レルネット主幹 三宅善信
▼張学良氏のご冥福を祈って
米国によるアフガニスタン侵攻について書いた前作『今こそリットン調査団を:北部同盟の化けの皮』で、満州の軍閥で中華民国軍大元帥の張作霖爆殺事件(1928年)を取り上げたら、あろうことか10月15日、張作霖の長男で国共合作の抗日運動の立役者「張学良氏が、病気療養中のハワイで死去した」というニュースが飛び込んできた。張学良氏といえば、完全に歴史上の人物で、失礼ながらとっくの昔に死んだと勝手に思っていた。享年白寿を数え、まさに20世紀の生き証人がまた一人、この世から姿を消したのである。この日、小泉純一郎総理は、先日の北京への日帰り訪問に続いてソウルを訪れ、キム・デジュン大統領と会見し、またぞろ、日本の植民地支配に対するお詫びと反省を繰り返した。
私は、以前から20世紀の世界史の常識とされていることのひとつである、日本による帝国主義的支配ということに根本的な疑問を抱いている。もちろん、太平洋戦争による日本の敗戦(1945年)以前は、日本のことを「大日本帝国」と称したのだから、ある意味で自称"帝国"ではあったわけであるが、これは、あくまでも「天皇=帝(みかど)の知らしめす国=帝国」という意味であって、世界史の視点から見て、欧米列強が19世紀、20世紀に展開した「帝国主義(Imperialism)」と、明治維新以後に日本が行おうとしたいわゆる「大東亜共栄圏」構想とが、果して同列に論じられるべきものであったかどうか多いに疑わしい。結果として、日本の敗戦によって、日本が行った行為はすべて悪行であり、戦勝国である米英が行った行為はすべて正当なものであったということにされているが、それはジャンケンの後出しのようなもので、戦争に勝った方が勝手に付けた理由付け以外のなにものでもない。アメリカは一発の爆弾で無抵抗な一般市民を何十万人も殺した広島・長崎の原子爆弾投下を、今でも正しい選択であったと公式に表明している。
しかし、アフガニスタンへの軍事侵攻において、戦闘員以外の一般市民が、たとえ5人でも10人でも誤爆で死亡したら、現在なら大きな国際問題になっているはずである。広島・長崎の原子爆弾は言うまでもなく、東京・大阪をはじめとする日本の主要都市には、特に1945年になってからは、日本の制空権が完全にアメリカに押えられてしまったので、いいようにB29による絨毯爆撃や艦載機からの爆撃で、日本の主要都市はほとんど焼野原となり、なおかつ無抵抗な一般市民が何百万人も死傷した。しかし、アメリカはこの行為(日本への無差別爆撃)は正義であり、日本軍の真珠湾攻撃で亡くなった二千数百人(海軍基地を攻撃したので、死亡した人のほとんどは戦闘員)への日本の攻撃は卑怯な奇襲戦法だというように決めつけているのである。しかし、今回のテーマはこのような正義・不正義に関する論争ではなく、そもそも日本に帝国主義というものが存在したかどうかを問う試みである。
▼国号は国家の理念を表現している
現在、世界中には200程の独立国家が存在している。先日、日本ツバル交流協会設立10周年の記念式典に参列したが、南太平洋の島嶼国家であるツバルは、わずか人口1万人の超小国である。一方、人口12億人の中華人民共和国も一国である。これらの世界中に存在する主権国家の名称を見ていて、あることに気が付いた。すなわち、正式の国号には、国家のいわば「国体」というべきものが表現されているのである。例えば、米国は「The
United States of America(アメリカ合衆国)」であり、ドイツは、「Federal Republic of Germany(ドイツ連邦共和国)」であり、フランスは「French Republic
(フランス共和国)」、イランは「Islamic Republic of Iran(イラン・イスラム共和国)」というふうに、その国家の統治形態というものが国号に付与されており、他の国々は、また自国の国民も、国名を見るだけで当該国のあり方が一目瞭然なのである。国号のパターンはその国家が存在する地域(民族)名+政体が一般的である。
しかし、世界には地名を持たない国家が存在した。つまり、われわれの「常識」でいうところの「国民」を有する「国家」ではなく、「理念」だけを持って国家を造ろうとした試みがかつて行われ、また現在も行われているのである。この試みは、民族・言語・宗教・文化といった、およそわれわれが国家を想起するときに前提としているような要素ではなく、「主義主張」をもって国家を形成しようとしているのである。その代表が、今から10年前に姿を消したソ連である。ソ連とロシアは似ているようで全く別の存在である。ソ連の正式の国号は「Union
of Soviet Socialist Republics」すなわちソビエト社会主義共和国連邦である。この国号のどこにも地名というものは存在していない。ただ単に、ソビエト(議会)という社会組織システムを採用している人々の連合体であるというのである。すなわちトロツキイストが目指したように、世界中がソビエト連邦になってもおかしくないのである。事実、そのことを企んで今から22年前の1979年にアフガニスタンに侵攻したのである。
同じ社会主義国でも、例えば、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の場合には、民主主義人民共和国という政体に朝鮮という地名(民族名)が付随することによって、世界中が北朝鮮になり得ないことは明らかである。しかし、ソ連は本気でそれを目指したのである。そのことが国号に現れている。同様に、中華人民共和国も世界帝国を目指している。なぜなら、人民共和国という政治形態に付随するのが地域(民族)名ではなく"中華"、すなわち、世界の真中の華(立派なところ)という意味であって、領土的野心が周辺部に及んだとしても、事実、チベット自治区や新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区といったように、同国は異民族を多数抱えているが、この領域がどんどんと周辺へ拡大していたところで、なんら矛盾は生じないのである。その点、例えば英国のように、かつては世界の7つの海を支配した「太陽の沈まない大帝国」が、現在の正式な国号は「The
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)」というように、大ブリテン島と北アイルランドの連合王国という、その統治する領域が明確に規定されている。世界中のほとんどの国はこのように○○王国であったり、○○共和国であったり、○○連邦、○○イスラム国といったように、国号に国体(政体の有り様)が明記されているのである。
▼日本国という不思議な国号
しかし、ここに世にも不思議な国号を持つ国がある。その国の名前は「日本国」である。国号になんの理念もないのである。「日本」は地名であり、「国」は国というだけのことであって、この国をどういうふうな政治形態で運営していこうかという意識が微塵も感じられない国号なのである。英語でも、単にJapanである。このような国号を持つ国は極めて稀である。人口わずか数万といった小さな島嶼国であったり、すごく山深い小国といった、およそ外界とはほとんど交流が行われていなく、ある単一の民族と単一の言語で長い間伝統的生活様式が保存されている小国ならいざ知らず、日本のように経済規模では世界第2、また人口でも世界で10番目くらいにあたる大国で、長年いろんな国の出身者が暮らしている国で、このようななんの理念も感じさせない国号を持っている国は日本だけである(註:大英帝国の元植民地で、現在でも英連邦(British
Commonwealth)を構成するが故に、その地名だけで呼ばれているカナダやオーストラリアは除く。
太平洋戦争以前(厳密には1947年5月3日の日本国憲法施行以前)に、公式に対外的に称していた「大日本帝国」には、"帝国"主義を行うという意図があったではないかと思われる向きもあるかと思うが、これは単に当時の欧米列強に伍していくために、いわば新参の田舎大名のコンプレックスのようなもので付けた格好付けに過ぎない。すなわち、大英帝国などと形式上対等であると称するための、いわば僭称に過ぎなかった。およそ"帝国"という理念に基づくような国体ではなかった。そして、帝国主義に必須な思想的・政治的・軍事的・経済的必須条件を国民的に合意することなしに、欧米列強の軍事的な覇権主義の形だけを見よう見真似でサル真似し、朝鮮半島や台湾、そして満州・蒙古をはじめとする大陸へと拡大政策を執っていったのがこの国であった。
しかし、現地で行なわれた日本人の"植民地"支配というのは、およそ欧米列強がアジアやアフリカ、中南米で実施してきた植民地支配とは似て非なるものであった。もし、日本に帝国主義的野望というものがあり、またこれをその帝国主義の常識に則って、東アジア各地で実施したというのが歴史的事実であるのなら、東アジア各地の人々から憎まれるべきは、日本人ではなくて、その"帝国"主義が憎まれるべきはずである(だが、実際には日本人が嫌われている)。
その証拠は、わずか十数年前、米国のレーガン大統領がソビエト連邦のことを「悪の帝国」と名指しして、これに対する西側各国の包囲網を築き、また、事実ソ連を解体させることに成功した。だが、国号がソビエト連邦からロシア連邦に変わった途端、これまで"敵"であったはずのロシア人が、今ではすっかりG7+1=G8ということで、われわれ西側先進国のお仲間になっているではないか。ロシア連邦の初代大統領になったエリツィン氏はソビエト共産党の政治局員だったはずである。また、現在の大統領のプーチン氏は、こともあろうにKGBの大幹部であったのである。わずか10年前まで"敵"であった人々が、国号をソ連からロシア連邦に変えただけですっかり"同志"になったということは、西側各国は、ロシア人ではなくソビエトというシステムに対して敵愾心を抱いていたということに他ならない。また、本来こうであるべきであるはずである。
▼彼らは日本人が嫌いなのである
しかし、大日本帝国の敗戦から半世紀以上を経てなお、中国(中華人民共和国が建国されたのは、日本の敗戦後4年も経った1949年10月1日のことであるから、大日本帝国が中国大陸で軍事行動をしていた時に中華人民共和国という国は存在していなかったのであるから、その存在していなかった国が過去の歴史に遡って文句を言うこと自体、論理的にはおかしいのであるが)をはじめ、韓国・北朝鮮その他東アジアの国々では、いつまで経っも日本のことを悪く言い、歴代総理が何度誤っても「お詫びと反省が足らない」と言い、また、日本の総理大臣も、その都度のこのこ出掛けて行っては、あるいは日本国内において、口先だけの「お詫びと反省」を繰り返しているが、論理的には、大日本帝国と現在の日本国とは(ソビエト連邦とロシア連邦のように)別の存在であるのであるから、東アジアの人々は"帝国"主義に対して批判すべきであって、日本人に対して批判するのは筋違いも甚だしい。
ところが、現実はどうだ。彼らは今なお日本人そのもののあり方を批判しているのである。これは、まったく論理的におかしい。例えば、われわれはインドが核兵器の開発を行っていることに対して、国際社会として核兵器保有を批判することは、政治的にも十分理由の成り立つことであるが、インド人がわれわれのお箸の代わりに手で食べ物を掴み、またわれわれが食べる牛肉(最近は狂牛病騒ぎで、日本人もにわかヒンズー教徒が増えたが)をインド人が食べないということを批判するのはおかしいのと同じことである。それはインド人そのものの生活様式であり、インド人のあり方そのものであるからである。
▼日本帝国主義は存在しなかった
逆説的に考えてみると、日本人が戦後数十年を経て、なおかつ中国や韓国で批判されるということは、日本(当時は、大日本帝国)は、実は中国や朝鮮半島において帝国主義を行っていなかったということの証明になる。もし、日本が帝国主義的植民地支配を行っていたのであれば、大日本帝国が消滅した瞬間に、日本人は彼らから恨まれる筋合いはなくなるわけである。帝国主義をこそ彼らは非難すればいいのである。しかし、現実は日本人を非難している。ということは、日本人は中国大陸や朝鮮半島において、帝国主義ならぬ「日本主義(日本的生活様式を押しつけること)」を行ったのである。そのことが、取りも直さず長い歴史を有する大陸や朝鮮半島に住む人々に対してカチンときたのである。
例えば、日本が植民地化した各地に日本式の神社を建て、伊勢神宮や宮城(皇居)を遙拝させ、また、彼らの姓を日本式の苗字に変更させ、あるいは元もと子女への就学意識の低かった彼ら(むしろ、子供は労働力と考えていた)に、日本式にむりやり小学校へ就学させ、あるいは鉄道を敷設するなど、いわゆる社会資本の充実を内地同様に行おうとしたのであるが、その日本的あり方、いわば"日本主義"が、元来、生活スタイルの異なっていた彼らの伝統的生活様式に変更を迫ったので、彼らはそのことを恨みに思うようになったのである。中国大陸を"支配"した元・金・清などの征服王朝も、支配地域から税金を巻き上げるだけで、生活様式という点では、逆に漢化した。そういう点では、数十年前どころか、500年前であろうが1000年前であろうが、日本人は日本人であり、日本人の行動様式を有しているのであるから、彼らから見れば、現在の日本人であろうが100年先の日本人であろうが1000年先の日本人であろうが、お互いに相容れない文化の相違、生活様式の相違であるのだから、戦前、大陸(半島)へ進出していた日本人と、現在の日本人は「同じ日本人」であるということから、これを批判するという論理が成り立つのである。また、事実そういう状態になっているのは明らかである。
したがって、これらから導き出される帰結は、日本は大陸や朝鮮半島、南洋その他の地域において、帝国主義・植民地主義ならぬ"日本主義"を行った(本当の帝国主義を知らなかった)であり、なおかつそのことが最大の誤りであったのである。日本も欧米列強のように、本当の帝国主義的支配を行っていれば、たとえそれが苛斂誅求を極めたとしても、大日本帝国の崩壊とともにそのことは、日本人の責任ではなくなったのはずである。