★2000年上期 掲示板掲載分
■神になろうとした信長の天下が続いていたら
そうなんですよね、日本という国では天皇はあくまでも神として神棚に座っていてもらって、それを実際の権力者が都合の好いように利用してきたのですからね。 唯一信長のみが『天皇』というもの抹殺して自分自身が神でありかつ絶対の権力者として君臨する可能性があったのですが。 天皇制に反対しているわけではありませんが、そう思うと信長が本能寺で討たれたことが残念ですね。 それでは、これからもますます健筆に磨きをかけてばっさばっさと世相を斬っていってください。 |
|
■西洋哲学に依拠する「お寒い」日本の伝統主義
三宅主幹の「神道政治連盟」の活動についての叙述のうち、一部(「政教関係訴訟の勝敗」について)正確さを欠いているものがありますので、指摘いたします。 津市地鎮祭訴訟を始め政教関係の訴訟のほとんどは、最高裁で神社関係の主張が勝っています。しばらく時間をおいて出された愛媛県の玉串料訴訟は敗訴しました。なお、神政連や日本会議は義務教育の教科書について、国定ではなく自由選択制を主張しています。彼らの作製した教科書を現実に使用してもらうための選択であると思います。 ちなみに彼らの主張する歴史論を代弁する、現在書店で良く売れているドイツ文学者西尾幹二(新しい歴史教科書を作る会代表)の書いた「国民の歴史」を一読されることを勧めます。西尾氏はいわば哲人(超人)になりきれないニイチェ主義者であり、歴史を相対主義と虚無主義から解釈しています。 ついでにいえば、昭和十年代、僅かの間、東大に国体学の講座が開設されましたが、その主任教授平泉澄(きよし)は、リッケルトの歴史学を持ち込み、此に立脚して国体を至高のものとする歴史学を作りました(と私は考えています。)。 リッケルトは、ドイツ歴史学の主観主義者です。西尾氏とまさしく同根の哲学を持っています。しかし、19世紀のドイツ観念論に依拠しなければならないとは、日本の伝統主義も寂しい限りです。 |
■「祭祀法人」とは何か
以前掲示板に頂戴した佐藤様のご質問にお答えします。 1、明治以降昭和20年の敗戦に至るまで神社において禁止された宗教的な行為とは、まじない・布教のための説法・占い・葬式・祈祷等です。ただし官国幣社と呼ばれた大きな神社ではこれらは忠実に守られましたが、それ以外の小さな神社の神職に対しては葬式は許されていました。また、彼らは時に祈祷を行うこともあったと思います。現在の神社界で説法・呪い・占い等が行われないのは明治以降の歴史の結果でしょう。 2、「祭祀」は、おっしゃるとおり宗教行為のひとつです。しかし、政治の場面でそれが「宗教」とみなされるかどうかは別の問題です。 3、明治以前の神道や神社の在り方については、私は肯定的に評価します。あなたの予想されるとおりそれは良きにつけ悪しきにつけヴァラエティーに富んだものでした。 4、天理教や金光教については、私は啓示宗教であることは認めますが、キリスト教的な一神教であるとは考えていません。また、金光教や天理教について御指摘の内容は必ずしも正確では無いと思われます。当該宗教の関係者にお尋ねください。なお、神社から離れて教派神道になっていった典型に出雲大社教があります。 5、キリスト教の暴虐は長崎で起っています。 6、神道が「祭祀法人」となって「宗教法人」以上に特別な権利を持つという事になれば多くの宗教団体は反対にまわるでしょう。しかし例えば、「祭祀法人」となって、布教行為や祈祷行為をなさず、税制の優遇を「宗教法人」並に受けるだけであるならば賛成するかもしれません。更に言えば、神社を「祭祀法人」とすることによって、政府が国民に神社祭祀への参加を強制したり、大きな特典を神社に与えようとするならば、これに反対するでしょう。すなわち法律の内実が問題なのであり、「祭祀法人」のアイデア自体が問題にされるわけではないでしょう。 また、広義の「宗教」を政教分離の対象とすることは不可能です。さらに、「政教分離」とは、現在の妥当な解釈によれば「CHURCH」と 「STATE」の分離、すなわち教会と政府の分離であって、宗教と政治の分離ではありません。 |
■塩谷弁護士の発言への感想
神社界で法律家を兼ねている神職は全国的にも稀でしょう。そして現在の法曹教育はアメリカ的な個人主義を基礎においたものとなっていませんか。そうであれば、あなたが神社界から嫌われるのは当然です。大雑把に言えば、神社界は近代化になじめない(と信じ込んでいる)伝統主義の全体主義者の集まりですから。そういった人々が最も憎むのはもう片方の全体主義即ち左翼です。ですからあなたは「左翼」と言われるのです。まあ昔、理解できない異質な人を「非国民」と称して差別した時代がありましたが、神社界にとっての「左翼」は、同じような意味合いでしょう。 しかし悲観することはありません。現代の日本では、全体主義者は少数派なのです。いずれ神社界は社会で孤立するか自らの信条を変えて社会に適応するかの二者択一を迫られる時がきます。最終的には変化すると考えていますが、その変化は急激に起きるかもしれませんし、ゆっくりと世間が気がつかないうちに変わるかもしれません。そういった変化の担い手になり、指導者となるのはあなたのような既に社会の進む方向を見極めている神職です。ですから「雄弁は金」、けなされても叩かれてもへこたれずに、自らの思うべき処を主張してください。 私も二十五年程前に神社本庁である研究発表を致した折りに「天皇は日本の文化的伝統として大切にすることは必要であるが、その政治的な権力を復活させようとすることは止めた方が良い」と発言した途端に会場が私への非難の嵐となり、それ以来、「神職らしからぬ神職」として勇名を馳せております。 ある特定の社会に生きるときに、その社会の既存のルールに従って無難に生きるか、あるいは自己の信念に基いて既存のルールを変えていこうとして生きるかの選択は、一つはその人間の生に対する情熱の程度、二つはより大きな枠組みの社会の現状ベストと考えられるルールに照らしてその社会のルールが正しいかどうかということによって決定されます。現代はすべての既存の価値観が、地球化の時代にあって、自身の内実を検証し、変化することを余儀なくされている時代です。宗教も例外ではありません。あなたの活躍を期待します。 |
■信仰を中心にしていない宗教法人法に一因が
確かに貴殿のおっしゃるとおり宗教法人にも「営利事業」としか思えないことを行っているものがいることは確かです。 今世論は、宗教法人のあり方に大きな疑問を投げかけております。 日本における寺院とは、他国における信仰形態とは異なったところより発生しているように思えます。神国日本に仏教が伝来されたときより、仏教はある一部の者のために(朝廷など)受け入れられ概ね「官」にとってもてはやされたものでした。鎌倉期以降に至っては民衆を中心として広がりを見せて参りましたが、やはり時の政権によって加護されなくては発展を遂げることができない場合があったようです。 また、江戸時代における檀家制度の確立によって宗教活動とはほど遠い形で寺院が維持されてきて、戦後の農地解放により昨今取りだたされているような葬儀における「お布施」や「戒名料」なるものが寺院維持には必要不可欠になって参ります。このことについても信仰とはほど遠い習慣に近い形だけの踏襲にすぎないし、この戒名料なるものを中心として寺院維持基盤の中心に据えたところに、大きな疑問が生じてきたのではなかろうかと思います。 宗教とは私たちにとってどのようなものであるか今一度考え直す時期が来て居るような気がいたします。 さて、墓地経営についてですが、貴殿がおっしゃるとおり新宗教にとっては不利に行政指導されております。霊園事業も宗教法人を維持するためには必要であると考えて居る寺院方もおりますが、これを営利事業と考えてしまえばそうとも言えるわけです。これもお寺を維持するためだけ(寺族の生活安定)に終始している所に問題があるようにも思えてくるのです。 憲法に掲げられている精神は日本における宗教形態とは異なったところにあるように思えるのです。 信仰を中心として存在しないところに歪みが生まれ、昭和26年以降の宗教団体を宗教法人としての法人格を持たせる段に至っては、既存のもの全てに法人格を持たせ、優遇処置をあたえまたその後、その優遇処置が与えられるならば宗教法人を申請して乱立のごとく宗教法人を許可してしまう。 このような結果不活動な宗教法人が多く存在し悪用されるという縮図が生まれてくるのです。 今回の葬儀社が宗教法人を経営する問題もこの様なところより端を発しているような気がします。 貴殿がおっしゃるとおり既存の寺院のあり方を世間に問うと同時に、この葬儀社の実体も広く世間に認識していただき、宗教のあり方を多くの方の場で問う時機が到来しているのではないでしょうか。 |
■「宗教法人格を悪用する葬儀業者」の逆のケースも
貴ご意見の内容についてですが、もちろん、「虎の威を借る狐」的な「宗教法人の体裁をした営利事業」のような業者があることは、側聞しますが、同様に、その逆のケースを宗教法人が行っている場合もままあります。 寺院のほうから、葬儀屋にリベートを渡して葬儀を斡旋してもらったり、寺院内の墓地に「宗旨は問いません」と書いて、営利目的(布教目的とは思えない)の墓地事業をしている寺院がいくらでもあります。 各自治体の条例は、概ね「伝統仏教に有利」なようにできていますので、新宗教教団が信者のために教団墓地を造成しようとしても、都市部ですと大抵の場合、行政の許可がおりません。 一方、寺院の場合は、「昔からそこにある」というだけで、かつては永代供養料を取っておきながら、年間管理料を2〜3年払わない壇家があると、その墓石はすぐに廃棄(寺院の隅に積み上げ)られ、その既得権益地(都市化が進むずーっと以前に行政から許可を得た)を壇家そっちのけで「新しい顧客」に回して「営業」しているケースにたびたび出くわします。 このようなケースは、貴女が指摘されるケースの逆で、あるいは、このような寺院が多いからこそ、悪徳な業者が、貴女が指摘されるような所業を考えつくのではないでしょうか? ご一考まで。 合 掌 |
■宗教法人格を悪用する葬儀業者
最近はマスコミでも、葬儀料・お布施・戒名料の意義や是非について、よく耳にするようになりましたが、私たち宗教界もいままで通りの主張を続けると同時に、世論にも耳を傾け、いま荒廃しつつある精神文化に寄与していきたいとおもっております。 ところがです!最近の某大手葬祭業社の宗教法人取得、および職員からの僧侶養成、納骨堂事業の展開など、許し難い詐欺まがいの所業には目に余るところがあります。 さらに、その悪徳商法まがいの宗教法人の実体を黙認し、納骨堂や霊園の許可を出している行政側にも問題ありでしょう。多少、補足しますと、まず大手葬儀社は、葬儀料の面で価格競争します。つぎに菩提寺を持たない、乃至は遠方を理由に僧侶の手配を必要とする、葬家に対して、各宗派の僧侶を按排します。つまり、葬儀料はこれだけ勉強します、ただしお坊さんのお布施はまけられませんと説明します。 お布施は、俗名の場合、戒名の善し悪しによって決定れ、じつは職員である僧侶に渡されます。その結果、葬儀料とお布施その他すべてが葬儀社に入るわけです。ところが、お布施は自社で買収した宗教法人の収益ですから、当然無税という段取りです。 これって詐欺だとおもいませんか、葬家がそれを知ったらどう感じるでしょうか?彼らは人間の死というものを、どう考えているのでしょう、腹立たしい限りです。葬儀ビジネスとして、寺院までもが非難の対象になり、布施論議に発展している昨今であります。戦後の宗教法人の維持形態に大きな変化がありました。 戦後60年を経て、改めて寺院の存続の意味を考えるべき時が訪れております。 |
■神社界も「大人の対応」を
「神の国」発言については、全く困ったものです。 彼の個人的な思想信条としてはともかく、一国の首相ともあろう者の口から、この時期に、あのような発言が出てくることには、呆れております。 しかし、神社界では、どうやら、「森総理、よくぞ言った!」「森総理を応援しよう。」というのが主流の意見であるようです。中には、森総理の発言を批判的にしか取り上げないマスコミ各社を痛烈に批判して、神社界として抗議運動をしようという動きまで出てきているようです。 こんなことをしていれば、国民からの森総理への批判が高じて、神社神道そのものに対する批判にもつながりかねないのではないかと危惧しております。 神社界のほうからも、「総理のお気持ちは大変ありがたく受け止めるが、あなたも一国の首相なのですから、軽はずみな言動をされては、かえってこちらが迷惑です。」とでも言って、「大人の対応」をすれば、ぐっと神社界への評価も上がったかもしれないのに・・・。 神社界においては、国家と特定宗教との結びつきが、国民の信教の自由を脅かすだけでなく、当の宗教自体をも変質させ堕落させる危険を孕んでいるということについての理解が足りない方も多いようです。 政教分離の問題については、神社界でも法曹界でも、事あるごとにコメントを求められて、私個人としては、どのように回答すべきか困ることもあります。神社界の中には、「日弁連」や「弁護士会」というのは左翼団体だと思っている方もいらっしゃるようです。 確かに、そのような面があることは否定しませんが、「個人の人権」は「国益」に勝るとも劣らない価値を有するという、法律家であればごく当然の主張までが、左翼思想とのレッテルを貼られてしまうことは、残念なことです。 私自身の内面においても、法律家としての理性と、神道人としての信念との間に葛藤がありますが、法律家としての理性をあまり前面に押し出せば、「左翼のスパイが神職資格を取って神社界に乗り込んできた」とでも言われかねません。だからといって、神社界に属しているからと言って、法律家としての理性を捨て去ることもできません。 そのようなわけで、未だに、この問題についての論稿を公に出すことをためらっております。 図らずも、今回、森総理は、「立場をわきまえずに自分の信念を口に出すこと」の愚かさを、身をもって示されました。私も、神社界に身をおく者として、軽々しく、政教分離規定の重要性などについて、発言すべきではないのかもしれません。 ここでもやはり「沈黙は金」なのでしょうか。 |
■『神道非宗教論』への質問
私の不躾なメールに対して、大変ご丁寧なお返事をいただき、どうもありがとうございました。お蔭様で、明治からの神道の歴史がよく理解できました。 ただし、内容について、更なる疑問が出て来てしまいましたので、お答えいただけたら、幸いです。 三輪▽ また、宗教的な行為は神社において禁止され、祭祀すなわち儀式行為のみが許されました。どうしても宗教的な行為を欲する神道は神社から離れ教派神道となったのです。 佐藤▲ 私の理解するところでは、祭祀も宗教的行為です。ただし、禁止されてしまったこれ以外の宗教行為とは何でしょうか? つまりは神道は明治以前は現在と違い、もっとヴァラエティーに富んだものだった、ということでしょうか? また、教派神道(金光教や天理教)については、そもそもがキリスト教に似た一神教的啓示宗教だったのに、当局による弾圧によって、無理やり教義を手直しさせられ、「神道」にされてしまったと聞いております。ですから、神社から離れて教派神道になったのではなく、親神の教えから離れて、神道になったのではないのでしょうか? 三輪▽ 最初に「宗教」という言葉が翻訳語として使用されたのは江戸初期、キリスト教を指す為に使用されたということからも理解されるように、「宗教」は特定の排他的な主張を伴う信仰であるというイメージがあったように思います。当時のキリスト教は神社や寺院を破壊し僧侶を虐殺したのです。 佐藤▲ これは、日本で起こったことなのですか? 全然知りませんでした。不勉強ですいません。 三輪▽ しかしもちろん、佐藤さんのおっしゃるように現在の宗教学では「宗教」とは広義にいえば存在にたいする理を越えた確信と定義されますので、神道は宗教であり神社はその施設でありましょう。しかし法理論的に「宗教」をこのように広義に解釈して法律のネットを掛ける必要はありませんので、宗教法人法の適用を受けるものとそうでないものとの差が生ずるのです。神社は「宗教法人」とならずに「祭祀法人」(現在の法律にその規定はありません)となって法律の保護を受け国家・国民の祭祀を受け持つ機能を果たすべきであるとの議論が、戦後の宗教法人令や宗教法人法の受け入れ時に神社界においてなされました。結局現在の形に落ち着いたのですが、未だに神社非宗教論が存在するのはこのような歴史的な理由によるのです。 佐藤▲ やはり、法律論的に「政教分離」という際の宗教とは、「広義の宗教」だと思います。神道の信者でないものにとって、自分達の税金がそれを保護するために使われることは納得できないでしょう。また、神道以外の宗教団体は、神道だけ特殊な扱いを受けることを不公平だと考えるでしょう。 お忙しいところ、度々申し訳ございませんが(本当に恐縮しております)、なにとぞよろしくお願いします。 |
■『森を見て木を見ず:「神の国」論争』を読んで
「主観」ですから、これについて「どうのこうの」と申すべきではないと思いますが、この度の「神の国」発言をめぐる内外の動きには、少なからぬ関心をもっている者として発言をいたしたいと思います。 前首相の突然の入院とその経過は、自民党員にさえ詳らかにされぬまま、無念の急逝による政権交代の茶番もうやむやにされようとしている最中の「神の国」発言は、国の内外に大きいショックを与えたが、私はこれを「失言」とは思えない。むしろ森首相の「ホンネ」ではないかったのかと思う。だから「陳謝」はするが、「撤回」はしないという彼の姿勢にも現れている。 たしかに「日本は天皇を中心とする神の国」という発言は、どんなに弁明しても「言い訳」にしか聞こえない。それが「神政連」のパーティの席での発言とはいえ、思わず出た過剰なリップサービスの結果だとは思えない。 主幹の言われるとおり、「神政連」が戦後の左翼思想にシフトするための組織であり、保守系の面々の思想的背景になってきた事実は認められる。森首相がそのメンバーだから、「神政連」創設30周年記念パーティの席で「ホンネ」が出たと思う。聞いている出席者はみな、「わが意を得たり」と思ったに違いない。それがマスコミで報道されたから、前首相急逝の同情票を気にしていた野党は、これこそ、願ってもない「敵失」として、攻めにまわっているというのが実情であろう。 森発言が期せずして「二十一世紀のわが国のかたち」はどうあればいいのか、という問題を提起したというのはうがった見方であろうか。護憲一点張りの議会に「憲法調査会」ができ、これまでタブーになっていた改憲論が俎上にのぼる現代に、ある種の問題提起をしたと思う。 歴史観や文明観について政治家が発言し、公の場で論議し、国民みなを巻き込んでいくことは、わが国が民主国家であることの証である。従って「森を見て、木を見ず」説にもいささか異なる見解をもつものである。 主幹の「政治と宗教の関わり方」については、少し考えが違う。これについては、機会を得て論議を交わしたいと思う。 |
■神道非宗教論のからくり
佐藤さんから感想と質問を頂戴しました。お考えをお聞かせ頂き有難うございました。折角の機会ですからこの場を借りて質問にお答えいたします。 明治維新において指導者達が当時の米国や西欧諸国を視察し、日本に導入せねばならないと考えたのは国民皆教育、国民皆兵と同時に国民すべてが共通の精神性を以て結ばれることができる環境の実現でした。彼らはそれらの諸国においてキリスト教が人々の心を結び付け共通の倫理観や精神性を作り出す土壌となっていることに気がついたのです。いわゆる「市民宗教」としての機能です。 日本にそれを求めるならば、神道もしくは仏教しかありません。明治は、天皇を政治的にも精神的にも国家の中心にすえることによって、従来の分権型封建国家を中央集権的な国民国家に変えていこうとする時代であったので、神道が選択されました。一方江戸時代に禁教となっていたキリスト教を日本に認めさせるために、欧米は信教の自由という概念を日本に持ち込みました。維新の指導者達もこれを受け入れました。 信教の自由の保障のもとに、いかにして当時の新しい国体すなわち天皇を中心とする中央集権国家の概念を国民に与えて行くかということが模索されたのです。このとき浄土真宗の一僧侶から「神社は宗教にあらず」という主張がだされ、指導者達はこれを受け入れ、発展させることによって「神社非宗教論」を政治的に確立したのです。 戦前、神社は内務省の管轄で宗教は文部省の管轄でありました。また、宗教的な行為は神社において禁止され、祭祀すなわち儀式行為のみが許されました。どうしても宗教的な行為を欲する神道は神社から離れ教派神道となったのです。「国体」についての啓蒙は国民教育の中で行われました。また、この経緯は、当時の日本人にとって「宗教」という言葉の持つまがまがしさや不気味さといった観念の存在を抜いては語れません。最初に「宗教」という言葉が翻訳語として使用されたのは江戸初期、キリスト教を指す為に使用されたということからも理解されるように、「宗教」は特定の排他的な主張を伴う信仰であるというイメージがあったように思います。当時のキリスト教は神社や寺院を破壊し僧侶を虐殺したのです。 しかしもちろん、佐藤さんのおっしゃるように現在の宗教学では「宗教」とは広義にいえば存在にたいする理を越えた確信と定義されますので、神道は宗教であり神社はその施設でありましょう。 しかし法理論的に「宗教」をこのように広義に解釈して法律のネットを掛ける必要はありませんので、宗教法人法の適用を受けるものとそうでないものとの差が生ずるのです。神社は「宗教法人」とならずに「祭祀法人」(現在の法律にその規定はありません)となって法律の保護を受け国家・国民の祭祀を受け持つ機能を果たすべきであるとの議論が、戦後の宗教法人令や宗教法人法の受け入れ時に神社界においてなされました。結局現在の形に落ち着いたのですが、未だに神社非宗教論が存在するのはこのような歴史的な理由によるのです。 先に「市民宗教」のことをお話しましたが、共同体の共通の倫理観の存在は共同体の存続にとって不可欠なものと考えられます。戦後も昭和三十年代の末あたりまでは存在していたとされる日本人の生活のベースであった村落共同体はこの倫理観を神仏を中心とした信仰生活を基本として形成しており、森発言はこのような歴史的事実を背景として生まれたものであると考えます。 現代日本の問題点は、このような共通の倫理観が地域社会において失われてしまい、地域共同体そのものが崩壊の危機に瀕していることです。昨今の風潮ではこの事態を法律改正による厳罰主義で乗り越えようとする、あるいは教育を偏差値重視から生活重視に変えることによって乗り越えようとする考えが主流のようですが、充分な対処とは考えられません。このような前近代的な共同体の崩壊は、文字どおり近代化の過程で生ずるのでありますから、社会構造の変化を理解した上での対応が不可欠なのです。 近代化は都市という「大衆社会」を生み、大衆の反近代への志向は全体主義を生み、第二次世界大戦が戦われたのはご存じの通り。現代ではそれに加えてグローバル化という地球規模での変化が現れています。反近代を主張する人々のよるべき所は、共産主義が崩壊した今、原理主義、イスラム、伝統主義等でしょう。硬直的な伝統宗教もその有力な一つになり得ます。これらの保守主義に与せず、近代化の流を人類の行くべき道と考える人々は、価値多様な社会を受け入れ、その中での共存の在り方を模索しなければなりません。 ちなみに宗教はその教条性と硬直性のゆえに前近代の遺物として葬り去られようとした時代があり、その19世紀的な主張が日本に強く影響を与えたため、中途半端な教養のある日本人には無神論者が多いのです。現代の宗教のいくつかは21世紀の時代に対応すべく、地球規模での人間倫理に合わせて自己の教義や信条を改革することに手をつけています。恐らくこれからの社会は、地球規模で人類が共に首肯できる倫理が、すべての宗教、すべての道徳、すべての法律の基礎となって行くでしょう。それ以外の基準については価値多様化がますます進み、人々は様々なネットワークで共同体(コミュニテイ)をつくり、その中で精神の安らぎを得ることになるでしょう。 人間はその成長過程において共通の倫理観を、精神的な場で(宗教乃至哲学)、そして社会規制として(慣習・道徳)、最後に法規制として(法律・刑罰)形成するのです。その意味で基礎となる宗教(哲学)教育は不可欠であると思います。なお、教育は時代の必然として多様化されますので、民営化の方向に向うでしょう。 |
▼投稿論文「天皇は『神の国』の祭祀王」を読んで
久しぶりに現役の神職の方が書かれた論文ということで、大変興味深く読ませていただきました。以下に私の感想と疑問点を書かせていただきます。 ○神道は宗教でない? 三輪氏は以下のような発言をされています。 ・更に言えば、神社界はこの神々への信仰を宗教の範疇に入るものとは考えていません。日本人として当然持たねばならぬ倫理ないし精神性であると考えています。神社神道が宗教と規定されるような現在の法律そのものを変えていかねばならないと考えているのです。 私は同じような発言を他の宮司さんからもお聞きしましたが、この文章の意味するところが分かりません。ちなみに宗教の定義を広辞苑で調べたところ、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」となっております。神道というのは、神道の神々に対する信仰、行事ではないのですか? それとも三輪さんのおっしゃる宗教の定義が違うのでしょうか? それに神社神道が宗教と規定されなくなって、宗教法人格を失い、さまざまな特権を失っても良いということでしょうか? ○総理の傲慢:宗教教育は国家がやるものか? また、三輪さんは、総理の「神の国発言」以外の発言について取り上げ、評価されています。 ・このような私達の意見をよくご承知の森総理であるがゆえに「鎮守の森やお宮さんを中心にした教育改革を進める」、「神社中心に地域社会を栄えさせる」といった発言をなさったのであると考えます。 正直言って、国家の方針で一斉、一律に宗教教育をやろう、などというから、国民は戦前の「国民学校」の暗い時代を思い出して、得体の知れない不気味さを感じるのではないでしょうか? 教育についてはもう国家がどうのこうの言うのは、やめて、地方レベルもしくは民間にまかせるべきです。この意味で悪名高き文部省作成の「学習指導要領」などは廃止すべきです。そして、このようにして国家の統制がなくなったところで、地方色が出て、自然発生的に「鎮守の森やお宮さんを中心にした教育」や「神社を中心とした地域社会」が出てくるというのであれば、それはそれで良いと思います。 ○宗教教育をしたいのなら、学校はすべて民営化せよ! また、三輪さんは宗教教育について、またもや森首相の発言を引用して、次のように述べられてます。 ・「神も仏も大事にしようと学校でも社会でも家庭でも言うことが日本の国の精神論から言えば一番大事なことなのではないか」という森総理の発言は、極めて正しいものと考えられます。 たしかに、現在、少年犯罪の多発や学級崩壊現象などによって、宗教教育の必要性を感じている人は多いようです。ただし、だからといって公立の学校で宗教を教えることには無理があります。そもそも、生徒の家の宗教はさまざまであり、それを各宗教を公平に教えるなどということは物理的にも不可能です。 それに「神も仏も大事」という日本独特の習合論的宗教を評価されているようですが、これも一つの宗教的価値観に過ぎず、すべての人がそう信じているとは限りません。そして、信じていない人にとっては、「宗教の押し売り」に過ぎません。 私は宗教教育を行いたいのであれば、学校はすべて民営化すべきだと思います。そして、うちの学校は仏教系、キリスト教系、神道系、無宗教系・・・・と方針が決まっていれば、生徒も学校を自由に選べて良いでしょう。実際、現在でも数は少ないと思いますが、宗教系の学校ではお祈りや礼拝が行われてます。そして、さまざまな種類の学校のある中で、「・・・・教のあの学校の子供は礼儀正しくて、成績が良い」、「・・・・教のあの学校の生徒はしつけがなってなくて、ごろつきばかり」などと評価が別れれば、学校の間に競争原理が働くことにより、教育の質が高まるでしょう。 以上、お返事をお待ちしております。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
『宗教と詐欺の境界線』面白く読ませていただきました。 世の中には多くの大小の怪しい宗教が有るのでしょうが、先生の「インチキ宗教の見分け方」で今度、チェックしてみようと思います。 「怪しい」宗教は、その指導者の顔がどう見ても「怪しい」と単純に思っていましたがそのへんは当っているのでしょうか。 ところで、最低の事件のもう一つの少年犯罪についてちょっと思った事が有りますので書いてみます。一連の少年犯罪の特徴として弱者への犯行といえると思います。 そこで、私は密かに思っているのですが(あまり他のひとから聞いたことが無いので、誰かがすでに言っていたらすみません) 「スーパーマーケットの罪」、又は「そこで買い物をする母親の罪」というのが絶対有ると思います。 私が子供の頃、昭和40年代前半、大体の日本の母親は家の近所の小さな八百屋や魚屋などでその日の必要な物を買っていましたが、40年代後半から突然あちこちにスーパーマーケットが出来て母親達はその品揃えや安さに喜び、次の日より今まで生活を支えてくれていた近所の店には目もくれないようになりました。そんな事が日本中で今も進行しています。 当然、競争力の無い小さい店は潰れ無くなります。経済的には間違っていないと思いますが、世の中の母親が常に強いものの見方であるという事を見せ付けられているような気がしてなりません。そして、そんな母親達が弱い者への配慮を子供に教えるのはとても難しいことではないでしょうか。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
『宗教と詐欺の境界線』面白く拝読しました。まさに我が意を得たりの感です。過去二千年に渡って、オウム真理教の何百万倍もの殺人を行ってきたキリスト教が今では一応尊敬を得る宗教と一部では認めら、現在でも平然と殺人を犯し続けているイスラム教が世界のある部分では大勢を占めているのですから、宗教とは摩訶不思議な物ですね。 さて、小渕元首相が亡くなりましたが、アメリカでは当初から「Brain Dead」と報道されていた小渕元首相が「Brain Dead」の状態にありながら「天の声」を借りて青木官房長官に『後継をよろしく頼む』と言ったとか言わないとか。まさに日本の密室政治ここにありですね。このあたりになると『政治と詐欺の境界線』の話しも近々奏上されるのではと期待しております。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
『宗教と詐欺の境界線』おもしろく拝見しました。主幹のご意見には、いちいちごもっとも、私も主幹と概ね同意権であります。確かに胡散臭い宗教でありますし、どう見ても教祖の顔は異様に霊的で、何物かに取り憑かれたような悪相。しかし、今回はオームとは違います。犯罪を犯していない宗教団体を極めてあやしげな日本の社会常識で葬り去って良いものだろうか? と疑問になります。 宗教的な思考の欠如、というより多くの日本人の中には無意識的に宗教弾圧の気持ちが潜んでいると思います。日本人の心情が一向に民主主義の方向に向わず、むしろエセ民主主義の仮面を剥せば、根っからの全体主義者達であるということはお分かりになっていただける事と思います。どうせなら、神社や寺、教会など全ての宗教団体に手を回して、詐欺や恐喝を行っていないかどうかチェックするようにしてはいかがなものでしょうか? 結局、政治、公務員、マスコミも国民レベルという事。金儲け以外は思考停止した連中がお互いにもたれ合って、良い政治家、良い公務員、良いマスコミ、善良な市民…を演じているだけ。そこからは何の創造性も主導性も感じられません。 公明党という自己満足だけの不思議な党が只単に数の理論で与党に奉り上げられて、「豚もおだてりゃ…」でいいように自民党(政治権力を握りたいという正直な気持ちだけがポリシーのこれもまた不思議な党)に利用されているあたり、日本の宗教と政治を本当によく象徴していますね。もっとも公明党が法華経を国教にする、腐敗議員は全員クビ、ぐらいの過激なことをするんだったら私は存在価値を認めます。もちろん法華経云々に関しては反対しますが…。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
面白く拝見しました。三宅師の主張に概ね賛同しますね。 宗教は、「信ずる者が安心(あんじん)を得られる」ということがポイントと思います。 500円のお守りでも、500万円の壺であろうが戒名料であろうが、希望する者、信ずる者が布施し喜捨すれば、それは尊いものではないかと思います。宗教者と信者のお互いにおいて同意があれば、それは問題は特にないでしょう。 たまたまそこに大きなお金が介在しているから、後で、詐欺だの、騙されたという主張になる。「人のこころは変わるもの」。 しかし、宗教を表に出した隠れ蓑的な、あくまでも集金システムのみを目的としていたならば、それはヒドイと思います(法の華)。 なお「占い」や「運勢(命)鑑定」は、個人的に多少興味があります。私を含め、人はどうにかして、安心を得たい。その一つの方便なのでしょう(笑)。 当該運命学の理論的根拠はいざ知らず、未来や運命がわかる(実際の当たる当たらない問題は別として)ことは、科学技術が発達し、物質的に豊かになった現代社会でも、人々の興味の持つところかもしれません。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
『宗教と詐欺の境界線』、非常に興味深く拝読させていただきました。取り敢えず簡単に所感を記します。 オウム事件などの際にマスコミが様々な批判(というよりも社会的に容認された揶揄嘲笑)の言葉を発しましたが、その中には、既存宗教が当然反論しておくべき宗教への無理解が多数含まれていました。けれど、そうした反論の言葉は既存宗教からは(少なくとも一般生活者の耳に届くような形では)聞かれず、歯がゆい思いをしたものです。 今回の法の華事件でも報道の端々が気になり、三宅主幹のご意見には溜飲の下がるような思いがありました。私はおおむね三宅主幹のご意見に賛成するものです。 ただひとつだけ、「インチキ宗教の見分け方」については異論があります。異論というよりも、基本的なスタンスの違いかも知れません。私は、「インチキ宗教」が存在するのではなく、一般的に宗教教団がやってはいけないこと、またはやることが好ましくないことが存在する、と考えています。極端な事をいえば、例え教祖が金儲け目的にでっち上げた偽教団であったとしても(報道を聞く限りは法の華などはこの疑いが強いですね)、そこに信者が集まり信仰の場が持たれれば、そこに宗教は発生すると考えます。そうした教祖の不誠実さや違範行為を社会的に容認するかどうかは、また別の問題です。 そうしたスタンスで三宅主幹の提示された4項目を拝見するに、私個人としては、いずれも宗教の範疇に収まる事柄ではないかと感じます。敢えて言えば項目2の教祖の銅像は、教祖自身の自我の膨張を示すようで、私も苦笑いは覚えますけれども・・・。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
私は三宅先生の意見に賛成です。日本には信仰の自由はありません。 信仰の自由とは極端に言えば,社会常識に合わないことでも信仰できる自由のことです。 社会常識で宗教を判断すれば信仰の自由は成立しません。ただ,公序良俗に反する行為をすれば、即ち法律に違反すれば刑事事件になるのは当然のことです。 何故なら信仰の自由といえども社会生活の一つですし、特権が与えられいるわけではないからです。 そういう意味でも「オーム」の事件は逮捕が当然です。宗教は生きる力を与えるものですが、サリンで殺すのは宗教活動ではないからです。 法の華の事件はよくわかりませんが、宗教界から意見がでて当然ですが、出ないのが不思議でした。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
■法源は「インチキ」! ごろつき3人は「宗教家」! 宗教と詐欺の境界線』大変、楽しく読ませていただきました。実は、宗教団体の取り締まりの際の警察の「ごーまん」発言に私も最近イライラしておりました。 そもそも、「信仰の世界」というのはなかなか刑事的、民事的取り締まりの対象とはなりにくいものなので、T教会の霊感商法なども実質上、何年間も野放しにされてきました。そして、被害にあった元信者たちは司法的な手段で失ったものを取り戻すことができず、泣き寝入りの状況が続いておりました。 こういう宗教を装った詐欺的商法への対処として、画期的だったのが例の明覚寺裁判でしょう。従来は信仰の世界に警察は立ち入れなくて、地団太を踏んでいましたが、明覚寺に教義とは別に信者をだますための「マニュアル」が存在することを突き止めた当局が、これを証拠に逮捕、有罪を勝ち取ったものです。 ところが、これで自信を持った警察が、オウム事件などで国民が反宗教的になっていることを良いことに、好き勝手なことを言い出したのは腹が立ちますね。明覚寺の場合は完全な世俗的詐欺マニュアルという「物的証拠」があったから、純粋に刑法が適用できたのです。 福永の「天声」については、あくまでも本人が「天の声」だと主張しているのだから、これを嘘だと証明することは不可能ですし、その内容に「殺人の教唆」などの明らかな犯罪的要素でもない限り、当局の介入すべき問題ではありません。司法当局は、世論やマスコミに流されず、厳格に法律を執行すべきです。 それにしても、逮捕前にテレビのインタビューに答えていた福永はオドオドしていて、おもしろかったですね。 私は、麻○○彰、池○○作、文○明という評判の芳しくない大宗教家たちは、本人自身も自 分が神や仏や聖者だと信じていると思います。だから、彼らは警察に逮捕されても毅 然としていたし(面白いことに3人とも逮捕歴がある)、常に自分は正しいと信じて るようです。揺るぎない信念を持っているという意味で、彼らは宗教家ですね。 そして彼らは信者をだましているつもりはなく(文のように霊感商法に使うために「方便」として騙している場合もあるが)、信者は彼らに対する献身によって将来、もしくは来世で幸せになれると信じているのでしょう。 この点で福永は教祖になりきれなかったようですね。インタビューでおどおどしていたのも、もともと「天声」など聞こえておらず、金をもうけるためだけにそういう振りをしていたからでしょう。意外とこの男は正直者かも知れませんね。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
宗教家の皆さんがどれだけ宗教を私物化してることか。驚くばかり。私もそうかもワカラン。偉そうな事云えません。 宗教活動をするにしても、施設を維持管理する為にも、金は大変必要なんです。 ○○神社に来て下さい。現物よりお金お供え下さい。これ本音。大切なことは、お供えいただいたお金の使い方。お金、無駄のないように使いますのでお供え下さい。 宗教の見分け方 1.脅す宗教 先祖の霊チャラ何チャラを持ち出して直ぐに脅しに掛かる。 予言を云って、恐怖心をあおる。 2.金が絡む 何でも金、お金を多く供えれば何でも巧く行くように云う宗教 3.お金の使い方 教化活動をしているかしてないか。これちょっと分かりにくいよな。 神掛かったような事を云って話を聞かない。しかし話を聞いても最後に 1と2を絡めてくる。 この様な事に気を付けてください。 葬式に精出すお寺。結婚式だけやってるお宮(最近教会か)。脅して加持祈祷をする宗教。他宗教をけなして政治に走ってる宗教。 皆様宗教には気を付けましょう。生身の自分自身の身体に大切なものが宿って居ます。死んでしまえば終わり。 「私は差別はしません」と云う人間と「私は無神論者です」と云う人間を、私は人間として信用しません。 人間ですから間違いします。私なんか間違いだらけ。一番沢山お祓いを、加持祈祷を、ざんげをしなくては成らない私です。 |
▼「宗教と詐欺の境界線」を読んで
新稿「宗教と詐欺の境界線」を拝読しました。全く同感です! 実は私も福永法源氏らの逮捕劇を報道するニュース・タッチを見て、これは「宗教弾圧」だと直覚しました。一筆ものさねばならないなと思っていたところで、主幹の本稿です。 同テーマを扱おうとする者にはイヤになるくらい「脱帽」のエッセイですね。言うのもおこがましいですが、さすがは主幹です。主幹の論旨を前提にして、少し。 私は、これらがニッポン人の「無宗教化」をますます進めるであろうことを憂慮します。 複雑多様な諸「宗教」をみそクソにしておとしめ、その中に語り得ぬ「ニッポン教」も捨てさせられ、また自ら捨てています。あとに残るのは「グローバル・スタンダード」としての「科学」だけです。主幹には無用の講釈ですが、その「グローバル・スタンダード」や「科学」の自明性は、ひとりニッポン人の思い込みにすぎません。 すでに「教育」が俗化し、「宗教」も徹底した「弾圧」下にあるいま、「聖なる地」に残されたのは「医療」のみですね。ただし、そうなった聖地はいまや「心」にではなく「科学」によって守られています。しかもその「科学」とは、ニッポン人の新しい「普遍信仰」(グローバル・スタンダード)となった、オウムのようなえせ「科学」ですから、結局のところ、ニッポン人は呪術を信仰するニッポン人のままであるわけです。 では、「宗教弾圧」をして何が変わったのか。「ミソギ」をしたつもりで、ニッポン人自身の「心」の豊かさをまた一つ流したのでしょう。そうしてニッポン人はやせ細っていくのですね。主幹には是非ともニッポン人の「宗教復興」に一層ご尽力いただかねばなりません。 |
▼来世を語る三宅主幹! ■『スーパー天国は存在するか』を読んで(その2) 確かに孔子は「我未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と言いました。また主幹のおっしゃる通り金光大神(それにしてもスゴイ名前ですね)も死後の世界を語らなかったのでしょう。しかし私は、この日中の聖人の態度には、それなりの隠れた意味があったのではないかと思います。 例えば、私はこの歳(34歳)にして独身ですが、「ひょっとして、一生独身? 老後は一人で寂しく死を迎えるのか?」という恐ろしい観念が時々頭をよぎる反面、「いつか必ず自分にあった女性が現れ、幸福な結婚生活を送る」という独身者特有のささやかな夢を持っています(あまりに『リアル』な譬えですいません)。そしてこの二大聖人が生きていたとして、もし、「僕は幸せな結婚ができるでしょうか?」と聞いたら、死後の世界に対する二人の態度の類推からして、「そんなこと知らん。」と答えるのではないかと思っております。さらに、「結婚をあせって女の尻ばかり追いかけないで、独身生活を充実させろ!」と言うのではないかと考えます。これは完全に根拠のない推測に基づいた考えですが、「あせったって、良い女はやって来ない。それよりも日々の生活を大事にして、心を充実させれば、人間的魅力が増し、ひいては良い女が向こうからやってくる。だから、余計なことは考えず、日々を努力して生きなさい。」ということを暗に示しているのではないか、と思うのです。 また、私が子供の頃から日本の家庭でもクリスマスを祝う習慣が定着してきました。ところが、敬虔な仏教徒である我が家庭では「異国の神の誕生日」を祝うようなことは決して行われませんでした。子供にとって最大の関心事はクリスマスの夜に来るというサンタクロースからのプレゼントです。そして、クリスマスの次の日、近所の他の子供たちはサンタクロースからのプレゼントを誇らしげに見せあっているのに対し、私は居場所がなくて困ってしまいました。そこでいたたまれなくなって家に帰り、父親に「内にもサンタさんは来るよね?」と聞きましたが、父は何も答えてくれませんでした。 ところが、クリスマスから何日かたった日、朝起きると私の枕元にちゃんとプレゼントが置かれていたのです。そして遅れ馳せながらサンタからのプレゼントをもらった私は喜んで、そろそろ自分がもらったプレゼントに飽きがきだした近所の友達に見せて、「少し遅れてやって来た幸福」を味わいました。今にして思えば、仏教徒の父はクリスマスに子供にプレゼントを贈ることには抵抗がありましたが、それでは我が子がかわいそうなので、わざと日にちをずらしてプレゼントを送ろう、と最初から計画していたのでしょう。ですから、私は余計なことは考えず、先にプレゼントをもらった友達に対して引け目を感じないで、仲良く遊んでいればよかったのです。 この二つの話が示すように、「人間は死についてわずらうことはない。それよりも生を全うしろ(そして、生を全うすれば、必ず幸福に満ちた来世が待っている)。」というのが、死後を語らない聖人たちの考え方だと思うのです。 故黒澤明監督の名作映画に「生きる」があります。この映画は、「ミイラ」とあだ名された自分の仕事に対して全くやる気と責任感のない市役所の課長が、「自分は胃がんであと数ヶ月の命」ということを知り、激しい苦悶の末に、自分が今までやる気が出せなかった仕事に真剣に取り組み、病と闘いながら市民の願いの公園を完成させて後、まもなく息を引き取る、というものです。私は「死」に直面した主人公が死の恐怖と闘った末に、「安らかな死を迎えるためには、生をまっとうしなければならない。」ということに気づいた点に大変関心を持ちました。 私自身も前回の投稿で申し上げた通り、たびたび意味も無く死の恐怖に襲われることがありますが、そんな時は「自分は生まれる時はなにも考えずに生まれてきた。だから、とりあえず死については何も考えず、生を全うしよう。」と自分に言い聞かせておりますし、これによって一時的ではあれ、死に対する恐怖は消えうせます。 ところが、今回主幹は死後の世界を語らない聖人たちの域を越えて、「死後の世界はない」と断言されてます。これでは、「来世を語らない。」のではなく、「来世を否定している」のであり、これはつまりネガティブに「来世を語っている」のです。 私には「来世を語らない」ことが「楽しみは後に残せ」という愛情のある意味を含んでいる可能性があるのに対し、「来世はない」というのは「お前に結婚生活はない。」、「待っていてもサンタクロースは来ない。」といった相手のささやかな希望も打ち消すような残酷な言葉に思えてならず、宗教家である主幹がこのような言葉を語ることは理解できないのです。 ▼死後の世界を語るのに、「ダブル・スタンダード」はあり得ない! また、主幹は、「現場の宗教家として、信者から頼まれれば「彼らの納得のゆくように、彼らの理解できる言語・論理体系(習俗的伝承)を用いて『死後の世界』の説明を行う』こともありますが、これはあくまでも『方便』です。物質的には、『死んだら終い』です。」と仰ってますが、これは「自分は信じてないけど、とりあえず死を迎える信者の不安を和らげるために『方便』として来世を説く。」ということでしょうか? もしそうであるならば、これは取り返しのつかない過ちだと思います。 「アメリカで、進化論を教えている教師が敬虔なクリスチャンの訴えで裁判にかけられ、有罪になった」などという話を聞くと、たいていの日本人は呆れかえってしまいます。しかし、クリスチャンの立場に立てば、自分の信仰に対して純粋になればなるほど、聖書が説く「神の創造」を否定する進化論は合い入れなくなってくるのです。つまりダブル・スタンダードは両立し得ないのです。 日本人の場合は、この点、バランス感覚があります。私の中学校時代、理科の授業で進化論を教わりましたが、友達から聞いた話では、この理科の先生はカトリックだったそうです。この時、まだ幼くて純粋で、非妥協的だった私は「自分が信じていない進化論を生徒に説くとは許せん!」と先生の一貫性のない態度に憤りを感じておりました。 ところが、成長してこの歳になって気づいたことは、「愛憎」という言葉が示すように、「人間の心は広く、完全に矛盾した感情、思考などが同時に共存し得る」ということです。例えば「最近の若いものはみんななっとらん。」と小言を言うおじさんが、その若者と同じ世代であるはずの自分の娘を「手前味噌ながら、大変良く出来た子で・・・」などとほめたりします。これは「矛盾した考えが同じ心の中に共存し得る」という一例ですが、これとて、整合性を調べるために二つの発言を同じ土俵に載せて比較して、初めてその矛盾に気づくのです。ですから、同じ土俵に乗せて比較されない限り、矛盾した考えが同じ人の心の中に多数存在している状態が考え得るのです。 私の中学校の理科の先生の場合も、進化論と創造論という二つの完全に矛盾した考えを両方とも心の中にもっておりますが、それにスポットライトを当てて、比較しない限り、両者は共存し、シチュエーション(授業、教会での礼拝等)に合わせて、進化論が出て来たり、創造論が出て来たりするのです。米国のファンダメンタリスティックなクリスチャンと違い、日本で「モンキー論争」が出てこないのは、日本人独自のバランス感覚が無意識的に作用して、「信仰」と「科学」というダブル・スタンダードの衝突を回避するように働いているからでしょう。 ところで、殊に「死」に直面するような状況になった場合、話は別です。「死」はまさに「後生の大事」であり、人によっては来世に対する信仰のみが救いをもたらすのです。クリスチャンの場合は「進化論」などは忘れ去られ、世界を創造した絶対的な神に対する信仰のみが唯一最大の関心事であり、死に対する処方箋となります。「死」という実存的状況ではダブル・スタンダードは成り立ち得ないのです。 最近読んだ立花隆の「臨死体験」に、「死ぬ瞬間」の著書で、ターミナル・ケアの権威であるキューブラ・ロス博士が死の床にある子供にぬいぐるみを使って「死ぬということは、繭から蝶になって飛び立つようものであり、蝶になった後(死んだ後)の方が繭(生きている状態)よりもずっと素晴らしい」と子供に説明して、死の恐怖を和らげていることが紹介されておりました。ただし、ここで重要なのは、長年ターミナル・ケアに携わったロス博士自身が自己の経験から死後の世界を確信し、自分が信じていることを子供たちに伝えている、ということです。ここで、もしロス博士が「方便」として子供たちに死後の世界を語っていたら、子供たちにその欺瞞が伝わってしまうかも知れないし、ロス博士自身も言いようのない後ろめたさを感じてしまうことでしょう。ですから、「方便」という名のダブル・スタンダードはここでは、成り立ち得ないのです。 |
「来世」を語らない宗教! レルネット主幹 三宅善信 佐藤進持様: 久しぶりの投稿ありがとうございます。ご返事、簡単に書きます。 古代中国の賢人孔子は、「未知生焉知死(『論語』先進編)=未だ生を知らず、いずくんぞ死を死らんや」と言いました。また、「不語怪力乱神(同、述而編)=怪、力、乱、神を語らず」とも言いました。金光教祖も死後の世界のことは語っていません。 ヒトという生き物は、「直面した事象に納得のゆく説明」を付けたがる動物です。そして、その「納得のゆく説明」の中に自分を位置づけ、そのことによって安心を得るのです。神仏もその例に漏れません。あるいは、逆に言えば、ヒトと他の類人猿(動物一般でも可)を分ける境目はそこにあると言えます。知能の働く方向が、(条件づけられた)眼前にある事象に対する判断のための情報処理としてだけではなく、(無限定な=想像上の)事象に対しても同様に作用するという点に向けられるのです。そのことが、宗教・音楽・芸術等の文化的産物を創り出しているのです。 私も「現場の宗教家」として、信者から頼まれれば「彼らの納得のゆくように、彼らの理解できる言語・論理体系(習俗的伝承)を用いて『死後の世界』の説明を行う」こともありますが、これはあくまでも「方便」です。物質的には、「死んだら終い」です。もちろん、その人の体を構成していた物質は分子レベルでは、バラバラになった後に、また「別の生命の構成要素」として再利用される訳ですが、このことは決して「いのちの不滅」を意味するものではありません。なぜなら、一番肝心な「以前の生命のデータ」保存されていないからです。 ただし、遺伝子という情報処理的観点からすると、ヒト(生物)は、子孫を残すことによって、悠久の過去から受け継いできた情報(遺伝子)を残すことになりますので、その意味では「いのちは不滅」と言えます。 文化史的に言えば、ある人物の行為が、家族や第三者によって「記憶」されることによって、その記憶が続く限り、その人の「いのちは不滅」であったということもできます。歴史(history)は文字通り、his storyということです。映画『ベン・ハー』の英語の副題は「The Tale of Christ」でしたし、へブル後のBenは息子、Hurは男性名詞の定冠詞ですから、いわば「El Nino(エルニーニョ)」つまり、イエス・キリストそのものを予見させる題名と言えます。 そう言うわけで、私も、「不語怪力乱神」という姿勢を基本的には採用しています。 |
スーパー天国は存在するか』を読んで ■「来世」を語らずに宗教は成り立ち得るのか 私が物心ついた頃、おそらく3、4歳の頃かと思いますが、流し場で食後の食器洗いに勤しむ母に、涙を浮かべて「人間って死んだらどうなるの?」と真剣に聞いたことを覚えております。おそらくこの質問をする直前に「人間は年をとったら死ぬ。」という残酷な事実を親父か姉兄から聞いて、「そん筈はない!」とショックを受け、 優しい母親に確かめようとしたのだと思います。ところで、これに対する母親の答えは「死んだら戸籍が降りるんだよ」とまったく筋違いのものでした。 以来、「死」は私の頭から離れない問題です。そして、死にたいする恐怖心は祖父母、叔父叔母、そして実父と、どんどん近づく身内の死を経験する度に強制的に思い出させられて、増幅されて行きました。思えば私の宗教に対する関心も死に対する恐怖が一つの要因になっているのでしょう。 主幹はまた今回大胆にも「死後の世界は存在しない。」と断言されてます。しかし、実際に死をまじかに迎えている信者さんには、どう対応されているのでしょうか? 死の恐怖に怯えている患者さんに「死後の世界は存在しない。人間は死んだら、終わり。」などと言うことができるのでしょうか? そもそもこの死に対する不安を和らげる「グリーフ・ケア」は宗教の果たすべき大きな役割の一つと思いますが、いかがでしょうか? 宗教は基本的に宗派を問わず、死後の世界を約束していると思うのですが。 あえて例外を上げれば、初期のユダヤ教はユダヤ民族の子孫の繁栄のみを約束していて、個人の死後の世界については何も語っていない、と言います。しかし、これにしても「自分の血を受け継ぎ、自分のことを覚えてくれている子孫がいれば、自分は死なず、子孫の体や心の中に生き続ける」というようなグリーフ・ケアとなるような考え方があったのではないか、と私は考えております。なぜなら、死に対する恐怖心は本能的なものであり、したがって現在だけでなく、旧約聖書の時代にもあったはずだからです。 また、主幹のおっしゃる通り、仏教の一部に死後の世界の存在を否定する一派が存在することも存じております。しかし、私は不勉強なのか彼らの言っていることがまったく理解できません。私が昔読んだ初期仏典の法句経(したがって釈迦の直説にもっとも近いはず)にも、「煩悩を滅さなければ、人はまた母体に宿る(生まれ変わる)」というようなことが書いてあったと思います。 私は霊魂や死後世界の存在を否定する『新大乗運動』を提唱している秋月龍民の本も読みましたが、何を言いたいのかまったく分かりませんでした。とにかく、釈迦が説くようにこの世は生・病・老・死といった苦に満ちており、「悟り」を開くことによって、これを克服することが大事なのは、彼らも分かっていると思います。が、私に言わせれば死後の世界がないのであれば、ある人間を本人が気づかない内に拳銃で頭を撃って即死させてあげれば、もう苦しみに満ちた人生に終止符が打たれて、良いのではありませんか。またこの苦しみに満ちた世界とて、世界中の人々が気づかない内に核ミサイルを全て発射して瞬時に消滅させれば、それで良いのではないでしょうか? かく言うわけで、私には死後の世界を説かない宗教は考えられません。 |
『はやさすらひめのお仕事』を拝読いたしました。まことに見事なお手捌きです。日本的「排除」の論理と倫理を摘出されていて。 あまりの見事さに逃げ道を塞がれたような気になって、私なんぞは、どこかに逃げ道はないのかと思わず考え込んでしまいます。 プレモダンの日本社会には、確かに「逃げ道」はあったように思います。ゴミや汚染も、排除された人々も、どこかで再生なり生活なりできるような「自然」や「場所」があったはずですから。 おそらく「日本人」の見込み違いは、あるべき「自然」や「場所」がとうに失われてしまっていることに今も気づいていないということでしょう。 すでに地球世界は閉じられてしまいました。世界の果てまで逃れたと思ったら、もとの世界に戻っていたというのが現代世界でしょう。そんな風に、私たちの遠ざけた「排除」はいつの間にか私たちのすぐそばにあるのですね。 日本人はニッポン的思考をなかなか脱せれないものです。100年以上にわたって必死に「西欧」を受容・消化したつもりで来ましたが、結局のところ、日本人はニッポン人のままです。 流行りの「住民投票」は言うに及ばず、あらゆる「住民運動」は貴兄の摘出されたニッポン的論理と倫理を残念ながら超え出てはいないでしょう。 「自然」への素朴な信頼、言わば「無限世界」への信仰は、もはや現代世界では幼稚な考えなのでしょう。そのことが突きつけられるときには「無責任」だとの批難となるのでしょう。嗚呼…。 そんなことができるのか、またそうすることに意味があるのかどうかもわからないですが、私が夢想することは、このことからでも明白なように「西欧」の論理と倫理でいくら「解決」をはかってもニッポン人の論理と倫理とは乖離しているのですから、なんとかニッポン的解決ができないものかということです。すなわち、ニッポン人の論理と倫理に見合った解決をです。これは、合理性や普遍は果たして一つか、という問題にも関係します。 現代日本に「排除」を受け入れる「自然」や「場所」がないのなら、作ったらどうでしょう。馬鹿げています。しかし内と外は相対的な枠組みです。外国に迷惑をかけるくらいなら、国内に「外つ国」=「穢れの集積所」を作るべきでしょう。六ケ所村や東海村などという「国内」に作ろうとするから問題になるのです…。 いやいや、私の思考は「国」という枠組みに囚われていますね。「ニッポン」は、「国」ではなく「ムラ」や「マチ」という共同体から作っていかなければなりません。そして「国」を超えたアジアを築いていかなければなりませんね。 「21世紀の課題」にはまことに大きなものがあります。しっかりと学び、生きていくことが必要だとあらためて痛感します。 |
■『速佐須良比賣(はやさすらひめ)のお仕事』を読んで
○オウムは破防法を適用すべきだった。 やはり、オウムは破防法を適用して、解散させ、その活動を一切禁止するべきでした。私も現在の状況を苦々しく思っている一人です。 オウムが破防法によって「非合法化」されなかったために、現在では転入や学校入学を受け付けない市町村が「非合法」活動を行うはめになってしまいました。また、オウム反対住民にしても、あのようなデモ行為を行うには事前に警察の許可が必要ですが(例えば、反対活動などで公道を占拠するのであれば、警察署長による「道路使用許可書」を取らなくてはならない)、そのような許可を取っているようには見られません。また、他人の住居(オウム施設には教団の信者が居住している)であのように大声を上げて住人の安寧を脅かせば、これは一種の脅迫(ストーカー?)であり、何らかの刑事罰が適用される可能性は十分にあるでしょう。 あのオウム新法にしても、まさに日本人がお得意のごまかしです。例えば自衛隊を作ったときなどは、憲法9条を変えるべきだったのですが、それをごまかして「防衛庁設置法」や「自衛隊法」などの「下位法」を作って、ごまかしました。今回も本筋である「破防法」適用を見送り、より軽い訳の分からない法律を作ってお茶を濁しました。 「破防法」はその適用には慎重を期さなければならない、とうことはよく分かります。だから、今まで自家製のロケット弾を発射して、街角で犯行声明ビラを堂々と配っている中核派などにも適用が見送られてきました。このような日本国民&政府の「辛抱強さ」はある意味で賞賛に値するかも知れませんが(私は、一言「バカじゃない!」と思いますが)、しかし、オウムこそ正に破防法を適用すべき団体であることは明らかであり、このような犯罪集団に対処できないのであれば、いったい破防法というのはどういう団体に適用される法律なのでしょうか? ところで、例の「オウム新法」も「事後法」の匂いがぷんぷんして、違憲の疑い濃厚ではありませんか? 確か昔、法学の授業で「事後方は当事者に有利になる場合のみ許される。」と習ったと思うのですが。 まさに、以上の如く、オウムには破防法を適用すべきでした。しかし、これは遅きに失することはありません。元教団教祖である麻原被告の有罪が確定した段階で、再度適用を再考してもよいと思います。 |
■日本の民主主義って何?:フィリピンで体験から 大変不躾なメールに、ご丁寧な返信ありがとうございます。国際的な活動を一線でなさっている方のようで恐縮しごくであります。 さて、掲示板の件ですが私は一向に構いません。誤字脱字、拙い文章ではありますが私が不思議に思ったことを素直に書いたつもりです。また、日本という同じ国籍を持つ方々に(本当は)言ってみたい内容でもあります。 私は狭い世界に住む人間であり、知識も広くはありません。ハッキリいって難しい事は良く分かりません。ただ、海外生活の経験を契機としてものの見方がはっきりと変わってしまったのは事実です。他国に居ればその国の悪い所ばかりが目に付き、「日本ならばこうだ」と傲慢さを振りかざしていたのですが、いざ日本で生活していると、日本人の悪い所ばかりが目に付きます。 特に民主主義に関して、日本の民主主義とは何なのだろうか、と私は日本に帰ってからというもの考え込むようになってしまったのです。これには、日本人の宗教性のなさが最も根本的な問題のように思えます。無神論者が圧倒的に多く、キリスト教の歴史的基盤のない日本では民主主義自体発想にムリがあります。ただアメリカに与えられた社会制度を無難に形式的にこなしているだけですから、政治家や公務員達に共同体の奉仕者などという発想が起こるはずもありませんし、国民自体に主権者という自覚が生まれるはずもありません。 まさに政治は一握りの権力者達による「正当性を付与するための演出」であり、また悲しいことに我が国民は余程の事が起こらない限りその演出が気に入っているのです。全く空虚なものです。日本人は自ら作り出した日本というシステムの奴隷になり、またその奴隷の立場を自ら欲しているように思えます。戦前はその頂点に天皇がいましたが、まがりなりにも民主主義となった現在は何がいるのでしょうか?金でしようか?それともGNPでしょうか?かくして日本人は意味も目的もないまま働きに働いて、預金高は世界で第1位。 ところで、私、以前にも述べましたフィリピンで年末2週間程バカンスを過ごす機会がありました。もっともリゾートなどでは勿論なく、マニラの一庶民のお宅に居候しただけであります。街は汚く、「ごみ箱の中で生活している」が正直な第一印象でした。インフラも整備されておらず、警官や警備員がたかりをしてくる始末、これに比べれば日本の公務員は超優秀、「日本に生まれて良かった」などと思ったものです。 いろいろ感じた事があるのですがそれを全部書こうとすると膨大な文章になりますので割愛しますが、フィリピン人社会は家族愛を中心にした社会であるということが印象的でした。家族をこよなく愛し、隣人と喜びを分かち合い、泣いたり笑ったり、少なくとも私がドラマや映画でしか体験したことがない人情の世界が毎日、毎時間目の前で展開しているのです。金や地位に無縁な庶民に残るのは家族と人情だけ…。長い植民地下の歴史の中でフィリピン人はただそれだけを守って生きてきた民族のように思えます。また、国民のほとんどが敬虔なカソリックであるといいう事実がそれらを可能にしたのかも知れません。 そこで私が思ったのですが、日本人の精神的な荒廃が進み、(もっともリストラぐらいで落ち込んでいる人がいたとしたら、それこそフィリピンにでも行ったら眠気も覚めると思うのですが…)「家族と人情」が見直されていくのではないだろうか、と。それらは民族、宗教を超越して人々の幸福の最大要素だからであります。たぶん、この辺から、たとえ民主主義の意味は分からなくとも、宗教に頼らずとも、閉塞した日本社会は次第に回っていくのではないだろうか?などと今の所私はそう考えています。
■nagune氏の質問への解答 一昨日(19日)放送のNHK教育テレビETV特集『宗教は世界平和に何ができるのか』をご覧いただきましたでしょうか? 私が、実際に紛争調停に関わった2つの事例(シエラレオネとバルカン)が45分もので紹介されていました。 貴方が指摘される「反米・反金持ち=正義」という朝日新聞的・戦後インテリ的図式を私が採っているとお考えでしたら、いささか拙エッセイに対する理解が不十分だと思います。レルネットに掲載されている諸々の文章をお読みいただければお解りかと思いますが、私は、たまたま大統領から難民に至るまで、いろん な社会的階層の人々と恒常的に接する機会に恵まれています。彼らと意見交換をしてみて一番指摘したいことは、グローバリゼーションとローカリゼーションという概念は、日本で一般に考えられているような(一方が他方を下位に置く)「包括概念」ではなくて、「対立項」と捉えられていることです。 たとえば、昨年11月のWCRP世界大会でのHans Kung教授とHassan殿下とのやりとりを収録した部分http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/index-10.htm をお読みいただければ、あるいは、「主幹の主観」収録の英文による拙論をお読みいただければ明白です。 次に、「アメリカにへばりついて繁栄を謳歌しながら云々」ですが、私は基本的にはそのように考えていません。第二次大戦後のアメリカの基本的な国際政策は、「日本とドイツをいかにスポイル(去勢)しておくか」という点に尽きます。こちらは、反ソ連や反中国、あるいは反イラク・反イランなどよりも遥かに巧妙 に仕組まれた方法で、一見「味方(子分)であるかのように」演出しながら、その実、スポイルするのですから狡猾です。それらの証拠は、例えば自衛隊のあり方や日独の原子炉に対するIAEAの査察体制を見れば明らかだと思います。 最後に、貴方と見解を一にする点は、フィリピンの評価です。ハッキリ言って、フィリピンの方が日本より遥かに民主主義の成熟度は高いです。あれだけクーデター等があっても必ず振り子は元に戻りますし、選挙による政権交代も行われています(日本は選挙の公約を反故にして、野党が与党に平気で変わる)。日本の選 挙はハッキリいって、単なる正当性を付与するための演出に過ぎません。シアゾン外相はじめ議会や宗教界にも知人が何人かいます。
■本当にセルビアは悪いのか?」を読んで はじめまして、インターネットで遊んでいてHP拝見しました。 99年4月6日「本当にセルビアは悪いのか?」を読んだのですがどうもおもしろくない。というか、私の見聞きしたマスコミの言っていることと何一つ変わらない。宗教の大同団結運動のような事をやっている人ならばもう少し目からウロコのような話を期待していただけにガッカリ。日本人は極度のアメリカコンプレックスを持っているせいか、知識人たちはすぐに反アメリカを振りかざすが、そのアメリカの背に隠れて安全と繁栄を謳歌しているのが日本人の姿である。世話になっている親分の悪口をいうことを「弱者の味方」と勘違いしているのではないだろうか?と私などは思ってしまう。全く姑息な民族である。 たしかにジャイアンは自己中で暴れ者、のび太はいじめられッコ、しかしそののび太が隠れて、町の幼児や浮浪者を殺していたとしたら(それも汚いとか煩いとかの理由で)、いかにジャイアンとて制裁せざるを得まい。ジャイアンそれはやり過ぎだよ、とスネ夫(日本のマスコミ)は鬼のクビを取ったようにジャイアンの粗暴さを責めるが、それではスネ夫、お前は何をしたのか?ジャイアンに始終へばりついている子分はお前ではないか? アメリカの悪口を言うよりは、いかに日本が主権国家として精神的に政治的に独立し、アメリカと対等な立場でものを言える国民になるのかを考えた方が建設的である。私はフィリピンによく行くが、彼らもまたアメリカの子分ではあるが、きっぱりと「アメリカ軍はいらない」といって出ていって貰った国民達である。(意地悪な味方をすれば見放されたと見る向きもいるだろうが)日本人は、発展途上国とバカにしているフィリピン人たちよりも国際的にはさらに発展途上国だということに早く気づかねばならない。もっとも、わたくしはだから日本もアメリカ軍を追い出して再軍備しろと単純なことをいっているわけではないということを付け加えて、本日はこの辺で。 |
▼関東人の心の故郷は関西 なんか、話がだんだんマジになってきた気がしますので、私もそろそろ襟を正して、真面目な意見を言わせていただきます。 東京人を含めた関東人は、自分達の住む関東が、ほんの500年くらい前までは、草木深く、野生の猪が跋扈していた辺境の地であったことを重々承知しております。また、鎌倉時代より前から坂東の武士たちが統治してましたが、関東の文化が基本的に華美を嫌う質素な武士の文化であることも。 「くだらない」という言葉がありますが、これは「関西という文明圏から下ってきていないもの」、つまりは関東のものは、取るに足らない、というのが語源だそうです。 また、関東人の先祖は関西の方から、ある時は開拓者として、またある時は左遷などによる「都落ち」によって、渡ってきたのであり、日本人としての自分たちの究極の故郷が関西であることもよく分かってます。 関東の中、高校の修学旅行はほとんど、京都、奈良を中心とした関西方面です。これは、自分たちの先祖が残した歴史的遺産を研修し、日本人としての自覚を養うためでしょう。一方で関東には歴史的建造物が少なく、特に千年以上を越えるものはほとんどありません。自分たちが遥か昔から日本人であったことを確認できるものがないのです。 東京は太平洋戦争中に大空襲によって、焦土と化しました。このような戦争を二度と起こさないことが我々の世代の務めでしょう。ところで、ここで一つのIFを出させていただきましょう。それは、もし東京を中心とした関東か、それとも奈良、京都を中心とした関西か、どちらかが爆撃に遭うとしたら、あなたはどちらを選びますか? という質問です。関東人の人にこの質問をしたら、おそらくほとんどの人が「関東を爆撃しても良いから(ただし、皇居を除く)、関西の歴史的建造物を破壊しないでくれ。」と言うと思います。基本的に関東の世俗的建物破壊されたとて、建て直しがききますが、関西にある千年を越える歴史遺産は、一度焼失してしまったら取り返しがつかないからです。そして、このような歴史遺産がなくなってしまったら、我々の日本人としてのアイデンティティーが危機に陥るからです。 まあ、この辺で筆を置きますが、関東人が基本的に関西のことを「心の故郷」と思っていることをご理解いただきたく思います。 |
■「関西弁って何?」を読んで
▼東京「入れ子細工」構造論 35才国家公務員の私は静岡に生まれ、石川、佐賀、滋賀、神奈川、茨城、福島、東京茨城と転居を重ねてまいりました。さらに現在、地域性について検討するのが業務の一部に関わってますので、地方と首都圏(東京圏)については色々と感じます。 佐藤さんの言われる関東=コスモポリタンというのには、今の私は非常に抵抗を感じます。萬さんが遠回しに?指摘されておられるように、「無邪気な無神経」です。日本人という意識でしかないというのは、地方には独自の文化があることを意識していないだけのように感じます。地域文化を「奇習・奇祭」で片づけてしまわれそうです。 北海道や特に沖縄の場合、民族的・歴史的な問題がありますのでニュアンスは違うでしょうが、他の地域については(名古屋圏、博多圏は多少関西に近い「東京(等他地域)への対抗意識」があるように感じられますが)、「地域」の認識はあっても対抗意識は少ないようです。劣等感やあこがれも、近年、少なくとも表面的には薄れてきています。例えば東北でいえば、ある年代までは「ドリフの加藤茶は福島弁を笑いにしてるから嫌いだ」という人も多かったようです。でも最近の若い人には、SMAP×SMAPで香取慎吾が演じる「青森から役者を目指して上京して標準語講座のテープで標準語をマスターしているが、最後にどうしても津軽弁がでてしまう青年」コントを見て屈託無く笑っている方も多いようなので。 私の生まれた静岡は、「首都圏でも関東でもなく、東海三県(愛知・岐阜・三重)でもない」県であり、地域意識が微妙です。県より大きい地方区分がよくわからないのです(明らかに関東ではないので中部地方には入ってますが、中京ではありません)。そして実に不思議なことに、他人に指摘されるまで、テレビから流れる標準語と普段の日常会話の差違にまるで気がつかないのです。この構造は、ヒロミのネタである「茨城の暴走族」の訛、佐藤さんの千葉の小学校、と全く同じです。関西の方には信じられないでしょうが、マギー四朗、つぶやきシローが自覚的にネタにしてすら、自分の訛に気がつかず、標準語をしゃべる「日本人」と思っており、関西弁、東北弁、九州(博多)弁、名古屋弁(この程度の区分しかできない)を、「変な言葉」として笑ってます。 佐藤さんが言われるように、関東の人間には関東という意識はなく、かすかにあるのは「東京からはちょっと離れてるかも知れないけれど東京と同じ地域」という意識だと思います。これが、無意識の東京中華思想のバリヤになっていると感じてます。 滋賀に住んだ体験から言えば、主幹のご意見とは逆に、他の地域に比べて関西は、地域的なまとまりが強いと思います。関西・近畿では双方向の帰属意識が感じられます。つまり、大阪の人が丹波篠山の人に対して田舎もん、とか、一緒にすな、と言っても、どこかに「でもまあ同じ関西」という意識が残っているような気がします。でも、東京の人が栃木の人を田舎者扱いした時、それは東北の人に対する意識と全く差は無いようです。栃木の人は東京に仲間意識があるのに、東京には感じられないのです。他の地域の人が空間的なつながりを意識しているのに対して、東京は、「都会の東京と、それ以外の田舎」という考え方になってます。で、それぞれの「東京の範囲」が違います。港区の人は「練馬ナンバー、足立区ナンバーの車」に乗っている段 階で田舎とみなし、練馬では荒川を超えた埼玉から田舎、大宮では群馬栃木が田舎です。 東京中華思想と書いてしまいましたが、本当の中華思想が中華の範囲を中国文化の浸透度で区切っていたのに比べて、東京のそれは、幻想の上流意識であると思います。自分より多少東京と違う臭いのするものを全て田舎として一蹴するんです。それも無意識に。 大阪も京都もいっしょにしくさって、というような関西人の意識は東京中心への反発ですが、東京には自覚がありません。極言すれば、王化を善意で押しつけた時代すら感じます。 |
■「関西弁って何?」を読んで
▼ある「関西」人からの手紙 「関西」ていう言い方は「関東」人が作った概念やということは間違いありまへん。せやけど、先に「関東」ていう言い方をしたのは「関西」人やていうことも違いありまへんな。どっちも大雑把な言い方でんな。 わてらの主幹のためにひとこと言わせてもらいますけど、主幹は二つのことを踏まえて、反「関西」論をぶってはるように思いますねん。一つはマスコミが「関東」発の見方やちゅうことでんな。これは当然、「関東」中心のものの見方になりまんな。それからもう一つは、まな板にのせられている事件が「関西弁で脅せ」ってことですわ。 そやから(だから)主幹は、「関東」から見える「関西」および「関西弁」ちゅう(という)フィクションを壊しはったんやね。批判の対象は、「関東」(東京)発の見方でやっていけると思い込んではるマスコミでんな。本質は日本のマスコミ批判、あるいはそんな自己中心的な他人への先入観の批判ちゅうわけですな。「関東」人一般への文句やあらしまへん。 それにしても、「関東」対「関西」て燃えるようでんな(たとえが悪うて誤解されそおやけど、巨人対阪神みたいなもんでんな)。 マッチポンプでほんまにすいまへんねんけど、わても「関東」のお人にはひとことありまんねんわ。文句とちゃいまっせ(わても「関東」にはまる9年間住んだ経験がおますねん)。意外に気づいていはりませんで、ということですわ。何にかて? それは、おたくらは確かに日本の「中心」に居はりまっせということですわ。 自分が「日本人」であるか、ある「地方」人であるかていうのは、何かに対しての帰属意識の問題でっさかい、一概には言えまへん。けど、その帰属意識の階層の数は、「関東」のお人は他の「地方」の人に比べたら、一つ少ないのは間違いありまへんな。 いま、わてが言いたいことはいわゆる「関東」とはちょっとちゃう(違う)ので言葉を変えますけど、「東京圏」こそ「日本」ですわ。これはピンと来(け)えへん(来ない)かも知れまへんけど、ごっつう(すごく)大事なことでんねん。 新聞、テレビ、出版、音楽など情報や文化は「すべて」東京発ですわ。地方の情報や文化は、実は東京経由で、東京=「日本」がオモロイと思ったら流しているだけでんな(大阪の吉本が東京経由で流されてるのが典型やね)。けど、恐ろしいことに「悪気」はありまへんのやなあ。これが先入観ちゅうもんでんな。お、こわこわ。 主幹が言いはるように、国内でこれですわ。たとえば、アメリカ合衆国なんていう国は、日本と日本人のことなんてわかるわけおまへんな(わてらもわかってへんかも知れまへんけど)。自己中心的な(この場合はアメリカン・スタンダード)なものの見方を「国際標準」やて押し付けられてもかないまへん(堪りません)なあ、ほんま。 ほな、さいなら。 |
■「関西弁って何?」を読んで■
▼関東人はコスモポリタン、東京弁はクィーンズ・イングリッシュ 年末から拙投稿論文で紹介した「内観」に行ってきて、元旦に戻ってきました。そこで、さっそく「主幹の主観」の最新版の「関西弁って何?」を拝読させていただきました。一週間の「集中内観」による疲労のせいで、まだ頭が朦朧としておりますが、何回も繰り返し読むことによって、掲示板に出ていた「35歳の国家公務員」さん(ちなみに私は「34歳の国家公務員」です)の意見も含めて、ようやくおっしゃっていることが理解できました。 「関西弁」と言えば、私は大学に入って東京に出て、渋谷の映画館のチケット売り場に並んでいたときに、後ろにいた2人の兄ちゃんの会話を聞いたのが、原体験でした。彼らはおそらく大阪人だったのだと思いますが、私はそのあまりにエキゾチックなサウンド(悪く言えばあまりに異質)を初めて聞いて、かなりのショックを受けました(「これは人間の言葉ではない!」というのが、正直な感想でした)。 それにしても、「関西」の人たちは、「関西人」のプライドが高いですね。 私の住む関東では、「関東人」という意識はまったくなく、私はあくまでも「日本人」として育てられてきましたよ。 私は千葉県で生まれ育ち、母国語は千葉弁(語尾が「・・・・・だっぺ」、「・・・・・んだべ」で終わる)という極めて田舎臭い言葉です。一方で、子供の頃から学校では、全国共通語である「東京弁」で教育がなされておりましたが、それについて何も違和感なく受け入れて来ました。今から考えてみれば、千葉弁は東京弁とはまったく違う言葉なのですが、自分の日常会話(「♪・・・・・だっぺ♪」、「♪・・・・・んだべ♪」)が「方言」だということは、成人するまでまったく気づいておりませんでした。 また、千葉は東京のベッド・タウンという性格のため、東京からの転校生も多かったのですが、正当なクィーンズ・イングリッシュである東京弁を学校だけでなく日常会話でも話す彼らも、みんなすんなり溶け込んでましたよ。 まあ、とにかく、表面的にはまったく違う言葉でも、東京弁と千葉弁は、音声的な周波数とかが似ているため、そういう違和感を感じなかったのでしょうか? それから、主幹によると、「関東」というのは地理的に確定された概念だそうですが、関東人で自分が関東人であることに特に特別な感情を抱いている人はいないと思います。関東人はみなすべて「コスモポリタン」であり、「自分は日本人だ!」という意識はありますが、地域性にこだわっている人は特にいないでしょう。その点、関西と比べて面白いですね。 あえて、地域性にこだわっている関東人を上げるとすれば、東京の下町の人たち(生粋の江戸っ子)でしょうか? 下町は一言で言えば、「ゴミゴミした汚い町」です。このように物理的に何も自慢できることがない場合、人は「下町子は人情が厚い」などと他の面でカバーしようと努めるのでしょう。私もボランティアで上野で活動しておりましたが、上野のネイティブは、言いたいことをガンガン言いまくって、同じ日本人とは思えないくらいでした。彼らの会話を聞いていると、まるで喧嘩しているようだし、「そこまで言うか?」というくらいまで「行ってしまう」のですが、第三者的に見てこれはちょうど大阪人の会話とそっくりです(これは田舎者の正直な感想です)。やっぱり、「生粋」の江戸っ子と「生粋」の大阪人は通じるものがあるのでしょうか? 両メトロポリタンは性質が似ているのだから、もっと仲良くすれば? とうのが、田舎者の地域性にこだわりのない私の心境です。 |