くにのかたち研究会

                               
於 自由民主党本部

                                               2003年8月7日

司会者: 三宅善信先生は、近代宗教の名門である金光教泉尾教会の御曹司でいらっしゃって、初代の三宅歳雄先生は、世界的にも大変、有名な方です。と申しますのは、日本の宗教界の中で、最も早くから「諸宗教間対話という方法による世界平和の確立」ということに先弁を付けられた先生で、その方のお孫さんでいらっしゃいます。三宅善信先生は、金光教はおろか日本の諸宗教のみならず、世界の宗教界のことについて非常に詳しく勉強され、また、たびたび現地に出向かれ、直接各国の宗教指導者の方と交流されております。今回、先生に「『国際政治・社会における宗教の重要性』ということをぜひともお話していただきたい」ということでお願いをしましたところ、快くお引き受け下さいました。そういうことで、簡単なご紹介ではありますが、三宅善信先生、本日はよろしくお願いいたします。


講 演

『国際政治・社会における宗教の重要性』 

                                   レルネット代表 三宅善信

0. はじめに

0-1.「国」という言葉の濫用

 ただ今は、過分なご紹介を頂きましたが、政治家の世界でもそうでしょうが、だいたいえらい人の息子とか孫には、ろくな奴がいません(会場笑い)。フセイン大統領のウザイ氏、クサイ氏とかですね、なにせ髭面ですからダサい氏くらいでしょうかね(会場笑い)。そういうわけで、本日はざっくばらんに聞いていただいたら、結構です。

いきなり本題に入らせていただきます。私たちは、日頃「くに」という言葉を何気なく使っていますけれども、ここでひとつの例を挙げさせていただきます。

『日本国憲法』の草案は、まず進駐軍GHQによって英文で書かれたものを日本語に訳されたものですが、皆さまご関心のある方は既に(その英文を)読まれているかと思いますけれども、英語の原文では、厳密に定義づけられている言葉が、日本語の訳文では、かなり曖昧になっています。翻訳が下手だったのか、後でどちらにでも解釈できるように、わざと曖昧にしているのか、私は『日本国憲法』研究の専門化ではありませんので、判りませんけれども・・・・・・。

そこでは、たびたび「(中央)政府」という意味で、「国」という言葉を使ってしまっていますが、読むほうも、この両者をごっちゃにしてしまっているのですね。例えば、終戦直後の混乱期に、舞鶴沖で、朝鮮人がたくさん乗っておられた船が沈没して、多くの方々が亡くなられたいわゆる「浮島丸事件」について、「を相手どって損害賠償と謝罪を求めて提訴」という記事が5月頃に出てましたが、でも、ここでいう「国」っていうのは、これは明らかに「(日本の)行政府」という意味でありまして、「日本」の意味じゃないんですね。ところが、よく野党の議員なんかが、いろんな「事件」が起こるたびに、「は真摯に応えなければならない」と言ったりしますが、「国」と言ったら、当然、自分も含まれるじゃないですか? 国権の最高機関である国会の議員なんですから・・・・・・。しかし、この場合の「は真摯に応えろ」と言っている時の「国」というのは、要するに「(中央)政府」のことでございまして、国会議員からして「国」と「政府」を混同してしまっているのですからね。ここら辺を初めからしっかりと押えておかないと・・・・・・。

 ですから、まるまる条件抜きで「国」という時は、例えば、国権の発動である対外戦争とかの場合以外は、「国」という言葉を軽々に使ってもらっては困るんですがね。決して好ましいことではありませんが、やはり、の戦争は、にしかできませんからね。すなわち、「どこかの国に対して宣戦布告する」こういうコンテキストで使われる時の「国」が、本来の「国」の意味です。しかし、それ以外の場合には、「国」と言ったら、それはたいてい「政府」の意味であるケースがほとんどですから、厳密には、その時その時で使い分けなければならない。


0-2.「愛国心」を育てる教育?

また、最近「愛心を育てる教育云々」という話が国会でも採り上げられましたが、公明党の冬柴幹事長が、「ここで言うところの愛心のとは、統治機構のことですか? それとも別の何かのことですか?」とおっしゃったそうですね。人によっては、「そんなもの統治機構(現政権)の意味じゃないことは当たり前やないか!」と、言われるわけですが、それは間違っています。これは、私の推測ですけれども、冬柴さんがこうおっしゃった背景には、実は彼の信仰上のバックグランドが強く影響しているのではないかと思ったわけです。このことについては、後で詳しく述べさせていただきます。その前に、普通、われわれが「民主主義国家」と聞いてイメージする国は、フランスですとかアメリカですとか、ドイツや英国といったサミットで一緒にやっている国ですけれども、彼ら欧米人の場合は、愛国心ということと民主主義というのは、決して相反しない概念なんですね。

ところが、日本の場合は、戦前のことがあって、うっかりすると愛国ということが忠君とセットになってまして――「忠君愛国」と戦前、盛んに言われた関係で――なかなか素直に「愛国」ということが言いにくい状態ですね。つまり、ある意味で、「忠君(民主的でない)」ということが、愛国に繋がるという妙なナショナリズムの問題がありまして・・・・・・。これは、難しい問題ですけれども・・・・・・。ですから、そこら辺のことが影響して、レジュメにも書きましたように、世論調査で「愛国心を育てる教育」と質問したら、18%の人が反対したのに、「国を愛する気持ちを育てる教育」と質問したら、反対が12%に減った。ということになるんです。政治というのは、レトリックの世界ですから、どういう風に表現するかによって、同じ内容のことを聞いていても、有権者の答えがそれぞれ変わってくるということがございます。


くにのかたち研究会代表の額賀福志郎
自民党幹事長代理と三宅代表


1. 日本人にとって「くに」とは何か?

  それでは、本題の第一番として、つまり「日本人にとって『くに』とは何か?」というところからお話していきたいと思います。この『くにのかたち研究会』というところから私に、「話をしないか?」とお声掛けを頂きました時に、「これはいったいどういうことをする研究会なのかな?」と正直思いました。事務局の方から頂戴したメールを見ましたら、ひらがなで「くにのかたち」と書いてあるわけです。一般的には「国の形」と書くはずですからね。ということは、逆に、「ひらがなで書かなければならない何かがあったから、わざわざ、ひらがなで書いている」と思いました。司馬遼太郎さんの作品に『この国のかたち』というのがあったように思いますけれども、「くにという言葉が持ってしまっている呪縛みたいなものがあるんだな」と思って、逆に興味が沸きましたので、「自民党本部で・・・・・・」という胡散臭さに勝って(会場笑い)、お引き受けした次第であります。


1-1.「くに」の三様態:Land(土地)、Nation(国民)、State(統治機構)。
  
レジュメに、「くにの三様態」ということを書きました。まず、土地を示すLand、あるいはCountryと言ってもいいかもしれません。それから国民を示すNation。さらに、その統治機構を表すStateがありますけれども、この三つの要素が、使う人によって意図したり、されなかったりして、ある時は重なり、またある時は別々にされて使われていると思います。


1-2.古代の日本人にとっての「くに」とは何か?

そこで、まず、日本人にとっての「くに」という概念はいつ頃から形成されたのかというと、まず神話の時代から考えてみましょう。『古事記(上巻の神代記)』に伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)がを造った話、いわゆる『国産み神話』という話が出てきます。最初の夫婦神である二人は、高天原(たかまがはら)で結婚して、眼下に広がる海に天瓊矛(あめのぬぼこ)という長い棒を突っ込んで、グルグルと掻き混ぜて――これは、もちろん、セックスをしたということの象徴的な表現ですが――そこからボトボトっと落ちたしずくが固まって島(land)になったという素朴なお伽話です。ここで、できたのが、おのころ島(=淡路島)とか、沖ノ島や壱岐・対馬とかといったいわゆる「大八州(おおやしま=日本列島)」なんですが、実は、島ばかりなんですね。イザナミ・イザナギが造ったのは、世界ではなくて、ただの島々でして、人間でもなければ、ましてや統治機構なんかでもない。日本列島そのものであります。

その次に、大国主命(オオクニヌシ)がいわゆる『国曳き』をした。これもまた、「海上のあちこちに見えていた岩場や小島を怪力を出してロープで曳き寄せてきてを造った」というお伽話です。なにせ、この国の最初の統治者となった彼の名前が示すとおり大主ですからね。ですから、日本語における「くに」という言葉は、実はLandのことだったんですね。したがって、日本人が、一番素朴な状態で考えている時の「くに」というのは、Landのことでございます。『古事記』・『日本書紀に』出てくる神話や、その元になった素朴なお伽話は、もちろん大昔からあったわけですけど、それが『古事記』・『日本書紀』として編集されて本になるのは、実はずっと後の8世紀のことなんです。奈良時代のことです。当時の統治主体であった天武・持統朝の後継者たちが、自分たちを正当化するために、昔の話を都合よくとっつかまえてきて創った話です。本当は、既に立派な統治機構が成立していたんですよ。この国には・・・・・・。

  それが、レジュメのCにおいて触れられている、聖徳太子の『十七条の憲法』ということでございます。『十七条の憲法』はたしか604年に制定されていますから、『古事記』・『日本書紀』より百年も古いものですけれども、ここでは、例えば「詔(みことのり)を承りては必ず謹め」とか「群卿百寮、早く朝(まか)りて、晏(おそ)く退でよ」といった具合に統治システムとか公務員の就業規則とかが書いてあって、これは完全に統治機構としての「国」ということを意識して書かれた文章でございます。

なぜそうなったかと申しますと、実は、聖徳太子の時代というのは、それまで、中国大陸が五胡十六国に分裂してcivil war(内戦)が続き、弱小な国々がお互いに適当に足の引っ張り合いをしていたわけですけれども、ある時突然、これらを統一して隋という大帝国が出現しまして、朝鮮半島の国々および日本あたりの小さな国家にとっては、一挙にスーパーパワー(超大国)が隣にできるわけですから、これといかに対処するかが、最大の政治的な課題になります。そこで、「どこまでが日本の領域で、わが国は何を以て統治しているのか?」ということを明確に意識せざるをえなくなったからです。これが記録に残っている限り一番初めに「くにの三様態」について日本人が考えた最初の状態だと思うんです。

  それから、ちょうど200年ほどが経ちまして桓武天皇という人物が登場します。われわれは中学校で「鳴くよ(794年)うぐいす平安京」と習いましたよね。桓武天皇の歴史上の業績といったら、「奈良の都から京の都へと遷都したことだ。南都仏教が政治と強く結びつきすぎていろいろと差し障りが出てきたので、政教分離云々」というコンテキストで習うのですけれども・・・・・・。本当は、桓武天皇のした業績で一番大きかったのは、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて、蝦夷を攻撃して、これを平定し、東国経営を成功させたことですね。その時初めて現在の岩手県や青森県のある辺まで、中央政府の力の及ぶ範囲に組み込まれたわけです。もちろん、日本列島には一万年以上も前から人間(縄文人)が住んで、それなりに文化的な暮らしをしていたのですけれども、また、弥生時代から古墳時代にかけて、小さな国家連合が形成されていたのですが、いわゆる中央集権的な都の実行支配が及ぶという点では、この時を持ってはじめて達成されるようになりまして、そこからはもう、幕末に至って蝦夷地(北海道)が領土に組み込まれるまで、「日本」の広さというのは動いてないのです。

  それから、ちょうど百年が経ちまして(894年)、菅原道真の建白で遣唐使が廃止となるわけですね。それで、国風文化、すなわち、仮名文字ができたりとか、それまでは、外国から文明国に見られたいために、中国風の格好をしていたのですが、平安時代には、衣冠束帯や十二一重といったわれわれに晏馴染みの深い「お公家さん」風の装束になり、源氏物語をはじめとする文学作品が次々と作られ、つまり、現在われわれが「日本」ということを考えるときに意識するものは、たいていこの時代にできたのですけれども、実は、平安時代の約300年間くらいは、日本は鎖国状態にあったんです。つまり、外国との積極的な交渉を断っていたわけです。そして、ものすごく平和な状態(平安時代)になっていたわけです。そうすると、また、先ほど述べたLandとNationとStateの違いというのが、人々の意識から消えていって(自然に重なってしまい)、「なんとなく日本人」という状態になるのです。


1-3.中世の日本人にとっての「くに」とは何か?

  それが、次の「中世の日本人にとって・・・・・・」というところで、「天台本覚思想」と書いておりますけれども、仏教は、皆さんご承知のように、インドで成立した時は――今でもスリランカやタイに行けば、お坊さんは皆、出家して、戒律を守って、非常に厳しい修行をしておられますよね。これが「上座部仏教」と呼ばれるお釈迦様の説かれた教えや修行法に最も近い仏教ですけれども、これが中国へ伝わる段階で、「大乗仏教」という「誰でも救われる(可能性がある)」という形の宗教になるわけですね。さらに、その大乗仏教が日本まで来ますと、最終的には、親鸞聖人のように「南無阿弥陀仏と説えさえすれば、誰でも救われる」というふうに、どんどん先鋭化されていくわけです。仏教がある意味、進化していくわけですけれども、その日本仏教の思想的に行き着いたひとつの到達点は、天台本覚思想の「山川草木国土悉皆成仏」という言葉に顕著に表れます。

けれども、こうなってきますと、まさにアミニズムの世界ですね。「何ごとのおわしますかはしらねども・・・・・・」の歌を詠んだあの西行法師とか、天台座主を三度もした慈円とかが和歌で表現しようとした世界観、あるいは、『古今和歌集』の「仮名序」で紀貫之が述べていますけれども、現代人のわれわれが読んでも、心情的にもストレートで納得できる内容です。それは何かというと、和歌が詠まれる世界というものは、人間(日本人)と山川草木との一体感が表現されているということです。和歌は、弥生時代から現代にいたるまで、貴賤を問わず、詠み続けられていますからね。こんな文学、他の国にはありませんよ。すると、この日本人の世界観の根本は、古代の神話の世界で、神々が造ったLandとある意味で合致してくるのであります。

★『古今和歌集』仮名序: やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり。    紀貫之


研究会の様子

   ところが、中世になりますと、日蓮聖人の『立正安国論』というのが出てまいります。これは何について書かれたものかと言いますと、日本に初めて夷敵(蒙古)が本格的に攻めてきたんですね。いわゆる「元寇」です。しかも、国の中でも、そのちょっと前までは、京都の朝廷だけが、国(統治機構)の中心だったんですけれども、鎌倉に武家政権(幕府)ができて、日本国内も政治的中心点が二つ存在して、それぞれの正統性が問われていた訳ですね。そこへ、突然、聞いたこともない「蒙古」という国が「降伏するか、戦って滅ぼされるか」というような失礼な「国書」を既に属国になっていた高麗の使者に携えさせて、攻めてきたのです。思いもかけないできごとに右往左往している間に、対馬が占領され、大勢の日本人が殺されてしまう。そうなると、「どこまでが軍事的に防衛しなければならない日本の限界点なのか?」ということを、必然的に問わざるを得ない状況(註:幕府は、離島である対馬を見捨てて、防御戦を博多湾で上陸阻止という水際作戦を採った)が生じてきました。

ここで、興味深いことは、レジュメに書きましたように、『立正安国論』で日蓮聖人は、実は「くに」という言葉を71回使っていらしゃるのですが、奇妙なことに、原文の写真版を見ますと、3種類の「くに」という漢字を使い分けているんですね。まず、クニガマエに「或」と書く、旧字体の國という字を使っている時は、意味としてはLandなんですね。「ここは日本の國(土地)で」というLandの意味で使っています。それから、クニガマエに「玉」これは今、われわれが普通に「国」と書くときに使っている漢字です。けれども、中国では、今でも「國」を使っていますね。日本の場合は「国」ですね。この漢字は、クニガマエの中に玉(王様)が治まっているのですから、もちろん、統治機構のことです。

  では、日本を防衛する主体は何なのか? 具体的な軍事力の行使だけでなく、蒙古から来た「国書」への返書は誰が書くのか? という問題も含めて、日本の代表者は京都の朝廷なのか、それとも、鎌倉の幕府なのか? という問題が当然あります。日蓮聖人は、幕府の最高実力者であった執権北条時頼に建白書(立正安国論)を出すわけですから、この時、日蓮は、幕府に「主」を置いていたものと思われます(註:日蓮は北条説時頼の政策を批判して「国主諫暁」と言っている)。

  それから、実はパソコンでは字が出てこなかったんですけれど、クニガマエに国民の「民」という字を書いて、「くに」と読ませている。しかも、『立正安国論』では、この漢字が一番多くて52回も使われています。この字が意味するものは、明らかにPeople、(人民)すなわちNation(国民)のことで、このことから、日蓮聖人の関心があったのは、実は、日本の人々だったんだということがよく判ります。日蓮聖人のご真筆といわれる中央に「南無妙法蓮華経」と髭みたいなピンピンと跳ねた文字で書かれた曼荼羅には、よく見ると、その「題目」の周りに、八幡大菩薩とか天照大神とか日本の神々もインドの諸天諸菩薩と共に登場するんです。このように、法華経は、豊かな日本のアミニズム世界にもマッチした教えですが、日蓮聖人を宗祖と仰ぐどこかの宗教団体は「神さんなんか拝んだらあかん」と言って(会場笑い)、また実際に、それぞれの家庭に以前からある神棚や別の宗旨の仏壇を廃墟させようとするそうですが、これは明らかに日蓮聖人の曼荼羅の世界と矛盾していると思います。

本来は、グローバルスタンダードを有する「世界宗教」としての仏教のはずなんですけれど、日本では、実は非常にローカルな、民俗意識と習合(シンクレサイズ)して行ったのです。ですから、逆に、明治期の非常にナショナリズムが盛んになった時代には日蓮思想というのは非常に活きてくる(註:近代以後に盛んになった仏教諸国は、ほとんど法華(日蓮)系の在家教団ばかりです)わけです)けれども・・・・・・。ですから、日蓮は、そもそもそういう国家観を持っておったんじゃないか。つまり、日蓮聖人の時代には、京都と鎌倉に政権が二つできて、しかも蒙古という外国が攻めてくるという、まさに内憂外患の状態に陥り、それまで一体化していた「くに」の三様態がバラバラになってしまったので、かえってそれを意識して、これを統合しようと試みたんじゃなんかというのが私の理解です。


1-4.近世の日本人にとっての「くに」とは何か?

  次に、室町時代から戦国時代を経て安土桃山時代へと話を進めて行きます。この時代はまた、日本が世界に向けて国を開いていて、日宋貿易とか日明貿易が盛んに行われ、あるいはその後には、「西洋」という全く異質な外国と出遭うわけですからね。もの凄い技術力、軍事力を持った集団(西洋人)が、鉄砲を持って日本へやって来るわけですね。しかも、彼らの行動というのは、単なる軍事的なパワーだけでなくて、それが明確なポリティカルな意図(植民地化政策)を持って宗教(イエズス会等)まで総動員して、極東の地へやって来るわけです。日本の為政者たちはビックリしたことでしょうね。そういうことに刺激されて、それまでの戦国大名とは異なるビジョンを持った信長・秀吉・家康という新時代のリーダーが次々と出現して「天下統一(国民国家の形成)」になるわけですけれども・・・・・・。それでは、天下統一が成ったら何をしたかというと、その国力を外部へ向けるのではなくやっぱり鎖国をするわけです。そうすると、国内の戦争がなくなってしまって、国内的にはとても平和な時代が250年間も続いて、江戸時代の庶民文化――先ほどの平安時代の文化が貴族文化だとすると、今度は庶民文化――というものが爛熟していくわけであります。ただし、人々の間では、再々申し上げているように、このことによって「くに」について三つの様態が、まったく、重なってしまい、見えなくなって、意識されなくなってくる。


1-5.近代の日本人にとっての「くに」とは何か?

  これ(三様態)がまた見えてくるようになるのは、幕末に、プチャーチンとかペリーとかがやって来て――今年はペリーが浦賀に来て150年になるそうですけれども――そうなってくると、またぞろ、水戸学派をはじめとするイデオロギーの輩が出てくるわけで、現体制における彼らの不満(政治的な冷遇)を解消するはけ口として、「尊皇攘夷」とかいう政治的なスローガンが出てくるわけです。そして、欧米列強の外圧によって、日本が「開国」されて、そのことに乗じて日本国内が混乱して、幕末維新期のcivil war (内戦)が起こるようになります。よく、明治維新は「無血革命だ」と言われていますが、本当は結構、人が死んでいるのですよね。ただ、内戦状態が短かかっただけですけれども・・・・・・。そして、欧米列強による侵略に対抗するため、いわゆるヨーロッパ式の近代国民国家というものを作らざるを得ない状況となって、つまり明治の大日本帝国が創られるわけです。

  ただし、ここで書きましたように、「民族」という概念は胡散臭いものであります。例えば「ドイツ民族」とか「漢民族」とか言っても、確かに、典型的なドイツ人というのもいるけど、同時に、そうでないドイツ人も大勢います。なにせヨーロッパは地続きですから、あちこちの人と混血しているという人もいるわけですから、なかなか100%という人もいないでしょう。

そこで、そもそも「民族というのは何だろう?」という問いを発することができます。結論から申しますと、「民族」という概念は、近代国民国家が創り出したある意味の「共同幻想」であって、近代国民国家が、地球上のある地域でその領地を分捕っていることを自己正当化するために「はるか昔からわが○○民族はこの地におった」ということにするだけのフィクションなんですね。ここで、面白い例を挙げますと、日本が明治維新を経て近代国民国家を樹立した時に、急に「万世一系の天皇」ということを言い出すわけですね。確かに、日本の国は、その歴史を遡っていきましたら、聖徳太子のちょっと前くらいまでは、誰が見ても間違いなく(連続性を持った民族として)遡れますけれども、それより前には、なかなか文化的な連続性を持った民族としては考えられません。

もちろん、人間そのものは、一万年前から縄文人がいました。しかし、彼らと今いる日本人が直接繋がっているかどうかはなかなか分かりにくい部分があるんですけれども、明治国家を創った人たちは考えたんでしょうね。中国は孔子孟子でも明らかに2500年くらい前の人、インドのお釈迦様も2500年くらい前までは遡れますからね。日本も最低、それくらい昔から「ちゃんとした国だった」ことにしなければならない。そやないと、「万世一系の天皇を戴く世界に冠たる大日本帝国と言えない」ということで、自分たちのよく知っている実際の歴史に1000年くらい下駄を履かせて、『古事記』のお伽話やらを持ってきて、紀元2600年(昭和15年が、神武天皇が即位して2600年目に当たる)という話をデッチ上げたんですね。

  そうしますと、プライドだけは高いくせに、いつも、身内同士で足の引っ張り合いをするから近代化が遅れて、日本に植民地化されてしまった(当時の)朝鮮人たちが悔しいですから、「わが朝鮮民族は日本の倍の半万年(5000年)や!」(会場笑い)ということにすることにしたんです。現在「朝鮮民族の祖」ということになっている『壇君神話』ってそれしか根拠のないお伽話なんです。なにせ、人になりたかった虎と熊が賭をして、我慢できずに洞窟から逃げ出した虎は人間になれず、ニンニクだけ食べて我慢した熊は人間の女になれ、その熊女と天帝の息子恒雄との間の子が建国の祖壇君という『壇君神話』に出てくる登場人物や地名とかをいろいろ見ましたら、たいていは、満州の吉林省とか遼寧省とか、延辺朝鮮族自治区とかいった、要するに、現在の中華人民共和国の東北地方あたりの地名ばかりなんです。「どこが朝鮮や?」と思うんですけれども・・・・・・(会場笑い)。

実は、大昔、中国の王朝が殷(商)から周に変った時に――ちょうど3000年くらい前のことですけれども――「酒池肉林」という言葉までできた暴君の代名詞殷の紂王が、周の武王に討たれたことは、「易姓革命」の原型としてどなたもご存じの話ですが、実際には、敗れた殷王朝は消滅したのではなく、主格転倒して周の諸侯のひとりとして渤海地方に封じられ、その一党がさらに東方へ移動して、朝鮮半島最初の王朝がある箕氏朝鮮王朝を開いたと言われます。いずれにしても、そういう『壇君神話』のようなお伽話を、現在の朝鮮民族が朝鮮半島にいることの正当化のために利用されたんですね。今でも北の将軍様は、一生懸命、神話作りをなさっておられますね(会場笑い)。壇君由来の朝鮮民族の聖地ペクト(白頭)山で生まれたことにして・・・・・・。人間というのは、いつの時代もだいたい同じようなことをするわけでございます。

  それで、東アジアでは、日本人が最も早く近代化に成功しましたので、大日本帝国は、そういうことで、欧米列強がそうしたように、朝鮮半島とか台湾をJapanの一部に組み込んでしまうわけですよね。そうすると、「日本語をしゃべれない日本人」というのができてくるわけですね。もちろん、宗教も生活様式も全然違う。そうなってくると、先ほど申し上げたLand、Nation、Stateの三要素がバラバラの状態になってしまう。そこで、むりやり「帝国の統合原理」を創らないといけないということになるわけです。そして、その「統合原理」として、現人神としての天皇を戴くいわゆる「国家神道」という人為的な疑似宗教を創作するわけです。こんなもの(国家神道)昔からあった神社とは何の関係もない。役人が考えた代物です。確かに、儀式の様式や神官の装束などは神社とそっくりですけど、国家神道と昔からあった神社神道とは全く異質なものです。明治時代に、こういうことが行われたのです。現代の日本人でも、この違いが分からなくて、中国や韓国から文句を言われた時に、十分、正しい説明ができていない人がほとんどです。

                                                  (つづく)


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