが、いつしか自分の体が消滅して、天地の中に溶け込むといいますか、融一するように感じることがあったのであります。それは時間的には極めて短いものではありますけれども、「天地の中に溶け込んだ」と実感する一瞬でありました。

  その時に、私が思いついたことは、かつて読んだ道元禅師の言葉であります。「山に木や石、あるにあらず。木石、山を成す」という言葉であります。天地の中に自分が溶け込んでしまって、自分が天地そのものの中に融一しているという心境であります。そういう世界をご想像願っておきながら、これから「一大乗」のご説明をいたしたいと思います。

一大乗

 即ち、「一大乗」という聖徳太子の教えでありますが、これは人生というものは生れる、生成・発展・凋落・死滅、つまり、生まれ、成長し、干涸らびて死んでいくというのが人生の鉄則であります。これは全て現象的な、あくまで仮相を見た立場でありまして、本来、生物の持ちます生命は永遠に輪廻していると申したいのであります。

 即ち、現象界をして現象界たらしめている根源的なもの、申し変えますと、他をして他たらしめている根源的な「一」なるもの、この「一」とは「一大乗」の「一」になるのです。

  解りやすく一例を挙げさせていただきます。水と波の例であります。波は大小様々な波がありますが、消えたり生じたり、大きくなったり小さくなったり、千変万化の相を呈します。波は変化して止まないものでありますけれども、波を形成しております水そのものは常に絶えることはないのであります。即ち永遠の存在であります。

 ゲーテの『ファウスト』を引用いたしますと、「大は小に、小は大に。遠く近く、近く遠く、おのおのその相を示現する」という考えに一致するのです。また、あらゆるものが一個の全体を成している。そして、「ひとつひとつが互いに生き働いている」という全一なるものと相応じるというのです。

 この「一」なるものを言い換えれば、「法性」と言い、あるいは「仏性」と言い、太子の言葉で言いますと、「常住真実」といい、あるいは「永遠の生命」と呼び、神とも仏とも考えられるのです。即ち、宇宙という大河の輝く波が私たちのいのちであると考えられるのであります。

 人間の世界、空を飛ぶ鳥、地を駆ける獣、木も草も全ての現象界の姿は、いわゆる波を見ているようなものである。その他の世界を他たらしめている「一」なるものに目覚めよと太子は教えられたのです。さらに、この「一」について、聖徳太子は次のごとく理解すべきことを述べておられます。「夫れ至聖を論ぜば、智、真如の理に冥して永く名相の域を断つ。此れもなく、彼もなく、取もなく、捨もなし。既に太慮をもって体となし、万法を照らすを心となす」という言葉でございます。

 私たちがその根源的な大いなるいのちによって創られて現象界に現れている。各々の命には――どの波の水もH2Oであるように――共通した何かを持っているはずであります。それは、全人類が共通して持っている機能であります。胃液の消化作用、腸の吸収作用、外部よりの侵入菌による抗体の活動、リンパ液の活躍等々、世界人類共通の働きを保有しています。即ち、生理的機能において全人類は同一であると言わなければなりません。ここに、同朋思想、兄弟思想の自覚が起ってくるのであります。

 ここに自他平等の考えが固まり、利他は自利に通じるのであります。このことを現す言葉として、太子は「自度を求めず(エゴを捨てて)物を済うを先と為し(生きとし生けるもの、即ち他に尽粋すること)仏果に華流するを(それが仏の境地に入る)称して大乗となす(これを大乗という)」と示されたのであります。

 それを伝教大師は極めて簡単な言葉で示されました。「忘己利他(己れを忘れて他を利益する)」という言葉であります。これが「大乗菩薩の心である」と教えられました。私どもはこの心こそが宗教者の道であると確信しているのであります。以上です。
ありがとうございました。
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