立正佼成会創立60周年式典開催

各界からの来賓を前に挨拶する庭野日鑛会長

3月13日、東京都杉並区の立正佼成会本部において、内外各界の代表を招き、同会の創立六十周年記念式典が開催された。

午後六時から、同会「大聖堂」において記念式典が挙行された。昭和三十九年に竣工した立正佼成会の根本道場「大聖堂」には、各宗派の代表や政界・国際機関の代表などの
招待客約六百名が参列。まず、庭野日鑛会長の先導でご本尊に「題目三唱」。続いて、記念ビデオ『おかげさまで六十年』が放映された。最後に、庭野会長が挨拶を行って、記念式典が終了した。

続いて、会場を同会の迎賓館である「法輪閣」に移し、記念祝宴が行われた。祝宴では、同会の酒井教雄理事長の歓迎の言葉に始まって、中曽根康弘元首相とWCRP日本委員会理事長の
白柳誠一枢機卿(カトリック東京大司教)が祝辞を述べ、日本宗教連盟理事長の廣瀬靜水人類愛善会会長の発声で乾杯が行われた。
 


蓮如上人五百遠忌始まる


本願寺第八世の蓮如は、宗祖親鸞以後、一時衰退していた本願寺を建て直し、親鸞の教えを平易に説いた『御文章』の述作や『正信偈・和讃』を刊行して朝夕の勤行に用いるなど、教線を飛躍的に伸ばした。蓮如が築いた一大勢力は「一向宗」ともいわれ、戦国時代には織田信長と対峙するほどのわが国有数の大教団を形成した。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、3月14日から蓮如上人五百遠忌法要が始まり、合計10期百箇日にわたって厳修される。期間中に「ビッグフェスタ500」と銘打って、数々の関連行事が行われている。 

また、真宗大谷派(東本願寺)では、一足遅れて4月1日から蓮如上人五百遠忌法要が始まった。こちらも、今年一年数多くの関連行事が「バラバラで一緒:差異(ちがい)を認める世界の発見(Living Together in Diversity)」を共通テーマに開催される。




天理教教祖生誕二百年祭




天理教では、4月18日の教祖誕生祭から26日の月次祭までを「教祖様(おやさま)御誕生200年慶祝旬間」として、奈良県天理市の教会本部をはじめ各地で関連行事が行われている。 
天理教教祖中山みきは、寛政10年(1798)に北大和の寒村に生を受けた。天保9年(1838)に親神「天理王命(てんりおうのみこと)」より天啓を受けて開教。

その後、数々の弾圧を受けるも、天理教はわが国最大級の宗教教団へと発展した。 
天理教では、「教祖様存命の理」と称する独特の教義があり、明治20年(1887)に「現身を隠した後も、因縁のあるやしき(ぢば)に生き続けて働く」ということに
なっている。 なお、詳しい解説と諸関連行事の紹介は、天理教のホームページへ。



天理教「真柱継承」


4月26日、天理教教会本部(奈良県天理市)教祖殿において、天理教「真柱(しんばしら=教祖中山みきの血統で信仰の中心者)」の「継承の儀」が執り行われた。

17日に始まる「教祖御誕生二百年」慶祝旬間の最終日、本部月次祭(つきなみさい)を神殿(世界の中心「かんろ台」の鎮座するところ)で終えた後、中山善衛第三代真柱と長男で真柱継承者の中山善司師(39歳)が、教祖殿にて「存命の教祖(天理教の教義によると、教祖は永遠に生き通している)」に、真柱の交代を報告する「継承の儀」を
執り行なった。

 新たに第四代真柱に就任した中山善司師は、引き続き、神殿へ移り、真柱として最初の「おつとめ」を行った。夜中にもかかわらず、世紀の慶事に集まった数万人の参拝者に、新真柱と前真柱が共に挨拶を行った。百数十年にわたる天理教の歴史において、真柱が健在のうちに、次代の真柱に交代したのは
初めてのケースである。


薬師寺高田好胤管長逝去


高田好胤第127代薬師寺管主・法相宗管長は、6月22日午前8時5分、胆嚢癌のため、奈良県橿原市の病院で死去した。享年74。
密葬は6月24日午後3時から薬師寺・慈恩殿で、本葬は本山葬として7月26日午後2時より薬師寺・写経殿で営まれる。喪主は妻の稚子さん。葬儀委員長は阪本道隆南都銀行会長。 

高田好胤師は、1924(大正13)年大阪市生まれ。1935年(昭和10)薬師寺に入山。1946年(昭和21)龍谷大学文学部仏教学科卒業。
1967年(昭和42)薬師寺管主、翌年法相宗管長に就任。 高田師は、薬師寺の白鳳伽藍の再建に力を注ぎ、1970年代から国宝・薬師三尊像を安置する金堂をはじめ西塔・回廊などを再建し、同時の最盛期の姿を復興させた功績は大きい。また、同寺を単なる古都の「観光寺」としてでなく、参詣者に『般若心経』を写経してもらう「百万巻写経」を提唱し、難解な仏教用語を使わずに、現代人にも分かり易い言葉を使って、仏教の精神を広めた。



戻る