主幹の主観 |
「レルネット」主幹 三宅善信 謎だらけの「縄文文化」を知る貴重な手がかりとして、数々の発見をもたらせた青森県の三内丸山遺跡の発掘成果のうちで、私が最も注目しているのは、「巨大な柱の跡」の発見である。きれいに並んだ「柱」の跡は、そこに巨大な建造物(神殿か住居か倉庫かは知らないが)が存在していたことを暗示し、「これまでわれわれが思っていたよりも遥かに「縄文人」の文化レベルは高かった」というのが、専門家の見解としてメディアの報じた内容ではなかったかと思う。 しかしながら、この見解に私は「無条件で賛成」はできない。「縄文人の文化レベルが高い」ことはいうまでもないが、「柱の跡」についての解釈は全く異なる。もちろん、私は考古学の専門家でもなければ、神職でもないから、今から述べる意見は、あくまでも推察にすぎないが、かなり有力な説になると確信しているので、読者各位の見解を聞かせていただければ幸甚である。 きれいに「並んだ柱の跡」というふうに報じられたが、はたして、あの巨大な(かなりの直径があった)穴は、本当に、建造物を支えるという意味での「柱」の跡だったのであろうか?現代人であるわれわれは、きれいに並列して立てられた「柱の跡」を見れば、「そこに、それを柱とした建造物があった」と考えるのが、まことに自然な感覚であろう。さらに、少し建築の専門知識があれば、柱の直径やスパン(間隔)を見れば、その上にどれくらいの大きさの建造物が建っていたかを類推することも難しくない作業であろう。しかし、私が引っかかるのは、この「並んだ柱=建造物」という現代人の発想そのものが、果たして、彼ら「縄文人」と一致するのであろうか? という素朴な「素人じみた」疑問である。 結論から言おう。あれは、建造物のための柱ではなくて、「単なる立柱」そのものの跡であろう。古代人にとって「柱」を立てるということの宗教的意味は、われわれ現代人の想像を遥かに超えるものがあったと考えられる。長野冬季オリンピックの開会式を観た人ならお分かりになると思うが、あそこでは、諏訪大社に古代から伝わる「御柱祭」がシンボライズされて表現されていた。重要なのは、「御柱を立てる」という行為そのものだ。 世界を見渡しても、アメリカ先住民(いわゆる「インディアン」=縄文人と起源を同じくする北東アジアのモンゴロイド)たちの「トーテムポール」や、古代ケルト人のストーンヘンジなど、「何かを地面に突き立てる」ということに人類が傾けた情熱の大きさを理解することは容易であろう。人類学の用語に「ホモエレクトス(直立原人)」という言葉があるが、これは、動物の形態上「ヒトが立ち上がって二足歩行を始めた」ことを意味しているが、「なぜヒトの先祖が、慣れ親しんだ四足歩行を捨てて、立ち上がらなければならなかったのか?」という根本的な問いには十分答えきれていない。ヒトは、その極めて最初の段階から「立ち上がる」といことに只ならぬパッションを抱いていたのだ。だから、「より高いもの」を目指して、そこに神的存在を感じて「柱」を立てようとしたのである。 それでは、なぜ日本では「掘っ建て柱」の形態をとったのであろうか?一般的な学説では、ずーっと後の時代に、「(中国)大陸や(朝鮮)半島から、仏教その他の「文明」が日本に伝わった時点まで、石を礎石にした建造物を日本人は知らなかった」ということになっているが、雨の多い、高温多湿な気候風土であるこの国の先住民たちが、「掘っ建て柱」がすぐに腐るということに気がつかなかったはずはない。だいいち、礎石を用いた巨大な建造物(主に仏教寺院)が各地に建立されるようになった後でも、伊勢の神宮をはじめとする多くの神社では、「掘っ建て柱」の建築が続けられたことの説明がつかないではないか…。 そもそもこの国では、仏教等が伝来し、瓦屋根のついた、礎石のある建物が造られるようになるまで、カミを祀るための「社殿」という発想がなかったのだ。大木や大きな岩、あるいは山そのものがカミ的なものとして、崇拝の対象であったのだ。「涅槃」という形而上学的な境地を目指す仏教の寺院が、「肉的世界である地面」と断絶するために礎石を用いたのと対照的に、アニミズム的な存在であるこの国の先住民たちが、大地と天を結ぶシンボルとして柱を立てのなら、当然、その柱は「掘っ建て柱」であるべきであろう。そして、そこにカミが依りついたのである。 今でも、この国では、カミを数える時に、あるいは死んだ人の霊魂を数える時に、「一柱、二柱…」と数えるではないか。数千年前に三内丸山にいた縄文人たちも、カミを招くために巨大な「柱」を立てたと想像することに無理はない。きれいに「並んだ柱」の跡というのは、それぞれに何かを象徴するカミを祀った跡に違いない。 こちらは、弥生時代後期の環濠遺跡であるが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも多くの「柱跡」が発掘されている。現地で再現されているレプリカを見ると、こちらも立派な建造物(見張りのための櫓)が建てられているが、これにも、疑問を差し挟みたい。最近確立された学問のひとつに「花粉考古学」というものがあるが、遺跡を発掘した時に一緒に出土する大量の土壌に含まれる「花粉」などの物質を分析することによって、その遺跡が実際に存在した時期のその地域の植生を類推しようとう試みである。花粉考古学の分析によると、当時の吉野ヶ里一帯は、高さ二・三十メートルの樹木で覆われた森であったそうである。今でこそ、見渡しのきく平野であるが、当時、森林であったのなら、「見張りのための櫓」などという建物自体に意味がない。こちらの「柱跡」もやはり、宗教的な意味を持ったモニュメントであったと考える方が自然であろう。人間が住むためだけの目的なら、そんなに大きなサイズの建物は必要ない。 現代でも、地鎮祭の時には、敷地の周りに「竹を立てる」し、葬儀のあと直ちに墓石を立てずに、卒塔婆(そとば)を立てたりするではないか。蛇足ながら、卒塔婆の語源は、いうまでもなく古代インドのサンスクリット語の「ストゥーパ」であるが、これがヨーロッパへ伝わって、立像を意味する「スタチュー」や、地位を意味する「ステータス」の語源になったのだから、人類は、よほど「立つこと」に関心があるらしい。その意味で、まさに「ホモエレクトス(立っているヒト)」なのである。 |
「レルネット」主幹 三宅善信 地球上の生命発生のプロセスのうち最も画期的なことは「DNA」というシステムの発明(?)であろう。というよりは、DNAが「生命」というシステムを作り上げたというべきであろうか? DNAというシステムの特徴をひとことで述べると、単純な記号の組み合わせで複雑な情報を伝達するということである。しかも、情報だけを伝え、それ自身は大きな質量を有さずに、外部から分子レベルの材料を取り入れ、これを巧みに並べ替えることによって、見事にオリジナルと寸分変わらぬものを複製してしまうという点である。 何千年も耐久するような堅牢な入れ物を作ることによって、中身を保護しようというではなく、ソフトな入れ物で、マテリアリスティック(素材的)には常に中身を入れ替えながら、なおかつ、情報的構造は同じモノを伝えるという方法に、最も適しているのがDNAのシステムであることは、極めて「単純」で「原始的な」バクテリアのごとき生物が、何億年もその姿を変えることなく今日に続いていることからも明白である。 このDNAというシステムを考えるときに、いつも思い起こすのが、伊勢の神宮をはじめとするいくつかの神社で行われている「式年遷宮」とうシステムである。伊勢では、20年に一度、「現存する宮」に隣接して「寸分違わぬ宮」を再現し、ご神霊を「旧宮」から「新宮」へと遷した後に、「旧宮」を解体するという方法である。そのことによって、材料的には「異なる」が、情報的にはまったくアイデンティファイ(同一化)された社殿が再現されるのである。 このことは、われわれ生物が日常的に行っている行為と同じである。何千年も保つハードな入れ物を作るのでなくーーそれでも、永久に保つものは造りえないーー常に新しいコピーを作り直すことによって、かえって「永遠」というものを目指す戦略である。しかも、そのことによって、建物だけでなく建物を作る技術そのものを伝承される。そのことによって、何かの事故(天災や戦災)で建物が破損されたときにも、直ちにこれを修復でけるるわけだ。もちろん、これには儀礼・音楽その他の「無形」の伝統も付随して伝承されるから、より総合的な形で神道の「精神」を伝えることができる。 堅牢な石で建造されたピラミッドやパルテノン神殿が、今となっては、そこでどのような儀式が行われたか分からなくなってしまい、もし建物が破損したら、これを再現することすら困難になってしまっていることをみれば、古代の日本人の知恵の偉大さは賞賛に値する。 |