難波宮・真田丸でフィールドワーク

2016年9月3日

2016年9月3日、神道国際学会(三宅善信理事長)は、サミール・ヌーハ同志社大学名誉教授をはじめ9名で、大阪市の上町台地の最北端部分にある難波宮跡と周辺地域の三つの神社でフィールドワークを実施した。大阪城の南側に開けるこの地域は、現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』の最後の舞台(大坂の陣)でもあり、古代から近世にかけて「日本の中心」とも言える地域であった。

現在はビルの谷間に鎮座する森之宮神社
現在はビルの谷間に鎮座する森之宮神社

JR大阪環状線森ノ宮駅に集合した神道国際学会の一行は、駅前に鎮座する「鵲(かささぎ)森宮(通称:森之宮)」神社に参拝。石崎正明宮司から、6世紀末、仏教の受け入れか排除かをめぐって蘇我氏が物部氏と戦った際、戦勝を祈願した聖徳太子がお礼に、両親である用明天皇・穴穂部間人皇后を祀り、この地に四天王寺を建立(その後、現在地に移転)した。また、太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の鵲を持ち帰り、この地の森に放したことから「鵲の森の宮」と呼ばれるようになったという説明を受けた。この神社が「森ノ宮」の地名の由来となった。

難波宮大極殿基壇跡で、南秀雄大阪文化財研究所長から説明を受けるFW参加者たち
難波宮大極殿基壇跡で、南秀雄大阪文化財研究所長から説明を受けるFW参加者たち

続いて一行は、難波宮跡を訪れ、大極殿の基壇(復元)跡で南秀雄大阪文化財研究所長から、7世紀中葉に「大化の改新」の舞台となった前期難波宮と、8世紀中葉に平城京の「副都」として日本の国際的な玄関口であった後期難波宮の歴史について説明を受けた。瀬戸内海の東端に位置する大阪湾へ淀川・大和川が注ぎ込むこの地に南方から北方へ向かって突き出した半島(上町台地)の北端に位置する交通の要所であったこの地は、古代国家だけでなく、豊臣秀吉が大坂城を築き、徳川時代になってもその都市機能が充実されることからも判るように、この地域には歴史的な埋蔵物が大量に眠っている。

玉造稲荷神社で記念撮影をするFW参加者たち
玉造稲荷神社で記念撮影をするFW参加者たち

さらに、古代より勾玉の製造拠点であった「玉造」に鎮座する玉造稲荷神社を訪問し、境内にある難波・玉造資料館で発掘された勾玉などの文物を見学。鈴木一男宮司から、社殿によると紀元前12年の鎮座とされるが、戦国時代に荒廃したこの神社を大坂城築城の際に「鎮守」として再建した豊臣家や、大坂の陣で再度焼失したこの神社を徳川時代になっても歴代の大坂城代が崇敬したことなどの説明を受けた。なお、この地は、江戸時代に盛んになった「伊勢参り」の大坂における出発地点となり、今回のフィールドワークに参加した大阪ユネスコ協会会長の中馬弘毅元衆議院議員が揮毫した石碑が残っている。

「真田の抜け穴」と呼ばれる三光神社境内のトンネル前で記念撮影するFW参加者たち
「真田の抜け穴」と呼ばれる三光神社境内のトンネル前で記念撮影するFW参加者たち

最後に、さらに空堀通りを隔てて南方の宰相山公園に鎮座する三光神社に参拝。5世紀の初め以来、古代史の「英雄」武内宿禰の末裔の武川氏が神職として代々奉職したとされる三光神社で、小田禮五郎宮司から「大坂の陣」における徳川方と豊臣方の布陣について解説を受け、小田宮司の説による「真田丸」の跡地についての見解を聞いた。上町台地のなかでもひときわ小高い丘の上に鎮座するこの三光神社には、「真田の抜け穴」とされるトンネルもあり、折からの『真田丸』ブームで大勢の観光客が参詣していた。




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