三宅代表がゴルバチョフ元ソ連大統領と再会

05年11月12日

 11月12日、東京国際フォーラムで開催された五井平和財団主催の『国際フォーラム2005「新しい文明を築く」』に出席した三宅善信レルネット代表は、同フォーラムの基調講演者を務めたミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領と18年ぶりに再会した。


ゴルバチョフ元大統領と三宅善信代表

  大学院の学位論文でロシア正教の儀礼について研究したこともある三宅代表は、1980年代後半に立て続けにソ連(モスクワやレニングラード)を訪れた経験を持つが、中でも、1987年2月にクレムリンで開催されたゴルバチョフ書記長(当時は、ソビエト共産党書記長)主催のグローバルフォーラム『人類の生存と核兵器のない世界のために』に、三宅代表の祖父故三宅歳雄師が出席した際に、その随行者として参加した。同フォーラムには、三菱商事の三村庸平会長(当時)や物理学者の伏見康次博士や国連大学副学長(当時)の武者小路公秀氏やバレリーナの森下洋子氏やオノ・ヨーコ氏らと共に日本を代表する文化人として招待され、中でも、三宅歳雄師は、WCRP(世界宗教者平和会議)の国際委員長として、宗教者会議分門の中心的存在として、ソ連側からの「一方的核実験停止(モラトリアム)宣言」の発動に大きな影響を与えた。

  また、クレムリンで開催されたフォーラム期間中、ゴルバチョフ書記長が進めつつあった社会改革「ペレストロイカ」や、情報の解放政策である「グラスノスチ」によって、ブレジネフ政権時代「反体制物理学者」の烙印を押され、長年にわたって「流罪」となっていたノーベル賞物理学者のアンドレ・サハロフ博士が、はじめて外国人と自由に話すことができたが、その際の「外国人第一号」が、紛れもない三宅善信代表であった(当時の『アサヒ・ジャーナル』に写真入りの記事あり)ことは、意外と知られていない。

  三宅代表は、同年に2度ソ連を訪れ、翌1988年には、『ロシア正教宣教ミレニアム(千年祭)』にも招待されたが、その際に知己を得たアレクセイ神父(当時のレニングラード神学校長)が、同じくレニングラード(現サンクトペテルブルグ)出身の青年政治家で急激に力を付けたウラジーミル・プーチン氏(現ロシア連邦大統領)が権力の座に駆け上がるのと軌を一にして、アレクセイ二世として、ロシア正教会の首座である総主教(カトリックのローマ教皇に相当)の位に昇ったこともある。

  また、クーデターで幽閉されていたゴルバチョフソ連大統領の居所を世界一早く突き止めたことによって、その名を内外に知らしめた外務省の「奇才」佐藤優氏(元外務省主任分析官)が活躍した1991年夏の政変の際にも、三宅代表はイルクーツクなどのシベリア地方でフィールドワークをしていたほど、ゴルバチョフ元大統領とは因縁浅からぬものがあるが、高円宮妃殿下や小坂憲次文部科学大臣らも列席した今回の東京でのフォーラム終了後のレセプションの際に、ゴルバチョフ元大統領と再会を果たした三宅善信代表は、そのことを話すと、ゴルバチョフ氏も懐かしそうに応答していた。


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