レルネット主幹 三宅善信
▼神学教育に対する勘違い
日本の街はすっかりクリスマス気分である。クリスチャンがほとんどいないにもかかわらず……。最近、メディアでよく耳にする言葉に、「神学校」や「神学論争」と呼ばれる言葉がある。神学校については、アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンを生み出した温床とも言うべき存在として、神学校の教育における狭隘さ(イスラム教を絶対視し、他の価値観の存在すら認めようとしないこと)が批判の矢面に立たされ、「神学校」という言葉は、主婦層を主な視聴者にしている民放のワイドショーでも、昨今は取り上げられるようになった。しかも、授業料の必要な公立の自由学校(つまり、数学や科学なども習う普通の学校という意味)と比べて、熱心なイスラム教信者のザイカー(喜捨)によってパキスタン各地に造られた授業料の要らない神学校が、物事を自分で判断することができない子供たちに、イスラム原理主義をいわば盲目的に摺り込んでいるという観点から論じられている。しかし、通常、"神学"教育というのは、大学卒業後のgraduate
school(大学院)レベルで行なわれる高度な学問であって、読み・書き・算盤(そろばん)のできない者に、代わりに"神学"を教えるなどというのは、あり得ない話である。
さらに、日本の国会の無意味な論戦を表わす表現として「神学論争」という言葉が度々使われるようになった。第二次世界大戦後の米ソ両超大国による冷戦構造を、日本の議会に焼き直した自民党対社会党といった二大対立政党間における不毛な国会論議(55年体制)のことを、神学論争と言うのならまだ分かるが、誰も正確にすべての政党の名前を挙げることすら難しいバブル崩壊後の日本の国会の情勢(離分集散)を見て、ここで行なわれている論議が神学論争というのは、あまりに現状に対する認識に欠けている表現と断ぜざるを得ない。このコンテキストにおいて用いられる「神学論争」という表現は、以下の2つの点において間違っている。
▼議会こそ神学論争の場
まず最初に、そもそも国民の代表である国会というところは、「論戦をするのが仕事」であって、いかに陳腐な内容であろうと、この論戦が「神学論争」というレッテル貼りの名の下に封じられるなら、議会というものそのものが成立しないことになる。社会主義国家の全国人民代表大会の如き、議会が単に執行部の承認機関であったり、議論抜きのシャンシャン株主総会の如き国会のほうが、神学論争を行っている国会よりいいとするのであれば、これこそまさに、議会制民主主義への冒涜以外の何ものでもない。議会というものは、意見の異なる者同士が集まって徹底的に議論を戦わせ、法律を作るというのが、その役割である。
この点で、今回大急ぎで可決された「テロ対策特別措置法」の審議は、お粗末この上ない。そもそもこのようなことになったのは、10年前の湾岸戦争の時に、アメリカのために1.4兆円の戦費を調達して、なおかつ、アメリカから感謝されなかったということがトラウマになっている。海部内閣は国民の血税を無駄に使ったのに、「喉元過ぎれば暑さを忘れる」の譬えのように、時後処理としてもそのことを真剣に論議せず、国会は十年間も立法措置を怠ったために、現在の事態を招いているということを、国会議員諸氏は胆に命じるべきである。
そもそも、選挙によって選ばれた国民の代表である立法機関が厳密な議論をして立法することなしに、権力の執行機関である行政府によるその場その場の「運用」と「解釈」で済ますのなら、立法機関の存在の必要がない。事実、律令時代や幕藩体制がそうであった。今回のアメリカによるアフガニスタンに対する軍事報復作戦においても、「テロ対策特別措置法」の名の下に自衛隊の艦船がのこのことアラビア海(政府が「インド洋」と呼んでいるのは、少しでもメディアの印象を薄めるため)までしゃしゃり出ていくことについて、「国会は事後承認をするだけでいい」などとは、もっての他の論議である。確かに、例えば、日本が外国から直接攻撃を受けたという事態が発生した時に、いちいち国会を開いて、皆で審議して反撃するかどうかを決めていたら、その間に著しく国民の生命財産が奪われてているかもしれないので、早急な現場の対応が必要なのは分かる。
しかし、今回の米国を標的にした同時多発テロ事件と、それに対する米国の軍事行動について見れば、日本が第三国から攻撃されてそれに対応(反撃)するのではなく、同盟諸国と連絡を取り、十分な準備の後、遠いアラビア海まで出て行って、相手を攻撃するという戦略を採るのであるのなら、このことに賛成するか反対するかを国権の最高機関である国会が事前に審議するのは当然のことであり、すべてが、何もかもが終わってしまった後の祭で「現地に派遣された自衛隊は、これこれこういうことをしました」といった事後承認だけでいいのなら、国会はその存在の意味がない。第一「これこれこういうことでした」という行政当局の報告に対して国会が反対決議をした場合、この矛盾はいったい誰が責任を執るのだ。文字どおり「覆水盆に返らず」である。起こってしまったこと、行為として成してしまったことを、遡ってなかったことにすることは、できないからである。だから、事前に、あらゆるケースを想定して、十分論議を尽くしておく必要がある。
▼哲学は神学のはした女
次に、「神学論争」という言葉自体が、神学そのものに対して、大変失礼な表現である。ほとんどの日本人は、そもそも神学論争の前提である"神学"については何も知らないし、いわんや、神学論争などできていない国民性である。筆者はたまたま、同志社大学(Doshisha
Divinity School)の大学と大学院修士課程・博士課程において長年、神学を専門的に勉強した。その後、金光教学院(Konko
Theological Seminary)において、またHarvard Divinity School(ハーバード大学神学大学院)において、もっぱら神学についての研鑚を重ねてきたのである。いわば、「神学のプロ」と言っても過言ではない。神学と言えば、13世紀にカトリック神学を体系づけたトマス・アクィナス(Tomas
Aquinas)の業績が真っ先に浮かぶ。トマスが著した『神学大全(Summa Theologicae)』は、「世界」を説明するための膨大な体系であり、当時は「哲学は神学のはした女」とさえ言われたほど、神学は高度に体系化されたシステムそのものであった。20世紀におけるカール・バルトの『教会教義学(Die
Kirchrich Dogmatik)』も、壮大な体系である。
そもそも、欧米の大学というのは、ザ・プロフェッショナルと呼ばれる専門家を養成するために、神学部=Divinity (Theological)
School、法学部=Low School、医学部=Medical Schoolというものから出発した。アメリカ最古の大学ハーバード大学も、新大陸の北東部海岸地域(New
England地域)に英国から植民地移民が訪れるようになった、今から約三百数十年前に、新大陸で最初に作られた教育機関であるが、最初に設置されたのは、この神学部(=Divinity
School)であった。神学・法学・医学というように専門的職業と直結する学問を学ぶのは、現代では、通常、graduate schoolといわれる大学院においてである。この三つの学問から言えば、経済学や文学は学問の内に入らない。
▼神学論争で日本の地位回復を
日本人はそもそも、ものごとを体系的・システム的に分析することは不得手であり、まして、それで他者と論争するなどもっての他の所業である。しかし、現在の世界状勢において、そして、これからもずっとそうであると思われるが、神がかりのタリバン勢力や神がかりのブッシュ政権と交渉する際に、彼らの論理的矛盾を打ち負かして行くのは、神学論争以外にない。小学校から大学まで、偏差値教育を行なってきた日本の教育現場において、明治以後繰り返してきた日本の国際的な失点を回復するためのもっとも効率的な教育方針があるので提案しておく。
それは、小学生から大学生に至るまで、学校の成績を、教科書に載っていることをどれだけ覚えている(理解している)のかを問うのではなく、児童・生徒・学生同士に自由にディベートをさせ、ディベートに勝った者の順番で学校の成績をつけるようにすればよい。これを大学まで徹底して行なうと、東大や京大といった超一流大学を卒業した学生たちは皆、誰に何を言われても、口喧嘩だけは絶対に負けない、黒を白と言いくるめることのできるディベート上手な人間になることは請け合いである。こういった連中を大量に作り、国際社会に打って出るのである。そして、相手がアメリカであろうが、タリバンであろうが、正々堂々と神学論争を挑み、これらを打ち負かす(国際世論に「日本の主張のほうが正しい」と認識させる)のである。これしか、人間という資源以外にこれといった天然資源のない日本が、世界で活路を見い出してして行くことができる道はないと思う。