「そして私もインドに填る!?」 |
04年03月30日
石原三玻子 |
2004年3月6日から5日間、AYC(アジア青年センター)の20周年イベントのお手伝いで、インドのチェンナイを訪問しました。「レルネット入社以来1年半、初の海外出張がよりによってインドとは…」と思いましたが、AYCのイベントは、アジア各国の人たちが集まり、とても充実した内容でした。AYCの活動についてはHPをご覧下さい。
ネパールの夫人にサリーを
プレゼントしてもらいました! |
ということで、今回もひょんなことで、インドに行くことになりました。実は、今回でインドは3回目。しかも、1回目も2回目もインドで医者にかかっているのです。2回目のインド訪問は友達と2カ月ほど北インドを回りましたが、その途中、3月の「ホーリー」という祭りにぶち当たり、色水やら色粉やら、田舎ではどろんこまで投げつけられ、お釈迦様が悟りを啓かれた地、ブッダガヤでは急な腹痛に見舞われ、「私もこの地で入滅!?」と遠くストゥーパを眺めながら覚悟したりと、けっこうディープな旅だったので、まさかもう一度自分がインドの地を軽々しく踏むとは思ってもみませんでした。
考えてみれば、レルネットに入る7年も前のそのインドの旅でも、ヒンドゥーの聖地ベナレスや、ブッダガヤはもちろんのこと、ダライ・ラマのおられる北インドのダラムシャーラへチベットのお正月を見に行ったり、宗教というか、人が祈る姿に興味を持っていたようです。インドを旅行する上で宗教にぶち当たらない日はないかもしれない。ヒンドゥー教あり、イスラム教あり、キリスト教あり、多種多様な宗教や神様が混然一体となっているのがインドの魅力!?
と、少しずつインドの虜になりつつある自分に驚くのでありました。
今回行かせてもらったのは、チェンナイです。南インドはほとんど初めてで、聞いてはいましたが、北の空気感と全然違って人々も穏やかな感じで、世界で2番目に長いマリーナ・ビーチという海岸を夕方ともなればのんびりお散歩している光景はうらやましいかぎり。
世界で2番目に長いマリーナ・ビーチ
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さてさて、「仕事」のことはさておいて、ちょっと観光しました。まずは、チェンナイから海岸線を南に60kmほど車で走ったところにあるマハーバリプラムを訪れました。この海岸寺院は世界遺産に登録されていて、8世紀初頭に造られたヒンドゥー寺院ということです。どうもそれほど古い感じがしなかったのは、修復されているからでしょうか。海岸寺院をはじめとする、いろんなヒンドゥー遺跡があって周辺を見て回れます。ある丘に来たとき、なぜか巨大な丸い岩が坂の頂上で支えもなく止まっていて、現地のおじさんたちは平然とその影で昼寝したりしてるのです。それは「クリシュナ神のバターボール」と名付けられて1,000年もこの状態だそうです。なぜか、どの遺跡よりもインパクトがありました。
「海岸寺院」
中には美しいシヴァ神が
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「岩の写真」
1,000年もこの状態って本当かな? |
次の日は、チェンナイでご一緒になった方がカトリックの方でしたので、インドのキリスト教会を見に行くことに…。その方曰く、キリストの弟子12使徒のうちの聖トマスがこの地、チェンナイになんとAD52年に来て布教したそう(インドお得意のフェイクくさい話ですが…)。そもそもパレスチナの地で1世紀に始まったキリスト教が、当時の「世界の中心」ローマに伝わり、ローマ帝国の4世紀に国教となり、中世のヨーロッパ世界に拡がり、「大航海時代」を経て16世紀ごろに、ポルトガル人によって南アジアに伝わってきたと学校で習ったはずです。
この「定説」に対して、なんでも希有壮大なお伽噺がお得意なインドでは、それより1,500年も以前に、あろうことかイエスの弟子であったこのトマス(註:聖トマスという人物自体、聖書にもほとんど記述がない「(実在が)怪しい」人物だそうです)が、直接インドまで歩いてきてキリスト教を持ち込んだということなんです
(註:5世紀にローマやギリシャのキリスト教と分かれたネストリウス派から伝わったともされていますが・・・・・・ともかく、ポルトガルから伝わる以前からキリスト教はあったそうです)。伝説によれば、聖トマスはAD52年からマドラス(現チェンナイ)で布教し、やっぱりイエス・キリストのように小高い丘の上でバラモン教によって処刑されているということです。これまたフェイクっぽい話ですが、インド人の生活そのものが「フェイク」の塊ですから、フェイクを拒否すれば、それはそのまま「インドを拒否する」ということになるのです。
ポルトガル人が建てた教会 現在修理中
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今回は、まずチェンナイ市内の16世紀にポルトガル人が建てたサン・トメ(聖トマス)大聖堂を訪れました。こちらは、大航海時代にポルトガルがキリスト教を布教するときに、聖トマスの伝説に乗っかって布教を始めた場所で、インドのキリスト教徒の重要な巡礼地となっています。地下には聖トマスのお墓もありました。教会の雰囲気はヨーロッパの教会とかと違って、やっぱりインドっぽいというのか、外では子供たちが青空教室を受けていて、緩やかな空気感が漂っていました。こちらの神父さんに教えていただいて、山の教会へと向かいました。チェンナイが一望できる丘の上に、教会がありました。ここで、聖トマスがAD72年に処刑されたそうですが、その後、掘り出された彼自身が造ったとされる石の十字架からは何度かミサの間に血が滲みでてきたと看板に書いてありました。むむ、不思議!?
それにしても、十字架やそれを囲む祭壇や電飾もまさにインド的で、かなりゴージャス。キリスト教もお国変れば様代わりするんですね。
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聖トマスが造った十字架。
ミサの途中に血が滲んできた
ことがある。 |
なんだかキッチュな聖トマスさん |
そして、また街の喧噪の中へ。車の窓からは、いくつものヒンドゥー寺院が見えました。ヒンドゥーの神々や寺院の色、お供えするお花の色とりどりな色彩は、チェンナイの街そのもの。サリーの色や、看板の色(註:1か月後に選挙を控えていたので、識字率の低いインドでは、各家の壁に支持する政党のシンボルマークをカラフルな絵で描いていた)、プラスチックの水瓶の色など街全体が色の洪水。ヒンドゥー教はもう宗教というよりも、人々の生活にすっかり根付いている習慣なんですね。南インドはIT産業が急激に伸びて、近代化が進んでいる一方で、まだまだ道路には牛がいたり、女性はほとんどサリーを着ていたり、人間臭さがいっぱい残っているのは、人々の生活にヒンドゥーという宗教が深く浸透しているからでしょうか。
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ヒンドゥー寺院の前のお花やさん |
不思議なポーズでお祈りしていた |
レルネットで三宅主幹からこれまでに、日本の神々ついてのお話を聞いていたせいか、ヒンドゥー教の神々の世界と、日本的な八百万の神々の世界となんだか似ているような気がしてなりません(インドの神々はなんと3億3,000万の神々がいるそうですから、インドの宇宙観には到底およびませんが・・・・・・)。多神教というのはこういう風な考え方になるのか、果てはインドから日本の思想は影響を受けているのか。ヒンドゥーの神様たちも、どうも怒りっぽかったり、失敗したり、かなり人間臭いようで、ヒンドゥー教では悪人とされるブッダも神様の一員として取り込んでしまうほどの受容力など、いったんは高天原を追放されてしまう暴れん坊のスサノオノミコトが、地上ではまた英雄神として人々から崇められたり、祟り神の天神様がひろく信仰されたり、日本にもよく似た話がいっぱいです。
ヒンドゥーの神話『プラーナ』では「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」という、ヴィシヌ神が不老不死の大洪水で失われた霊薬アムリタを見つけるために天と海を攪拌しようと提案し、神々で天海を掻き混ぜているうち、海はミルクからバターへと変り、その中からアムリタや宝が現れたというお話があるそうですが、これは古事記の「天沼矛(あめのぬぼこ)」で掻き混ぜて国ができる話となんだか似ていますし、ガネーシャの誕生も、自分の息子の首を切っておいて、仕方ないから最初に通った者の首をつけちゃうのもどこかで、ありそうな話だったりして・・・・・・。
そう思えばインドから伝わっているものは探せばたくさんありそうです。三宅主幹によると、今では当たり前にお供えする仏壇のお花ですが、日本ではもともと神道の影響で常緑樹(榊=さかき→樒=しきみ)を仏壇にお供えしていただけで、お花を供えるようになったのは、インドの影響が強いということです。それに、7年前の旅で体験した「ホーリー」という3月に行われるお祭も、春の到来の祭りですが、色の水をかける水の祭りとともに、祭りの前夜、ホーリカーと呼ばれる火を焚いて、人間が犯した罪をなくしてしまおうという火の祭りでもあったわけです!
これは、まさに東大寺の「お水取り」と同じだったのですね。実は私、インドから帰った次の日に、奈良の「お水取り」に出かけることになりますが、こんなところでも繋がっていたことにびっくりです。